遥か彼方《かなた》にあって、とても手が届きそうにないと思われていた、己だけの春の海辺が、もうそこまで近づいているのだ。そういう確信が込み上げてきた。 だがしかし、そうではなかった。 七 地獄が訪れた。 それはかなりの時間をかけて、まったく後戻りの出来ぬ状態になるのを待っていたかのようであった。光明溢れるものの向こうから誰の予想をも覆し、多くの者たちの思いを打ち砕いて春海を奈落の底に突き落とさんとすべく、それは突如としてやって来た。 延宝元年。『蝕考』に記された六月と七月の宜明暦の予報は、〝月蝕四分半強〝日蝕二分半強 いずれも、春海がえんに語った通り誤謬であり、実際に日蝕も月蝕も一分として起こっていない。よって授時暦および大統暦が予報した〝無蝕が〝明察となった。 続いて延宝二年、正月朔日。〝日蝕九分 との宣明暦の予報がまたもや外れた。日蝕自体が起こらなかったのである。 寛文十二年の十二月十五日から、四回続けての宣明暦の誤謬となった。 正月が明けてしばらくして春海が磯村塾を訪れると、壁に貼られた『蝕考』のうち最初の三つに、それぞれ、『明察』 の二字が村瀬によって書き記されていた。また『蝕考』の傍らには、これまた村瀬の字で、『門人一同右ニ倣ッテ暦法推算シ競フ可シ』と別紙が貼られている。自分たちもそろばんで蝕を算定せよとけしかけているのである。既に多くの〝予報が書き加えられ、さらには『誤謬也』『誤り』といった文字がそこかしこに躍っていて、こうした塾で『蝕考』が大いに衆目を集めていることを如実に物語っていた。 その光景に心地|好《よ》い緊張を感じたものだが、一つがっかりしたのは、「関さん、来なかったそうです」 新年の挨拶に出かけている村瀬に代わって、逆に生家に顔を出しに来ていたえんに、そう教えてもらったことだった。「そうか……」 いかにも意気消沈した顔をさらし、「あと三回ある。きっと見てもらえるさ」 しいて自分を励ましたものだ。えんも賛同じてくれつつも、どこか思案げだった。 それから間もなく、春海は京に戻っている。 その頃には多くの者たちがこの〝三暦勝負に注目し、その数は増す一方であった。天文家や暦学者のみならず、公家層や宗教勢力はむろんのこと、全国の大名たち、津々浦々の算術家たち、そして星も暦法もあまり知らない幕府の閣僚から下位身分の者たち、果ては碁打ち衆の面々に至るまで、この春海の勝負を興味を持って見守るようになっていた。 そしてそれゆえ当然のごとく毀誉褒貶《きよほうへん》が甚だしく生じ、〝囲碁侍こと安井算哲なる一介の碁打ちに過ぎぬ身分の者が、八百余年を誇る宣明暦の伝統に斬りかかった〝愚劣な出しゃばり〝汚らわしい売名 と嫌悪を示す者も多かった。そればかりか、〝天意を汚す不届き者、誅すべし などと記された、差出人不明の、殺害予告めいた脅迫文が会津藩邸に投げ込まれるということさえ起こった。これを知った会津藩士たちが犯人を捜し回ったが、結局、見つからなかった。 ただ、どうやら背景には、あの山鹿素行に共鳴した武士たち、あるいはその教えを拡大解釈した浪人たちがいるらしい、ということが分かった。保科正之の主張で、山鹿の配流決定が下されたということは薄々、城中でも知られるようになっている。そしてまた会津藩邸で生活する春海が、今回の改暦事業をぶち上げたことに、正之の推進があったことは推察できる。 配流先の山鹿が、改暦についての反対意見を武士たちに吹き込めるはずがない。 武士としての過激な自己実現を望む者たちにとって、春海のように〝武士像や武士の常識を引っ繰り返す存在は、理屈を超えた抹殺の対象になりかねない。というより標的に意味はなく、たまたま目について、話題になる相手なら、自動的に憎しみの対象になる。 そんなわけで一時、安藤以下、数名が、春海の護衛につけられた。春海としては、まさか本当に自分の命を狙う者がいるなどとは思っていない。偉人たちが尽力して作り上げた、この泰平の世で、文化事業を刀で抹殺できるものか、という強気な思いすら湧いていた。正之が志した民生の観点からしても馬鹿馬鹿しいこと限りない。 安藤も島田もその思いに共感してくれた。闇斎など、怒りをにじませながらの呵々《かか》大笑でもって、「無知以前の唐変木ども、恐るるに足りん」と斬り捨てている。 結局、脅迫も嫌がらせに過ぎず、春海は改暦事業の仲間たちとともに悪罵《あくば》を無視した。 ときに、碁会への出席を拒まれることもあった。理由は様々だったが、要は、〝天意に従う ことに真っ向から反した春海の態度に、武士も僧も公家も少なからず反感を示したのである。 春海としては、あの正之の半ば盲《めし》いた目にやどる、至誠の二字にふさわしい意志の輝きを思い出すだけで、どんな罵詈《ばり》雑言も聞き流すことが出来た。脅迫などまったく気にならなかった。 延宝二年。 村瀬から便りとともに一冊の書が春海のもとに届けられた。 ついに関孝和が生涯最初の算術書たる『発微算法』を出版したのである。村瀬が出す銭を断る代わり、稿本に比べてだいぶ内容を削ぎ落とした、ほとんど解答のみの書となっていたが、世の算術家たちに激震をもたらすことは確実だった。実際、碁会などでも、算術好きの仏僧といった者たちの口に関孝和の名がひんぱんに上るようになっていった。 そして春海にとっては、悪罵や脅迫などよりも、よっぽどひやひやすることだが、『古今算法記』の遣題十五問をことごとく解いた関孝和と、改暦事業をぶち上げた安井算哲こと渋川春海を、同時代同年齢の改革者として両者ともに称える声も聞こえるようになったのである。 春海としては、素直に喜びを抱く一方、どうにも不遜の思いにびくついてしまうのだった。 やがて延宝二年六月十四日。 宣明暦の予報は、丑寅卯いずれかの時刻の間に十四分の月蝕。大統暦は同じく丑寅卯いずれかの時刻の間に十分から九分の月蝕。そして授時暦は、寅から卯の時刻にかけて十分から九分の月蝕。他の二暦に比して、かなり狭い範囲で予報を出していた。 結果は、ぴたりと授時暦の予報が合致。 これまで宣明暦の予報に対して〝無蝕を予報していた授時暦であったが、この四度目の〝勝負において、精確な蝕の予報を出すことによる〝明察を勝ち取ったのである。