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[饴村行] 粘膜人间-5

作者: 字数:18256 更新:2023-10-10 09:43:40

「さっきより、少しだけ痛むぞ」 少尉は呟くように言うとモモ太の前に片膝《ひざ》を付いた。そして股間《こかん》の右の睾丸《こうがん》をペンチの先端で挟み、躊躇することなく二本の柄を握り締めた。ぶちゅっ、というラッキョウが潰れるような湿った音がした。モモ太が空《くう》を仰いで絶叫した。それは化鳥の鳴き声のように甲高く、家中に響き渡り辺りの空気を震わせた。モモ太は前後に激しく頭を振り黄色い反吐《へど》を吐き出した。「な、さっきより少しだけ痛かっただろ?」 少尉は微かに口元を緩めた。「じゃ、次いってみようか」 少尉はモモ太の左の睾丸をペンチの先端で挟んだ。「分かった、しゃべる、この家に何しに来たか正直に全部しゃべるから、もうツブシバサミは勘弁してくれっ」 モモ太が搾り出すような声で叫んだ。「そうか、やっとその気になったか。じゃあせっかくだから聞かせてもらおう。そのかわりまたくだらん戯言をぬかしたら男根を根元から切り落とすからな」 少尉は左の睾丸からペンチを外した。「俺は、清美に会いにこの家に来たんだ」 モモ太がそう呟いた途端、少尉と少佐が顔を見合わせた。二人の目にすっと鋭い光が浮かんだ。「清水の勘が的中したようだな。河童《かつぱ》の口から清美の名前が出てくるとは思わなかった」少佐はモモ太を見下ろすと、ゆっくりと口髭《ひげ》を撫《な》でた。「おい、河童のお前がなぜ非国民の成瀬清美と面識があるんだ?」「話す、ちゃんとその訳を話すから、その前にこの手錠を外してくれ。さっきから痛くて痛くてどうしようもねぇんだ」 モモ太が苦しそうに顔をしかめた。「断る。まず成瀬清美との関係を説明しろ。手錠を外すのはその後だ」 少尉が語気を強めて言った。「そんなこと言わねぇでくれ、本当に手首の骨が折れそうなんだ、こんな状態じゃまともに説明もできねぇ。頼む、頼むから手錠を外してくれ」 モモ太はぺこぺこと何度も頭を下げた。「清水、外してやれ」 少佐がモモ太を見たまま静かに言った。「しかし少佐殿、こいつは」「いいから外せ」少佐は少尉の言葉を遮った。「あれだけ拷問を受けたんだ、もう反撃する力も気力も残ってはおらんだろう。仮に何かしでかしてもこっちは二人で銃もある。心配するな」「分かりました」 少尉は軍服の胸ポケットから小さな鍵《かぎ》を取り出し、モモ太の両手首に掛かった腕輪を素早く開けていった。すぐに手錠は外された。「ああ、やっと痛ぇのが取れた。髭の立派な兵隊さん、世話になったなぁ、ありがとなぁ」モモ太は胸の前で両手を合わせ少佐に深々と頭を下げた。「おい、約束は守ったぞ。なぜ成瀬清美と面識があるのか説明しろ」 少佐がせかすように言った。「もちろんだ、これで物凄くいい気分で話ができる。なぜ俺が清美の家に来たかと言うと、清美が俺に惚《ほ》れてるからだ」「清美が河童のお前に惚れてるだと? なぜそんなことが分かる?」 少佐が怪訝《けげん》な顔をした。「ベカやんの友達が言ってたから間違いねぇ。この村の女はみんな俺に惚れてて、それでベカやんの友達が清美に聞いてみたら、清美もやっぱり俺に惚れててグッチャネしてもいいって言ったから、今日こうして清美の家に来たんだ。何も問題はねぇ」 モモ太は自慢げに胸を張った。 少佐は少尉と顔を見合わせた。そのまましばし無言の状態が続いた後、少佐が大きく息を吐いた。「こいつは嘘は吐《つ》いておらん。長年の勘で俺には分かる。清美を知っているのは事実だろう。しかしあれだけの拷問を受けていながら、なぜ今のような意味不明の話をするのかが理解できん。これではもう一度拷問してくれと、自分から頼んでいるようなもんじゃないか」「やはり河童と人間は根本的に全く違う生き物ですから、人間の常識は通用しないのではないでしょうか?」 少尉がモモ太を一瞥《いちべつ》した。「同感だ。俺達も河童を相手にするのは初めてだから落とし所が分からん。もしかしたら痛みの感じ方も人間とは違っていて、さっきの拷問は全く効いてないのかもしれん。そうなると今の意味不明の話も故意にしているという可能性が出てくるな」少佐もモモ太を一瞥した。「清水、『髑髏《どくろ》』だ。『髑髏』だったら絶対に効果があるはずだ。人間も河童も最大の恐怖は生命の喪失だからな」 少佐は軍服の第二ボタンを外し、内ポケットから銀色の箸箱《はしばこ》のような容器を取り出した。少尉は足早に歩いていきその容器を受け取った。蓋《ふた》を開けると中には黄色い液体の入った細長い注射器が入っていた。「おい河童、腕を出せ。体にいい注射をしてやる」 少尉は注射器を持ってモモ太の前に立った。「ちょっ、ちょっと待て、ちょっと待ってくれ」モモ太の顔が露骨に強張《こわば》った。「セイメイのソウシツって一体どういう意味だっ?」「お前には関係の無いことだ。知らなくていい」「いや関係あるっ。絶対に関係あるっ」モモ太は少尉を睨《にら》みつけた。「セイメイのソウシツっておっかねぇ言葉じゃねぇのか? 何か物凄《ものすげ》ぇ嫌な予感がする。それにおめぇら、その黄色い汁をドクロって呼んでたな、ドクロってシャレコウベのことだろ? そんな縁起の悪《わり》ぃ名前つけるってことは、もしかしてそれ毒じゃねぇのか? おめぇら俺を殺す気だろうっ?」