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失踪HOLIDAY

作者:乙一 字数:38703 更新:2023-10-10 10:39:35

失踪HOLIDAY乙一-------------------------------------------------------【テキスト中に現れる記号について】《》:ルビ(例)孤独《こどく》に死ぬことを切望した。|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号(例)家主|面《づら》してくつろいでいた。------------------------------------------------------- しあわせは子猫のかたち ~HAPPINESS IS A WARM KITTY~[#改ページ][#ここから7字下げ]1[#ここで字下げ終わり] 家を出て、一人暮らしをしたいと思ったのは、ただ一人きりになりたかったからだ。自分を知る者のだれもいない見知らぬ土地へ行き、孤独《こどく》に死ぬことを切望した。大学をわざわざ実家から遠い場所に決めたのは、そういう理由からだ。生まれ故郷を捨てるような形になり、親には申し訳ない。でも、兄弟《きょうだい》がたくさんいるので、できのよくない息子《むすこ》が一人くらいいなくなったところで、心を痛めたりはしないだろう。 一人暮らしをはじめるにあたり、住居を決定しなくてはいけなかった。伯父《おじ》の所有する古い家があったので、そこを借りることにした。三月の最後の週、下見のために、その家へ伯父と二人で出かけた。 それまで伯父とは一度も話をしたことがなかった。彼の運転する車の助手席に座《すわ》り、目的の住所へ向かうが、話は弾《はず》まない。共通の話題がないという、かんたんな理由だけではない。自分には会話の才能が欠如《けつじょ》しており、だれとでもかんたんに打ち解け合うという人間ではなかった。「そこの池で、一ヶ月くらい前、大学生が溺《おぼ》れて死んだそうだよ。酔《よ》って、落ちたらしい」 伯父はそう言うと、運転しながら窓の外を顎《あご》で示した。 木々が後方へ飛ぶように過ぎ去り、鬱蒼《うっそう》と茂《しげ》る葉の間に巨大《きょだい》な水溜《みずた》まりが見えた。池の水面は曇《くも》り空を映して灰色に染まり、人気《ひとけ》はなく寂《さび》しげな印象を受ける。辺りは緑地公園になっていた。「そうなんですか」 言ってから、もっと大袈裟《おおげさ》に驚《おどろ》くべきだったと後悔《こうかい》する。伯父はおそらく、ぼくが驚くのを期待していたのだ。「きみは、あんまり、人が死んだというようなことではびっくりしないの?」「ええ、まあ……」 ありふれた他人の死に関してそれほど心が動かない。 伯父は、ほっとしたような顔をしたが、その時はまだ、その表情の意味には気付かなかった。 その後も、まるで事務処理のようなぼくの答え方のおかげで、伯父との会話は長く続かなかった。退屈《たいくつ》なやつだと思われたのだろう、伯父がつまらなそうに黙《だま》ると、車内に気まずい沈黙《ちんもく》が立ち込める。何度、経験しても慣れることができない状況《じょうきょう》だが、悪気はなかった。ただ、昔から不器用なぼくは、相手とうまく調子をあわせることができないたちなのだ。 しかしすでに、人との接し方で悩《なや》むことにもつかれていた。もういい、たくさんだ。これからはできるだけ他人との付き合いは控《ひか》えよう。家からもあまり出ないようにして、ひっそりと暮らしていこう。道もできるだけ、真ん中を歩くようなことは避《さ》けたい。人込みを離《はな》れて、一人でいることの安心さといったらない。これからの一人暮らし、毎日カーテンを閉めて生活しよう。 伯父《おじ》の所有する家は、何の変哲《へんてつ》もない普通《ふつう》の住宅街にある木造二階建てだった。まわりに並んだ民家に比べ、色あせた写真のように古く、押《お》せば向こう側へ傾《かたむ》くかもしれない。家のまわりを一周してみるとあっというまにスタート地点へ戻《もど》り、これなら遭難《そうなん》する心配もない。こぢんまりとした庭があり、だれかがつい最近まで家庭菜園を行っていた跡《あと》がある。家の脇《わき》に水道の蛇口《じゃぐち》があり、緑色のホースがのびてとぐろをまいていた。 家の中を見ると、家具や生活に用いるほとんどすべてのものがそろっていて驚《おどろ》いた。空き家のようなものを想像していたが、他人の家へ足を踏《ふ》み入れたような気分になる。「最近まで、だれかがここに住んでいたのですか?」「友人の知り合いに貸していたんだ。その人、もう死んでしまったんだけど、身よりのない人だったから、家具を引き取る人がいなくてね……」 伯父は、前の住人についてはあまり語りたくなさそうだった。 さっきまでここで普通の生活が行われており、人間だけが突然《とつぜん》すっと消えてしまったような印象だった。古い映画のカレンダー、ピンで壁《かべ》に貼《は》ったポストカード。棚《たな》の中の食器、本、カセットテープ、猫《ねこ》の置物。前の住人の持ち物が、そのままにされている。「残っている家具、自由に使っていいよ。持ち主はもう、いないんだから」と、伯父。 前の住人が寝室《しんしつ》として使っていたと思われる部屋《へや》が二階にあった。南向きの明るい部屋で、開かれたカーテンから暖かい日光が入っていた。家具や置物の類《たぐ》いを一目見て、前の住人が女性だったことがわかった。しかも若い。 窓際《まどぎわ》に植木鉢《うえきばち》。枯《か》れておらず、ほこりも積もっていない。だれかが毎日、掃除《そうじ》をしているかのような清潔《せいけつ》さに、妙《みょう》な違和感《いわかん》を感じる。 陽の光は嫌《きら》いなので、カーテンを閉めて部屋を出た。 二階の一室が暗室になっており、現像液や定着液が置かれていた。入り口には黒く分厚い幕が垂らされ、光の入る隙間《すきま》を閉《と》ざす。酢酸《さくさん》の臭《にお》いが鼻の奥《おく》を刺激《しげき》し、くしゃみが出そうになる。机の上に、ずっしりとした大きなカメラがあった。前の住人は写真が好きだったのだろうか。自分で現像をするとは、力が入っている。辺りを探すと、写真が大量に出てきた。風景の写真もあれば、記念写真のようなものもある。写っている人物もさまざまで、老人から子供までいた。後で眺《なが》めようと思い、手持ちのバッグに入れた。 棚に、現像されたフィルムが整理されている。ネガはそれぞれ紙のケースにまとめられ、マジックで日付が書かれていた。作業机の引き出しを開けようかと思ったが、やめておいた。取っ手の上に小さな文字で『印画紙』と書かれていたからだ。もしも光に当たった場合、感光して使えなくなる。 暗室を出たぼくは、さきほど入った南向きの部屋が明るいことに気付いた。閉めたはずのカーテンが、なぜか今は開いている。伯父《おじ》がやったのだろうか。しかし彼はずっと一階にいた。きっと、カーテンレールが傾《かたむ》いていたのだと、その時は結論づけた。 入学式の数日前、その家へ移り住んだ。荷物は鞄《かばん》ひとつだけ。家具は前の住人の物を使わせてもらう。 最初に子猫《こねこ》の鳴き声を聞いたのは、引っ越《こ》した当日、居間でくつろいでいた時のことだった。声は庭のどこかから聞こえてきた。気のせいだと思い、放《ほう》っておくと、いつのまにかそいつは家へ上がり込んでいて、人間のぼくよりも家主|面《づら》してくつろいでいた。両手のひらに収まるような、白い子猫だった。下見の時は、どこかに隠《かく》れていたらしい。前の住人が飼っていたペットのようで、飼い主のいなくなった後も、そのまま家に住み着いているのだろう。当然のように家へ上がり込み、歩きまわった。首に鈴《すず》がつけられ、澄《す》んだ音を響《ひび》かせた。 ぼくは最初のうち、そいつの扱《あつか》いに戸惑《とまど》った。家にこんなおまけがあるとは、伯父から聞いていない。一人きりになりたかったのに、子猫と暮らさなければいけないなんて反則だ。どこかへ捨ててこようかとも思ったが、そのままそっとしておくことにした。居間に座《すわ》っていて、子猫がトコトコ目の前を通ると、つい正座してしまった。 その日は隣《となり》に住んでいる木野《きの》という奥《おく》さんが挨拶《あいさつ》にやってきて、どっとつかれた。彼女は玄関先《げんかんさき》に立ち、品定めするような目でぼくを見ながら世間話をした。できるだけこのような近所との付き合いは排除《はいじょ》したかった。 彼女は、音のすごい自転車に乗っていた。金属をこするようなブレーキの音が、何十メートル離《はな》れていても聞こえてくる。最初は不愉快《ふゆかい》だったが、そのうち、あれは斬新《ざんしん》な楽器なんだと思うことにした。「私の自転車、ブレーキが壊《こわ》れかけているのかしら?」と、彼女。「たぶん、もうすでに壊れているんだと思いますよ」とは言えなかった。 だが、前にこの家で生活していた住人のことに話題が移ると、身を乗り出して聞いた。以前、この家に住んでいたのは、雪村《ゆきむら》サキという若い女性だった。よく、カメラを持ってこのあたりを散歩し、町の住民を撮影《さつえい》していたという。町の人からは、ずいぶん慕《した》われていたようだ。しかし三週間前の三月十五日、玄関先で何者かに刃物《はもの》で刺《さ》され、命をなくした。犯人は見つかっていない。 ぼくの隣人《りんじん》は玄関の床板《ゆかいた》をじっと見つめた。自分の立っているところが犯行の現場であることに気付き、ぼくはあわてて一歩、後退した。詐欺《さぎ》だ。伯父からはそんな話、一度も聞いていない。事件のあった当時、といってもつい最近のことだが、多くの警察がこの家に来て、たいへんな騒《さわ》ぎだったらしい。「彼女の子猫、突然《とつぜん》、雪村さんがいなくなって、きっと困っているでしょうねえ。餌《えさ》をあげる人もいなくて。いやだわ、ゴミをあさりはじめたらどうしましょう」 彼女は帰り際《ぎわ》、そう言った。 ぼくには子猫《こねこ》が困っているようには見えなかった。毎日だれかが餌《えさ》をあげているかのように健康そうだった。家のごみ箱に、中身の無いキャットフードの缶《かん》が捨てられていた。つい最近だれかが開けたらしい。知らない間にだれかが家へ上がり込んで、餌をあげたのだろうか。 子猫はまるで、雪村が死んでしまっていなくなったことに気付いていないようだった。白く短い毛をなめ、縁側《えんがわ》に寝《ね》そべり、ずっと以前からそうしていたであろう平和そうな日常を続けていた。それは、子猫が鈍感《どんかん》であるのとは、少し違《ちが》うように思えた。 眺《なが》めていると、しばしば子猫は、そばにだれか親しい人がいるかのように振《ふ》る舞《ま》った。最初のうち、気のせいかと思っていたが、それにしては不自然な行動が多かった。 何もない空中に向かってあどけない顔をあげ、耳をそばだてる。見えない何かからなでられているように、目を細めて気持ち良さそうな声を出す。 よく猫は、立っている人間の足に体をこすりつけるが、その子猫は何もない空間に体を押《お》しつけようとして、空振《からぶ》りして「あれ?」といった感じで転びそうになっていた。そして、何か見えないものを追いかけるように、小さな鈴《すず》を鳴らして家中を歩き回った。まるで、歩く飼い主を追いかけているようだった。子猫は、今でも雪村が家にいることを信じて疑《うたが》っていないようだった。