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[山田风太郎] 甲贺忍法帖

作者:山田風太郎 字数:23991 更新:2023-10-10 09:48:08

甲賀忍法帖山田風太郎 著  目 次大秘事甲賀ロミオと伊賀ジュリエット破虫変(はちゅうへん)水遁(すいとん)泥の死仮面(デスマスク)人肌地獄忍法果し状猫眼呪縛(びょうがんしばり)血に染む霞魅殺の陽炎(みさつのかげろう)忍者不死鳥破幻刻々最後の勝敗甲賀忍法帖大秘事  【一】 舞扇《まいおうぎ》をかさねたような七層の天守閣を背景に、二人の男は、じっと相対していた。 日が照ると、二人のからだは透明になり、雲が影をおとすと、二人の影は朦朧《もうろう》とけぶって、消えさるようにみえた。無数の目がそれをみていたが、どの目も、しだいにうすい膜がかかってきて、いくどか対象をふっと見失うような気がした。 それでも、だれひとり、目がはなせなかった。五メートルばかりはなれてむかいあった二人の男のあいだに交流するすさまじい殺気の波が、すべての人びとの視覚中枢に灼《や》きつけられていたからだ。といって、二人が白刃をかまえているわけではなかった。どちらも手ぶらであった。もし人びとが、さっきこの庭で二人がみせた、「術」に胆《きも》をうばわれなかったら、いまの殺気の光波もみえなかったかもしれぬ。 ひとりは、名を風待将監《かざまちしようげん》といった。 年は四十前後であろう。瘤々《こぶこぶ》したひたいや頬のくぼみに、赤い小さな目がひかって、おそろしく醜《みにく》い容貌をしていた。背も、せむしみたいにまるくふくらんでいたが、手足はヒョロながく、灰いろで、その尖端は異様にふくれあがっていた。手の指も、わらじからはみ出した足の指も、一匹ずつの爬虫《はちゆう》みたいに大きいのだ。 ――先刻、この男に、まず五人の侍がかかった。未熟にして斬られるのは望むところとは本人の殊勝な申しぶんであったが、仕手《して》はいずれも柳生《やぎゆう》流《りゆう》の錚々《そうそう》であったから、当人のかまえをみてあきれた。申しわけのように大刀はもっていたが、まるで案山子《か か し》のように無芸な姿にみえたからである。 ふいに、二人の武士が、「あっ」とさけんでよろめいた。片手で両眼を覆っている。声もかけず、将監の方から攻撃に出たのである。何が、どうしたのかわからなかったが、あとの三人は狼狽《ろうばい》し、また逆上した。剣をとって相対したうえは、すでにたたかいの開始されていることはいうまでもないことだから、「不覚」と愕然《がくぜん》として、刃《やいば》を舞わせて殺到した。 将監は横にはしった。そこに天守閣の石垣の一部があった。つむじ風のように追いすがる三本の乱刃からのがれて、彼はその石垣にはいあがったが、おどろくべきことは、彼が敵に背を見せなかったことだ。すなわち、彼の四肢《しし》は、うしろむきに石垣に吸いついたのである。いや、四肢ではない、右手にはいぜんとして刀をさげていたから、左手と両足だけだが、その姿で、蜘蛛《く も》のように巨大な石の壁面をうごくと、二メートルばかり上から、三人を見おろして、きゅっと笑った。 笑ったようにみえたのは、口だけであった。その口から、何やらびゅっと下にとぶと、三人の武士はいっせいに目をおさえて、キリキリ舞いをした。先刻の二人は、まだ顔をおおったまま、もがいている。風待将監は背を石垣につけたまま、音もなく下におりてきた。勝負はあったのである。 将監が口からとばせたのは、異様なものであった。それは慶長銭《けいちようせん》ほどの大きさの粘液の一塊であった。通常人なら痰《たん》とよぶべきものであろうが、将監のそれがいかに粘稠度《ねんちゆうど》の強烈なものであったかは、五人の武士の両眼に膠《にかわ》のごとくはりついたまま数日後にいたってもとれず、それがとれたときは、いずれも睫毛《まつげ》がすべてむしりとられたことからでもわかった。 ――かわって、やはり五人の侍の相手になったのは、伊賀の夜叉丸《やしやまる》という若者であった。 若者というより、美少年である。服装は山国から出てきたらしく粗野なものであったが、さくらいろの頬、さんさんとかがやく黒瞳《こくどう》、まさに青春の美の結晶のようであった。 五人の武士をまえに、これも腰の蔓《つる》まきの山刀《やまがたな》に手もかけなかったが、そのかわり、黒い縄のようなものをもっていた。この縄が、実に信じられないような威力を発揮したのである。それは縄というにはあまりにほそく、力をくわえればたちまちちぎれそうにみえながら、刃をあてても鋼線のようにきれなかった。日光の下に、眩《めくる》めくようにかがやくかと思えば、日が翳《かげ》ると、まったくみえなくなった。 たちまち、一本の刃が、この奇怪な縄にからまれて、空中たかくはねあげられた。鼓膜《こまく》をきるようなするどいうなりを発して横になぐる縄に、二人の武士が大腿部《だいたいぶ》と腰をおさえてくずれふした。縄は夜叉丸の両手から、二条となってたぐり出されていた。そばへ肉薄するどころか、あとの二人も、三メートル以上もの位置で、投縄にかかった獣《けもの》みたいに縄にくびをまきつけられて悶絶した。 あとできくと、それは女の黒髪を独特の技術でよりあわせて、特殊の獣油をぬった縄だということであったが、それは人間の皮膚にふれると、鉄の鞭《むち》のような打撃力をあらわした。太腿《ふともも》をうたれた一人などは、鋭利な刃物できられたように肉がはじけていたのである。それが十数メートルものびるかと思えば、まるでそれ自身生命あるもののごとく旋回《せんかい》し、反転し、薙《な》ぎ、まきつき、切断するのだからたまったものではない。しかもそれが刀槍とちがって、夜叉丸自身の位置、姿勢とはほとんど無関係とみえるのだから、相手は攻撃はおろか防御の手がかりもないのであった。 ……そしていま、それぞれ五人の武士をたおしたこの二人の奇怪な術者は、魔魅《まみ》のように音もなくあい対したのである。 天守閣にかかる初夏の雲が、ウッスラとうすれてきた。雲が蒼空《そうくう》に溶けるのは、ほんの数分であっても、なぜか永劫《えいごう》のながさを思わせる。それに似た時間がながれた。…… 風待将監の口が、きゅっと笑った。間髪をいれず、夜叉丸のこぶしからうなりをたてて噴出した縄が、旋風のごとく将監を薙いだ。将監は地にふした。その刹那《せつな》、人びとはすべて、大地にはった灰いろの巨大な蜘蛛《く も》を幻覚したのである。縄にうたれたのではなく、みごとに避けたことは次の瞬間にわかった。四《よ》ツン這《ば》いになったまま、将監の笑ったとみえる口から、うす青い粘塊がびゅっと夜叉丸の頭へとんだからだ。 それは夜叉丸の顔のまえで、空にかききえた。夜叉丸のまえには、円形の紗《しや》の膜がはられていた。それがもう一方の手で旋回されている縄だと知って、将監の顔にはじめて狼狽の相《そう》があらわれた。 四ツンばいのまま、後方へ、ツ、ツーと水澄《みずすまし》のように逃げたが、そのまま頭をさかさに、天守閣の扇勾配《おうぎこうばい》の石垣へいっきにはいあがったのには、見ていたものすべてあっとどよめいた。 