「何を勘違いしてるんだ、これは滋養強壮の薬だ」「嘘だっ、黄色い汁は毒だっ、ちゃんと正直に清美のことしゃべったのに毒で殺すなんて酷《ひで》ぇじゃねえかっ」「頼むから俺を信じろ、これは毒ではない」「じゃあ自分の体にその汁を打ってみろっ」 モモ太の突然の要求に少尉は思わず言葉に詰まった。「ほれ見ろっ、やっぱり毒じゃねぇかっ、俺は騙《だま》されねぇぞっ」「と、とにかく絶対に死なんから黙って腕を出せっ」 少尉はモモ太の左腕を掴《つか》んだ。「嫌だっ! 毒は嫌だっ! ベカやんみてぇになりたくねぇっ!」 モモ太は叫ぶと嘴《くちばし》を大きく開け、喉《のど》の奥から青い塊を吐き出した。それは眼前の少尉の右目に勢い良く命中した。同時に少尉が悲鳴を上げた。かなりの激痛らしく注射器を床に落とし右目を押さえてうずくまった。「清水っ、どうしたっ? 何があったっ?」 状況を把握できない少佐が叫んだ。少尉はうずくまったまま苦悶《くもん》の声を上げるだけだった。少佐が慌てて腰の拳銃《けんじゆう》を抜いた瞬間モモ太が動いた。凄《すさ》まじい早さで跳躍し少佐の上半身に飛びついた。少佐は拳銃を振り上げ何かを叫んだ。その口の中へモモ太は右手を突き入れた。少佐が目を剥《む》いて大きく呻《うめ》いた。モモ太は口内から勢いよく舌を引きずり出した。紅色のぶよついたそれは二十センチ近くもあった。少佐は血泡を吐いて仰《あお》向けに倒れた。自動拳銃が床の上に転がった。少佐の上に馬乗りの状態になったモモ太は腰を屈《かが》めたまま立ち上がった。少佐は白目を剥いて気絶していた。モモ太は長く伸びた舌を両手で握り、力任せに引きちぎった。太いゴム管が切れるような音がした。少佐の喉の奥から大量の血が溢《あふ》れ出し、瞬く間に顔面を赤く染めた。「おい兵隊、馳走《ちそう》になるぞっ」 モモ太はぶよついた舌にかぶりつくと半分に噛《か》み切り、残りを無造作に投げ捨てた。そしてくちゃくちゃと音を立てて咀嚼《そしやく》しながら部屋の隅にいる少尉の所に歩いていった。少尉の容体は変わらなかった。右目を押さえてうずくまったまま、苦悶の声を上げていた。モモ太は少尉の傍らに転がる注射器を拾い上げた。硝子《ガラス》の円筒の中に詰まった黄色い液体が妙に毒々しく見えた。「てめぇの毒汁でくたばりやがれ」 モモ太は注射針を少尉の背中に突き立て活塞《かつそく》を押した。黄色い液体が一瞬で体内に注入された。注射の効果はすぐに現れた。不意に少尉の呻き声が止まった。少尉は右目から手を離してゆっくりと顔を上げ、虚《うつ》ろな目で辺りを見回した。そして「見えない、真っ暗で何も見えないぞ」と低い声で呟《つぶや》くと顔面から床の上に倒れた。「けっ、コロッと死にやがった」 モモ太は薄く笑い、咀嚼していた少佐の舌を飲み込んだ。「二人とも死んだのか?」 正座していた雷太がのっそりと立ち上がった。「死んだ、俺が殺したんだ、俺が兵隊二人をぶっ殺したんだっ。凄ぇっ! 俺は凄ぇっ! 俺はクソ漏れるぐれぇ凄ぇっ!」 モモ太は大きな目にぎらついた光を湛《たた》えながら甲高い声で叫んだ。 清美の家を出ると日は完全に暮れており、青黒い闇が上空を覆っていた。南の空には昨夜と同様に青白い巨大な満月が浮かんでいた。 雷太とモモ太は村に続く道に出るため広大な林檎《りんご》畑を東に向かって歩いた。「なぁ、口ん中から変なの吐いて兵隊の目ん玉にぶち当てただろ? ありゃ一体何だ?」 雷太がモモ太に訊《き》いた。「痰《たん》だ。河童の痰は人間のもんより粘っこくて目に入ると死ぬほど痛《いて》ぇんだ。毒じゃねぇから害はねぇけど、半日くれぇはじんじん痛んでしょうがねぇ」 自動小銃を右肩に掛けたモモ太が得意気に言った。「おめぇ、顔中ぶん殴られて金玉まで潰《つぶ》されたのに全然平気だな」「ああ、全然平気だ。テッケンもツブシバサミもきつかったけど、全部終っちまったことだから今じゃいい思い出だ。金玉もあと一個残ってるし何も問題はねぇ」「兵隊を殺した時はどんな感じだった?」「いい感じだった。溜《た》まってたクソがスポーンとひり出るぐれぇいい感じだった。鉄砲がねぇと絶対敵《かな》わねぇと思ってたから嬉《うれ》しくてしょうがねぇ」 モモ太は満面に笑みを浮かべた。「しかしおめぇはものすごく強《つえ》ぇんだな」 雷太が感心したように言った。モモ太は大きく頷《うなず》いた。「やっぱりベカやんの友達が言ってたことは本当だった。俺はこの村で一番強くて一番偉い河童《かつぱ》なんだ。兵隊でいえば大将みてぇな河童なんだ。だから村の男どもは俺をおっかながって、女どもは俺とグッチャネしたがってんだ。ああ、いい気分だ、マラボウがおっ立つぐれぇいい気分だ」 モモ太は垂れ下がった陰茎をぎゅっと握り締めた。「さっきは清美が留守だったけど、これからどうすんだ?」 雷太がモモ太を見た。「焦ることはねぇ、清美が消えちまう訳ねぇんだから明日出直すまでよ。それよりも今はおめぇの半馬鹿を治すのが先だ。早く村に行って手頃なガキンチョをさらってこねぇとな」 モモ太は雷太の胸を指でつついた。* 二人は五分ほどで林檎畑を抜け、村の中心に続く広い砂利道に出た。道の先にはぽつぽつと民家の窓明かりが見えた。「いいか、よく聞け。こっから先は人間が仕切ってる危険な場所だから、誰にも見つからねぇようにこっそり行く。はぐれねぇようにちゃんと俺の後を付いてこい。絶対にでっけぇ声やでっけぇ音を出すんじゃねぇぞ」 モモ太は真顔で雷太を見た。 雷太は大きく頷いた。 砂利道を七、八分ほど歩くと村の中心部が見えた。