「本当にそろばんなどで日月の運行がわかるものなのか……?」 半信半疑だった御城の幕閣の面々も、俄然《がぜん》、改暦の実現を信じ始めた。春海に対する悪罵がびっくりするくらい消えてなくなり、脅迫はぴたりと絶えた。拒まれていた碁会も、むしろ春海を目当てでわざわざ開かれるようになった。このまま春海が勝負に勝てば、城中で武士に等しい地位を得ることが確実だったからであろう。あからさまに春海に対する追従が増えた。 酒井からは、正之の死の直前に碁を打って以来、指名されたことはなかったが、もう既に老中稲葉と今後の改暦の算段を話し合っているらしいという噂が流れた。 御城の中でそうした噂が流れるということは、酒井が意図的に流しているということである。城中の意見を今のうちから取りまとめておくための布石であり、むろんのこと将軍様御同意のことに違いなく、どれも春海が既に予想していたことであった。 予想になかったのは関孝和のことで、なんとこの一瞥即解の士は、ぱったり磯村塾に来なくなってしまっていた。まるで春海が『蝕考』を持ち込んだことが関に伝わったせいであるかのようで、「私は関殿を不快にさせたのだろうか」 想像するだに悄《しょ》げる春海だった。「まさか。そんなはずは……」 えんも慰めてくれるし、村瀬も笑って春海の言葉を否定してくれた。「暦法を革《あらた》める大事業だ。面白がることはあっても、関さんが気を悪くするなんてことはないさ。もしかしたらあんたと同じように、お勤めで何か大任を受けたのかも知れんぞ」 だが関は一向に塾に現れず、春海の『蝕考』を目にしてくれることもなかった。 確かに、何か重大な任務を授けられて身動きが取れないということは、関の天才振りを考えると最も納得がゆく。が、春海としてはどうにも素直にそう信じることができなかったし、えんも、何となく思案げな様子だった。 延宝二年十二月十六日。 宜明暦および大統暦は丑寅卯の時刻に皆既月蝕の予報。これに再び授時暦がより狭い範囲で、即ち寅から卯の時刻にかけて、ぴたりと月蝕皆既なるを予報した。 結果、授時暦が見事に合致。磯村塾に貼られた『蝕考』に、五つの『明察』の文字が並び、朝廷と幕府においてはいよいよ改暦の準備が整えられ始めた。 延宝三年正月、京都所司代から老中稲葉へ、朝廷においては改暦の勅が出される意向が固まりつつあるようだと報せが届き、それが春海にも伝えられた。 二月、京の生家に戻った春海は、闇斎と惟足に会っている。彼らが言うには、神道家たちがおおむね改暦賛意で結束し、早ければ年内にも、各社の頒暦を宣明暦ではなく授時暦をもとにしたものに変える用意をし始めているとのことであった。 三月、改暦の勅令が出され次第、幕府は改めて春海に改暦事業を担わせ、朱印状をもって頒暦統制を行うことが、老中稲葉が春海に宛てた便りにおいて明記されていた。 四月、将軍家綱が、先代家光の二十五回忌法会を上野寛永寺で執り行った。その際、大老酒井の意向を受けて、老中稲葉は仏教勢力と改暦事業について議論し、春海が正之のもとで構築した〝幕府天文方の構想が、おおむね彼らに受け入れられたことが確認された。 そして五月朔日、悪夢が起こった。 宣明暦の予報では、午《うま》から未《ひつじ》の時刻にかけて、三分弱の日蝕。 大統暦は日蝕なし。 授時暦も明白に〝無蝕と断定。 午から未の刻に至る間に、日蝕はついに見られなかった。朝廷はこれをもって改暦の勅へと動き出し、幕府では大老酒井が老中稲葉とともに春海に改暦事業を命じる文書に判を押さんとし、さらには磯村塾では村瀬が『蝕考』に向かって筆を構え、『明察』 その二字を記さんとしたとき。 未の刻から遅れること半刻、ほんのかすかながら、それが生じた。改暦に興味を持つおよそあらゆる者がその様子を見て取り、また報せを受けて、一切の手を止めた。 日蝕。 僅か一分にも満たないようなそれが、しかし紛れもなく生じたのである。 あらゆる者の予想を覆しての蝕。三暦のうち宣明暦のみが時刻を外しながらも合致。 そして『蝕考』に記された六つの予報、その最後の最後において。 授時暦が、予報を外した。 八 五月初め、春海は江戸にいた。 常であれば、どれほど早くとも出府は八月頃であったが、老中稲葉から緊急に呼びつけられ、夜を日に継いで急行し、内桜田門前の会津藩藩邸の一室に待機することとなった。 同室に安藤がいてくれた。いや、家老の友松に命じられてそこにいるのだった。 血の気が引いて顔面|蒼白《そうはく》となりながらも熱でもあるかのようにびっしりと脂汗を浮かべた春海が、朦朧《もうろう》と宙を見つめしきりに身を震わせ、瘧《おこり》に罹ったがごとく戦慄《わなな》くその手で、まったく無意識のまま、脇差しの柄を撫で回すようにしているのである。 いつなんどき衝動が高まって刀を抜き、自刃し果てぬとも限らない、そう判断した友松が、同じ事業参加者である安藤を、監視役としてつけたのであった。 うう……と春海の口からときおり低く呻《うめ》き声が零れた。安藤はじっと春海のそばに坐し、春海が刀を抜けばすぐさま制止する態勢にある。春海はその安藤の様子にも気づかない。授時暦が予報を外したときから、衝撃のあまり頭脳がぐずぐずに溶けたような、到底まともな思考ができる状態になかった。が、もう間もなく城に呼び出されるという段になって、「な、なんで……?」 やっと、子供が泣くようにその一言が出た。世に名だたる知者たちの力を結集しての事業だったはずである。よもやこんなところで頓挫《とんざ》するなど、思いもよらないどころか、訳がわからなかった。生まれて初めて、心の惑乱こそ、この世で最も酷《むご》たらしい拷問にも勝る苦痛をもたらすのだと思い知った。 安藤も、いっとき目を伏せ、無念さの余り肩をいからせて言った。「……わかりません」 春海の坐相がみるみる崩れた。脇差しを撫でていた手でかろうじて身を支え、そのまま失神するという恥だけは免れた。安藤が慌ててその肩を支えてやったとき、城から使いが来たことが報された。春海は指示に従い、病者のごとく蹌踉《そうろう》となって藩邸を出た。見送る安藤も、何一つ励ましの言葉をかけられず、沈黙する他なかった。 