追いすがった夜叉丸の縄のさきから、将監のからだがとんで、初重《しよじゆう》の白壁にはりついたとみるまに、唐破風《からはふ》のかげにきえて、そこから粘塊をびゅっと下へ吐《は》きおとした。しかし、夜叉丸の姿はそこにはなかった。もう一方の縄が屋根の一端にからみついて、彼のからだは宙にういていたからである。 将監が、青銅の甍《いらか》をはしって、その縄をきったとき、夜叉丸はすでに他の一条をべつの一端に投げていた。ゆれる蓑虫《みのむし》は死の糸をふき、はしる蜘蛛は魔の痰《たん》を吐いた。眩《めくるめ》く初夏の雲を背に、この天空の死闘は、あきらかに人間のたたかいではなかった。妖異な動物――いやいや、人外の魔物同士のたたかいであった。 うなされたようにそれを仰いでいた人びとのうち、まず手をふって左右をふりかえったのは老城主であった。「もうよい。止めよ、半蔵。この勝負は明日にいたせと申せ」 天守閣の決闘は、すでに三層に移っている。このまま経過すれば、一方の死は必定で、たぶん双方ともに命をうしなうことは明白であったろう。しかし、老城主の口から次に出た言葉は、ひどくしぶいものであった。「町のものどもの見世物と相成《あいな》ってはならぬ。駿府《すんぷ》は大坂がたの間者《かんじや》でみちみちておるのじゃ」 家康である。  【二】 慶長十九年四月の末、駿府城内で、この不思議なたたかいを見ていたのは、大御所《おおごしよ》家康ばかりではなかった。 将軍秀忠をはじめ、その御台所《みだいどころ》江与《えよ》の方、ふたりのあいだに生まれた竹千代、国千代の兄弟、それに本多、土井、酒井、井伊《いい》などの重臣もつめておれば、金地院崇伝《こんちいんすうでん》、南光坊天海《なんこうぼうてんかい》、柳生《やぎゆう》宗矩《むねのり》などの顔もみられた。すなわちここに、草創期の徳川一族、幕府首脳のすべてがあつまったといってよい。大坂冬の陣が起こったのはこの年の十月のことだから、いま家康が「大坂の間者」云々といったのは、じつにさもあるべきことと思われる。 ただこのなかに、二個の「異物」がまじっていた。それはこのような、きらびやかな一座にあって異物的な感じをあたえるというより、どんな人間世界にまじっても、かならず人びとの心に、まるで天外からふってきた冷たい隕石《いんせき》みたいな印象をのこすに相違ない。 家康のやや前方に、五メートルほどのひろい間隔をおいて坐《すわ》っている老人と老女であった。いずれも雪のような白髪で、その下の皮膚は老人の方は革みたいに黒びかりし、老女は冷たく蒼《あお》かったが、それにもかかわらず、このふたりには、並《なみ》いる千軍万馬の驍将《ぎようしよう》たちにおとらぬふしぎな精気があった。 あいたたかっていた二人の男が、風のようにはしってきて、手をつかえた。風待将監は老人のまえに、夜叉丸は老女のまえに。 老人と老女は音もなくうなずいてみせたが、ぶきみな目は、おたがいに相手がたの術者にじっとそそがれた。老人は夜叉丸に、老女は風待将監に。「大儀であった」 わけへだてなく、思わず声をかけたのは家康だが、そのまま目を一方にむけて、「又《また》右衛《え》門《もん》、どうじゃ」 といった。「恐れいってござりまする」 柳生宗矩はあたまをさげた。但馬《たじまの》守《かみ》に任ぜられたのは後年のことだが、徳川家の剣の師たるの地位はすでに占めていた。「忍法がいかなるものかはとくと存じておるつもりではござったが、これほどまでのものとは――さきほどの弟子どもの醜態《しゆうたい》をせめるよりは」 彼のひたいには、うすい汗さえにじんでいた。「柳生の庄《しよう》とは隣国の伊賀、甲賀《こうが》に、かような忍者がひそんでおることを存《ぞん》ぜなんだ拙者《せつしや》の不覚、ただただ恥じいるばかりでござります」 家康は宗矩をしかるどころか、大きくうなずいて、「半蔵、めずらしいものを見せてくれた」 末席に侍《はべ》っていた服部《はつとり》半蔵は両手をついたが、若い顔は会心《かいしん》の微笑でいっぱいであった。「半蔵。甲賀弾正《だんじよう》と伊賀のお幻《げん》、それからあの忍者両人に盃《さかずき》をとらせえ」 スルスルと老人と老女の方へ寄る半蔵から、家康は顔をまわして、左右をかえりみた。 一方にならぶ嫡孫《ちやくそん》竹千代、その乳母《う ば》阿福《おふく》、傅役《もりやく》青山伯耆守《ほうきのかみ》、また土井大炊頭《おおいのかみ》、酒井備後守、本多佐渡守、南光坊天海ら。―― また他の一方にならぶ将軍秀忠、御台所江与の方、その次男国千代、傅役朝倉筑後守、本多上野《こうずけの》介《すけ》、井伊掃部《かもんの》頭《かみ》、金地院崇伝ら。―― 深沈たる家康の目で見わたされて、彼らはきゅっと全身がひきしまる思いがした。いまや徳川家の相続者について、大御所からおどろくべき一つの賭《かけ》の宣言が発しられようとしているのである。 すなわち、三代将軍たるべきものは、竹千代か、国千代か。 家康は七十三歳であった。 彼は大坂に最後の一撃《げき》をくわえようとしていた。豊臣秀頼《とよとみひでより》は、家康のすすめにしたがい、太閤《たいこう》供養のため京都東山に大仏殿を建立したが、この四月なかば、いよいよその巨鐘《きよしよう》の鋳造《ちゆうぞう》にとりかかった。この大仏殿の建立そのものが、大坂がたにおびただしい出費をさせようという家康の遠謀によるものであったが、彼は、この巨鐘成るのあかつき、その鐘銘《しようめい》に難題をつけて開戦する予定であることは、すでにこの座にある謀臣《ぼうしん》たちとはかって、ひそかに断をくだしていたところであった。例の「国家安康、君臣豊楽」の八文字を、豊臣が家康を調伏《ちようぶく》するものというむちゃくちゃないいがかりであるが、家康にとっては、手切れの口実《こうじつ》さえつかめば、なんでもよかったのだ。この一事《いちじ》で、家康は生涯の化《ばけ》の皮がはがされて、いまに古狸《ふるだぬき》の名をのこすことになったのだが、それも所詮《しよせん》は、彼の七十三という年齢からきた焦り以外の何ものでもない。家康は、このごろめっきりとおのれの肉体の衰えをかんじていたのだ。 たたかいは勝つであろう。しかし、敵の城がおちるまでに、一年かかるか、二年かかるか、それは計画のほかにあった。はたして大坂城の最後の炎《ほのお》を、この目の黒いうちに見ることができるか、どうか、それは保証のかぎりではなかった。 家康は、おのれの生命《いのち》の落日を背に、ぬっとそびえる大坂城の黒い影をみた。そして、その落日の彼方《かなた》に、もうひとつ、さらに巨大な雲の影を夢魔のようにみたのである。 それは、わが亡きあとの徳川家のゆくすえであった。秀忠のあとをつがせるものは、竹千代か、国千代か。兄か、弟か。 兄にする、長子相続制にするとは決しかねるものがあった。この十一と九つの幼い兄弟を見ていると、彼自身まよわざるをえないのだ。なんとなれば、いずれも愛する孫ながら、兄の竹千代は、どもりで、人まえに出て口もハキハキきけず、うすぼんやりしているところがあった。これにくらべて弟の国千代は、はるかに愛らしく、かつ利発な子なのである。