三階建ての大きな建物を中心にして、その周囲に幾つもの民家が点在していた。「あの真ん中のでっけぇのが村役場だ」 モモ太が小さく囁《ささや》いた。「何で知ってんだ?」 雷太は驚いて訊き返した。「俺は月のねぇ暗い晩になると、この辺りを見物に来るから知ってんだ。おめぇ、ここまで来てもまだ何も思い出さねぇか?」 モモ太が雷太の顔を覗《のぞ》き込んだ。雷太はしっかりと周囲を観察したが、どこもかしこも初めて見る風景として目に写った。「駄目だ。本当に何も分からねぇ」 雷太は首を横に振った。「そうか、仕方ねぇな。おめぇは半馬鹿だもんな」 モモ太は雷太に憐《あわ》れむような目を向けた。 どこからか犬の遠吠《とおぼ》えが聞こえてきた。人間の慟哭《どうこく》する声に似た鳴き声だった。「夜、一番おっかねぇのは犬だ。あいつら河童より鼻が利くから、すぐに俺の臭いを嗅《か》ぎ取って馬鹿みてぇに吠えやがる。河童の臭いは珍しいから物凄《ものすご》く興奮しやがんだ。この辺は野良犬も多いから気をつけろよ」 モモ太は右肩から自動小銃を下ろすと両手で構え、足音を忍ばせて村の中心部へと前進した。森から続く砂利道が途中からアスファルトの舗装道路に変わった。それは東に向かって一直線に伸び、役場の手前辺りから村の大通りになっていた。道の両側には十数軒の小さな商店が立ち並んでいたが、夜更けのためかどの店も閉店しており通行人は皆無だった。モモ太は自動小銃を構えたまま足早に無人の通りを進んだ。商店街を抜け、村役場の前を通り過ぎると道の左側に住宅街が現れた。家の窓にはちらほらと明かりが点《つ》いていたが、相変わらず屋外は無人だった。「おめぇぐらいの子供がいる家を探すんだ」 モモ太が前を向いたまま囁いた。 二人は一つ目の角を左に曲がると、足音を忍ばせて住宅街の奥に入っていった。二百メートルほど歩いた時、傍らの電柱に貼られた一枚の白い紙が目に留まった。上部に設置された電球の光で何が書いてあるのかが見えた。紙の一番上には右側を指し示す赤い矢印が描かれ、その下に大きく『溝口家』とあり、右端に小さく『故溝口祐二通夜会場』と記されていた。半馬鹿のためその意味は分からなかったが、『溝口』という二文字には確かに見覚えがあった。「どうした?」 前を歩いていたモモ太が振り向いた。「ちょっと来てくれ」 雷太が手招きをした。モモ太は怪訝《けげん》な顔で引き返してきた。「この字を見たことがあんだ」 雷太は電柱の貼り紙に大きく書かれた『溝口』の部分を人差指で3回叩いた。「どう読むんだ」 モモ太が不思議そうに貼り紙を見た。「それは分かんねぇ。分かんねぇけど間違いなく見たことがあんだ」 雷太は語気を強めて言った。「ふーむ、なるほど、そうか」モモ太は大きく頷いた。「これはおめぇが初めて思い出したもんだ。しかもここは村のど真ん中だ。この字とおめぇとの間にはきっと何か繋《つな》がりがあるに違いねぇ。なあ、この矢印が指してる方に行ってみねぇか?」 モモ太の黒く大きな目に好奇に満ちた光が浮かんだ。「少しおっかねぇけど、俺もそうしようと思ってた」 雷太は胸の鼓動が微《かす》かに速まるのを感じながら答えた。「じゃあ、さっそく出発だ」 モモ太が雷太の肩を叩《たた》き歩き出した。 周囲を警戒しながら五十メートル程進むと丁字路に出た。正面の板塀に先程と同じ貼り紙が貼られていた。赤い矢印は今度は左側を指していた。二人は丁字路を左に曲がり直進した。 貼り紙はほぼ五十メートル間隔で電柱や板塀、ポストなどに貼られていた。住宅街の道は細く、複雑に入り組んでいたが、矢印のお陰で迷うことなく進むことができた。 歩き出して五分程経った時、雷太とモモ太は一軒の家の前で立ち止まった。それは前庭に大きな柿の木がある木造平屋建ての古い民家だった。何か祝い事でもあるのか、玄関の格子戸の左右に灯《ひ》が灯《とも》った提灯《ちようちん》が一つずつ掲げられていた。提灯の前面にはそれぞれ『溝口家』と大きく書かれ、格子戸には『忌中』と小さく書かれた紙が貼られていた。「見ろ、貼り紙にあったのと同じ字じゃねぇかっ。あの矢印はこの家を指してたんだっ」 モモ太は叫びながら左右の提灯を何度も見た。「おめぇ、この家に来たことあんのか?」「よく分からねぇ。でも確かに何かが引っ掛かんだ」 雷太は喘《あえ》ぐような声で答えた。「とにかく中に入って誰が住んでんのか確かめねぇとな」 モモ太は雷太の手を掴《つか》むと玄関まで歩いて行き、磨《す》り硝子《ガラス》が嵌まった格子戸を横に引いた。鍵《かぎ》は掛かっておらず格子戸は静かに開いた。雷太はモモ太と共に三和土《たたき》に入った。中は薄暗く線香の香りが漂っていた。家の奥から微かに人の話し声が聞こえた。モモ太は自動小銃を構えると上がり框《かまち》を踏んで板張りの廊下に上がった。雷太もズック靴を履いたままその後に続いた。「死体だ、人間の死体の臭いがする」 モモ太が振り向いて小さく囁いた。雷太は周囲の空気を嗅いでみたが、線香の香りが強すぎて他に何も感じなかった。 モモ太は足音を殺してゆっくりと廊下を進んだ。ミシッ、ミシッ、と床板が微かに軋《きし》んだ。奥から聞こえてくる話し声が徐々に鮮明になった。それは二人の男の声で重く沈んだような口調だった。 モモ太が家の一番奥にある部屋の前で止まった。襖《ふすま》越しに「俺はどうしても祐二のことが諦《あきら》めきれねぇ」という男の声がはっきりと聞こえてきた。