むしろ、新しく入居したぼくの方を不思議そうに見た。 最初、子猫はぼくの出す餌を食べなかったが、じきに、食《しょく》するようになった。そこに至ってようやく、ぼくは家に住む許可を子猫からもらった気がした。 ある日、学校から家へ戻《もど》ると、子猫が居間で寝そべっていた。子猫は元飼い主の古着がお気に入りで、いつもそれをベッドにして眠《ねむ》っていた。そのぼろぼろになった服を手に取ろうとすると、くわえて逃《に》げ出すくらい大事なものらしかった。 居間には、雪村サキが残していった小さな木のテーブルや、テレビがあった。彼女は小物を集めるのが趣味《しゅみ》だったらしく、ぼくがこの家に来た時には様々な形の猫の人形がテレビの上や棚《たな》に並んでいた。しかし、それらはすべて片付けた。 朝、テレビを消し忘れていたらしい。だれもいない部屋《へや》の中に時代劇が流れていた。しかも『大岡越前《おおおかえちぜん》』の再放送である。テレビの電源を消して、いったん二階の自室へ向かった。 雪村が寝室《しんしつ》としていた部屋はそのままにして、ぼくは別の部屋を自室としていた。殺された人の部屋というのは、使うことをためらわれるものがあった。玄関《げんかん》を通る度《たび》に、その場で死んだ雪村のことを考えた。彼女が刺《さ》された時、目撃者《もくげきしゃ》はいなかったが、言い争いをする彼女の声を、近所の人は聞いたという。事件が起こって以来、近所を警察が見回りするようになったそうだ。 暗室にあった大量の写真を眺めていると、憂鬱《ゆううつ》な気持ちになった。雪村は町の人間を撮影《さつえい》しながら、歩きまわっていたらしい。彼女の写真には、町の人の笑顔《えがお》や、喜びの一瞬《いっしゅん》が切り取られていた。人々の幸福感があふれてくるような写真だった。そういったものを撮《と》ることができたのは、彼女の感覚がその方向に向けられていたからに違《ちが》いない。光を正視することのできる人だったのだろう。ぼくとは、大違いだ。 食事にしようと思った。一階へ下りて、台所でごはんをよそっている時、ようやく気付く。居間の方から、消したはずのテレビの音が聞こえてくる。いつのまにか電源が入っていた。不思議だった。テレビが壊《こわ》れているのだろうか。子猫《こねこ》が寝《ね》そべっているだけの居間に、『大岡越前』が流れていた。 その現象は、その日だけにとどまらなかった。次の日も、その次の日も、『大岡越前』の時間になると、ぼくのいないうちに、いつのまにかテレビの電源が入っていた。チャンネルを変えていても、目を離《はな》したすきに、置いていたリモコンの位置がかわり、時代劇へ戻《もど》っている。テレビの故障かと思った。しかし、まるでだれかが家の中に潜《ひそ》んでいて、ぼくがいないのを見計らってはテレビをつけているような不自然さがあった。時間になると、常に子猫が居間で寝ていた。まるで母親にくっついた子供のような顔で寝転んでいた。毎日『大岡越前』をかかさずに見ている、子猫に慕《した》われた何者かの存在を感じた。 以来、本を読んだり、食事をしている時、だれかに見られているような気がした。しかし後ろを振《ふ》り返っても、子猫がうたたねをしているだけだった。 いつもカーテンや窓は閉めているよう心掛《こころが》けていた。開け放した窓から、軽《かろ》やかな小鳥のさえずりが間違《まちが》って聞こえたりすると、耳をふさぎたくなる。ぼくに心の平穏《へいおん》を与《あた》えてくれるのは、薄暗闇《うすくらやみ》の無関心さと、細菌《さいきん》の生きることを許容する湿《しめ》った空気だけだ。しかしふと気付くと、いつのまにかカーテンや窓が開けられている。まるでだれかが、「窓を開けて風通しをよくしないと不健康!」と注意しているようだった。不健康な部屋《へや》の中に、殺菌《さっきん》作用のある温かい太陽の光と、からからに乾《かわ》いた新品のタオルのような風が入る。家中を見てまわったが、自分以外には、だれもいなかった。 ある時、ぼくはツメキリを探していた。家のどこかにあるはずだと思い、自分では購入《こうにゅう》していなかったのだ。雪村だって、爪《つめ》を切らなかったわけではあるまい。「ツメキリ、ツメキリ……」 声を出しながら探していて、ふと気がつくと、テーブル上にいつのまにか、ツメキリが置かれていた。さきほど見た時は、存在しなかったものだ。いつまでたっても探し出すことができないでいた新入り大学生を見かねて、ツメキリの場所を知っていた何者かが取り出して置いてくれたようだった。そんな物の場所を知っている人物など、ぼくにはただ一人しか思い浮《う》かばなかった。 まさか、そんな馬鹿《ばか》な、と思いつつ、何時間も考え込んだ。そして、殺されたはずの人間が、実体の無い何かとしてこの世にとどまり続けることを考えた。また、その意志をくみ取り、前の住人の立ち退《の》き拒否《きょひ》を黙認《もくにん》することにした。[#ここから7字下げ]2[#ここで字下げ終わり] 大学の食堂、みんなから離《はな》れたところで一人、食事をしていた。いっしょに食事をするようなわずらわしい友人を作るつもりは、最初のうち、なかった。 そんな時、不意にぼくの前の席へ、男が座《すわ》った。知らない顔だった。「きみ、あの殺人のあった家に引っ越《こ》した人だよね?」 それが村井《むらい》だった。ぼくよりも一年上の先輩《せんぱい》にあたる。最初のうち、彼の質問に適当な返事をしていたが、悪い人間には見えなかった。人懐《ひとなつ》っこい性格で、交遊関係も広く、だれとでもすぐに打ち解ける人間のようだった。 その日から、ぼくらの付き合いがはじまった。といっても、友人というほどのものではない。ただ買い物へ行ったり、所用で駅の方へ行く時など、彼の愛車であるミニクーパーに乗せてもらうだけだった。水色の可愛《かわい》らしい形をした車体は、道に停《と》めていると人目を惹《ひ》いた。 村井は人望もあり、みんなに慕《した》われていた。ぼくがお酒を飲まなくても、強要することもなかった。彼はよく、多くの人に囲まれて談笑をはじめた。そんな時、ぼくはそっと席を外した。気付く人はいない。みんなの会話に加わるような気分はわかなかった。少し離れたところから会話を聞いているよりは、ただ一人で大学構内のベンチに座り、植木の根元を眺《なが》めている方が落ち着いた。だれかと大勢でいる時よりも、一人でいる時のほうが安らかになれる。 村井の友人たちはエネルギーにあふれていて、よく笑っていた。お金を持っていて、行動力があり、活動的だった。彼らはまるで、ぼくとは違《ちが》う世界の住人のようだった。 自分は彼らに比べ、もっと下のレベルの生き物であるように感じていた。実際、アイロンがけされていないみすぼらしい服装と、すぐに言葉がつっかえる癖《くせ》は彼らの笑いの対象となっていた。その上、ぼくは必要な時にしか発言しなかったから、無口で無感動な人間だと思われているようだった。 ある時、彼らは、ちょっとした実験を行った。それは大学構内にあるA棟《とう》ロビーでのことだった。「すぐにもどってくるから、きみはここで待っていてよ」 村井を含《ふく》めた彼らは、そう言うとどこかへ去って行った。ぼくはロビーに据《す》え付けられたベンチに座り、本を読みながら彼らが戻《もど》ってくるのを待った。まわりを学生たちが騒々《そうぞう》しく歩きまわっていた。一時間待ったが、だれも帰ってこなかった。不安になったが、さらにもう一時間、読書を続けた。 そこに村井だけが戻ってきた。複雑そうな顔でぼくを見て言った。「きみは、みんなにからかわれていたんだよ。いくら待っても、だれも戻ってこない。遠くからきみを観察するのにあきて、みんな、もうずっと前に車で行ってしまったよ」 ぼくは、ああそうですか、とだけ答え、本を閉じると帰るために立ち上がった。「悔《くや》しくないの? みんな、きみが不安そうにしているのを、楽しんで観察していたんだよ」と、村井。 しばしばあることなので、半ばどうでもよく感じていた。「こういうことには、もう慣れましたよ」 彼を残して、ぼくは足早にその場から立ち去った。背中に村井の視線を感じた。 彼らのそばに自分がいてはいけないような気は、最初からしていた。みんな、ぼくがどんなに手を伸《の》ばしても得られないさまざまなものを持っていた。そのため、彼らと言葉を交《か》わした後、ひそかに絶望感を味わったし、憎悪《ぞうお》に近い感情を抱《いだ》いた。 いや、彼らに対してだけではない。何もかもを憎《にく》み、呪《のろ》った。特に、太陽とか、青空とか、花とか、歌とか、そういったものへ重点的に呪詛《じゅそ》をつぶやいた。明るい顔をして歩くすべての人間は、すごく頭の悪い馬鹿《ばか》な奴《やつ》なのだと思いたかった。そうやって全世界を否定し、遠ざけておくことで、唯一《ゆいいつ》、安らかになれた。 だからぼくは、雪村の撮影《さつえい》した写真を驚異《きょうい》に思う。彼女の撮《と》った写真にはすべてを肯定《こうてい》して受け入れるような深さがあった。ぼくの通う大学や家を写した写真からも、池や緑地公園の写真からも、光があふれてきそうな力を感じた。子猫《こねこ》の写真や、子供たちがピースした写真から、彼女のやさしさが伝わってきた。雪村の顔をぼくは知らない。しかし、彼女がカメラを構えると、それを発見した子供たちが自分を撮ってと殺到する。そんな光景が想像できるようだった。 もしもぼくが、彼女と並んで同じ景色《けしき》を見ても、瞳《ひとみ》の捉《とら》えるものはまったく別のものだろう。雪村の健全な魂《たましい》は世界の明るい部分を選択《せんたく》し、綿菓子《わたがし》のように白くてやわらかい幸福なフィルターで視界を包み込んでしまう。ぼくの心では、そうはいかない。光に弾《はじ》き出された影《かげ》の方ばかり見えてくる。世界が冷たく、グロテスクなものに感じられる。世の中、うまくいかない。ぼくのような奴ではなく、彼女のような人が死ぬ。 大学で味わったひどい気分も、家へもどり、寝《ね》ている子猫を裏返したりして遊んでいるうちに消えた。やがて、村井のことを考え出した。ぼくを放置して、村井の友人たちはどこかへ行ってしまった。しかし、彼は戻ってきたじゃないか。 そのことがあってからも、なんとなく村井とは縁《えん》を切らないでおいた。以前と変わらず、いっしょに食堂で食事し、彼の車で出かけた。ただひとつ、変わったことがある。それは、彼がみんなに囲まれて談笑しはじめ、ぼくがそっとその場を離《はな》れた時のことだ。彼も静かにみんなから離れ、人込みから遠ざかるぼくを追いかけてくるようになった。「今度、きみの家へ遊びに行ってもいいかい?」 村井のその提案を、ぼくは断った。あまり人を家へあげたくなかった。しばしば発生する不思議な現象を見られて、彼が驚《おどろ》いてぼくを避《さ》けるのではないかという不安もあった。 朝になるとかならず、カーテンが開いている。前の住人の仕業《しわざ》だった。 部屋《へや》に日光が入らないように、北向きの部屋を選んで使っていた。それでも、ぼくを外界から守る布切れが開かれてしまえば、部屋はだいぶ明るくなる。残念ながら、カーテンを閉め、薄暗《うすぐら》い家の中で生活する計画を放棄《ほうき》しなくてはいけないようだった。いくら部屋から光を追い出しても、しばらくすると、いつのまにかカーテンと窓は開けられている。何度も同じことが繰《く》り返され、ぼくはあきらめた。