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[饴村行] 粘膜人间-2

作者: 字数:28496 更新:2023-10-10 09:43:38

ジッ太が楽しそうに言い右手を挙げた。「やあ、ベカやんの友達」 ズッ太も楽しそうに言い右手を挙げた。共に顔が赤らみ息が酒臭かった。「モモ太はどうした?」 訳が分からず祐二が訊《き》いた。二匹は顔を見合わせるとケラケラと甲高い声で笑った。「兄しゃんはな、清美の家にグッチャネをしに行った」 ジッ太が言い、一升瓶をラッパ飲みした。その言葉に祐二は愕然《がくぜん》とした。「約束が違うぞ、清美とやるのは雷太を殺してからじゃねぇかっ」「兄しゃんはな、どうしてもグッチャネがしたくてしたくて、ついに我慢できずに清美の家に行ってしまったのだ」 ズッ太が言い、一升瓶をラッパ飲みにした。「じゃあ一体誰が雷太を殺すんだっ?」 祐二が上擦った声で叫んだ。「俺らだ」ジッ太が言い、左手首に巻き付けた利一の腕時計を突き出した。「兄しゃんから頼まれたから、俺とズッ太でお前の弟を殺してやる。ちょろいもんだ」「ちょろいもんだ」 ズッ太が繰り返し、何度も頷《うなず》いた。「その代わり俺達にもグッチャネができる女をよこせ。勿論《もちろん》二人だ。女を用意できなきゃ殺しはやめだっ」 ジッ太が語尾を荒らげて言った。祐二は絶句した。背骨の中を冷たいものが駆け巡った。今朝の利一の「どうも嫌な予感がする」という言葉が頭の中に響いた。所詮《しよせん》河童《かつぱ》は河童でしかなかった。河童に人間と同じ常識があると思い込み、大事な約束を交わした自分達の愚かさを今更ながら痛感した。まさに完全なる自業自得だった。 後一時間ほどで雷太がここにやって来るはずだった。利一に騙《だま》され喜び勇んで駆けつけた雷太が、小屋に母親がいないと知ったらどうなるか考えるまでもなかった。激怒した十一歳の化け物は利一と祐二に襲いかかり、容赦なく二人の肉体を拳《こぶし》で破壊するはずだった。肉を裂かれ骨を砕かれ、たちまち血まみれになって絶命する自分達の姿が容易に想像できた。 もはや選択肢は二つしかなかった。女は用意できないと正直にジッ太達に話して雷太に殺されるか、女を用意すると嘘を吐《つ》いてジッ太達に雷太を殺させるかだった。そして祐二は迷わず後者を選んだ。後で二匹に何と釈明するかは全く考えてなかったが、今はとにかく自分達が生き残ることが最優先だった。「よし、分かった」祐二は大きく息を吐いてジッ太を見た。「お前らにもちゃんと女を用意する」「本当か? それは本当の話なのか?」 ジッ太が大きく目を見開いた。「本当だ。ちゃんと清美のような若い女を連れてくる」「グググ、グッチャネはできるのかっ?」 ズッ太が声を震わせて叫んだ。「できる、モモ太と同じように好きなだけできる」「な、名前は何と言うんだっ?」「ゆかりと睦美《むつみ》だ」 祐二は適当に答えた。「どっちが美人だっ?」「二人共だ。一緒に連れてくるからそこでどっちにするか決めればいい」「い、いつ連れて来るっ?」 ジッ太が待ちきれないように訊いた。「今回は二人だから時間が掛かる。三日待ってくれ」「三日だな、あした、あさって、しあさっての三日だなっ?」「そうだ。その三日だ」祐二は笑みを浮かべて二匹を交互に見た。「だからその代わり、今日は確実に雷太を殺してくれ。殺し方はモモ太から聞いたか?」「聞いたぞ」ジッ太はなぜか声を潜めて言った。「おめぇの弟が来たらぺこぺこ頭を下げて挨拶《あいさつ》して、お母様が小便をしようとして井戸に落ちましたと言うんだ。驚いて井戸を見に行ったおめぇの弟を、後ろから突き飛ばして穴の中に落とすんだ。そうだろう?」「そうだ、その通りだ。ちゃんとやってくれるよな」「グッチャネのためだ、ちゃんとやる」 ジッ太が声を潜めたまま言い、ズッ太を見た。ズッ太は素早く何度も頷いた。* ジッ太とズッ太は小屋に入ると床に胡坐《あぐら》をかき、持参した一升瓶の酒を飲み始めた。二匹はうわばみだった。まるで水でも流し込むようにぐいぐいと酒をあおった。顔だけではなく、剥《む》き出しの頭蓋《ずがい》骨のような頭の皿までほんのりと赤味が差していた。「そんなに飲んで大丈夫か?」 傍らに立つ祐二が不安になって訊いた。「大丈夫に決まってんだろうっ」ジッ太が大きな目玉でぎょろりと祐二を睨《にら》んだ。「河童にとって酒は気付けだ。飲めば飲むほど力が強くなる。おめぇの弟がどれだけでかいか知らねぇが俺達の敵じゃねぇ」ジッ太は右手を握り締めた。「そうだ、その通りだ」ズッ太が大きく頷いた。「おい、おめぇも酒を飲め。そうすれば俺達みてぇに強くなって弟に勝てるぞ」 ズッ太が祐二に一升瓶を突きつけた。「悪いけど酒はだめなんだ」 祐二はズッ太を怒らせぬよう笑みを浮かべてやんわりと断った。「どうしてだ?」「去年急性のアルコール中毒になって死にかけてな、またそうなるのが怖いから酒を止《や》めたんだ」「怖いだとっ?」 ズッ太が大声で叫びジッ太を見た。二匹は同時に吹き出し腹を抱えて笑った。「おめぇ酒が怖いのかっ、弟も怖くて酒も怖いのかっ、ぺえぺえだっ、やっぱりおめぇはぺえぺえだっ、一生女とグッチャネできねぇ底抜け馬鹿のぺえぺえ様だっ」ズッ太が嘲《あざけ》るように叫び、二匹はまた笑い出した。祐二は愛想笑いを浮かべたまま黙って嘲笑《ちようしよう》を聞いた。昨日モモ太にぺえぺえだと言われた時は頭にきたが、今日は何の怒りも湧いて来なかった。もうすぐ殺人が始まるという緊張で頭の芯《しん》が痺《しび》れ、感情の動きが麻痺《まひ》しているようだった。 二匹はひとしきり笑うと急に真顔になり、またぐいぐいと酒をあおり始めた。* 利一と雷太がやって来たのは午前十一時五十分だった。 最初に気付いたのはジッ太だった。突然一升瓶の飲口《のみくち》から嘴を離し「来たっ」と叫んだ。「男が二人だ。一人は小便臭くてもう一人は精液臭え」ジッ太は鼻の穴をひくひくと動かした。 祐二は窓に駆け寄り外を見た。様々な針葉樹が混生する森の中、丸太小屋から伸びた小道の先に二つの人影が見えた。一人は背が低く、もう一人は異様に背が高かった。祐二は目を凝らした。間違いなかった。学生服を着た利一と国民服を着た雷太だった。二人は速い足取りでこちらに向かっており、小屋との距離がどんどん縮まっていた。祐二の心臓が異常な速さで脈打ち出した。緊張の度合いが一気に高まり強い便意を覚えた。「おい、あいつらもうすぐここに来るぞ」 祐二が上擦った声で叫んだ。「さあやるか、ぺえぺえ様の弟殺しだ」 ジッ太は空の一升瓶を置いて立ち上がった。それを見たズッ太も急いで立ち上がり、残った酒を喉《のど》を鳴らして飲み干した。「兄しゃんは怖いが弟は怖くねぇ」ジッ太が笑みを浮かべた。「年下のガキンチョなんてちょろいもんだ」「ちょろいもんだ」 ズッ太が繰り返し、手にしていた一升瓶を自分の頭に叩《たた》きつけた。瓶は大きな音を立てて砕け散った。ズッ太はけろりとした顔で頭に付いた硝子《ガラス》片を手で払った。岩のように固い皿だった。ジッ太がドアを開けて外に出た。その後にズッ太と祐二が続いた。 利一と雷太は丸太小屋のすぐ側まで来ていた。距離は十メートルも無かった。その近距離で利一を見て祐二は驚いた。左の口角が赤く腫《は》れ一筋の血が流れていた。手前に垂らした両手は白い紐《ひも》で何重にも縛られていた。利一が無言でこちらを見た。眼鏡が鼻先にずり落ちたその顔には怯《おび》えの色が滲《にじ》んでいた。雷太との間に一体何があったのか想像がつかなかった。「これはこれはお大尽様」「お大尽様いらっしゃい」 祐二の前に立っていたジッ太とズッ太が、ぺこぺこと頭を下げながら雷太に近づいていった。「蛇腹沼の化け物じゃねぇか、気色悪《わり》い」二匹の河童《かつぱ》を見た雷太は露骨に嫌な顔をした。「俺は和子に会いに来たんだ、おめぇらなんてどうでもいい、和子はどこだ」「お母様はあちらです」 ジッ太が小屋の東側にある草叢《くさむら》を右手で指し示した。「どこだ、どこにいる?」 雷太が草叢の辺りを見回した。「お母様はお外でお小便をしようとして、あそこにある古井戸の中に落ちたのです」 ジッ太の隣のズッ太がにこやかに言った。「下らん冗談言うな、和子は外で小便するような下品な女じゃねえ」「本当でございます、小屋にお便所が設《もう》けられておらず渋々外に行ったのです。お母様は今、井戸の底で泣いています。お大尽様の目でお確かめ下さい」 ズッ太が深々と頭を下げた。