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[山田风太郎] 甲贺忍法帖-8

作者:山田風太郎 字数:20004 更新:2023-10-10 09:48:12

「薬師寺天膳!」「とは、おぬしのことではないか」 相手は冷やかな笑顔で、左衛門をつらぬいた大刀の柄をこねまわした。宙をかきつつ、その刀身と交叉して、左衛門の手がおのれの刀にかかってゆく。「天膳、おしえてやろう」 なお左衛門を天膳扱いにして、相手はからかうように、「甲賀組で、のこるは陽炎と弦之介。ひとりは女、ひとりは盲目。――もういちど生きかえって、是非伊賀の勝利をみてくれい」 最後の力をふりしぼって、如月左衛門が抜刀したのと同時――。「これでも不死かっ、あははは、はは……」 天膳の哄笑《こうしよう》とともに、阿福の家来たちのあいだから四、五本の槍がつき出されて、左衛門を針鼠《はりねずみ》としてしまった。 ――如月左衛門は討たれた! もとより彼が生きかえるわけがない。――もし彼が薬師寺天膳に化けさえしなかったならば、かかる最期をとげることもなかったであろう。泥の死仮面《デスマスク》という変幻自在の忍法をもって、伊賀の蛍火《ほたるび》を斃《たお》し、朱絹《あけぎぬ》を殺したこの魔人は、その変形そのものがおのれの身を破る因となって、ついにここに選手名簿から抹殺されたのである。 欄干から外へ、縫いつけられたまま如月左衛門の上半身が弓のようにのけぞりかえると、四、五本の槍は巨大な扇の骨のごとく夜空にひらいた。あまりの酸鼻《さんび》さに、刺した男たちが思わず手をはなしたのだ。 しかし薬師寺天膳のみは、こともなげに東の方をみて、あごに手をあててかんがえこんだ。闇中《あんちゆう》、だれもみるものはなく、また気づく道理もないが、そのくびにのこっていた赤い痣《あざ》は、いまやまったく消滅している。「如月左衛門がわしに化けて、一行に潜入しようとしていたとすると――」 と、つぶやいて、うす笑いした。「このわしは、すなわち如月左衛門か。その如月左衛門を、陽炎がたずねてまいると申したな。ふ、ふ、ふ、まさに、とんで火に入る夏の蜻蛉《かげろう》とはこのことか」  【二】 海から吹く南風をうけつつ、阿福の一行は東海道を下っていった。吉田を出て、二川、白須賀、荒井から一里の渡しをわたって舞坂へ、そして浜松であゆみをとめた。その間七里半。日がおちたばかりの時刻――その宿へ、おずおずとちかづいていったひとりの美しい女がある。「もし……この宿に薬師寺天膳さまとおっしゃるお方がお泊りでございましょうか」 見張りの武士たちがそのまえに立ちふさがったが、掛行灯《かけあんどん》のあかりにうかんだその女の顔の美しさに息をのんだ。――やがて、ひとりがごくりと唾《つば》をのどにならして、「もしや……そなたは、甲賀の陽炎とは申されぬか」「…………」「陽炎どのならば、奥で天膳どのがお待ちかねです。お通り下さい」「陽炎です」 ――吉田から浜松へいそぐ阿福の一行のなかにまじって、家来たちと談笑している薬師寺天膳の姿を見ていたから、もはや大丈夫という確信があったればこそ陽炎はたずねてきたのだが、それでも背すじにぞっと冷たいものがながれる一瞬であった。 首尾よういった! ほっと吐息が胸のおくそこからもれて、陽炎は牡丹《ぼたん》のような笑顔になって、武士たちの目に動揺をひきおこした。笑顔のまま、彼女は宿にはいった。 この宿に、敵の最後のひとり、朧がいる。それは忍法の敵であると同時に、彼女の恋の敵であった。――こうしてじぶんがはいり、如月左衛門がそれを待つ。しかも朧はまだそれを知らぬ。歓喜が陽炎の胸にわきかえった。駿府まで行くにおよばず、二十里をのこして、今宵ここに伊賀鍔隠れの十人は全滅する。「甲賀の陽炎が、ここにまいったわけをご存じですか」 案内されながら、陽炎はきいた。「天膳どのより承わった」 と、武士のひとりがこたえた。彼もあとの連中も、なめまわすように彼女の顔とからだに視線をすいつけているのを感ずると、薬師寺天膳がじぶんを犯したために、じぶんが寝返ったということに、左衛門と約束したとおり、この男たちはそう信じているのであろうと思うと、陽炎は可笑《お か》しくなると同時に、たえがたい恥ずかしさと怒りをもおぼえた。「朧さまはいずれですか」 武士たちは顔を見あわせた。「ご挨拶にうかがわねばなりませぬ」「まず、天膳どのにあわれい」 と、ひとりの武士が断ちきるようにいった。さすがにまだ、完全に甲賀者には心をゆるしてはいないらしい、と陽炎は判断した。たしかに、彼女は前後左右を桶《おけ》みたいに武士たちにかこまれてあるいていた。 何につかっている部屋か、板戸をしめきったなかに、薬師寺天膳は坐《すわ》っていた。窓にはふとい鉄格子すらはまっている。「陽炎か」 あぶら火に天膳はふりかえって、ニヤリと笑った。陽炎はかけより、くずれるように坐って、「左衛門どの」「――しっ」 と、天膳はいった。そして、目でうなずいて、「陽炎、寄れ、われらは立ち聞きされておる」 陽炎は寄った。「なぜです? あなたは、薬師寺天膳として――」「もちろんだ。みな、わしを信じきっている。また、信じるはずだ。――だが、そなたは信じられてはおらぬ」「朧が?」「いや、あれは嬰児《あかご》のような女だ。それよりも、阿福が」「甲賀者が伊賀に裏切るわけはないというのですか」「さよう、うたぐりぶかい女じゃ。わしはそなたを犯して手なずけたといったが、かえって、わしがそなたの罠《わな》にかかったのではないかと申すのだ」「では、どうして家来たちがわたしをここへ通したのですか」「半信半疑なのだ。……ともかく、今夜はだめだ。しばらく、いっしょに旅をせい。駿府までは二十里、まだ三日、朧を討つ折はそれまでにきっとある。その日の甘みを、舌のうえでころがして待っておれい」 陽炎は、いつしか天膳の膝に手をかけて、顔をあげていた。彼女はいままで天膳に――いや、如月左衛門に対して、そんな姿勢になったことはいちどもなかった。