どうやら前の住人は、部屋に光を入れて空気を入れ替《か》えることに関して、ぼくとは相容《あいい》れないこだわりを持っているようだ。 夜、布団《ふとん》に入って目を閉じていると、廊下《ろうか》をだれかが歩く気配がした。しんとした暗闇《くらやみ》の中、床板《ゆかいた》のきしむ音が近付く。向かいの部屋で扉《とびら》の開く音がすると、気配はその中に消える。以前、雪村サキが寝室《しんしつ》としていた部屋だった。 不思議と、それらの現象を恐《おそ》れたりはしなかった。 雪村の姿《すがた》は見えなかったが、自分の知らない間に食器が洗われていたり、本のしおりが進んでいたりする。長い間、掃除《そうじ》をしていないはずだったがちりひとつ見当たらないのに気付く。きっと、ぼくの見ていない間に、彼女が箒《ほうき》で掃《は》いて掃除をしているのだろう。はじめは気配を感じる度《たび》に戸惑《とまど》っていたのも、やがてなれると、当たり前になった。 乾燥《かんそう》した畳《たたみ》に子猫《こねこ》が寝転《ねころ》び、目を細くする。お気に入りの古着に顔をうずめ、眠《ねむ》りこける。子猫はしばしば、見えない何かに向かってじゃれついていたが、きっと遊び相手は雪村にちがいなかった。子猫が見上げている方向を注意深く見たが、ぼくには何も見えなかった。 好みに関するちょっとした対立はしばしば起きた。引っ越《こ》しをした当初、テレビの上には雪村の飾《かざ》っていた小さな猫の置物があった。テレビの上に物を飾る行為《こうい》は、ぼくにとって断固として拒否《きょひ》したいことだった。よって、置物は片付けた。しかしそれも、いつのまにかテレビの上に舞《ま》い戻《もど》っている。何度、片付けても、次の日にはテレビの上にあった。「テレビの上に物を置くと、振動《しんどう》で落ちたりするし、見ていて気が散るじゃないか!」 言っても無駄《むだ》だった。 好きな音楽CDをかけていたところ、彼女はその曲が気に入らなかったらしい。ぼくがトイレへ行っていたすきに、彼女がコレクションしていた落語のCDに入れ替《か》わっていた。渋《しぶ》い趣味《しゅみ》だ。 そのうち、朝、包丁《ほうちょう》の音で目が覚め、台所へ行くと朝食ができあがっているようになった。学校から帰宅し、二階の自室へ鞄《かばん》を置いた後、居間でくつろごうとすると、湯気のたつコーヒーが用意されている。少しずつ、雪村の気配は色彩を増していった。 しかし、ぼくの感じ取れる雪村の存在は、いつも結果のみだった。目の前でコーヒーが用意されることはなく、目を離《はな》したすきに変化は起きていた。台所の棚《たな》から居間のテーブルへ、どのようにマグカップが運ばれてきたのか疑問に思う。空中をただよってきたのか、転がってきたのかはわからない。重要なことは、ぼくのためにコーヒーをいれてくれるという意志だ。 また、彼女の動ける範囲《はんい》は、どうやら家と庭だけらしい。ゴミの日になると、ビニールにまとめられた生ゴミの袋《ふくろ》が玄関《げんかん》に出ていた。外にあるゴミ捨て場まで出て行くことができないようだ。 ある日、空っぽになったコーヒーのビンがテーブルに出ていた。「あ、買っておけってことか」と思い、ぼくはごく当たり前に彼女の意志をくみ取り、買い物をした。 雪村は幽霊《ゆうれい》なのだろうか。それにしては、それらしいことなど一度もない。だれかを怖《こわ》がらせるわけでもなく、殺された恨《うら》みをつぶやくわけでもない。半透明《はんとうめい》の姿を見せるわけでもなく、ただ淡々《たんたん》と、以前からそうしていたであろう生活をひっそりと続けているようだ。幽霊というよりも、たんに成仏《じょうぶつ》していないだけ、と言った方が正しいかもしれない。 見えないけど確かにそばにいる雪村の存在は、暖かく、心にそっと触《ふ》れるものがあった。しかし、彼女や子猫の存在は、だれにも言わずにいた。 ある時、村井の車で買い物へでかけた。水色の丸い車体は快調に走り、やがていつか伯父《おじ》と見た池が窓の外に広がっていた。ぼくはよく、その池のほとりを歩いた。それは散歩のためではなく、たんに大学と家をつなぐ通路だったせいだ。自分の爪先《つまさき》以外のものを見て歩くことはめったにないので、それまで、注意深く池を眺《なが》めたことはなかった。「この池で大学生が溺《おぼ》れたという話を聞きました」 ぼくのつぶやいた言葉に、村井ははっとしたように身をこわ張らせた。「それ、おれの友達だよ」彼はハンドルを握《にぎ》り、前方に目を向けたまま、死んだ友人のことを話しだした。「そいつとは、小学生時代からの親友だった……」 車の速度が次第《しだい》に落ちて、やがて道の脇《わき》に停車《ていしゃ》する。彼の意識ははるか遠く、生きていた頃《ころ》の友人を見ているようだった。「彼と過ごした最後の日、ぼくらは喧嘩《けんか》してしまったんだ。ちょっとした、酒を飲んだ時のいざこざだった。その夜、知り合いたちと盛り上がって、油断して飲みすぎたんだ。酔《よ》った勢いで、おれはあいつにひどいことを言って傷つけてしまった。次の日の昼、池に浮いているあいつが発見された。警察の話では、早朝に、酔って池に転落したそうだ。溺死《できし》だった。謝《あやま》りたくても、彼はもういない。本当に、もし、できることなら、もう一度会って話をしたい……」 村井の目は赤くなっていた。「大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」 彼は目を閉じ、両手でそっと顔を覆《おお》った。「ちょっと、コンタクトがずれただけさ……」嘘《うそ》をついて、彼は言葉を続ける。「死んだおれの友達、きみに似ていたよ。外見はまったく違《ちが》うんだけど……。あいつも、人間関係でひどい目にあった時、『こんなことには慣れている』と、あきらめたような顔をして言ったんだ。このひどい世の中がこれ以上よくはならないと言いたげだった……」 彼がお酒を他人に強要しないのも、そのせいだろうか。雪村が捨てずにとっておいた古新聞、たしか家に残されていた。事故があった次の日の新聞を探してみようかと思った。何か載《の》っているかもしれない。 後日、池のほとりを歩く時、注意深く彼の亡《な》くなった友人を探した。雪村のように、今でもいたりして、と思っていた。 ある時、学校からもどると、洗濯物《せんたくもの》が干してあった。ぼく自身には、洗濯をした記憶《きおく》がない。雪村が洗濯をして、庭の物干し台に干してくれたのだ。ぼくは縁側《えんがわ》に腰《こし》を下ろし、風にゆれる洗濯物をながめた。明るい日差しの中、白いシャツが光っていた。 庭に作られた小さな畑にいつのまにか芽が出ていて、大きく生長していた。雪村が人知れず家庭菜園を続けていたことに、長い間、ぼくは気付かなかった。庭の草木など、たった今はじめて見たような気がした。 よく観察すると、庭の植物は水滴《すいてき》を滴《したた》らせ、地面にできた水溜《みずた》まりは青空を映していた。雪村がホースをつかって水をやったのだろう。ぼくは知らなかったが、それまでも頻繁《ひんぱん》に、そうしていたにちがいない。 彼女は植物がすきだった。庭から摘《つ》んできた草花が、しばしば花瓶《かびん》にいけられていた。気付くと、ぼくの部屋《へや》の机にも、名前のわからない花が飾《かざ》られている。以前なら、よけいなことを、と思ったかもしれない。花など、ぼくには憎《にく》しみの対象でしかなかった。しかし不思議と、雪村が花瓶に飾るのを想像し、それを許容することができた。 すでに死んでいるというのに、いったい、何やってんだか。彼女はずいぶんと暇《ひま》らしく、時々トラップを仕掛《しか》けてぼくをおちょくった。いつのまにか靴《くつ》の紐《ひも》を固結びにして困らせたり、まだ六月が終わっていないのにカレンダーを七月にしていたり、学校へ持っていく鞄《かばん》にそっとテレビのリモコンを入れたりした。意味不明だ。 家でカップラーメンを作ったところ、家中の箸《はし》およびフォークを彼女に隠《かく》されたことがある。三分たって箸がないことに気付き、ぼくはあせって家中を探した。「はやく箸を見つけないと、麺《めん》が伸《の》びてしまう!」というせこい窮地《きゅうち》に立たされた。結局、ラーメンは二本のボールペンを箸がわりにして食べた。 そんな時、子猫《こねこ》がそばに座《すわ》って、濁《にご》りのない瞳《ひとみ》でぼくを見ていた。途端《とたん》に、自分はいったい何をやっているのだろう、という気持ちになり、人間として落ち込んだ。そしてまた、きっとすぐ近くに雪村がいて、今、おかしくて笑っているにちがいないという確信を抱《いだ》いた。子猫と彼女はほとんどいつもセットのようだった。彼女の姿は見えないので、よくはわからなかったが、子猫はできるだけ飼い主の後を追いかけているようだ。だから、見えない雪村の位置は、子猫が知らせてくれた。雪村における子猫の存在は、猫の首についた鈴《すず》と同じようなものだった。「きみのやることは、幽霊《ゆうれい》らしくない。たまには、おどろおどろしいことでも、やったらどう?」 子猫のいるあたりを向いて、幾分《いくぶん》、意地悪く言った。 次の日、テーブルの上に、彼女のものらしい恐怖《きょうふ》の書き置きがあった。紙に、『痛いよう、苦しいよう、さみしいよう……』という小さな文字をびっしり書こうとして、飽《あ》きて途中《とちゅう》でやめたようだ。紙面が半分も埋《う》まっていない上に、最後の言葉が『わたしもラーメン食べたかったよう』だった。ともあれ、それは、彼女がぼくにあてたはじめての手紙で、捨てずに残しておこうと思った。 その後も、見えない雪村に対して何か話しかけるわけではないのだが、不思議と通じ合ってしまった感があった。 毎週、月曜日の深夜になると、ぼくの知らない間に台所の電気がついて、ラジオの電源が入っていた。どうやらこの家では、台所がもっとも電波が入りやすいようだった。毎週その時間は、雪村の好きなラジオ番組をやっていた。 それはなかなか寝付《ねつ》けない夜のことだった。外は風があるらしく、耳をすますと木の枝のさわぐ音が聞こえる。夜の空気に、どこからか人の声。ラジオの音だと気付き、起き上がって階段を下りる。白い蛍光灯《けいこうとう》の明かりが目に入り、テーブル上に置かれた小さな携帯《けいたい》ラジオを見つけると、ぼくはわけのわからない安心感に包まれた。 雪村がラジオを聴いていた。子猫《こねこ》はいない。お気に入りの古着をベッドにして夢を見ているのだろう。しかし、子猫がいなくても、彼女が確かに、そこでラジオを聴いていることがわかった。スイッチが入っていることを示すラジオの赤いランプ。軽く引かれた椅子《いす》。 実際に、姿が見えたわけではない。しかし、椅子に腰掛《こしか》けて頬杖《ほおづえ》をつき、足をぶらぶらさせながらお気に入りのラジオ番組に耳をかたむける彼女が、一瞬《いっしゅん》、見えたような気がした。 ぼくは隣《となり》に腰掛けた。しばらく目を閉じて、スピーカーから流れる音に聴き入る。外の風はいよいよ強くなり、まるで雪山に閉じ込められたかのような、しんとした気持ちになる。彼女がいるあたりにそっと手を伸《の》ばしてみた。何もないただの空間。だが、温かい何かを感じた。雪村の体温かもしれない、と思った。[#ここから7字下げ]3[#ここで字下げ終わり] 六月の最後の週のことだった。その日、午前中はよく晴れており、太陽を遮《さえぎ》るようなものはなかった。