「小四郎どの」「朱絹どのか」 と、筑摩小四郎はその声をききわけたが、愕然とした。朱絹は朧とともに池鯉鮒の旅籠においてきたはずだからだ。――しかし、朱絹は息はずませながら、四、五歩の位置からちかづいてこようともしない。「そ、そこに立っておるのは――」「これか。ほう、立ったまま死んでおるか、これは甲賀の室賀豹馬だ」「えっ、では」「それより、そなたはどうしたのか、池鯉鮒の宿に何が起こったのか、朧さまはどうなされたのかっ」「ああ、小四郎どの……甲賀の如月左衛門めがおしかけてきました。そして、朧さまを、むごたらしや」「なに、朧さまを!」 筑摩小四郎は、電撃されたようになった。「朧さまをとらえて、なぶり殺しに――」 小四郎はどうと大地に尻をついた。しばらく、わななくばかりで声もでなかったが、やがてしぼり出すように、「それでは、天膳さまはいかがなされたか。――おれもおかしいとは思っておった。天膳さまは室賀豹馬を討つと仰せられておったが、その豹馬はわしに殺されたところをみると……さては、如月左衛門め、例の妙な術を使って、天膳さまをたぶらかし、池鯉鮒の旅籠をかぎつけたな。ううむ、左衛門、いまにみておれ。……」「小四郎どの、けれど、朧さまを殺されては、もはや伊賀は負けたも同然……」「いいや、負けぬ。伊賀が甲賀に負けてなろうか。それより、朱絹どの、そなたは朧さまを討たれて、何をしておったのか、見殺しにして、ここまでにげてきたのかっ」「いいえ、いいえ、わたしは縛られて……すきをみて逃げてきたのは、ただこのことを天膳どのに告げたいばかりに――」 筑摩小四郎は苦悶のていで身をおしもみ、そして顔をあげてうめいた。「ききたくなかった! そなたも死んでもらいたかった!」「小四郎どの、殺して!」 はじめて、朱絹は小四郎の胸にからだをなげこんできた。小四郎は彼女のきものが裂けて、ほとんど肌もあらわなことを知った。熱い肌がしがみついて、身もだえして、声も変わり、「殺して! 殺して!」 小四郎は、口すれすれに、女のあえぎをかいだ。はじめて吸う女の甘酸《あまず》っぱい息が、この場合に、この精悍《せいかん》な若者の脳を異様な昏迷《こんめい》におとしいれた。「死ね、死ね」 顔をそむけつつ、悲鳴のようにつぶやく、女の腕と胴が、蛇のように小四郎にからみついた。「小四郎どの、好きでした。いっしょに死んで……」 鍔隠れの谷で、小四郎は朱絹という女を、姉のように感じていた。蒼白《あおじろ》く、暗く冷たく、ぞっとするほど美しい姉のようにみていた。その女が、いまこのようにもえて、じぶんにしがみついている。けれど、彼はそれほどおどろかなかった。旅に出てから、急速に彼女がじぶんにやさしみを加え、声までうるんできたようなのに、ふしぎな胸のときめきをおぼえていたのだ。 すでに彼は、天膳が、朧さまに、鍔隠れにいたころ想像もつかなかったふるまいに出ようとしたのを知っている。あとで天膳は、あれは甲賀の忍者をさそい出すためだといったけれど、それが単なるごまかしであることを直感している。鍔隠れの谷から、血風吹きすさぶ旅に出て、おれたちはみんな気が狂ったのではないか? いま、朧さまを討たれて、駿府へいって何になるというのだ? 死のう、この朱絹と――いいや、どこかへ逃げてゆこうか? 小四郎の心に、ふいに自暴自棄《じき》の嵐がまきおこった。「朱絹」 凄じい力で、彼は女のたおやかなからだを抱きしめた。そこは、室賀豹馬の血のながれる路上であった。彼は血の香に酔っぱらったような気がした。いや、杏《あんず》の花のような女の息の香りに。――「小四郎、死のう」 麻痺《まひ》したあたまの奥に、女の声がしみこんだ。それが朱絹の声ではない――と、気がついたときは、彼の魂はすでになかば、この世から飛び去っていた。 この凶暴無比の若い伊賀者は、女の腕のなかで、ふいにぐたりとうごかなくなっていた。 女はしずかに立ちあがった。なんというその息づく顔の凄艶《せいえん》さだろう。――陽炎である。 しがみついてからは、彼女の声であった。それに気がつかなかったのは、もはや筑摩小四郎の脳がしびれていたからであろう。はじめに陽炎のうしろに立って、朱絹の声で話しかけた人間は、まだそこに、だまってたたずんで、小四郎の死を見まもっている。 糸のような月が、そのつやのない能面みたいにノッペリした無表情を照らし出した。顔はまさに薬師寺天膳だが、かくもみごとに女の声を――朱絹の声帯を模するものがだれか、いわでも知れたことだ。 彼は目をあげて、なお立往生したままの室賀豹馬の影を見やって、歯をかんでつぶやいた。「小四郎めが、これほどのやつと知っていたら……」 そのとき、頭上できこえた羽ばたきの音に夜空をあおぐと、いままで判断にまようもののごとく、不規則な輪をえがきつづけていた鷹が、急に真一文字に西へとび去ってゆく。「そうだ、朧は池鯉鮒の旅籠にとめてあると申したな」 そのとき、うしろから、しずかに甲賀弦之介がちかづいてきたのをみると、天膳は――いや、天膳に変形した如月左衛門は、ふところから巻物をとり出し、地上から室賀豹馬の血をすくいあげて、三たび、巻物にすじをひいた。「薬師寺天膳と筑摩小四郎を討ち……豹馬を討たれ……」 陰々たる声を、甲賀弦之介は目をとじたままきいている。「のこるは、敵味方五人――」忍者不死鳥 【一】 この世のものならぬ死闘の終わった駒場野に、風の音のみのこった。甲賀一行はどうしたか。――見渡すかぎり野面にうごく人影もなく、ただ蒼白い月の鎌が、銀色の草の波を刈っているかにみえるばかりであった。 いや――だれも知らぬ草のかげに、何やらうごいている異様なものがある。けれど、それをうごいているといってよかろうか。