モモ太は自動小銃を下ろすと片膝《ひざ》をつき、音を立てずに襖を二センチほど開けて中を見た。後ろに立つ雷太も顔を近づけて隙間を覗き込んだ。 電灯の灯った六畳間の中央に布団が一組敷かれ、モモ太の言う通り死体らしきものが寝かされていた。顔に白い布が被《かぶ》せてあるため性別や年齢は分からなかった。枕元の右側には黒い背広を着た禿頭《はげあたま》の中年男と、学生服を着た中学生が正座していた。すぐに父親と息子だと分かった。父親はハンカチで涙をしきりに拭《ぬぐ》っていた。息子は無言で俯《うつむ》いていて顔は見えなかった。「利一、おめぇは祐二とあの女の関係を本当に知らなかったのかっ?」 父親が涙声で息子に訊《き》いた。「知らねぇもんは知らねぇ。いい加減信じてくれ」 息子は低い声で答え、顔を上げた。面長で色が白くロイド眼鏡を掛けていた。「あ、あ、あの眼鏡のガキンチョ、ベカやんの友達じゃねぇかっ」突然モモ太が押し殺した声で叫び立ち上がった。「あいつなら絶対ジッ太とズッ太のことを知ってるはずだっ。ゴンベエ、おめぇはここで待ってろ」 モモ太は雷太を一瞥《いちべつ》すると、いきなり右側の襖を蹴倒《けたお》して部屋に乱入した。すぐに「動くなっ、妙な真似したらぶっ殺すぞっ!」と言う怒声が聞こえてきた。雷太は残った左側の襖の陰からそっと中を覗いた。モモ太が自動小銃を腰だめに構えて立っており、父親と息子が顔を強張《こわば》らせてその姿を見ていた。「おいベカやんの友達っ、ジッ太とズッ太はどこにいるっ?」 モモ太が息子に向かって叫んだ。途端に息子の顔が青ざめ今にも泣き出しそうな表情になった。「俺は昨日の夕方丸太小屋に行ったんだ。そしたら井戸の中にゴンベエがいるだけで、ジッ太もズッ太もおめぇの弟もいやがんねぇ。これは一体どういうことだっ。おい、ゴンベエ、おめぇもこっちに来て覚《おぼ》えてることをこいつらに話せっ」 モモ太がこちらを振り向いて叫んだ。廊下にいた雷太はのっそりと部屋の中に入りモモ太の後ろに立った。その瞬間父親と息子の顔が露骨に引き攣《つ》った。「ライタッ!」 息子が絶叫した。その言葉に半分残った脳が反応した。雷太は頭に透明な銃弾を撃ち込まれたような奇妙な衝撃を受けた。息子は目を剥《む》き出し、口を半開きにすると小刻みに震え出した。「か、勘弁してくれ、勘弁してくれ、勘弁してくれ、勘弁してくれ」 息子は両手を顔前で合わせ、何かに憑《つ》かれたように同じ言葉を繰り返した。両眼からは涙が溢《あふ》れ、学生ズボンの股間《こかん》からはゆっくりと黄色い液体が漏れてきた。なぜこの中学生が失禁するほど自分を恐れるのか、雷太には全く理解できなかった。父親の動揺も激しかった。今にも悲鳴を上げそうな驚愕《きようがく》の表情で雷太を凝視しながら、息子と同じように小刻みに震えていた。「おい、目にネコメグルミを入れたおめぇの顔がよっぽどおっかねぇみてぇだな」モモ太が苦笑しながら言った。「とにかくこれじゃ話になんねぇ。おいゴンベエ、この眼鏡のガキンチョをさらっていくぞ。キチタロウのとこで色々話を聞きだすんだ。それが終ったらぶっ殺して新鮮な脳味噌《のうみそ》を頂戴《ちようだい》する。どうだ、いい考えだろ?」 モモ太がにやりと笑った。「でも、どうやってさらってくんだ?」 雷太が小首を傾げた。咄嗟《とつさ》にいい方法が浮かばなかった。「おめぇの締めてる褌《ふんどし》を外してガキンチョの手を後ろで縛んだ。そうすりゃ逃げらんねぇから引っ張っていける。何か喚《わめ》いたらぶん殴って静かにさせればいい」「分かった」 雷太は頷《うなず》き国民服のズボンに手をかけた。不意に父親が動いた。素早く立ち上がると小銃の銃身を両手で掴み、強引に銃口を下に向けた。「利一、逃げろっ、警察呼んでこいっ!」 父親が大声で叫んだ。驚いた息子が慌てて立ち上がろうとした。「クソジジイッ!」 モモ太は叫ぶと引き金を引いた。耳をつんざく銃声が鳴り響いた。下を向いた銃口から発射された銃弾が父親の右足を一瞬で砕いた。父親は悲鳴を上げて倒れ込んだ。しかしモモ太は銃撃を止めなかった。甲高い奇声を発しながら父親と息子をめちゃくちゃに撃ちまくった。薬莢《やつきよう》が次々と宙を舞い、銃口から切れ目無く黄色い火焔《かえん》が噴き出した。銃弾が肉を裂き骨を砕く鈍い音が続いた。 やがて銃声が止まった。モモ太は引き金を引いたままなので弾倉の弾がきれたのが分かった。薬莢が散乱し、白い硝煙が一面に籠《こ》もる中、二人は全身に銃弾を撃ち込まれ血まみれで絶命していた。息子は右腕が肘《ひじ》の部分でちぎれ、学生服の腹の部分から桃色の腸がはみ出ていた。父親は右足と左の顔面を完全に吹き飛ばされていた。「俺に逆らったジジイが悪ぃんだからな、恨むんならジジイを恨めよ」モモ太は低く呟《つぶや》き自動小銃を投げ捨てた。「おい、せっかくだから死体の顔を拝ませてもらおうぜ」 モモ太は血しぶきが飛び散った布団の枕元にしゃがみ込み、死体の顔から白い布を取った。現れたのはまた中学生位の少年だった。土気色の顔をして固く目を閉じており、口元にはガーゼマスクを付けていた。「ほう、こいつもベカやんの友達じゃねぇか。とするとあのジジイはこいつらのオヤジ様ってことになんのか。そうかそうか、そういうことか」モモ太は何度も頷いた。「ジッ太とズッ太の行方を知ってるベカやんの友達が二人とも死んじまった。これはとっても残念なことだ。でもまだゴンベエが残ってる。ゴンベエの半馬鹿を治せば絶対あいつらのことを思い出す。