「おう、そこまで言うなら確かめてやる」 雷太は足早に草叢の中に入っていった。その後をジッ太とズッ太が付いていった。雷太はすぐに井戸の穴を見つけると、ひざまずいて中を覗《のぞ》き込んだ。祐二は胸中で「よしっ」と叫んだ。やはり雷太は十一歳のガキでしかなかった。まさに計画通りだった。「和子っ、俺だっ、そこにいるのかっ、返事しろっ」 雷太が叫んだ。声は穴の中で大きく反響した。次の瞬間背後に立つジッ太が動いた。素早く十歩ほど後退すると勢い良く走り出し雷太の背中に体当たりした。同時にその体はゴムボールのように跳ね返され地面に転がった。雷太が不思議そうな顔で振り向いた。ジッ太の行動の意味が全く理解できないようだった。今度はズッ太が動いた。ジッ太同様素早く十歩ほど後退すると勢い良く走り出し、そのまま雷太の背中に体当たりした。同時にその体もゴムボールのように跳ね返され地面に転がった。 祐二は雷太の肉体の強靭《きようじん》さに驚愕《きようがく》した。それは想像を遥《はる》かに超える恐るべきものだった。殺害計画が失敗に終った今、祐二と利一に雷太を殺す術《すべ》は無かった。後は河童次第だった。あの二匹がどこまで戦ってくれるかに掛かっていた。もしジッ太とズッ太が敗北すれば、祐二と利一には確実に死が待っていた。 祐二は五メートルほど離れて立つ利一を見た。その視線に気づいたのか利一もこちらを見た。考えている事は同じらしくその顔は露骨に青ざめていた。「おめぇらは一体何してんだ?」 雷太は立ち上がるとジッ太とズッ太を交互に見た。河童達との身長差は三十センチ以上あった。「井戸に落ちろっ!」 ジッ太が叫びながら立ち上がった。「井戸に落ちて死ねっ!」 ズッ太も叫びながら立ち上がった。「何で俺が井戸に落ちて死なねばならんのだ?」 雷太が首を傾げた。「やかましいっ、つべこべ言わずにさっさと落ちろクソガキッ!」 ジッ太は拳《こぶし》大の石を拾うと思いきり投げつけた。石は雷太の額を直撃してはね返り、草叢の中に落ちた。かなりの衝撃を受けたようだったが雷太は無反応だった。痛がることもなく平然とした表情でジッ太を見た。「何で俺が井戸に落ちて死なねばならんのだ?」 雷太が同じ言葉を繰り返した。まるで石が当たったことに気づいてないようだった。不意に雷太の額に赤い染みが滲み出た。一円玉大のそれは筋になってたらりと顔に流れた。そこで初めて雷太は頭部の異変を知った。右手を額に当て、掌《てのひら》に付着した赤い液体を不思議そうに眺めた。二呼吸分の沈黙の後、漸《ようや》くそれが血だと分かったらしい雷太は驚愕した。目をかっと見開き、裂けんばかりに口を大きく開けた。巨大な全身がわなわなと震えだした。驚愕はすぐに憤怒《ふんぬ》に変わった。顔面が見る間に紅潮し、額一面に幾筋もの血管が浮き上がった。「やりやがったなこの野郎っ!」 雷太は叫ぶとジッ太の顔面に拳を叩き込んだ。ジッ太は仰《の》け反って倒れた。雷太は胴体の上に馬乗りになり右手で喉を鷲掴《わしづか》みにした。五本の指が皮膚を突き破り肉の中に深くめり込んだ。ジッ太の両足が駄々をこねるように上下に激しく動いた。気道を塞《ふさ》がれ声が出ないのか悲鳴は聞こえなかった。雷太は腹の底に響くような重低音の叫び声を上げると、その凄《すさ》まじい握力で喉元の肉を一気にえぐり取った。ジッ太の首に大きな穴が開いた。白い頸椎《けいつい》が露出し断ち切られた頸動脈から赤黒い血が噴き出した。雷太は首の穴に手を突き入れ頸椎を掴んで引っ張った。枯れ木が折れるような乾いた音がした。頸椎を破壊した雷太はジッ太の頭部を両手で掴み、勢い良く左にねじって胴体から引きちぎった。 祐二は動けなかった。低く呻《うめ》くことさえできなかった。雷太の化け物じみた強さにショックを受け全身が凍りついていた。残るはズッ太だけだった。ズッ太が殺されれば次は自分達の番だった。 雷太は青洟《あおばな》を啜《すす》り上げると立ち上がり、手にしたジッ太の頭部をズッ太の足元に放り投げた。明らかな挑発行為だった。「ほう、ぺえぺえ様の弟が首を取ったか、ほうほう、中々やるな、ジッ太の首を取れれば大したもんだ」ズッ太は落ち着いた口調で言ったが声が僅《わず》かに震えていた。内心の激しい動揺を、必死で雷太に悟られまいとしているのが分かった。「それにだ、ぺえぺえ様の弟は立派な腕をしている。太くて長くて丈夫そうだ。嬉《うれ》しかろうな、そんないい腕を二つも持ってさぞかし嬉しかろうな。あまりにもいいから腕の肉を揉《も》んでやろう。血が良く巡るよう念入りに腕の肉を揉んでやるから、ちょいとこちらに来ておくれ」 ズッ太が媚《こ》びるような声で言い手招きをした。雷太を油断させるための作戦のようだった。 しかし雷太は動かなかった。無言のまま、敵意に満ちた鋭い目でズッ太を睨《にら》みつけた。「どうした、遠慮するな、肉を揉まれるのは気持ちがいいものだぞ。そうか、分かったぞ、こちらに来るのが恥ずかしいのだな、だったら俺がそっちに行ってやろう」 ズッ太は何度も頷《うなず》きながら軽い足取りで歩き出した。その顔は明らかに何かを企《たくら》んでいた。祐二は学生服の胸ポケットを握り締めた。中には弁天神社のお守りが入っていた。ズッ太の勝利を神に強く祈り、「うまくいく、うまくいく」と繰り返し呟《つぶや》いた。 雷太との距離が二メートルを切った時、ズッ太が仕掛けた。突然嘴《くちばし》を開け、喉の奥から青い塊を吐き出した。痰《たん》のようなそれは一直線に飛び雷太の右目に命中した。雷太が大きな呻き声を上げた。かなりの痛みらしく右の顔面を押さえてうずくまった。同時にズッ太が駆け寄り両手の鉤《かぎ》爪で無防備な左の顔面を掻《か》き毟《むし》った。爪は凄《すご》い速さで皮膚を切り裂いていき次々と血しぶきが上がった。祐二の鼓動が高鳴った。攻撃される雷太を見るのは初めてだった。「やっちまえっ! 殺せっ、殺せっ!」 興奮した祐二は胸ポケットを握り締めたまま叫んだ。その途端うずくまっていた雷太が左腕を振り上げ、ズッ太の頭頂部に肘《ひじ》を叩《たた》きつけた。強烈な一撃だった。衝撃で脳震盪《しんとう》をおこしたのかズッ太は崩れ落ちるように倒れた。半球形の皿の天辺には放射状に伸びる幾筋ものひびが入っていた。 雷太は体を起こして膝立《ひざだ》ちになった。血まみれの左顔面は激しい損傷を受けていた。目蓋《まぶた》がえぐられ潰《つぶ》れた眼球が眼窩《がんか》からはみ出ていた。頬の肉は細かく乱雑に切り裂かれ、傷口の裂け目から口内の歯列が見えた。顎《あご》や耳介、側頭部にも無数の切り傷がついていた。 雷太は天を仰いだ。上空には目映い露草色の空が広がっていた。雷太は左右の拳を握り締め口を大きく開けると、全身を細かく震わせながら絶叫した。それは人の声に聞こえなかった。猛《たけ》り狂った獣の、凄まじい怒りの咆哮《ほうこう》に聞こえた。雷太は倒れたズッ太の腹に右手を手首まで突き入れた。ズッ太が耳障りなけたたましい悲鳴を上げた。右手が腹の中で何かを掴んだように見えた瞬間、雷太はぬらついた桃色の腸を勢い良く引きずり出した。ズッ太がまたけたたましい悲鳴を上げ大量の血を吐き出した。雷太はさらに左手で腸を一メートルほど引きずり出すと、それをズッ太の首に巻きつけて一気に絞め上げた。ズッ太の全身が激しい痙攣《けいれん》を始めた。歯を喰《く》いしばる雷太の表情からありったけの力を込めているのが分かった。水色だったズッ太の顔面が瞬く間に紫色になり、嘴から赤く細長い舌が飛び出した。目が見開かれ、陰茎がたちまち勃起《ぼつき》した。 雷太は立ち上がり、両腕をさらに広げて腸を引き絞った。ズッ太の痙攣がより激しさを増した。顔面が紫色から土気色になり、肛門から糞《くそ》がひり出た。口角から涎《よだれ》が流れ、鼻孔から泡立った鼻汁が溢《あふ》れた。やがて勃起した陰茎が前後に数回揺れ動くと先端から精液が迸《ほとばし》った。それを待っていたかのように全身の痙攣が治まっていき、一分も経たぬうちに完全に動かなくなった。 雷太は腸から手を離した。 ズッ太は光の消えた虚《うつ》ろな目で空を見上げていた。 祐二はへなへなと地面にへたり込んだ。両膝が激しく震え、立っていることができなかった。ズッ太が殺された今、自分達の死は決定的なものとなった。後はどちらが先に殺されるかだけだった。心臓を握り潰されるような絶望感が湧き上がった。みぞおちの奥が重く冷たくなり激しい吐き気を覚えた。祐二は耐えきれなくなり胃の中のものを吐き出した。もはや逃げる気力さえ失《う》せていた。 