目にはそれとはっきりはみえず、しかも、しばし目をとじてのちそれを見たならば、そこに起こったある変化に、だれしもどきっとせずにはいられないであろう。もっともふつうの人間には、そもそも最初の一瞥《いちべつ》にたえないほどの、それは恐怖的な光景であった。 草のかげ――水のほとり――薬師寺天膳の身体《からだ》である。数刻まえ、室賀豹馬の猫眼《びようがん》のために、みずからを袈裟斬《けさぎ》りとし、如月左衛門に小柄《こづか》を頸にさしとおされてとどめを刺された天膳の死骸《しがい》だ。 死骸そのものは、うごきはしなかった。満面泥に覆われて、その泥もひからび、ただ目だけ白く、光沢のないにぶいひかりをはなっているばかりだった。が――変化は、徐々に、頸と肩の傷に起こっているのだ。 切創《せつそう》というものは、たとえ凶器が薄い刃物であっても、皮膚の牽引力のために、赤い柳の葉のようにパックリとはぜわれる。そこからあふれ出したおびただしい血も、むろんすでに凝固していた。――その創面《そうめん》の凝血が、しだいにジクジクと溶けはじめたのである。蒼い月光だから、いまは色もよくみえないが、ひるま見れば、それはにごった黄赤色を呈していることがわかったであろう。 これは、血管のなかから滲《し》み出した白血球や淋巴球《りんぱきゆう》や繊維素《せんいそ》で、これらが凝血を融解しはじめたのである。ただ、ああ、この創傷分泌物の活動は、いうまでもなく生きている人間のみに起こる治癒《ちゆ》現象だ! 草のなかをはしってきた野鼠が一匹、天膳の胸の上へとびあがって、血をなめかけたが、ふいに何やらおどろいた様子で、ぱっとはねあがって、水の中へおちた。あとに、なまぐさい一道の妖気がたちのぼって、月をさらにくらくする。 その青錆《あおさ》びた月の面を、一羽の鳥影がかすめてとんだ。 鷹は一直線に舞いおりて、路上に立つものの影にとまった。それはそこに仁王立ちになったまま死んでいる室賀豹馬の頭上であった。 西から、ふたつの影がかけてきた。鷹のとまった怪奇な死体をみつめ、「あれは」 と、さけんだひとりが、そのまえにふしているもうひとつの影のところへはせ寄って、「おお、小四郎どのっ」 と、自身がえぐられたようなさけびをあげた。 朱絹である。もうひとり、市女笠《いちめがさ》をかぶった女の影は、いうまでもなく朧であった。池鯉鮒の宿にとまっていて、さきに鷹とともにこの駒場野へむかった薬師寺天膳と筑摩小四郎の行動を案じていたところへ、鷹のみが舞いもどってきて、さもいそいで駒場野へやってこい――といわんばかりに、ふたりをみちびき出したのである。もっとも、今夜の天膳と小四郎の甲賀組襲撃の企ては、朱絹だけがきかされていたことで、朧は何も知らなかった。いまここへかけてくる途中、はじめて朱絹から、そのことをきかされたのである。「小四郎どの、小四郎どの!」 朱絹は泣いた。忍法の争いで、たとえ親、子供が殺されようと、声ひとつたてないのが忍者の習性だが、このとき朱絹は、朧もはじめてきく「女」の悲痛な声をあげた。 朱絹は小四郎をいとしいと思っていたのだ。彼女にとって、はじめての恋であった。いま、死体となった小四郎を抱いて、彼女はとっさに、じぶんが忍者であることすらもわすれたのである。「傷がない! 傷がないのに――」 ようやく朱絹はそのことに気がついて、すっと背すじに冷気のはしるのをおぼえた。敵が甲賀者であるという意識をとりもどしたのだ。彼女は目をあげた。「小四郎どのを殺したのはうぬか」 と、うめいて立ちあがったが、柘榴《ざくろ》のごとく顔のはじけたその姿から、もとよりそれもまた死体であることを知っている。しかし朱絹は、ふるえる手で懐剣をぬいた。「朱絹」 と、朧が声をかけた。おののく声で、「誰がおるのじゃ」「甲賀者が――死んでおります。おそらく、小四郎どのと相討ちをしたものでございましょう」「そ、それは?」「小四郎どののために顔を裂かれ、誰やらわかりませぬ。如月左衛門か、室賀豹馬か、甲賀弦之介か――」「え、弦之介さま。……」「いえいえ、髪は総髪、どうやら室賀豹馬という男らしゅうございますが」 といって、朱絹はつかつかと寄ると、懐剣を死骸の胸につき刺した。はじめて豹馬は地上にたおれた。「朱絹!」 と、その気配を感づいた朧がさけんだ。「仏《ほとけ》を恥ずかしめるのはやめてたもれ。わたしは天膳が、あの霞刑部とやらをさかい橋でさらしものにしたこともいやでした。敵とはいえ――筑摩小四郎と相討ちとなるほどの男、それに恥をかかせることは、小四郎をもないがしろにすることじゃと思わぬか」「忍者のたたかいに慈悲はいりませぬ。朧さま、朧さまは、まだ甲賀に、さような――」 と、いいかけて、朱絹は一瞬憎悪《ぞうお》にちかい目で、朧をにらんだ。盲目の朧に、それはみえぬ。沈んだ声でいった。「いいえ、いつわたしたちも、そのような姿になるやもしれぬ」 そして、見えない目をまわりになげて、「天膳は?」「みえませぬ。ここに甲賀者のむくろがひとつ、あと三人残っているはずでございますから、それを追ってゆかれたか――」「もしや、天膳も相討ちとなったのではあるまいか?」 朱絹は、ひきつったような笑顔になった。「まあ、あの天膳さまが、ほ、ほ、ほ」 もし、その天膳がここにいたならば、天膳ほどの忍者なら、このとき周囲をめぐりはじめた目にみえぬ剣気をかんじたかもしれない。そして、その殺気の波が、朱絹の冷笑にピタリととまったことを。 【二】 月はややうごいた。――薬師寺天膳の変化はつづいている。 ジクジクした分泌物のなかに、病理学にいう肉芽《にくが》組織が発生しつつあった。つまり、いわゆる「肉があがってくる」という状態になってきたのだ。