雨が降り出したのは夕方のことで、ぼくはずぶ濡《ぬ》れになりながら大学から帰ることになった。当然、傘《かさ》を持って家を出ていなかったが、途中で買うまでもないと思っていた。濡れて困るものなど、持っていなかった。 いつも通る池のほとりにはだれもいない。歩道の脇《わき》に、一定の間隔《かんかく》をあけて木のベンチが、寂《さび》しそうに池の方に向けて設置されている。雨にけぶる池の向こう岸はかすみ、水面《みなも》と森との境に靄《もや》がかかっていた。生物の気配はなく、ただひそやかに雨音だけが池と森を支配していた。どこか現実を超《こ》えたその光景に目を奪《うば》われ、ぼくは雨の中、しばらくじっと水面を眺《なが》めていた。初夏だというのが嘘《うそ》のように寒かった。 目の前に広がる静かな池が、村井の友人を連れ去った。灰色の空を映した大量の水。いつのまにか吸い込まれるように、ぼくは池に向かって歩いていた。低い柵《さく》に遮《さえぎ》られるまで、そのことに気付かなかった。 村井の友人が今でもこの池のそばにいるんじゃないかという思いが、消えずに残っていた。遺体《いたい》は回収されたという。でも、雪村のような存在になって、まだこの池で浮《う》いたり沈《しず》んだりを繰り返しているのではないか。もっとよくこの辺りを探してみる価値があると考えていた。人間の目には見えなくても、ひょっとすると子猫《こねこ》なら探し出すことができるかもしれない。村井は、死んでしまった友人と話をする必要がある。ぼくはそう思った。いつか、ぼくらは子猫をつれて、ここへ来なくてはならない。 池を離《はな》れ、家へ向かって歩き始める。おそらく家へもどると、玄関《げんかん》にバスタオルが用意されているだろう。彼女は、ぼくが濡《ぬ》れて帰ってくることを予想し、乾《かわ》いた服を出して待っているかもしれない。体が暖まるような熱いコーヒーをいれるかもしれない。 わけのわからない切なさに襲《おそ》われる。この生活がいつまで続くのかという問題を考える。いつか終わりがやってくる。彼女はそのうち、行ってしまうのだろう。やがてだれもが帰っていく場所へ。では、どうして今すぐにそうしないのか。絶命した瞬間《しゅんかん》にそうしなかったのか。後に残される子猫が心配だったのだろうか。 警察の話では、雪村を刺《さ》したのは強盗《ごうとう》だということだ。犯人はまだ見つかっていない。時々、警察の人間が家へやって来て、話をして帰っていく。彼女は明るくだれにでも好かれていた反面、同世代の親しい人間はこの地方にはいなかったそうだ。知り合いの犯行というわけでもなく、ただ不幸にも、通り魔《ま》的に、家へやってきた強盗に襲われてしまったらしい。それは、雷《かみなり》の直撃《ちょくげき》を受けて死んだり、飛行機事故で死んだりするのと同じ、やるせない偶然《ぐうぜん》だったのだろう。 世の中には、絶望したくなるようなことがたくさんある。ぼくも、村井も、それに対抗《たいこう》する力はなく、ただはいつくばって神様に祈《いの》ることしかできない。目を閉じて耳をふさぎ、体を丸めて悲しいことが自分の上を通り過ぎるのを待たなくてはいけない。 ぼくは雪村のために何かできるだろうか。 考え事をしながら家へたどり着き、玄関に置かれていたバスタオルを受け取る。乾いた服に着替《きが》え、湯気の立つコーヒーを口に含《ふく》んだ時、はじめて頭痛がすることに気付いた。ぼくはすっかり風邪《かぜ》をひいていた。 二日間、布団《ふとん》の中ですごすはめになった。意識が朦朧《もうろう》とし、頭の中に鉄球が入っているような重い痛みに苦しんだ。体中の筋肉が水を吸った綿のようになり、その二日間、ぼくは世界で最も鈍重《どんじゅう》な生物と化した。 しばしば、子猫《こねこ》が寝込《ねこ》んでいるぼくの上に飛び乗った。布団の上から子猫の小さな四本足を感じ、鳴き声を聞くと、かすかすになりかけていた心がそっとやわらいだ。子猫はもう、最初に会った時と比べて、子猫とは呼べないくらい大きく成長していた。 雪村が看病してくれた。眠《ねむ》りから覚めると、額には濡《ぬ》れたタオルが載《の》っていた。枕《まくら》のそばに水の入った洗面器があり、水差しとバファリンが置かれていた。 立ち上がる気力が出ず、ただ瞼《まぶた》を下げて眠りに落ちるしかない。まどろんでいると、雪村の歩く気配を感じた。階下でおかゆをつくる彼女、階段をあがってくるかすかな音。それについてまわる鈴《すず》の音《ね》。子猫の首についているやつだ。彼女がぼくのすぐそばに腰《こし》をおろし、じっとぼくの寝顔《ねがお》を見ていることもわかった。やさしげな視線を感じた。 三十九度の高熱の中で、夢を見た。 雪村と子猫とぼく、二人と一|匹《ぴき》で池のほとりを歩いている。空は高く深い青色で、森の木々が背の低いぼくらを圧倒《あっとう》するように立っていた。二人と一匹は太陽の光を全身で受け止め、レンガの道にくっきりと三つの濃《こ》い影《かげ》ができた。池は鏡のように澄《す》み渡《わた》り、水面《みなも》の裏側《うらがわ》にもうひとつ、精密に複製された世界が見えた。一歩あるくごとに、空を飛べるんじゃないかと思えるほど、軽い体を感じた。 雪村は体に似合わない大きなカメラを首からぶらさげて、いろんなものを撮《と》っていた。ぼくは彼女の顔も、身長も知らなかった。しかし夢の中の彼女は、以前からずっと知っていたような顔で、ぼくはそれが雪村に間違《まちが》いないことを悟《さと》っていた。彼女は早足で歩き、ぼくをせかす。もっといろんな物が見たい、写真に収めたい、とでも言うような、純粋《じゅんすい》な好奇心《こうきしん》と幼い冒険心《ぼうけんしん》。 人間たちから少し遅《おく》れて、子猫が小さな歩幅《ほはば》で一生|懸命《けんめい》追いつこうとする。風が心地好《ここちよ》く、ピンとした子猫のヒゲがゆれる。 太陽が池の水面に反射し、宝石をばらまいたように輝《かがや》く。 目が覚めるとそこは真っ暗な自分の部屋《へや》で、車が排気《はいき》ガスを吐《は》きだす音が外から聞こえてきた。時計《とけい》を見ると夜中、額《ひたい》を冷やしていたタオルがかたわらに落ちていた。 たった今、見た夢の、あまりの幸福さに、ぼくは泣き出してしまった。雪村が生きていたらいいのに、という意味で悲しいのではない。 絶対に見てはいけない夢だった。どんなに手をのばして望んでも、指先には触《ふ》れることのできない世界。そこは光にあふれているが、残念ながらぼくはそこに受け入れられない。布団《ふとん》に上半身を起こし、頭を抱《かか》え、何度も嗚咽《おえつ》をもらした。涙《なみだ》がぽろぽろ落ちて、布団に吸い込まれた。雪村や子猫と暮らすうちに、いつのまにか変化してしまっていたらしい。普通《ふつう》の人と同様に、幸福な世界で生きていけるんじゃないかと、勘違《かんちが》いしていたようだ。だから幸福な夢を見てしまう。目が覚めて現実に気付かされ、耐《た》えきれず胸をかきむしる。そうならないために、そんな世界を敵視し、憎《にく》み、自分を保っていたというのに。 いつのまにか部屋の扉《とびら》が開いており、子猫がかたわらでぼくを見上げていた。おそらく雪村もそばにいて、弱気な病気の大学生を興味深げに眺《なが》めている。なぜそんなにへこんでいるの? 彼女が首をかしげているような気がした。「だめなんだ。生きられない。がんばってみたんだけど、どうにもうまくいかなかったんだ……」 雪村が心配そうな顔をして、そばに座《すわ》った。見えないが、そう感じた。「子供のころ……、今でもほとんど変わらないけど、ぼくは人見知りの激しい子だった。親戚《しんせき》たちが集まるような時でも、ぼくはだれともしゃべらなかった。話すのが、そのころから下手《へた》だったんだよ。弟がいるんだけど、彼はそんなことなくて、親戚とも楽しくしゃべっていた。彼はみんなから好かれていて、可愛《かわい》がられていた。うらやましかった。自分もそうなりたかったよ……」 でも、だめだった。無理だったのだ。どんなにがんばってみたところで、弟のようには振《ふ》る舞《ま》えなかった。みんなに好かれたいと願うには、あまりにも不器用すぎた。「綺麗《きれい》な叔母《おば》さんがいて、それは父の妹だったんだけど、ぼくはその人のことがすきだった。叔母は弟がお気に入りで、よくいっしょに遊んだり、笑いながら話をしていた。ぼくも交ぜてもらいたかったけど、できなかった。いや、一度、二人の会話に加わったことがある。胸がどきどきした。叔母がぼくに話しかけてくれたけど、大人《おとな》が望むような子供らしい無邪気《むじゃき》な答えは、何もできなかった。そして彼女は、失望したような顔をしたんだ」 胸の奥《おく》に重い苦しみが宿《やど》り、息がつまりそうになる。雪村がじっとぼくの顔を見つめている。「自分では、一生|懸命《けんめい》やったつもりなんだ。でも、だめなんだよ。受け入れられない。この世界は、ぼくのような、器用になんでもできない人間が生きていくにはつらすぎるよ。それなら、何も見えない方がましだ。明るい世界を見せられると、逆に、あまりに薄暗《うすぐら》い自分の姿を浮《う》き彫《ぼ》りにされたようで、胸がつぶれそうになるんだ。そんな時、いっそのこと、目をえぐりだしたくなる」 頬《ほお》にぬくもりを感じた。すぐそばにいる人の、手のひらの温かさだということはわかっていた。でも、ぼくはそれを忘れようと努力した。 ある日、子猫《こねこ》がいなくなった。夕食の時間になっても姿が見えず、子猫がいつもベッドとして愛用していた雪村の古着だけが、ぽつんと放《ほう》り出されていた。ぼくはそれを折り畳《たた》み、部屋《へや》の隅《すみ》に片付けた。散歩に出かけたにしては、あまりにも帰るのが遅《おそ》すぎる。雪村は家と庭から出られないため、外へ探しに出かけることができない。いろいろなものを散らかして、子猫のいなくなったことに対する不安と困惑《こんわく》を表現していた。 迷子になったのだろうか。ただそれだけなら、どんなにいいだろう。ぼくは心配でたまらず、近所を探して歩くことにした。頭の中では最悪の結末を想像し、つい地面に横たわる冷たくなった子猫を探してしまった。猫や犬といった動物は、しばしば自動車によって平たい形状にされるものなのだ。 恐怖《きょうふ》が胸にこみあげてくる。ぼくの心の中で、思いのほか大きな部分を子猫が占《し》めていたことに改めて気付かされる。角を曲がる度《たび》、綺麗な地面を見て、ほっと胸をなでおろす。何度かそうしていると、後ろで車のクラクションが鳴った。振《ふ》り返ると、村井の乗ったミニクーパーがあった。運転席に駆《か》け寄る。「前の住人の残していった猫、ぼくが引き継《つ》いで飼っているのですが、いつまでも帰ってこなくて、心配で探しているんですよ。白い色のやつなんですけど、村井さん、どこかで見かけませんでしたか?」「きみがペットを飼っているなんて初耳だ。野良《のら》猫ならさっき見たけど茶色だった。白い色の子猫はまだ見てないよ」と村井。 ぼくが落胆《らくたん》したのを見かねたのだろう、彼も子猫の捜索《そうさく》を手伝《てつだ》うことになった。ひとまずミニクーパーをぼくの家に置き、歩いて近所を探しまわることにする。幸い、車を停《と》めるスペースはあった。ぼくらは懐中電灯《かいちゅうでんとう》を使って、夜まで子猫を求めて歩いた。 しかし見つからない。しかたなく、ぼくらは家に戻《もど》った。家の中は散らかっていた。雪村も心配していたに違《ちが》いない、つけたテレビを消さなかったり、出したものを放《ほう》り出してそのままにしていた。