雷太はゆっくりと利一を見た。「おめぇ、騙《だま》しやがったな」 雷太が低い声で言った。 利一は顔を強張《こわば》らせて後ずさった。手前で縛られた両手が激しく震えているのが分かった。雷太が利一に向かっておもむろに歩き出した。利一は悲鳴を上げて逃げ出したが、恐怖のためかすぐに足がもつれて転倒した。雷太は倒れた利一の前で立ち止まると、その喉《のど》元を右足で踏みつけた。苦しそうに呻いた利一は雷太の足首を掴み、払いのけようともがいたがびくともしなかった。雷太はズボンの前開きのボタンを外し、無造作に陰茎を出して放尿した。大量の黄色い尿がしぶきを上げて利一の顔や頭に掛かった。利一は目と口を閉じることしかできなかった。放尿を終えた雷太は陰茎をしまい利一を見下ろした。「おめぇは、どうやって死にてぇ?」雷太が低い声で訊《き》いた。「脳味噌《のうみそ》を潰されて死にてぇか? それとも、心臓を潰されて死にてぇか?」 利一は答えなかった。尿にまみれた強張った顔でじっと雷太を凝視していた。目前に迫った死の迫力に圧倒され、全身の感覚が麻痺《まひ》しているように見えた。「答えねぇなら俺が決める。俺はおめぇの心臓を潰す」 雷太はそういうと利一の喉元から足を離し、巨体を揺らして地面に片膝をついた。利一は起き上がろうとしたが、雷太に胸倉を掴まれ地面に押し付けられた。 不意に祐二の脳裡《のうり》を一丁の手斧《ておの》が過《よぎ》った。 丸太小屋の机の上にあったものだった。祐二の心臓が大きく鳴った。雷太は今こちらに背を向けた状態で身を屈《かが》めていた。後ろから斧で頭を割れば簡単に殺すことができた。 躊躇《ちゆうちよ》している暇は無かった。祐二は立ち上がると丸太小屋に駆け込み、机上の手斧を取って外に飛び出した。ちょうど雷太が右手を振り上げるところだった。祐二は走った。瞬く間に雷太の背後に着いた。気配に気づいた雷太が振り向いた瞬間、祐二は渾身《こんしん》の力を込めて手斧を打ち下ろした。鋭い鉄の刃がその頭頂部を叩き割り中から赤黒い血が噴き出した。 雷太は動かなかった。声も上げなかった。こちらを振り向いたまま、無言で祐二を見上げていた。今の一撃がどれだけ効いたのか見当がつかなかった。祐二がもう一度頭を叩き割ろうと両手を振り上げた時、雷太の残った右目がくるりと上を向き白目になった。地面に片膝をついていた巨体がゆっくりと前のめりになり、そのまま利一の隣に倒れ込んだ。縦長に割れた頭蓋《ずがい》骨の裂け目から、淡黄色の脳がどろりとこぼれ出た。「大丈夫か?」 祐二は手斧を置くと利一の手を縛る紐《ひも》を解き、腕を取って上体を引き起こした。死の瀬戸際まで追い詰められた利一は放心状態だった。口を半開きにし、虚ろな目で虚空を見ていた。「しっかりしろっ」 祐二は利一の頬を平手で強く打った。 その一発で利一は我に返った。目の前にいる祐二を見て驚きの表情を浮かべた。「雷太は、雷太はどうした?」 利一が喘《あえ》ぐように言った。「安心しろ、俺が殺《や》った」 祐二は傍らに倒れた雷太の死体に視線を向けた。利一は目を見開いた。先程の恐怖が甦《よみがえ》ったらしく顔がさっと青ざめるのが分かった。利一は地面にこぼれ出た雷太の脳を、怯《おび》えた表情で見つめた。* 当初の計画とは全く違う展開になったが、雷太を殺害するという目的は達成できた。もう二度と狂った小学生の暴力に支配されることは無かった。 祐二と利一は『血みどろ殺戮《さつりく》ショウ』の後片づけをした。凶器の手斧、引きちぎられたジッ太の頭部と胴体、腸が飛び出したズッ太の死体、頭が割れた雷太の死体の順に古井戸の中に落としていった。さすがに百五キロもある雷太の体は重く、二人がかりでなんとか持ち上げ足から中に突き入れた。辺りには夥《おびただ》しい血液が飛び散っていたが気にはならなかった。十二月の猟の解禁日まで小屋を使用する村人はおらず、それまでに雨がきれいに洗い流してくれるはずだった。*「どうして雷太に手を縛られたんだ?」 森からの帰り道、祐二が隣を歩く利一に訊いた。「雷太をおびき出すホラ話をしてる時、あいつの母親を和子って言っちまったんだ。そしたらお前が和子って言うんじゃねぇって怒り出してよ、いきなりぶん殴られて手を縛られちまった。小屋に行って和子に謝るまでそうしてろって命令されて、逆らう訳にもいかねぇからそのまま大人しくしてたんだ」 利一が照れ臭そうに言い、眼鏡を指で押し上げた。 森を抜け、村の中心に続く広い砂利道に出た。しばらく歩いていると、向こうからモモ太が小走りでやってくるのが見えた。「やべぇな、どうする? ジッ太やズッ太のこと、どう説明するか考えてなかったぞ」 祐二が利一を見た。「こっちからは何も言うな。もしモモ太が訊いてきたら俺がうまく誤魔化すから、おめぇは黙ってろ」 利一が前を見たまま言った。 モモ太の足は速かった。垂れ下がった陰茎を左右に激しく振りながら、あっという間に二人の前までやって来た。「兵隊だっ! 兵隊だっ!」 なぜか興奮したモモ太が、利一と祐二の顔を交互に見ながら叫んだ。「兵隊がどうした?」 利一が怪訝《けげん》そうに尋ねた。「俺は清美んとこにグッチャネしに行ったんだっ、そしたら家のすぐ近くの道で箱付きバイクに乗った兵隊と会ったんだっ。兵隊は俺を見るとにやにや笑いだして、いきなり鉄砲を撃ちやがったっ、見ろっ!」 モモ太が自分の左肩を指さした。近づいて見てみると、銃弾が貫通したらしい小さな穴が開いていた。拳銃《けんじゆう》で撃たれたようだった。「おっかねぇっ! 鉄砲はおっかねぇっ! クソ漏れるぐれぇおっかねぇっ! もう清美の家には行かねぇっ!」 モモ太は絶叫すると、再び森に向かって走っていった。「箱付きバイクって、憲兵のサイドカーのことだろうな」 利一が呟《つぶや》くように言った。祐二は無言で頷《うなず》いた。やはり清美は未《いま》だに憲兵隊の監視下にあり、時折尋問を受けているようだった。改めて清美との接触には危険が伴うことを知ったが、それでも祐二の粘りつくような性欲は消えなかった。あの豊満な乳や尻《しり》、そして濡《ぬ》れそぼった陰部を思うと恐怖は一瞬で吹き飛んだ。計画通り、明日の月曜日は清美を犯しにいくつもりだった。近くの林檎《りんご》畑から家の周囲を窺《うかが》い、憲兵がいないことを確認すればいいだけの話だった。後は前回と同じく清美にドアを開けさせればよかった。もし言うことを聞かなければ、窓を壊してでも侵入するつもりだった。 祐二は陰茎が急速に硬くなっていくのを感じた。いよいよ童貞ともおさらばだった。明日から清美は祐二の『便所女』だった。最初の性交は後背位でやると決めていた。後ろから犬のように交わるのが、非国民女には相応《ふさわ》しいと思ったからだった。祐二は学生ズボンのポケットに右手を入れ、硬直した陰茎を中から握った。それは心臓のように激しく脈打っていた。これがもうすぐ清美の中に入るのかと思うと興奮のあまり眩暈《めまい》がした。 祐二は森の中に消えていくモモ太の後ろ姿を見つめながら、ポケットの中の右手をそっと上下させた。第弐章 虐殺幻視 どこかで声がした。 誰かが清美、と呼んでるような気がした。 それは遠くからの叫び声のようにも、耳元での囁《ささや》き声のようにも聞こえた。 椅子にもたれてまどろんでいた成瀬清美は耳を澄ませた。やがてそれが林檎畑を吹き抜ける風の音だと分かった。清美は薄目を開け、居間の壁に掛かった振り子時計を見た。針は四時四十分を指していた。しかしそれが午前なのか午後なのか、区別することができなかった。 清美は体を起こすとゆっくりと立ち上がり、覚束無《おぼつかな》い足取りで北側の壁にある両開きの窓の前に立った。鈍色《にびいろ》の雲が空を覆い、辺りはどんよりと薄暗かった。日が暮れて間もないようにも、夜が明けて間もないようにも見えた。混乱した清美は大きなため息を吐き、また椅子に戻った。室内はしんと静まり返っていた。時を刻む規則的な振り子の音が聞こえてくるだけだった。 清美はテーブルの上に視線を向けた。そこには七五式《ななごうしき》自動拳銃が置かれていた。次に右隣の椅子に視線を向けた。敷かれた薄い座布団の上に黒い三号甲種電話機《さんごうこうしゆでんわき》が置かれていた。「お前の兄貴は必ず家に戻りお前と接触すると少佐殿が言っていた。そのため今日から三名の憲兵が村役場に常駐することになった。幸彦が戻ったら家に入れる前に必ずこちらに通報しろ。受話器を取るだけで自動的に役場の待機所と繋《つな》がる。