いまも、もとよりそれを意識していない。とにかく、ここは敵中だ。しかも、じぶんをまもるものは、敵のひとりに化けている如月左衛門だ。そのことが、思わずしらず、彼女をそんななまめかしい姿態にしたのである。「まず、きゃつらに信じられることだ」 天膳は、陽炎の白いあごに手をかけてささやく。「わしの女になりきっておるということを、きゃつらに見せるのだ。いや、きゃつらは板戸のそばできいておる。のぞいておるかもしれぬ。……」 相手の鼓膜《こまく》にしか届かない忍者特有の発声法だが、その声がちょっとかすれた。「それもまたおもしろい。陽炎、ここできゃつらに見せつけてやろうではないか。……」「――何を」「そなたがわしの女になっておるという証拠を――」「――さ、左衛門どの。……」「わしはそなたを駒場野で犯したと偽った。しかし、偽りでなく、そなたをいちど犯しとうなった。……」 陽炎の瞳が、闇に咲く黒い花のように無限にひろがって、天膳はのみこまれそうな混迷をおぼえた。われしらず抱きしめて、乳房に手をあてると、大きく起伏する乳房が、火のようにあつく、天膳の指に吸いついた。――だまって、陽炎は天膳をあおいでいた。 それは薬師寺天膳にとって、恐るべき数分間であった。彼は陽炎を討つためにおびきよせた。しかし、その世にも魅惑的な姿をひとめ見たとたん、方針が変わった。殺すのは、駿府でよい。それまで彼女がじぶんを如月左衛門と信じているのをさいわい、心ゆくまでこの美しい女忍者をなぶりつくしてやろうと思い立ったのである。 ――ところが、このときはじめて陽炎は、これがはたして如月左衛門であるかという疑いにとらえられたのだ。なぜなら、如月左衛門ならば、もとよりじぶんの死の息吹《いぶき》を知っているはず――じぶんを花嫁とする男は、かならず死なねばならぬということを知らぬはずはない。左衛門が、こんなことをいうはずはない。これは左衛門ではない! 彼女の皮膚のうちがわを、さっと驚愕と恐怖の波がはしった。 こんなことがありえようか。薬師寺天膳が生きている。――しかも、左衛門どののやるはずだった役を、ほんものがやっているなどということがありえようか? けれど、この男は――「さ、左衛門さま! わたしの息は……」「おお、息がはずむか。甘い花のような息じゃ。陽炎、声をたててもよいぞ。そんな声なら、たっぷりと向こうさまにきかせてやれ。……」 このせつな、陽炎は決意した。――よし、いかに判断を絶していようと、これはまさしく薬師寺天膳である。それならば、左衛門どのは討たれたとかんがえるよりほかはない。わたしは天膳を殺さなければならない。 天膳は、わたしの裏をかいて、罠《わな》にかけたと思っている。笑止な伊賀者よ! その裏の裏をかかれて、おのれこそ死の罠におちたのを知らぬのか。この天膳さえ討てば――こんどこそ、のこる敵は朧ひとり、その目がひらいていようとつぶれていようと、このわたしがきっと仕とめずにはおくものか。 これだけのことを、暴風のように脳裡《のうり》にかけめぐらせながら、しかし陽炎は、なまめかしくからだをくねらせて、薬師寺天膳の手のなすがままになっていた。 薬師寺天膳は、陽炎の襟をかきひらき、裾をかきひらいた。風にあおられて横になびくあぶら火に、女の肌は雪のように白くひかった。すでに陽炎はあたまをがっくりとうしろにたれ、せわしく息をきざみながら、ほそくくびれた胴は弓なりになって、天膳の指の愛撫にまかせている。「陽炎、陽炎」 天膳は、陽炎が敵であることを忘れた。いや、陽炎はじぶんを味方と思っているはずだが、じぶんが化けていることも忘れた。彼は忍者たる意識をすらにごらせて、ただ一匹の獣と化して、この美女を犯しはじめた。 陽炎はもだえて、足で天膳の胴をまいた。腕が天膳のくびにまきついた。ぬれて、半びらきの唇が、天膳の口すれすれに、こころよさにたえかねるようなあえぎをもらした。甘ずっぱい杏《あんず》の花に似た香りが、天膳の鼻口をつつんだ。――とみるまに、女の方から狂的に天膳の口に吸いついてきて、やわらかにぬれた舌がすべりこんできた。 ――一息――二息――充血していた薬師寺天膳の顔から、すうと血の気がひいて、ふいに手足がぐたりと投げ出された。そのからだをはねおとして、陽炎は立ちあがった。 ニンマリとして、陽炎はしばらく天膳の姿を見おろしていたが、やおら天膳の大刀をぬきはらい、左右の頸動脈を切断してから、その血刃《けつじん》をひッさげてあるきだした。襟も裾もみだれにみだれ、半裸にちかい姿だけに、凄絶無比の美しさだ。 ――朧はどこに? 何気なく、板戸をあけようとした一瞬、ぶすっと一条の槍の穂先が板をつらぬいて出た。はっとしつつ、身をねじって、その千段巻をひッつかむ。同時に、もう一本の槍がつき出されて、これはかわすまもなく、陽炎の左のふとももにつき刺さった。「あっ」 思わず刀をとりおとして、陽炎が伏しまろんだとき、はじめて外で凄じい怒号があがり、メリメリと板戸をおしたおして七、八人の武士が奔入《ほんにゆう》し、陽炎になだれかかった。 薬師寺天膳のいったことは、かならずしもすべてがうそではなかった。武士たちはやはり監視していたのである。いかに天膳の計画とはいえ、敵の甲賀者を宿にひきいれることを、用心ぶかい阿福は心もとなく思ったのである。おそらくふし穴からでも武士たちはのぞいていたのだろうが、それを承知で陽炎を犯した天膳も不敵なものだ。 ふし穴から、どういう顔でその光景をのぞきこんでいたかしらないが、その天膳に急に異常が起こったので、「さてこそ!」と緊張するまもなく、陽炎が天膳にとどめを刺すのがみえたので、愕然となり、狼狽しつつ、槍をならべて板戸からつきこんだのであった。「や、薬師寺どのっ」 二、三人、はせ寄って抱きあげたが、もとより天膳は完全に絶命している。「一大事です、薬師寺どのが、甲賀の女に殺されてござるぞ!」 その声がまだきこえぬうちに、いまの物音をききつけてきたものらしく、武士たちの背後に、ふたりの女の影があらわれた。