片付けられないでそのままにされた跡《あと》を見ると、何も手につかないといった感じだった。 村井を、家にあげるのははじめてだった。彼はときどき、ぼくの家に来たがったが、いろいろな理由をつけて断っていた。 二人で家にもどり、汗《あせ》にまみれた顔を洗っていると、お茶が二人分、居間のテーブルに用意されていた。村井はそれを不思議がった。「さっき見た時は、このお茶、なかったよね? きみはおれといっしょに洗面所にいた。だれがお茶を用意したの?」彼は首をひねった。「とにかく、今日はつかれた。ビールでも飲みたいな。景気づけにさ。きっと見つかるよ」 お酒の類《たぐ》いは置いていなかったので、歩いて八分の酒屋までぼくが買いに行くことになった。村井はつかれて一歩も動けないようだった。店で、買い慣れないお酒を選んでいる間、家で待っている彼のことを考えていた。雪村から不可解な現象を見せられ、悪いいたずらをされていなければいいが、と心配した。その夜は、ビールを飲んで解散した。「子猫、見つかったら、いつか触《さわ》らせてね」 村井は帰り際《ぎわ》にそう言った。彼が帰ると、ちらかり放題になっている家の後片付けをした。 子猫がいなくなると、雪村がどこにいるのかわからない。鈴《すず》の音《ね》が聞こえないのはさびしかった。家の中のどこかに隠《かく》れているんじゃないかと、彼女は考えたのだろう。テレビや棚《たな》の位置が動いていたのは、おそらく裏側を探したためだ。 二階に上がると、暗室の黒い幕が半開きのままになっていた。雪村はまだ、時折この暗室を使って何かをしているようだった。暗室の中まで子猫《こねこ》を探したらしい。いろいろな物の位置が動いていた。引き出しが開き、印画紙が光に当たって、使えなくなっていた。それは、幸福な夢を見てしまい、だめになってしまった大学生のことを連想させた。 子猫が帰ってきたのは次の日のことだった。 ぼくは、雪村の散らかした古新聞を片付けていた。彼女が捨てずにためていた新聞で、黄色く変色しかけていた。なぜ古新聞なんか、と思った。その時、庭のどこかから、子猫の鳴き声が聞こえたような気がした。 半ばあきらめかけていたので、たった今、聞こえた声が信じられなかった。もう一度、庭の方から確かに子猫の声。かすかに鈴《すず》の音《ね》。間違《まちが》いないという確信を得るとともに、呼吸ができないほどの嬉《うれ》しさを感じた。泣きたくなるくらい安堵《あんど》した。 サンダルをはくのも面倒《めんどう》で、縁側《えんがわ》から直接、はだしで庭へ下りる。見回したが、背の高い雑草と、家庭菜園の熟しかけているトマト以外は何もない。その時、塀《へい》の向こう側をまだ探していないことに気付いた。庭は塀に遮《さえぎ》られ、その向こうには木野という一家が住んでいた。うるさい自転車に乗る、あの木野さんだ。塀のどこかに穴があって、そこから向こうへ行ったきり、もどってこられなくなったのかもしれない。 隣《となり》の木野家を訪ねるまでもなく、直後に奥《おく》さんの方からうちへやって来た。彼女は腕《うで》に、子猫を抱《だ》いていた。 ぼくはその日の午後いっぱい、子猫のことや、雪村のこと、村井のことを考えた。子猫の鳴き声をかたわらで聞きながら、決心を固めた。『謝《あやま》りたくても、彼はもういない』 死んだ友人のことを思いながら、そう言った村井のことを思い出していた。 ぼくらは、あの池へ行かなければならない。そう強く感じていた。[#ここから7字下げ]4[#ここで字下げ終わり] 次の日。大学の終わる夕方、陽《ひ》は傾《かたむ》き空に赤みがさす。人通りが少なくなり、池のまわりにはぼく以外、だれもいなくなる。静かだった。風もなく、揺《ゆ》らぎもしない目の前の水面《みなも》が、一切《いっさい》の物音を吸い込んでいるように思えた。まるで一枚の巨大《きょだい》な鏡が広がっているように、池は沈黙《ちんもく》していた。 池の縁《ふち》に一定の間隔《かんかく》で立っている街灯《がいとう》が、明かりをつける。池へ飛び込もうとするような勢いで、枝葉をつけた森の木々。並んでいるベンチのひとつに座《すわ》っていると、ようやく村井が現れた。「こんなところへ呼び出して、どうしたんだい?」 彼は車を緑地公園の駐車場《ちゅうしゃじょう》へ停《と》め、歩いてここへ来ていた。体をずらしてスペースを空けると、彼もベンチに腰掛《こしか》けた。その時、ぼくの持ってきていた鞄《かばん》の中から、子猫《こねこ》の鳴き声が聞こえた。「子猫、見つかったみたいだね」と彼。 うなずいて、鞄を膝《ひざ》の上に載《の》せた。その鞄は、猫を入れるのに十分な大きさを持っていた。かすかに鈴《すず》の音がして、動物が鞄の内側をひっかくような、カリカリという音がする。「今日、村井さんを呼び出したのは、話をしたかったからなんです。ひょっとすると、信じてもらえないかもしれない。でも、この池で親友を亡《な》くしたあなたに、どうしても話しておきたいと思いました」 そしてぼくは、雪村や子猫の話をはじめた。大学へ入学し、伯父《おじ》の家に住みはじめたこと。殺されたはずの先住者が、まだ立ち退《の》いていなかったこと。昼間、ぼくがカーテンを閉めても、彼女がそれを許さなかったこと。子猫が、見えない彼女を追いかけ、彼女の古着を愛したこと。 辺りが暗さを増し、ぼくらは街灯の明かりの中、ほとんど身動きしなかった。村井は口を挟《はさ》まず、ただぼくの声を聞いているだけだった。「そんなことがあったのか……」話し終えると、彼は長い息を吐《は》いた。「それで、ただそれを報告するためだけにおれを呼び出したのか?」 村井が不機嫌《ふきげん》そうな声を出す。話を信じていないことは明らかだった。 ぼくは彼の目を見るように努力した。本当は目をそらし、今の話は冗談《じょうだん》だったと言いたかった。でも、何もかもを丸くおさめるということはできない。この間題を避《さ》けてはいけないと感じていた。「お隣《となり》の木野さんが、子猫を抱《だ》いてうちに連れてきてくれた後、急に、いろいろなことがひっかかって思えてきたのです。例えば、なぜ、雪村さんは、印画紙を感光させて、だめにしたのでしょうか」「雪村って、きみの話に出てきた、死んだはずの人間だね」「一昨日《おととい》、子猫のいなくなった日、家の中を雪村さんが散らかしていた。知らないうちに、いろいろな家具が動くってこと、よくあることでした。だから、すぐには気付かなかった。暗室のものを動かしたのは、いつも通り、彼女の仕業《しわざ》だと思っていました。でも、彼女がわざわざ印画紙をだめにするような不手際《ふてぎわ》をおかすでしょうか。印画紙の引き出しを開けたまま、暗室の幕を閉めていなかったのですよ。こうは考えられないでしょうか。暗室の中で、勝手のわからないだれかが何か探し物をしているうちに、光に当ててはいけない印画紙を出してしまった。そのだれかは、写真の知識もなく、印画紙のことなどわからない。見た目は普通《ふつう》の、白い紙ですからね。そんな時、突然《とつぜん》、家の住人が帰ってきて、ろくに片付けないまま、暗室を後にした。つまり、暗室のものを動かしたのは、雪村さんではなかったのではないか、そう思えてきたのです」「待ってくれよ。さっきから、雪村がどうとか言っているけど、幽霊《ゆうれい》なんて、きみの作り話なんだろう?」 彼は、その場の真剣《しんけん》な雰囲気《ふんいき》をなんとか崩《くず》そうと、笑いながら言った。しかし、池や森の静謐《せいひつ》な空気が、それを許さなかった。「村井さん、なぜ一昨日《おととい》の夜、ビールを飲もうと提案したのですか。それは、ぼくにお酒を買いに行かせて、家で一人になりたかったからではないですか。ぼくがお酒を飲まないということ、知っていましたよね。うちにアルコール類を置いていないこと、あなたは知っていた。ぼくにお酒を買いに行かせて、家の中を探す時間が欲《ほ》しかったのではないですか?」「なぜおれが、そんなことを?」「あなたにとって何か気になるものが、あの家の中にあったのでしょう。村井さんがあの夜、暗室で見つけ、持ち出したもの、それは、写真のフィルムですね。ぼくを外に出し、あなたは家の中で、探し物をしながら歩いていた。すると二階の一画に暗室がある。うまい具合に、日付を書かれて整理されたフィルムが、そこに保管されていた。あなたは目的の日のフィルムをすぐに見つけることができた」「見ていた人でもいるのかい?」「いたのですよ。ぼくがいない間、暗室で村井さんが目的のものを見つけた時、あなたの後ろには雪村さんが立っていたのです。あなたはその時、家の中に一人きりだと思っていたのでしょうが、本当はもう一人いたわけです。きっと彼女も、あなたの目的を測りかねたでしょう。でも、あなたが探したフィルムの日付を見て、彼女はぴんときた。そして、その写真を撮《と》った翌日の新聞を探した。昨日、彼女が片付けず、引っ張りだしたままにしていた新聞が、これです」 ぼくは古い新聞を取り出した。目の前に広がる大きな池で、前日の昼ごろ、池に浮かんでいる大学生が発見されたという記事。村井の友人の死亡記事だ。「酔《よ》っ払《ぱら》って、池に落ちたということで、この事件は収まりました。でも、本当は、村井さんがお酒を飲ませて、この人を池に突《つ》き落としたのですね。事件の前夜、あなたは彼と喧嘩《けんか》をした。そのいざこざが動機だったのではないですか」 彼の視線に、胸がつまるような息苦しさを感じる。唯一《ゆいいつ》の友人でもある彼に、こんな話をしなければいけない運命を呪《のろ》った。心を保護する粘膜《ねんまく》がやぶけ、血が滲《にじ》み出す。「証拠《しょうこ》はあるのかい」 ぼくは写真を取り出した。雪村の撮影《さつえい》したものだ。暗室に残されていたフィルムと、家の下見の時に手に入れていた写真を突き合わせた。その結果、なくなったフィルムに写っていた写真を推測して持ってきていた。 それは池を撮影した写真で、朝の光があまりに美しく、胸を焦《こ》がすような気持ちにさせられた。池のほとりに、可愛《かわい》らしい形をした車が駐車《ちゅうしゃ》され、それを主人公に見立てて雪村がシャッターを切ったのは明らかだった。「あなたが暗室から持ち出したフィルム、彼女はすでに現像して、焼いていました。しっかりと、村井さんの車が写っていましたよ。ナンバーまで読める。太陽の方角から、時間は早朝であることがわかる。酔った大学生が池に落ちた推定時刻の前後、そばに駐車していた車を、偶然《ぐうぜん》、撮影してしまったのですね。あなたは、写真に撮られたことを知った。そして、彼女が写真の意味に気付いて公表するのを恐《おそ》れた。友人との喧嘩は知り合いに見られていたし、友人がおぼれているのを助けもせずにそばで見ていたのかと聞かれると答えを返せない。なんとかして、車の写っているフィルムをうばいたい」 彼は何も言わず、ぼくを見ていた。「ここから先は、ぼくの思い過ごしかもしれませんが、聞いてください。村井さん、あなたはその日の朝、写真を撮《と》った彼女の後をつけた。住所を知り、数日後、機を見て家をおとずれる。玄関先《げんかんさき》で、刃物《はもの》を見せておどした。フィルムをうばうだけのつもりだったが、暴《あば》れて言うことを聞かなかったので、刺《さ》してしまった。サングラスかなにか、かけていたかもしれない。だから彼女は、あなたが暗室で不審《ふしん》な行動をとるまで、自分を殺した犯人の顔に気付かなかった」 ひどい気分だった。