家に入れたら普段通りに振る舞い安心させるんだ、我々は五分以内に駆けつける。もし感づかれて逃げるような素振りを見せたらすぐに射殺しろ。安全装置は外してあるから引き金を引けば弾が出る」 昨日の昼前にやってきて電話の設置作業を行った憲兵伍長《ごちよう》は、そう言い残してサイドカーで去って行った。 松本少佐の顔がぼんやりと虚空に浮かんだ。 それは不可能だ、と清美は思った。 清美は『髑髏《どくろ》』の副作用で殆《ほとん》どの感情が消え、同時に記憶障害を起こしていた。自分に幸彦という兄がいることは分かったが、その顔や声を全く思い出せなくなっていた。清美は写真を探したが家には一枚も残っていなかった。幸彦に関するあらゆる物を憲兵隊が押収したためだった。 清美はふと、二日前に家を尋ねてきた学生服の男のことを思い出した。自分の同級生であろうその男は、見覚えこそあったがどこの誰なのかは判別できなかった。しかしそれでも兄でないことだけははっきりと分かった。それは自分が幸彦の顔を、ほんの僅《わず》かながらまだ覚えている証拠に思えた。清美は試しに目をつぶり幸彦の姿を思い描いてみた。灰色の上下の作業服を着た体はすぐに浮かんだが、首から上がぼんやりとぼやけて分からなかった。尚も顔に意識を集中させていると頭痛が起きた。左右のこめかみを強く圧迫されるような痛みだった。幸彦の顔の記憶を探ると必ず起こる症状だった。清美は目を開き、頭を数回横に振って深呼吸をした。煙が風にのって流れていくように、こめかみの痛みがすっと消えていくのが分かった。 清美は椅子の背もたれに頭をあずけ、机の上で鈍く光る銀色の自動拳銃をぼんやりと眺めた。「……私は秘密を知っていた」 清美は低く呟いた。松本少佐が言ったように、確かに清美は幸彦の秘密を知っていた。あれだけの凄《すさ》まじい拷問にあっても決して口を割らず、ついに『髑髏』の副作用で記憶の奥深くに埋もれてしまった、幸彦の秘密とは一体何だったのだろう、と清美は思った。* 清美の記憶は幸彦が逃亡した日を境に異常をきたしていた。まるで検閲を受けてカットされたフィルムのように、脳内で再生される映像は所々が欠落していた。 幸彦の最後の記憶は九日前のものだった。 あの、地元の連隊に入隊する前日の夜、幸彦は見知らぬ若い女と共に帰宅した。両親は勤め先の工場が夜勤だったため、家には清美しかいなかった。幸彦は寝ている清美を起こし、女を婚約者の美紀子《みきこ》だと紹介した。そして「俺は兵役を拒否する。兵隊の苦しみを二年も味わうくらいなら俺は逃げる。お前の知らない遠い所に行って美紀子と家庭を築く」と低い声で告げた。 清美は激しく取り乱した。もし幸彦の言葉が事実なら自分と両親は明日から非国民だった。確かに初年兵にとって軍隊が地獄なのは理解できた。『軍人教育』と称される連日の凄まじいリンチで、毎年必ず自殺者が出るのが常だった。しかしそれは十八歳の男子全員が経験する通過儀礼であり、ただ怖いというだけで女と逃亡するのは余りにも身勝手だった。清美は「考え直して」と涙ながらに懇願したが幸彦は聞く耳を持たなかった。納戸から大きな旅行鞄《かばん》を持ち出すと、美紀子と二人で荷造りを始めた。 清美の記憶はそこで一度途絶えていた。 次に想起できるのは隣町にある憲兵隊本部だった。町外れの高台にある四階建てのビルで、壁一面が鬱蒼《うつそう》とした蔦《つた》で覆われていた。白い体操服姿の清美を乗せた黒い六輪自動車は、正面の大きな門を通って敷地内に入った。門の右側には衛所があり、短機関銃を持った衛兵が運転手に敬礼した。車は正面玄関には停まらずに奥へと進み、ビルの裏手にまわって停車した。 清美は隣に座る護送役の憲兵に命じられ車から降りた。両手には手錠が掛けられ腰には捕縄が巻かれていた。清美は小さな通用口から中に入った。コンクリートの長い廊下を進み、突き当たりにあるエレベーターで地下二階に下りると、八畳程の殺風景な部屋に入れられた。六十燭光《しよつこう》の裸電球が灯《とも》る室内には、古びた机と二脚の椅子が置かれているだけだった。手錠と捕縄を外された清美は、椅子に座って待つよう指示を受けた。 数分後、二人の男がやって来た。 一人は憲兵少佐で「松本」と名乗り、もう一人の憲兵少尉を「清水《しみず》」だと告げた。松本少佐は三十代後半ぐらいに見えた。がっしりとした体格で口髭《ひげ》を生やしており、大学教授のような知的な雰囲気を持っていた。清水少尉は二十代前半に見えた。痩身《そうしん》で背が高く精悍《せいかん》な顔立ちをしていたが、どこか情に欠けるような冷たい目をしていた。「まず、昨日の夜から今朝にかけて何があったか聞かせてくれ」 松本少佐は立ったまま静かな口調で言った。「夜の十一時頃、兄が美紀子という婚約者と帰って来ました」 清美は目を伏せながら低い声で答えた。「その女とお前は初対面か?」「はい」 清美は小さく頷《うなず》いた。「その時家には誰がいた?」「私一人です。両親は工場の夜勤で朝までいませんでした」「お前の兄貴はそれからどうした?」「俺は兵隊にならずにどこか遠い所で暮らすと言うと、美紀子と二人で荷造りをして出て行きました」「出て行ったのは何時頃だ?」「十一時半ぐらいです」「その時なぜ憲兵隊に通報しなかった?」「あまりのショックで取り乱してしまい、全く思いつきませんでした」「その後お前はどうした?」「非国民になるのが怖くて朝まで泣いていました」「午前七時二十二分に憲兵隊に通報したのは誰だ?」「父です。その時両親が夜勤から帰ってきたので、兄のことを話しました」 松本少佐は大きく三回頷いた。「その美紀子という女はこちらでも把握している。お前の兄貴が勤めていた印刷所の出納係だ。美紀子もまた昨日の夜から行方不明になっている。会社の金には手をつけていなかったが、二人で逃げているのは間違いなさそうだ」少佐は軍服の左の胸ポケットから煙草を取り出し口にくわえた。隣の少尉が銀色のライターで素早く火を点《つ》けた。「長いこと憲兵をやってるとな、相手の口調や表情でその話が本当か嘘か分かるようになる」 少佐は勢い良く紫煙を吐いた。清美は煙にむせて軽く咳《せ》き込んだ。「そこで言わせてもらうが、お前は兄貴の逃亡には関わっていない。一切の手引きも手助けもしていない。美紀子の存在を知らなかったのも本当だ。それは間違いない。でもな、お前の話の一部に虚偽がある」 松本少佐の言葉に清美の心臓が大きく脈打った。全身の皮膚がすっと収縮し、背中一面に悪寒が走った。「そんなことありません」と言おうとしたが、言葉が喉《のど》に詰まり出てこなかった。「それは兄貴についてだ。お前は幸彦に関して何かを隠している。しかもそれは重要なことだ。この期に及んで兄を守ろうする家族愛には感動するが、憲兵としての立場上見逃すわけにはいかない。一体それが何なのかこれから突き止めさせてもらう。 秘密を知る方法は三つある。一つ目はお前が自主的に話すこと、二つ目はお前の肉体に拷問を加えて聞き出すこと、三つ目はお前の精神に拷問を加えて聞き出すことだ。さあ、どうする?」 松本少佐はまた勢い良く紫煙を吐いた。 清美は無言だった。何か言わなくてはと焦れば焦るほど、出かかった言葉が喉元で土塊《つちくれ》のように崩れていった。『拷問』という言葉が脳の中に深くめり込んでいた。膝《ひざ》の上で組んだ手が微《かす》かに震えるのが分かった。しかしそれでも幸彦の秘密を話す気にはならなかった。「私、嘘は吐いてません。兄に対して知ってることは、全部話しました」 清美は声を振り絞りやっとの思いで答えた。「そうか」松本少佐が静かに呟《つぶや》いた。「残念だが致し方あるまい、我々のやり方で秘密を教えてもらう」松本少佐は短くなった煙草を床に落とし、黒い長靴で踏みつけた。 清美は二人に両腕を抱えられ真向かいの部屋に移された。同じく八畳ほどの広さだったが室内は全く違っていた。壁と床が浴室のように正方形の白いタイル張りになっており、部屋の中央には鉄製の肘《ひじ》掛け椅子が置かれていた。左右の肘掛けと椅子の前部の左右の脚には、手首と足首を固定するための革バンドが付いていた。 その背後の壁には鉄製の蛇口があり、先端に細長いノズルの付いたゴムホースが伸びていた。壁の下には長さ一メートル、幅二十センチほどの排水溝があった。「着ているものを脱げ」 清水少尉が初めて口を利いた。抑揚の無い低い声だった。清美は激しく動揺した。そんなことできる訳がなかった。頭を左右に振りながら両腕で胸元を押さえて後ずさった。清水少尉は素早く歩み寄り清美の顔を張り飛ばした。