「これが、甲賀の陽炎か」 そういって、恐怖の目で、床にとりおさえられた陽炎を見おろしたのは阿福であった。それから、血の海のなかに横たわっている薬師寺天膳に目をやって、「だから、わたしが言わぬではない。……」 と、舌うちしたが、すぐにふりむいて、「朧、この女を殺せ」 といった。 陽炎は、みだれた髪のあいだから、きっと見あげた。阿福のうしろに立っているのは、まさに朧であった。肩に鷹をとまらせている。天膳が殺されたと聞いても、はせ寄ろうとしないのも道理、ほのぐらい灯かげに、その目がふさととじられているのを陽炎は見た。やはり、朧は盲となっていたのだ。その盲目の朧をすぐ眼前にしながら、手傷をおい、四、五人の武士にとりおさえられた陽炎は、くやしさに身もだえした。「朧っ、甲賀伊賀の争いに、他人の力をかりて忍者の恥とは思わぬか!」 と、彼女はさけんだ。朧はだまっている。「けれど、おまえが鉄の壁にまもられようと、相手は甲賀弦之介さまであるぞ。弦之介さまは、きっとおまえを討ちはたさずにはおかぬ。……」「弦之介さまはどこにおられる?」 と、朧がいった。陽炎は笑った。「たわけ、それをいう甲賀の女と思うか。さあ、もはや口をきくのもけがらわしい。さっさとわたしを斬るがよい」「朧、はやくこの女を殺せ」 と、阿福はもういちど命じた。 朧はなおしばらく沈黙していたが、やがてかすかにくびをふった。「殺さぬ方がようございましょう」「なぜじゃ?」「この女を囮《おとり》にして旅をすれば、かならず甲賀弦之介があらわれてまいりましょう。人別帖をこの女がもっておらぬとすれば、弦之介がもっているのでございます。駿府へつくまでに、弦之介を殺し、人別帖をとりあげねば、この忍法争いに伊賀が勝ったとは申せませぬ。……」 ――けれど、朧は、手ずから甲賀の女を斬れないのであった。そして駿府へつくまでに、じぶんが弦之介に斬られたいのであった。  【三】 天竜をわたって、阿福一行は、見付《みつけ》、袋井《ふくろい》といそぐ。吉田まで駕籠は三梃《ちよう》であったが、浜松から四梃にかわっていた。すでに朱絹はこの世にない。一つには阿福、一つには朧、さらに一つには縛られたままの陽炎がのっているとして、最後の一梃には、だれがのっているのだろう? 八里あるいて、その夜は掛川の宿。 その一室に、駕籠のまま二梃かつぎあげたもの、これは将軍家御世子の乳母《う ば》の一行とあれば、宿の亭主も口のだしようがない。 その夜ふけであった。駕籠のなかの陽炎は、おなじ部屋の隅におかれてある、もう一つの駕籠をふしぎそうにみていた。彼女の駕籠のたれはまくりあげられているが、その駕籠のたれはさげられたままである。「あのなかには、だれがはいっているのですか」 と、陽炎はきいた。 彼女は、駕籠のなかから、まっしろなはだかの足を一本投げだしていた。それに髯《ひげ》をはやしたひとりの武士が布をまき、もうひとりの若い武士が充血した目でのぞきこんでいる。―― 彼らはこれでも寝ずの番人を命じられたのである。それにむかって、陽炎は苦しそうに、足の傷から血がにじんでならぬと訴えた。一、二度、かれらはきかないふりをしていたが、ついに年上の方が、「死なれては、役目がはたせぬな」とわざとらしくつぶやいて、さて、こういうことになったのである。 美しい足をまかせながら、陽炎の目に、妖しい笑いがかすかにうかんでいるのをふたりは知らぬ。すでに彼らは、陽炎の蠱惑《こわく》の網にとらえられているのであった。だれがこれを責められよう。彼女が死の息吹をもつことを知る、自制力強烈な卍谷の忍者たちですら、しばしば、彼女に抵抗しがたい忘我の思いにさそわれたのだから。 それは阿福や、陽炎よりももっと美しい朧にもわからない陽炎の力であった。すでに一日の道中で、武士たちは、たとえ朧の言葉がなくても陽炎を殺せないような心理にとらわれていた。――それほどの陽炎が、いまや胸に一物あって魅惑の蜘蛛糸をなげはじめたのである。ふたりの番人が、しだいにその義務も道心もとろけさせはじめたのもむりはない。 ともかくも、この虜《とりこ》は、厳重にしばりあげてあるという安心感があった。――けれど、その縄そのものが、陽炎に地獄的な美しさを醸《かも》し出しているのであった。彼女は、薬師寺天膳に犯され、武士たちにとりおさえられたときの姿のまましばられた。くいこんだ縄のあいだから乳房が一つまるみえとなり、絖《ぬめ》のような腹もみえた。その乳房、腹部、胴、足――すべての肉と皮膚が、微妙なうごめきをしめして、ふたりの男をさそい、たぎらせ、しびれさせるのだ。――ふとももの白布をまきなおそうとして、髯侍はふと目まいをおぼえた。彼は、陽炎と天膳の恐ろしき秘図をのぞいたひとりであった。「なに、何といったか」「あの駕籠にはだれがはいっているのです」「あれは……」 と、ふりかえったが、すぐうしろからじぶんをにらんでいる若い朋輩の殺気にみちた目をみると、どぎまぎと横をむいて、「貴公、すまぬが、あちらへいって、わしの印籠をとってきてくれぬか」「なんにつかう」「もういちど、この女の傷に薬をぬりなおしてやろう」「じぶんのものは、じぶんでとってこられたらどうじゃ」 かみつくようにいわれて、髯侍は「なにっ」とにらみかえして、ふいにせせら笑った。「ははあ、おぬし、わしを向こうへやって、あとでこの女に何かしようという魂胆《こんたん》だな」「ばかめ、わしを追っぱらおうとしたのは、おぬしではないか」 子供のような喧嘩に、陽炎が笑顔でいった。「どちらでも、水を一杯所望いたしとうございます。のどがかわいてなりませぬゆえ。――」「お、そうか、わしがゆく」 陽炎にたのまれると髯侍はいそいそとして、かけだしていった。 陽炎は、じっと若侍を見つめた。若侍は目をそらそうとして、かえって吸引され、ガタガタとふるえだしたが、ふいにかすれ声で、「おぬし、にげたくはないか?」 と、いった。「にげとうございます」「わ、わしといっしょに、にげてくれる気はないか?」 