――愚かなる兄か、聡明なる弟か。 いま、孫のことで悩みつつ、つくづくと思い出すのは、じぶんの子たちの運命である。三十五年前、家康は長子《ちようし》の信康《のぶやす》をうしなった。信康が武田と内通しているといううたがいを織田信長からうけ、徳川家存続のために、涙をのんで信康を殺さざるをえなかったのだ。彼に自刃をすすめる使者にたったのは、伊賀組の首領たる服部半蔵であった。 後年しばしば、家康は信康を死なせたことににがにがしい愚痴《ぐち》をこぼした。関ガ原の役《えき》に、「さてさて年老いて骨のおれることかな、せがれがいたらば、これほどのこともあるまいに」と嘆息をもらしたせがれとは、この信康のことで、それほどこの長男はたのもしい麒麟児《きりんじ》であったのだ。彼さえ生きておれば、何のこともなかったのである。 次子が結城秀康《ゆうきひでやす》で、第三子が秀忠だ。思うところあって、家康はこの篤実な秀忠をおのれの後継者としたが、そのため秀康がどれほど不平満々として狂態の人生をおくったか。なまじ彼が勇武の性《せい》であるために、家康、秀忠が、どれほど彼をもてあましたことか。 相続ということのむずかしさを、家康は心根に徹して思い知らされていた。徳川家ばかりではない。織田家においても、信長青春の半生は、弟信行《のぶゆき》の叛乱に消磨されたことを、彼はこの目でみている。どこの家でも、いつの世にもおこりうることなのである。 知っているだけになお迷い、彼は、秀忠とその御台所が、長子竹千代よりも次子の国千代を可愛がっているらしいのを、黙然として見すごしてきた。そしていまや、徳川家の内部では、竹千代派と国千代派がわかれて、ぬくべからざる嫉妬《しつと》と反感をなげあっていることを知らなければならなかったのである。 秀忠はともかく、御台所の江与の方と、竹千代の乳母阿福《おふく》とが、たがいにあい似たつよい気性のため、先天的に反発しているようにも思われる。江与の方の母は、信長の妹お市《いち》の方で、阿福は、その信長を殺した明智《あけち》第一の重臣斎藤内蔵《くらの》助《すけ》の娘だから、両者の相容れざる根もふかい。阿福はのちの春日《かすが》の局《つぼね》である。これに、他の侍妾《じしよう》、それぞれの傅役《もりやく》から重臣までが、両派にわかれてからんできた。竹千代には、天海、土井、酒井。国千代には、崇伝、井伊。陰湿冷静な本多佐渡、上野介までが父子両派にわかれてあいゆずらないのだから、骨がらみだ。 この冬、阿福のお茶に毒を入れてあるのが事前に発見された。それと前後して、国千代が暗夜の狙撃《そげき》からあやうくまぬがれた。 このままにしてはおけぬ! このままに推移すれば、たとえ大坂はほろぼしたところで、徳川家の土崩瓦解《どほうがかい》することは、鏡にかけてみるがごとしだ。 しかも、いかなる断を下すべきか? さすがの家康も、焦燥し苦悩した。厳《げん》たる長子相続制か。しかし万一その長男が暗愚なるとき、どんな悲劇をまねくか、戦国の世に生きぬいてきた家康は、諸家の興亡にまざまざとみてきたとおりだ。順《じゆん》にこだわらず、頼むにたる子を選ぶべきか。それから起こる葛藤《かつとう》は、秀康、秀忠の悶着《もんちやく》で骨のズイまで味わわされたことだ。この問題がどれほどむずかしいかは、この事件で家康がある一つの重大な決定を行なって、それが「神祖御定法《しんそごじようほう》」として徳川家の掟《おきて》となったにもかかわらず、しばしば歴代の将軍をきめるさい、なお深刻な波がくりかえされたことからでもわかる。……余人《よじん》はしらず、家康だけは、これを三代将軍のみならず徳川千年の命運にかかわる大事《だいじ》と見た。 そのためにも、いっそういまの内争を、両派の納得するかたちで解決しなければならない。しかし、長年にわたり、からみにからんだ利害、恩怨《おんえん》、感情のもつれを一挙にとくすべがあろうとは思われぬ。しかも、事はいそぐのだ。明日《あ す》をもしれぬおのれの余命、また最後の戦争を眼前に、いまのいま解決しなければならないのだ。そして、なおいっそう重大なことは、この内部抗争を、断じて大坂がたにかぎつけられてはならぬという至上命令であった。 ……この早春の雪ふる夕のことである。家康は駿府の城に天海僧正をまねいて、秘室に対坐した。天台の血脈《けちみやく》を受けるという名目であったが、その実、このふたりが密語したのはこの一事であった。そして天海は、瞑想《めいそう》ののち、おどろくべき解決法を提案したのである。「――いずれを理をもってとき、情をもってなぐさむるとも、もはやかくあいなっては、とうてい一方がサラリと肯《うべな》うものとは存じませぬ。……いかがでござる、いっそ両派より、それぞれ、その望みを一身に負った剣士を出させ、その勝敗によって決しては」 家康は目をあげて、天海をみた――。南光坊天海も一応竹千代派ではあるが、むろん、それより徳川家をいかにすべきかということに苦しんでいることは同様だ。 剣法の選手の勝敗に両派の運命を賭《か》ける! いかにも武門の相続争いにふさわしい男性的な方法であるが、またあまりに単純にすぎる。さすがの怪僧天海も、この内輪《うちわ》もめだけには、よほど手をやいたとみえる。「一案じゃ。しかし、剣の勝負には、時の運不運と申すこともある。時の運がすなわちおのれの運とあきらめてくれればよいが、何せ、あきらめのわるい女どももからんでおるのじゃ。さて一人対一人の勝負で、彼らが得心《とくしん》してくれればよいがのう」「それでは三人ずつ」「その三人をえらぶことで、こんどは両派それぞれの内輪もめを起こしはすまいか」「五人ずつ」「…………」「十人ずつ。これなら、両派の精鋭、時の運とばかりは申せず、みれんののこることもござるまい」 家康はうなずいたが、やがてかぶりをふった。「十人ずつ、そこまでたたかえば、両派とも納得はするであろう。じゃが、十人ずつの剣士をえらぶとすれば、必然、両派の家々にひろくまたがろう。土井と井伊、酒井と本多……相たたかわせるは、無惨《むざん》でもあり、ばかげてもおる。のみならず、争いはいっそう深みにはまり、また公然のものとなる。大坂方に知られずにはいまい。これは徳川家の大秘事なのじゃ」 天海は、目を半眼にしたまま、雪の音をきいていた。深殿の幽寂《ゆうじやく》は、さながら山院のようである。ふっと大きな目を見ひらいた。「忍者」 と、つぶやいた。「忍者?」「されば、忍者をつかわれてはいかがでござる。……雪の音で、ゆくりなくもむかし雪の一夜、江戸麹町《こうじまち》の安養院で、先代の服部半蔵からきいた話を想い出してござります。――甲賀と伊賀に、源平のむかしより、あくまで和睦《わぼく》せず、千年の敵としてにくみ合う忍者二つの一族があるとか。……そのため、彼らのみ、どうあっても服部のなかだち効をそうせず、いまだそれぞれ伊賀と甲賀にひそんで、ただ服部家との約定《やくじよう》により、たがいにあいたたかわずにおるまでとのこと、もし服部家がその手綱《たづな》をとけば、血ぶるいして闘争をおこすは必定《ひつじよう》にて、まことにこまった奴らと、半蔵が嘆息したのをきいてござる。