清美は悲鳴を上げて倒れた。凄《すさ》まじい衝撃だった。左の頬が熱を帯び、大きく膨れ上がったように感じた。「立て」 清水少尉が清美の髪を鷲掴《わしづか》みにして顔を引き上げた。清美はよろめきながら立ち上がった。「着ているものを脱げ」 清水少尉は同じ言葉を同じ口調で繰り返した。清美の意識は朦朧《もうろう》としていたが、それでも羞恥《しゆうち》心は消えなかった。絶対に人前で裸にはなりたくなかった。清美はまた両腕で胸元を押さえ首を左右に振った。清水少尉は清美の腹を思い切り殴った。固い拳《こぶし》がみぞおちにめり込んだ。激痛と共に呼吸が止まり、清美は体をくの字に折ってしゃがみ込んだ。苦しさのあまり口を大きく開けると、込み上げてきた反吐《へど》が溢《あふ》れ出た。「立て」 清水少尉はまた清美の髪を鷲掴みにして顔を引き上げた。清美は途切れ途切れに反吐を吐きながら、壁に手をついてなんとか立ち上がった。「着ているものを脱げ。今度逆らったら指の骨を一本折る」 清水少尉は囁《ささや》くように言った。その双眸《そうぼう》は冷たい光を帯びていた。冷酷で、強靭《きようじん》な意志の力を感じさせる光だった。上官の命令ならどんなことでもやり遂げる、青年将校特有の張り詰めた雰囲気が漂っていた。もし今度命令に逆らえば、間違いなく指の骨を折られるはずだった。 裸になろう、と清美は思った。 骨折の痛みを一度我慢すれば済む問題ではなかった。清水少尉は清美が逆らうたびに、指を一本ずつ全てへし折っていくに違いなかった。 一度決心するとなぜか羞恥心が希薄になった。清美は反吐で汚れた長袖《そで》の体操服と体操ズボンを脱いだ。下着がわりの半袖のシャツを脱ぎ、少し躊躇《ちゆうちよ》してショーツを下ろした。全裸になった清美は左腕で乳房を隠し、右手で股間《こかん》を隠すと俯いた。「椅子に座れ」 清水少尉の後ろに立つ松本少佐が命じた。 清美は中央に置かれた鉄の椅子に腰掛けた。尻《しり》に触れた鉄板がひやりと冷たかった。清水少尉が清美の手首と足首を、革バンドで椅子に固定していった。乳房と陰毛が露《あら》わになったが少尉の目に性的な愉悦や興奮は全く見られなかった。それは腕組みをして立っている松本少佐も同じで、清美は自分がただの肉と脂肪の塊になったような気がした。 固定作業を終えた清水少尉は椅子を荒々しく後ろに倒した。仰《あお》向けになった清美は天井を見上げた。二本の蛍光灯が白く寒々しい光を放っていた。頭のすぐ先には蛇口の付いた壁があった。 松本少佐が近づいてくると傍らに片膝をつき、清美の顎《あご》を右手でしっかりと押さえつけた。清水少尉はホースを手に取り、先端のノズルを清美の鼻先に向けた。「やれ」 松本少佐が低く呟いた。清水少尉は蛇口の栓を右に回した。同時に大量の水が勢い良く噴き出し顔面を直撃した。清美は反射的に右側を向こうとしたが、松本少佐が顎をしっかりと押さえているため全く動けなかった。清美は息を止めて耐えた。水は容赦なく噴き出し続けた。顔一面に針で突かれるような鋭い痛みを感じた。すぐに心臓が酸素を求めて激しく脈打ちだした。苦しみは加速度的に高まり頭の芯《しん》がじりじりと熱くなった。 二分も経たぬうちに我慢の限界がきた。呼吸したいという欲求が理性を上回った。清美は堪《たま》らず口を開けた。それを待っていたかのように、清水少尉が口内にノズルを突き入れた。同時に大量の水が勢い良く体内に流れ込み胃の内部を満たしていった。清美は鼻で息をしようとした。しかし水が口内から鼻腔《びこう》内に溢れ呼吸は不可能だった。清美の胃はたちまち膨れ上がった。膨満感が湧き起こり強い吐き気を覚えた。しかし清水少尉は蛇口の栓を閉めなかった。水流の勢いを保ったまま放水を続けたため満杯の胃がさらに膨れ上がった。腹部に激痛を感じ清美は大きな呻《うめ》き声を上げた。胃が張り裂けてもおかしくない凄まじい痛みだった。清美は目を見開き、手足を激しく震わせて、やめてっ、やめてっ、と声にならない声で絶叫した。「よし、もういい」 松本少佐がまた低く呟いた。清水少尉はノズルを口から抜き水を止めた。腹部の痛みが僅《わず》かに和らいだ。松本少佐が清美の顎から手を放した。清美は激しく咳き込みながら必死で息を吸った。吸っても吸っても吸い足りなかった。顔に水を掛けられてから三分近く、無呼吸状態が続いていた。 清美は肩で大きく息をしながら自分の腹部を見た。みぞおちから臍《へそ》の上までが大きく膨らみ、まるで妊婦のようになっていた。水で人間の腹がここまで膨らむことが信じられなかった。「仕上げだ」 松本少佐が立ち上がり数歩後退した。 清水少尉が跳躍し清美の腹の上に飛び乗った。長靴の踵《かかと》がめり込んだ途端、胃が爆裂するような衝撃と共に口から大量の水が噴き出した。清美は身をよじって悶絶《もんぜつ》した。悲鳴を上げたかったが喉《のど》が詰まって声が出ず、代わりにぼろぼろと涙がこぼれた。 清水少尉が清美の腹の上から下りた。妊婦のように膨らんでいた腹が元の大きさに戻っていた。清美は肛門《こうもん》から柔らかくて温かいものが出ているのに気付いた。一瞬踏み潰《つぶ》された腸が飛び出したと思ったが、漂ってきた臭いでそれが大便だと分かった。 清水少尉は再びホースを手に取ると、椅子に固定されたまま倒れている清美の股間を洗い流した。この拷問を受けた者はみな脱糞《だつぷん》するらしく平然とした顔をしていた。 洗浄は一分ほどで終わった。 清水少尉は清美の座る椅子を持ち上げ元の体勢に戻した。腹部の痛みは残っていたが大分楽になっていた。「楽しんだか?」 松本少佐がにこりともせずに訊《き》いてきた。清美は無言で視線を逸《そ》らした。返事のしようが無かった。「今のお前の率直な意見を聞きたい。幸彦の秘密を話す気になったか?」 松本少佐は腰を屈《かが》め清美の顔を覗《のぞ》き込んだ。「私、兄の秘密なんて知りません、信じて下さい」 清美は掠《かす》れた声で囁いた。 松本少佐が大きく息を吐《は》いた。「少佐殿、もう一度やりますか?」 隣に立つ清水少尉が訊いた。「いや、やっても無駄だ。今までにも何人かいたが、この手の奴らは肉親を守るという大義名分があるから、ちょっとやそっとのことじゃ絶対に落ちん。五年前に拷問した女は水責めを十回やったが、最後まで旦那《だんな》の居場所を吐かなかった」「では、あれを使いますか?」「そうだな、幸彦は未《いま》だに逃亡中だから今回は早めに使ったほうがいいだろう」「すぐにお持ちします」 少尉は一礼すると足早に部屋を出て行った。 室内がしんと静まり返った。 清美は床の白いタイルを見つめながら、清水少尉が言っていた『あれ』とは何だろうと思った。今の水責めよりも苦痛を伴うものだということは分かった。清美はふと、先程の松本少佐の言葉を思い出した。少佐は秘密を聞き出す方法として、『肉体への拷問』と『精神への拷問』があると言っていた。水責めが終った今、次は『精神への拷問』だったが、具体的にどういう方法をとるのか全く想像できなかった。しかしそれでも清美は恐怖を感じなかった。何をされようとも、幸彦の秘密を絶対に口外しない自信があった。肉体だろうが精神だろうが好きなだけ拷問すればいいと思った。 清美は上目遣いで松本少佐を一瞥《いちべつ》した。大尉は押し黙ったまま清美を見ていた。全裸の若い女を目前にしているにもかかわらず、その目には依然として性的な愉悦も興奮も見受けられなかった。エリート軍人には同性愛者が多いと聞いたことがあったが、少佐はまさにそれではないかという気がした。 清水少尉はすぐに戻ってきた。手に持った銀色のトレイには、黄色い液体が入った細長い注射器が置かれていた。「これは最近、帝大の教授が開発した拷問用幻覚剤だ。『髑髏《どくろ》』と呼ばれている」松本少佐はトレイから注射器を取った。「我々は今まで二十二人の被疑者に対し『髑髏』を使用してきた。この薬液を体内に注入すると、すぐに強い幻覚症状が現れて意識が激しく錯乱する。何が見え、何が聞こえ、何に触れるかは人それぞれだが、二十二人が共通して体験した幻覚が一つだけある。それは全員が何者かによって惨殺されるというものだ。それも異様なまでに生々しく、まるで現実の出来事のように自分の悲惨な最期を経験していた。 つまり『髑髏』とは、生命喪失の恐怖を疑似体験させるために造られた幻覚剤だ。その効果は絶大で、もう一度『髑髏』を打つぞと脅すと全ての被疑者が口を割った。まさに予想通りの結果だった。人間が最も恐れ、忌み嫌うのが死だ。