春海は、ちょっと胸を張って応《こた》え、刀の重みで左へ傾ぎつつ、雑踏の中へ走っていった。「やれやれ、高くついたな」 自分で律儀に計算しておきながら、ろくに値切ろうという発想もなく、春海は駆け足で道を大回りしながら呟いている。けれどもそれだけの価値はあったと嬉《うれ》しくなりながら、井上|河内守《かわちのかみ》の邸の門前を通り過ぎ、北へ向かって松平越前守《まつだいらえちぜんのかみ》の邸の門前を行き、同じく大名行列を避けて回り道をしようと詰め寄せた人びとの間を、押し合いへし合い、揉《も》まれるようにして進み、やっと酒井邸の方、大下馬所のある大手門へ辿り着いていた。 見れば、確かに〝雄壮だった。 御門とお堀の前で、江戸城と青空を背に、御家人や藩士たちがござを敷いて勢揃い、というか、ほとんど蝟集《いしゅう》している。彼らは、雨が降ろうが雪が積もろうが、主人が戻るまでずっとそこにいなければならない。みな見せ物ではないと言わんばかりに無表情だが、見物されることが前提としか思えないほど衣裳《いしょう》やたたずまいに気を遣っていた。 大名たちの参勤は、前将軍の家光が武家諸法度を改定し、制度となった。だが本来は大名たちが自発的に江戸に参府し、徳川家に儀礼を尽くす〝御礼の行いである。 それが制度化されたのは、大名たちにとっても、その方がありがたかったからだ。いちいち参勤の時期を確かめ、自分たちは参勤しても良いのか願書を出し、その返事を延々と待つよりも、定期的な参勤が義務化された方が、余計な苦労も出費もなくなる。 徳川家も、参勤する大名は歓待し、市中に宅地を与え、ときに邸宅建設の資金を融通した。そのため昨今は城の周辺にびっしりと大名邸が並ぶのが当たり前になっている。 そうした大名の家人たちに、強制されてそこにいるという様子はない。むしろ堂々と存在を示し、藩によって趣の異なる衣服や武具道具を、競うように見せつけ合っているのだから、実際、下手な見せ物よりよっぽど見応えがあった。 その武士たちが、いそいそと門へ行く春海に気づき、「なんだ、あのへたれ腰は?」「どこの士だ? いや……士か?」 じろじろ見つめ、口々にささやくのが聞こえ、春海はそれとなく襟を正しつつ、集中する視線に首をすくめて大手門を進んでいる。 先ほどの駕籠舁きたちが、そんな春海の住居を知ったらどう思うだろうか。 内桜田門の下馬所の前、邸を出ればあっという間に門へ進める場所、すなわち松平|肥後守《ひごのかみ》邸こと会津《あいづ》藩藩邸であることを知ったら、なるほどと納得したか、あるいは余計に呆れ返ったか。 春海は、大手三の門、中の門、中雀《ちゅうじゃく》門と、大名や役人たちとともに同じ道を粛々と進んでいる。大手三の門は下乗《げじょう》門とも呼ばれ、一部の役人や大名はここまで駕籠で来ることができる。そこから中雀門までは御三家だけが駕籠で進める。ほとんどの者が徒歩になり、またここでも主人の帰りを待つ者たちがその場にとどまるため、またも出勤の混雑だった。 しかもただでさえ厳重に警備され、また侵入しにくく設計された城の虎口《ここう》である。混雑する時間帯は、なかなか人が進まない。春海も、ときに脇にどいて身と頭を伏せ、また進む、とずいぶん苦労している。だが、ひときわ高く澄んだ青空を見上げながら、春海は、ひどく気持ちが高揚するのを覚えていた。 書きしたためた、絵馬の算術問題が、束になって懐中にあった。 自分が咄嗟には解けなかった設問に、『七分の三十寸』 一瞬にして答えを導いた、〝若い武士のまだ見ぬ姿が、ぼんやりとした影のように、脳裏に浮かんでいる。 わくわくした。 駕籠賃は高くついたし、走り回って汗みずくだった。刀の重さで足腰は痛むし、顔の横の、鳥居にぶつけたところもまだ少し痛む。 早起きをしたせいで頭はぼんやりするし、だいぶ腹も減った。 その上、これから仕事だ。 それでも、やっぱり、見に行って良かったと思った。 混雑する中之口御門から城内に入り、役人衆の下部屋の一つで着替えさせてもらった。 同じ部屋で着替える武士たちから、刀の脱ぎ方が違う、差し順が逆だ、などと講釈され、そのつど従順に言うことを聞きながら、春海は詰所へ向かっている。 詰所と言っても正式なものではない。談議したり道具を置いたりする場所が必要なため、部屋を借りているだけである。春海やその同僚たちが江戸に来るのは、秋と冬の間だけであることから、その年によって使わせてもらえる部屋が違うこともあった。 春海は、どこかに、あるいは誰かに、刀の鞘をぶっつけてしまわぬよう、左側の壁をつたうような進み方で、やっと部屋に辿り着いていた。 部屋に来たのは春海が最後だったが、何とか同僚との顔合わせには間に合った。 特別な行事のとき以外は、さして話し合うべきこともなく、挨拶《あいさつ》が済むと、春海はひたすら茶坊主からお茶をもらってごくごく飲み干している。 そうする間にも、本日のおのおのの役目が簡単に確認され、みな行ってしまった。 部屋に一人残った春海は、ようやく茶碗《ちゃわん》を置いて、背後を振り返った。 ありがたいことに、今いる部屋から先は、逆に帯刀は許されない。 そのため入室した際、教えられた作法通りに刀を脱ぎ、自分の後ろに置いてあるのだが、いかにも気に障る。刀には独特な気配があって、そこにあるだけで、やけに存在を感じてしまうのである。絵馬の群れの下に刀があるのを見た娘が、怒るのも無理はなかった。 あまりに気になるので、振り返って、ずずっと手で押しやった。まだ気になる。膝立ちになって壁際まで押しやり、それから完全に刀に背を向けた。 このような振る舞いをする春海が、御家人であるはずもない。もちろん旗本ではない。しかし将軍様に御目見得することができる。といって学僧のように面と向かって会えるわけではなく、ろくに将軍様のお顔を見ずに公務を行う。 刀から離れてほっと息をつきながら、春海は、その〝公務の準備に取りかかった。 部屋の一隅に、わざわざ京の職人に作らせ、江戸まで運ばせたという碁盤が並んでいる。 その一つを、自分の席の前まで運んだ。それから、白石、黒石の入った碁笥《ごけ》を、それぞれ傍らに置いた。そして作法通り一呼吸の間を置き、しっかり背筋を伸ばした。碁盤全体が等しく視野に固定されてから、碁笥を見ず、そっと黒石を一つ取った。 そしてその石を、ぴしりと、なかなか良い音を立てて打った。さらに白石を打ち、続けて黒石を打つ。