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失踪HOLIDAY-3

作者:乙一 字数:31459 更新:2023-10-10 10:39:37

「大丈夫《だいじょうぶ》でしょうか。キョウコ奥様《おくさま》、首をうなだれていましたけど……」 複稚な気持ちになった。キョウコがわたしの部屋に入っているという疑惑《ぎわく》を持ったから、今、こうして三畳部屋にいるのだ。よく喧嘩《けんか》をしたし、嫌《きら》われていると思っていた。わたしは彼女にとって、前妻の遺《のこ》した子供であり、しかも夫と血のつながっていない子供なのだ。それなのに、わたしが誘拐《ゆうかい》されたと知らされて、急に元気をなくすなんて、反則である。のんきに散歩していたら、背中から空手チョップをくらったというくらい、凶悪《きょうあく》な不意打ちだ。 わたしはずっと、キョウコのことを嫌《きら》いだと思っていた。しかし、いったいどのへんを嫌っていたのかわからなくなるじゃないか。 わたしはコタツから這《は》い出た。心持ち頭を低くして移動し、押し入れの中から「カントリーマアム」というお菓子《かし》の袋《ふくろ》を取り出した。わたしの大好物である。 すりガラスに自分の影《かげ》がうつらないよう注意して、もとの場所へもどる。カントリーマアムのやわらかい食感と甘《あま》さに感動しながら、携帯《けいたい》電話の音声に注意を傾ける。 数人の声が、まず聞こえてくる。背景《はいけい》に、食器同士を打ち付け合うような硬質《こうしつ》の音と、水の流れる音。だれかがあたりをせわしげに動き回る、スリッパの音。おそらく炊事場《すいじば》だろうと見当をつける。昼食の後片付けをしているのだろうか。献立《こんだて》はなんだったのだろう。雑煮《ぞうに》だろうか、などとぼんやり考える。今年はまだ、餅《もち》も食べていないし、年賀状《ねんがじょう》も読んでいない。「……こんなときに仕事なんてできるもんですか!」 大塚の奥《おく》さんの声だった。スリッパの音が止《や》んで、電話の向こうは水が流れるだけの、妙《みょう》な沈黙《ちんもく》が降りた。電波の伝わりは、案外よかった。 携帯電話のすぐそばで、コト、コト、という何か物を並べる音がする。おそらくクニコがひとつずつ遅《おそ》い動作で食器を並べているのだろう。電話は彼女の服のポケットに入っており、そのすぐそばで物音がするほど、大きく、はっきりと伝わってくる。「クニコさん、警察に説明されるより前から、お嬢様《じょうさま》のこと、知っていたの?」「はぁ……、あのぅ、朝に廊下《ろうか》を通りがかったとき、旦那様《だんなさま》たちが話をするのを聞いたもので……」「もう、どうしてすぐに知らせてくれないの。このグズ」「すみません……」 クニコはきっと、いつもの困った顔をしている。「本当に、どうしてアンタみたいなのがいるんだろうね。アンタの叔父《おじ》さんがこの家の先代に取り入ってなけりゃ、アンタみたいなグズはすぐに仕事をクビになっているところだよ」 掃除《そうじ》をさせれば物を壊《こわ》す。お客の応対もろくにできず、お茶を出すときの礼儀《れいぎ》もなっていない。ほら、その辛気臭《しんきくさ》い顔をどうにかしなさい。彼女は食器を洗いながら、小言を並べていた。 そう言われるのは慣れているのか、さほど動じた様子もなく、ただクニコはさきほどと同じ台詞《せりふ》を繰《く》り返した。「すみません……」 夜になり、クニコが部屋へ戻《もど》ってきた。彼女の話では、警察やパパたちはじっと犯人からの連絡《れんらく》を待っているそうだ。次の連絡が、また手紙なのか、それとも今度は電話なのかもわからず、みんな気を揉《も》んでいるらしい。 わたしは迷っていた。警察がおおがかりに動いていて、少し怖《こわ》くなったし、罪悪感もあった。そのことをクニコに話すと、彼女もどうすればいいかわからないという表情をした。大丈夫《だいじょうぶ》、きみに意見を期待しているわけではないよ。そう言ってみると、彼女は子供のように口をとがらせて、「それはすみませんでした」と頬《ほお》をふくらませた。「でも、今、出て行ってあれはうそだったと告白するのも怖いですね。もう少し、様子を見ていれば、自然に警察の方々も帰っていくんじゃないかしら」 クニコはそうも言った。彼女は、今、わたしが出て行くことを避《さ》けたがっているような気がした。彼女は長い間わたしをかくまっていたのだ。それがばれると、みんなから罵声《ばせい》の集中|砲火《ほうか》をあびるはずだ。それを怖がっているのだろう。わたしも、のこのこ出て行って、ひどく怒《おこ》られるのは嫌《いや》だった。 そこで、あるアイデアを思いついた。今朝《けさ》、菅原家に届《とど》いた誘拐《ゆうかい》の手紙は、だれかまったく見知らぬ人の冗談《じょうだん》だったということにするのだ。 わたしは誘拐のことなど何も知らず、先日、パパを安心させるために書いたのと、同じような手紙を出す。もしそんな手紙が届いたら、誘拐に関する手紙は、わたしの友人かだれかのいたずらだったということに落ち着くかもしれない。何せ、筆跡鑑定《ひっせきかんてい》をすれば、間違《まちが》いなくわたし自身のものなのだから。 わたしは、昨晩とは別の便箋《びんせん》にその手紙を書いた。誘拐したという犯行を知らせた手紙とはまったくかけ離《はな》れてないといけない。同じ便箋をつかってはいけないのだ。『こんにちは。ナオですよー。わたしはあいかわらず、本屋で知り合ったお姉さんに養ってもらっています。いっしょにコタツの中で、年明けを迎《むか》えてしまいました。そろそろ帰ろうかと思うのですが、なかなかこの家にも愛着がわいてきて、離《はな》れがたくなってしまいました。今、わたしが暮らしている部屋《へや》は、お母さんと住んでいたボロアパートにどこか似ています。懐《なつ》かしいです。わたしはずっとコタツに入って、お菓子《かし》ばかり食べ、怠惰《たいだ》に生活しています。パパの方は、どうですか。何か、変わったことありましたか?』 書き終えると、クニコに渡《わた》した。郵便ポストに入れてくれば、次の日には菅原家へ届《とど》くだろう。狂言誘拐《きょうげんゆうかい》の一日目はそうやって終わった。 二日目の一月五日。 朝の三時、わたしがこっそり息をひそめて素早《すばや》く入浴しているうちに、クニコは封筒《ふうとう》を投函《とうかん》するため外へ出た。離《はな》れの風呂場《ふろば》は一階の、母屋側《おもやがわ》にある。もしも電気をつければ、相当、目立つ。この時間に、母屋から離れを監視《かんし》している人間が、いないともかぎらない。真夜中に入浴している人間がいることを、不審《ふしん》に思われてはいけない。 暗闇《くらやみ》の中で、湯船につかった。湯はすでにぬるくなっていた。離《はな》れの風呂場《ふろば》は、クニコの部屋《へや》と同程度の広さだった。電気をつけないでいると、窓の外の方がわずかに明るい。母屋にある和室の電気がついているようだ。 湯船の水面がゆらめいて、窓から入ってくるぼんやりとした明かりを反射した。 ポストへ向かったクニコのことを考える。 もしかすると警察は、以前にわたしが書いた、パパを安心させるための手紙にも注目しているかもしれない。いや、間違《まちが》いなく、調査しているだろう。あの手紙には、この町の消印が押《お》されている。そのことについて、どう考えているのだろう。 手紙に書いた「新しい友人」の家が、この町のどこかにあるのではないかと推測するだろうか。もしかすると、彼女と知り合ったという架空《かくう》の本屋にも目をつけているかもしれない。わたしは想像した。警察が町中の本屋を一軒《いっけん》ずつ訪ね歩き、レジの人間にわたしの写真を見せるのだ。「この女の子を見なかったかね? もしかすると、もう一人、女性といっしょだったかもしれないが……」 もちろん、店貞は首を横に振《ふ》る。警察は無駄足《むだあし》を繰《く》り返し、やがてこの町の本屋を調べ尽《つ》くす。すると今度は、別の町の本屋を調べ始める。わたしは手紙だけで、この国の税金を無駄遣《むだづか》いさせてしまった。 もしかすると警察は、この町の郵便ポスト全部を監視《かんし》しているかもしれないと気づく。いや、しかし、二十四時間、すべてのポストに、はり込みをさせているとは思えない。その仕事に、それほど多くの人員を割《さ》いている余裕《よゆう》があるだろうか。投函《とうかん》しにきた人間、一人一人を疑うわけにもいかないだろう。それとも、警察の捜査《そうさ》というものは、それくらい徹底《てってい》されているのだろうか。 ぬるくなった湯のために、体が冷える。湯船から立ちあがり、シャワーを使うことにした。 部屋にもどってきたクニコは、お菓子《かし》やジュース、弁当なんかの入ったビニール袋《ぶくろ》を両手に提《さ》げていた。ついでにコンビニへ立ち寄らせて、何食分かの食料を買いこませたのだ。いったいどこまで買いに行ったのか、けっこう時間がかかったような気がした。 彼女がもどってくるまで、部屋はオレンジ色の豆電球しかつけていなかった。だれもいないはずの部屋から、明かりがもれていたらおかしいのである。 部屋の電気をつけたクニコは、寒さのため、頬《ほお》や鼻の頭が赤くなっていた。