その死を、それも絶命する瞬間を繰り返し体験すれば、どんなに図太い奴でも必ず精神に異常をきたす。この責め苦に耐えられる人間はこの世に存在しない」松本少佐は僅かに口元を緩めた。初めて見せた笑みだった。「『髑髏』は拷問の世界に革命を起こした。もはや我々の尋問に対し嘘や黙秘は一切通用しない。まさに百点満点、と言いたいところだが、残念ながら人工物に完璧《かんぺき》なものは存在しない。御多分に漏れず多少の問題は抱えている。それが強い副作用だ。『髑髏』体験者の約七割から感情の起伏が消えた。つまり喜怒哀楽というものを全く感じなくなった。未だに原因不明で治療法も見つかっていない。開発した教授の話では、ごく稀《まれ》に記憶障害が同時に起きて過去を思い出せなくなる場合もあるらしい。まあ、『髑髏』を使用するのは非国民か凶悪犯に限られているから、罪悪感は全く感じないがね」 松本少佐は手にした注射器の活塞《かつそく》を指で軽く押した。注射針の先端から少量の薬液が勢い良く飛び出した。「説明はこれで終わりだ。『髑髏』がどういうものか大体分かってもらえたと思う。どうだ、心の準備はできたか?」 松本少佐は穏やかな口調で言った。 清美は無言のまま大尉が持つ注射器を凝視した。硝子《ガラス》の円筒の中に詰まった黄色い薬液が妙に毒々しく見えた。あれが自分の体内に入り、脳を侵すのかと思うと不快な気分になったが、恐怖は湧いてこなかった。少佐の話は酷《ひど》く大袈裟《おおげさ》なものに聞こえた。あまりにも現実離れしていて実感が湧いてこなかった。死を疑似体験するといっても所詮《しよせん》夢を見るようなものであり、そんなことぐらいで自分が口を割るとは思えなかった。「では、そろそろあちらの世界に出発してもらおう」松本少佐が歩み寄り清美の傍らに立った。「意識が錯乱するのは十五分ほどだが、体験者はみな七、八時間が経過したような錯覚を起こす。その間に誰にどうやって殺されるかは人によって異なる。今までに二十代から四十代の女が五人、恐怖のあまり心臓麻痺《まひ》を起こして死にかけた。率直に言うが完全な命の保証はできない。もしお前が途中で死んだら運が悪かったと思って諦《あきら》めてくれ」 松本少佐は冗談とも本気ともつかぬ口調でそう告げると、清美の左肩に無造作に注射針を突き立てた。痛みは殆《ほとん》ど感じなかった。活塞が押されると、薬液が血管を通って体内に広がっていくのが分かった。 不意に清美は眩暈《めまい》を覚えた。頭の中がひやりと冷たくなり、全身から急速に力が抜けた。強い眠気が湧き起こり、目の前に黒い霧のようなものが現れた。それはたちまち濃さを増し視界を闇で満たした。立ち眩《くら》みに似ている、と思いながら清美は『髑髏』の世界に落ちていった。 気づいた時、清美は半袖《そで》のセーラー服を着て中学校の長い廊下に立っていた。 校内は薄暗かった。天井には五メートル間隔で二十燭光《しよつこう》の電球が下がり、乳白色の硝子の中で黄色い光がぼんやりと光っていた。窓の外にはどろりとした濃厚な闇が広がっていて、今が真夜中だということが分かった。 清美の前には縦一列になって女子生徒が並んでいた。人数は三十人ほどで全員が清美と同じ半袖のセーラー服を着ていた。列の先頭は保健室の前まで続いていた。後ろを振り向くとさらに二十人近い女子生徒が並んでいた。生徒達は顔を伏せたまま、決して清美と目を合わそうとはしなかった。 廊下はしんと静まり返っていた。誰一人口を利く者はいなかった。列は三十秒ほどの間隔で一歩ずつ前に進んでいた。先頭の者は保健室の前に来ると一礼し、「失礼します」と言わずに無言で中に入っていった。室内で何が行われているのかは分からなかったが、抜き打ちの持ち物検査か、それに類することではないかと清美は思った。 列は等間隔で滞りなく進み続けた。 やがて清美の番になった。 清美は保健室の前で一礼すると、他の生徒達と同様に無言でドアを開けて中に入った。 白い蛍光灯が灯《とも》る部屋の中央に三人の男が立っていた。みな白衣を着てゴム製の防毒面を付け、左腕に赤い腕章をしていた。腕章にはそれぞれ違う漢数字が書かれていた。右側の男は「弐」だった。外国製の十六ミリカメラを持っていた。真ん中の男は「壱」だった。白い指揮棒を持っていた。左側の男は「参」だった。オープンリールのテープレコーダーを抱えていた。 弐番の男がおもむろにレンズを清美に向け、把手《とつて》についたボタンを押して撮影を開始した。フイルムが回るシャカシャカという乾いた音が響いた。「踏め」 壱番の男が自分の足元を指揮棒で指した。防毒面を付けているため声がくぐもっていた。指揮棒の指す先を見ると、床の上に硯《すずり》ほどの大きさの銅版が置いてあった。清美は近づいて目をこらした。銅版にはX形の十字架に磔《はりつけ》になった、痩《や》せた裸の男の絵が彫られていた。 清美は息を飲んだ。 それは政府が信仰を禁じ徹底的に弾圧しているマーテル教の開祖、セントアンデレの踏み絵だった。そして清美の家族は四人全員が狂信的なマーテル教の信徒だった。清美は三歳の誕生日から一日四度の祈りを欠かしたことが無く、密《ひそ》かにドロローサという浄化名も授けられていた。絶対に踏めないものだった。「踏め」 壱番の男が再び指揮棒で踏み絵を指した。清美は無言で立ち尽くした。この危機にどう対処すればいいのか分からなかった。壱番の男が参番の男を見た。参番の男は頷《うなず》いてテープレコーダーの点滅器《スイツチ》を入れた。すぐに老人の嗄《しわが》れた歌声が流れてきた。 ふめふめふまぬかいちごろし ふめふめふまぬかにいごろし ふまぬとこわいぞとおせんぼ ふまぬとこわいぞひきまわし おにがでるぞじゃがでるぞ くさりにまかれてちがでるぞ ふめふめふまぬかさんごろし ふめふめふまぬかよんごろし ふまぬとこわいぞしろまんと ふまぬとこわいぞべにじゅうじ おにがくるぞじゃがくるぞ くさりにうたれてちがでるぞ 読経《どきよう》に似た独特の節を保ったまま、老人は同じ歌詞を何度も何度も歌い続けた。それは極めて不快な声だった。耳の中にざらついた砂を注がれているような気分になった。清美は眉《まゆ》をひそめ両手を強く握り締めた。すぐにでも耳を塞《ふさ》ぎたかったが、そうすれば殴られるような気がして我慢した。老人の歌がちょうど二十回繰り返されたところで、壱番の男が指揮棒を左右に振った。参番の男がテープレコーダーの点滅器を切った。歌声が止まり、清美は大きく息を吐いた。「踏め」 壱番の男が三度《みたび》指揮棒で踏み絵を指した。清美は下唇を噛《か》んだ。多分これが最後の命令だった。この命令を拒否すればどうなるかは分かっていた。しかしそれでもセントアンデレに対する信仰心は揺るがなかった。誇り高きマーテル教徒として踏み絵は死んでも踏めなかった。清美は壱番の男を見ると、勇気を振り絞って大きく頭を左右に振った。弐番の男が驚いたような声を上げ、カメラを廻《まわ》しながら清美に近づいてきた。清美はそのレンズを睨《にら》みつけた。「お前は右のドアだ」 壱番の男が後方の壁を指揮棒で指した。そこにはいつの間にか二つの鉄のドアが付いていた。左側のドアには白ペンキで「出」と書かれ、右側のドアには赤ペンキで「X」と書かれていた。「X」はマーテル教、及びマーテル教徒を示す記号だった。踏み絵を踏んだ者は左のドアから退室したようだった。 清美は無言で歩きだした。その後を弐番の男がカメラを回しながらついてきた。「小便をしたくないか? 怖くて怖くて小便をしたくないか?」 男が楽しそうな口調で訊《き》いてきた。清美は質問を無視して「X」と書かれた右側のドアを開けた。中は座敷になっていた。茶の間風の八畳間の畳の上に、六人の女子生徒が寄り添うように正座していた。みな胸の前で両手を組み、アンデレ経典を小声で唱えていた。清美はこの中学にこれほど多くのマーテル教徒がいたことを知り驚いた。一体誰なのかと一人一人の顔を見てみたが全員面識のない生徒だった。 清美は上履きを脱ごうとして足に目をやった。そこで初めて自分が裸足《はだし》だということを知った。途端に足の裏にコンクリートの床の冷たさを感じた。清美は座敷に入り、後ろ手にドアを閉めた。 室内は殺風景だった。 正面の床の間に掛けられた牡丹《ぼたん》の掛け軸、右側の地袋の上で室内を淡く照らす有明行灯《あんどん》、保健室と繋《つな》がるドアの左側に置かれた桐の箪笥《たんす》。この三点が座敷の中にあるものの全てだった。