きざむような息づかいだ。陽炎はなお魔魅《まみ》のような目で若侍をくるんで、「はい」 と、いった。 髯侍がもどってきた。右手に水を入れた湯呑をもち、二、三歩はいって、ふと同僚の姿がみえないのに、けげんな表情でふりむこうとしたとたん――もうひとつの駕籠のかげから、急にだれかおどりあがってきて、そのくびに腕をまきつけた。湯呑がおち、水がはねたなかに、髯侍は声もあげずに絞め殺されていた。「はい」というただそれだけの女の一言で、かるがるしくも同僚を絞め殺した若侍は、陽炎のところへかけよって、小刀で縄をぷつぷつときりはらった。舌をたらして、はあはあとあえぎ、すでに何かにつかれたような姿である。 縄をとかれた陽炎は、衣服までちぎりとられ、ぬげおち、もはや全裸といってもよい姿のまま、グッタリと身をなげだして、しばらくうごこうともしない。若侍はあせって、その胴を抱いて、ゆさぶった。「立てぬか、いそぐのだ」「まいります。でも、のどがかわいて――」 ふりあげた顔に、花のような唇がひらいた。やわらかな腕が、若侍のくびにからみついた。「唾《つば》を下さりませ」 若侍は、にげるのも忘れた。唇をあわせたまま、彼は硬直したようにうごかなくなったが、下からすがりついていた陽炎が、やがてしずかに身をくねらせてはなれると、そのまま重く床にくずれおちた。手足の色が、みるみる鉛色にかわってゆく。「たわけ」 吐きだすようにののしると、陽炎はその大刀をぬきとった。はじめて殺気が目にもえてきた。そのまま、すうと部屋を出ていった。 殺されなければ殺すまで! 陽炎のあたまには、じぶんのいのちが、いちど朧にたすけられたことなど、しみほどもない。一片の義理も慈悲もなく、ただ生きかえり死にかえり、宿敵を斃《たお》すことのみにもえたぎるのが忍者のならい、雪白の裸身に大刀ひッさげて忍びよるこの甲賀の女の姿は、むしろ壮絶な光芒《こうぼう》をひいている。 ――やがて、陽炎は、朧の寝所をさがしあてた。唐紙《からかみ》をほそめにひらき、闇中にもスヤスヤとねむる朧をたしかに見て、牝豹《めひよう》のような跳躍にうつろうとしたせつな――その腕をうしろからだれかがとらえた。 ふりむいて、さすがの陽炎が、たまぎるような恐怖の悲鳴をあげた。 鎌みたいに、きゅっと口の両はしをつりあげて笑っている男――いうまでもなく、またもや生きかえって駕籠からはい出し、あとをつけてきた薬師寺天膳である。 ――その翌朝。 掛川《かけがわ》から日坂《につさか》、金谷《かなや》、大井川をこえて島田、藤枝《ふじえだ》にかけて、点々と立札がたてられていった。「甲賀弦之介は、いずこに逃げたりや。 陽炎はわれらの手中にあり。いささか伊賀責めの妙を味わわし、一両日にしてその首刎《は》ねん。 なんじ甲賀卍谷の頭領ならば、穴より出でて陽炎を救うべし。なんじにその腕なきか。腕なくば忍者人別帖をささげて、われらのまえに出でよ。せめてなんじと陽炎のいのちを縄にくくりて駿府城に曵《ひ》かん。   伊賀の朧    薬師寺天膳」  しかし、甲賀弦之介はこの立札を読むことができるのか。彼は盲目ではないか。 掛川から駿府まで、あますところ十二里三町。伊賀、甲賀それぞれわずかに二人のみをのこして、忍法秘争は惨また惨。最後の勝敗  【一】 掛川の宿《しゆく》から三里二十町で金谷、一里をへだてて島田、そのあいだの大井川は、同時に遠江《とおとうみ》と駿河をわかつ。島田から二里八町で藤枝の宿。 これは、山間《やまあい》ながら、半里以上もある長い宿場だ。 宿場をつらぬく街道から、すこし北へはいった小高い場所に、荒寺が一つあった。すぐ下に大きな旅籠の裏庭があるが、ふかい樹々にさえぎられてよくみえない。が――ちょっと気をつけてみれば、町の家々がみな灯をけした深夜――その無住のはずの荒寺に、ゆらゆら灯影のゆらめいているのがみえたはずだ。 しかし、その灯も、夜にはいってわき出した霧に、しだいにぼやけ、暗くなっていった。 霧ににじむ大蝋燭《ろうそく》が一本、なかばこわれた経机《きようづくえ》に立てられて、埃《ほこり》のうえにうずたかく蝋涙《ろうるい》をつんでいた。そのそばのふといまるい柱に、ひとり全裸の女が大の字にしばりつけられていた。両腕と両足をうしろへひきしぼった縄が、円柱のうしろでかたくむすばれているのである。 その女の雪のようなみぞおちのあたりに、妙なものがみえる。蝋燭がゆらめくたびに、キラキラ銀色にひかる文字なのだ。乳房ほどの大きさで、「伊」の字。そして、その下に、やや小さく「加」の一字が。―― そのそばにはだれもいないのに、ときどき彼女は全身をうねらせ、痙攣《けいれん》させ、身の毛もよだつうめき声をあげる。「陽炎」 遠く、三メートルもはなれて、笑みをふくんだ声がした。「弦之介はこぬな」 薬師寺天膳であった。この荒寺の内陣のまんなかに腰をすえて、ひとり盃をかたむけつつ、ニヤニヤ、苦悶《くもん》する陽炎を見つめている。「盲目とはいえ、わしが立てつらねた立札の風評は街道できくはず――おまえをとらえて伊賀責めを味わわし、明日にもその細首うちおとすとかいておいたのに、弦之介はこぬ。甲賀卍谷の首領は、味方の命が危いと知っても、救いにこぬほど情がうすいのか。臆病者が」 そういいながら、何かを口にふくんで、ぷっと吹くと、ほそい銀の光がすうとはしって、陽炎の腹にとまった。陽炎はまた身もだえして、苦鳴《くめい》のほかは声もない。「ふふふふ、味を知っておるだけに、その白い腰のうごめきがたまらぬわ。そばにいって、抱いてやりたくてうずうずするが、そうはまいらぬ。ちかづけばこの世とお別れじゃからの。……いや、おととい、浜松ではおどろいたな。おまえの術が何であろうとは最初から気にかかってはおったが、まさか息が毒になるとは知らなんだ。さすがの天膳も、まんまとしてやられたわ。……」 しかし、この苦患《くげん》の中にも、天膳に数倍する驚愕の尾をひきつづけているのは、陽炎の心のほうであったろう。