三|畳《じょう》の部屋にコタツ以外の暖房《だんぼう》器具はないが、外よりははるかに暖かいらしい。彼女は急いでコタツに足を入れ、猫背《ねこぜ》スタイルをとった。赤外線のあたたかさに、ほっとしたような顔をした。「どうやら、夜中まで屋敷《やしき》のまわりを監視《かんし》しているわけではないみたいです。裏門を使えば、自由に屋敷を出入りできました。でも、正門の方は、カメラを使って夜中も監視されているそうです」 正門に設置されていた来訪者用のカメラを利用して、警察は夜通し監視を行っているそうだ。カメラの映像を映し出すディスプレイは、もともと、家政室の壁《かべ》に設置してあった。それにケーブルをつなぎ、和室まで引っ張って、ビデオに録画できるよう改造したらしい。 一通目の手紙と同じく、犯人が再び正門|脇《わき》の郵便受けに手紙を入れに来たら捕《つか》まえてやろうというのである。少し前までわたしが行っていた計画と、変わるところはない。 部屋《へや》のどこか見えない隙間《すきま》から、体温を奪《うば》う冷気が忍《しの》び込んでくる。窓ガラスの外が明るくなり始める。その表面は、わたしたちの呼吸のなかに潜《ひそ》んでいた湿気《しっけ》が冷やされ、水滴《すいてき》となったものに覆《おお》われている。「わたしたちはきっと、このコタツがなければ凍死《とうし》していたであろう」 風呂上《ふろあ》がりにドライヤーも使えず、なかなか乾《かわ》かないしっとりした髪《かみ》の毛のまま、そう言ってみた。ドライヤーは離《はな》れの脱衣所《だついじょ》にあるのだが、音がうるさいので使用するのをひかえている。クニコもまったく異議のない様子でうなずいた。「屋敷を出て行くとき、警察に呼び止められたりしなかった?」「母屋《おもや》のそばを通るとき、声をかけられました。寝《ね》ないでお仕事していらっしゃる警察の方がいて、見つかってしまったんです。でも、以前からわたしが、よく夜中に買い出しへ行っていたことをだれかに聞いていたみたいで、あまり不審《ふしん》に思われませんでした」 外出を許可しておきながら、まさか、こっそり彼女を後ろから追跡《ついせき》したのではないだろうか。いや、警察は、以前からの習慣を続けさせなくてはいけないと考えたのかもしれない。それまで行われていた住人の行動が、突然《とつぜん》、変化したら、どこかで監視しているかもしれない犯人に、警察へ連絡《れんらく》したことを悟《さと》られるかもしれない。そうなることを彼らは、避《さ》けなくてはいけなかったのだ。 わたしは、コタツの縁《ふち》と壁《かべ》の間で体をずらし、頭をコタツの中に入れた。せまい隙間《すきま》での行動が、ずいぶんうまくなった。もしかすると、半径二百キロメートルの中で、わたしが一番、素早《すばや》くコタツにもぐりこむことができるかもしれない。 コタツの中は、ランプのために、赤い光で包まれていた。この赤い光こそ、赤外線であると思っていた時期がある。しかし、それはまちがいで、赤外線は可視光線ではないのだから、目に見えるはずはないのだ。赤い視界の中で、クニコの足だけが突《つ》き出ていた。「……お嬢様《じょうさま》、コタツの中で何やってるんですか?」「いや、ちょっと……。コタツで、頭、乾かそうと思ってさ……」 昼になっても、あまり暖かくはならなかった。三|畳《じょう》の部屋《へや》は離《はな》れの北側にあり、暖かさをもたらす太陽とは良好な交友関係を結べていないのである。 わたしが誘拐《ゆうかい》されたという情報は、まだ一般《いっぱん》に公開されておらず、新聞を読んでもわたしのことは掲載《けいさい》されていないのであるが、もしも写真が載《の》せてもらえるのなら、できるだけ右斜《みぎなな》め二十度くらいの角度で、少し微笑《ほほえ》んだ顔のやつがいいなあと思っていた。一番|綺麗《きれい》に写っているやつが本棚《ほんだな》のアルバムにあるので、それを使うよう匿名《とくめい》で新聞社に連絡《れんらく》することも考える。 携帯《けいたい》電話の向こうから、警察官同士のやり取りがかすかに聞こえる。会話している警官の一人は、わたしと同じくらいの年齢《ねんれい》の娘《むすめ》を持っているらしい。しかし、その関係は良いとは言いがたく、いつも見下した態度で自分を見ることに耐《た》えられないと、彼は同僚《どうりょう》にぼやいていた。「眠《ねむ》りから覚めると、どこかすぐそば……耳元でナオお嬢様の声が聞こえたんだ!」 栗林がそう訴《うった》えていたそうだ。どうやら、夜中に枕元《まくらもと》で、わたしの声を聞いたような気がしたらしい。 わたしとクニコは、携帯《けいたい》電話を通じて、ひそかに笑《え》みを交《か》わした。彼が聞いたのは、おそらく本物のわたしの声にちがいない。壁《かべ》はうすい。どうやら隣《となり》の部屋に声がもれてしまったようだ。もっと、注意して話をしなくてはいけない。 やがて栗林の聞いた声は、わたしの幽霊《ゆうれい》だったのではないかと、だれかが言い出した。 つまり、わたしは犯人によってすでに殺されているというのである。ますますおかしくなって笑い出したくなるが、パパや警官は冗談《じょうだん》じゃないと本気になって怒《おこ》った。 屋敷《やしき》の中が緊張《きんちょう》していることは、電話|越《ご》しにも生々《なまなま》しく感じられた。たとえクニコに聞かされなくても、窓の隙間《すきま》から慎重《しんちょう》にコンパクトを差し出し、辺りをうかがってみるとすぐにわかる。ちらりと見える人物の表情はいずれも険しく、憂鬱《ゆううつ》そうである。もしくは、つとめて沈痛《ちんつう》な面持《おもも》ちをしているのかもしれない。笑っていては、きっと怒《おこ》られるのだ。菅原家はまるで、ぎりぎりに引き絞《しぼ》られた弓のようであり、ふと気を抜《ぬ》くとはじけ飛びそうな印象だった。 そんな中で、使用人は日ごろ行っている仕事を、通常通りやらねばならなかった。 菅原家のゴミは、クニコが一手に引き受けている。毎日、大量のゴミが透明《とうめい》ゴミ袋《ぶくろ》いっぱいに出ていた。警察の分の食事も作っているため、ゴミの量が増えているのだろう。地区で定められたゴミ置き場と屋敷の間を二往復しなくてはいけなかった。「使用人の、楠木さん……でしたね? お仕事、ご苦労様です」 ゴミを捨てに行こうとしたクニコは、裏門のあたりで男の声に呼び止められた。かすれ気味で、ひびわれた楽器のような声だと思った。しかし不思議とそこが魅力的《みりょくてき》で、一度、耳にすると、しばらく鼓膜《こまく》の中に残響音《ざんきょうおん》を残していく、特徴的《とくちょう》な声だ。年齢《ねんれい》はそれほど高くないように思えた。「あ、はい、どうもすみません。そちらこそ裏庭の見回り、ご苦労様です」 かすれ気味の声の主は警察の一人だったらしい。彼はクニコとかんたんな挨拶《あいさつ》を交《か》わす。その様子を、わたしは携帯電話で聞いていた。彼女の台詞《せりふ》から、そこが裏庭のどこかであると推測した。「ゴミ袋《ぶくろ》、ひとつ持ちましょうか? いちおう、こうしてわたしも使用人の格好《かっこう》を真似《まね》ていますし、ゴミ置き場まで運ぶのを手伝《てつだ》ってさしあげましょう」「いえ、いいんです、ありがとうございます」 恐縮《きょうしゅく》したようなクニコの声。彼女が両手に巨大《きょだい》なゴミ袋を抱《かか》えて、かすれ声の警官に深く頭を下げている場面を想像した。「あのぅ、そのかわりといっては何ですが……少し、事件のことでうかがってもよろしいでしょうか?」 クニコが切り出した。警察の人間と話す機会があったら、捜査《そうさ》のことを質問するように命令しておいたのだ。彼女は忠実にわたしの言うことを守っている。「わたしで答えられるものなら、いいですよ」「ええと、この屋敷《やしき》の近所の方に、聞き込みのようなことをされたのですか?」「いえ、周辺地域に聞き込みはしておりません。理由は、犯人がその中にいる可能性があるからです」「ああ、なるほど、そうですよね……」 うなずきながら、クニコは警官から遠ざかり、おそらく裏門の方へ歩いているようだった。「車に気をつけて」 少々遠くからさきほどのかすれ声が、イヤホンを通じて聞こえてきた。 パパの心配はピークに達していた。その夜、クニコが部屋《へや》に戻《もど》ってきてから聞いた話だが、パパとキョウコがわたしのことで喧嘩《けんか》していたらしい。詳《くわ》しいことはわからないが、部屋の中で二人の言い争う声がしたそうだ。 その後、クニコが部屋の掃除《そうじ》をまかされた。彼女が掃除をまかされることはあまりない。しょっちゅう花瓶《かびん》を落としたり、高価な置時計を破壊《はかい》したり、ビデオに水をこぼしたりするものだから、使用人という仕事をしていながら、床《ゆか》のモップがけ以外の掃除を禁止されていたのだ。しかし、今回はちがっていた。「なぜなら、わたしが部屋に入ったとき、すでにありとあらゆるものが壊《こわ》れていて、もう壊すものなんてなかったからです」クニコはそう言うと、すまなさそうに続けた。「あんなに安心して掃除できたのははじめてでした」 おそらく、派手《はで》な喧嘩が部屋の中で行われたか、猪《いのしし》の大群がそこを通過したかのどちらかだろう。おそらく、後者ではないと思う。 事件とは無関係に知人の家で暮らすわたしからの手紙は、明日、届《とど》くはずである。