御城に登り、案内されて松の廊下を進んだ。まるで死罪を宣告されに行くようだ、と春海の姿を見た者たちはささやき合ったし、春海自身、まったくその通りの思いだった。 御城の茶坊主衆に案内され、白書院の乾《いぬい》の方角、すなわち北西にある波の間、竹の廊下と進んだ。そこでやっと、その先に何があるかを悟った。今度こそ気を失ってしまうだろうと思ったが、どんな神霊の加護があったものか、身は見苦しいほど震えていたものの、最後まで意識を保つことができた。 許しを得て部屋の前で平伏した。黒書院は、四室からなる空間である。主に、御三家や大老や老中、あるいは特殊な役にある諸役人に、将軍様が対面する場所だった。その南の入り口側にあって、床に鼻先をくっつけたままの春海の頭上で がらりと戸が開かれた。「面を上げよ、安井算哲」 大老酒井の声だった。いつもと変わらぬ淡々とした調子である。だが春海は顔を上げられずにいる。主君に対する芝居がかった畏怖の礼などではない。心から怯《おび》えきっていた。「顔を見せよ、算哲」 別の声が飛んだ。ほとんど猛獣の唸《うな》るような迫力をもった、水戸光国の声だった。この人の場合、礼儀は尊ぶが、演技は忌み嫌う。芝居がかっているなどとみなされれば将軍の御前であろうと殺傷されかねない。春海は恐怖で凍りついた身を、別の恐怖で無理やり動かされるという、死にたくなるような苦痛を味わいながら、顔をさらした。 最初に見たのは光国だった。意外なことに、春海がほぼ確信していた、憤怒《ふんぬ》の表情ではなかった。むしろ心から春海を憐《あわ》れみ、今のこの状況に納得がゆかぬと言うように、ひどく哀しげな顔をしている。だが光国がそのように思ってくれていたとしても手遅れだった。 大老酒井、稲葉ら老中の面々、そして上段に、将軍家綱がいた。いつもながら静かに春海を見下ろしている。初めて御目見得してから二十四年、当然、直接に御言葉を頂戴したことはなく、このときも春海から将軍様へ何か言うといったことはあり得ない。 だがその一瞬、もし授時暦が最後の予報を当てていたら、という傷口に塩を塗り込むような思いが湧いた。もし、そうなら。この部屋、この場で、将軍様より天文方に任じられることが許され、晴れて改暦事業の開始となり、そしてそれが成就した暁には―― 夢見たもの、失われたものを、再確認させられることこそ地獄だった。春海は危うく嗚咽《おえつ》の声を上げかけた。堪えに堪えながら再び平伏した。「何ぞ言いたいことはあるか」 酒井の機械的な声が響いた。むろん申し開きなどできる状況ではない。春海はただぶるぶる震えながら、「も……も……申し訳も……ございませぬ……」 たったそれだけの言葉を吐いたがために、己の魂魄が粉々に砕けた思いがした。低い唸り声。光国の憐れむような嘆息だった。 僅かに沈黙が降りた。 そして、春海にとって生涯忘れられぬ言葉を、酒井が放った。「算哲の言、また合うもあり、合わざるもあり」 この一瞬で、改暦の気運は消滅した。 九 亡骸《なきがら》のような日々が過ぎていった。 生きたまま墓に埋められる思いがどんなものか思い知らされるような毎日だった。しかも実際にそうされれば死は確実であるというのに、春海の状況においてはそれも許されなかった。 春海に対する悪罵や脅迫はのきなみ嘲笑に変わった。そら見たことかと武士も僧も公家も揃って春海の無謀を笑い、〝天意の深遠不可思議さを有り難がった。 六月。信じられないことが起こった。将軍家綱が、三代家光の二十五回忌法会の恩赦を実施し、その対象に、あの山鹿素行もふくまれることになったのである。 正之の理想、幕府の在り方、両方と決定的に対立した『聖教要録』の出版の罪により、配流となっていた山鹿が、恩赦によって解放された。八月、江戸に帰還。かつて山鹿を将軍の侍儒にと推薦した、大奥の一大勢力を担う祖心尼は、既に今年三月に死去している。山鹿の恩赦が何か政治的な意図をふくんでいたとは言い難いが、それにしても出来すぎだった。正之が陰で発起人となり、春海が実現せんとした改暦事業が水泡に帰した直後なのである。 とはいえそこで山鹿が何か特別な思想を江戸で展開し始めたというわけではない。以前の弟子たちや、訪れる武家の者たちを相手に、兵学を講義するだけで、本人は静かに余生を送る気でいるようだとのもっぱらの噂である。 ただ、どこかの誰かが、「改暦の儀というものが取り沙汰《ざた》されておりましたが、山鹿先生は改暦についていかなるお考えをお持ちですか」 と山鹿に訊いたらしい。そして山鹿の返答は振るっていた。「もって喋《わら》うべし」 天意の前では〝仕方なく慎むという古学の美徳からすれば、暦の誤りを正そうとすることなど、愚かを通して唾棄《だき》すべき無駄である。 そのような話が会津藩藩邸に伝わった。主君の悲願を鼻で笑うような山鹿の言に、安藤が怒りの眼差《まなざ》しになるのをよそに、春海はただ茫々《ぼうぼう》と宙を見つめるばかりだった。 夏の終わりに闇斎が江戸に来て、しきりに事業続行の方策を語ってくれた。だが春海の心はそれに共鳴せず、力無くうなずくばかりである。やがて闇斎も口をつぐみ、「……駄目か」 ぽつっと言った。「わからないのです」 そう告げる春海の掠《かす》れた声が、師を前にして、初めてまともに嗚咽へと変じた。「なぜ授時暦が蝕の予報を外したのか、わからないのです」 精確無比の授時暦が予報を外すわけがなかった。どこかで術理を誤って修得し、そのまま検証されることなく実行されてしまったのだ。だがその誤謬がわからない。調べても調べても自分の何が悪かったのか見当もつかないのだ。これでは再び事業を軌道に乗せようにも、いつなんどき同じ目に遭うかわからなかった。そう泣いて訴えた。闇斎はそれでも希望を棄てないようにと言い続けたが、希望を持とうとすること自体が春海には苦痛だった。 八月。幽霊のように会津藩藩邸で無為に過ごしていた春海は、碁打ち衆たちが各地から御城碁のために出府して来るに従い、呆気ないほど碁の勤めに引き戻された。 改暦を任されて失敗したことを、義兄算知も知哲も慰めてくれたし、多くの同僚が何かの冗談のように笑った。