いつのまにか大量の汗《あせ》をかいていた。「彼女を刺した後、あなたは逃《に》げた。目撃者《もくげきしゃ》はおらず、つかまることはなかった。あの家に残された問題のフィルムが気掛《きが》かりだったかもしれません。でも、警察がフィルムに気付かないまま、彼女の死を強盗《ごうとう》の犯行であると断定した時、あなたはほっとした。もう、親友の死と自分をつなぐ写真について、気付く者は存在しないはずだった。無理をしてフィルムを手に入れる必要はなくなった。家のまわりは、警察が時折見回りをしていたので、勝手に中へ入って取ってくるような目立つ行動もできなかった。そんな時、あの家にぼくが引っ越《こ》した。最初は、たんなる興味からぼくに近付いたのかもしれない。しかし、もしもぼくの家に入り込むことができて、中を自由に探しまわることができたら、その時はフィルムを探し出そう。そう考えていたのではないですか。フィルムの意味に気付かれる可能性は低いかもしれないが、やはりあなたは、自分の犯行の跡《あと》を完全に消すという誘惑《ゆうわく》を拒否《きょひ》できなかった」 口がからからに渇《かわ》いていた。「村井さんが、亡《な》くなったお友達について、本当はどんな感情を持っていたのか、ぼくはわかりません。少なくとも、車の中であなたに話を聞いた時、本当に悲しんでいるように見えました。もし、あなたが後悔《こうかい》しているのであれば、ぼくは自首をすすめようと思い、今日こんな話をしたのです」「やめてくれ。とにかく、きみは考えすぎだよ……」 彼はそう言うと立ち上がりかけた。 膝《ひざ》の上に載《の》せた鞄《かばん》の中から、子猫《こねこ》の鳴き声が聞こえる。「村井さん、いっしょに猫を探して歩いてくれた夜のこと、おぼえていますか。ぼくはあなたに、こう伝えましたね。『前の住人の残していった猫、白い色のやつなんですけど、どこかで見かけませんでしたか?』と。するとあなたは、こう答えた。『野良《のら》猫ならさっき見たけど茶色だった。白い色の子猫はまだ見てないよ』」「それがどうかしたの?」「ぼくも、すぐには気付きませんでした。飼っている猫、ずいぶん成長したのに、まだ心の中では『子猫』と呼んでいたものですから。でも、その時はたんに、うちの『猫』と言いました。だれも『子猫』だなんて言ってない。それなのにあなたは、いなくなった猫のことを、『子猫』と表現した。これはなぜでしょう。もしも最近、実際にどこかでうちの猫を見たのであれば、『子猫』とは言えないはずです。でも、あなたは『子猫』と言った。なぜなら、あなたはまだ猫が小さな時、一度、見ていたからです。それは三月十五日のこと。あなたが雪村さんを刺《さ》した時、あの猫は彼女のそばにいたからです。あなたはその時の小さな子猫が目に焼き付いていたため、つい『子猫』と表現してしまった」 村井は、悲しそうな目でぼくを見た。まるで何かを嫌《いや》がるように、首を横に振《ふ》った。「写真の車がおれの車だとしても、それを写したのが友人の死んだ日だという証拠《しょうこ》はない。その写真には、日付がない。フィルムの方に日付が書かれていたからといって、それが実際、その日に撮影《さつえい》されたものだとは限らない。記入された日付は嘘《うそ》かもしれない。それともきみは、本当に幽霊《ゆうれい》とか魂《たましい》といったものを信じているのか?」 鞄《かばん》から、再度、猫の鳴き声が聞こえてきた。小さな鈴《すず》の音《ね》。「よかったじゃないか、猫、見つかって」 ぼくは鞄を開けて、中がよく見えるように彼へ差し出した。鞄は空っぽで、一見、何も入っていないように見える。鞄に手を入れると、手のひらに、何か小さな熱の塊《かたまり》を感じる。 感触《かんしょく》があるわけではない。ただひたすらに、生きているという小さな暖かい気配。 鞄の中の、何もない空間から、子猫の鳴き声と澄《す》んだ鈴の音が聞こえてきた。音源になるものなど、何もないのに。「さあ、出ておいで」 そう言うと、空気でできた見えない子猫は、鈴を鳴らして鞄を出る。ベンチの脇《わき》に下り立つと、動けなかった欲求を晴らすように歩きまわった。それが見えたわけではない。鳴き声と鈴の音が、見えない子猫の位置をぼくたちに伝えていた。 足下を子猫の鳴き声だけ[#「だけ」に傍点]が駆けまわると、村井はベンチに座《すわ》り直した。頭《こうべ》を深く垂れ、両手で顔を覆《おお》う。 昨日、隣《となり》の家の奥《おく》さんは、死んでしまった子猫を胸に抱《だ》いてうちへきた。ブレーキの壊《こわ》れた自転車に乗っていて、急に飛び出してきた猫を、よけきれなかったのだ。 ぼくと雪村は悲しんだ。不思議なことが起きたのはその時だった。子猫が愛用していた雪村の古着は、折り畳《たた》んで部屋《へや》の隅《すみ》に片付けていたはずだった。しかし、知らないうちに、子猫がくわえて遊んだ後のように、元気に広がっていた。すぐそばに、鳴き声と鈴の見えない音源が存在することに、ぼくは気付いた。子猫は家へ帰ってきていたのだ。雪村のように、姿《すがた》は見えなくなっていたが……。[#ここから7字下げ]5[#ここで字下げ終わり] 村井が大学にこなくなって一週間。 朝、なかなか目が覚めないと思ったら、カーテンが開いていなかった。それに気付いた時、悲しい予感がした。 布団《ふとん》を出て、家の中を見て歩く。素足《すあし》に板の間《ま》が冷たい。しんと静まり返った家の中、冷蔵庫の低い振動音《しんどうおん》だけが聞こえる。 ふと、子猫の鳴き声がした。まるで親を見失った子供のように、戸惑《とまど》いと不安の入り交じった声を出しながら、家の中を歩きまわっているようだった。悲しい子猫の声を聞きながら、ぼくは、彼女がもうここにはいないということを知った。 子猫は雪村を見つけることができず、探し求めているのだろう。子猫にとって、今日、本当の意味ではじめて飼い主と引き離《はな》されたのだ。 椅子《いす》に座《すわ》る。雪村が夜中、ラジオを聴いていたテーブルだった。そこで長い間、彼女のことを静かに考え続けた。 いつかこういう日がくることは知っていた。そしてまた、そのとき激しい喪失感《そうしつかん》に襲《おそ》われることも予想していた。 ぼくはわかっていた。ただ、最初に戻《もど》っただけなのだ。これで当初の予定通り、窓を閉めきって箱のような部屋に閉じこもることができる。 そうすればもう、このような悲しいことにならない。 何かと関《かか》わるからつらいのだ。だれにも会わなければ、うらやむことも、ねたむことも、憤《いきどお》ることもない。最初からだれとも親しくならなければ、別れの苦しみを味わうこともない。 彼女は殺された。その後で、はたして何を考えながら暮らしていたのだろう。自分の受けた仕打ちに絶望して、泣くことはあっただろうか。そのことを考えると、胸がつぶれそうになる。 いつも思っていた。自分の残り寿命を、彼女に分け与えることができればいいのに。それで彼女が生き返るのであれば、ぼくは死んでしまってもかまわない。彼女と子猫がしあわせにしているのを見られたら、他に何も願うことはない。 そもそも、ぼくが生きていることにどのような価値があるというのだろう。なぜぼくではなく、彼女が死ななくてはならなかったのだ。 テーブル上の見知らぬ封筒《ふうとう》に気付くまで、かなり長い時間を要した。ぼくは弾《はじ》かれるようにそれをつかんだ。シンプルな柄《がら》の、緑色の封筒だった。あて先には彼女の字で、ぼくの名前が書いてある。差出人は、雪村サキ。 震《ふる》える指先で封筒を開けた。中には、一枚の写真と、便箋《びんせん》が入っていた。 写真には、ぼくと子猫が写っている。ぼくは子猫といっしょに寝転《ねころ》がり、とても幸福そうな顔で眠《ねむ》っている。その顔は、およそぼくがこれまで生きてきた中で見た、どんな自分の顔よりも安らかな顔をしていた。鏡の中にもいない、これは彼女の瞳《ひとみ》に入った特別なフィルターを通したものだった。 便箋を読む。『勝手に寝顔《ねがお》を写真に撮《と》って、ごめん。きみがあんまりかわいい顔で眠っているものだから、つい撮ってしまったよ。 こんなふうに、きちんとした手紙を書くのは、はじめてだね。ちょっと不思議な気がするよ。わたしたちの間には、知らないうちにコミュニケーションが成り立っていた気がしていたから、手紙なんて必要ないと思っていた。ふと気付くと、二人と一|匹《ぴき》で寄り添《そ》うように暮らしていたもの。 でも、わたしはそろそろ行かなくてはいけない。ずっと、きみとか、子猫のそばにいたいけど、それはできないんだ。ごめん。 わたしが、どれだけきみに感謝しているか、気付いてないだろ。わたしはすでに死んでいたけど、すごく楽しい毎日だった。きみに会えて、本当に艮かった。神様は粋《いき》だね、こんな素敵《すてき》なプレゼントをしてくれた。ありがとう。わたしたちはお互《たが》いに、何かを与《あた》えあったり、分けあったりしたわけではない。ただ、そっとそばにいただけ。それでじゅうぶんだった。身寄りがなく、しかも死人のわたしにとっては幸福だったんだ。それにきみは、勝手にわたしの部屋《へや》をのぞいたり、部屋を散らかしたりもしなかったし。 子猫、死んでしまったね。本当に残念。もしかすると、自分が死んでしまったということに、今は気付いていないかもしれない。わたしも最初のうち、自分が殺されたことに気付かず、普通《ふつう》に生活を続けているつもりだったから。 でも、子猫もやがて、自分が死んだことに気付くにちがいない。そしてきみのもとを去ると思う。でも、その時が来てもあまり悲しまないでほしい。 わたしも、子猫も、自分が不幸だとは思っていない。確かに、世の中、絶望したくなるようなことはたくさんある。自分に目や耳がくっついていなければ、どんなにいいだろうと思ったこともある。 でも、泣きたくなるくらい綺麗《きれい》なものだって、たくさん、この世にはあった。胸がしめつけられるくらい素晴《すば》らしいものを、わたしは見てきた。この世界が存在し、少しでもかかわりあいになれたことを感謝した。カメラを構え、シャッターを切る時、いつもそう感じていた。わたしは殺されたけど、この世界が好きだよ。どうしようもないくらい、愛している。だからきみに、この世界を嫌《きら》いになってほしくない。 今ここで、きみに言いたい。同封《どうふう》した写真を見て。きみはいい顔している。際限なく広がるこの美しい世界の、きみだってその一部なんだ。わたしが心から好きになったものの一つじゃないか。[#地付き]雪村サキ』 家中を歩きまわっていた子猫が、ついに彼女を見つけられず、ぼくの足にまとわりついていた。ぼくはしばらくの間、子猫が喜びそうなことをして、元気の出るような声をかけた。 夏休みに入っていたので、学校へ行く必要はなかった。今日は掃除《そうじ》をし、洗濯《せんたく》をしよう。その前にカーテンを開き、窓をあけて風を入れよう。 縁側《えんがわ》に立ち、庭を見ると、夏の陽光に草木は輝《かがや》いている。はるかに高い空、雲が立ち上がり太陽に頭をかすめている。家庭菜園のトマトは赤く、水滴《すいてき》をつけてきらきらと光っていた。 半年前、この世界に彼女は生きていた。 大きなカメラを首からさげて、途方《とほう》もなく長い小道を彼女が歩く。両側には草原が広がり、一面が緑色。風は温かく、運ばれる匂《にお》いに心が浮《う》き立つ。歩みはまるで空気のように軽く、口もとは自然にほころぶ。