ふちの密着した傷でさえ、ふつうの人間なら三日ぐらいかかるこの治癒過程が彼の肉体のうえでは、数刻のあいだに行なわれた。しかも彼は、完全な死人だ。―― いや、耳をすましてきくがいい。とどめを刺されたはずの彼の心臓が、かすかにかすかに搏動《はくどう》をしている音を。 ああ、不死の忍者! いかなる驚天の秘術を体得した忍者も、これを知れば呆然《ぼうぜん》たらざるをえまい。 薬師寺天膳が老女お幻さまと、しばしば四、五十年もむかしの天正伊賀の乱の想い出ばなしなどをしていた理由。甲賀卍谷《まんじだに》の樹齢百七、八十年に及ぶ大欅《けやき》を、若木のころから知っているとつぶやいた意味。いやいや関宿の藪《やぶ》の中で、地虫十兵衛の吹く槍の穂に心臓を刺しつらぬかれ、桑名から宮への海上、霞刑部の腕に絞め殺されたはずなのに、ふたたび、けろりとした顔でこの世にあらわれてきた秘密。さらに、「甲賀に勝つ、かならず勝つ!」と断乎としてうなずく絶大なる自負の根源はここにあったのだ。 彼は、まだうごかぬ。目は白く、月にむき出されたままである。しかも、その月光に照らされた創面に、肉がまるく、薄絹のような光沢をおびてもりあがり、ふさぎつつある。…… 野面《のづら》をふく風が、奇怪にもこの一画だけまわって吹くか、草もうなだれて、死の淀みのごとくしずまりかえっている。しかも、何やら音がする。鬼哭啾々《きこくしゆうしゆう》ともいうべき音が。―― それは天膳ののどのおくから、かすかに鳴り出した喘鳴《ぜんめい》であった。そして、みひらかれたままのまぶたが、ピク、ピク、とうごきはじめた……。 朱絹は、朧に命じられて、道からややはいった草むらのなかに、あさい穴を掘っていた。道具は、小四郎の大鎌だ。「小四郎どの……小四郎どの!」 と、ときどきすすり泣く。 朧は市女笠《いちめがさ》をうなだれさせたまま、これをきいていた。声には出せないが、彼女も「弦之介さま!」とさけびたかった。胸を波だてているのは、味方の天膳よりも、敵の甲賀弦之介の運命であった。 ――その魂の呼び声が、山彦のごとく魂にひびくのか――草のかげに、甲賀弦之介は、殺気にみちた如月左衛門と陽炎の腕をひっとらえていた。 彼らはここで朧と朱絹を待ちぶせていたのだ。左衛門と陽炎には、たたかいはすでに勝ったものと思われた。とくに左衛門には――彼は薬師寺天膳の顔をもっている。このまま朧と朱絹のそばにちかづいて、何くわぬ顔をしてぬき討ちにすればすむことだ。 ――と、最初かんがえて、あやうくふみとどまって、左衛門は苦笑した。朧の破幻の瞳のことに気がついたのだ。朧のまえに出れば、じぶんの変形はたちまち破れ去る。――左衛門は、朧が盲目になっているとはまだ知らなかった。 けれど、それが破れたとて、何であろう。しょせん、残った敵は女ふたりではないか。そう思いなおしてふたたびとび出そうとする左衛門の耳に、朧の「甲賀者とて恥ずかしめるな」と朱絹をたしなめる声がきこえたのである。左衛門の目を凍らせていた殺気が、ふと動揺した。そして彼らは、つづいて、「天膳も死んだのではないか」という朧のつぶやきに、「まあ、あの天膳さまが、ほ、ほ、ほ」という、こともなげな朱絹の笑いをきいたのである。 それは単なる伊賀者の、天膳に対する信頼の言葉であったか。むろんそうにきまっているが、なぜかそれ以上に、彼らの心をぞっと冷たくはってすぎたものがある。「天膳は、たしかに死にましたな」 と、陽炎がささやく。「完全に」 と、左衛門はうなずいたが、ふと何やら気になるらしく、月光にかすむ野の果てを見やって、「たわけめが――よし、それでは先ずあの女どもふたりをひっとらえて、天膳のむくろを見せつけてやったあとで討ってくれる」 草から出ようとした腕を、弦之介がとらえた。「待て、左衛門」 如月左衛門はふりむいて、目をとじたままの弦之介の顔をふかく彫る苦悩の影をみた。――先刻ここで朧たちを待つといったときからふいに沈黙してしまった弦之介だ。いやそれ以前、卍谷を出たときから、はたして朧とたたかう意志ありや否や、この若い首領が、いくたび一党を不安がらせたことか。 如月左衛門は憤怒《ふんぬ》のはしる目でにらんだ。「朧を討つなと仰せあるか」「そうではない」 と、弦之介はしずかにくびをふって、「東の方から人がくる。――ひとりではない、この夜中、いぶかしい行列だ」 ようやく掘った浅い穴に、筑摩小四郎の屍《しかばね》を横たえた朱絹と朧が気がついたとき、その行列はすでに五十メートルほどの距離にあった。「何やつか?」 むこうで、先頭のものがこうつぶやいて、ふいに四、五人駆けてくるのをみて、朱絹は身をひるがえそうとしたが、急にあきらめた。盲目の朧さまがいっしょだということに思いあたったのだ。 かけつけてきたのは、武士ばかりであった。すぐに彼らは路上の酸鼻な室賀豹馬の死骸をみつけ、また草のなかに大鎌をもって立つ朱絹の姿に目をやって、「あっ、曲者《くせもの》だ!」「方々《かたがた》、ご用心なされっ」 と、絶叫した。たちまち七、八人の武士が殺到してくる。 朱絹は目をひからせたまま立ちすくんでいたが、たちまち宙をとんで朧のまえにはせもどった。うしろに朧をかばい、はやくも抜刀した武士たちをにらみすえて、「わたしたちは大御所《おおごしよ》さまのお召しにより、いそぎ駿府にまいるものです。お手前さま方こそ、いずれの方ですか」 と、ひくい声でいった。「なに、大御所さまに?」 武士たちは、騒然とした。おどろいたらしい。ひとり、つかつかとあゆみ出て、「みれば、女ふたり、それが何の御用があって駿府へ召されたのか。