道策でさえ、気の毒そうにしてくれてはいたが、結局、改暦というものが具体的にどのような意義をもったものであるか、理解する者はほとんどいなかったのである。 それは碁打ち衆ばかりか、御城の大半の者たちにとっても同じだった。いや、この改暦に秘められた思い、そのための膨大な労力、深遠な数理、いずれも理解する者の方が少なかった。 また何より、事業が失敗したとき、幕府に傷がつかぬよう入念に算段が整えられていたのである。春海にとっては、それが救いでもあり、また苦痛でもあった。まるで二刀を与えられて十五年間、ひたすら無駄なことに精魂を費やしてきたような気にさせられた。 ちなみに二刀は、いまだに返納を命じられていなかった。御城に呼ばれた翌日にも寺社奉行の者から返すよう命じられるのを予想し、その前に自刃しようかと何度も思ったものである。 だが考えてみれば、春海の勝負が敗北に終わった直後に刀を取り上げたら、幕府の後ろ盾による事業だったと公言するようなものだ。きっと何かの折りに別の理由をつけて返納させられるだろう。くそ重たいだけで何の意味もない刀になど未練はない、と自分に言い聞かせはしたが、やはり失うのは辛《つら》かった。これだけ長いこと身に着けさせられ、またそれが正之の心意であり、酒井の推薦によるものであったことを考えると、自分の大事なものを自分の愚かさゆえになくしたのだというやるせなさに苛《さいな》まれた。 そして喪失は続いた。 九月。会津藩家老の友松が〝土津神社の完成をもって晴れて隠退した。かと思うと、その謹言誠実な態度が災いし、同僚による讒言《ざんげん》が生じた。藩主正経はそれを真に受け、友松の家禄《かろく》を没収、自宅幽閉の罰である蟄居《ちっきょ》を命じた。側近が果敢に反対したが正経の意は変わらなかった。隠退した尽忠無比の元家老を蟄居させるなど正之がいた頃は考えられなかったことである。 山鹿の赦免にしろ、正之が死んで僅か数年でこれかと思うような事態の連続だった。 さらに十月。自ら碁方に就くことによって勝負碁を城に根づかせた春海の義兄、算知が、二十番碁たる空前絶後の争碁の果て、本因坊道悦に、負けた。それでもなお、「安井家に一日の長あり」 との評判が続くほどの算知の健闘であったが、碁方の座は、本因坊道悦に譲り渡された。 かくして安井家は、義兄義弟ともにそれぞれの勝負に敗れ去った。 算知はそれでも碁に人生を献げることを本望として出仕を続け、勝負碁の定着にさらに貢献したが、春海は全てにおいて気力喪失の日々を送っている。 なお、この年の御城碁における春海の戦績は、白番の道策相手に十六目の負け。 惨敗ではあったが、ただし、ことが死んだときのような悪手の連発というわけではなかった。 というより、春海の悪手の一つや二つなどまるで問題にならぬほど、異常なまでに道策が強くなっていたのである。将軍様を始め、居並ぶ大老老中の面々ばかりか、碁打ち衆の四家いずれもが感嘆し、また驚愕《きょうがく》するほどの腕前だった。(碁が変わる) 直接対戦した春海にはそれが確実なものとして実感された。(天が地に降された竜が、ここにもう一人いるのだ) 関孝和が新たな解答法を考案したことによって算術そのものが変わるように、道策の打ち筋は、いずれ碁そのものに不可逆の革新をもたらすはずだった。 かつて江戸城から天守閣が喪《うしな》われたときのように、新たな時代が、新たな世代によって拓かれようとしているのだ。そんなときに、この自分はいったい何なのか。家督に飽きを抱いて碁に専心せず、算術も天文も暦法も全て不甲斐ないほど未熟にとどまり、果ては一族揃って大恩ある保科正之の心意すら成就できなかった。なんだこれは。このような無念さ、生き恥にまみれるために自分は生まれてきたのか。こんなことのために今まで生きていたのか。そんな絶望に囚《とら》われたまま、やがて延宝三年という春海の生涯において最低最悪の年が過ぎていった。 明けて延宝四年正月。 雪解けを待って京に戻るばかりとなったある日。 会津藩藩邸の庭で、雪をかぶった日時計の前でぼんやり突っ立ったまま、春海は何をすれば良いかもわからず馬鹿みたいに澄み切った青空を眺めていた。雪をどけて影の長さを測るという長年の習慣に従って庭に出てみたけれど、もはや地に差した影を見ることすら厭《いと》う思いに襲われる有り様だった。かつては嬉々として行っていたその作業が、苦しみそのものに変わってしまったことが哀しく、なすすべとてなく、どれほど手を伸ばしても届かぬ天を仰いでいると、ふいに足音が背後から近づいてきた。 おそらく安藤だろう。春海が悲嘆のあまり日時計から逃げがちになる一方で、安藤は律儀に観測を助け、その記録の穴を埋めてくれていた。その安藤の誠意のお陰で、春海が完全に日時計を棄てるということはなかった。だがいずれ春海が事業再起を志してくれるはずだという安藤や島田や闇斎の無言の思いは、ただ春海を責め苛むばかりとなっている。「それが、日時計というものですか?」 だが背後で起こった声は安藤のものではなかった。それどころか、まさに春海が完全に逃げ腰になったまま、毎夜、明日こそは詫びに行かなければと己に命じながらも、ついに勇気を奮うことができず、延ばし延ばしになっていた相手だった。 あまりのことに、そのまま振り返らずに駆け出しそうになりながらも、顔は勝手に振り返り、体がそれに追従した。「な……なぜ、ここに?」 怯えたように声が震えた。「御屋敷の人にお訊きしたところ、あなたは庭で日時計を見ていると伺いましたので」 えんはそう言いながら、春海ではなく、物珍しげに日時計の柱の方を見ていた。「あ……いや、そういう意味ではなく……」「あなたにお会いするために来ました」 きちんと言い直された。「うん……あの、それは、なぜ……」 えんが春海を見た。静かだが如実に怒りを訴える目だった。「なぜあなたは塾にいらっしゃらないのですか」「も……も、申し訳も……」「関さん、来ました」「行こう行かねばと思い……」「あなたへ出題しました」 詫びと言い訳と今の心境とを何とか口にしようとしかけ、「へっ……?」 遅れて相手の言葉を理解し、素っ頓狂な声で聞き返していた。「やっぱり御存知なかった。