切に、誘拐《ゆうかい》はたんなるいたずらであるとみんなが信じ込めばいいと思っていた。 次の日、一月六日。 わたしが誘拐されていないことを示す手紙が配達されてきたのは、昼の一時ごろだった。「ついさきほど、封筒《ふうとう》が正門の郵便受けに入れられているのを、たまたま外に出ていた旦那様《だんなさま》が発見しました。今、警察の方たちと旦那様が、手紙のことで和室に集まって話し合いをしているようです」 報告を聞きながら、ちらりと窓の隙間《すきま》から外を眺《なが》める。ぴりぴりとした緊張感《きんちょうかん》が空気に含《ふく》まれており、まるで静電気が発生したかのように、うなじのあたりがざわざわとする。胸の奥《おく》を通る太い血管が、だれかに踏《ふ》みつけられているような重苦しさを感じる。 手紙が家に届いてから二時間が経過する。しかし警察が帰る気配はない。クニコの携帯《けいたい》電話はいつにもまして途切《とぎ》れがちで、まるで屋敷内《やしきない》の異常な空気が電波の伝わりを妨《さまた》げているのではないかという錯覚《さっかく》を覚える。誘拐事件|捜査《そうさ》本部、というものがどこかの警察署で設置され、多くの人間がそこでわたしの行方《ゆくえ》について捜査《そうさ》しているそうだ。そこでも昼夜を徹《てっ》してわたしのために働いている人間がいるのだろうか。今も、忙《いそが》しげにスーツを着た警官が歩き回り、書類の束《たば》を撒《ま》き散らしているのだろうか。そんなことを考えていた。 三畳《さんじょう》部屋のコタツの上に置いている携帯電話に、連絡《れんらく》が入る。クニコからの連絡である。人目をはばかる小声で、彼女は屋敷内の状況《じょうきょう》を説明する。「警察の方々は、どうなされたんでしょうね。今日の手紙のこと、まだ旦那様以外の人間には発表されていません。手紙が届くと同時に、和室にこもりっきりなんです。さきほど、数人の警察の方が部屋から出ていらっしゃいましたが、険しい表情のままでした」 彼女の話では、届いた手紙を読んだ後も、パパや警察の人間が事態を楽観視したようには見えなかったという。「ナオお嬢様《じょうさま》、あまり窓のそばに近寄らないよう、気をつけてくださいね」「わかってる」 わたしはコタツに深くもぐりこみ、ため息をついた。熱いココアが欲《ほ》しい。しかし、三畳の部屋に湯を沸かす器具はない。ときどきクニコが部屋へもどってきて、離《はな》れの一階にある共同の炊事場《すいじば》でお湯をわかし、小さなポットに入れてきてくれる。大切にお湯を使わなくてはいけないのに、今は切らしていた。温かい飲み物はおあずけだ。 テーブルなど、硬《かた》いものの上で携帯《けいたい》電話が振動《しんどう》するときの音が苦手《にがて》だ。歯医者で治療《ちりょう》を受ける際のドリル音を思い出してしまい、早く止めなくてはとあせる。 携帯電話が振動する、あの嫌《いや》な音で、夢から覚めた。いつのまにかわたしは眠《ねむ》っていたらしい。見ていた夢がちょうどいいところだったので、ちぇっ、と思った。おそろしく知能指数の低い夢だった。逃《に》げる苺《いちご》のショートケーキを、「待ってー!」と言いながら追いかけるという夢だ。「もう! せっかく捕《つか》まえて、これから食べるってところなのに!」 わたしは電話を受け、一番にそう言った。相手はもちろん、クニコだった。「す、すみません! ……何の話ですか?」「こっちの話。で、どうなった?」「はい、あのぅ、また電話が切れていることに気づかなかったので、つなぎなおしました。ひょっとして、眠っていらっしゃいました?」 わたしは、イエスと答えた。「……ええと、わたしはこれからゴミを捨てに行きますね。それでは」 わたしは目をこすりながら、携帯電話に耳をすませた。クニコがゴミ袋《ぶくろ》を扱《あつか》う、ゴソゴソとした音を聞く。砂利道《じゃりみち》を踏《ふ》みしめる音、彼女はいつも通り裏庭を横切り、菅原家の裏手の門からゴミを捨てに行く。 昨日、耳にしたかすれ声の警官らしき男に、今日も呼び止められた。ご苦労様です、という挨拶《あいさつ》を交《か》わして、クニコは通りすぎようとする。しかしふと思い立ったように、彼女は男へ尋《たず》ねた。「あのぅ、今日、手紙が届《とど》きましたよね」 何か音がしたわけではないのだが、男が緊張《きんちょう》したような気がした。「届きましたよ。それが何か?」「いえ、なんでもありません。ただ、旦那様《だんなさま》が手紙をふところに隠《かく》すようにして、警察の方々と和室へ入るのを、偶然《ぐうぜん》、見てしまったものですから。あの、つまり、なんというか、犯人の方から新しい連絡《れんらく》が届いたんじゃないかと、使用人のみなさんが噂《うわさ》しあっているんです……」 男は少し緊張を解いて、ふっと笑ったような気がした。「そうですか、そんな噂が……。安心してください、犯人からの連絡ではありませんよ。もうしばらくすればみなさんに公表するはずですが、先にお教えしましょう。今日、届いた手紙は、菅原ナオさんからの手紙でした。文句のない彼女の筆跡《ひっせき》で書かれた手紙で、それによると彼女は現在、知り合いの家で世話になっているそうです」「まあ!」少々わざとらしく驚《おどろ》いてみせたクニコの声。演技指導が必要だと思った。「それじゃあ、お嬢様はご無事なのでしょうか……?」「いえ、そうとばかりも……。まだ予断を許しません。あの手紙は、ナオさんが犯人に脅《おど》されて、無理やり書かされたものかもしれません」 脅されて手紙を書かされた? 警察が深く考えすぎて、事態がいっこうに丸くおさまらないことに、わたしは落胆《らくたん》する。「ナオさん本人が無事に現れないかぎり、我々はその線を捨てることができないのです。いいですか、ナオさんが家出したのは、十二月二十日。それから二日間、以前からのご友人の家にお世話になっています。これは、確認済《かくにんず》みです。しかし、二十二日、町中で友人と別れた後の消息がまったくわからないのです。そして、クリスマスの日、はじめて手紙が届《とど》きます。これには、新しく知り合いになった友人の家でお世話になっていると書かれてありました。しかし、この新しい知り合いという人物について、ご家族の方も、我々も、まったく何もわかっていないのです。もし、その人物が存在するとしたら、手紙の消印はこの町のものでしたから、町内のどこかにいるのではないかと思われます。もしかすると、この女性こそ真犯人なのかもしれません。また、犯人が捜査を混乱させるために作らせた架空《かくう》の人物であるとも考えられます」 一月四日、わたしを誘拐《ゆうかい》したという手紙が、郵便受けから発見される。 一月六日、つまり今日の午後一時ごろ、今度は一転して事件のことなど微塵《みじん》も感じさせない手紙が届く。「今日、届いた手紙にも、最初の手紙に登場した女性に関する記述がありました。この人物のもとで、実際に不自由なくナオさんが暮らしているのであれば、何も問題はありません。しかし、この二通の手紙が、犯人に脅されて無理やり書かされたものである場合、お嬢さんは誘拐されて、すでに一週間以上が経過しているはずです」 一通目の手紙を書いた後で誘拐され、二通目だけ犯人に無理やり書かされた、というようには考えられないようだ。二つの手紙は、内容が一致《いっち》している。二通目だけ犯人に脅されて書いたのであれば、最初の手紙と同じ内容にする必要はない。犯人は最初の手紙について、内容までは知らないはずだからだ。むしろ、異常事態を知らせるため、極端《きょくたん》に異なる内容にするかもしれない。そのような理由から、警官たちは、二通の手紙がそれぞれ別々の形で書かれたものではなく、手紙の通りにどこか安全な場所で書かれたか、もしくは両方とも犯人によって書かされたかのどちらかであると判断したようだ。 かすれ声の説明では、後者であると考えた場合、クリスマス以前に誘拐が行われたことになるそうだ。「ナオさんを誘拐した後、犯人が一度、家族を安心させるような手紙を書かせたのはなぜでしょうか。すぐにこの家へ、犯行を示した連絡《れんらく》をいれても良かったはずです。これは、犯人が準備を行う期間だったと、我々は考えています。犯行を知らせる直前までこのような手紙で家族を安心させておき、警察への連絡を避《さ》けさせるわけです」 しかし、新しい知人の家にいるという二通の手紙が、家族を安心させておくために書かせたものだとするなら、矛盾《むじゅん》が起こる。犯行を知らせた二日も後に、なぜ、時間|稼《かせ》ぎの意味で書かれた手紙が届《とど》いたのだ。「今日、届いた手紙には、五日の消印が押《お》されていました。つまり、手紙が投函《とうかん》されたのは、犯行をこの家に知らせた次の日ということです。これは、活字を切りぬいて製作された犯行を告げる手紙とは、確かに意図が矛盾しています。まるで、まったくちがう人間の思惑《おもわく》が働いたようにも見えます」「はぁ……、あのぅ、ひょっとして、誘拐《ゆうかい》した、というお手紙はだれかのいたずらだったのではないでしょうか?」 クニコがおずおずと口にした。「確かに、その通りですね。手紙の通りに、お嬢《じょう》さんはこの町のどこかで、新しいご友人と暮らしているのかもしれません。