いかがでござろう、その二つの忍法の一族を、竹千代さま方、国千代さま方の二つに当て、いま服部家に命じて、その手綱を放させ申しては」 天海はぶきみな笑いをもらした。「これならば、大坂がたに知られるおそれなし、またその両族すべて血の海に没しても、徳川家のさむらいに傷はつきませぬが」 家康はながいあいだ考えこんでいたが、やがてひとりごとのようにいった。「服部か。あれは信康を殺しにいった男じゃが、こんどは孫の一方を葬むるという一事にも、また伊賀者をつかわねばならぬか?」 にがい笑いが、皺《しわ》だらけの顔にはしった。まことにこれが実現するならば、徳川家の運命をにぎるものは、まさに忍者の一族だといってよかったからである。しかし、それも家康じしんの命令であることは、陰鬱《いんうつ》な皮肉であった。  【三】 甲賀伊賀の忍者と徳川家との縁《えにし》は、ふしぎにふかい。 そもそも、忍法といえば、なぜ甲賀と伊賀の独壇場《どくだんじよう》となったのか。それには、これらの国の複雑に入りくんだ山と谷の地形のために無数の小土豪《どごう》の割拠《かつきよ》しやすかったこと、また京《きよう》にちかいために、平家《へいけ》や木曾《きそ》や義経《よしつね》の残党が潜入した形跡があること、さらに南北朝の勢力争いの大きな舞台となったこと――などの地誌的、社会史的な事情があげられるけれど、これらはかならずしも甲賀伊賀にかぎったことではあるまい。 ともあれ、すでに壬申《じんしん》の乱で叛乱をおこした大《おお》海人《あまの》皇子《おうじ》が伊賀の忍者をつかったという記録のあること、義経の家来伊勢三郎義盛《よしもり》が伊賀の忍者であったという伝説のあること、近江《おうみ》の名族佐々木六角入道《ろつかくにゆうどう》が足利《あしかが》将軍に抗したさい、甲賀侍がその配下となって足利勢をなやまし、世にこれを「甲賀鈎《まがり》の陣」といってふしぎがられた事実。――などから、伊賀甲賀の忍法の由来するところ、遠くまた深いとはいえる。しかも、これらにいずれも共通していることは、彼らがつねに時の権力者へ反抗する側にたっていることで、そこに彼らの反骨またはぶきみな野性といったものが感じられる。―― 戦国時代にはいると、いうまでもなく「忍びの術」の用途は、多々ますます便《べん》じた。諜報《ちようほう》、斥候《せつこう》、暗殺、放火、攪乱《かくらん》――それらの必要から、群雄はきそって忍者をもちい、これを「夜盗組」「乱波《らつぱ》」「透破《すつぱ》」などと称した。そしてけっきょく、実戦裏に、甲賀伊賀の忍びの術がもっともその精妙なことが証明されたのである。甲賀者、伊賀者はあらそって諸家に買われ、またそれに応じて、その国でも、甲賀五十三家、伊賀二百六十家などとよばれるほど忍法の諸小派がおこるにいたった。 しかし、やがて彼らにとって受難の時代がきた。信長の天下統一がすすむにつれ、その布武《ふぶ》の鉄蹄《てつてい》をうけなければならなくなったのだ。それには、京にちかいという地理的な必然性もあったにはちがいないが、それより信長という人間が、おそらく彼もまた大いに忍びの者を利用したにせよ、先天的にそういう妖気ただよう薄明の一族を好まなかったせいではないかと思われるふしがある。したがって、彼らもこれに抵抗した。これが世に「天正《てんしよう》伊賀の乱」といわれるものである。 この「国難」にあたって、がんこに各流各派をまもっていた甲賀伊賀の土豪たちは結束した。いくどかの抗戦ののち、衆寡《しゆうか》敵《てき》せず彼らはふみにじられたが、その抵抗ぶりがあまりに効果的で、織田軍はみごとに翻弄《ほんろう》され、信長自身狙撃されてあやうく命びろいしたこともあったくらいだから、あとの掃滅《そうめつ》ぶりも無慈悲をきわめた。城砦《じようさい》はすべてやきはらわれ、神社や寺もことごとく破壊され、信長は、僧俗男女をとわずみな殺しにせよとさえ命じた。かくて亡民となった彼らはちりぢりばらばらになって逃亡し、そのおもだったものは三河《みかわ》にはしって、徳川家にたよった。そこには伊賀の名族服部半蔵が以前から仕《つか》えていたからである。 甲賀者、伊賀者に、もっともふかく目をつけていたのは家康であった。いかに彼がその利用価値を認めていたかは、のちに幕府をささえるものの重大な一つに隠密《おんみつ》政策があったという事実によってもうかがわれるが、そのため彼ははやくから、甲賀伊賀の地侍《じざむらい》たちをつとめて召しかかえるようにしていた。その頭分《かしらぶん》が服部半蔵だったのである。 服部家は、平家の末孫、あるいはそれ以前から伊賀の一郡を領していた家柄といわれるが、半蔵がこのころすでに家康にいかに重用されていたかは、れいの信康自刃に際し、死の使者としてむけられたことからでもわかるが、この伊賀の乱以後、家康はいよいよ甲賀伊賀のひそかなパトロンとなり、また服部半蔵は、忍者たちの総元締の地位をかためるにいたった。 家康は、信長の手から、つとめて甲賀伊賀をかばってやっていたが、その報酬《ほうしゆう》はのちに、家康「生涯の大難」の第一といわれる伊賀加太《かぶと》越えのとき、あたえられることになる。すなわち、本能寺の変にさいし、たまたま家康は信長にまねかれて上方《かみがた》見物にきていたが、この変事によって本国三河との連絡をたたれ、遊びの旅だから供のものもきわめて少数であったし、まったく進退きわまって、いちじは自害をかんがえたくらいだったのである。このとき、間道づたいに山城《やましろ》から甲賀へ、さらに伊賀から伊勢へとぶじ家康をみちびき、護衛したのは、服部半蔵の呼び声に嵐のごとくあつまった甲賀伊賀の忍び組三百人であった。 この功によって、半蔵はのちに八千石の服部石見守《いわみのかみ》となり、江戸麹町《こうじまち》に屋敷をあたえられ、伊賀同心二百人の頭目となる。いまにのこる半蔵門《はんぞうもん》の名は、彼の屋敷のまえにあったから生じたものであり、神田《かんだ》に甲賀町、四谷《よつや》に伊賀町、麻布《あざぶ》に笄町《こうがいまち》(甲賀伊賀町)という町ができたのも、そこに甲賀者、伊賀者が住んだからである。家康だけは、みごとに彼らを飼いならした。 それにもかかわらず、家康の半蔵をみる目は、決してふッきれたものとはいえなかった。とくに、それは老年にちかづくにしたがって暗くなった。半蔵が、死んだ信康を思い出させるのだ。じぶんが命じたことなのだからどうにもしかたがないが、それだけにいっそうやりきれない気持になる。殺したくない子であった。愚痴のすくない家康に、信康だけはただ一つの理性の日かげに消えやらぬまぼろしであった。半蔵はそれを感じて、ふかく身をつつしんだ。麹町に安養院という寺をつくり、信康の供養塔《くようとう》をたてて、日夜読経《どきよう》に余念のない生涯をおくったのはそのためである。 彼は慶長元年に死んで、子があとをついだ。これがいまの服部半蔵である。そしていまや家康は、二代目の半蔵に、またもや憂鬱だが絶対に必要な使命をさずけなければならぬこととなったのだ。 甲賀伊賀の忍者一族、ほとんどすべて服部家の支配下にあるのに、ただ、たがいにあいいれないばかりに、手をたずさえて世に出ることを拒否し、ふかく山国にこもっているという忍法の二家。 