そもそも、どこの何者じゃ」「伊賀の国鍔隠れの郷士です」 そのとき、武士たちのうしろで、「なんと申す、伊賀の鍔隠れ? それでは――」 と、ただならぬ女の声がして、ひとり身分ありげな女性が乗物から下り立った。「もしや、そなたらは、服部半蔵との約定解かれて、甲賀者とたたかっている伊賀のものではないか?」 と、息をはずませた。朱絹ははっとしつつ、「あなたは――」「将軍家御世子《せいし》竹千代さまにお乳をまいらせた阿福《おふく》じゃ」 きっとなって、重々しく名乗り、月光にこちらをすかしてみていたが、「そなたら、朧と朱絹とは申さぬかえ?」 朧と朱絹は、呆然としている。なぜ将軍家御世子の乳母が、じぶんたちの名まで知っているのか。「どうして、わたしたちを?」「では、やっぱりそうであったか。そなたらの名――伊賀のお幻がほこらしげにかいた十人の名――忘れてなろうか。そなたらは竹千代さまのおんためにえらび出された大事の忍者じゃ。これ、ここにある男の死骸、これは何者じゃ」「それは、甲賀卍谷の室賀豹馬と申すものでございます」「おう、甲賀者か。出かしゃった! して、のこりの卍谷衆は?」「おそらく、いまのところ、あと三人――」「そ、それで、そのものどもは?」「さきに駿府へまいったか、それとも、まだこの野のいずこかにおるのか――」 阿福はぎょっとしたらしく、「みなのもの、用心いたせ!」 と、うしろをかえりみた。さっと四、五人があたりの草に散り、また残りの武士たちは彼女をつつんだ。しかし、人数はぜんぶで二十人内外であった。阿福はふるえ声で、「これ、鍔隠れの女、あと八人の伊賀者はどうしやった?」「死にました。……」 朧と朱絹は、凝然と身うごきもせずにこたえた。阿福の顔は夜目にも粟立《あわだ》ち、しばらく声もない。 【三】 いままでだまっていた朧が、しずかにきいた。「わたしたちが、竹千代さまのおんために大事な忍者とは、どういうわけですか」「そなたらは……それも知らず甲賀方とたたかってまいったのか」 阿福は恐怖をおびた目で、ふたりの伊賀の女をながめやった。そして、やおら粛然《しゆくぜん》として、この忍法の大秘争が、徳川家の新しい世継《よつ》ぎを決定するための至大至重のものであることを説明しはじめた。 ――阿福は、のちの春日《かすが》の局《つぼね》である。大道寺友山《だいどうじゆうざん》の「落穂集《おちぼしゆう》」に「春日局見えたまわずとの儀《ぎ》につき、ご老中方《ろうじゆうがた》より御留守居年寄衆《おるすいとしよりしゆう》へおたずねあるところに、ちかごろ春日局かたより頼みにつき、女中三人箱根御関所《はこねおんせきしよ》通り手形《てがた》相《あい》ととのえつかわし候《そうろう》との儀《ぎ》につき、さては、伊勢参詣《さんけい》に相きわまる。さだめて竹千代さまへ相違なくおん弘《ひろ》め(家督《かとく》相続のこと)などの仰出だされ候ようにとの立願の志にてこれあり候やと、諸人推量つかまつるとなり。そのとき世上において、春日局ぬけ参《まい》りと申し触る由」とあるのは、この時のことだ。事実は、阿福は駿府にきたついでに、ひそかに西への旅に出たもので、むろん竹千代が勝利をうるように伊勢へ祈願にゆくということは、周囲の関係者は知っていたろうが、国千代派がこのことを知ったのはあとのことで、密行ということに変わりはなかった。――そして、伊勢へのぬけまいりということも一つの名目であって、その実、甲賀と伊賀のあいだにくりひろげられているであろう争闘のようすをうかがいに出たものであった。 むろん、甲賀伊賀の死を賭《か》けた忍法競技に、竹千代派、国千代派が手を出してならぬということは、あらかじめ大御所から誓わせられた厳粛なルールだ。 しかし、そこが女性であった。阿福は座して、運命を待つにたえかねた。この競技に無縁の見物ではない。応援団ですらない。おのれの派が敗れれば、天下をとれぬどころか、のちに待つのは死あるのみだ。――それは後年駿河大納言忠長《だいなごんただなが》となった国千代の悲惨な運命をみればわかる。――いわんや、これは竹千代のために、いや自分自身の野心のためにも、いかなる権謀術数をもじさなかった、女怪ともいうべき春日の局であった。かつて彼女は、稲葉佐渡守《さどのかみ》の後妻であったが、夫がひそかに妾《めかけ》をたくわえ一子を生ませたのを知ると、夫に説いてその母子を呼びむかえさせ、ごうも介意《かいい》のない態《さま》をしめし、夫の留守にいきなり妾を刺し殺して、みずから駕籠にのって家を去ったといわれる。ルール違反には前科がある。 説きおえたとき、彼女の心には、ひとつの決断が生まれていた。ひそかに駿府をしのび出たのが、やはりもっけのさいわいであった。「朧、朱絹、両人、これよりわたしの一行にはいって駿府へまいらぬか? いや、是《ぜ》が非《ひ》でも同行してたもれ」 せめてこのふたりは、断じて殺させるわけにはいかない。そして、いそぎ駿府へつれかえって、ひそかに手をまわして、甲賀組を討ちはたす。――これが阿福の切迫した着想だ。 この死闘が、徳川家の運命を決するものだときいても、朧にはさして感動のようすもなかった。沈黙したままの顔には、むしろ無限の怨《うら》みの影さえただよっているようであった。しかし、彼女はいった。「まいりまする」 死をおそれたのではなかった。朧はこのとき、あの弦之介の果し状にあった「余《よ》はたたかいを好まず。またなんのゆえにたたかうかを知らず。されば余はただちに駿府にゆきて、大御所または服部どのにその心をきかんと欲す」という言葉を思い出したのだ。たたかいの意味はわかった。しかし彼女は、大御所さまか服部半蔵に会って、おのれの死をもって、このたたかいをふたたび禁じてもらうよう請おうと心にきめたのである。