しかし、この町内のどこかで、お嬢さんは犯人によってそれらの手紙を書かされたのかもしれません」「……では、なぜ矛盾するような手紙を犯人は送ってきたのですか?」「犯人たちは意思の疎通《そつう》がうまくいっていないというのが、我々の見解です」 犯人「たち」? わたしは首をかしげ、かすれ声の警官の話をもっとよく聞くため、イヤホンの上から耳を手で覆《おお》う。「つまりですね、菅原ナオさんに『わたしは元気だ、今、知り合いの家にいる』という手紙を書かせた人物と、屋敷《やしき》の郵便受けに犯行を示した手紙を入れた人物は、別人だったのです。そいつらは、この家の持つ莫大《ばくだい》な資産という同じ目的のために動いているのですが、うまくお互《たが》いの情報をやり取りできていない。よって、今回のような矛盾が生じたわけです。今日、届いた手紙の投函は、連絡《れんらく》の行き違《ちが》いだったのですよ」「はあ……、す、すごいですねぇ、それは……」 クニコの脳みそでは、どのような反応を示せばよいのかわからないようだった。「この菅原という家は、尋常《じんじょう》でない財産をお持ちだ。犯人グループがお嬢様を狙《ねら》ったというのもわかります。しかし、心配しないでください。どうやら犯人たちは素人《しろうと》の集団らしい。意思の疎通もうまくいっていない、封筒《ふうとう》の消印のことも考えに入れていない。まるで子供の犯行だ。お嬢さんは無事にもどってきますよ」 深夜二時。 クニコの部屋《へや》の窓を、頭が通るぶんだけ開けて、外を眺《なが》める。冷たい空気に、顔の毛穴がひきしまるような気がした。ほとんどの母屋《おもや》の窓は電気が消えて、暗闇《くらやみ》の中で静まり返っていた。ただ一つ、警官のいる一階の和室だけが明るく、母屋と離《はな》れの間を通る砂利道《じゃりみち》へ、白い光を投げている。どうやらコンビニと警察は二十四時間いつでも稼動中《かどうちゅう》らしい。「今、裏門に、監視《かんし》はあると思う?」 わたしは窓をしめた。「それらしい人影《ひとかげ》は見たことありませんねえ……。このまえ、夜中に外へ出たときは、母屋で仕事をしていた警察の方に見つかりましたけど。裏の方は監視の対象外だと思います」 それを聞いたわたしは、ひさびさに外へ出てみたくなった。コンビニで、何か素敵《すてき》な食べ物を買って、口にガシガシ詰《つ》め込みたかった。「わたしは、外へ行く!」 握《にぎ》りこぶしをつくって、宣言した。「えー! それは、だめですよぉ……」 クニコは反対したが、所詮《しょせん》、彼女にわたしを止めることはできないのである。「行くったら行くの! 一刻も早く、ミルキーとかチェルシーを食べなくては、わたしは死んでしまうの!」「それじゃあ、わたしもついて行きます」 クニコは、ところどころ繕《つくろ》いのある半纏《はんてん》を取って立ちあがった。 わたしも、彼女の所有していた半纏を羽織《はお》る。防寒具としては、家出したときに着ていたコートや、クニコの部屋《へや》へ住みつきはじめたとき自室から運んできたダウンジャケットなどもあったのだが、それらは着ないことにする。わたしが家出したときの服装を、警察は知っているのだ。だから、わたしといっしょに、着ていたコートまで捜索の対象になっているかもしれない。ダウンジャケットなどは、よくわたしが着用していたものなので、知り合いに見かけられたときに声をかけられるかもしれない。 変装のために、巨人軍《きょじんぐん》の帽子《ぼうし》をかぶる。わたしは、両手に片足ずつ、靴《くつ》を持って部屋を出る。床《ゆか》のわずかなきしみを気にしながら、離《はな》れの玄関《げんかん》を抜《ぬ》けた。だれにも見つかってはいけない。 正門はカメラで監視されている。当然、裏門を通らなくてはいけない。そのために砂利道《じゃりみち》を通るとなると、警察が待機している和室の窓を横切らなくてはいけない。夜だから、中からは反射して見えないかもしれないが、前回、クニコは発見されている。少々、遠回りになるが、いまだに明かりのついている和室の前を避《さ》けて、離れの外周を回ることにした。「もしも、あいつらが見張っていたら、クニコさんが上手《うま》くおとりになるのよ! その間に、わたしは容赦《ようしゃ》なく走って逃《に》げるからね!」 彼女は緊張《きんちょう》したようにうなずいた。 離れの右手に沿って、小走りに駆けぬける。まるで脱走兵《だっそうへい》のように頭を低くする。幸い、クニコが尊い犠牲《ぎせい》になることなく、わたしたちは裏庭へ出た。何も明かりを持っていなかったが、空の星が闇《やみ》をうすくしてくれる。キンと冷えた夜の空気の中、広大な裏庭には、わたしの背丈《せたけ》ほどもある石や、ねじれた形の松の木が、影《かげ》になって静かに立っている。 動く人影は見当たらない。裏庭の真ん中を横切るのは目立つ。見晴らしがいいのである。よって、木々の植えられている端《はし》の方を通る。裏門は星明かりの影になっており、暗闇《くらやみ》に沈《しず》んで見えなかった。クニコに誘導《ゆうどう》されて、その小さな出口を抜ける。 菅原家の敷地《しきち》を出てからもしばらくの間、いそぎ足で歩く。もう見つからないだろう、という場所へきて、ようやく立ち止まった。わたしたちは、軽い緊張感のあとにやってくる愉快《ゆかい》さのおかげで、楽しい気分になった。肺がうれしそうに、純度の高い夜の空気をいっぱいに吸い込む。冷たい空気が体に入ると、寿命《じゅみょう》が二ヶ月ほど延びたような気がした。 歩きながら、最寄《もより》のコンビニエンスストアへ向かった。道の両端に並んでいる民家は、いずれも眠《ねむ》りに入っている。 途中《とちゅう》、この地域で定められているゴミ置き場の脇《わき》を通りすぎた。中身の詰《つ》まった半透明《はんとうめい》のゴミ袋《ぶくろ》が、一個、放置されている。「あー、今日は可燃ゴミの日じゃないのにー! 回収する人が、困るじゃないですかぁ……!」 クニコはいかにもゴミ捨てのプロらしく、ルール違反《いはん》を断じて許さないらしい。頬《ほお》を膨《ふく》らませ、回収する人間の苦悩《くのう》についてめずらしく熱い口調《くちょう》で語った。 しばらくわたしたちは、寒いということを話題にして歩いた。「……結局、誘拐《ゆうかい》は嘘《うそ》だったってことにはできませんでしたね」 クニコがぽつりとつぶやいた。 彼女の報告では、屋敷内《やしきない》は依然《いぜん》として緊張したまま、まるで菅原家を覆《おお》う空気の層全体が外側から圧力を受けているようだという。どこへ行ってもその圧迫《あっぱく》を感じるようで、呼吸するのも苦しく、うまく酸素が取り込めないのだという。わたしも三|畳《じょう》の部屋《へや》にいながら、似たような重苦しさを感じていた。 コンビニエンスストアの店内は明るく、白い光に満ちていた。 店内のカメラを気にしながら、棚《たな》を眺《なが》めて歩く。げっ、世間の情報から遠ざかっているうちに、ポッキーの種類が増えている! カゴの中に、「キットカット」や「白い風船」、「パイの実」、「たけのこの里」、「たべっこどうぶつ」等を次々と放《ほう》り込む。「カントリーマアム」や「エリーゼ」も忘れてはいけない。 山積みになったお菓子《かし》のバーコードを、女性の店員がひとつずつ読み取る。この人は、この先にある大きな屋敷で、間抜《まぬ》けな誘拐事件が発生していることを知らないのだなあとぼんやり考えた。 いつもは、こんなにたくさんのお菓子を、一度に買ったりしない。もし、いつもそうしていたら、たとえ帽子《ぼうし》をかぶって変装していても、お菓子の山を見られた時点でわたしであることがばれていたにちがいない。 店を出て、お菓子のつまった袋《ふくろ》をクニコに持たせる。わたしは当たりくじつきの棒アイスをなめながら、屋敷へ向かって歩いた。「このまま、屋敷には戻《もど》らず、本当に誘拐されるまで旅をするというのはどうかね」 五メートルほど遅《おく》れてついてくるクニコの方を体全体で振《ふ》り返り、そう言ってみた。そのまま、後ろ歩きを続けることにした。「冗談《じょうだん》はよしてくださいよぉ……」 重い荷物を両手に提《さ》げて、彼女は心底、困ったような声を出した。「買ったもの、大事に運んでね。そのクッキーやジュースは、クニコさんよりも大事なものなんですからねー」「ナオお嬢様《じょうさま》こそ、前を向いて歩いてくださいよ。危ないですよ」 聞いていないふりをしながら、後ろ歩きのままアイスをなめる。たとえ冬の寒いときでも、わたしはアイスクリームを食べる人間である。「あ、当たりだ」 アイスの棒に、『もう一本』の文字。それをかかげて、クニコに見せる。 彼女は目を大きく開いて、わたしの右斜《みぎなな》め後方を見ていた。何か叫《さけ》び声をあげようとする瞬間《しゅんかん》の、大きく開いた口。ビニールが手から離《はな》れる。さきほど、バーコードを読み取ったばかりの商品が、アスファルトに散らばる。 わたしは後ろ歩きのまま、いつのまにか十字路の真ん中に飛び出していたらしい。 強烈《きょうれつ》なライトが一瞬《いっしゅん》だけ、右手の背後《はいご》から全身を照らす。視界にあるものが、その瞬間だけ、白くなる。すぐそばで、重くて硬《かた》いものがぶつかる、大きな音。熱の衝撃波《しょうげきは》が伝わる。 わたしは突《つ》っ立ったまま、アイスの棒を高くかかげ、最初から最後まで動かなかった。