服部家に積年の大恩あるゆえに、その誓言《せいごん》をまもり、あいたたかうべき鮮血をあやうくおさえているという奇怪な宿命の二族。 その両家の首領は、半蔵の秘牒《ひちよう》によって、ようやくこの駿府城内にその姿をあらわした。 甲賀弾正と伊賀のお幻《げん》。 そして彼らはそれぞれの配下によって、いま世にある忍者とはまったく類を絶するぶきみな秘術を展開してみせたのである。それは忍法の勝敗によって、三代将軍をきめようという奇想に、柳生宗矩がくびをかしげたからである。もっとも、これは宗矩にかぎらない。この相続という重大事に関係のあるものは、ことごとく、こんなえたいのしれない勝負によってじぶんたちの運命を決せられることに疑心と不満をもつのは当然である。家康ですら、内心、なお迷っているところがあった。ただ、いかにかんがえても、ほかにこの乱麻《らんま》の政争を断つ快刀がなかっただけのことだ。 しかし、いまやさすがの柳生宗矩も、完全にこの奇想によって地上にえがき出されるであろうたたかいのすさまじさを了解せざるを得なかった。ほかのだれしもが、それをみとめた。忍者の変相、速歩、跳躍などが常人をこえていることは知らないではない。それはギリギリの肉体と精神の鍛錬によるものだ。が、それだけに、そこにはある限界がある。これは剣法においてもおなじことだ。しかし、いま目撃した忍者ふたりの神技は、あきらかに人間の――いや生物の、肉体の可能性の範囲にありながら、しかも常識を絶したものであった。「弾正」と、家康は老人によびかけた。「風待将監《しようげん》と申すものの業には感服いたしたが、そちの弟子には、あのような妙術をもつものが、まだほかにおるか?」 老人はさげすむように将監をちらとみた。吐き出すようにいった。「服部どのの御内示を承わり、敵にみせてもまずさしさわりのない、いちばん手軽なやつを召しつれましてござる」「将監がいちばん手軽なやつと申すか」 家康はあきれて弾正をみたが、こんどは老女のほうをかえりみて、「お幻はどうじゃ」 お幻はうすきみのわるい笑顔《えがお》になって、だまって白いあたまをさげただけであった。「十人――いや、そちたちをのぞいて、あと九人要《い》るぞ」「わずか、九人。ほ、ほ」 さすがの家康が、なぜか背すじに冷水のつたわるのをおぼえた。きっとふたりをにらみすえて、「そちたちは、徳川の世継ぎを定めるために、たたかってくれる所存《しよぞん》があるか」「徳川家のおんためとは申さず、服部どののおゆるしさえあれば、いつなりと」 と、老人と老女は同時にこたえた。「ゆるす、ゆるす。先代がそなたらにかけた誓いの手綱《たづな》をいま解くぞ。甲賀か、伊賀か、勝ちの帰するところ、恐れ多くも将軍家の天命をさずかりたもうおん方がきまるのじゃ。いまだかつて、これほど大いなる忍法の争いがあったか。よろこんで死に候《そうら》え」 と、思わず服部半蔵はすすみ出てさけんだ。 彼は、父が死ぬまで大御所《おおごしよ》秘蔵の信康君に死の使者になったことを悔いていたのをわすれることはできなかったのだ。服部家にかかる雲をはらうはこのときとかんがえたのである。しかし、こんどの使命とて、決して大御所が欣然《きんぜん》としてあたえたものでないことを若い彼はしらぬ。また父が生涯、ついにこの二門を甲賀伊賀に封じこめていたことの恐るべき意味を知らぬ。「さらば、弾正、お幻、そちたちのえらぶ九人の弟子の名をしるせ」 と、家康は小姓にあごをしゃくった。 小姓が、筆、硯《すずり》と、細い二巻の巻物様のものをささげて、甲賀弾正とお幻のまえにすすみよった。 巻物をひらくと、白紙であった。二巻の巻物に、老人と老女は筆をはしらせ、また交換した。それから家康にかえされた。そして次のような名と文字がかかれていったのである。 甲賀組十人衆甲賀弾正《だんじよう》甲賀弦之介《げんのすけ》地虫十兵衛《じむしじゆうべえ》風待将監《かざまちしようげん》霞刑部《かすみぎようぶ》鵜殿丈助《うどのじようすけ》如月《きさらぎ》左衛門《さえもん》室賀豹馬《むろがひようま》陽炎《かげろう》お胡夷《こい》 伊賀組十人衆お幻《げん》朧《おぼろ》夜叉丸《やしやまる》小豆《あずき》蝋斎《ろうさい》薬師寺天膳《やくしじてんぜん》雨夜陣五郎《あまよじんごろう》筑摩小四郎《ちくまこしろう》簔念鬼《みのねんき》蛍火《ほたるび》朱絹《あけぎぬ》 服部半蔵との約定《やくじよう》、両門争闘の禁制は解かれ了《おわ》んぬ。右甲賀十人衆、伊賀十人衆、たがいにあいたたかいて殺すべし。のこれるもの、この秘巻をたずさえ、五月晦日《みそか》駿府城へ罷《まか》り出ずべきこと。その数多きを勝ちとなし、勝たば一族千年の栄禄あらん。  慶長十九年四月   徳川家康  弾正とお幻は、一巻ずつ、それぞれの名の下に血判をおした。それを巻くと、家康は、二巻ひとにぎりにして宙になげた。二巻は空でわかれて、左右におちた。 甲賀弾正の血痕を印した巻物は国千代の方へ、伊賀のお幻の血痕を印した巻物は竹千代の方へ。 国千代は甲賀に、竹千代は伊賀に、三代将軍たるべき運命は、いまこの恐るべき忍法の二門の手中にしかと身をゆだねたのである。  【四】 まっかな夕日にぬれて、甲賀弾正とお幻はたたずんでいた。 駿府城外、安倍川《あべがわ》のほとりである。たったいま、それぞれ二つの秘巻をいだいて、西へ風待将監と夜叉丸がかけ走ったところだ。「お幻婆、妙な話になりおったな」 と、弾正がひとりごとのようにいった。「さればよ、四百年のむかしから、陰陽二流の忍法を争って、ともに天をいただかなかったそなたの家とわたしの家が、それぞれ孫の恋にひかされて、ようやく和睦《わぼく》しようとしていた矢先に」「朧と弦之介は、いまごろ信楽《しがらき》の谷で逢うているやもしれぬな」「ふびんや、しょせん、星が違《ちご》うた!」 ふたりは、顔をそむけた。朧は老女の孫であり、弦之介は老人の孫であった。 ふいに弾正がふかい声でいった。「わしたちがそうであった。若いとき、わしは伊賀のお幻を恋うたぞい」「それをおいいやるな」 お幻は白髪をふりたてた。「四百年にわたる両家の宿怨《しゆくえん》じゃ。わしたちとおなじ運命《さだめ》が朧と弦之介のうえにきたのじゃ。祝言《しゆうげん》の日どりまでかんがえていたとき、服部家から忍法争いの封をといてこられたことこそ恐ろしき天意」「婆、やるか?」「おお、たたかわいでかよ」 ふたりは、物凄《ものすご》い目を見かわした。「婆、おぬしは甲賀の卍谷《まんじだに》十人衆をよく知るまいな」「知っておるのも、知らぬのもある。ふ、ふ、なにが甲賀の忍法など、――弾正どの、おまえさまこそ、伊賀の鍔隠《つばがく》れ十人衆をよくは知るまい? 四百年、血と血をまぜ合うて、闇の中にかもしあげた魔性の術を。よいかや、伊賀組十人は――」「九人であろう?」 と、弾正はいった。 お幻はだまって、弾正をにらんだ。黒ずんできた夕焼けのなかに、その顔が墨のように変わって、両眼がとびだした。その皺《しわ》だらけの鳥みたいなくびの両側に、キラキラとなにやらひかっていた。 