暗譜した棋譜の中から、今日の指導碁に使うものを選び、石を並べてゆく。 別に遊んでいるわけではない。技芸であり仕事である。碁をもって徳川家に仕える〝四家の一員、すなわち御城の碁打ち衆というのが、春海の職分なのだった。 三 例年十一月、春海は、将軍様の前で〝御城碁《おしろご》を打つ。剣術で言えば御前試合にあたる。 碁打ち衆として登城を許された四家、すなわち安井、本因坊《ほんいんぼう》、林、井上の名を持つ者たちにのみ許された勝負の場であり、各家に伝わる棋譜の上覧の場であった。 そのため秋には江戸に来て、冬の終わりまで滞在する。そしてその間、定期的に城内で大名相手に指導碁を行い、あるいは大名邸や寺社に招かれ、碁会を開いたりする。 先に述べたように春海は十二歳で、同年代の四代将軍家綱の御前で碁を打つ公務を務めた。 翌年、十三歳のとき、父が死んだ。 そのとき父の名を丸ごと継いで安井|算哲《さんてつ》と名乗った。それが本来の春海の名である。 安井家は清和源氏に発して、足利《あしかが》、畠山より分かれ、畠山家国の孫である光安が、河内国の渋川《しぶかわ》郡を領したことから、まず渋川家を名乗った。 さらにその孫である光重が、播磨《はりま》国の安井郷を領し、安井家を名乗った。 そしてその子孫である父の安井算哲が、十一歳のとき〝囲碁の達者な子として大権現様こと徳川家康に見出されたのである。以来、囲碁をもって駿府《すんぷ》に仕えた。そして江戸に幕府が開かれるとともに、生家のある京都と、御城のある江戸との間を往復する生活になった。 その父の跡を継いだのだが、春海には、二代目安井算哲を名乗って名乗らぬという、ちょっとした事情があった。 というのも春海は算哲晩年の子だった。 そのため春海が生まれる前に、父は他に養子をもらっていたのである。 名は安井|算知《さんち》、三代将軍家光が見出した碁打ちの達者で、今年、四十五歳。 春海が生まれてからは、義兄として、また後見人として、春海を支える立場となったが、そのときにはもう既に、春海と同じ〝安井の名を継いでいた。 父兄を敬うのは徳川幕府の奨励するところである。美徳である以前に、法令として遵守されるべきものだった。家は長子が継承し、次男、三男は、他家に養子に出されるか、独立して召し抱えられるか、そうでなければ冷や飯食いとして冷遇される。春海も、長子であり二代目でありながら立場としては次男という、近頃たまに武家でも見かける中間的な立場となっていた。 しかも安井算知の働きには文句のつけどころがない。 かの三代将軍家光の異母弟にして、将軍や幕閣から絶大な信頼を得ている、会津肥後守こと保科正之《ほしなまさゆき》の、碁の相手としても召し抱えられているのである。 春海が江戸では会津藩邸に住んでいるのも、その安井算知の後援ゆえだ。それほどの技量と地位、また二十年もの経験の差を持った義兄である。その算知を立てるとき、春海は、安井ではなく、あえて一字変えて〝保井を名乗った。あるいは同じ安井家一党であることを強調すべきときは改めて〝安井を名乗った。その場そのときに応じた名乗り方をしたのである。 そしてそうするうちに、また別の名が現れるようになった。〝渋川春海という名が、物心ついた頃、ふっと心の片隅に生まれた。 目的があって頑張って考案したのではない。自然と、それを自分の名と思いついた。 以来、公務以外で、なんとなく〝渋川春海を称した。それが受け入れられるようになると、だんだんにそちらの名を使う機会が増えていった。 署名も、保井と安井、どちらも使う必要がないときは、渋川を使った。 渋川郡を領した祖先を敬ってのことだ、と言うと恰好が良いが、要は、それだけ曖昧で、よりどころを失いそうな立場なのである。ころころ名を変えるなど、いかにも次男、三男のすることだった。自らの存在を成り立たせる手段を〝新しい名に求めているのは明らかである。 だが春海の場合、あんまり悲愴《ひそう》さはない。それどころか自身の曖昧な立場を素直に受け入れ、むしろ自由さとして味わっているところがあった。 そもそも今の立場が嫌なら、寺社奉行所に「我こそが安井算哲」と訴えれば良い。 安井算哲の長子である春海にはその権利がある。あるいはそうまでせずとも、繰り返し安井算哲を名乗り、家業に邁進《まいしん》すれば、おのずから周囲も安井家の長子とみなすようになる。 特に今年、保科公の意向で、算知は会津にいた。御城碁に出仕できる安井家の者は、春海だけである。そういうときこそ、努めて安井を名乗るべきであろう。 だがそれをしない。 しないばかりか、〝渋川などという碁打ち四家いずれにも属さぬ名をわざわざ使う。 髪形や帯刀の問題も、実のところ、そうした春海自身の態度に原因があった。 先にも述べた通り、春海は武士ではないので束髪はしていない。剃髪《ていはつ》もしていない。 では武芸者や学者のような総髪かというと、なんだか中途半端で、子供の髪形のようでもある。というより、髪も服も、そのつど指示に従っていた。 城内の服飾は、日々、将軍様や、奏者番、目付の意向などで、ころころと変わった。 春海のような職の者は、昔から寺社奉行の〝呼び出しに従って出仕する。奉行所から、次の登城の際には、これこれこのように着衣を調えるように、と指示が下される。 城内では、身分によって着るべきものが事細かに決まっている。特に登城する大名たちには、咄嗟に武力行使ができぬよう、身動きが取りにくい礼装が定められたのだという。 ただし、かなり気分的な指示も多く、〝今回の儀式は派手めに着飾るようとか、〝倹約令の発布のため簡素になど、言ってしまっては悪いが、朝令暮改だった。 大きな規則を運営する上で、しばしば発生する、雑音のごとき決まり事もある。 いったん作られた決まり事が、無数の小さな決まり事を生み出してゆく。さらにそれらが、互いに矛盾する決まり事を生み、その矛盾を解消するため、また新たな決まり事が生まれる。 中には咄嗟に意味が分からず、馬鹿馬鹿しいとしか思えぬものもあったが、細部にわたって守らねば城内にいる資格を失う。身分が高い者も低い者も必死である。 春海も、それで途方に暮れたことがあった。 とある行事の際、急に、髪と帽子のことを指示されたのだが、髪が足らないのである。 そのため〝毛髪不足を真面目に訴え、書類まで作って、髪がこれこれの長さに伸びるまで指示に従わなくともよい、という許可を得ねばならなかった。 そしてその決まり事も、次の行事の時には、なくなっていた。