奇跡的《きせきてき》に、怪我《けが》はなかった。その代わり、車の方がわたしをよけていた。十字路を構成する壁《かべ》の一画に激突《げきとつ》し、大破していた。前の部分が紙を丸めたようにつぶれ、煙《けむり》を吐《は》き出している。 クニコが走って近寄ってきた。なにをやるのかと思ったら、上げたままになっていたわたしの右手をつかんで、下におろした。 まわりの民家が、さきほどの轟音《ごうおん》に目覚めだした。暗かった窓に、明かりがともる。時間差で一個ずつ、電気のついた窓が増えていく。じきに人がやってくるだろう。わたしは、ついに見つかることを覚悟《かくご》した。 しかし、クニコが、わたしの両肩《りょうかた》をつかんで叫んだ。「部屋《へや》に戻ってください、早く! 車、わたしを避《よ》けて壁にぶつかったことにしますから!」 わたしから変装用にかぶっていた黒い野球帽《やきゅうぼう》を取り上げると、自分の頭に載《の》せた。彼女には小さすぎるらしく、入らない。落としてちらばっていたお菓子《かし》を手際良《てぎわよ》くかき集め、袋《ふくろ》に入れると、それをわたしに持たせた。「このお菓子も、持って帰っていてください。わたしがこんなに大量のお菓子を持っていたら、怪《あや》しまれます……!」 はじめて見る彼女の気迫《きはく》に驚《おどろ》きながら、正常な判断の不可能な状態で、わたしはいつのまにか走っていた。両手にコンビニの袋を持って、なかば無意識のうちに、出てきたときと同じルートを通る。ふと気づいたときには、クニコの三畳部屋《さんじょうべや》へ戻《もど》り、わたしはコタツに足をつっこんでいたのである。 アイスの棒は、事故現場に残してきてしまったらしい。コタツの上に、買いこんだお菓子がどっさり載っていたが、食べたいという気持ちは起きない。 時計《とけい》を見ると、深夜の三時だった。[#ここから7字下げ]4[#ここで字下げ終わり] 結局、クニコが帰ってきたとき、窓の外はぼんやりと明るくなっていた。彼女はあの後、車を運転していた人物が救急車に運ばれていくのを見送り、警察の事情|聴取《ちょうしゅ》を受けていたそうだ。警察の方は菅原家で誘拐《ゆうかい》事件が発生していることや、彼女が渦中《かちゅう》の家の使用人であることを知っていた。よって、なぜこんな夜中に出歩いているのかという追及が待っていたそうである。自分の食料の買い出しであると告げ、事故の原因などについて、独特のゆっくりとしたいらいらする声で説明した後、彼女は運転手の運ばれた病院へパトカーで連れていってもらったそうである。「安心してください、大きな怪我《けが》はなかったようです。ただの脳震盪《のうしんとう》で、運転手はすでに気絶から覚めていました」 クニコはわたしの向かい側に座《すわ》り、コタツにひじをついて説明した。 運転していたのは、近所に住んでいる中年の男性だったらしい。事故の原因は、わたしが後ろ歩きで突然《とつぜん》、十字路の真ん中に飛び出したことにある。もしかすると、そのせいでその男が死んでいたかもしれないと考える。冷気の忍《しの》び寄る三畳部屋の隙間《すきま》に関係なく、背筋が寒くなる。「運転していたその人、病院のベッドに寝《ね》かされたまま、かんかんに怒《おこ》ってました。もうー、わたしがお嬢様《じょうさま》の代わりに怒られてきたんですよー! 本当に、怖《こわ》かったんですからね! だって、顔を真《ま》っ赤《か》にして怒鳴《どな》るんですもの。病院中に大声が響《ひび》いて、看護婦が、静かにしてくださいって言い出したんです」 彼女が病室で頭を下げ、わたしの代わりに怒られて、すべての罪を引き受けている場面を想像した。 どうやら運転手は、事故の原因がクニコであると信じたようだ。「クニコさんは背が高いし、わたしの背は低い。身長差がかなりあるけど、よく、運転手は、この入れ替《か》わりに気づかなかったね」「それはですね、きっと、ナオお嬢様が片手を高く上げていたからですよ。それで身長が高く見えたんです。これはもう間違《まちが》いありません」 彼女は大真面目《おおまじめ》な顔をした。なわけあるかい。 運転手がわたしと彼女を見誤ったのは、どちらも半纏《はんてん》を羽織《はお》っていたからだろう。服装がよく似ていたのだ。「運転手の方が、もしも巨人《きょじん》ファンでなかったら、きっとお説教はもっと長引いてましたよ!」 帽子を巨人軍のにしておいたのが、幸いだったらしい。「まあ、きみがわたしの身代わり人形になるのは当然のことだがね」 わたしがそう言うと、彼女は頬《ほお》を膨《ふく》らませた。「本当にもう!」 心の中では、すまねえ、とつぶやいていた。 一月七日の午前中、菅原家の母屋《おもや》では、事故の責任について話し合いが行われた。どうやら運転手の怒《いか》りは相当なものらしく、裁判になるのだろうかとわたしは心配した。クニコに渡《わた》した携帯《けいたい》電話は不通で、じかに聞くことはできなかったが、後でその様子を彼女の口から聞かされた。 クニコを中心に座《すわ》らせて、この誘拐騒動《ゆうかいそうどう》の最中に増やしてくれた頭痛の種について、雇《やと》い主であるパパや警察官たちの意見の交換《こうかん》が行われたそうである。誘拐犯人を刺激《しげき》したかもしれない、とか、いやそれはないだろう考え過ぎだ、というような話が交《か》わされたらしい。結局、彼女はすぐさま休暇《きゅうか》をとって、菅原家がいいと言うまで実家で休んでいるように言い渡された。「それって、つまり追い出されるということなの?」 昼食時、クニコからそのことを聞かされた。彼女は、わたしが食べるカップラーメンのために、離《はな》れの給湯室から三畳部屋《さんじょうべや》へお湯を運んできてくれていた。「追い出されるだなんて、そんな……。ただ、すぐに荷物を片付けて、明日の夕方までにこの家を出発し、実家で骨休みしなさいと言われただけですよ」 わたしは、血の気が引くような思いだった。「ばかね、それがつまり追い出されるってことなのよ」「えー、ちがいますよー」 娘《むすめ》が誘拐されているこの重要な時期、単なる使用人の不注意が原因で起こったつまらない交通事故のせいで、人にさわがれるのはまずい。そうパパは判断したのかもしれない。犯人を刺激《しげき》して、娘の命に関《かか》わるかもしれない。できるだけ波風を立てず、丸く収めるために、原因をつくった使用人に責任を取らせて遠ざけておくのが一番だ。 それに、クニコはこの家の中で、もっとも価値のない人間であり、いてもいなくても変わりないと信じられていたのだ。彼女はまわりのそのような視線について何も言わないが、この処置には、仕事をろくにできないくせにコネで働かせてもらっている彼女への使用人たちの反感が、少なからず影響《えいきょう》しているような気がした。「明日、この三畳部屋を引き払《はら》うの?」 クニコは困ったような顔をして、うなずいた。わたしはどこへ行けばいいのだろう? カップラーメンにお湯を注いで、だまって考え込む。十秒ほど思案した結果、わたしは解決策を打ち出した。「身代金《みのしろきん》を要求しよう」 用事が済み、母屋《おもや》での仕事へ戻《もど》ろうとしていたクニコは、一切《いっさい》の動きを停止《ていし》した後、首をかしげた。「……え? なんです?」「身代金を要求するの。架空《かくう》の犯人に誘拐されている菅原ナオの身代金を、菅原家に要求するの。そして、あなたがお金の入った鞄《かばん》を持って、犯人との受け渡《わた》しを行う」「はぁ……。あれ? わたしが、受け渡しするんですか?」「しかも、すごく上手《うま》くやってのけるの。それで、あなたは英雄《えいゆう》になるのよ。そうすれば、あなたはだれにも文句を言われない。この家を出て行かなくてもよくなるよ」 わたしは、彼女がクビにされるのをだまって見ていられなかった。彼女がいなくなってしまうと、三畳の部屋にいられなくなるという単純な理由ではない。いや、見方によればさらにシンプルで、複雑なものではないのかもしれない。ただわたしの胸の中には、クニコにずっといてほしいという強い気持ちがあったのだ。「そのぅ……、つまり、わたしを現金の受け渡しで活躍《かつやく》させて、ここを出て行かなくてもいいことにするわけですね?」「珍《めずら》しく、理解が早いじゃないか」 彼女は心持ち顎《あご》を上げて、何もない斜《なな》め上二十センチメートルのあたりに焦点《しょうてん》を合わせる。がらにもなく、何事か考えはじめたようだ。間抜《まぬ》けに口を開けたまま、それはまるで餌《えさ》が投げ込まれるのを待っている鯉《こい》のようだった。おそらく、迷っているのだろう。「……あのう、わかりました。やりましょう」 クニコはそう言うと、一時間後に戻ってくることを告げて部屋を出た。それまでに、わたしは手紙を作成することにした。 身代金《みのしろきん》を用意させることと、受け渡《わた》しには使用人の楠木クニコを使うこと、そして、金と娘《むすめ》の交換《こうかん》を明日行うことなどを記す。その手紙を今日中に屋敷《やしき》へ提出するつもりだった。そして、今夜中に用意を調え、明日の午後、受け渡しの決行である。急ぎすぎだろうか、とも思う。しかし、明日にはクニコが追い出されるし、わたしは早急にこのくだらない騒動《そうどう》に決着をつけたかった。