甲賀弾正は、音もなく四、五歩はなれて、お幻とむかいあい、ふところから、一巻の巻物をとり出した。「お幻婆、これは、さっき夜叉丸がもっていったはずのものじゃが、このとおりわしのふところにある。夜叉丸のたわけめ、まだ気がつかず、西へはしっておることであろう。将監によって、まず甲賀組だけが、討つべき伊賀の十人の名を知る。いいや九人を――」 さっと巻物をふると、例の忍者の名をつらねた文字があらわれた。その伊賀のお幻の名のうえに、朱の棒がひいてあった。 それなのに、お幻は一語ももらさず、なお石のように立っている。そのむき出した両眼から、涙が頬につたわった。弾正は凄絶きわまる笑顔でそれを見まもっていたが、「南無《なむ》。――」 とさけぶと、その口から、ぷっと何かを吹いた。それはひかりつつ、お幻のくびにまっすぐにつきとおった。針だ。ふつうの吹針のように微小なものではなく、二十センチもあるかにみえる針であった。さっきお幻のくびの両側にひかっていたのもそれで、老婆のくびは十文字に針で縫われていたのである。 お幻は両手をあげて、同時に二本の針をひきぬいた。その口から怪鳥のようなさけびがほとばしり出た。その意味を弾正は知らなかった。次の瞬間、お幻は水けむりをあげて川にふしたからだ。針には血中《けつちゆう》にはいれば獣をも即死させる猛毒が塗ってあった。「お幻婆、ふびんじゃが、忍法の争いはこういうものだ。やがて追いおとす九人の伊賀衆を冥途《めいど》で待て」 と、弾正はつぶやいて、巻物をまきかけたが、ふとそれを河原におくと、「殺さねばならぬ敵じゃが、これもむかしおれの恋うた女、せめて水に葬ってやろうかい」 とつぶやいて、なかば水につかった老婆の死骸《しがい》を足で川へおしやった。 ぱっと異様な羽ばたきをきいたのはそのときである。弾正はふりかえって、一羽の鷹《たか》が河原においた巻物を足でつかんでとびあがるのをみた。一瞬に、さっきのお幻の断末魔の声が、それを呼んだことを知った。身をひるがえそうとして、その足を冷たいかたいものにつかまれた。弾正は水中にたおれた。 弾正はふたたび起《た》たなかった。そのあおむけになった胸に、青い手ににぎられた針がつきたてられていた。老婆はうつ伏せに、なかば弾正にのりかかっている。ズズ、ズズと、そのままふたりはながれだした。 残光のなかに、鷹はひくく旋回《せんかい》した。足でつかんだ巻物は、いまは完全にひらかれたまま風にふかれて、ふたりの顔をなでた。ゆるやかにとぶ鷹の下を、しずかにながれつつ、お幻の青い手が弾正の胸の血のりをなぞると、巻物の「甲賀弾正」の名のうえに朱の棒をひいた。日が沈んだ。 青い三日月《みかづき》に、美しい血相《けつそう》を黒ずませて、伊賀の夜叉丸がかけもどってきたころ、お幻と弾正の屍《かばね》は、白髪を波にあらい、もつれさせつつ、駿河灘《するがなだ》をながれていた。かつて恋しあったというこのふたりの老忍者の魂は、鎌のような弦月《げんげつ》のうかんだ夜空で、いまそのからだとおなじように抱きあっているのか。いいや、おそらくは現世のみならず、魔天にあっても永劫《えいごう》の修羅《しゆら》の争いをつづけているであろう。 ともあれ、この甲賀伊賀の忍法争いのまっさきに、その両頭目はまずあい搏《う》って、おたがいを葬り去ったのだ。 そして、なお殺戮《さつりく》の秘巻をいだいて、風待将監は甲賀卍谷《まんじたに》へひた走る。いや、それよりも、もう一つの巻物をつかんだままの鷹は、闇黒の天をついて、伊賀へ、伊賀へ。――甲賀ロミオと伊賀ジュリエット  【一】 山また山の甲賀伊賀の国境《くにざかい》は、まだ晩春だった。土岐峠《ときとうげ》、三国岳《みくにだけ》、鷲《わし》が峰山《みねざん》などの連山には、ひるならば鶯《うぐいす》が鳴きしきっているのだ。 いまは夜明け前だ。糸のような三日月が、西の山脈に沈みかかっていた。 まだ鳥も獣もねむっているその時刻。――信楽《しがらき》の谷から土岐峠へむかって、風のごとくあるいてゆく二つの影がある。「弦之介《げんのすけ》さま」 うしろの、まるで大きな鞠《まり》みたいにふとった影が、カン高い声で呼んだ。「弦之介さま、どこへゆくのでござる?」「朧《おぼろ》どのにあいにゆくのだ」 と、さきの長身の影はこたえた。うしろの影はしばらくだまってあるいていたが、「これはたまげてござる。いくら祝言の約束を交した相手とはいえ、はや夜ばいとは恐れ入った。……しかし、わるくはないな、おれも――」 と、ニヤニヤしているらしいひとりごとで、「いつか伊賀屋敷でみた朱絹《あけぎぬ》という女――まるであの三日月みたいな感じの美女であったが、おれがふとっちょのせいか、あんな女が虫が好くわえ。したがって、あの女もおれのようなふとっちょを虫が好く。へへ、弦之介さまは朧さまのところへ、おれは朱絹のところへ、主従そろって夜ばいとやらかすか。伊賀の連中、きもをつぶすであろうな」「たわけめ」 甲賀弦之介はしかって、厳粛《げんしゆく》な声で、「丈助《じようすけ》、お祖父《じ い》が、いかなる用で駿府へくだったか、お前は知っておるか」「徳川家忍び組の頭目、服部半蔵どのの書状によれば、甲賀弾正子飼いの忍者ひとりを召しつれよ、その術を大御所のご覧にいれたいとござったが」「それをお前はどう考える?」「どう考えると申しておそらくは弦之介さまと伊賀の朧さまとの祝言まぢかきうわさを服部どのがきいて、それならばもはや両家の宿怨がとけたものと見なし、両家そろって世に出でよとのおすすめであろうと――弾正さまがお前さまにお話なされたのを承わってござるが」「そうなれば、お前はうれしいか」 ふとった影はだまった。 遠くから、さあっと夜風が樹々を鳴らしてくると、ややあって雪のようなものが満面に吹きつける。山桜だ。――もう道らしい道もない山の中であった。ふとった男は、鵜殿《うどの》丈助という。うす暗い三日月にうかんだ顔は、鼻も頬も唇もダラリとたれさがったような滑稽《こつけい》な異相だ。それが、くしゃくしゃっとゆがむと、ツイとうしろへさがった。 そこにふとい二本の立木があった。樹の間隔は三十センチぐらいしかなかった。ところが、ダブダブとふとって、その倍はありそうな樽《たる》みたいな丈助の影が、そのあいだをスルリとむこうへぬけたのである。「正直なところ、あんまりうれしくはござらん」 と、樹の向こうで、おじぎをしながら、もちまえのカンだかい声を殺していった。「お前さまがお怒りなさることはよく存じておりますがな。これは、おればかりではない、地虫十兵衛、風待将監、霞刑部、如月左衛門、室賀豹馬ら……みな大不服です。われわれは、いつかきっと伊賀のお幻婆一党をたたきつけたい、われらが忍法をもって血泡をふかせたい、伊賀ついに甲賀に敵すべからず、と敵に腹の底まで思い知らせたい。――お、そうおれをにらみなさるな、お前さまの目にはとうていかなわぬ。――でもな、こんどの祝言をお前さまが望まれ、弾正さまがうなずかれたうえは、おれたちは家来、決してじゃまはいたさん、それどころか、これでお前さまがお幸せになるんなら、何の異議かこれあらん、よろこべ、よろこべと、おれはしきりにみなを説いているくらいで――」「かたじけない。