すでに浜松の夜、死んだはずの天膳が如月左衛門といれかわっていることを知って混迷におちいった。しかも、その夜、もういちど自分が死の息吹《いぶき》で斃《たお》し、念入りに頸動脈《けいどうみやく》を切りはなしてとどめを刺したはずなのに、その天膳が掛川にまたあらわれたときの恐怖。―― はじめて、この男が不死の忍者であることを知ったが、ときすでにおそし。そもそもこの天膳は、いかにすれば完全に殺すことができるのか。いまはとびかかることもかなわぬが、よし身が自由であったとしても、それは不可能としかかんがえられない。そうだ、そのために味方の如月左衛門も殺されたのだ。いかに斃した敵の顔に化ける妙術をもつ左衛門にしても、その殺されたはずの当の敵が出現しては、その運命はきわまったというしかない。――陽炎は、敗北を意識した。自分のみならず、甲賀組の敗北を意識した。まけるということをしらぬ甲賀卍谷の女にとって、それが肉体のいたみ以上に、どれほど彼女をうちのめしたことか。―― 天膳は、またうまそうに盃《さかずき》をなめて、「ちかづけば、死ぬとはわかっていても、おとといのように可愛がってやりたいの。思えば、朧さまではないが、このたびの鍔隠れ卍谷の果し合いがちとうらめしい。そのことさえなくば、わしはまたおまえを抱いて殺されて、一日や二日死んでやるのをいといはせぬが」 と、いって、また口をとがらせて、ぷっと銀線をふく。はねあがって、陽炎は白い海老みたいに身をおりまげようとしたが、大の字にひきしぼられた体はうねって、髪ふり乱し、あごをのけぞらしたばかり。――「ひ、ひと思いに殺しゃ!」「おお、殺してやる。殺すにおしいが、望みどおり、殺してやるわ。じゃが、ひと思いには殺さぬ。朝までかかって、ユルユルとな。――あすは、生かしておけぬ。あすは、駿府入りじゃ。駿府まで、この藤枝からはたった五里半、たとえその間に宇津谷峠や安倍川があろうと、ゆっくりあるいても夕刻までにはつこう。伊賀組晴れの駿府入りじゃ。おまえの名は、それまでに人別帖から消されねばならぬ」 銀の糸がはしった。陽炎の腹の「加」の字の下に、しだいに「月」の字があらわれてゆく。「今夜、明日――甲賀弦之介があらわれねば、臆《おく》してにげたと大御所さまに言上《ごんじよう》しよう。じゃが、うべくんば、その人別帖が欲しい。人別帖は弦之介がもっておる。ぜひ、甲賀最後のひとり弦之介を討ちはたして、人別帖からその名を消し、伊賀の完勝でこの争忍を飾りたいのだ!」 ながれる銀線。――陽炎のこの世のものならぬ苦鳴。 それは、小さな吹針であった。薬師寺天膳は、遠くから針で一本ずつ、陽炎の肌に文字をかいてゆくのだ。 ただの針でさえ、文字どおり針地獄なのに、そのうえまたこの針には特別の毒でもぬってあるのか、たとえ片腕斬りおとされようと悲鳴をあげぬ甲賀の忍者陽炎が、瀕死《ひんし》の美しい獣のようなうめきをしぼる。すでに彼女は、浜松での、阿福一行の武士たちとの争闘でふとももに重傷を受けている。その目はかっと見ひらかれたまま虚《うつろ》になり、ただ針が一本ずつつき刺さるたびに、その刺し傷に生命がよみがえって、たえきれぬ絶叫をあげるのであった。「そのためには、こうでもして弦之介をここに呼ばねばならぬ。盲目とは申せ、あの立札の噂をきけば、かならず阿福どの一行が藤枝の、この下の旅籠に泊っておることをつきとめるはず。そこまでつきとめたら――」 と、いって、針を吹いた。「月」が「目《め》」になった。「天膳」 うしろから、ひくい、たまりかねたような声がかかった。崩れた須弥壇《しゆみだん》のかげから、朧があらわれた。「もはや、よしておくれ。わたしはがまんがならぬ。……」 この寺にいるのは天膳と朧と、とらえられた陽炎だけであった。それは、甲賀弦之介をおびきよせるためにも、また街道筋にあの立札をたてた以上、国千代派の徳川の侍たちもかならず、さてこそ、と思いあたるに相違ないから、阿福一行のなかに伊賀鍔隠れのものが同行していたという噂をたてさせぬためにも、一応別行動をとった方がよかろうと、天膳が阿福に進言したからであった。すでに、不死の大妖術をみせつけた天膳は、当然、阿福たちの絶大の信頼をうけている。 膳の酒肴《しゆこう》は、下の旅籠からはこばせたものであった。ふりかえって、「がまんがならぬ? 朧さま、伊賀の八人は、もはや討たれてこの世にないのでござるぞ。まさか、こやつをゆるして放せと仰せではござるまい」「…………」「拙者もひとたびは殺され、朧さまもすんでのことにおいのちがなかったところではありませぬか」「殺すなら……せめてひと思いに殺してやるのが慈悲じゃ」「忍者に慈悲は無用。それに、あの陽炎の悲鳴が大事な罠でござる」「なんで?」「されば、下の旅籠をさがしあてた弦之介は、あれも忍者、かならずこの声で、この寺のほうにおびきよせられるに相違ない。……」「…………」 弦之介さま! どうぞこないで! 敵と味方。ふたりの女が胸の底で、必死のさけびをあげるのを知るや知らずや、薬師寺天膳はぷっと針を吹く。「目」が「貝」になった。 加から賀へ――見よ、陽炎のみぞおちから腹へ、銀の針で浮かびあがった「伊賀」の二文字! ああ、天膳のいう「伊賀責め」とはこのことか。その手段の無惨なのはいうまでもなく、甲賀の女に伊賀と彫るとは、薬師寺天膳ならではの悪魔的奇想であろう。銀の針は一本ずつ根もとに血の球をやどらせて、雪白の肌に惨麗な陰翳《いんえい》をえがき出している。「おお、そうだ」 哄笑してから、天膳は盃をなげ出し、いきなり朧の手をつかんだ。「な、なにをするのじゃ」「朧さま、この陽炎は、毒の息をもつ女でござる。さりながら、ふだんの息まで毒ではないらしい。それでは、甲賀者とて共に住むことも旅することもかなわぬはず、ただ、あるときにかぎって、その吐息が毒にかわるらしい――思いあたることがある」「何を?」「すなわち、この女が淫心《いんしん》をもよおしたときのみ――」「天膳、この手をおはなし」「いいや、はなさぬ。そのことをここでためしてみたい。