瞳《ひとみ》に少年の無邪気《むじゃき》さを宿《やど》し、高く顔をあげてこれから起こる冒険《ぼうけん》を待ち受ける。道ははるか遠く、青い空と緑の大地が接するところまで続いている。 ぼくは深く、心の底から彼女に感謝した。 短い間だったけど、ぼくのそばにいてくれてありがとう。[#改丁] 失踪HOLIDAY しっそう×ホリデイ[#改ページ][#ここから7字下げ]1[#ここで字下げ終わり] 六歳になるまで母と二人、普通《ふつう》のボロアパートで暮らしていた。ボロアパートというのはつまり、隣《となり》で飼っている赤ん坊《ぼう》の声が薄《うす》っぺらい壁《かべ》を通してうるさかったり、部屋《へや》の中で食事をしていて「何か臭《くさ》いな、目や頭が痛いな」と思っていたら、廊下《ろうか》のつきあたりにある共同トイレから刺激的《しげきてき》な消毒液の臭《にお》いがあふれていたりする、そんなところのことだ。 穴があいたまま放置された障子のことをおぼえている。今では信じられないことだが、そのころは障子紙を張りかえるお金すらなかったらしい。わたしがはしゃぎすぎて障子に穴をあけたとき、母が困った顔をしていた。もしも今ここにタイムマシンがあれば、昔にもどって、金箔《きんぱく》をはったものだろうが、ラッセンに頼《たの》んで絵を描《か》かせた特別注文のものだろうが、どんな障子紙でも与《あた》えることができる。しかし残念ながらまだタイムマシンは開発されておらず、机の引き出しを開けても未来の青い猫型《ねこがた》ロボットはいないのである。 暮らしが少しだけ裕福《ゆうふく》になったのは、母が再婚《さいこん》したからだ。当時、宛名《あてな》書きの内職で生計をたてていた母と、そこそこ大きな会社を経営している今のパパが、いったいどこで知り合ったのか定かではない。まるで、わたしと母は、救助された難破船の乗員みたいだったと思う。わたしは、少々貧しい生活を抜《ぬ》け出て、少しばかり羽振《はぶ》りのいい家の子になったのだ。苗字《みょうじ》もその時、「菅原《すがわら》」に変わった。つまり「菅原ナオ」の誕生である。 さて、菅原家は少しばかりお金をもっている。その裕福さの度合いを説明するのは難しい。わたしはそういうことにあまり興味がないためわからないが、どうやら代々続く名家であるらしい。この家にきたのはまだ小学校へ入学する前だったので、あまり気づかなかったのだが、そういえば家は一等地に建っているし、広大な日本庭園には鯉《こい》の泳ぐ池がある。屋敷《やしき》の裏庭は一面に真っ白い砂利《じゃり》が敷《し》かれ、ところどころ植え込みと石があり、子供の目にはまるで、地球ではない他《ほか》の星へやってきたように思えた。 パパはお歳暮《せいぼ》なんかをたくさんもらっていた。しかも、一つ一つが高価なものだった。いかにも値が張りそうな壺《つぼ》が、桐《きり》の箱に入ってポンと送られてきていた。何かの行事には、いろいろな人が挨拶《あいさつ》しにきた。どこかで見たような顔のおじさんが家にきていたから、「あれはだれなの?」とエリおばさんにたずねた。彼女はパパの妹にあたる人で、わたしにいろいろ吹《ふ》き込んでくれた。「ナオちゃん、よく覚えておきなさい、あのハゲはこの国の総理大臣という人なんだよ。他の奴《やつ》らはどうでもいいから、あのハゲにはよーくなついておきなさい」 彼女はそう言った。母とわたしが菅原家にくるまで、大きな屋敷で暮らしていた人間は、使用人を数えなければパパとおばさんだけだった。彼らの親、つまりわたしとは血のつながらない祖母と祖父は、すでに亡《な》くなっていた。 広い家だったので、よくかくれんぼをして遊んだ。使用人がたくさんいたので、無理やり遊びにつきあわせた。女王様のように振《ふ》る舞《ま》っても、彼らはまったく無抵抗《むていこう》なのである。しかし、小さな子が隠《かく》れるには、あまりに家の方が広すぎた。 あるとき、いくら待っても見つけてもらえず、「まったくあいつらときたら」という気持ちでオニ役の使用人を探した。しかし、自分が現在、家のどのへんにいるのかがわからなくなっていた。どこまで歩いても同じような廊下《ろうか》と壁《かべ》が続き、階段をのぼった記憶《きおく》もないのに窓の外を見るといつのまにか二階にいたりする。わたしはあやうく家の中で遭難《そうなん》しかけ、「もはやこれまでかっ!」と六歳の頭脳で考えたとき、胸にさげたおもちゃのペンダントから電子音が聞こえたのだ。パパからもらったペンダントである。それは非常に趣味《しゅみ》の悪いものだったが、中央にはまっている赤い宝石を模《も》したプラスチックが点滅《てんめつ》していた。やがて、パパと母、数人の使用人がわたしを探し出した。 そのペンダント、実は発信機になっており、みんなはそれの発する信号をたよりにわたしを見つけたというわけである。「こんなこともあろうかと、ナオに発信機を取り付けていて、本当によかった。これで迷子になったときも安心だし、誘拐《ゆうかい》されたときもすぐに位置がわかるね」 パパはそう言うと、わたしの頭をなでた。彼は会社の高い地位にいるようにはとうてい思えないひょうきんなヒゲの持ち主で、やせており、猫背《ねこぜ》だった。エリおばさんの話によると、会社ではそれなりに虚勢《きょせい》をはって威厳《いげん》を保っているそうだが、わたしの目にうつるパパは気弱などこにでもいるおじさんだった。今でも、娘《むすめ》との会話のため、若い子に人気のあるミュージシャンや俳優《はいゆう》の名前をメモにとり、無理をして頭に詰《つ》め込んでいる。それでいて、V6を指差して「おっ、スマップだね」とか言ってしまうのでちょっとばかり情けないのだ。 かくれんぼから救出されたわたしは、ペンダントをはずすと、「娘に変なモノ取り付けるんじゃないっ!」と叫《さけ》び、ばしばしペンダントのひもでパパをたたいたのである。 菅原家にきた当時のことを振《ふ》り返ってみる。それまでちょっとばかり低かった生活レベルが、突然《とつぜん》、飛躍的《ひやくてき》に上昇《じょうしょう》したわけだが、不思議と戸惑《とまど》ったという記憶がわたしにはない。エリおばさんが言うには、この家にきた当初からすでにわたしは偉《えら》そうに振る舞い、およそ恐縮《きょうしゅく》するということを知らず自由気ままにやっていたらしい。子供は順応するのが早いのであり、決して、わたしが図太い神経を持っているわけではない。いや、もう、これは断じてそういうわけではないのである。 しかしわたしの母はそうではなかった。使用人に何かさせるのは悪いと思い、いつも自分で雑用をこなしていたらしい。母が菅原家の裕福《ゆうふく》な生活に戸惑っている場面がいくつか記憶に残っている。人にかしずかれるということを知らない人だったのだ。使用人や運転手へ律儀《りちぎ》に頭を下げ、広い家の中でいつも所在なげだった。 あるとき、母が一人で縁側《えんがわ》に座《すわ》っていた。小さかったわたしがそこを通りかかると、手招きしたので、隣《となり》に腰掛《こしか》けた。そこからは屋敷《やしき》の広い裏庭が一望できて、見渡《みわた》すかぎりひろがった青空の向こうに点のような飛行機が飛んでいた。母はわたしの首にそっと腕《うで》をまわすと、存在を確かめるように抱《だ》き寄せた。唯一《ゆいいつ》心安らげる場所がわたしの中にでもあるように、ほっとした表情をしていた。わたしは母の孤独《こどく》を知った。苗字《みょうじ》が変わっても、心の中まで変えることはできず、大きな屋敷の腹に呑《の》み込まれた一|匹《ぴき》の川魚のようだった。 この裕福《ゆうふく》な家にきて二年後、母は病気で死んだ。わたしが小学二年生、八歳のときだった。冷たくなった母の前で、ひどく恐《おそ》ろしかったことをおぼえている。まだ小さかったし、この広い家の中、ただ一人取り残されることが不安だった。母が寝《ね》かされていた部屋《へや》は二十|畳《じょう》もあり、その中央にぽつんと布団《ふとん》がしかれていた。わたしが母の顔をずっと眺《なが》めていると、やがて夕日が障子《しょうじ》を赤くした。電気をつけないでいたから、広い部屋の隅《すみ》の方は暗くなった。障子には、いつも真新しい紙が張《は》られていた。穴があいても、いつのまにかだれかがすぐに取り替《か》えてくれる。パパやエリおばさん、使用人たちは、気を利《き》かせてくれたのか、わたしをそっとしてくれていた。 わたしは菅原家を追い出されるにちがいないと思った。家のだれとも血がつながっておらず、母とパパが夫婦だったのはたったの二年間なのだ。そのうち、一晩で身支度《みじたく》を調《ととの》えさせられ、どこかの施設《しせつ》に入れられるにちがいない。 そこでわたしは、追い出されるまでの短い時間、贅沢《ぜいたく》のかぎりをつくしてやれと考えた。 食事で出される料理は、自分の嗜好《しこう》に関係なく、高価なものから順番に胃袋《いぶくろ》へ詰《つ》め込んだ。さほどおいしいと思わない食材でも、まずは値段を聞く。家を追い出されたらもう二度とめぐり合えないと感じたとき、「もっと食っとけ! 墓の下に入っても味が思い出せるくらいみっちり腹に入れておけ!」と自分をはげまし口に入れた。パパのお金でいろいろなものが買えたから、当時、好きだったお菓子《かし》を箱で買い込んだ。押《お》し入れの中は、有名なデザイナーに注文して作らせた高級な子供服と、買い込んだお菓子の箱でいっぱいになった。家を追い出されたら、それで食いつなごうと思っていた。贅沢、と言っても食べ物のことばかりなのだが、これはわたしの食い意地がはっているというわけではない。いや、もう、これは断じてそういうわけではないのである。 死刑《しけい》の判決を待つ気持ちで、いつになったら追い出されるのだろうかと心配しながら毎日を送った。しかし一週間たっても、一月たっても、厳格な裁判官がわたしに死刑の日程を告げることはなかった。だが、心から安心できたことなど、一度もなかった。わたしはこの家にいていいのだろうか。出て行けといわれないのは、ただみんなが世間体《せけんてい》のために哀《あわ》れんでいるという顔を装《よそお》っているだけで、本心は疎《うと》ましく思っているのではないだろうか。常に不安がつきまとった。 パパたちと食卓《しょくたく》についているときや、居間でくつろいでいるとき、どこかしら心の中に小さなしこりがあった。靴《くつ》の中に入った小石のような、かすかな居心地《いごこち》の悪さを感じた。それは、自分だけはこの家の人間ではないのだという意識から発生したものである。この広い家の中、わたしはたまたまさまよいこんでしまった羽虫のようなものだと感じ、それは考えまいとしてもなかなか頭から離《はな》れない。使用人に何か言えば、あいかわらず言うことを聞くし、運転手に行き先を告げても、何事もなく目的地へ運ぶ。母が死ぬ前と後では、何も変わった様子はない。 いつ、追い出されるのかと思いながら、すでにもう六年が経過した。わたしは中学二年生になった。パパがキョウコと再婚《さいこん》したのは、今年四月、今から半年ほど前のことだった。 キョウコはつまり、血のつながらないわたしの母親だ。わたしは彼女のことを快《こころよ》く思わなかったし、彼女もまたわたしに同じような敵愾心《てきがいしん》を持っているようだった。パパは数年前からとあるセミナーへ顔を出すようになったのだが、彼女とはその小さな教室で知り合ったらしい。 母が死んだ直後、パパは元気をなくし、何も手につかないという状態だった。