それゆえ、おれはお前だけを供《とも》につれて忍び出てきたのじゃが」 と、弦之介はしずんだ声でいった。「おれは、お前らをばかだと思う。あれほどすさまじいお祖父《じ い》の仕込みを受けて、これほど恐ろしい秘術を身につけたわれら一族が――これはお幻婆の一党もおなじであろう――たがいにあい縛《しば》って、この山中にうずまっておるとは愚かしさのきわみだ。いつのころからか、おれはこう考えだした。お幻婆の孫娘、朧と夫婦《めおと》になろうとは、この考えから思い立ったことだ」 甲賀弦之介は、どこか知性の匂いすらある秀麗な青年だった。暗い月明りだが、そのながい睫毛《まつげ》のおとす影には、瞑想《めいそう》的な憂愁のかんじがある。「しかし、そう思って、むりをして朧にひとめあったとたん、そのようなさかしらな思案はけしとんだ。そのような智慧《ちえ》、かけひきをぬき去っても、あの娘《こ》を敵とすることはできぬ、こう思ったのだ」「お前さまが、朧さまに惚《ほ》れなさったのじゃ」「なんとでもぬかせ。お幻の孫でありながら、あれにはなんの芸もない。きけば、あらゆる婆の仕込みも、一切無効無益であったとか、その嘆きがなければ、あの婆は朧を甲賀にくれる弱気は起こさなんだであろう」「しかし、おれは朧さまのまえに出ると、からだが破れ紙みたいになるような気がする。ふしぎでござる」「あの娘《こ》が、太陽だからだ。太陽のまえには、魑魅魍魎《ちみもうりよう》の妖術など、すべて雲散霧消《うんさんむしよう》してしまう」「だからこわいと申すので……われら一族が雲散霧消しては一大事」 鵜殿丈助は、樹《き》のあいだからまんまるい首をつき出し、おそるおそるいった。「弦之介さま、ここでひとつ思いなおしては下されませぬかな?」「丈助」「へ?」「胸さわぎがいたす。きのう夕日をみているうちに、ふっと恐ろしい影が胸にさしたのだ」「はて?」「駿府にまいられたお祖父《じ い》のことだ」「弾正さまが、どうなされたと仰せでござる」「わからぬ。わからぬから、もしや伊賀の方へ、お幻婆より何か知らせがありはせぬかと、さっき急に思いたって、朧どののところへききにゆく気になったのだ」「や?」 と、丈助はふいに夜空をあおいだ。たかい杉林の空を、そのときはばたきとともに、異様な影がかすめすぎた。「なんでござる?」「鷹じゃ、しかも、足に白いながい紙片をつかんで――」 甲賀弦之介もいぶかしげにその行方《ゆくえ》を見おくっていたが、急にきっとふりかえった。「丈助、あれをとらえてまいれ!」 あっとカンだかい声をのこすと、鵜殿丈助はかけだした。  【二】 はしるというより、ころがるといった方が適当だ。 甲賀の忍者鵜殿丈助は、夜空をあおぎながら、鞠《まり》のように山をころがっていった。鞠と違うところは、山を上へ転がる点だが――。 いや、それだけではない。空を見ながらはしるのだから、彼は幾十本かの樹に衝突した。たしかに衝突したとみえるのに、次の瞬間、彼はなんの異常もなくむこうへかけぬけている。彼はけむりか。いや、そうではない。これを高速度に撮影したら物体に激突したとたん、彼のからだのあらゆる部分が、鞠のごとくくぼむ奇怪な現象がハッキリみえたかもしれぬ。じっさい、二、三度ははねかえって、あおむけにころがったこともあるのだが、再び自動的にはねかえってまたはしりだすのだ。鞠とするなら、これは生命《いのち》ある鞠であり、意志力をもつ鞠であった。 どこから夜の大空をとびつづけてきた鷹か、――しかし足にながい紙片をつかんで、鷹はみるもむざんにつかれはてていた。その影が、さっと頭上の杉木立《こだち》をかすめたとたん、鵜殿丈助は、はしりながら小柄《こづか》を投げた。 月明りにキラ――とひいたひかりの糸のはしで、鷹はバサと大きな羽根の音をたてた。が、みごとに小柄を空にそらして、たかく飛び立っている。しかし、そのはずみにつかんでいた紙片を足からはなした。紙片はヒラヒラと杉木立のあいだをひるがえりつつおちてくる――。 鵜殿丈助は、下でその一端を受けとめた。が、他の一端がまだ地上につかないうちである。背後で、フガフガと空気のもるような声がきこえた。「それをこちらにもらおうか」 丈助はふりかえって、そこにひとりの老人の姿を見とめた。からだが釘のように折れまがり、林をもれる蒼《あお》い斑《ふ》にひかる髯《ひげ》は地を掃《は》いている。「おう、これは、伊賀の……小豆《あずき》蝋斎《ろうさい》老ではないか」 丈助は狼狽《ろうばい》した。「いや、しばらくぶりです。実はこれから、弦之介さまのお供で、伊賀の方へまいるところで――」「…………」「な、なに、夜ばいではござらぬよ。その、例の駿府ゆきの件につき、お幻さまから何か知らせはなかろうかと、胸騒ぎが――」「それをこちらにもらおうか」 と、小豆蝋斎は挨拶《あいさつ》をかえさず、フガフガとくりかえした。「いまお前が小柄をなげた鷹は、お幻さまのお鷹。――」「な、なんだと? あれが?」 鵜殿丈助は、ふっと手にひきずった紙片に目をおとした。あきらかに何やらかいた巻物だ。「してみると、あの鷹は駿府にいったお幻さまからきた鷹か」「さようなことは、お前の知ったことではない。その鷹に小柄をなげたお前の仕業《しわざ》はおって窮命《きゆうめい》するとして、まずそれはこちらにもらおうか」 丈助はだまって蝋斎を見つめていたが、何思ったか、その巻物をクルクルと巻きはじめた。「なるほど、さすがはわれらが弦之介さま――弦之介さまに知らせた虫というのはこのことか。駿府よりとんできた鷹、その鷹がもってきたこの巻物――これはちょいと拝見いたしたいな」「ぷっ、これ――うぬのまえにおるのは、余人でない、伊賀の小豆蝋斎であるぞ。相手をみて、口から出放題のことを申せ」 老人の目がぶきみなひかりをはなってきた。「へへへへ」 と、丈助は笑いだした。「それそれ、それだ、蝋斎老。この巻物は仰せのごとくそっちのもの、おわたしするのに異存はないが、さっきからのそっちのフガフガした口が――あとでおれを窮命するの、相手をみてからものを言えの――口のきき方が気にくわん」「なんじゃと?」「蝋斎老、四百年来の宿敵が今まで服部家におさえられ、ちかくは両家の縁組で、いっさいがっさい水に流してしまうとは――めでたいこともめでたいが、心残りといえば心残りであるな、そうは思わぬかな、蝋斎老」 丈助、何を思いついたのか、からかっているようなヘラヘラ声だ。「というのは、蝋斎老、貴老《きろう》の忍法がな、はっきりとは知らんが、うわさにきくと、どうやらおれの忍法と一脈《いちみやく》あい通じるものがあるらしいぞ。どうも他人のような気がせん、おれのお祖父か伯父貴《おじき》のような――とはいえ、伊賀と甲賀、どこまでちがうか、どっちが強いか、どうじゃ、喧嘩ではない、服部家との約定もあれば、決して喧嘩をするつもりはないが、ひとつここでないしょで遊んでみる気はないか」「丈助、忍法の遊びは、生命を手玉《てだま》にとるも同然じゃぞ」「いやかな、蝋斎老、それならこの巻物はわたさない――ということにしておこうか」 地にはうほど折れまがっていた老人の腰が、キューッとのびた。のびると、まるで物干竿《ものほしざお》をたてたようだ。