なんとか伸びたと、ほっとした髪を、がっくりしながら切って、元の髪形に戻したものである。 刀もそうだ。春海はこの歳まで帯刀したことがない。まさかするとも思わなかった。 それが、「剃髪をせぬのに無腰でいるのは何やら見栄が悪い」との意見が、目付あたりから急に降って湧いたとのことで、ある日、いきなり寺社奉行所から刀が下賜された。 春海の職分での帯刀は珍しい。というより本来ならありえない。 同僚たちの間では、ただ一人の例外的な措置で、名誉でもあった。 だが春海はちっとも嬉しくない。何しろ下賜とは名ばかりの借り物である。官給品であり、二刀分の借り賃がしっかり俸禄《ほうろく》から天引きされる。うっかり失くせば厳罰が下る。実際、酔っ払った御家人が刀を置き忘れた上に盗まれ、厳しいお咎《とが》めを受けることがたまにあった。 重たい上に俸禄は減る。座るにも駕籠に乗るにも邪魔だが、どこにでも持って行く義務がある。しかも扱いが悪いと、こっぴどく怒られる。まかり間違って城内で鞘当てでもしたら進退問題になる。そのせいで道でも廊下でも、武士とすれ違うときは左端にべったり寄った歩き方になってしまう。剣術などろくに知らない春海からすれば、疫病神に憑《つ》かれた気分である。 しかも帯刀したらしたで、今度は、「束髪もせぬのにへっぴり腰で帯刀する者がいるのは見栄が悪い」というような声が、どこからともなく聞こえているらしい。 春海としては、いつでも喜んで二刀を返上する気でいるのだが、残念なことに、まだそういう指示が出される気配はない。 碁打ちの身なりは僧に倣うのが一般的である。立場が上になれば京都から薄墨《うすずみ》の綸旨《りんじ》をいただき、僧侶《そうりょ》として高い官位をもらう。だいたいが駕籠で登城するたぐいの、けっこう身分の高い幕臣なのである。またそうでなければ将軍様の御前に出ることなど許されるものではない。 こうした碁打ち衆のあり方は、かつて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の覇者に碁をもって仕えた本因坊|算砂《さんさ》に始まる。算砂は、織田信長より〝名人と称えられてその始めとなり、豊臣秀吉より碁所《ごどころ》および将棋所に任じられてその始めとなった。そして本因坊算砂の背景には日蓮《にちれん》宗の存在があったことから、徳川家康は城の碁打ちや将棋指しを寺社奉行の管轄とした。 つまり春海も、安井算哲の名を継ぐと同時に、さっさと頭を丸めればよかったのである。 それなら、ある日突然、己の体重の三分の一にも等しい刀(春海が実際に量ったところ、正確には三分の一よりもっと重かった)などを抱えるようなことにはならなかった。 というより、そんな事態になる方がおかしい。同僚たちも、春海の帯刀の名誉を認めつつも誉めはしない。むしろ、なんでそんな状態になるのかと怪訝《けげん》な顔をする。 だがそれでも、春海には、あえて曖昧さの中に己をとどめようとする思いがあった。 このままただ安井家を継いでしまったら、どこかにあるはずの本当の自分が、この世に現れる機会が消えてしまうのではないか。そんな思いが、どうしても消えないのである。 他の次男、三男の者たちからすれば、家督は継げるがあえて継ぐことを悩むという、実に噴飯ものの贅沢《ぜいたく》と言えた。碁打ちという特殊な職分、義兄の高い地位が、偶発的に生んだ自由さであり曖昧さだった。だが春海の思いは、かなり真剣な気持ちに裏打ちされている。だから、碁以外に、これはと思ったものには、とことんまで打ちこんだ。 算術はその代表格で、そろばんも算盤も、六つのときに初めて習って以来、なんと面白いものがこの世にあるのだろうという思いで使い続けている。どちらも触れているだけで新しいものが生まれそうだった。それも、他ならぬ自分の手で生み出せるのではと思えてくる。 そんな昂揚《こうよう》をもたらすしろものを若者が手放せるはずがない。肌身離さず持ち歩いた。刀は忘れても算術の道具だけは決して忘れなかった。 幾らやっても算術だけは|飽きない《ヽヽヽヽ》。それがこの城に勤める自分にとって、どれほどの救いとなっていることか、碁盤に並べた石を眺めながらつくづく自覚させられた。 脳裏にはあの『七分の三十寸』の絵馬がちらちらよぎり、どうにも仕事に身が入らない。 そこへふいにまた茶坊主がやって来て、「もっと飲みますか?」 と言ってくれた。仕事が中断されたことを春海は喜んだ。「うん、ありがとう」「今日も、お相手は酒井様ですか?」 茶坊主が茶湯を出しつつ、さりげなく訊いた。酒井とは老中の一人、酒井〝雅楽頭《うたのかみ》忠清《ただきよ》のことである。茶坊主衆には、権力者たちの日々の様子を観察するような、城の勢力構図の変化をいちはやく見抜こうとするようなところがあって、こういう質問をしてくる者が多い。 だが、春海はそういうことに頓着《とんちゃく》せず、「うん。なぜか私がお相手する」「それはまた、ずいぶんと見込まれておられるのですねえ」「うーん、どうだろう」「お菓子などはいかがですか?」「えっ? 良いのかい?」「ええ、ええ。お持ちしましょう」「それは助かる。ありがとう、ありがとう」 昼食まで空《す》きっ腹でいることを覚悟していたので心から感謝しながら、ほとんど手癖のように、そろばんを取り出している。「さ、どうぞ」 茶坊主が差し入れたお菓子を見ながら、ぱちぱち珠を弾いて、「こんなものかな。些少《さしょう》だが」「はい。ちょうど良きかと存じます」「さようであるなら」 と銭を茶坊主に渡している。 城内には、上級から下級まで大勢の茶坊主衆がいて、雑用や給湯茶事を行う。彼らは同時に城内の連絡役を勤め、ときに城の事情に疎い諸大名のため便宜をはかったりもする。 そのため諸大名が茶坊主衆に〝御用を頼んで手当を支払い、自邸に出入りさせて饗応《きょうおう》することが慣習となっていた。春海もそれに倣って小遣い銭を渡すのだが、大名たちの手当に比べれば些少に決まっている。ただ暗算できるような銭勘定に、わざわざそろばんを弾くところに愛嬌《あいきょう》があって茶坊主衆は春海を〝そろばんさんなどと呼び、けっこう親しまれていた。 春海はそんなことは全然知らない。茶坊主たちは、みんな親切だな、と思っている。自分のことを茶坊主たちがそんな風に渾名《あだな》しているのを知ったら、かえって喜んだのではないか。