もう半年余りも前のことなのですよ」 えんは、そこでちょっと溜息《ためいき》を零した。 気づけばいつしか妙に優しげな目で春海を見ている。かと思うと、あたかも会う前から今の打ちひしがれた春海の様子を知っており、それゆえ誰よりも頼もしい味方を引きつれてきたとでもいうような調子で、こう言ったのだった。「あの暦の最後の勝負で、あなたが誤謬となった次の日。関孝和さんが塾へ来ました。そして、|あなたに出題したのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|あなたを名指しで《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|設問を塾に残されて行ったのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」 春海が三十七歳のときのことであった。[#改ページ] 第六章 天地明察 一 夢が藻屑《もくず》と消えてからおよそ八ヶ月後の延宝四年、一月。 春海は、藩邸を訪れたえんとともに麻布の磯村塾へ向かっている。 雪融《ゆきど》けの泥を撥《は》ねながらせっせと自分たちを運んでくれる駕籠の中にあって、春海は己の頭脳までもが泥化したかのような惑乱に陥っていた。(あの関孝和殿が、私に出題した) その驚愕《きょうがく》の一事が、改暦勝負に敗れ、羞恥《しゅうち》と慚愧《ざんき》の念にまみれるあまり、今の今までえんや村瀬に合わせる顔すらなかった春海をして、塾へと急行せしめていたのであったが――(なぜだ。なぜ関殿が) 考えれば考えるほど、あり得ないという思いに困惑が募った。これまでまったく出題をせず、ただ〝一瞥《いちべつ》即解するのみであることから塾でも関の存在に怒りを抱く者すらいるのだ。それでも関の才能から、〝解答御免が許されたのである。その関が、長年の態度を突然変化させ、ついに設問を行っただけでも十分に衝撃的だった。しかもその上、(改暦勝負に敗れた私を名指しにした) その一点がとにかく驚きで、喜ぶべきか怖れるべきかもわからない。出題するなら自分から関に、というかたち以外にあり得ないと信じ切っていた。あまりに予想外で、もしや担がれているのではと何度も考えたが、えんが嘘をつくとも思えず、関本人が現れて直接出題したというのだから他の誰かが関の名を騙《かた》ったわけでもない。こうなると敗北の恥がどうとも言っていられず、ただ事実を確かめたいがために塾へ向かったのであった。 荒木邸に到着し、えんが遠慮するのも構わず駕籠代を二人分支払い、慌ただしく塾へ入った。 正月が明けたばかりで塾生は誰もおらず、村瀬も挨拶《あいさつ》回りで出ているとのことである。 無人の沈黙に満ちたその建物の入り口で、「――あちらです」 えんが示した一角に、確かにその存在があるのを見て、春海は激しい動悸《どうき》を覚えた。『渋川春海殿』 壁に貼られた紙に黒々とその名が記されている。そしてその横に記された設問を一読して春海は呆然《ぼうぜん》と棒立ちになった。[#挿絵(img/394.jpg)]『今図有 日月円|蝕交《しょっこう》 日月円相除シテ四寸五分 間日月蝕ノ分』『今、図の如く、日月の円が互いに蝕交している。日円の面積で、月円の面積を割ると四寸五分になる。日月の蝕交している幅の長さを問う』 そして末尾に関孝和の名があった。 日と月、その蝕――明らかに春海が敗れた三暦勝負にちなんだ設問だった。そしてそれ以上に、自分にとって古傷のような、あるものを強く想起させられた。 微動だにせずそれを見つめている間、えんが大きな紙を持ってきていた。あの『蝕考』の抜粋たる三暦勝負の紙で、だいぶ黄ばんでいる。二年ほどの間、ここに貼られ続けていたのだから当然だろう。授時暦が蝕の予報を外してからどれほどの期間、恥をさらしていたろうかと春海はぼんやり考えた。六つの予報の最後である延宝三年五月|朔日《さくじつ》の箇所に、『惜シクモ明察ナラズ』 と村瀬の字で記されている。『誤謬《ごびゅう》』と書かないところに村瀬自身がこの結果に悔しみを抱いてくれたことがあらわれていた。「……お持ちになりますか」 えんがそっと訊《き》いた。春海はのろのろとその紙を受け取った。そうしながら、今、意識の大半が、敗れた勝負から、今ある関孝和の設問に引き寄せられているのを覚えた。 設問に挑んだ塾生たちの、てんでばらばらな解答が幾つも貼りつけられている。だがいずれに対しても誤謬か明察かは断じられていない。春海を名指しにした問題であるから、春海が解答して初めて誤謬か明察かが記されるのが通例だった。だが、これはそういうものですらない。「……わからない。なぜだ。なぜなんだ」「渋川様?」「なぜ関殿はこのような設問をしたのだ。これは……こんなものは、答えようがない」 えんが神妙な顔つきになった。「村瀬さんも薄々そうではないかと……。それに、これは、あなたが昔作った……」「あの誤問と同じだ。これに解答などない。問題自体が間違っている病題だからだ」 解答があるとすれば、解答不能を意味する〝無術の二語のみ。そして過去にそれを一瞥して見破ったのは他ならぬ関本人ではないか。それを今さらなぜこの自分に示そうとするのか。 ますます惑乱するばかりの脳裏に、ふいに何かが引っかかった。「|えっ《ヽヽ》……?」 誰かに突然予想外のことを言われたような間の抜けた声が零《こぼ》れた。ついで卒然と全てを悟った。途方もない解答が頭上から轟音《ごうおん》を立てて降ってくるような感覚に襲われた。「ま……ま、まさか……」 戦慄《せんりつ》するあまり、よろめいて背後の壁にどすんと背をぶつけた。「どうなさったのです」 えんが不安そうに手を伸ばす。春海は蒼白《そうはく》の顔を左右に振った。咄嗟にえんが手を引っ込めたが、春海自身にその手を拒絶したつもりはない。目の前が真っ暗になるほどの衝撃から逃れたい一心だった。それはまさしく解答だった。この八ヶ月もの間、延々と自分を苦しめていた疑問を明らかにするものである。代わりに、改暦事業に注いだ全ての思いを木っ端|微塵《みじん》に打ち砕き、さらなる苦悶《くもん》をもたらす、恐るべき考えだった。