だから俺は悲しくも何ともねぇ」モモ太は真面目な顔で雷太を見た。「おいゴンベエ、あの眼鏡のガキンチョの首を切り取れ。さっきまで生きてた新鮮な脳味噌を持って帰って、おめぇの頭ん中にホジュウする」「でも、どうやって切り取んだ?」 雷太は小首を傾げた。咄嗟にいい方法が浮かばなかった。「台所に行って一番でっかい包丁を持ってこい。それを使えば切れんだろ」 モモ太は平然と言った。* 雷太とモモ太は並んで歩きながら帰路についた。相変わらず村の中は静まり返り、通りは無人のままだった。雷太は左手に眼鏡の中学生の頭部を持っていた。髪を鷲掴《わしづか》みにして西瓜《すいか》のようにぶら下げていた。中学生の頸部《けいぶ》は包丁では切断できなかった。薄刃がつるつると滑り太い頸椎《けいつい》には歯が立たなかった。仕方なく納戸の中を漁《あさ》り、見つけ出したノコギリでやっと切り落とした。「新鮮なガキンチョの脳味噌が手に入ってよかったな」 モモ太は歩きながら笑みを浮かべた。「ほんとだ。全部あの貼り紙のお陰だ」 雷太は頷きながら答えた。「これでおめぇの記憶が戻る。そしてついにジッ太とズッ太の行方が分かる。ああ、早くあいつらに会いてぇなぁ」 モモ太がしんみりとした口調で言った。「弟に会えたら何がしてぇ?」「また沼のほとりで相撲がしてぇ。ズッ太はまだ弱ぇけどジッ太はそこそこ強《つえ》ぇんだ。十回相撲を取ったら三回はあいつが勝つ。あいつの上手投げは結構凄《すご》くて、本気で堪《こら》えねぇと投げ飛ばされちまうんだ。そうだ、今度あいつらと相撲取る時はおめぇが行司をしてくれねぇか?」「俺、相撲のこと良く知らねんだ」「大丈夫だ、始まる前にハッケヨイノコッタって言うだけだ」「そうか、それだけだったら俺にもできるな。じゃあやろう」 雷太は笑みを浮かべてモモ太を見た。「あ、おめぇが笑うとこ初めて見たぞ。そうか、おめぇ笑うことができんのかぁ」 モモ太が感心したように雷太の顔を覗《のぞ》き込んだ。雷太は気恥ずかしくなり、視線を逸《そ》らせて夜空に浮かぶ満月を見上げた。 またどこかから犬の遠吠《とおぼ》えが聞こえてきた。それは先程聞いたものよりも甲高く、空襲警報のサイレンのように夜空に鳴り響き、闇を震わせた。* 森に戻った雷太とモモ太はキチタロウが棲《す》むヒノキの古木へ向かった。上機嫌のモモ太はまた笹の葉で草笛を作り、ピーピーと吹き鳴らしながら小道を歩いた。雷太も見様見真似で草笛を作り吹いてみたが音は全く出なかった。風の無い穏やかな夜だった。辺りはしんと静まり返り、モモ太の草笛の音と梟《ふくろう》の低い鳴き声以外何も聞こえてこなかった。 しばらくぼんやりと歩いていた雷太は、ふとある事に気づいて立ち止まった。 眼前の風景がはっきりと見えていた。 いつもなら淡い月明かりを受けて薄ぼんやりとしか映らないはずの夜の森が、昼間と同じように細部まで鮮明に浮かび上がっていた。「見えるっ」雷太は驚いて叫んだ。「見える、見えるぞっ」「何が見えんだ?」 モモ太が振り返り、怪訝《けげん》な顔をした。「周りの景色が昼間とおんなじようにはっきりと見えんだっ」 雷太が興奮して叫んだ。「あたりめぇだ」モモ太は全く動じなかった。「おめぇの左の目ん玉取ってネコメグルミを入れただろ? あれが体に馴染《なじ》んでくると本物の猫目みてぇに昼は勿論《もちろん》、夜でもちゃんとものが見えるようになんだ。おめぇそんな事も知らねぇのか?」 雷太は試しに右目をつぶってみた。確かに見えなかった左目に鮮明な森の風景が映っていた。雷太は興奮のあまり声が出なかった。両眼が見えるありがたさを初めて知り、心の底からキチタロウに感謝した。「おめぇは本当にものを知らねぇ奴だな。ジッ太とズッ太の方がまだましだぞ」 モモ太は呆《あき》れたように言うと歩き出した。嬉《うれ》しくてならない雷太は四方八方を見回しながらその後を追った。* 森の北端にあるヒノキの古木に着いた時、満月は西の空に傾いていた。 モモ太は以前と同じく小さな祠《ほこら》の前に立つと二回お辞儀をし拍手《かしわで》を二回打った。「キチタロウ、キチタロウ、出てきておくれ、我に願い事あり。キチタロウ、キチタロウ、出てきておくれ、我に願い事あり」 モモ太は甲高い声で叫び深々と一回お辞儀をした。同時にヒノキの古木がみしっと大きく軋《きし》み、根元から上に向かい黒い裂け目が一本走った。そしてその中から黒い影のようになったキチタロウが出てきた。雷太とモモ太は黙って五歩後退した。石炭タールのようにどろりとした影は祠の上に来ると瞬く間に物質化した。目の前には黒い外套《がいとう》に身を包み黒い頭巾《ずきん》を被《かぶ》った、巨大な二頭身の男が立っていた。「おおキチタロウ、よく来てくれたなぁ、ありがとなぁ」 モモ太が嬉しそうに笑った。キチタロウは若い女のような白く艶《つや》やかな腕で頭巾を取った。睾丸《こうがん》にそっくりな瘤《こぶ》で覆われた、あの奇妙な顔が現れた。「何用だ?」 キチタロウが低く、くぐもった声で言った。「この前言われた通り、村に行ってガキンチョをさらってきた。首だけだけど、これで大丈夫だよな?」 モモ太は雷太が左手にぶら下げている中学生の頭部を指でつついた。「うむ、大丈夫だ。脳味噌《のうみそ》は丸々残っておるからな」 キチタロウが頷《うなず》いた。「だったら今すぐゴンベエに脳味噌のホジュウをして半馬鹿を治してくれっ。俺は早くジッ太とズッ太に会いてぇんだっ」 モモ太が待ちきれないように早口で言った。