中には、自分たちの立場を笠《かさ》に着て横柄な振る舞いをする茶坊主たちもいたが、そういう実態も、春海はよく分かっていない。「いつもながら、本当にお好きなんですねえ、そろばん」 去り際に、茶坊主が感心した風に言うのへ、「うん。まったく奥が深い。あなた方も持ち歩いたらどうだろう。きっと便利だよ」 にこにこ応じたりして、茶坊主が部屋に戻ったとき、笑い話の種にされるとは、てんで思っていない。ただ、「いつも親切にありがとう」 春海の丁寧な振る舞いのせいで、笑い話が嘲笑《ちょうしょう》や揶揄《やゆ》にはならないところが、人徳と言うべきか、こういうところでは妙に得をする性格でもあった。「いえいえ。いつでも御用の時はお声がけ下さいますよう」 と退去する茶坊主に、わざわざ賄賂《わいろ》を渡すほど、城内の働きに懸命な春海ではない。 ただ習慣に従っているだけで、もし銭を渡さねば茶坊主から冷ややかな扱いを受けるような、無為な身分でもなかった。座布団だって、頼めば銭なしでこっそり貸してくれる。 ありがたく茶菓子をむさぼった春海は、改めて今日の指導碁のため、盤上で布石の順序を工夫した。そうするうち、だんだんと石を運ぶ手が滞り、やがて完全に止まってしまった。 もう我慢できなかった。いそいそと石を片づけると、懐から算盤を取り出し、つい今まで業務を行っていた碁盤の上に広げ始めた。 あまつさえ算盤の布が動かぬよう、黒石で四方を押さえたりしている。そうしながら、『七分の三十寸』 あの答えが、本当に合っているのかどうか、早く確かめたくて仕方なかった。 というより、合っている、という気がしてならない。瞬時にして書きつけられたという絵馬の答えの全てに、ことごとく『明察』の二字が付された光景が、やけに明瞭に想像できた。その想像通りであることを確認するまではおちおち仕事にも集中していられない。 どうすれば『七分の三十寸』に至ることができるか、解答から術式を逆算してゆくことが主眼となった。問題はすっかり暗記しているし、自分が解こうとして行き止まりにぶつかった幾つもの術式も一つ一つ思い出せる。 誤謬もまた答えの一部である。誤謬が増えていけばいくほど、辿り着くべき正答の輪郭が浮かび上がってくる。今はまだ算術の公理公式というものが総合され始めたばかりであり、どの術も、多分に、個々人の才能と閃《ひらめ》きによって導き出されることが多かった。 だからこそ面白い。未知こそ自由だった。誤りすら可能性を作り出し、同じ誤りの中で堂々巡りをせぬ限り、一つの思考が、必ず、次の思考の道しるべとなる。 そんな算術の醍醐味《だいごみ》を味わい、我知らず微笑んで算木を並べるうち、ふいに、これはという手応えを感じた。やはり勾股の相乗が起点であるのだ。勾股弦の法をもって等しい線の比を出すため、勾股弦の総和、勾股の和、弦による乗あるいは除と、順に組み立てれば、きっと……、と、そこまで辿り着いたとき、「いったい何をしているのです」 おっそろしく不機嫌な声が飛んできた。 振り返る前に、春海には誰だか分かっている。相手が急に現れたことよりも、その怒りを秘めた声にびっくりした。「ずいぶん早く戻ってきたね、道策《どうさく》。もう指導碁は終わったの?」 少年が部屋に入って来て、ぴしゃりと鋭い音を立てて戸を閉め、「松平様より席を外すよう申しつけられましたゆえ。道悦《どうえつ》様だけ残り、わたくしは退席致しました」 むすっと告げ、碁盤を挟んで春海と向かい合った。 初々しい顔立ちに似つかわしくないほど、みなぎる才気の相である。正面に座られると、大人でさえ気圧《けお》されると評判の少年だった。 名を、本因坊道策。 今年で十七歳となる若手の碁打ちである。 つい最近まで三次郎と呼ばれてみながら可愛がられていたが、その才気|煥発《かんぱつ》の著しさから、師の本因坊道悦に跡目とみなされ、既に、本因坊道策を名乗ることを許されていた。 春海と同じく、剃髪せず束髪せずの髪形だが、こちらは正式に本因坊家を継いで剃髪する日を待ち望んでいる。また、決まり事に従って帽子を乗せているが、公家《くげ》だか僧だかいまいち判然としない型の帽子で、これも朝令暮改の一つだった。来年辺りには型ごと消えてなくなっていそうな帽子だが、道策は毎日きちんと手入れをしている。「松平様も、道悦殿が相手だと、きっと気を楽にご相談できるのだろうね」 春海が少年を宥《なだ》めるために言った。少年が、自分だけ退席させられたことに怒っているのだと勝手に解釈している。 松平様とは松平〝伊豆守《いずのかみ》信綱《のぶつな》、今の四老中の一人である。前将軍家光に老中に任ぜられ、家光が薨《こう》じたとき、家光自身と、その異母弟たる保科正之から、殉死追い腹をせず、四代将軍を補佐することを命じられていた。それほどの政治の才能を持ち、かの島原の乱でも総大将を勤め、その功績で加増を賜って武蔵川越《むさしかわごえ》藩に移封されると、今度は藩政でも数々の功績を残している。とても春海や道策が、碁を行いながら、世相、訓戒、学問について、様々にお話を交わす、といったお相手を勤められる人物ではない。「違います」 だが道策に鞭《むち》でも振るうような鋭さで返され、春海は首だけ前に出し、「違うって、何が……?」「わたくしが今、このような態度を、あなたに対して取っている理由です」 みなまで説明させるなと言わんばかりの叱責《しっせき》口調を、正面から浴びせられた。「違うのかい?」「はいッ」「じゃぁ、何をそんなに怒っているんだ?」「これです、これッ」 道策がじれったそうに目の前のものを指さす。盤上に広げられた算盤と算木である。「これがどうかした?」「あなたは、神聖な碁盤の上で、いったい何を遊んでいるのですかッ」 通策が躍起になって身を乗り出し、その分だけ春海が引きながら、なおも宥めて、「遊んでいるわけではないよ、道策。私は、ただ……」「六番勝負ッ」 屹然《きつぜん》となって道策が遮った。知らぬ者にとっては何のことだか分からない。 道策には、その抜群の頭の回転の速さから、過程をすっ飛ばして結論だけ告げる癖があり、春海も一瞬だけ混乱したが、「ああ」 なんとなく分かった。 六番勝負とは、春海の義兄である安井算知と、道策の師のさらに師である本因坊算悦が行った、真剣勝負の御城碁のことだ。 碁打ちの頭領たる前代の名人碁所が死去してのち、座は空白であったことから、安井算知と本因坊算悦が、その座を争い、互先《たがいせん》による六番碁を打つこととなったのである。 