「朧さま、甲賀組をあのままにして!」 と朱絹がさけんだ。 阿福がいった。「甲賀組を、そのままにしてはおかぬぞ。……また、そなたらを死なせてはならぬ」 朱絹はだまった。これまたじぶんの命はおしまぬ。ただ彼女は、朧のことをかんがえたのである。足手まといの盲目の朧のことをかんがえたのである。――そうだ、すくなくとも朧さまだけは、ぶじに駿府にとどけてもらおう。そして、わたしはかならず小四郎の敵を討ってみせる! 鷹がとび立った。行列は反転し、ややいそいでうごき出した。東へ。―― ――それが野末にきえたとき、草むらから三つの影が立ちあがった。さっきあたりを警戒した武士たちには、むろんなんの異常な感覚もあたえなかったが、甲賀弦之介と如月左衛門と陽炎だ。「そうか」 と弦之介はつぶやいた。このたたかいをついに止めることができないということを自覚した沈痛なうめきであった。「徳川家世継ぎのためか。これはおもしろい」 と、如月左衛門は、会心《かいしん》の笑《え》みをうかべた。 そして三人は、ひたひたと行列を追ってあるき出した。あまりに思いがけない争忍の真意と、事態の急変を知った昂奮《こうふん》のために、彼らはふと心にひっかかっていた薬師寺天膳のことを忘れた。実に、千慮の一失《いつしつ》。 月は沈み、野に夜明けまえの濃い闇がひろがった。風も絶えた。 にもかかわらず、その一画で、草がザワザワとうごいた。それにまじって、「あアあ!」 という、まるで眠りからさめたか、それともあくびしたようなきみわるい声がした。そして、闇の底から、ニューッと起きあがったものがある。 薬師寺天膳である。彼は二、三度あたまをふり、フラフラと水のほとりへかがみこんだ。ひそやかに顔を洗う水音がひびく。洗いながら、頸をなで、肩をなでる。だれも見ているものはなかったが、その傷は完全にふさがって、うす赤い痣《あざ》をとどめるのみになっている。なんたる奇蹟、彼は死から甦《よみがえ》った! しかし、これはどういう現象か。奇怪は奇怪だが、世にありえないことではない。蟹《かに》の鋏《はさみ》はもがれてもまた生じ、とかげの尾はきられてもまたはえる。みみずは両断されてもふたたび原形に復帰し、ヒドラは細断されても、その断片の一つずつがそれぞれ一匹のヒドラになる。――下等動物にはしばしばみられるこの再生現象は、人間にも部分的にはみられる。表皮、毛髪、子宮《しきゆう》、腸、その他の粘膜、血球などがそうで、とくに胎児《たいじ》時代はきわめて強い再生力をもっている。 薬師寺天膳は、下等動物の生命力をもっているのか。それとも胎芽《たいが》をなお肉のなかに保っているのか。いずれにせよ、このぶんでみると、再生力のまったくないといわれる心筋や神経細胞ですら、彼の場合は再生するに相違ない。 夜明けの微光がさして、そのノッペリとした顔を浮かびあがらせた。彼はニヤリと笑い、しだいに足をはやめてあるき出した。東へ。―― 【四】 もとより密行の旅だから、あまり時日がなく、さればこそ夜にかけてまで池鯉鮒《ちりゆう》まで足をのばそうとしていた阿福の一行であったが、急にひきかえすことになって、その夜は岡崎に泊った。 これは、徳川家の祖城《そじよう》だから、いかに密行とはいうものの、竹千代君の乳母がきたとあれば、ひそかに連絡があったものとみえて、城主本多豊後守《ぶんごのかみ》の方から警戒の手勢《てぜい》が出て、それとなく宿のまわりに目をひからせている。 あくる日、阿福の一行は東へむかって出立したが、乗物は三梃《ちよう》となり、それをとりかこむ武士たちの眼光に油断はなかった。そして、その乗物のなかの主を、知る人には知らせるごとく、行列の空にときどき鷹がとび立ち、舞いおりた。 ――行程八里、その夜一行は吉田にとまったが、宿にはいって一刻ばかり――往来に立って見張りをしていた七、八人の武士のまえに、飄然《ひようぜん》とひとりの男があらわれた。「これ、どこにまいる?」 男は、じろりと武士たちをみて、だまって宿の方へあごをしゃくった。「ならぬ」「ここは今宵さる貴人がお泊りじゃ。ほかへゆけ」「――貴人とは?」 と、夕焼空の宿の屋根にとまっている鷹をあおいでいた男は、いぶかしそうにいった。「それはその方の知ったことではない」「はやく去れっ」 と、つき飛ばそうとしたひとりの手が、異様な音をたてて、ダラリとたれた。 男はニヤリとした。髪は総髪で、色は白く、女のようにノッペリとした顔だ。まだ若く、そのくせ妙におちつきはらっているから、みんなそれほど警戒していたわけではなかったが、いま朋輩《ほうばい》の腕が魔法にかけられたように麻痺してしまったのに、ぎょっとして相手をみると、その典雅《てんが》な容貌にも似ず、紫いろの唇にただよう野性と妖気はただものではない。「こ、こやつ!」「曲者っ」 三人、ぬき討ちに左右から斬りこんだが、相手はひらりと蝙蝠《こうもり》みたいにその下をかいくぐって、三人とも刀身をとりおとした。稲妻のような手刀の一撃で、彼らの肘《ひじ》関節は脱臼《だつきゆう》させられていたのである。「各々《おのおの》、曲者でござるぞ、お出合いなされ!」 ひとり、ころがるように宿にとびこむと、おっとり刀でとび出した武士たちのなかで、「あっ、天膳どの!」 と、女のさけぶ声がきこえた。大鎌をもった朱絹である。「ちがいます、味方です! それは伊賀の者ですっ」 ひとり、味方の薬師寺天膳という男があとを追ってくるかもしれない――とは言っておいたが、それがよく徹底していなかったのか、知らされていても、これほど傍若無人な出現のしかたをするとは思いもかけなかったのか。