[#ここから3字下げ]あしたの 午後 むすめを かえす 金と こうかんだ使い古しの 札で 200万 よういしろ金は 鞄に入れて くすのきくにこ に もたせろその女が うけわたしを おこなうあした 時間が きたら 電話をかける家のなかで たいきしておけ[#ここで字下げ終わり] 手紙に指紋《しもん》をつけないよう、注意して封筒《ふうとう》に入れる。これをクニコが、さりげなく正門の郵便受けへいれてくるのだ。 いや、正門はいけない。常時、ビデオ撮影《さつえい》されている。では、クニコが手紙を発見したことにして、直接、パパに手渡《てわた》すというのはどうだろう。しかし、彼女を受取人に指名した手紙が、本人の手で運ばれてくることに、警察は不審《ふしん》なものを感じないだろうか。「すがわら さま」という文字を雑誌の中から探し出し、切りぬいた。できるだけ犯罪などとは無縁《むえん》の印象を受けるように、それぞれの文字の大きさを整えて、丁寧《ていねい》に封筒の表へ貼《は》る。 次にクニコが部屋《へや》へもどってきたとき、封筒を差し出した。「これを、隣《となり》の家の扉《とびら》にでもはさんできて」 彼女は指紋をつけないよう注意して受け取る。「隣の家に……ですか?」「別に、隣でなくてもいいけど。直接、菅原家の郵便受けに入れるのはまずいでしょ。だから、これをまず、他人の家に放《ほう》り込むの。たまたまこれを受け取った人は、封筒の文字を見て、きっとこの家へ運んでくるにちがいないわ」「で、でも、本当にうまくいくでしょうか……」「あなたが、留守中《るすちゅう》の家を選ばなければ、きっと大丈夫《だいじょうぶ》よ。そうね、人の好《い》い方《かた》が住んでるおうちでないといけないね。これがうまくいくかどうかは、クニコさんにかかってるわ。郵便受けに入れると、封筒があるってことに、長い間、気づかないかもしれない。だから、よく目のつくところに置いてくるのよ」 クニコは封筒を持って、部屋を出ていった。昼間だから、屋敷《やしき》の出入りをするのに、さほど問題はないだろう。 その後、わたしはコタツと壁《かべ》の小さな隙間《すきま》に体をねじ込ませ、いつもの就寝《しゅうしん》ポーズをとりながら、現金受け渡《わた》しに関する計画を考え始めた。携帯《けいたい》電話のイヤホンに耳をすませてみた。クニコがいつものようにゴミを捨てに行こうとしているところだった。電話は不意に途切《とぎ》れた。電話で屋敷内《やしきない》の状況《じょうきょう》を聞くのはめんどうだったので、後でクニコから報告を聞くことにする。 わたしは、いろいろあって疲《つか》れていた。考えてみれば、ほとんど眠《ねむ》っていなかったのだ。 目を閉じると、昨夜に見た、前のつぶれた車体が思い出された。 菅原家から三|軒《けん》ほど離《はな》れた家の奥《おく》さんが、問題の封筒《ふうとう》を運んできたのは夕方の四時ごろだったそうだ。彼女が買い物に行こうとすると、扉《とびら》にはさまっていたそれに気づいた。切手が貼《は》られていないのをおかしいと思いながらも、「すがわら さま」という切りぬきの文字を見て、うちまで持ってきてくれたのである。 彼女は、その状況などについて警察から細かく尋《たず》ねられていたそうだ。これで、近所の人に、この事件のことが広まってしまうかもしれない。このことはだれにも言わないようにと警察が注意していたそうだが、無駄《むだ》のような気がする。 ついに犯人から、身代金《みのしろきん》に関する連絡《れんらく》があり、家の人間はみんな無口になったという。それでいて、だれかが何か言うのを待っているようでもあり、同時に、だれかが言葉を発するとそれをただちに止めるというような、おかしな雰囲気《ふんいき》だったそうだ。一月の空気には、先ごろ過ぎた正月の雰囲気など微塵《みじん》もなく、菅原家にいる人それぞれの、よそよそしい無言の目配せや苛立《いらだ》ちがあった。 要求された身代金を用意するため、エリおばさんが警察とともに銀行へ向かったと聞いた。二百万円程度なら、銀行へ行かずとも、母屋《おもや》を掃除《そうじ》すればかんたんに集まると思っていたのだが、違《ちが》ったらしい。この金額を要求され、「犯人は子供なのではないだろうか」と警察が見くびっていればいいのにと思っていた。 要求された身代金は、午後七時には用意されていた。鞄《かばん》に入れられ、警官の寝泊《ねとま》りしている一階の十二畳和室に、受け渡しの時間まで保管されることになった。 家の者や、警官たちは、犯人がクニコを指名した理由について考えていた。結局のところ犯人は、昨夜の事故|騒《さわ》ぎを聞きつけ、その原因を作ったクニコの性格に目をつけたのだろうと結論づけられていた。クニコの能力がいくつか人より劣《おと》っていることを、犯人は敏感《びんかん》に感じとったのであろう。そういった機転のきかない人間に受け渡しをさせれば、危険が少ないはずだ。 警官たちは、クニコに変装させた婦人警官に受け渡しをさせることも考えたそうだが、結局、言う通りにした方がいいという結論に達していた。わたしはほっとした。そうでないと、計画の意味がないのである。 わたしは数時間の仮眠《かみん》をとり、深夜の十二時に、現金の受け渡《わた》しに関する小道具などを製作しはじめた。小道具といっても、活字を切りぬいたただの手紙が、二通だけである。雑誌や小説から文字を探し、切りぬいて貼りつけるという作業に、わたしはずいぶん慣れてしまっていた。半径三十キロ以内にいる人間のうちで、もしやわたしが一番うまくこういったスタイルの脅迫状《きょうはくじょう》を作成できるのではないかと思ったが、これはもうまったく自慢《じまん》にならないどころか、孫にも秘密にしておきたいことである。 手紙を作成しながら、明日、正午から行われる現金の受け渡しについて、クニコと打ち合わせをした。彼女はいつも通り、ぶつぶつつぶやきながら、時間をかけて頭のメモ帳に記録していった。 クニコは夜中に、何度か母屋《おもや》へ行かなくてはならなかった。大塚の奥《おく》さんといっしょに、警官たちの夜食を作らなくてはならないらしい。窓から確認《かくにん》すると、警官たちの本部となっている和室の電気がついていた。彼らは身代金《みのしろきん》の入った鞄《かばん》と同じ部屋《へや》で、これまでになく緊張《きんちょう》した気持ちで仕事を行っているのだろう。 いや、菅原家にきている警官たちだけではない。おそらく、警察本部では、数十人という警官がこのふざけた事件についてまじめに捜査《そうさ》をおこなっていたのだ。そこへ、明日、身代金の受け渡しが行われるという連絡《れんらく》が入ったわけだ。これまで、失踪《しっそう》した後のわたしの足取りや、菅原家に恨《うら》みを持つ人間、その資産を狙《ねら》うだけの理由を持つ人物を調査していた人々が存在するはずだ。彼らもまた、複雑な気持ちでこの夜を過ごしているにちがいない。 早朝、まだ暗いうちに、わたしは家を出た。まわりに警官などがいないことを慎重《しんちょう》に確かめ、張り詰《つ》めた寒さの夜を走りぬける。まるで背中からだれかに追い立てられるような不安があり、今にも発見され、捕《つか》まえられてしまうのではないかという恐《おそ》ろしさがあった。裏門を出て、息があがるまで走り続け、暗闇《くらやみ》のアスファルトにわたし一人の靴音《くつおと》を響《ひび》かせる。やがて立ち止まり、ひざに手を当てて、激しく呼吸しながら後ろを振《ふ》り返ると、菅原家の敷地《しきち》を囲む高い塀《へい》は遠く見えなくなっている。 長い間、隠《かく》れていた、失踪先の三畳部屋を後にしたときのことが思い出される。「じゃあ、もう行くから」 わたしはクニコへそう言うと、まるでちょっと散歩へ行くかのように、出て行こうとした。彼女は座《すわ》った状態で、コタツの上に突《つ》っ伏《ぷ》していたから、眠《ねむ》っているものだと思っていた。「またのご滞在《たいざい》をお待ちしてます……」 彼女が顔をふせたまま、そう言った。クニコのコメントにしては、なかなかだな、と思った。[#ここから7字下げ]5[#ここで字下げ終わり] 一月八日。 朝の六時、わたしは家から一時間ほど歩いた先にある十代橋駅前のコンビニエンスストアで、朝食にパンを買った。まだ空は暗く、街灯もついていたが、電車を利用する人間がまばらに駅構内を歩いていた。気温もあがっておらず、彼らは寒さからのがれるように肩《かた》をすぼませて通りすぎる。 ベンチに座《すわ》り、パンの袋《ふくろ》を開けた。人の視線が気になった。この早い時間にそうなる可能性は低いが、知り合いが偶然《ぐうぜん》、通りかかるかもしれない。わたしは人気《ひとけ》のない場所へ移動した。一応、変装用の帽子《ぼうし》を持ってきていたが、巨人《きょじん》の帽子は逆に目立つような気がするので、かぶらない。 クニコとの打ち合わせでは、六時間後の正午に身代金《みのしろきん》受け渡《わた》しを開始する手はずだった。そのことを考えると食欲が失《う》せてしまいそうになり、この食欲|不振《ふしん》をきっかけにダイエットが成功すればいいとぼんやり考えていると、なぜかいつのまにかパンを三つも平らげていた。 厚いコートの袖口《そでぐち》や襟元《えりもと》から冷気が忍《しの》び込み、体を冷やす。