碁所を賭《か》けた勝負は初めてのことで、〝争碁《そうご》と呼ばれ、城中でもかなり話題になった。 将軍様御前にて鬼気迫る勝負が八年にわたって行われ、結果は、双方、三勝三敗。 碁所は空白のまま、算悦が死去し、道悦が本因坊を継いだ。 現在、安井算知が碁所に最も近い。だが実際にその座に就けば、道悦が〝争碁を申し出て、再び白熱の勝負が行われるであろうことは、衆目の認めるところであった。 しかし、春海は首を傾げて訊いた。「私やお前が、勝負を行うわけではないだろう……?」「道悦様、算知様ののちは、わたくしたちの勝負でありましょう、算哲様ッ」 だから、互いに師の戦いを見守り、今から腕を磨いて勝負に備えるべきだ。そういう、きわめて強い意志が、声に乗って高波のように迫ってくる。 その波を頭から浴びせられても、春海は、ぷかぷかと海面に浮かぶような平和な顔でいる。 それ以外、どういう顔をしたらいいか分からない。争碁という一大事と、自分自身との間に、やけに遠い隔たりを感じて仕方なかった。算哲と、父の名で呼ばれても、頭では自分のことだと分かってはいるが、どうしても心に届かない気持ちがした。「どうかなあ。お前の相手なら、知哲《ちてつ》がふさわしいと思うよ」 呑気《のんき》そうに、しかし春海本人はけっこう真剣な気持ちのつもりで言った。 知哲は、安井算知の実の子で、春海の義理の甥《おい》、道策より一つ上、十八歳になる。 算知にとっては本来、自分に次いで安井の名を継いでくれる子で、今は春海の〝義弟の立場にある。実際、それだけの才覚を持っている。まだ御城碁を勤めたことはない。だが今年、算知や春海とともに後水尾《ごみずのお》法王の御前にて対局を上覧に供するという大仕事を立派に勤めていた。 さすが安井算知の子だ。春海は感心した。というか自分こそ安井なのだが、春海は素直にそう思った。また知哲の方も、ちゃんと春海を目上として立てるので、安井の名を巡って啀《いが》み合う、といった事態にはなりそうもなかった。むしろ春海は近頃、なんだか知哲が安井家を継いだ方が良いのではないかとすら思えてきていた。 だがたちまち道策のおもてが真っ赤になっていき、怒りの眼光鋭く、春海を見た。もとが清秀たる面立ちである分、怖い迫力がある。「わたくしでは、あなたの相手にふさわしくないと、そうおっしゃるのですかッ」 春海はぽかんとなって、「いや、違う。道策、それは違う」「何が違うのですッ」「きっと私の方がお前の相手にならないよ」 だが道策の耳には入らない。完全に怒り心頭に発した様子で、「二代目安井算哲に挑むに値せざるや否や、ただ今この場で、ご覧に入れたい」 盤上の算盤に叩《たた》きつけるように掌を置くと、ざざっと、容赦なく真横へ払った。 当然、せっかく並べた算木が台無しになって算盤ごと床に落とされてしまった。「ああっ!」 慌てて算木を拾い集める春海に、道策はますます屹然となり、「何をしているのです。そんな木ぎれなどより石を持ちなさい石をッ」「知らないのか。これは算木と言って――」「知っています」 きっぱりと道策に遮られ、春海はなんだか泣きたくなった。「我が師たる道悦様が、あなたのことを何と仰《おっしゃ》っているかわかりますか」「さて……」 算木の数をちゃんと確かめながら肩をすくめた。道悦ともあろう者が、この自分をわざわざ話題にすること自体が不思議だった。「そろばんだの星だのに費やす労を、碁に注げば良いものを。せっかくの得難い才を無駄にしているのだそうですよッ、あなたは。わかっているのですか」 まるで自身が窘《たしな》められたかのような道策の口ぶりである。春海は笑いそうになって何とか我慢した。碁の天才たる道策がうぬぼれないよう、安井家を引き合いに出してそんなことを道悦が言ったのだとしか春海には思えない。 まさか碁打ち衆が、陰で、次の世代の〝争碁を、春海こと安井算哲と本因坊道策の一騎打ちとみなし、今からどちらの家に分があるか噂し合っているなどとは考えもしない。 道策の碁が、一手一手に才気を溢れさせ、刹那《せつな》の閃きを棋譜に刻みつける碁である一方、春海のそれは幾重にも理を積んで巧みに棋譜に織り込む碁であるとされた。矛盾した戦法をあっさり両立させたりすることから、〝二代目算哲に限っては水が油に混じると称された。 しかも長時間の戦いにやたらと強い。碁会など数日がかりの勝負が行われることがしばしばあるが、初日と最後の日とで表情がほとんど変わらないのである。何日続こうと平然と打つ。そのため対戦相手の方が勝手に惑乱して、潰《つぶれ》れてくれることが多かった。疲れ知らずというより最初から疲れることをしていない。記憶力が本当に優れている者は、忘れる能力にも長けている。今日打った手のことなど晩に忘れ、翌朝に昨日の棋譜を眺めて新たに続きを考える。 義兄算知や義弟知哲のことはともかく、春海も春海で、ずいぶん〝才覚ありとされているのだが、本人はそうしたことに一向に頓着しようとしない。また、頓着しないことが、春海にとって己を守るすべでもあった。 算盤の布できちんと算木を包みながら、春海はちょっと言い方を変えた。「いや、道策。実のところ、碁にも通じるのだよ、算術も星も」 星とは文字通り星や月や太陽のことで、その観測は、算術の次に春海を熱中させた。邸の庭に、わざわざ断って日時計を造り、影の長さを測って日の運行を記録した。そしてそれを古来の暦術に照らし合わせつつ、最新の観測技術や暦術も参照し、独自に暦の誤差修正を行うという、かなりのことまでやった。むろん本来の勤めからはかけ離れた行いで、無駄と言えば本格的に無駄である。だが春海は真面目な顔で主張した。「月星日の動きにも定石がある。その定石を算術が明らかにするのだ。夏至も冬至もあらかじめ分かるし、時の鐘とて、暦の術をもとに鳴らす時をはかって――」「星はあくまで天の理でしょう。碁は人の理です。星の定石が、碁の役に立ちますか。そんな定石があったとしても、このあたくしが破る。さあ、石を持ちなさい。持ちなさいったら」 道策はすっかり躍起である。碁笥から黒石をすくって春海の手に握らせようとまでする。 それほど感情をあらわにする者は、普通、勝負の場ではきわめて不利なのだが、道策にはその不利を補って余りある才能があった。「わかった、わかったから睨まないでくれ」 やたらに澄んで鋭い道策の双眸《そうぼう》は、春海が背後に押しやった刀の刃を想わせた。なんだか命を取られそうな怖い気持ちになる。