この変化に、さすがの鵜殿丈助が、ポカンと口をあけて、見あげ、見おろした。「ほ。――」 と嘆声をもらしたとき、小豆蝋斎の足がはねあがって、まんまるくふくれあがった丈助の下腹をすさまじい勢いで蹴りあげていた。 まるで、楔《くさび》をうちこむような打撃であった。常人《じようじん》ならば、この足の一撃で腹部に穴があいたであろう。……鞠をうつような音がして、丈助は三メートルばかりうしろへはねとんでいた。「いささか、こたえたぞ蝋斎老」 一瞬に、はげあがったひたいに苦痛の汗がふき出し、しかめっ面となったが、鵜殿丈助はニヤリとして、いぜん、巻物をつかんだ片腕をあげていた。「しゃっ」 蝋斎は口のなかで異様な激怒《げきど》のうめきをもらすと、ツツとまえへ出た。―― 腰に山刀をさしてはいたが、老人は抜かなかった。たとえ抜いても、使用は不可能であったろう。なぜなら、そこは、月光がいく千匹の夜光虫のように浮動するのみの、無数に林立する杉の山だったからだ。 これが遊びか。先刻蝋斎が、忍法の遊びは生命を手玉にとるものといったが、まことにそれは恐るべきスポーツであった。丈助は杉木立を楯にクルクルとにげた。それを狙って、蝋斎のひょろながい手、または足が、その尖端に目があるもののように追い打った。老人のからだは数本の木のこちら側にあるのに、その手や足は、鞭のように湾曲《わんきよく》してはしるのだ。その襲撃の姿態は、章魚《た こ》のように怪奇であった。この老人は骨がないのか。いや、その四肢の尖端が触れるところ、小枝、木の葉を刃物のごとく切りとばす威力をみるがいい。実に小豆蝋斎は、全身に無数の関節があるとしかみえなかった。その証拠に、その首、腰、四肢は、常人ならば決して湾曲も回転もしない位置、方角に、湾曲し、回転したからである。「化物爺いめ!」 さすがの丈助が、眼前にせまった蝋斎の、顔と胴と足が三重に前後にいれちがっているのをみたときは、金切声《かなきりごえ》で悲鳴をあげた。 そのダブダブした頸に、蝋斎の手が蔓《つる》のようにまきついた。丈助の顔が腐熟《ふじゆく》したかぼちゃみたいにくろく変わった。 蝋斎はふるえ声で笑った。「この頓狂者め、小豆蝋斎の業《わざ》を思い知ったか」 ギューッとしめつけた腕の輪が、頸骨だけの直径になった。蝋斎は片手をのばして、丈助のダランとたれた手の巻物をとろうとした。 そのせつな、腕の輪が汗でヌルリとすべったかと思うと、鵜殿丈助のからだは、また一メートルばかりむこうへぬけ出していたのだ。みるまに、からだが袋に風をふきこんだようにぽんとふくれあがったのである。「あっ」 蝋斎は、呆然《ぼうぜん》自失した。 ひとを化物と呼んだが、化物はじぶんの方だろう。この鵜殿丈助という男のからだは、いかに打撃しても、いかに絞めつけても、まさに風袋《かざぶくろ》のごとく効果がないのであった。おなじ異常な柔軟性をもつとはいえ、蝋斎のからだを骨の鞭とするならば、これは巨大な肉の鞠といおう。「年だな、蝋斎老」 と、鵜殿丈助はダブダブと筋肉を波うたせて笑った。小豆蝋斎の白髪《しらが》とひげは、汗のためにねばりついた。「いや、おもしろかった。どうやら、おれが勝ったようだな。それでは約束どおり、この巻物は、遊びの褒美《ほうび》としておれがもらってゆこう」 カンだかい声でヘラヘラと笑いつつ、鵜殿丈助のまんまるい影が、杉林のむこうへころがってゆくのを、小豆蝋斎は、全身の骨をこわばらせて見送っているだけであった。肉体の疲労よりも、精神的な絶望感が、この老人のからだを虚《うつろ》にしたようであった。  【三】 月沈んで、甲賀の国、伊賀の国の谷々に、ひときわ濃い闇がたれこめた。 が、それを分かつ山脈には、黎明《れいめい》のひかりがさしはじめていた。もう満山チチチチと小鳥がさえずり、草の露がきらめきだしている。 とはいえ、この時刻、甲賀信楽の谷から伊賀へこえる土岐峠で、春の精《せい》のような明るい声がながれた。「まっ、弦之介さま!」 蒼《あお》みがかってきた空を背に、五つの影が立っていた。「おう、朧どの!」 下から、若い鹿のように灌木《かんぼく》をヘシ折ってかけのぼってくる影をみながら、うれしそうな声がふりかえって言った。「だから、わたしがいったではないかえ? きのう夕方からただならぬ胸さわぎ、甲賀へゆけば溶けるように思ったが、見や、心をあわせたように弦之介さまもこちらへお越しあそばした。弾正さまから、何かお知らせがあったにちがいない。おう、弦之介さまのあの笑顔、きっときっと、よい知らせに相違ない」 彼女は薄紅の被衣《かつぎ》をかぶっていた。そのうえ、夜はまだ明けていなかった。――なのに、その娘から透けて出るようなかがやきは、気のせいだろうか。 伊賀の忍者の頭目お幻の孫娘、朧である。 しかし、うしろにひかえている四人は、彼女のはずんだ声に対して、夜明前の闇が四つわだかまったよう黒ぐろとだまりこんでいる。 侍女らしい二人のうち、ひとりは皮膚の蒼白《あおじろ》い、うりざね顔の妖艶な女で、もうひとりは小柄な、むしろ可憐《かれん》な感じをあたえる娘であったが、この小娘の頭上にじっとのぞいてみえるものに気がついたら、だれだってぎょっとするにちがいない。蛇なのである。飾りではない。襟もとからくびすじをひと巻きしてはいのぼっているその蛇は、乙女の髪の香《か》を愛撫《あいぶ》するように、チロ、チロ、とほそい舌を吐いているのであった。「はて、蝋斎老はどうしたかの」「急に何やらを空にみてかけ去っていってから、だいぶになるが」 と、二人の男は弦之介を見おろしながら、ポツリとこんな話をかわした。薄明りでまだよくみえないが、そのせいかひとりはまるで土左衛門のように蒼《あお》ぶくれた顔で、もうひとりは、総髪というより凄《すさま》じいモジャモジャあたまだ。「弦之介さま!」「朧どの、どうなされた?」 甲賀弦之介は峠《とうげ》にのぼってくると、笑顔をけし、けげんそうにかけ寄ってきた。「お、これは朱絹《あけぎぬ》、蛍火《ほたるび》に、雨夜《あまよ》、簔《みの》の面々じゃな、みなうちそろって、何事が起こったのじゃ?」 朧はコロコロと笑った。こちらからききたいことを向こうからきいてきたのがおかしかったらしい。が、さすがにふっとま顔になって、「いいえ、何やら昨夜より、朧はお婆さまのことで胸さわぎしてなりませぬゆえ、甲賀にゆけばもしや弾正さまからお知らせがあるまいかと――」「それこそ、こちらの承わりたいことだ! わしも同じような不安にかられて急に出てまいったのだが――」 弦之介はじっと朧をのぞきこんだが、被衣《かつぎ》のかげのおびえた瞳をみると、急ににっと白い歯をみせて、「いや、大事ない! よし何事が起ころうと、甲賀弦之介がおるかぎりは!」 と、力づよくさけんだ。 それだけで、朧のまっ黒なつぶらな目は、さんさんたるひかりをおびた。「ああ、やはり来てようございました。わたしは弦之介さまにお目にかかっただけで、わけもない不安は雪のようにきえました」 四人の家来の陰気な目をしりめに、朧は幼女のごとく天真《てんしん》に弦之介にすがりつく。――

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