――といって、陽炎を抱けば、拙者が死ぬ。朧さま、拙者とあなたとここで交わって、あの女にみせつけてみようではござらぬか」「たわけたことを――天膳!」「いや、これはおもしろい。朧さま、桑名から宮《みや》への海のうえで、拙者が申したことをお忘れか。わしは忘れてはおらぬ。いまもあのことは考えておる。鍔隠れの血を伝えるものは、あなたとわしのほかにはない。お婆さまのえらんだ十人の伊賀の忍者のうち、すでにのこるのは朧さまとこの天膳だけではないか」 酔った目がにごり、彼は盲目の朧を抱きしめた。「もはや、じゃまする奴はない。――あすは夫婦で駿府入りじゃ」 と、ねじふせながら、「陽炎、みよ、この男女法悦の姿を――お、蝋燭《ろうそく》に蛾《が》が一匹まといついておるな。あれがおまえの息でおちるか、どうかじゃ」 いちど、ふりかえったが、すぐおのれじしんが火におちた蛾のように、情欲にもえ狂って朧にのしかかったとき――その蝋燭が、ふっときえた。「あっ」 さすがに、薬師寺天膳、それが単なる震動のためでも、風のためでも、陽炎の吐息のためでもないと感じて、愕然と朧の体からはねあがった。 闇だ。そばの大刀ひッつかんで鞘《さや》ばしらせ、すっくと立った天膳が、闇を凝視すること、一分、二分、朦朧《もうろう》と円柱のかげに立つ影をみた。陽炎ではない。陽炎はすでに縄をきりほどかれて、柱の下にくずおれている。 天膳はさけんだ。「甲賀弦之介!」  【二】 甲賀弦之介は、なお盲目であった。 そしてまた、心も無明の闇をさまよっていた。すでに彼は、伊賀に挑戦状をなげて、四人の配下をつれて甲賀を旅立った。なにゆえ卍谷《まんじだに》と鍔隠《つばがく》れ争忍の禁をといたのか、大御所の意図を知るためだが、伊賀の追撃は覚悟のまえであった。そのとおり、伊賀一党の七人が追ってきた。―― そのうち、伊勢で簑念鬼《みのねんき》と蛍火《ほたるび》を討ち、桑名の海で、味方の霞刑部《かすみぎようぶ》は雨夜《あまよ》陣五郎を殺したようすだ。そして三河の駒場野で薬師寺天膳と筑摩小四郎を斃《たお》し――いま、彼のもつ人別帖にのこる伊賀の忍者は、朧、朱絹のふたりにすぎない。けれど、敵の人数が少なくなればなるほど、そくそくとせまるこの悲痛の念は、なんとしたことであろうか。 朧だ。にくい朧だ。が……もし、朧と刃《やいば》をまじえる日がきたとしたら? 歯ぎしりしてもふりはらえぬその恐れと惑いの波を、敏感に配下のものどもは看取した様子だ。霞刑部など、いちはやく勝手に別行動をとって、雨夜陣五郎をたおしたものの、おのれもまた殺された。そして室賀豹馬《むろがひようま》は駒場野でじぶんをまもるために、筑摩小四郎に討たれて死に――いまや、人別帖にのこる甲賀組は、じぶんを入れて三人。 しかも、その如月左衛門と陽炎もまたじぶんを捨てて去った。敵は女ふたりのみとみてはやったのか、盲目のじぶんを足手まといとかんがえたのか――いやいや、そればかりではあるまい。朧に対する自分の愚かな迷いをみてとって、舌打ちして去ったのだ。 無意識に、無意味に、ひとり東海道をさまよってゆく甲賀弦之介は、もとより凱歌をあげてかえってくるであろう左衛門と陽炎を予想した。それは彼にとってよろこびの歌声のはずだが――彼の心は苦悩にしめつけられる。彼らの報告により、じぶんはこの手で、秘巻から朧の名を消さねばならぬのか? ――しかるに―― 弦之介は、大井川の西の河原で、奇怪な立札にあつまる群衆のざわめきをきいた。「甲賀弦之介は、いずこに逃げたりや。……陽炎はわれらの手中にあり。いささか伊賀責めの妙を味わわし、一両日にしてその首刎《は》ねん。……なんじ甲賀卍谷の頭領ならば、穴より出でて陽炎を救うべし……」 そう読む声を、彼は凝然《ぎようぜん》ときいていた。 敵の名は、朧と天膳。 ――それでは、敵の朱絹は討たれ、味方の左衛門もまた死んだのであろうか。それよりも、弦之介を呆然たらしめたのは、薬師寺天膳の署名だ。彼はどうして生きていたのであろうか? ともあれ、それをたしかめるためにも、彼らのゆくえをつきとめねばならぬ。弦之介は夕雲に盲目の顔をあげて、決然とあるきだした。 ――そしていま、藤枝の廃寺の闇のなかに、甲賀弦之介は、生ける薬師寺天膳と、じっと相対したのだ。 天膳がひくく笑った。「ついに、網にかかったな、甲賀弦之介」 用心ぶかい天膳にも似げなく、無造作《むぞうさ》にスルスルとあゆみ出る。弦之介は、音もなく横へうごいた。その動作をみると、常人ならば、だれがこれを盲目と思おう。だが、薬師寺天膳のみは、闇中に彼の目が、依然としてふさがれたままなのを見てとった。「天膳」 と、はじめて弦之介はいった。「朧はそこにおるか」「あははははは」 と、天膳はいよいよ笑いをおさえかねて、「弦之介、やはりうぬの目はつぶれておるらしいの。朧さまはここにおられるわ。たったいままで、陽炎をなぶりつつ、わしといちゃついておったところじゃ。あまりのたのしさについ夢中になって、うぬがそこまできたのに気づかなんだ。いや、うぬの目がつぶれて、見せてやれぬのが惜しいのう」 朧は、気死《きし》したように立ちつくしていた。声も出ず、全身が金縛《かなしば》りになったようであった。「そのうえ、わしに斬られるうぬを、ここでみている朧さまの笑顔が、断末魔のうぬにみえぬのはいよいよ残念じゃ」 つつとながれよる薬師寺天膳の剣尖《けんせん》から、甲賀弦之介はなお横へにげる。まるで目があるようだが、しかし天膳は忍者だ、その足どりの乱れから、決してあざむかれはしない。「にげるか弦之介、うぬはここに死にに来たのではないかっ」 歓喜の咆哮《ほうこう》とともに一閃《いつせん》する凶刃、髪ひとすじで弦之介はこれをかわしたが、白皙《はくせき》のひたいに絹のような血をすうとはしらせて、そのまま廻廊からうしろざまに庭へ飛ぶ。 天膳は闇中ながら、弦之介のひたいに血の糸のはしったのと、その影が跳躍したのをみてとったが、猛然と追いすがろうとして、廻廊のふちにはたと立ちすくんだ。 