――とにかく武士たちは、安堵《あんど》の冷汗をかいて刃をひきながら、「なんじゃ、味方か」「それなら、はやく奥へ」 と、あわてて言ったが、天膳は、一顧もあたえず、「朱絹、これはどうしたことじゃ。鷹がここの屋根におるから、この宿にそなたらがおると知ったが、この男どもはなんじゃ」「この方々は、将軍家御世子竹千代さまづきの御乳母阿福さまの御家来衆です」 そう言われても、この男のくせか、おどろきの表情もみせず、「朱絹、朧さまは?」「ご無事です。天膳さま、それよりはやく阿福さまにあって下さいまし。どうしてわたしたちがこの方々といっしょにいるか、わたしがいうより、阿福さまからきかれた方がようございます」「なんの話か。――いや、いまはそんなことをしているひまはない」「え、なんですか」「甲賀の陽炎が、夕暮《いむれ》橋《ばし》のほとりにおるのだ。この吉田の東にある橋じゃ。くわしいことは、あるきながら話す。そなたでなければかなわぬことがある。すぐにいってくれい」「陽炎が!」 朱絹の目に、蒼白《あおじろ》い殺気の灯がともる。武士が二、三人寄ってきて、「なに、甲賀者がどこぞにおるのでござるか」「甲賀者なら、拙者らにまかせおかれい」 天膳は、なお関節をはずされたままあたふたしている連中に視線をやって、ちらっと氷のような苦笑をはしらせて、「どういう御縁か存ぜぬが、あなた方の手におえる相手ではない。また伊賀の名誉にかけて、余の方《かた》にはまかせられぬ敵でござる」 朱絹は、はっと虚をつかれたような表情になった。「朱絹、陽炎は小四郎を殺した女じゃ。くるか?」 朱絹は、電撃されたように天膳をみつめていたが、「まいりまする!」 と、さけんだ。そして武士たちに、「おたのみいたします。薬師寺天膳まいり、大事の用あって朱絹はいっしょにいったと朧さまへおつたえをねがいまする」 というと、天膳とともにあるき出した。あるくというより、地上を滑走するような姿だ。武士たちがあっけにとられているあいだに、ふたりは黄昏《たそがれ》の彼方《かなた》にきえてしまった。 ――それから、実に三十分もたたないうちのことである。飄然《ひようぜん》と西の方からやってきて、その宿のまえでじっと屋根の上をあおいでいる男を、武士のひとりが発見して、口をアングリとあけた。「すこしく存じよりの鷹が、ここの屋根にとまっておるが、もしやこの宿に――」 といって、つかつかと、はいってくるのを、だれしもとめる勇気のあるものはなかった。それは、さっき東の方へ消えたばかりの薬師寺天膳であったからである。 【五】「小四郎どのが陽炎に殺されたとは、どういうわけですか」「そなた、駒場野で小四郎の骸《むくろ》を見なんだか」「見ました。甲賀の室賀豹馬の骸といっしょに。わたしは、ふたりが相討ちをしたものと思っておりました」「豹馬を殺したのは、まさに小四郎じゃ。しかし小四郎を殺したのは豹馬ではない。陽炎だ。――あの女、男に抱きつくと、息が毒になるらしい。小四郎のからだに、傷がなかったのを見たであろう。男にとっては、実に恐るべき女、さればこそ、そなたの力をかりたいと呼んだわけだ」「よう呼んで下さった。そ、それで陽炎は?」「駒場野で、わしは弦之介と如月左衛門と追いつ追われつしているうちに、彼らの姿を見うしない、それからやつらを捜しながらこっちへきたが、ふとこの吉田の西口で陽炎のみを見つけ出した。吉田をとおるとき、はからずも鷹をみて、そなたらがあの宿におることを知ったが、そのことを告げるひまもなく陽炎を追った。すると陽炎は、この東、夕暮《いむれ》橋《ばし》のほとりにとまって、だれやらを待っている様子、いうまでもなく待ち人は弦之介と左衛門に相違ない。きゃつらはわしがひきうける。陽炎だけはそなたにたのみたいと、いそぎひきかえしてきたのだ」 はしりながら、天膳と朱絹は話した。「ところで、あの男たちはなんだ。将軍家のなんじゃと?」「御世子竹千代さまの御乳母阿福さまのご一行です。天膳さま、ご存じですか、こんど服部さまが伊賀甲賀争忍《そうにん》の禁をとかれたのは、竹千代さまと弟君の国千代さまの世継ぎ争いのためだということを。――そのいずれに徳川家をおつがせ申すべきかを決しかね、竹千代さまは伊賀、国千代さまは甲賀、十人ずつの忍者の勝負のすえに、生き残ったものの多い方が次の将軍さまにおなりあそばすとか。阿福さまは竹千代さまのご運をねがいに伊勢へまいられようとし、あの駒場野で偶然わたしたちが伊賀のものであるということをお知りになったのです。そして、そなたらは殺せぬ。じぶんたちの手で甲賀を討つと仰せられますけれど――」 朱絹はちらっと不安げに天膳を見やった。天膳の表情にむらむらと不機嫌な雲がひろがってゆく。「天膳さま、わたしたちはいけないことをしたのでしょうか」「わるい!」 はたせるかな、天膳は、吐き出すように言った。「ひとの手をかりて、甲賀を討ってなんになる? あとで、あれみよ、鍔隠《つばがく》れのものどもは、おのれらの力では卍谷《まんじだに》に敵しかね、余人の助けを受けて勝ったといわれたら、伊賀の忍法の名は泥土にまみれるではないか。それで竹千代派とやらは勝つかもしれぬ。彼らはそれでよかろう。しかし、伊賀が勝ったということにはならぬ。勝って将軍になった竹千代自身がそうは思わぬ。そもそも竹千代派、国千代派、いずれが徳川家をつごうとつぐまいと、それがわしらとなんのかかわりがある? 鍔隠れの忍者は、独力で卍谷の忍者をみなごろしにするのだ。甲賀弦之介が、大御所または服部どのの心をききたいと申したのは、おそらくそのような内幕を知りたかったのだろう。知ってどうしようというのか、たわけた奴じゃ」 天膳の声に、嘲笑のひびきがこもった。「わしらは甲賀者とたたかい、これをうち破ってこそ生まれてきた甲斐があるとは思わぬのか。