どうせお呼びがかかるまでのことと軽く考え、相手を宥めるため石を一つ手に取ってみせた。 道策が無言でうなずく。すぐに背を伸ばして白石を取り、春海が初手をどこに打つか、盤上と春海とを等分に視界に置いて、じっと待っている。その姿勢一つ見ても、道悦の教えの良さ、道策自身の溢れる才気が分かる。師も弟子も一つの道に邁進して己を疑わない。(良いなあ) 春海は素直に羨んだ。嫉妬《しっと》ではない。何か美しいものを観たときのような感嘆の念で道策を見た。果たして自分は道策のように、一抹の疑いさえ抱かず、全霊の気迫をもって自己を費やすべく碁が打てるだろうか。そう思いながら、半ば無意識に、初手を右辺の星へ打った。 亡父が遺《のこ》した打ち筋の中でも、特に好きな、〝右辺星下の初手打ちだった。 安井家の秘蔵譜である。それだけのものを見せねば、なんとなく道策に失礼な気がした。 気がしたが、すぐ気が変わった。道策の目の輝きから、未知の打ち筋に、強烈な歓びを感じているのを覚った。つまりは学び取る気をみなぎらせているということである。(ああ、まずい。奪《と》られる) 亡き父の、安井家の打ち筋を、紙が水を吸うように、この俊英に吸収されてしまう。これでは義兄たる算知に断りなく、安井家の棋譜を、本因坊家に譲り渡すことになる。(これは困った) そう思う一方で、早くも半ば諦《あきら》めていた。道策のきらきら光る瞳がそうさせた。序盤の打ち筋くらいは譲り渡しても良いのではないか。技芸は、それにふさわしい者が発展させることで将来の新たな道が拓《ひら》ける。きっと道策ならば、自分よりも……、という思いに駆られたとき、「失礼致します、春海様」 先ほどの茶坊主が部屋に来て、道策の顔が面白いほどに歪《ゆが》んだ。「井上様がお呼びになっておられますので御案内したく存じます。用は直接会ってお話しすると井上様は仰っておられます」 春海は、渡りに船という気持ち半分、道策への申し訳なさ半分で、「うん、そうか。では、道策。すまないね」「続きを、是非ッ」「うん、そのうちに」「算哲様ッ」「まあまあ。お互い、勤めがあることだし」「お勤めの後でも良いではありませんかッ」「御免よ、また今度な」 悔しさ余って石でも投げつけそうな道策から逃げるように、首をすくめて春海は部屋を出た。 四「ずいぶん、いろいろな方に見込まれておられるのですねえ」 わざとらしく感心する茶坊主に、「うーん、どうだろう」 曖昧に応えながら、大廊下、すなわち松の廊下を進んでいった。大広間と呼ばれる最も大きな殿舎と、白書院と呼ばれる行事のための殿舎をつなぐ、長いL字形の廊下である。 右には池と井戸がある大きな中庭、左には廊下の名の由来である浜辺の松、群れ飛ぶ千鳥が描かれた醇美《じゅんび》たる襖《ふすま》が並び、御三家や前田家の部屋、諸役人の詰所となっている。 春海を呼んだのは、井上〝河内守正利、笠間《かさま》藩主であり五万石の譜代大名である。寺社奉行と、儀式を司る奏者番とを兼ね、春海に刀を与えるよう指示した男でもある。 松の廊下に、寺社奉行の詰所はない。寺社奉行は四人ほどの大名が月ごとに交代し、その月の当番である大名の邸が役所となる。 井上本人はもっと先、廊下をずっと進み、白書院の帝鑑《ていかん》の間からさらに奥、奉行や大目付などが詰める芙蓉《ふよう》の間の、すぐ外にある小さな中庭で待っていた。 茶坊主が退《さ》がり、春海が慇懃《いんぎん》に挨拶をすると、井上は一瞥して、「刀には慣れたか」 と、大して期待していないような訊き方をした。「いえ、大変に重うございます。とても武士のようにはまいりませぬ」 春海は心の中で、もしや二刀の返上を命じられるかもしれないと嬉しくなったが、「いずれ身の一部のようになろう」 その井上のひと言で、引き続き、刀に苦労することが分かってがっくりきた。「それにしても分からぬ。どういうことだ?」 いきなり井上が訊いた。春海の方こそ何が何だか分からないが、「は――」 と相づちを打たねば失礼になるので、とりあえず頭を下げた。「お主、酒井から何を命じられておる?」「は……、いえ……?」 反射的にうなずき、それから混乱しつつかぶりを振った。確かに近頃、指導碁の相手として指名されることが多いが、それ以外、特に何かを任されたことなどなかった。「何も……ご下命を賜っておりませぬが」「何も?」 じいっと井上が見据えてきて、春海はますます混乱した。井上の顔が険しくなった。「酒井の小せがれめが、何のつもりか」 春海は無言。事の次第が分からないのに下手に口を利けば面倒になる。それくらいのことは十年の御城勤めで学んでいる。 また、井上と酒井が、いわゆる犬猿の仲であることも知っていた。 とにかく馬が合わない。井上は、五十六歳。対して酒井は弱冠三十七歳の老中であった。 仲違《なかたが》いのきっかけは、井上が何かについて助言をした折、酒井がやたらと達者な口を利いたため、などと言われている。以来、井上は酒井への批判をしばしば口にし、しかも、この自分がわざわざ小僧っ子を批判してやっているのだという口ぶりをする。 寺社奉行は、町奉行や勘定奉行と違い、老中の支配を受けない。だから井上は老中である酒井に対しても公然と意見を言うのだが、当の酒井は、「さようでありますか」と、反論も肯定もせず、聞かなかったかのような平淡さで返し、ほぼ黙殺する。 しかもその上、酒井は、ごく当然のように井上を自邸に招待したりする。 井上が応じるわけがない。あえて、「畏《おそ》れ多くも」などと、くそ丁寧に断って返す。 完全に水と油である。そのくせ春海からすれば面白いことこの上ないのだが、井上と酒井は、江戸では隣人同士だった。振り袖《そで》火事によって江戸が炎に包まれるわずか十七日前に出版された、明暦《めいれき》三年の正月版新添江戸之図でも、大手門至近に、酒井〝雅楽頭と、井上〝河内守の邸宅が、〝仲良く並んでいる。あるいは性格が異なる者同士が隣人となってしまったせいで、かえって仲が険悪になったのだろうか、とさえ思わされる。 そんなわけで井上には、陰で〝下手三味線という、あんまりありがたくない渾名がつけられていた。酒井の〝雅楽頭にかけて、歌はお気に召さない、というわけである。「つまりはお主、老中酒井様のご愛敬《あいきょう》とでも申すのか?」 そんな風に刺《とげ》をふくんだ慇懃さで酒井のことを呼ぶ。春海からすれば、ますます訳が分からない。それなのに自分まで井上に嫌われるのは、実に困る。