「な……、な、なんということだ……」 春海は、今度は前のめりになって壁から離れ、「あ、何を……」 えんが驚くのも構わず、震える手で、関孝和が設問を記した紙を剥がした。そうしながら、自分は期待を裏切ったのだ、という思いに胸を突き刺された。建部の、伊藤の、保科の、改暦事業という、天を相手に行う勝負を自分に与えてくれた全ての人々の―― そしてあるいは、関孝和という希代の天才の期待を。(頼みましたよ) ふいに十年以上も前の伊藤重孝の声が甦《よみがえ》った。(頼まれました) 自分はそう答えたではないか。そう思うと、どっと涙が溢《あふ》れ、半年余も衆目に晒《さら》され続けた関孝和の設問の上にぽたぽた落ちた。金王八幡の算額絵馬に心を奪われたあの日から十四年。己だけの春の海辺を夢見て生きてきた。そして今、ようやく、そこへ到達するための本当の試練に直面しているのだと思った。「お願いがあるんだ」 春海が言った。えんは、春海が涙を拭《ぬぐ》う様子を見て見ぬ振りをしてくれている。「今度はどんなお願いですか」 優しい訊き方だった。「住まいを……」 言おうとした途端、ぶるっと身が震えた。大きく息を吸って震えをこらえ、己に出来る限りの清明な〝息吹をもって、「この方の住まいを、教えてくれないか」 長い年月の末、ようやくその思いを口にした。えんに驚いた様子はない。そればかりか、「はい」 と微笑んでくれた。 翌日、春海は、教えられた武家宅に宛てて手紙を出している。 関孝和に、会いに行くためであった。 二 すぐに返事が来た。 この日のこの時刻に、という素っ気ないもので、なんとなく果たし状みたいだった。 春海はその通りに従って、牛込《うしごめ》にあるこぢんまりとした邸宅を訪れている。 こぢんまりとしてはいるが老いた家人がおり、その人が部屋へ通してくれた。商家の子息を相手に、そろばんや算術を教える部屋だという。きちんと片付いた部屋の隅に、真っ黒になるまで重ね書きをした紙の束や、硯《すずり》や筆がまとめて置いてあった。 いかにも出涸《でが》らしの茶湯を差し出され、待った。 自分では十分に落ち着いているつもりでも、やはり心臓が破れる思いだった。かの保科正之に招かれたときと同じか、それ以上の緊張に襲われていた。長年、会いたいと思い続け、そのつど様々な心の抵抗や、意地や、怖れによって叶《かな》わなかった相手である。まさかこのような形で会うことになるとは夢にも思わず、喜びというよりも、悲壮とも言える覚悟をもってのことだった。いかなる罵詈《ばり》雑言も甘んじて受ける。そういう覚悟である。ただひたすら平伏し、教えを請うのだ。もはやそれ以外のことはかけらも考えられなくなっていた。 やがて、来た。 襖《ふすま》が開き、男が現れた。想像していたよりも背が低い。春海と同じくらいの背丈だ。髷《まげ》にも瞳《ひとみ》にも黒々と艶《つや》がある。引き締まった痩顔《そうがん》は、静かな生気に満ちている一方、珍しいくらい皺《しわ》が多い。特に今、眉間《みけん》に寄せられた皺が、凄まじいまでの怒りの相をあらわにしている。 関孝和は無言で、春海の前に坐《ざ》した。 刃物を真っ直ぐ畳に突き立てたような、無造作でいて、ぎょっとなるほど鋭い坐相だった。 まるで勝負の姿勢である。しかも、これまで数多くの碁打ちと相対してきたが、こんな鋭さは見たことがない。匹敵するとしたら、十五年後の道策くらいか。そんな思いが湧きつつ、「こ……このたびは、突然の来訪を、快くご容赦いただきまして、まことに……」 春海は、しどろもどろになって面会の礼を告げた。相手を一見してのちは、ろくに顔を上げられず、碁の勝負においてはその時点で負けを宣告されるような前屈《まえかが》みの恰好《かっこう》で、懐からおずおず紙を取り出した。『渋川春海殿』 と、関が自分に宛てた算術勝負の設問である。病題の原因となっている円の面積のくだりに、春海の手で傍線が引かれていた。その傍線こそ、設問の解答に等しいのだが、関がそれをみとめたかどうか春海にはわからなかった。いきなり、関が紙をつかんだかと思うと、細切れに引き裂き始めたのである。春海の低く垂れた頭の上に紙片が浴びせられた。あまりの所行だが、春海はじっとされるがままになっている。詫びを口にしようとするが、「この盗人がッ!」 爆発したような怒声にかき消された。「ぬけぬけと数理を盗みおって! 何様のつもりかッ!」 春海は額を床にすりつけるようにし、「わ……私は……」「返せやッ! 盗んだものを即刻、返せッ!」 部屋にあった紙の束が投げつけられた。硯が飛んできて畳の上で跳ね、春海の肩に当たった。筆や筆箱が飛んできて、頭や体に当たった。春海は無言。もうひたすら土下座の姿勢である。「挙げ句の果てに失敗《しくじ》りおって! 数理をなんだと思うか! 囲碁侍のお遊びの道具とでも言いたいかッ! お役人に献上するために、我らの研鑽《けんさん》があったと申すかっ!」 これが、江戸のみならず、全国の主たる算術家たちが春海に対して抱く思いであった。名をなした算術家であればあるほど、〝あの数理は己が解明したという思いが強いのは当然である。それらを春海は一切の断りなしに授時暦解明に用い、かつ改暦の儀に用いたのである。 しかし一方で、このとき春海の中に、むらむらと怒りが湧いてきていた。それは春海のみならず、改暦事業に参加した安藤や島田なども等しく抱くであろう怒りだった。町道場で気楽に算術を教えている者たちが、何を都合の良いことを言っているのか。保科正之が志した、武断から文治への転換の努力を理解できるのか。政治の機微をつかめるのか。こうして屈辱に耐えながら頭を下げ、数理も算術も、暦がどういうものかすら全く理解していない幕府や朝廷の人間たちを相手に、心を砕いて納得してもらう辛《つら》さが分かるのか。周囲の無理解に耐え、気苦労に耐え、重責に耐え、事業に邁進《まいしん》することがお前たちに出来るのか。 だがこの場において春海は一切反論せず、ただ頭を下げ続けている。相手が関孝和だから、それが出来た。そして、関孝和だから、全てを分かって春海に罵詈雑言を浴びせているのだ。それが分かっていた。だからこその、覚悟だった。