「まぁ、そう慌てるな。まずはそいつの頭蓋《ずがい》骨を割って、中から脳味噌を取り出せるようにせんとな。お前、できるか?」 キチタロウは雷太を見た。「ゴンベエは図体がでけぇから力も強ぇはずだ。ガキンチョの骨は若くて柔らけぇから簡単だろ?」 モモ太が雷太の顔を覗き込んだ。雷太は左手に持った中学生の頭を右手の拳《こぶし》で軽く叩《たた》いてみた。コツコツと頭蓋骨の乾いた音がした。この程度の硬さなら何とかなるような気がした。雷太は中学生の頭部を顔を上にして地面に置いた。そしてロイド眼鏡を外すと、その額を右手で鷲掴みにした。少し力を込めると爪が皮膚に喰《く》い込み、さらに肉に喰い込んだ。雷太は万力で締め上げるように指先に強い力を加えた。爪が肉を破って頭蓋骨に達した。雷太は上体を前に傾け右手に体重を掛けた。同時にめりっと頭蓋骨の軋む音がした。雷太がさらに右手に体重を掛けると親指が右のこめかみの骨を砕き頭蓋の中に突き刺さった。雷太は左手で右の手首を掴むと腰を浮かせて前傾し、全体重を右手に掛けた。次の瞬間、巨大な胡桃《くるみ》が砕けるような音と共に前頭骨が粉砕した。血と脳漿《のうしよう》が辺りに飛び散り左右の眼球が飛び出した。雷太の右手は手首まで脳の中にめり込んでいた。それはほんのりと温かく木綿豆腐のように柔らかかった。「こりゃ凄ぇ力だ、ガキンチョの頭をぶっ壊しやがったっ」 モモ太が興奮気味に叫んだ。雷太は脳の中から右手を抜くと、中学生の頭部を持ってキチタロウの前に歩いていった。「こんなんでいいのか?」 雷太が訊《き》いた。「ああ、これだけありゃ充分足りる。ではさっそく準備をするか」 キチタロウは雷太から頭部を受け取ると、顔一面を覆う睾丸そっくりの瘤を一つちぎり取った。「そんなことやって痛くねぇのか?」 モモ太が尋ねた。「いや、痛みは無い。それに瘤はまた生えてくるからいくらでも取れる」 キチタロウは瘤を砕けた頭部の上に持っていきギュッと握り潰《つぶ》した。中からはどろりとした黄色い液体があふれ出し、中学生の脳の中に滴り落ちた。「この瘤汁には脳味噌を一度溶かして、また固める成分が入っておる。これを奴の頭に入れれば補充は完了する」 キチタロウが雷太を一瞥《いちべつ》した。「そりゃ凄ぇっ、は、早く入れてくれっ、すぐに入れてくれっ」 モモ太は雷太の腕を取って強引にしゃがませると、頬《ほ》っかむりしていた手拭《てぬぐい》いを素早く剥《は》がした。「では、入れるぞ」 キチタロウは中学生の頭蓋に手を入れ、黄色に染まった溶けた脳を掴《つか》んだ。それは泥濘《でいねい》のようにどろりとした状態になっていた。キチタロウはそれを慎重に雷太の頭頂部の裂け目に流し込んでいった。痛みは感じなかったが脳が入ってくるたびに頭の中がひやりと冷たくなった。また少しずつ首から上が重くなっていくのが分かった。溶けた脳を七回流し込んで『ホジュウ』作業は終了した。「脳味噌が完全に固まるまで三十分ほど掛かる。それまでは頬っかむりをしておけ」 キチタロウが鷹揚《おうよう》に言った。モモ太はまた手拭いで雷太の頭から顎《あご》までを包み、端を丁寧に縛った。雷太は自分の頭蓋の中でどろりとしたものが蠢《うごめ》くのを感じた。中学生の脳と自分の脳が交じり合っているのが分かった。 不意に鼻孔から何かが滴った。手で拭ってみるとそれは血だった。「この鼻血も、脳味噌が固まってる最中だから出んのか?」 雷太はそう言いながらキチタロウに目をやった。しかしそこにキチタロウはいなかった。モモ太が一人でヒノキの古木の前に立っており、その傍らに破壊した眼鏡の中学生の頭部が転がっていた。「どうしたゴンベエ? 何で変な顔してんだ?」 モモ太が不思議そうな顔で訊いてきた。「キ、キチタロウがいねぇ」 雷太が低く呟《つぶや》いた。「何馬鹿なこと言ってんだ、キチタロウはここにいるじゃねぇか」モモ太は自分の右側の空間を手の平で二回、軽く叩いた。しかしそこで突然「あ、そうか、そういう事か」と独り言を言い、何度も頷《うなず》いた。「おい、おめぇはもう半馬鹿じゃねぇから、モノノケの姿が見えなくなったってキチタロウが言ってるぞ」 モモ太が真面目な顔で雷太を見た。「なるほど、じゃあしょうがねぇ」 雷太は呟くと手の甲で鼻血を拭った。 不意に頭蓋の中で溶けた脳が激しく動いた。まるで何匹もの太い蛇が激しくのたくっているような感覚を覚えた。雷太は両手で頭を押さえてうずくまった。視界がぼやけ強い吐き気がした。左右の耳の穴から何かが滴った。手で拭ってみるとそれも血だった。頭の中で甲高い金属音がした。受信機の周波数を同調させる時に起きる耳障りな音に似ていた。「ライタッ!」 突然金属音が人の声に変わった。「ライタッ!」 また声がした。それはあの眼鏡の中学生の叫び声だった。雷太は再び透明な銃弾を頭に撃ち込まれたような奇妙な衝撃を受けた。中学生の怯《おび》えた顔が浮かんだ。「ライタッ!」「ライタッ!」「ライタッ!」 声が連呼した。頭蓋内の脳の動きがより激しくなった。のたくっていた何匹もの『蛇』が竜巻のように猛烈な渦を巻き始めた。こめかみがドクドクと脈打ち、左右の眼球が上下左右に忙《せわ》しなく動いた。乾いた舌の先端が痺《しび》れ、鼻の奥できなくさい臭いがした。 ガッ、という鈍い音と共に頭に衝撃を覚えた。硬く鋭いもので頭頂部を強打されていた。振り向くと学生服を着た少年が手斧《ておの》を持って立っていた。あの、眼鏡の中学生の家に安置されていた死体の少年だった。