庭は霧の沼であった。さすが、闇にものを見るに馴れた忍者も、渦まく霧の底を見わけかねて、一瞬立ちどまったが、たちまち、「伊賀甲賀、忍法争いの勝敗ここに決まったりっ」 絶叫して、廻廊を蹴った。 天なり、命なり、蹴った縁の板が腐っていた! 霧の底の影に大刀をふりおろしつつ、空で名状しがたいうめきがながれたのは、それを足うらに感覚した驚愕のせいであった。体はやや横にねじれて、一足の指さきがまず地についた刹那――霧の底からたばしり昇る片手なぐりの一刀、かっと頸骨《けいこつ》を断つ音がした。 薬師寺天膳は、五歩あるいた。その首は皮一枚のこしダランと袋みたいに背に垂《た》れて、首のあるべきところに、血の噴水をあげながら。 甲賀弦之介は片ひざついて、茫乎《ぼうこ》として、天膳の地ひびきたててたおれる物音をきいていた。霧のなか、まして目はふさがれ、必死の闇斬りは、五感以外の忍者の夢想剣というしかない。 ――噴きのぼった血は、やがて霧にまじって、徐々に彼の面にちりかかった。夢からさめたように、弦之介は身を起こした。 荒寺に、声はない。縁側にちかづいて、「朧」 と、呼んだ。「まだ、そこにおるか?」「おります、弦之介さま」 ――何日ぶりにきく朧の弦之介を呼ぶ声であろう。指おりかぞえれば、弦之介が伊賀のお幻屋敷を去った夜から八日めだ。しかし、あれは前世のことではなかったかと思われるほど、ながい八日であった。そして、朧の声も、あの小鳥のような明るさはどこにきえたのか、暗くしずんで、別人のようだ。「わしは、天膳を斬った。……朧、剣はとっておるか」「もってはおりませぬ」「剣をとれ。わしと立ち合え」 その勇壮な言葉に比して、なんという沈鬱《ちんうつ》の語韻《ごいん》であろう。声までが、ふたりをめぐる霧ににじんでいるかと思われる。「わたしはそなたを討たねばならぬ。そなたはわしを討たねばならぬ。討てるかもしれぬ。わしは、盲じゃ」「わたしも盲でございます」「なに?」「鍔隠れの谷を出る前から、わたしは盲になっておりました」「な、なぜだ。朧、それは――」「卍谷衆との争いが見とうなくて――」 弦之介は声をのんだ。朧の今の一語で、彼女がじぶんを裏切ったのではないということを知ったのである。「弦之介さま、わたしを斬って下さいまし。朧は、きょうを待っていたのです」 はじめて、声に喜々としたものがあらわれた。「伊賀は、わたしひとりになりました」「甲賀も、わしひとりになった。……」 またふたりの声が霧にしずんで、ただ霧と時のみがながれた。――その沈黙をやぶったのは、寺の下の方できこえたさけび声だ。「――おぬし、たしかにきいたか」「うむ、天膳どののただならぬ声」「さては、甲賀の――」 それは、下の旅籠の裏庭で、こちらを見あげながらさわいでいる声であった。すぐに喚声《かんせい》は、もみあいながらこちらにかけのぼってくる。「だれも、見ているものはない。――」 と、弦之介はやおらつぶやいた。だれもとは、相たたかって死んだ甲賀伊賀の忍者十八人のことであった。「朧、わしはゆく」「え――どこへ?」「どこへか知らぬ。……」 と、弦之介の声はうつろであった。彼は、ついに朧を斬ることのできないじぶんを自覚したのだ。「そなたとたち合わなくとも、それを知るはこのふたりだけ、もはや、だれも知らぬ。……」「わたしが知っております」 突然、足もとで声がした。はいよってきた腕が、弦之介の足に爪《つめ》をくいこませた。「弦之介さま、なぜ朧を討たれませぬか?」  【三】 それは、白い裸身を、斑々《はんぱん》たる血に染めた陽炎であった。弦之介と朧にはみえなかったが、彼女の美しい顔は、すでに死の影にくまどられていた。「げ、弦之介さま、あなたは伊勢の関で、きっと朧を討つとわたしにお誓いなされたのをお忘れか」 手はわなないて、弦之介の足をゆさぶる。「わ、わたしは、伊賀者のために、身を汚され、傷つき、こうしてなぶり殺しにあって死んでゆく。……それをわたしはつゆ恨みには思いませぬ」「陽炎」 と、うめいたきり、弦之介は声が出ぬ。肺腑《はいふ》に釘をうたれる思いだ。「そ、それもみんな甲賀のため、卍谷のため、……その甲賀を、卍谷を、弦之介さま、あなたはお裏切りか」「陽炎。……」「こ、甲賀の勝利を、この目にみせて、死なせて……」 下からのさけびは次第にちかくなる。弦之介は、陽炎を抱きあげた。「ゆこう。陽炎」「いいえ、なりませぬ。お、朧の血をみねば、にげられませぬ。弦之介さま、朧の血で、わたしに朧の名を消させて――」 弦之介はこたえず、陽炎を抱いたまま、縁側の方へあるきだした。陽炎の片腕が、ふるえながら、弦之介のくびにまきつき、その目はじっと弦之介の顔を見入った。うつろなその瞳孔《どうこう》に、このとき異様な蒼《あお》い炎がもえあがったのを、盲目の弦之介は知らぬ。 陽炎の顔に、妖しい笑いがはしった。とみるまに、ほっ――と、彼の顔に息をはきかけた。「あっ、陽炎!」 一瞬、顔をそむけ、どうと陽炎をなげ出し、よろめいて片ひざをつく。そのままずるずるとまえへ伏してしまったのは、陽炎の死の息吹《いぶき》を吸ったためだ。 なげ出された陽炎も、しばらくうごかなかったが、やがてかすかにあたまをあげた。その死相をわななかせる名状しがたい邪悪と恍惚の影――おそらく、かくまで美しくすさまじい女の情欲の表情はこの世にあるまい。そのまま、床に爪をたてて、じりっ、じりっと弦之介のそばにちかづいてゆく。「ゆくなら、わ、わたしといっしょに、じ、地獄へ。――」 ああ、陽炎は、死の道づれに弦之介をとらえてゆこうとするのだ。おそらく、二度目の息吹で、彼にとどめをさすつもりであろう。 瀕死の白蛇のようにうねって、陽炎が弦之介のからだに身をよせようとしたとき、彼女は、女の声をきいた。「弦之介さま」 顔をふりあげて、陽炎は、そこにかがやくふたつの瞳を見た。―― 闇にも見える朧の目だ。しかし、その術を知らずとも、だれしもその燦《さん》たる光芒《こうぼう》には、はっと眩惑《げんわく》を感じたであろう。