「これはわしだけの問題ではない! 世の算術家総勢の遺憾の念と知れッ!」 その咆哮《ほうこう》じみた声ののち間があった。春海は頭を下げたまま、首でも差し出すような姿で、「……世の憾《うら》み、これで全て浴びたとは思いませぬ。私は……」「当然じゃ。これほどの大事、算術家にとどまる話か。津々浦々の儒者、陰陽師、経師、仏僧、あらゆる者どもが、お主を嘲笑《あざわら》い、憎み、罵《ののし》っておる。今やお主は、日本一の盗作者じゃ」 春海は奥歯を噛みしめて黙った。またぞろ怒りが湧いたが、関孝和の言葉をしっかりと待ち構えた。本当の覚悟はここからだった。「所詮《しょせん》は囲碁侍のお遊びよ、とみなが口々に罵りおった。改暦の儀が、あのような始末になったとき、馬鹿げたことに、わしの知る算術家どもの大勢が、喝采《かっさい》しおった。わしは腹が立った。詰まらぬ功名心で、お主に嫉妬《しっと》する馬鹿な算術家どもに腹が立った。だが、それ以上に、お主に対しては我慢がならなかった。はらわたが煮えくり返る思いであった」「私は……」「なにゆえ、分からなかった」 春海は、ぐっとまた奥歯を噛んだ。怒りではなく、途方もない申し訳なさが来た。平べったくなったまま身が震えた。「お……思い、及ばず……力、及ばず……」「馬鹿者!」 この天才から馬鹿呼ばわりされた。それが春海を予想以上に大いに打ちのめした。真っ暗闇の淵《ふち》へ落っことされる思いがした。正直言って逃げ出したくなるほど、しんどかった。「も……申し訳も……」「数理のことごとくを、あれほど悉《つぶさ》に理解し得たお主が、なぜに分からぬ!」「う……」 思わず呻《うめ》き声が零れた。ついでに情けなさで涙まで零れそうになって必死に耐えた。将軍様の御前で平伏していたときにも増して、魂魄を打ち砕かれる思いに、ぶるぶると激しく震えた。「よ、よ……よもや……」「よもや、|授時暦そのものが誤っているとは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、思いもよらなかったと、そう言うかッ!」 竜が吼《ほ》えた。そう思った。脳天に雷火が落ちたような衝撃だった。春海は、竜の息吹一つで自分が木っ端のごとく宙を舞って灰燼《かいじん》と化すところを如実に想像した。 それこそ関孝和による〝誤問の出題の真意であった。春海が授時暦の理解を誤ったのではない。授時暦自体が病題なのである。それゆえ蝕の予報を外した―― いったいこの天才は、どうしてそのような途方もない結論に辿り着けたのか。自分を始めとする改暦事業の関係者のみならず、日本で数理を知る者全て、想像だにせぬ〝解答だった。「ま……まさに……申し訳もなく……」 ほとんど涙声になっている春海をよそに、関は、ふーっと深く息をついている。かと思うと、なんだか妙にすっきりした調子で、「怒鳴りすぎた。喉《のど》が痛い」 困ったな、というように呟《つぶや》いている。「お主には、算術家どもの思いを、大いに汲んでもらわねばならんのでな……」 だから頑張って怒鳴ってみたが、意外に大変だ、とでも言いたげだった。 下げた春海の頭の向こうで、関が、茶湯でうがいをする音が聞こえた。どうも、春海に差し出された茶湯を取り上げて自分で口にしたらしい。 茶碗《ちゃわん》が置かれる音がした。春海が恐る恐る顔を上げると、やっぱり自分用の茶碗が空になっている。それとほとんど同時に関が立ち上がっており、お陰で顔は見えなかった。しかも、そのまますたすた部屋を出て行き、顔ばかりか姿も見えなくなった。あまりの無造作な振る舞いに春海は完全に置いてけぼりである。半端に顔を上げて両手をついたまま相手の帰りを待っていると、関が、とんでもない量の紙の束を持って戻ってきた。「こんなもの、書にして出版しようもない」 春海に向かって真面目に言った。そしてその束を、どさっと春海の眼前に置いた。 ところどころに記された日付から、日記のようだった。だが違う。春海は目で許しを請うように相手を見ながら、おずおず紙の束をめくった。難解な数理の数々が飛び込んできた。ただの算術ではない。授時暦についての、ありとあらゆる考察であると即座に理解できた。 関孝和が、授時暦を研究していた。そのことが驚愕とも感動ともつかぬ思いをもたらし、思わず相手を真っ正面から見つめていた。 関はいつの間にか穏やかに微笑んでいる。それでも鋭い坐相はそのままだった。この人は、意図して鋭さを発揮しようとする人ではないのだと春海は悟った。天性であり、この人自身もどうしようもないのだ。まるで鞘《さや》すら斬ってしまう刃《やいば》だった。鋭さのあまり、収まる場を持たず、流浪する思いで生きてきたのだ。あたかも春の海辺を求めて曖昧さの中をさまよっていた自分のように。理由は互いに全く違えど、同じだった。 かつて関が自分の誤問を前にして笑っていたという理由が、やっと分かった。自己の発揮を求めてさまよう者の存在を、この天才が認めてくれたのだ。そして喜んでくれたのだ。 自ら発揮のときを欲して邁進する者を、誤謬も含めて称《たた》えてくれていた。「甲府宰相様の御下命がいっとき下されたが、無為であった。天測の規模で、とてもお主に敵《かな》わぬ。また、何しろ甲府だ。江戸の幕府には建議も届かぬ」 関が言った。春海は一挙に事態を理解した。関もまた、もしかすると改暦事業に参加していたかもしれないのだ。あるいは保科正之から協力を要請する声が、甲府に対してもあったのだ。 しかし、甲府宰相こと徳川綱重は、幕政においては孤立の傾向にある。理由はもっぱら城の大奥における因縁によった。関孝和が甲府宰相を主君とする限り、幕府の事業に参加できる道は皆無といっていい。それゆえ保科正之も関の名は出さなかった。あるいは出せなかった。 だが、成果だけはあった。それがこの考察の山だった。「一度始めてみたら、面白くてな。御下命が結局はおおやけに下されぬと決まってのちも、つい続けてしまった」 そう言って、関は、紙の束をさらに春海の膝元《ひざもと》まで押しやった。「数理は、結集せねば、天理を明らかにするものとならぬ。全て、お主に託したい」 春海は言われるがままに束を持ち上げようとしたが、とても重くて持てない。