急に頭の中が熱を帯びた。瓦斯《ガス》の炎で炙《あぶ》られるような耐え難い熱さだった。同時に強い眩暈《めまい》がしてまた視界がぼやけた。眼前の風景が陽炎《かげろう》のようにぐにゃぐにゃと揺れ動いた。 気がつくと丸太小屋の傍らにある草叢《くさむら》に立っていた。すぐ目の前には以前雷太が落ちた古井戸があった。「お母様は今、井戸の底で泣いています」 どこかから声がした。驚いた雷太は慌ててひざまずき中を覗《のぞ》き込んだ。「和子っ、俺だっ、そこにいるのかっ、返事しろっ」 雷太は叫んだ。声は穴の中で大きく反響した。雷太はそこで母親の名前が自然に口から出たことに気づいた。「和子っ、俺だっ、そこにいるのかっ、返事しろっ」 雷太はもう一度叫んだ。急に穴の中から臭いがした。魚の臓物のような妙に生臭い臭いだった。堪《たま》らず雷太が手で鼻を覆った時また声がした。「おめぇの体からはジッ太とズッ太の血の臭いがぷんぷんすんだ」 それは明らかにモモ太のものだった。その途端頭蓋の中で猛烈な渦を巻いていた『蛇』の動きが止まった。「雷太っ!」 声がした。眼鏡の中学生の叫び声だった。雷太はそれが自分の名前だという事をやっと理解することができた。 頭の中がしんと静まり返った。 二つの脳が激しく攪拌《かくはん》されて一つとなり、固形化したようだった。 雷太は目を開いた。 いつの間にか右腕で顔を覆うようにして地面に横たわっていた。視界が元に戻り、強い吐き気も治まっていた。雷太は国民服の右袖《そで》の臭いをそっと嗅《か》いでみた。先程穴の中から漂っていたものと同じく、魚の臓物のような妙に生臭い臭いがした。それは人間の血液には無い独特の異臭だった。不意に眼鏡の中学生の怯えた顔が浮かんだ。雷太はあの中学生が利一、死体の少年が祐二という名の義兄だった事を思い出した。二人は自分の殺害を企てて実行したが未遂に終っていた。しかしなぜ利一達が義弟の自分を殺そうとしたのか、なぜ自分の服から河童《かつぱ》の血の臭いがするのかは分からなかった。そして全ての答えはあの古井戸の中にあるはずだった。 雷太はゆっくりと体を起こした。「おい、おめぇ大丈夫か?」傍らに立っていたモモ太が心配そうに顔を覗き込んだ。「何か苦しそうにうんうん唸《うな》ってたぞ」「大丈夫だ……何も問題ねぇ」 雷太はモモ太を一瞥《いちべつ》して呟いた。「脳味噌《のうみそ》が完全に固まるまでもうちょっと掛かるみてぇだけど、おめぇ何か思い出さなかったか?」 モモ太が黒く大きな目をぎょろぎょろさせて訊《き》いた。「いや、だめだ。未《いま》だに自分の名前も分かんねぇ……」 雷太はさり気ない口調で答えた。このモモ太という河童と利一達との関係をまだ把握していなかった。もしかしたらモモ太も自分の殺害に加担している可能性があった。とにかく発言も行動も慎重にしなければならなかった。「でも一つだけ、ぼんやりと思い出したことがあんだ」 雷太は言葉を選んで注意深く言った。「本当かっ? そりゃ一体何だっ?」 モモ太が身を乗り出した。「あの、丸太小屋の古井戸だ。あそこで確かに何かがあった」「ジッ太とズッ太とおめぇの間にかっ?」「そこまでは分かんねぇ。でもあの場所に答えはある」「よし、分かった。今から丸太小屋に行くぞ。おめぇがそこまで言うんだ、絶対ジッ太とズッ太のことを思い出すはずだっ」 モモ太が顔を紅潮させて叫んだ。* 雷太とモモ太は森の南端にある猟師の丸太小屋を目指して出発した。 夜明けが近かった。巨大な満月は西の岩山の上に傾き、青白い光が薄《うつす》らと滲《にじ》む東の空には再び金星が輝いていた。 雷太は小屋までの道を思い出せないと嘘を吐き、わざとモモ太の後について歩いた。そうすることでこの得体の知れない河童からの不意打ちを防ぎ、常に監視することができるからだった。しかしそんな雷太の思惑など全く知らないモモ太は喜んで先導役を引き受けた。ヒノキの古木から小屋までは徒歩で三十分ほどの距離だった。「おい、ゴンベエ」歩き出して三十秒も経たぬうちにモモ太が振り向いた。「ライタッ、てどういう意味だ?」 そのモモ太の一言に雷太の胸が微《かす》かに鳴った。「知らねぇ、聞いたこともねぇ言葉だ。何でそんなことを俺に訊く?」「おめぇの顔を見た眼鏡のガキンチョが叫んだんだ、ライタッて。あん時は気になんなかったけど、今になってだんだん気になるようになってきた」「どうして気になんだ?」「もしかして、おめぇの本当の名前はライタじゃねぇかって思うんだ」「俺がライタだとして、何であの眼鏡がそれを知ってんだ?」「それなんだが、俺がぶっ殺したあいつらが、実はおめぇの家族じゃねぇのか?」「そりゃねぇだろう、もし家族だとしたら何であんなに俺を怖がんだ? あいつらが親兄弟だったら俺の顔見て喜ぶはずじゃねぇか、おめぇだってジッ太やズッ太に会ったら喜ぶだろ?」「そうか、そう言われると確かにそうだ。家族だったらおめぇを見てあんなに怖がるはずがねぇな」 モモ太は真顔で何度も頷《うなず》いた。「家族じゃねぇけど、俺のことをよく知ってる奴らだったんじゃねぇのか」「なるほど、そんなら話が噛《か》み合うな。きっとおめぇはあいつらをぶったり蹴《け》ったりして、毎日いじめてたんだ。だからおめぇを見てあんなに怖がってたんだ。そうか、そうか、そういうことか、家族じゃねぇけどおめぇをよく知ってる奴らか、なるほどな。これでやっと謎が解けた」 モモ太は納得したように大きく二回頷いた。 その後も雷太はモモ太と会話を続けた。