体を丸めて体表面を小さくし、熱が奪《うば》われていくのを防ごうとした。 ポケットの携帯《けいたい》電話からイヤホンを伸《の》ばし、聴覚《ちょうかく》は常《つね》に、そこから送られてくる音へ傾《かたむ》けていた。クニコの持っている電話が、時々、途切《とぎ》れがちになりながらも、菅原家の緊迫《きんぱく》した空気を伝えてくる。すでに屋敷内《やしきない》の人間は活動をはじめているらしく、無言で廊下《ろうか》を歩き回る音が、さきほどからしきりに聞こえてくる。いつもなら大塚の奥《おく》さんにののしられながら、クニコは家事をしている時間だ。しかし今日は仕事を免除《めんじょ》されているらしい。 まだ受け渡しをはじめる時間まで間《ま》があるものの、そのことを警察は知らない。今すぐにでも犯人から連絡《れんらく》が入るかもしれないと、すでにこの時間からクニコは、警察の集まっている十二|畳《じょう》の和室で待機させられていた。ときどき、まわりの人間に声をかけられている。そのたびに彼女の答える覇気《はき》のない声が聞こえた。わたしは想像した。広い和室の中、身代金の入った鞄と、そのつけたしのように座《すわ》らされたクニコ。まわりを、いかめしい面構《つらがま》えの刑事《けいじ》たちが歩き回ったりしており、彼女は血の気のうせた顔で所在なげにしているだろう。使用人の仕事をせずにただ座っていることについて、申し訳ないという表情をしているかもしれない。 彼女の着る上着に、ひそかに盗聴《とうちょう》のマイクが取り付けられたようだ。マイクと、それを動かす小型のバッテリーが服の裏側に縫《ぬ》い付けられたらしい。警察の一人がクニコへ説明する。「昨日、届《とど》けられていた手紙によると、今日の午後、身代金の受け渡しが行われます。まだ詳細《しょうさい》はわかっていませんが、犯人は何らかの方法であなたに連絡を送り、指示を与《あた》えるでしょう。我々はあなたを遠くからひそかに監視《かんし》することしかできません。もし、犯人から連絡があった場合、このマイクに聞こえるよう、さりげなく指示を声に出して内容を我々に伝えてください。そうすれば、あなたを見失うことも少なくなり、先回りすることもできる」 説明している声は真剣味《しんけんみ》をおびており、彼の額に浮《う》かんでいる汗《あせ》の伝う音がイヤホンから聞こえるような気がした。若い声だった。もしかすると、いつだったか和室の窓から外を見まわしていた警官ではないだろうかと思った。「あのぅ……、お金の入ったバッグに、発信機のようなものは取り付けられているのでしょうか?」 おずおずとクニコが質問した。「はい、小型のものが縫《ぬ》い付けられています」「ひょっとして、鞄《かばん》を開けると、色のついた液体がバッと犯人に降りかかるような仕掛《しか》けも……?」 若い警官は少し笑った。クニコののんびりした場違《ばちが》いな声が、空気を緩和《かんわ》させたような気がする。「さすがに、そんなことはやっていませんよ。犯人を怒《おこ》らせることになる。そうなると、ナオさんの命に危険が迫《せま》る。もっとも大事なのは、犯人を捕《つか》まえることではなく、ナオさんを無事に救出することなのです。鞄に入っているお札も本物ですし、指示通り、使い古しのものです。実は、鞄に発信機を取り付けるかどうか、あなたにマイクを取り付けるかどうか、ずいぶん意見がわかれたんですよ」 九時になった。 わたしは、駅構内の片隅《かたすみ》にある自動|販売機《はんばいき》へ向かった。そこはあまり人のこない場所で、おそらくさっぱり繁盛《はんじょう》していない自販機である。その裏側へ、封筒《ふうとう》を差し込んだ。昨夜のうちに作成した手紙が、その中に入っている。風で飛んでしまったりしないよう、自販機裏の壁《かべ》にガムテープで固定する。テープはコンビニで購入《こうにゅう》した。 急いで作業し終わり、まわりを見る。だれにも見られていなかったはずである。数歩だけ下がり、封筒を隠《かく》したあたりを眺《なが》めた。関係のない人間に持って行かれてはいけない。しかし大丈夫《だいじょうぶ》、これならあまり目立たない。そこに封筒があるということを知って、わざわざ自販機の裏を探さなければ見つからないだろう。 だれかがこないうちに、わたしはその場を離《はな》れた。 打ち合わせでは、今日の正午、わたしは菅原家へ電話を入れることになっている。身代金《みのしろきん》の受け渡《わた》しを開始する連絡である。わたしは誘拐犯人に脅《おど》されて、言われた通りのことをしゃべっているように見せなくてはいけない。 十代橋駅へ向かえ。車を使ってもかまわない。そして、十代橋駅構内にあるコカ?コーラの自販機裏を探すこと。駅の構内から先は、クニコだけが来ること。犯人は遠くから監視している。もしも約束を破り、他《ほか》の人間が現れたら、わたしの命はない……。 わたしはそれだけを伝えて、すぐに電話を切る。電話は、公衆電話を用いる。 自販機裏に隠した手紙には、次のようなことが書かれている。[#ここから3字下げ]電車に のって たかし駅へ 行けえきまえの ゆうびんポストの うらがわをさがせ[#ここで字下げ終わり] 鷹師駅は、十代橋駅から電車で三十分ほどの位置にある。これからその駅前の郵便ポスト裏へ、二通目の手紙を隠しに行かなくてはいけない。 しばらく携帯《けいたい》電話に耳を傾《かたむ》けていた。時計を見ると、いつのまにか十時になっていた。十代橋駅周辺には、いくつかのデパートが並んでいる。そのうちのひとつがシャッターを開け、営業を開始した。そこに入り、男物のありふれたコート、つばの広い帽子《ぼうし》を手早く購入《こうにゅう》する。また、引越《ひっこし》の際に箱へまきつけるようなビニール紐《ひも》と、それを切るための鋏《はさみ》を買った。わたしは大きめの紙袋《かみぶくろ》を提《さ》げて、電車に乗り込んだ。 電車内に客はほとんどおらず、広々とした座席のひとつに腰掛《こしか》ける。電車は身震《みぶる》いするような振動《しんどう》の後、ゆっくりとすべるように動き出した。窓の外の風景が、次第《しだい》に速さを増してくる。暖房《だんぼう》がきいていたが、幸福な気分には遠かった。 携帯電話から聞こえる菅原家の情報に耳を傾ける。使用人や、パパ、エリおばさんがクニコへ声をかけていた。「ナオを、お願いする」 パパの声は震えており、その憔悴《しょうすい》した顔が想像できた。胸が痛む。どうしてこんな状況《じょうきょう》になってしまったのか、考え込んでしまう。「ナオお嬢様《じょうさま》のことが、心配でたまらないのですね」 クニコが、パパにたずねた。「当たり前じゃないか」「はぁ……。血が、つながっていらっしゃらないのに、ですか?」 パパが一瞬《いっしゅん》、沈黙《ちんもく》する。その姿は見えないが、ひるんだのではないかと感じた。彼女は、わたしに聞かせるためにそのような質問をしたのではないかと思う。なんてことをしてくれるんだ、と動揺《どうよう》し、耳にはめたイヤホンに指をかける。取り外すつもりだったが、わたしの耳はパパの返答を聞きたかったらしく、イヤホンが外されることはなかった。「血は、関係ないんだ……」パパが力なく声を出した。まるで心細げな少年を思わせる響《ひび》きで、すすり泣くような弱さを感じた。「あの子の母親をわたしは愛したけれど、それすら、もはやあまり関係はない。わたしはあの子の、父親でありたいだけなんだ。授業参観のとき、わたしは親としてナオを見に行った。わたしが落ち込んでいると、あの子はわたしの背中に蹴《け》りを入れてくれた。この先、あの子の卒業式に顔を出したり、受験の合格をいっしょに喜ぶことができたら、どんなにいいだろう。やがて成人式が訪《おとず》れ、あの子は大人《おとな》になる。綺麗《きれい》な服を着て、化粧《けしょう》をし、かしこまったあの子と並んで、成人式の写真を撮《と》れたらいい。ナオは、どこかの会社へ就職するかもしれない。スーツ姿で初出勤するのだろうか。いつかいい相手を見つけて、嫁《とつ》いでいくのだろうか。きっとそのころには、わたしはもう髪《かみ》に白いものが多くなっているのだろう。貧相《ひんそう》な老人になっているかもしれない。あの子は赤ん坊《ぼう》を抱《だ》いて、時にはこの家へ顔を出してくれるだろうか。わたしは孫の顔を見ると、うれしさでポックリ逝《い》ってしまうかもしれない。わたしがあの子を育てているのは、義務などではないんだよ。ただの、どこにでもありふれた、一般的《いっぱんてき》な想《おも》いからなんだ」 言い終えるとパパは席を外した。 窓の外を見ると、電車は鷹師駅の手前まできていた。 天気はいい、よく晴れている。 改札を出た。駅はわりと小さいが、その周辺にはファーストフードの店が並んでいる。美しく設計された円形の花壇《かだん》の周りに、散歩を楽しんでいる親子連れの姿が見られる。駅前の目立つところに時計の塔《とう》があり、ちょうど十一時の鐘《かね》を鳴らした。楽しげなメロディが流れる。時計の仕掛《しか》けが動き始め、文字盤《もじばん》の一部が開くと、中からピエロの人形が現れて回転をはじめる。数人の子供がそれをうれしそうに見て、親の手を握《にぎ》りしめている。気温は高くなかったが、日差しは強く、わたしはその光景をまぶしく感じた。 駅前のポスト裏に二通目の手紙を貼《は》りつけた。