そなたは、じぶんの手で陽炎を殺したいとは思わぬのか」「ああ! そうでした。わたしはこの手で――わたしの血で陽炎を血まみれにしてやらねば気がすまぬ。わたしが悪うございました」 朱絹は悔いに息はずませつつ、「けれど、天膳さま、わたしは、むろんその気もちでした。ただ、盲の朧さまは――」 ふいに、天膳の足がピタリととまった。「どうなされた?」「いや、何でもない。うむ、盲の朧さまを――?」「朧さまだけはぶじに駿府におとどけ申したい――と、こう思って、阿福さまと同行したのです」「さようか。いや、それで相わかった」 と、天膳はうなずいたが、声が急におだやかになったのと反対に、目は異様なひかりをおびていた。 朱絹は、それには気づかず、「天膳さま、夕暮《いむれ》橋《ばし》とはまだですか」「あそこじゃ。……しめた。まだおるぞ!」 遠くゆくての橋のうえに、みるともなく水を見おろしている女の影があった。音もなく走りよるふたりに、はっと顔をあげたとき、天膳はすでに橋のたもとに立って、「陽炎、弦之介はまだ来ぬか」「天膳と朱絹か」 と、陽炎はしずかに言った。「弦之介はいずれにおる?」「わたしの待っていたのは、おまえらふたりじゃ」「なに?」 きっとなる天膳をおしのけるように、朱絹が、つ、つ、とまえに出た。同時に、左腕を袖にいれると、襦袢《じゆばん》ごめにさっと肌をぬいだ。蒼茫《そうぼう》たる薄暮に、乳房がひとつ、玲瓏《れいろう》とひかった。右手には小四郎形見《かたみ》の大鎌をひっさげたままだ。それがむしろ優雅な顔だちの女だから、その凄艶《せいえん》さは息をのむばかり。―― ふたりの女忍者は、じっとあい対した。「陽炎、筑摩小四郎の敵《かたき》をいま討つぞ」「ほ、ほ、笑止じゃ、まいれ。――」 さっとなぎつける大鎌から、陽炎は身をひるがえすと、胡蝶のようにとびこんで、はやくもぬきはらった懐剣が、朱絹のぬいだ袖を斬りはらった。朱絹はとびさがった。と見るや――その雪白の肌から、朦《もう》――と血の霧が噴出した。「あっ」 顔を覆いつつ、陽炎は身をくねらせて夕暮橋の欄干《らんかん》に舞いあがった。のがさじと血の霧風《むふう》はその姿を吹きくるむ。「冥途《めいど》の土産《みやげ》に、見や、伊賀の忍法。――」 にっとして、大鎌の最後の一閃を送ろうとする朱絹のくびにふいに鋼鉄《こうてつ》のような腕がまきついた。「見た。おもしろかった」 腕のなかで、血がすべり、朱絹は首をねじまわし、美しい唇がねじくれた。「て、天膳!」「天膳は死んだ! うぬこそ、如月左衛門の変形ぶりを、冥土の土産にとくと見てゆけ!」 最後の力で、朱絹の大鎌が旋回したが、むなしく空をきって、欄干にくいこんだ。そのうえから、陽炎がとびおりて、はせ寄り、懐剣を朱絹の乳房につき立てた。「やがて朧もゆく。血で地獄の露払《つゆはら》いをしやい!」 懐剣をひきぬくと、朱絹は泳いで欄干にぶつかり、川に舞いおちていった。見下ろす如月左衛門と陽炎の目に、赤い輪が無数に水面にひろがり、そして、その名のごとく数十条の朱い絹をひくようにして流れ去った。 陽炎は、顔にしたたる血の霧をぬぐって、ニンマリと、「うまく、さそい出せたものじゃな、左衛門どの」「この顔じゃからの。――そなたに討たせてやろうと、ここまでつれてきた苦労を買え」「かたじけない。……ところで、あとは朧ひとりじゃな」「もはや、討ったも同然。――」 如月左衛門は、薬師寺天膳の目を笑わせて、「陽炎どの、朧は盲じゃとよ。破幻《はげん》の瞳《ひとみ》はふさがれているとよ」破幻刻々 【一】「や?」 ふいに、如月左衛門は顔をあげて、ふりむいた。吉田の方から、ただならぬ大勢の足音とさけび声がきこえてきたからだ。「はてな」 もううす暗い街道を、十人以上もの人影がかけてくる。そのなかに、槍や抜刀した刀影さえまじっているのをみると、左衛門はややあわてて、「あれは阿福の家来どもらしい。まんまと朱絹をおびき出したが、何か異変が起こったとみえる。まさかわしの正体がわかったとは思われぬが……陽炎どの、わしは薬師寺天膳じゃ。そなたとここで立話などしておるのをみられては万事休す。そなた、さきに弦之介さまのところへいっておれ」「左衛門どのは?」「わしは、このまま阿福の一行にもぐりこんで、朧にちかづく。もし朧が盲というのがまことなら、そのまま討ちはたすは嬰児《あかご》のくびをしめるよりたやすいことじゃ」 いちど背をみせた陽炎は、ほの白い顔をふりむけた。「左衛門どの、朧をひとりで討つは、ちと欲すぎよう」「さようかな」 陽炎の美しい目が、水明りに蒼くひかった。「わたしにも」「よし、ならばそなたも呼んでやる。そうだ、明日いっぱい、旅する阿福一行を見張っておれ。もし、わしの――つまり薬師寺天膳の姿がみえたならば、わしが無事である証拠、すなわち朧の破幻の瞳がふさがれている証拠じゃ。それまでに、わしが阿福一行を手なずけて、そなたも味方じゃ、陽炎は――わしにつかまり、操《みさお》をうばわれて伊賀に寝返ったとでもいっておこう。そこは、まずわしにまかせい」「わたしの操を――?」「ふ、ふ、そなたの操をうばう男の命はないがの。伊賀のものどもはそれは知らぬ。何にせよ、かんじんの朧は盲じゃ、どうとでもなる。――」 にっと白い歯をみせてうなずくと、陽炎はとび立った。風のように音もたてず、十歩もはしると、その姿はふっと闇にとけたように消滅した。 如月左衛門は、むずかしい顔で腕ぐみをして、かけつけてくる武士たちをむかえた。はたして阿福の家来たちだ。 橋の上に立つこちらの姿をみて、彼らがどどっと立ちどまったのを、先刻わざと高びしゃにいためつけすぎたのが、こうなれば少し都合が悪い。