しかしそこにはある目的があった。他愛《たわい》無い雑談を交わしながら、注意深くモモ太の目を観察した。そうすればモモ太の心情を探れると思ったからだった。しかし眼球の動かし方にしても、視線の送り方にしても、そして目に浮かぶ光の光度にしても、自分に対する敵意は全く感じられなかった。モモ太は完全に自分のことを仲間として受け入れていた。雷太は一応安心はしたが、それでも相手は河童だった。あの注射を打たれた少尉が言っていたように、人間の常識は通用しないのかもしれなかった。雷太は気を緩めることなく、より慎重に接することにした。 巨大な満月が西の岩山の陰に沈み、東の空の青黒い闇に太陽の光が差し始めた頃、二人は森の南端に到着した。「あそこだ」 モモ太が小道の左前方を指さした。生い茂る針葉樹の間から、丸太小屋の古びた屋根が僅《わず》かに覗いていた。それを見た途端雷太の脳の表面が痺《しび》れた。微細な電流が駆け巡るような感覚だった。小屋に対して明らかに反応していた。「もうすぐだ、行くぞ」 モモ太は再び歩き出した。雷太は無言でモモ太に続いた。一歩一歩足を進めるたびに脳の痺れは強まっていった。同時に吐き気が込み上げ、胸が息苦しくて堪《たま》らなくなった。雷太はハァハァと犬のように短い呼吸を繰り返しながら必死で前進した。 やがて築四十年以上経つ、小さくて粗末な木造建築の全形が見えてきた。板張りの屋根には枯れ葉が積もり、薄っぺらい木のドアは表面の皮がめくれていた。東側の壁には磨《す》り硝子《ガラス》の嵌《は》まった窓があり、その下にはあの古井戸がある草叢《くさむら》が広がっていた。 小屋の二十メートル程手前に来た時、突然モモ太が立ち止まった。「どうした?」 雷太が訊いた。しかしモモ太は前を向いたまま答えなかった。凶暴な野犬でもいるのかと辺りを見回したがその姿を視認することはできなかった。「おい、どうした?」 雷太は再び訊いた。モモ太は無言のまま左右の拳《こぶし》をぎゅっと握り締めた。すぐに両腕が小刻みに震え出した。「臭うっ、臭うぞっ」モモ太が呻《うめ》くように言った。「ジッ太とズッ太の血の臭いがするっ。この前来た時はゴンベイの服の血の臭いで分かんなかったけど、あの井戸からあいつらの血の臭いが物凄くするじゃねぇかっ!」 モモ太は叫ぶと小屋の東側にある草叢に走っていった。訳の分からない雷太も慌てて後を追った。古井戸の前でしゃがみ込み、中を覗《のぞ》いたモモ太が絶叫した。幼女の金切り声そっくりの、鼓膜に突き刺さるような声だった。「死んでるっ! ジッ太とズッ太が死んでるっ! ずたぼろぐっちょんになって死んでるっ!」 モモ太が頭を両手で抱えた。その後ろに立った雷太の鼻に強烈な腐臭が流れ込んできた。それは国民服の袖《そで》についた臭いを数百倍濃くしたような、目も眩《くら》むような異臭だった。その瞬間雷太の脳がどくりと大きく脈打った。表面の強い痺れが急速に脳の内部にまで広がった。同時に首を引きちぎられた河童と、腸を引きずり出された河童の映像が脳裡《のうり》を過《よぎ》った。右の掌《てのひら》に頸椎《けいつい》を折る感触、ぬらついた腸を掴《つか》む感触が甦《よみがえ》った。強い眩暈《めまい》を感じ雷太は目を閉じた。 二日前の出来事を、はっきりと思い出すことができた。 雷太は利一に「和子が待っている」と騙《だま》され丸太小屋に行った。そこで利一達に雇われた河童《かつぱ》の兄弟に襲撃されたのだ。凄絶《せいぜつ》な死闘を繰り広げた末に二匹を惨殺した雷太は、騙した利一を殺す寸前に祐二に斧《おの》で頭を割られ気絶した。その後河童の死骸《しがい》と共に井戸に投げ捨てられたようだった。 雷太は取り乱したモモ太の背後から離れ、草叢から出た。脳の痺れも、吐き気も治まっていた。完全に回復した頭の中は、一点の雲もない青空のように澄みきっていた。全身に力が漲《みなぎ》り、心臓が力強く脈打っていた。このままどこまでも、地の果てまでも走っていけそうな気がした。雷太は早朝の空を仰ぎ大きく深呼吸した。「おい……どうしておめぇの服からあいつらの血の臭いがするか分かったぞ」モモ太は低く唸《うな》るような声で言い、ゆっくりと立ち上がった。黒く大きな目には刺し貫くような光が浮かんでいた。「おめぇの本当の名前はやっぱりライタだ。そしておめぇがベカやんの友達の弟だ。俺はおめぇを殺してくれと頼まれた。だけど清美とグッチャネがしたくて、ジッ太とズッ太を代わりに行かせたんだ。そしておめぇを殺そうとしたあいつらを、逆におめぇが殺したんだ。そうだろう?」 雷太は何も言わなかった。否定する気も肯定する気も無かった。十メートル程の距離で対峙《たいじ》するモモ太に向かい微かに笑みを浮かべた。それが雷太の答えだった。「この野郎……」 モモ太の水色の顔がすっと紅潮し、左右の目尻《めじり》が狐のように吊《つ》り上がった。半開きになった嘴《くちばし》からは、毒猫が相手を威嚇するような鋭い呼気の音がした。全身から放たれた強烈な殺気がモモ太を包み込んだ。雷太はその姿をぼんやりと眺めた。全く負ける気がしなかった。あの二匹の河童と同じく残虐に殺害し、死骸を古井戸に投げ捨ててやろうと思った。雷太は頬《ほ》っかむりをしていた手拭《てぬぐい》いを外し、投げ捨てた。 どこかで野鳥の甲高い鳴き声がした。 モモ太が一歩、足を踏み出した。

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