休憩用の座椅子も仮眠用の布団も備えられておらず、一体何のために使われる部屋なのかさっぱり分からなかった。 清美は六人の生徒達とは少し離れた場所に正座した。同じマーテル教徒だったが初対面のため声をかけづらかった。清美は微《かす》かに聞こえてくるアンデレ経典を聞きながら視線をドアに向け、その周囲を見るともなしに見た。ふと、動くものが視界の隅に入った。黒くて小さなものだった。ドアの右手の壁際をこちらに向かって進んでいた。清美は目を凝らした。 雄のカブトムシだった。 何かに襲われたらしく背中の翅《はね》が根元から千切れ、赤黒い蛇腹状の腹部が剥《む》き出しになっていた。その腹部を盛んに伸縮させながらカブトムシはドアの前を横切り、桐の箪笥と壁の間にできた五センチほどの隙間に入っていった。同時に音が聞こえてきた。低いざわめきのような、それでいて妙に立体感のある音だった。清美の好奇心が頭をもたげた。一体何の音なのか確かめてみたくなった。清美はそっと立ち上がると桐の箪笥に近づき、後ろの隙間を覗《のぞ》き込んだ。箪笥の裏で黒くて大きなものが波打つように動いていた。 カブトムシだった。 夥《おびただ》しい数のカブトムシが壁一面に張り付き、一斉に翅を震わせていた。清美は呻《うめ》いて後ずさった。カブトムシの巨大な巣だった。こんなものが座敷にありながら、なぜ今まで放置されてきたのか不思議でならなかった。 隙間から何かが放り出された。畳に転がったのはつい先程中に入った、あの翅の千切れたカブトムシだった。仰《あお》向けになったそれは小さくなっていた。清美は再び目を凝らした。頭部がすぱっと切断されていた。「掟《おきて》よ」 背後で声がした。振り返るとさっきまで経典を唱えていた六人の女子生徒が青ざめた顔で立っていた。「翅を失ったカブトムシは他の奴らの足手まといになる。だから頭を切られて巣から捨てられる。使えない奴は生かしておかない。それが虫の世界の掟なの」 頭にカチューシャをつけた女子生徒が囁《ささや》いた。その言葉に呼応するかのように羽音が一層高まった。「ねえ、あれ見てっ」 隣の三つ編みの女子生徒が、怯《おび》えた顔で箪笥の下を指さした。仰向けだったカブトムシの胴体がいつの間にか起きていた。それは剥き出しの腹部を伸縮させながら、残った四本の足で畳の上を這《は》っていた。 カチューシャの女子生徒が悲鳴を上げた。その声にカブトムシの胴体が反応した。素早くこちらを向き、頭部の切断面から黄色い液体を噴射した。液体は清美の頬を掠《かす》め、カチューシャの女子生徒の左眼に命中した。女子生徒は崩れ落ちるようにその場に倒れた。失神したように見えた。黄色く染まった彼女の目蓋《まぶた》が見る間に溶けていった。「毒よっ」 誰かが震える声で叫んだ。生徒達が慌てて逃げ出した。清美も逃げようとしたが足がもつれて転倒した。膝《ひざ》から下が激しく痺《しび》れていた。黄色い液体が頬を掠めた時毒が入ったのだと思った。「お願い、助けてっ!」 清美は床の間の隅に避難した生徒達に叫んだ。その声にカブトムシの胴体が反応した。凄《すご》い速さで近づいてくると目の前で止まり、頭部の切断面をさっと清美の顔に向けた。清美は悲鳴を上げ咄嗟《とつさ》に手で払い除《の》けた。胴体は宙を飛び壁に当たってあっさりと潰《つぶ》れた。同時に箪笥の裏から響いていた不気味な羽音がぴたりと止まった。清美は畳の上に落ちた、平たく変形したカブトムシの死骸《しがい》を呆然《ぼうぜん》と見つめた。 突然鉄のドアが開いた。壱番の男が立っていた。女子生徒全員に対する踏み絵が終ったようだった。「部屋から出ろっ」 男は指揮棒を大きく振って叫んだ。床の間にいた五人の生徒は駆け足で座敷から出ていった。「何してる、お前も早く出ろ」 男は指揮棒で清美を指した。「カブトムシの毒で立てないんです」 清美は倒れたまま涙ぐんだ声で言った。「虫の毒ぐらいでだらしのない奴だ。もう一人のほうはくたばったらしいな」 男は目蓋と眼球が完全に溶け、左の眼窩《がんか》が露出したカチューシャの生徒を見て言った。毒が全身に回ったらしく倒れたまま微動だにしなかった。「まったく面倒をかけやがる」 男は土足で座敷に入ってくると清美の髪を鷲掴《わしづか》みにし、そのまま強引にドアの外へ引きずり出した。 保健室では弐番の男が十六ミリカメラで生徒達を撮影していた。フィルムが回るシャカシャカという乾いた音が辺りに響いていた。弐番の男は清美を見るとレンズを向けて近づいてきた。「腹が痛くないか? 怖くて怖くて腹が痛くないか?」 弐番の男が楽しそうな口調で訊いてきた。清美は質問を無視して上体を起こした。両足の痺れは残っていたが、いつまでも寝ているわけにはいかなかった。清美は傍らの壁に右手をつくとしゃがんだ状態になり、そのままゆっくりと左右の膝関節を伸ばして立ち上がった。ふくらはぎの筋肉が震え数回よろめいたが、何とか踏ん張って持ちこたえた。「仔馬《こうま》のようだぞ、生まれたての仔馬のようだぞ」 弐番の男はローアングルでカメラを回した。「よしお前ら、ここに横一列に並べっ」 壱番の男が大声を上げた。隣には参番の男も立っていた。生徒達は急いで男達の前に整列した。清美も列の左端に立った。「今晩行った踏み絵の結果、お前ら七人のみが銅版を踏まなかった。よってお前ら全員をマーテル教徒とみなし、法に基づいて処分する。先程中毒死した一名を除く六人全員を鬼裂鉄刑に処すっ。場所は紅十字脳病院処刑場、日時は本日午前八時とするっ」 壱番の男はそう叫ぶと清美達の顔を見回した。防毒面の眼鏡越しに見える目は喜気に満ちていた。マーテル教徒を弾圧できるのが嬉《うれ》しくて堪《たま》らないようだった。 清美は処刑宣告を受けても全く動じなかった。踏み絵を拒否すれば死罪になるのは周知のことであり、分かりきったことを再確認しただけのことだった。マーテル教徒である以上、いつ処刑されてもいいだけの覚悟はできていた。それは他の五人も同じらしく取り乱す者は誰一人いなかった。「ではこれからお前達に最後の慈悲を与えるため、スカラ座まで移動する。一列縦隊になってついてこいっ」 参番の男が叫び保健室のドアを開けて出ていった。生徒達は素早く縦一列になり男の後に従った。清美はその最後尾についた。いつの間にか夜が明けており、廊下の窓の外には朝日で山吹色に光る東の空が広がっていた。男は歩きながらテープレコーダーの点滅器《スイツチ》を入れた。陸軍の第二番行進曲が大音量で流れ、静まり返った校内に響き渡った。男は背筋をぴんと伸ばし、そのリズムに合わせて膝を交互に高く上げながら進んだ。廊下は異様なまでに長く、緩やかな登り坂や下り坂が至る所にあった。歩き続けていくと廊下のリノリウムが途切れ、茶色い土が剥《む》き出しになった。所々に水溜《た》まりがあり、周囲に背の低い雑草が生えていた。水面には小さな蛙がいて、脇を通る度に足音に驚いて大きく飛び跳ねた。 映画館『スカラ座』は校舎一階の東端にあった。男は入り口の前まで来ると、テープレコーダーの点滅器を切り音楽を止めた。蛍光灯の灯《とも》った飾り窓には上映している映画のポスターが貼られていた。『地底怪人X』という題名で、血まみれのどぎつい死体の絵が描かれていた。男は入場券売り場の小窓に数枚の紙幣を押し込み中に入った。清美達はその後に続いた。 館内は中学校の体育館とほぼ同じ大きさだった。二十度程に傾斜したコンクリートの床は階段状になっており、そこに白いカバーの付いた座席が整然と並んでいた。早朝のためか他に客はおらず、清美達は一番後ろの座席に一列に座った。清美は右から二番目で、右端が参番の男だった。客席を見下ろすと中段の真ん中に長方形の小さな空間があり、新しい青い畳が二畳敷かれていた。畳の上にはダイヤル式の黒電話が載った卓袱《ちやぶ》台《だい》と、紫色の大きな座布団が置かれていた。 ほどなく映画の上映開始を告げるブザーが鳴り場内が暗くなった。正面のスクリーンには『地底怪人X』というタイトルに続き、寂れた神社の境内が映った。闇の中、朽ち果てた小さな神殿の前に一人の女が立っていた。白い狐の面を被《かぶ》った女は全裸で、右手に出刃包丁を握っていた。小さくて張りのある乳房や薄い陰毛で、まだ十代の少女だということが分かった。 少女の前方の地面にはマンホールがあった。丸い鉄製の蓋《ふた》は半分以上開いており、中から淡い光が漏れていた。少女は足早に歩いていくとしゃがみ込み、マンホールの中に右足を入れた。中には垂直に伸びる鉄の梯子《はしご》が設置されていた。十メートル以上の長さがあった。