――と、腹の底で苦笑いして、左衛門は笑顔でこちらから歩み寄った。「いや、さっきはご無礼つかまつった。伊賀の山中、猿のごとく育ったものでな、つい手荒になるので、あとで臍《ほぞ》をかむことが多うござる」 陣笠にぶッ裂き羽織の武士がひとりすすみ出て、「あ、朱絹どのは、どうなされた」 と、きいた。妙に陣笠をふせて、もうまったく闇となった橋上に、その鉄にぬった漆《うるし》がチラチラと水明りにひかる。すこし、ふるえているらしい。「先刻、朱絹より承わると、あなた方はわれらの味方とのこと、ならばもはや子細を御存じであろうし、またわしから申してもさしつかえあるまい。朱絹は、甲賀組の首領、甲賀弦之介を追ってゆき申した」「なに、ここに甲賀弦之介がきておったのでござるか」「されば――」「そして、弦之介は?」「手傷をおわせたが、死物狂いに逃走し――」「それを朱絹どの、女ひとりに追わせて危くはないか」「弦之介は深傷《ふかで》でござる。また、女とは申せ、朱絹はお幻さまが十人のうちにえらんだほどの忍者、ご案じ下さるな」 と、如月左衛門が笑った。そのとき、その陣笠が、「やっ、その血は?」 と、橋の上を左手で指さした。闇のなかで、ほかの家来たちにはみえず、左衛門も狼狽《ろうばい》して、「いや、これが弦之介の血でござるが――」「おおさようか。ひどく血なまぐさい! このぶんでは、よほどの深傷じゃな」 と、相手がうなずいたところをみると、血をみたというより、血の匂いをかいだものであろう。それからまた左衛門の方へ陣笠をむけて、「そなたはどうしてここにのこったのか」 と、ちかづいてきいた。しかし、ようやく警戒をといたらしい様子である。「朧さまをおまもりするためです。――まだ甲賀方には、如月左衛門と申す忍者がござれば」「もうひとり、陽炎とかいう女がのこっているはずではないか」「ああ、あれは拙者《せつしや》が飼いならしました」「飼いならした?」「ふふふふ、駒場野で、つかまえての。拙者が陽炎を女にしてやり申した。すると、女とは、ふしぎなものでござるな、たちまち伊賀に寝がえって、今宵も甲賀弦之介がここにおることを拙者に知らせたのは、実は陽炎です。少々子細があって姿をかくしたが、もしその女が、拙者薬師寺天膳をたずねてまいったら、お手数ながらそのままお通し下されい」 相手は感にたえたようにしばらくだまっていたが、やがて、「それはお手柄。……なんにしても、おぬしがまもってくれれば、まさに千万の味方よりもたのもしいな」 さすがに如月左衛門は思わず笑った。「あいや、それほどたのもしい味方でもないが……」 千万の味方どころか、彼はこれから朧を討ちにゆく男なのだ。「何はともあれ、阿福の方さま、朧さまに一刻も早うおあいいたしとうござれば、あらためてご案内ねがいたい」「心得た。……それにしても、さっきのお手並は恐れ入ったな。あっというまにわれらの方の四人ばかり、蝶つがいをはずされて、章魚《た こ》のようになりおった。醜態をはじいるはもちろんでござるが、それより忍法なるものの恐ろしさをはじめて見て、一同ほとほと感銘つかまつった。……」「いや、あれは忍法と呼ぶべきほどのものではありません」「おぬしを薬師寺天膳どのと存じておれば、ゆめゆめあのような無謀なまねをせなんだところじゃが。……」 如月左衛門は、だんだん面倒になってきたが、この連中をしばらく手なずける必要があるので、欄干にもたれて、すずしい夜風に吹かれながら、相手の陣笠の言葉を空にききながしている。「薬師寺天膳どのならば、朱絹どのより承わっておった」 相手はいよいよ好奇と嘆賞の吐息をたかめて、「おぬし、いかに傷をうけても、死なぬそうじゃな。不死の忍者。……」 如月左衛門は、ぎょっとした。不死の忍者! はじめてきく。薬師寺天膳が、不死の忍者だと! どんな傷をうけても、死なない男だと? ――彼は駒場野で、たしかに天膳のくびにとどめを刺した。あれが死なないと? ――そんなばかなことが世にあろうか。が、彼の背に、すうっと冷たい波がゆらめきはしった。「朱絹が、さようなことを申したか?」 と、彼はうめくようにいって、舌うちをした。忍者は仲間の忍法を余人にはあかさぬものだからだ。これは薬師寺天膳として、当然な舌うちだ。 が、如月左衛門は、たったいま駒場野へとってかえして、天膳の死骸《しがい》をたしかめたい衝動にかられた。相手は左衛門の動揺も知らぬげに、「されば、おぬしは、いちど甲賀の地虫十兵衛なるものに殺されてよみがえり、霞刑部に殺されてまたよみがえったという。首でも斬りはなさねば、おぬしを完全に殺したことにはならぬそうな。なみの傷では、すぐにふさがって、また平気で生きかえってくるという。――いちど、是非ともその術を拝見いたしたいものだな」 突如、如月左衛門は海老《え び》のようにはねあがった。なんたること――毛ほどの予備行動もみせないで、いきなり陣笠は一刀を彼の腹に刺しとおしていたのである。刀は抜いたまま、背後にかくしていたのだ。 如月左衛門はのけぞりかえり、また折りかがみ、腹を中心に、全身をねじまわした。彼はみごとに欄干に刺しとめられていた!「ものは試し――さて、この傷はおぬしにとって、蚤《のみ》のくったようなものであろう。……不服かもしれぬが、天膳どの、いかがじゃな?」 いままで、ふせぎみであった陣笠が、はじめてあがった。苦悶にのたうちながら、如月左衛門の目は、かっとむき出されたままうごかなくなった。 闇の中であったが、左衛門は見た。陣笠からあらわれた顔が、いまの自分じしんとおなじ顔をしているのを。――ただ、左衛門の方の顔は断末魔の形相にわなないているのに、相手はきれながの目と紫いろの唇を、ニンマリと笑わせている。