関の存在も思いも重すぎた。こんなしろものを背に載せられたら、そのままペしゃんと潰れてしまうに違いなかった。だが関は全くそうは思っていないらしい。清々した顔で、さっさと受け取れと急《せ》かすように手を振っている。「あまり期待してくれるなよ。天理は、数理と天測のどちらが欠けても成り立たぬ。わしに解けたのは、数理と天測の狭間《はざま》のどこぞに誤りがあるはずだということだけだ。いったいどこにあるかは……わしには、手が届かぬ」「し、しかし……」「持って行け。わしが持っていても何にもならん。頼めるのは、お主だけだ」 最後の言葉が、耳ではなく直接、心の臓に響いた。どっくんと大きく動悸がした。 |からん《ヽヽヽ》、|ころん《ヽヽヽ》。 あの幻の音がこれまでになく鮮やかに響いた。感動の音、悲しみの音、歓喜の音だった。 気づけば頬を涙が濡らしていた。どれほど関が無造作な態度をしていようと、これは算術家の命である。とても受け取れると思えない。だが日本中の算術家の命を奪い、憎悪を受けて立つ覚悟がなければ、改暦事業を完遂することは不可能だった。自分は幕府の公務で生きる人間である。数理を理解し、幕政に役立てるということは、その算術的成果を幕府のものとして奪い去るということなのだ。それがなくは事業にはならない。それをしてこそ事業だった。 かつて保科正之が、飢饉《ききん》の苦しみから一揆を起こし、陳情に訪れた三十六名もの命をことごとく奪わねばならなかったことが思い出された。その屍《しかばね》を心に焼き付けたからこそ正之は〝民生の理想を掲げ続けた。今、まったく同じことをするのだ。算術家たちの命を奪う。目の前にいる関孝和という男の命を握り、我がものとしなければならないのだ。 関自身がそれを望んでいた。発揮できなかった自己を、まとめて春海に託していた。 春海は、ついにその紙の束をつかみ、胸に掻き抱いた。「か……必ずや……、必ずや、天理をこの手で解いて御覧に入れます。天地の定石を我が手につかみ、悲願を成し遂げてみせます」 関は満足そうにうなずき、そして笑った。その様子に春海は胸を衝かれた。この天才が浮かべるには、あまりに寂しく、孤独な表情だった。ともに歩めたかもしれない道のりを、全てを背負って春海だけがゆくのを見送る者の顔だった。「お主にしか出来んのだ、渋川。わしのような算術家がどれほど手を伸ばそうと、天理をつかむには至らぬ。ましてや暦法の誤謬を明らかにするには……元国の才人たちが築き上げた、至宝のごとき授時暦を斬って棄てるには、まさに、思いも、力も……及ばぬのだ」 そうして真っ直ぐ春海を見た。今、その鋭く無造作な坐相に、万感の思いがこもっていた。「授時暦を斬れ、渋川春海」 紙の束を抱いたまま、一方の手で膝をつかみ、「必至!」 事業拝命より八年を経て、再び、その言葉が激しく春海の口をついて出た。 ほろ苦い笑みが、関孝和のおもてに浮かび、「頼んだぞ、囲碁侍」 静かに瞑目《めいもく》した。 三 牛込で駕籠をつかまえ、そのまま荒木邸へ向かった。 塾の方は、村瀬が塾生たちに術理を教えている真っ最中である。春海は本邸の方へ行き、玄関先で声を上げようとした途端、外へ出て来たえんと出くわした。その手に箒を持っていた。枯れ葉ではなく雪よけのためだろう。えんがびっくりした様子で、ぱっとその箒を胸元で構えるのを見て、春海はまたもや、ぐるりと時が巡ったような思いがした。「いったい、何をしてきたのです」 えんがまじまじと春海を見て言う。 大急ぎで来たせいで着衣は崩れ、頭にまだ破れた紙片がひっついているし、額には筆箱を投げつけられたときの痣《あざ》が出来ている。しかも胸には大事そうに布でくるんだ紙の束を抱いており、取っ組み合いでもした挙げ句に何かを奪ってきたような有り様である。 だが春海は全く別のことを口にした。「頼みがある。一生の頼みだ」「またですか。今度は何を頼もうと……」 えんが咎《とが》めるのを遮るように、春海は、冷たい敷石の上にきちんと膝をついて言った。「嫁に来てくれ」 えんの反応こそ見物だった。ぽかんとなるわけでも、驚いて絶句するわけでもなく、「正気ですか?」 疑わしそうな調子で訊いてきた。春海はこくこくうなずき、「本気だ。大いに本気なんだ」 ややずれたことを大真面目に主張している。「そういう話は……まずきちんと家を通すべきなのでは……」「うん、父君にお会いさせていただかねば」 反射的に膝を上げかけたが、「その恰好でですかッ」 いきなり叱られた。「だいたい、あなたが会ってどうするのです。あなたのお義兄《にい》様がいらっしゃるでしょう。そもそも私はもう荒木家の者ではありませんと申し上げております」 当たり前のことだが、この場合、春海の義兄である算知から、石井家の者に話を通してからでなければ、何にもならない。「も……もちろん、そうするとも。私は、ただ、気持ちを……」「婚礼の儀に、気持ちも何もないでしょう」 これが武家の常識である。春海は、うん、まあ、と口ごもっている。えんはちょっと溜息《ためいき》をついて話題を変えた。「関さんにはお会いできたのですか」「命を預かった」 神妙に胸の包みに手を当て、「私はもう一度、改暦の儀に挑む」 きっぱりと告げた。「つい先日は、病人のようなお顔をしておりましたよ」 えんが意地悪そうに言った。春海は、こっくりとうなずき、それから胸の包みを叩《たた》いて、「今は、士気|凛然《りんぜん》、勇気百倍だ」 勝負に敗れた者とは思えない、すごいことを口にした。えんはむしろますます叱るように、「それで、昔のように、私に、証人になれと言うのですか?」「それは……」 言いかけて、またもや大きくうなずいた。「星を見るために旅したとき、日と月とあなたの面影に護《まも》られて関殿への設問を考案した」 胸を張ってそう口にした。だが、えんに感銘を受けた様子はなく、逆に呆《あき》れ顔になって、「何を言っているのです、あなたは」 にべもなく吐き捨てられた。まるきり武家の男が、言い寄る町人の娘を追い払うような言いぐさである。かと思うと、またちょっと溜息をついた。それから、さも仕方なさそうに膝を折り、春海の顔を覗《のぞ》き込んで訊いた。