しかし少女は臆《おく》することなくするすると梯子を下りていった。階下には四畳半ほどの四角い空間があった。壁と天井はコンクリートで固められ、床は赤煉瓦《れんが》が敷き詰められていた。正面の壁には鉄製のドアが付いており、その上部に灯《ひ》の灯った石油ランプが掛けられていた。少女は近づきドアに耳を押し当てた。中から男女の笑い声が聞こえた。狐の面でその表情は見えなかったが、なぜか彼女が激昂《げつこう》しているのが分かった。少女が荒々しくドアを開けた。室内は六畳の和室だった。中央に置かれた炬燵《こたつ》に、綿入れ羽織を着た奇妙な人間が当たっていた。胴体は一つだったが頭部が二つあった。右が男で左が女だった。二人とも二十歳前後の若者だった。男は少女を見て驚きの声を上げ、女が耳障りな悲鳴を上げた。少女は包丁を振りかざして突進し、切っ先をその左胸に突き刺した。二人が同時に呻《うめ》き声を上げた。少女が包丁を引き抜くと左胸から無数の蠅が飛び出した。双頭の人間が畳の上に倒れた。男も女も血を吐いて絶命していた。「裏切り者……」 蠅の大群が乱舞する中、狐の面の少女が呟《つぶや》いた。 スクリーンには再び夜の神社の境内が映った。朽ち果てた神殿の前に、白い狐の面を被った全裸の少女が立っていた。少女の前方の地面には蓋の開いたマンホールがあった。少女は足早に歩いていくとしゃがみ込み、中に右足を入れた。清美はそこで映画が最初に戻ったことに気付いた。その後の展開は勿論《もちろん》同じだった。マンホールの下に男女の頭部を持つ奇妙な人間がおり、少女に胸を刺され死ぬだけだった。 二回目が終るとまた冒頭の神社のシーンに戻り映画が始まった。それは三回目が終っても四回目が終っても同じだった。『地底怪人X』は繰り返し繰り返し上映された。清美は七回目までは何とか我慢して観ていたが、いつしか強い睡魔に襲われ自分でも気づかぬうちに眠り込んだ。 清美はけたたましい電話のベルで目を覚ました。客席の中に置かれた卓袱台の上で黒電話が鳴っていた。清美は自分がどれだけ寝ていたのかが分からなかった。五分のようにも二時間のようにも思えたが、スクリーンではまだ『地底怪人X』を上映していた。隣の参番の男が立ち上がり、テープレコーダーを座席に置いて傍らの階段を下りていった。男は畳の上の座布団に座って受話器を取り、背筋をぴんと伸ばして話し出した。会話は一分ほど続いたが、やがて大きく三回頷《うなず》くと受話器を置いて階段を駆け上がってきた。「映画鑑賞は終わりだ。これからお前達を紅十字脳病院まで連行する。全員すみやかに映画館から出ろ」 男は叫ぶと座席に置いたテープレコーダーを素早く両手で抱えた。* 保健室に戻った清美達は頭巾《ずきん》のついた白い外套《がいとう》を着せられた。その背中にはマーテル教徒を示す『X』の記号が、赤いペンキで大きく書かれていた。処刑用の正装をした五人の女子生徒と清美は縦一列に整列し、再び参番の男に先導されて保健室を後にした。清美は前から四番目だった。今度は後端に壱番の男が付き、右横に弐番の男が付いた。一行は校舎の北側にある昇降口を通り、正面の校門から住宅街の細い道に出た。三人の男は黒い編み上げ靴を履いていたが生徒は全員裸足《はだし》だった。路上に散らばる微細な小石が足の裏を突き、清美は痛みに顔をしかめた。先頭の参番の男がテープレコーダーの点滅器を入れた。陸軍の第五番行進曲が大音量で通りに響き渡った。それはマーテル教徒を刑場に連行する際必ず流す曲で、すぐに沿道の家々からぞろぞろと人が出てきた。 一行は十分ほどかけて住宅街の道を抜け、商店が立ち並ぶ町の目抜き通りに入った。その頃にはすでに百人を超える見物人が集まり、清美達の周囲を取り囲んで同じ歩調で歩いていた。見物人には大人に混じって多くの子供の姿があった。子供達はみな拳《こぶし》を振り上げながら「マーテル野郎」「馬鹿アンデレ」「インチキ宗教」などと罵声《ばせい》を浴びせてきた。中には唾《つば》を吐きかけてきたり足を蹴《け》ってきたりする子供もいた。清美は頭巾を深く被って顔を伏せ、誰とも目を合わせないようにして歩いた。 目抜き通りは南北に一キロほど続いていた。清美達は南側の端から通りに入り北側の端までゆっくりと進んだ。突き当たりは丁字路になっており、その道を挟んだ真正面に紅十字脳病院があった。五階建ての大きな横長のビルの屋上には、高さが三メートルはある巨大な十字形の立体看板が立っていた。看板は鮮やかな紅色のアクリル硝子《ガラス》でできており、夜になって電気が灯ったら綺麗《きれい》だろうなと清美は思った。 一行は道路を渡り、病院の正門から敷地の中に入った。百人を超える見物人も一緒だった。病棟の前には百坪近くある広い円形の広場があった。周囲を高さ二メートル程の金網で囲まれたその中央には、一本のX形をした十字架が立っていた。大人一人を磔《はりつけ》にするのに充分な大きさだったが、なぜ六本ではなく一本なのかが分からなかった。 広場の片隅には蕎麦《そば》屋の屋台がとまっていた。白い暖簾《のれん》越しに見える屋台の中では、坊主頭の老人がズンドウで麺《めん》を茹《ゆ》でていた。処刑前の罪人には必ず蕎麦を恵与すべし、という法律があったことを清美は思い出した。 先頭の参番の男は、金網の出入り口に付いた鉄の扉の前で立ち止まった。扉には錆《さ》びついた南京錠が掛けてあった。参番の男はテープレコーダーの点滅器《スイツチ》を切った。大音量で流れていた行進曲が途切れ急に辺りが静まり返った。すぐに若い看護婦が駆け寄ってくると、大きな黒い鍵《かぎ》で南京錠を外し鉄の扉を開けた。参番の男に伴われて清美達は円形の広場の中に入った。その後に壱番の男と弐番の男が続いた。広場の地面は土だったがよく手入れされており、草一本生えていなかった。またローラーで地ならしをしているらしく競技場のように真っ平らだった。壱番の男が歩いてくると参番の男の隣に立った。「これから末期の蕎麦を食べる。汁一滴残すんじゃないぞっ」 壱番の男は叫び、広場の片隅の屋台に向かい歩きだした。清美達はその後に無言で付き従った。弐番の男が十六ミリカメラで撮影を始めた。フィルムが回るシャカシャカという乾いた音が辺りに響いた。「喉《のど》が渇かないか? 怖くて怖くて喉が渇かないか?」 弐番の男は楽しそうな口調で訊《き》きながら清美達についてきた。清美は男の質問を無視して顔を伏せた。 屋台の周囲には香ばしい醤油《しようゆ》の匂いが漂っていた。掲げられた白い暖簾には『そば処うんけい』と墨で書かれ、その下には背もたれの無い丸椅子が六つ並べられていた。「いらっしゃい」 調理場に立つ老人がこちらを一瞥《いちべつ》した。清美達はそろそろと遠慮がちに椅子に座った。老人は湯気の立つどんぶりを一人一人の前に置いていった。刻んだ葱《ねぎ》が少量乗っただけの簡素な蕎麦だった。「よし、喰《く》っていいぞっ」 壱番の男が指揮棒を顔の前で振った。清美は箸《はし》立てから箸を取ると蕎麦を摘《つ》まんで啜《すす》った。全く期待していなかったが、それは美味だった。汁は鰹節《かつおぶし》のだしが良く出ていてまろやかであり、麺にはしっかりとした粘りと弾力があった。金を払って食べてもいい位の出来映えだった。清美はゆっくりと咀嚼《そしやく》しながらその旨さを充分に味わった。他の生徒達も清美と同様らしくみな夢中で蕎麦を啜っていた。 三分も経たぬうちに全員がどんぶりを空にした。誰一人として汁一滴残さなかった。「完食しやがった、どいつもこいつも完食しやがった」 弐番の男が呆《あき》れたように言いながら、六つのどんぶりの中を右から順に撮影していった。「それではこれよりお前達六名を、ここ紅十字脳病院処刑場にて鬼裂鉄刑に処すっ」 壱番の男が叫んだ。その声は弾んでいた。防毒面で顔は見えなかったが笑っているのが分かった。「全員今すぐ十字架の前に並べっ!」 壱番の男が指揮棒を振り上げた。清美達は慌てて立ち上がり駆け出した。 広場の中央にはすでに参番の男が立っていた。六人はX形の十字架の前に横一列に並んだ。清美は右から二番目だった。広場を囲む金網にはびっしりと見物人が群がっていた。その数はいつの間にか行進していた時の倍以上に増えていた。また正面の五階建ての病棟の殆どの窓が開けられ、無数の人が鈴なりになっていた。それらは入院患者や看護婦や医者達で、みなにやにやと薄笑いを浮かべていた。

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