[#ここから3字下げ]たかしりょくち公園の ベンチ へ いけ[#ここで字下げ終わり] 活字の切りぬきで、手紙にはそれだけが記されている。 クニコはこれを読み、駅から十五分ほど歩いた場所にある鷹師緑地公園を目指すのである。もちろん、読むまでもなく、彼女とは行き先の打ち合わせはすませてある。しかし、警察がどこかから監視《かんし》している可能性を考慮《こうりょ》し、手紙を探し出して読むふりをしなくてはいけないのだ。それに、彼女は盗聴器《とうちょうき》にむかって、手紙を読み上げるように指示を受けていた。 公園が、身代金《みのしろきん》受け渡《わた》しの主な舞台《ぶたい》となる。つまり、屋敷《やしき》を出て十代橋駅へ向かったクニコは、そこから電車に乗り、鷹師駅へ向かうよう手紙で指示される。その後、駅前のポスト裏にある手紙で公園へ向かわされ、そこで受け渡しが行われる。これが警察側から見た、全体的なストーリーである。屋敷を出発し、最終地点である公園まで、一時間もかからないだろう。もっとクニコへの指示を多くして、警察を引きずりまわした方がいいのだろうか。しかし、その用意をする余裕《よゆう》は、時間的にも、精神的にも、なかったのだ。 時計から流れていたメロディが止まり、子供を楽しませていたピエロが文字盤《もじばん》の奥《おく》へ隠《かく》れる。 デパートの紙袋《かみぶくろ》をぶら下げて、わたしは駅前の通りを歩き、公園の方角へ向かった。携帯《けいたい》電話の向こうでは、クニコが警察の人からさまざまな指示を受けていた。いや、指示というよりは、注意なのかもしれない。とにかく、失敗はゆるされないということや、犯人を刺激《しげき》してはいけないことなどが繰《く》り返されていた。「いいですか、この鞄《かばん》にはお金が入っています。重要なお金です。絶対に、離《はな》さないようにしてください」「あのぅ、もう鞄を持っていてもいいですか……? なんだか、突然《とつぜん》、犯人の方から電話が来ると、鞄を忘れて飛び出してしまいそうな気がして……」 警察の人間が、苦笑するような声をもらす。「いいですよ。鞄《かばん》を持って、この部屋《へや》でしばらく待っていてください。勝手に、いなくならないようお願いしますよ」 身代金《みのしろきん》のつまった鞄を抱《かか》えて一階の和室に待機していることが、電話|越《ご》しに聞こえる会話の端々《はしばし》から想像できる。その部屋には他《ほか》に、本部と無線で連絡《れんらく》している警察官しかいないようである。他の者は、居間の方へ移動しているのだろう。犯人からの連絡は居間の電話にかかってくるのだ。 駅から公園の入り口まで、きっかり十五分かかった。 公園の敷地《しきち》は広く、一周するのに一時間近くかかるかもしれない。夜中にも野球ができる照明つきのグラウンド、芝生《しばふ》の生えた丘《おか》、どこかの芸術家が設計した噴水《ふんすい》や彫刻《ちょうこく》、子供たちが鼻水をたらして喜ぶような遊具がある。 それに、無数のベンチ。 わたしは日向《ひなた》ぼっこもかねて、ぶらついた。ずっと三畳部屋《さんじょうべや》にいて、太陽の下をどうどうと歩き回るのはひさびさだったのだ。池に石を投げ込んでみたり、地面に群れている鳩《はと》へ「わー!」と突進《とっしん》してはばたかせてみたりした。犬を散歩させている少年を眺《なが》めたり、子供を呼ぶ母親の声を聞いたりしていた。 イヤホンから、不意にキョウコの声が聞こえてくる。わたしは立ち止まり、そばにあるブランコに腰《こし》をおろした。自分の全体量がスライドする浮遊感《ふゆうかん》、何年ぶりだろう。「あら? 他の方はいらっしゃらないの?」 キョウコの足音が近づいてくるのを聞き取る。 無線で本部と連絡していた人間も、いつのまにか部屋を出て、和室はクニコ一人になっていたようだ。その広い部屋の中、彼女は緊張《きんちょう》した面持《おもも》ちでいたのにちがいない。「もう、お金の入った鞄を抱《だ》きしめて、歩く練習をしているの?」「あ、いえ、すみません、違《ちが》うんです。なんだか、動いていないと不安で……」 おかしな組み合わせだなと思う。二人並んで立っているのだろうか。人より背の高い地味な服装の使用人と、あまり背は高くないが着ている服の値段は高い菅原家の奥《おく》さん。奇妙《きみょう》な光景だ。「じきにはじまりますね……」キョウコの緊張《きんちょう》した声。「……お願い、失敗しないようにね」「奥様も、ナオお嬢様《じょうさま》のことが心配なのですね?」「……ええ、まあ」「お二人は、あまり仲が良くないものだと思っていました。だって、そのぅ、よく喧嘩《けんか》してらっしゃいましたし……」「そうね……」少々ためらいがちに、キョウコは続けた。それは不安げで、子供のような声だった。「たぶん、わたしはあの子に嫌《きら》われているのよ……。それは、間違《まちが》いない。これまでわたしは、そんなあの子に対抗《たいこう》するように、負けたくないという気持ちで嫌い返してきた。でも、きっとそれは正しくなかったと思う」 わたしは、あの子のことを一度でも考えたことがあっただろうか。キョウコはそう言った。わたしはあの子のように、母親を亡《な》くしたことはない。いつも人生には両親がいた。学校でひどいことを言われたり、社会で無視されたりしても、わたしには帰る家があった。あの子が誘拐《ゆうかい》されたと知って、そのことを考えてみたのよ。 人は、つまり、見返りを要求するじゃない。何かしてもらいたかったら、そのかわり、何かしろ、という感じで。その指輪がほしいから、このネックレスと交換《こうかん》。命を救ってやるから、極秘《ごくひ》情報と交換。娘《むすめ》を返してほしかったら、三千万円と交換。恋愛《れんあい》でもそうかもしれないわ。すべてのサービスには、見返りが要求される。 でも、この世界でたったひとつだけ、見返りを要求しない人々がいると思うの。彼らは、ときどき、自分を犠牲《ぎせい》にしさえする。わたしがアメリカに留学しているとき、ちょっとした事故に遭《あ》った。それを聞きつけた両親は、すべての予定を投げ出して、ろくに用意もしないまま日本から駆《か》けつけてきた。つまり、そういうこと。世界中の人間がわたしを嫌いになっても、おそらくその関係にある人々だけは、無償《むしょう》でわたしのことを好きでいてくれるだろう。もちろん、全部がそういった幸福なパターンではないかもしれないけど、少なくともわたし自身が同じ立場になったときも、やっぱり同じ行動をとるのだと思う。 でも、あの子には、そのだれにでも用意されているべき当然のものが、八歳のときに消えてしまった。幸い、家を追い出されなかったけど、もしかすると、血のつながらない父親の愛情を、借り物のように感じていたかもしれない。そして、横から突然《とつぜん》に現れたわたしは、あの子から一切《いっさい》をうばい去る敵として見えたにちがいない。あの子が誘拐されて、そう考えた。すると、自分がどうすればいいのかわからなくなるの。 キョウコの話を、クニコは静かに聞いていた。「ごめんなさい、おかしな話をしてしまったわね……」「あ、いえ、どうもすみません。……本当に、失礼しました」 クニコはこれまでになく恐縮《きょうしゅく》した声を出した。きっと、何度も頭をさげているのにちがいない。「……がんばってね」 クニコはやや緊張《きんちょう》気味に、「はい……」と答え、何か言いたそうに口籠《くちご》もった。その様子を不審《ふしん》に感じたのか、キョウコが話を促《うなが》す。「そのぅ……、今のうちにトイレへ行ってきたいです……」 キョウコが苦笑し、早く行ってきなさい、と言った。クニコがトイレへ向かう足音。「あ、クニコさん……」 背後から声をかけられたような気がしたが、無視してクニコは和室を出たようだ。彼女は携帯《けいたい》電話の存在を忘れていなかったらしく、直後に不通となった。そのことが示すことはつまり、わたしの存在を頭にいれたまま、キョウコからさきほどのような話を聞き出したということである。 ベンチに腰掛《こしか》けたまま、ぼんやりキョウコの話を思い返す。その内容よりもむしろ、彼女自身のことが頭に浮《う》かぶ。これまでわたしは、彼女が何か考え、心にさまざまなものを感じて生きているのだということを意識していただろうか。わたしが心の中に作った身勝手な檻《おり》の中へ彼女を閉じ込め、動物園の生き物のようにしか見ていなかったのではないだろうか。キョウコと、まともに話をしたことがない。家へ帰ったら、わたしは彼女に謝《あやま》ってしまうかもしれないと思った。 わたしは公園の風景を眺《なが》めながら、頻繁《ひんぱん》に腕時計《うでどけい》へ視線をやっていた。携帯電話がポケットの中で振動《しんどう》する。クニコがまわりのすきをみて、電話をつないだようだ。しかし、わたしは菅原家内の物音には耳をかたむけず、葉の散っている木々の間を歩いた。落ち葉の踏《ふ》みしめられる音に、聞き流される雑音混じりの音声が重なる。 やがて、時計の長い針と短い針が、「12」の文字上で重なった。 公衆電話のボックスに入り、携帯電話のイヤホンを一旦《いったん》、耳からはずして、家の電話番号を押《お》した。[#ここから7字下げ]6[#ここで字下げ終わり]

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