「は……、私には、まるで見当がつかず、いったい何のことでございましょうか……?」 つい口に出して訊いた。井上が目を剥《む》いた。怒りの顔である。春海は、なんだか今日は色々な人間に怒られるな、と途方に暮れた。しかも今度の相手は大名である。反射的に井上の腰に目がいった。城内でも太刀は脱ぐが脇差しは差したままである。武装した上司に怒られるというのは本当に肝が冷えた。しかも井上は実際に刀を使えるし使ったことがある。〝戦時を知る人間であり、怒りの相が発する殺気の桁が違う。春海は城の屋根の端に立ってぐいぐい背中を押され、今にも踏み外しそうになっている自分を想像した。「刀のことだ」 吐き捨てるように井上が言い、そして急に怪訝な様子を見せた。 混乱と恐怖で蒼白《そうはく》となる春海を、また違う目つきで注視し、かと思うと呆れ顔になって、「本当に、酒井は何も言わんのか?」「は……。何を……でございましょう……」 ただ同じ言葉を繰り返すだけの春海に、手を振ってみせ、「もう良い。戻れ」 ここまで人を惑乱させておきながら無体も良いところだが、春海はひたすら安堵した。「は……では、これにて失礼|仕《つかまつ》ります……」 命を救われた気分で、蹌踉《そうろう》となって松の廊下へ戻った。するとまた別の茶坊主が、春海を待ち構えるようにしており、「酒井様がお呼びでいらっしゃいます。早めに部屋に来るようにと」 春海はなんだかめまいがした。 五「では、この手はどうだ」 ぱちんと石を置いて言う。肩肘《かたひじ》を張らず、といって気を抜いたわけでもなく、淡々と打ち、話し、人を見る。感情の起伏というものがほぼ表に出ない。というか感情があるのかと疑いたくなる。それが酒井〝雅楽頭忠清のいつもの態度である。「申し分ありません」 春海が言いつつ石を置くと、「であろうな」 そんなことは知っているという態度で新たに石をつまんでいる。この老中は、城で好まれる定石を延々と繰り返す。それも序盤の布石を特に学び、勝つための戦いは二の次としている節がある。たとえ負けても、五十手も百手も、先の先までお互い読み合えるような定石を、いかにして外れないかが大事、というようだった。 実に極端である。人を相手に打つ意味がない。碁の指導書を読みながら打てば足りる。 春海はなぜこの老中が、自分に指導碁を行わせるのか、さっぱり分からない。 それも近頃、急にそうするようになった。他の老中たちに遠慮して、まだ若い春海を指名しているのだろうか、と最初は思ったが、それにしてはこの老中、春海から何かを学ぼうという気配は、かけらも見せたことがない。 そもそも公務の合間に、わざわざ城で碁を打つ理由は限られている。 一つには、能と同じく、碁が武士の教養とされている側面がある。能は、将軍自ら披露し、また大名たちに披露させる。ゆえに各家にそれぞれ十八番があって練習に励み、自邸に能舞台がある大名邸には、他の大名が練習のため舞台を借りに訪れたりする。 碁も同じで、将軍の御相手を勤める機会はほぼないに等しいが、大名同士で打ったとき、互いの打ち筋について話題の一つや二つ持っていなければ、教養が低いとみなされる。 さらに碁は、政治的な根回しの場でもあった。碁の交友は、武家、神官、寺社、公家と、きわめて広範囲に広げることができ、碁打ちの人脈は、なみの大名を遥かにしのぐ。特に宗教勢力との接点は非常に多い。春海個人ですら、江戸、京都、会津と、東西にわたって広い交友関係を持つ。つまり老中にとって、指導碁を受けるとは、碁打ちから、様々な情報を得ることであり、人脈作りの一環だったわけである。 だが酒井の目的は、碁でも人脈でもなく、全然違うところにある気がしてならない。 しかも、先ほど井上に尋ねられた言葉が、やっと冷静に考えられるようになっていた。 刀のことだ。 およそ考えにくいことだが、春海の中では、しきりに二つのことが結びつけられようとしていた。碁打ちである春海の帯刀と、酒井という若い老中の存在である。 いったいなぜ突然、春海に刀が与えられたか。それは実は、この老中酒井が、目付に根回しをし、寺社奉行に話を通させ、春海に刀を渡させたのではないか。 だがなんのために? よっぽど直接尋ねてみようかとも思ったが、それでは自ら井上と酒井の間に飛び込むことになるのではないか。前門の虎、後門の狼である。恐ろしいことこの上ない。まかり間違って、井上と酒井の間のいさかいに、安井家が巻き込まれようものなら、亡父と義兄に申し訳が立たない。 結局、ただ定石通りの指導碁に終始するほかない春海に、ふと酒井の方から、「お主、そろばんが達者であるそうだな」 などと言ってきた。本当はまったく興味を持っていないかのような淡々とした調子である。ただ暇潰しに口にされたようで、これは確かに井上ならずとも、かちんと来るかも知れない、と素直に思った。「は……いまだ未熟でありますが」「碁盤の上で算盤を広げるほど、算術に熱心だそうだな」「は……、それは……」 これが御城の恐ろしいところだ。つい先ほどの詰所での会話など完全に筒抜けである。老中に知られずにいられるものなど城中では皆無なのかと思わされる。なんだか早朝に起きて渋谷まで駕籠を走らせたことまで知られているような気がしてきた。 それにしても、と早速、混乱に襲われた。いったいなぜ自分などの言動を酒井が知りたがるのか。むろん酒井には、その疑問に答えてやろうとする様子はまるでなく、「塵劫《じんこう》は読むか?」 と重ねて訊かれた。「……は、そのつど新たに出たものを嗜《たしな》んでおります」 塵劫とは算術書を指す。と同時に、もともとは一冊の書の名だった。 かなり前に、吉田光由《よしだみつよし》という算術家が、『塵劫記《じんこうき》』という書を著した。これが大変な人気を博し、塵劫と言えば、算術書全般を意味するようにすらなったのである。 吉田は、かの朱印船貿易で財を築いた豪商、角倉了以《すみくらりょうい》の親族である。『塵劫記』も、商売の上で、避けて通れぬ様々な計算を列挙していた。文も仮名交じりで、しかも解説のために分かりやすい絵をつけるなど、町人たちが欲するたぐいのものとなっている。 果たして酒井は、そのような〝町人向けの書を読んでいる春海を、好ましいと思ったのかどうか、まるで判別がつかぬまま、さらに質問が来た。「竪亥《じゅがい》は?」「は……難解でございますが、一応、読んでおります」 答えながら、酒井が何を言わんとしているか、うすうす察せられた。 