――このせつな、陽炎の吐息は、その毒をうしなった。「弦之介さま!」 かけよってきたのは、朧だ。その目は大きく見ひらかれていた! 七夜盲の秘薬は、七夜をすぎて、いまようやくその効力を消したのである。 朧は、たおれている弦之介を見た。そして、寺の山門をかけこんでくる足音をきいた。陽炎の姿には目もくれず、弦之介を抱きあげ、まわりを見まわし、須弥壇《しゆみだん》のかげに大きな経櫃《きようびつ》があるのをみると、その方へひきずるようにはこんでいった。 陽炎はそれをみていた。彼女はいまふれた弦之介の体温から彼がまだ死なないで気を失っただけの程度にとどまることを知っていたが、すでに声は出ず、からだはうごかなかった。その顔のまえに、ツーッと一匹の蜘蛛が糸をひいておちてきたが、そのままきゅっと手足をちぢめて死んだ。同時に陽炎も、がくりと床に顔をふせてしまった。……「――やっ、こ、これは?」「天膳どのではないか!」 庭で驚愕した声が、渦をまく。そのとき朧は、弦之介を経櫃になげ入れると、剥《は》げた朱塗りの蓋をはたとしめた。「甲賀組がきたのだ!」「朧どのは?」 武士たちが、手に手に松明《たいまつ》をにぎって騒然と本堂にかけのぼってきたとき、朧は寂然と経櫃に腰をおろして、うなだれていた。「やあ、ここにあの女も死んでおる!」「朧どのはぶじだ」「朧どの、どうしたのだ?」 朧は、目をとじたまま、首をよこにふった。「甲賀弦之介がきたのではないか」「それとも天膳どのは、この女と相討ちで死んだというのか」 さわぎたてるのに、朧はあかん坊のように、首をふるばかり。ちがうというのか、何も知らぬというのか、とにかく盲目の娘だと思っているから、侍たちはとみにその心をつかみかねた。 そのとき、庭で女の声がきこえた。「うろたえるでない、この天膳が不死の忍者だということは、きのうの夜そなたたちもとくと知ったことではありませぬか」 阿福の声であった。「この男の受けた傷はたちまちふさがり、裂けた肉はみるみる盛りあがる――と、当人の誇った妙術を、眼前にみることができるのはいまじゃ。だれか、天膳を抱きおこしてやるがよい。そして、首をおさえてやってたも」 武士たちはさすがに、ためらったが、「何をおそれる。竹千代さま――ひいてはこの阿福、またそなたらの命運にかかわる大事でありますぞ」 と叱咤《しつた》されて、五、六人が天膳の死骸のまわりに群れあつまった。 はっとして、朧は経櫃からたちあがっている。つかつかと、縁側へ出ていった。 庭にめらめらといくつかの松明は油煙をあげ、その赤い火照りをうけて、薬師寺天膳は人々に抱きおこされ首はつながれて、かっと剥《む》いた目を、こちらにむけていた。抱いた男も、両腕をとった男も、首をささえている男も、わなわなとふるえている。その背景になかば崩れた山門が夜空にうかび、まさに地獄の邏卒《らそつ》たちの苦行か苦役をみるような凄惨な光景であった。 天膳は、朧をみていた。朧は、天膳をみていた。――生と死のあいだに架《か》かる時の長さは、一瞬でもあり、永劫《えいごう》でもある。 朧の目は、ふたたび燦《さん》として見ひらかれて、天膳を凝視している。その目には、涙がいっぱいであった。いうまでもなく、そこにいたものすべて、朧よりも天膳に気をうばわれていたから、涙を透してかがやく生命のひかりと、死者の暗くにごった目が、虚空に幻の火花をむすんだのを、だれが知ろう。 朧は、なぜ泣くか。彼女は、破幻の瞳で、味方の天膳のつながろうともだえる生命の糸を断ちきろうとしているのだ。伊賀が負けるか、甲賀が勝つか、それより彼女の胸にわきたっているのは、ただ甲賀弦之介を救いたいということだけであった。 松明に、いちど天膳の目が火のようにひかった。それは、とうてい皮一枚を残して頸《くび》を切断された死者の目ではなかった。無限の怒りと怨みと苦悶にもえあがった目であった。――しかし、ふいにそのひかりがうすれ、顔色があせてきた。瞼《まぶた》がしだいにおちてゆく。…… 気力つきはてて、朧も目をとじた。 首が声を出したのは、そのときだ。断頭の鉛色の唇が、水牛の吼《ほ》えるような声をもらしたのである。「甲賀弦之介は……経櫃におる……」 そして、その唇がきゅっと両耳までつりあがって、死微笑というにはあまりにも恐ろしい表情となってかたまると、それっきり天膳は石膏《せつこう》の像のようになってしまった。不死鳥は、ついにおちたのである。 しかし、殺到してゆく武士たちのうしろに、朧は気をうしなって、崩折れた。  【四】 ――慶長十九年五月七日の夕。 それは豊臣秀頼が、いよいよ大仏殿供養を行なおうとして、その命をうけた片桐且元《かたぎりかつもと》が駿府に下って、家康にそれを告げた日であった。 一日ごとに落ちる日を、そのまま徳川家へ移る運命の刻みとはっきり指おりかぞえて、ほくそ笑んでいた家康も、しかしこの夕、駿府城の西方――安倍川のほとりに、まさに起ころうとしていた、一つの決闘を知らなかった。それこそ、徳川家の運命そのものを決する果し合いであったが、彼はまだなんの報告もうけてはいなかった。家臣のだれもが知らなかった。ただ忍者の総帥《そうすい》たる服部半蔵のみが、それを検分した。 阿福からひそかに急使をうけて、彼がその場所へかけつけたとき――それは、駿府城の七層の大天守閣を、燃えかがやかせていた落日が、西へおちて、安倍川の水の色が、ようやく黄昏《たそがれ》の色をたたえはじめた時刻であった。 それは渡しからやや上流――たけたかい蘆《あし》にかこまれた白砂の一画であった。その蘆のなかに、阿福をはじめ、その家来たちが数十人身を伏せているなかに半蔵をまねいて、阿福は手みじかに、いままでのことを報告した。 嘘はいわなかったが、かならずしも真実をのべたわけではない。あたかも、偶然、この決闘の場に接触したようなことを阿福はいって、半蔵に例の秘巻をさし出した。

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