おなかが痛いという理由で出社することを拒否《きょひ》し、家の中で体育|座《ずわ》りをしてテレビを眺《なが》めるばかりだった。会社の経営がほんの少しばかり荒《あ》れた。おかげで何人かの社員が解雇《かいこ》され、その家族が路頭に迷った。事態を重く見たパパの秘書が、会社の重役たちに頼《たの》まれてなんとかなだめすかそうとしたのだが、うまくいかない。 そんなとき、エリおばさんが、「何かのセミナーに行かせて徐々《じょじょ》に社会復帰させてみたら?」と言った。そこでわたしは、てきとうな資料から、市内で行われているセミナーに関する記事を切りぬいた。カメラについて学ぶ教室や、ヘリの操縦など、いろいろなものがあった。手芸教室やお料理教室などもみつけたが、そこはかとなく女々《めめ》しい感じがして、資料から切りぬかないでいた。 壁《かべ》にさまざまな教室の切りぬきを貼《は》り付けて、五歩離れたところからダーツを放った。矢が命中した切りぬきのセミナーへパパを行かせようと思っていた。しかし、わたしにはダーツの才能がないらしく、矢は壁に命中する前、その辺に飾《かざ》られていた数千万円の置物にぶつかり、跳《は》ね返った。偶然《ぐうぜん》、床《ゆか》に広げていた資料に突《つ》き刺《さ》さった。そのページに掲載《けいさい》され、矢のとがった先が貫《つらぬ》いていたのは、なんというか、まあ、手芸教室だったのだ。 パパは手芸教室に通いだした。最初は心配だったが、すっかり手芸にはまってくれて、出社拒否もしなくなった。路頭に迷っていた社員を、もう一度、雇《やと》いなおすことができた。 わたしは、適切なアドバイスをしてくれたエリおばさんに感謝した。彼女はそのころ五回目の結婚《けっこん》に失敗し、菅原家にもどって煎餅《せんべい》をかじりながらくだをまいていたのである。彼女はいつもねむたげにまぶたを半分閉じていたから、長いまつげばかりが印象に残った。エリおばさんは非常にもてる顔立ちをしていたが、口から出るのは元夫の悪口ばかりだった。しかし、離婚《りこん》したおかげで彼女はこの家にきていたわけで、パパが復帰できたのも全部、その元夫とやらがだらしなかったおかげである。 パパはそれ以来、ずっと手芸を続けていた。できあがった作品を応接間に飾《かざ》った。それらは、決して上手《じょうず》とは言えなかった。背広を着た会社の人たちが応接間に通され、それらの作品がパパの手によるものだと説明されると、「ははぁ」「これはすごい」と眼鏡《めがね》の位置を直しながら、まじめな口調《くちょう》で驚《おどろ》いて見せるのである。パパもそれなりに満足そうな表情をする。わたしは廊下《ろうか》を通りすがりにそういう場面を見て、マジでこの人たちが社会を動かしているのだろうか、と疑問に感じていた。 手芸教室に好きな人がいて、結婚《けっこん》するつもりであることを聞かされるまで、パパが手芸教室へ通うのはいいことだと思っていた。エリおばさんよりも先に、その話を打ち明けられた。「ん。そうなんだ……、勝手にするといいよ」 そう答えると、どことなくパパはほっとしたような、それでもどこかわたしの投げやりな態度に釈然《しゃくぜん》としない表情をしていた。わたしはできるだけ平静を装《よそお》って、まるで興味がないという様子でいたかった。 でも、心の中はそれほど穏《おだ》やかだったわけではない。内心、どのような言葉を発したかったのかすら、定《さだ》かではない。しかし、それがいかなる意味の言葉であっても、わたしにそれを言う権利はなく、口出ししてはいけないような気がした。なぜなら、わたしたちはお互《たが》いに血がつながっておらず、つまり他人とも言える間柄《あいだがら》なのだ。 キョウコは若かった。パパの二人目の奥《おく》さんというより、わたしの姉といった年齢《ねんれい》である。とある高級レストランではじめて彼女を紹介《しょうかい》されたとき、うかつにも、目の前に並んだ料理と同じくらい魅力的《みりょくてき》に見えた。美しい、というよりも、かわいらしい、といった顔立ちだった。彼女の父親は大病院の院長をしており、わたしとちがって本物のお嬢さまなのである。学歴もあり、茶道《さどう》や華道《かどう》にも通じ、馬までやるそうだ。馬といっても、もちろん、競馬のことではないのである。「あなたがナオさんね、お話はうかがっているわ」 彼女はわたしを見てやわらかく微笑《ほほえ》んだ。生《お》い立ちや、血のつながりがないことなど、全部お見通しなのよ覚悟《かくご》しなさい、と宣言されたような気がした。 結婚式は身内だけで行われた。わたしの母とパパが結婚したときと、同じ式場だった。 ある昼下がり、裏庭の見渡《みわた》せる窓辺のソファーで、わたしとキョウコは低いテーブルをはさんで向かい合ったことがある。わたしたちは、紅茶の入った陶器《とうき》のカップを口に運んでいた。いったいどういう経緯《けいい》をたどってそうなったのかわからない。とにかくそのとき、キョウコが、手芸教室でのパパとのなれ初《そ》めを話しだしたのだ。 市民センターの二階、手芸教室の行われる部屋《へや》で、彼女は赤い糸を使って刺繍《ししゅう》していた。白い生地に、花の模様を作製している最中だった。しばらく無心に作業を行っていると、刺繍糸をだれかが反対側から引っ張っている。ふと見ると、自分の使っていた刺繍糸、針に通した方とは逆の端《はし》が、知らない男性の針穴に通されている。その男こそ、パパだったらしい。ようするに、二人はそれぞれ、糸の反対側が相手の針穴につながっているとも知らず、一本の刺繍糸を使っていたのだそうだ。おまえら、それ絶対に作り話だろう、とわたしは思う。そんなこと、あるはずがない。 キョウコはまるで夢でも見ているように、その話を語った。「あれは素敵《すてき》な出会いだったわ、そう、あの刺繍糸は本物の赤い糸だったのよ」「……素敵なお話ですね。でも、できることなら寝言《ねごと》は布団《ふとん》の中でお願いします」「まあ、ナオさんったら」彼女はにこやかに、まるでぱっと春の花が咲《さ》いたように笑う。ただし、かすかに口の端《はし》がひきつっていた。「この家の子でもないくせに、何をおっしゃるの」「あら、キョウコお母様こそ、結局は遺産《いさん》がお目当てなんじゃないかしら、フフフ」「まあ本当に冗談《じょうだん》がお上手《じょうず》なんだからこの子は。うちの実家は、お金にはゆとりがありますのよ遺産なんてまったくわたし考えたこともありませんわオホホホ」彼女は上品に、口に手をあてて笑う。「もう、本当にこの子ったら。でも安心して、わたしは怒《おこ》ってないから。あなたに素敵な里親を見つけてさしあげるわ」「何言うのお母様、おもしろいことばかり言うのね。コメディアンにでもなったらいかが? もし、今ここに警察でも発見できない未知の毒薬があったら、お母様の紅茶のカップに入れているところよ」 わたしたちはお互《たが》いに余裕《よゆう》のあるそぶりを崩《くず》さず、いっしょに微笑《ほほえ》んだ。 広大な裏庭を、熟練の腕《うで》を持つ庭師が横切り様《ざま》、わたしたちに頭をさげた。はたから見ると、楽しげなお茶の席に思えたかもしれない。もしもその庭師が、菅原家の家族構成を何も知らなければ、仲の良い姉妹に見えたかもしれない。 最初にそれが起こったのは一ヶ月前、修学旅行から帰ってきたときのことだ。家の匂《にお》いを嗅《か》ぐのは五日ぶりのことだった。旅行先であるオーストラリアのおみやげと称《しょう》して、家から五分の距離《きょり》にあるコンビニエンスストアで購入《こうにゅう》した「コアラのマーチ」というお菓子《かし》を家族に配った。その後、荷物を置くために二階の自分の部屋《へや》へ向かう。旅行バッグの中には、オーストラリア先住民族の作った女心をくすぐる不気味な置物や、そのうち何かを狩《か》るときに使おうと思って買ったブーメランなど、自分用のおみやげが詰《つ》まって重かった。 自分の部屋に入ったとき、違和感《いわかん》があった。どこがおかしい、と一言で表すことはできない。最初は気のせいだと思った。部屋の掃除《そうじ》は自分で行っており、使用人が勝手に入ることはありえない。そうしないように言ってある。絶対に入るな、もし入ったら使用人の仕事クビにしてやるんだから、もしそうなったらごはんを食べることもできず毎日を段ボールの家で過ごしコンビニであまりものの弁当をもらう生活を送ることになるんだから、ときつく念を押《お》していた。 しかし、旅行へ行く前に部屋《へや》を出たときと、帰ってきたときとでは、どこか印象が違《ちが》っていた。それは言葉にあらわすほどでもない、些細《ささい》なことで、忘れようと思えば一瞬《いっしゅん》のうちに記憶《きおく》から消すことができた。実際、そのときはあまり気に留めず、わたしは買ってきた木製のブーメランを飾《かざ》るのに忙《いそが》しかった。 わたしの中にある狩猟《しゅりょう》民族|魂《だましい》を刺激《しげき》したそのおみやげは、本棚《ほんだな》の上へ飾ることにした。模様がよく見えるように、立てて置いた。本棚をゆらすとすぐに倒《たお》れるのだが、幸いにもその中には教科書や参考書の類《たぐ》いしか入っていなかった。触《さわ》りもしない棚だったので、ブーメランが倒れてしまうことはまずなかった。 自分の部屋への違和感《いわかん》は、しばらくの間すっかり忘れていた。二度目に同じ印象を受けたとき、ああ、前にもこんなことがあったような、という気持ちになってようやく思い出したのだ。 二度目は、友人の家の家族旅行についていった後だった。旅行から帰ってきたわたしは、おみやげのTシャツを家族に配った。胸にでかでかと奈良の大仏が描かれた悪趣味《あくしゅみ》なもので、これならもらってもあまりうれしくないだろうと思い、わざわざ買ってきたのである。 階段を駆《か》け上がり、自室の扉《とびら》を開けたとき、それを感じた。わたしは荷物を床《ゆか》に置き、静かに歩いて、家具の位置を確かめた。テレビ、パソコン、テーブル、目覚まし時計、ひとつずつ場所を確認《かくにん》するが、旅行へ行く前と比べて、移動しているわけではない。また、正確な場所を記録《きろく》していたわけでもなく、少しずれていたとしても知りようがない。それぞれの家具の位置を調べるが、何らおかしな部分など見当たらない。細部を見ると、違和感はないのだ。しかし、何もかもから気をそらして部屋全体を見渡《みわた》したとき、捕《と》らえどころのない、まるで気体のような他人|臭《くさ》さがある。 しかし、わたしはその正体をつかむことができず、結局、今回も気のせいだということにした。それに、自分用のおみやげとして買ってきた鹿《しか》のぬいぐるみを、どこに飾ろうかと迷っていた。結局、今回もまた本棚に飾ることにした。そのとき、ようやく気付いた。たしか旅行前、模様が見えるように立てかけていたはずのブーメランが、今は倒れている。 だれも触《さわ》らなければ、ブーメランが倒れるはずない。ということは、部屋に入った何者かが、つい本棚をゆらしてしまい、その結果ブーメランが倒れたのではないかとわたしは推測した。部屋に、侵入者《しんにゅうしゃ》がいる。そうひらめいた。犯人ははたしてだれなのか、それはわかりきったことである。 わたしはキョウコが犯人であることを確信していた。彼女とはことあるごとに衝突《しょうとつ》しており、ひどく恨《うら》みをかっているのは間違《まちが》いない。

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