また別の算術家、今村|知商《ともあき》という者が著した書に、『竪亥録《じゅがいろく》』というのがある。全て漢文、高度な数理術式の書であった。今村は多くの弟子を持ち、そのほとんどが武士で、彼らが強く請うたため、今村は、己の術理を一冊の書にまとめたのだという。ほとんど中国の数学を独自に学んで発展させたもので、詳しい解説などなく、生活に関わるようなものとはほど遠い理論の羅列であるため、内容を理解するのにかなり骨を折らされる。『竪亥録』を発展させ、また解説したのが、春海が今朝見た絵馬に書かれていた名、あの磯村塾の磯村富徳が書いた『算法闕疑抄』だった。『竪亥録』でまったく説明されていなかった術理を、図解入りで解き明かしてくれていたのである。 つまり酒井が訊いているのは、町人の生活算術たる〝塵劫と、武士の理論算術である〝竪亥の両方を、春海が網羅しているかどうかということだった。 しかし、いったいなんのために、という疑問は解けない。 もしかすると酒井様は、実は大の算術好きなのかも知れない、などとも思ってみた。同じ趣味の人間を欲して、春海に算術書について訊いてきているのである。 が、そもそも、そのような感性の働く人であるかどうか疑わしい。何が楽しいとか、面白いとか、そうした話題を口にするところが、なんとも想像しにくい人物であった。「よく学んでいるな」 どうでも良いことのように酒井は言う。だがなおも質問はやめない。「お主、割算の起源は知っておるか?」「は……毛利殿の学書に、その由縁が記されております」 と春海は即答した。 先の、吉田光由、今村知商、二人の算術家の師を、毛利〝勘兵衛重能《しげよし》と言った。 池田|輝政《てるまさ》に仕え、浪人して京都二条京極で塾を開いた。その名も『天下一割算指南塾』。名に違わず、各地から大勢が学びに来て、世に算術そろばんを広く普及させた塾となった。 その毛利が、塾で教科書として用いた『算用記』に、自ら記した序文がある。 そしてその中で、割算の起源を、このように説明していた。『〝寿天屋辺連《じゅてやべれん》という所に、知恵と徳とをもたらす木があって、その木には含霊なる果実がなっている。その果実の一つを、人類の始祖である夫婦が、二つに分けて食べたことが、割算というものの始まりとなった』 とのことである。〝寿天屋辺連とはユダヤのベツレヘムを意味する。明らかに旧約聖書のアダムとイヴの楽園追放のくだりと、新約聖書のベツレヘムのくだりを、ごっちゃにしている。「お主、切支丹《きりしたん》の教えに詳しいか?」「は……いえ……。恐れながら、不勉強にて、まったく分かりませぬ……」 春海は恐縮しているが、もし頑張って勉強していたら大変なことになる。昨今では、海外貿易の統制とともに禁教令が厳しく適用され、切支丹と疑われれば投獄は免れない。 先の毛利にも切支丹ではないかという疑いがあったことを春海は知らない。そもそも寿天屋辺連というのは、きっと天竺《てんじく》のどこかにある麗しい桃源郷に違いないと勝手に想像しているくらいである。また毛利自身もそんな風に思っていたらしい。 そんな春海に、酒井は、観察者のような視線を注いでいる。 さすがの春海だって、ここまで来れば、酒井がはっきりと何かの意図をふくんで質問をしていることくらい分かる。なんだか知らないが、春海の趣味|嗜好《しこう》のみならず、その思想や信仰の詳細にいたるまで、事細かに把握しようとしているらしかった。 そんなことをする理由は、一つしかない。 酒井が、春海に〝何かの勤めをさせたがっているのだ。 そして酒井はその〝何かのために手を回して、碁打ちの春海に二刀を与えるなどという、不可解なことを行ったのだと、このときはっきり春海は確信した。 寺社奉行の井上すら理解がつかず、直接、春海に訊かざるを得なかった〝何か―― それが、刻々と近づいてきていることを感じた。酒井の立て続けの質問は、むしろ酒井の方から、春海に、これは何かあると察知させるためのものに違いなかった。 この江戸城で、かなりの権利を有する酒井が、それでも真意を隠さねば果たせず、しかも春海に薄々それを察知させ、行わせねばならないような〝何かがある。 いつの間にか、春海も酒井も、手を止めていた。盤上には互いに進んだ布石がある。 酒井は、つとその石の形に目を向けた。と思うと、そう言えば忘れていた、とでも言うようなぞんざいさで石を置いた。素振りはぞんざいでも、盤上の意味合いは違った。 序盤の布石が形をまっとうする前に、春海に対し、切り結んでいた。布石を延々と敷くばかりであった酒井が、いきなり戦いを仕掛けてきたのである。春海が絶句するほどの、立場、態度、構えの、急変であった。「お主、お勤めで打つ御城碁は、好みか?」 酒井の口調は相変わらず淡泊である。だがいったい何がどうなっているのか、その言葉が鋭く春海の内部へ迫った。咄嗟に自分がどう答えようとするのか、まったく分からない。 まるで、春海の性格志向をあらかた理解したので、今度はさらに深く、本性とでも言うべきものに迫ろうとしているようだった。いや、まさにそうなのだという漠然とした思いがあった。 盤面を見た。逃げても取られる。定石で来るとばかり思っていたこちらの隙を突いて切りに来た。取った石をアゲハマというが、それが最低三つ、酒井の碁笥の蓋《ふた》に置かれるさまが克明に想像できた。「嫌いではありません」 春海は言った。直後にぴしりと石を置いている。たかが石三つ、くれてやる。だがそれで勝てるなどと思うな。日頃の春海からは、かなりかけ離れた、挑戦的な思考が湧いた。あるいは酒井の態度急変によって、いともたやすく湧かせられ、「しかし、退屈です」 秘めていたはずの想いが、よりにもよって老中の前で口をついて出た。 若輩の春海に、将軍様の前で自由に打てる碁などない。 上覧碁と言って、過去の棋譜を暗記したものを対局者と合意の上で打ち進める。将軍様が感嘆し、疑問を口にすれば、的確に応答する。これこれこの手はこれゆえに優れ、ここにあの定石が生きている。そういう解説ができる碁を打たねばならない。 真剣勝負で、そんな真似がいちいちできるわけがない。上覧碁は、若手の修練であり、儀礼であり、職分である。御城碁などという非常な緊張に満ちたお勤めで、自由に打とうとすれば誰でも惑乱して悪手の連発となる。それを防ぎ、経験を積むための碁だった。 将軍様だって実を言うと、その方が分かりやすいし楽しめる。