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森見登美彦 - 四叠半神话大系-8

作者:森見登美彦 字数:26050 更新:2023-10-09 23:39:10

私は振り返った。混沌《こんとん》とした我が四畳半がそこにある。ところが目前で半開きになったドアの向こうにも混沌とした我が四畳半がある。鏡に映った自分の部屋を見ているようである。 私はドアの隙間を抜けて、隣の四畳半へ踏みこんだ。そこは間違いなく私の部屋である。ごろんと横になったときの畳の感触、雑多な書籍がならんでいる書棚、壊れかけのテレビ、小学生の頃から使っている学習机、埃《ほこり》の積もった流し台、生活感|溢《あふ》れる光景である。 ドアをくぐって自室へ戻ったが、そこも私の部屋には違いない。長年の修行の末、心胆を練り、些細《ささい》なことには動揺しなくなった私も動揺した。何という怪現象、私の四畳半が二つになった。 ドアから出られないのであれば、窓を開けるしかない。 私はこのところずっと閉め切ってあったカーテンを開いたが、曇《くもり》硝子《ガラス》の向こう側には蛍光灯の明かりが輝いている。がらりと窓を開けた私は、自分の四畳半を覗《のぞ》きこんでいた。窓枠を踏み越えて中に入り、仔細《しさい》に調べてみたものの、そこは私の部屋だった。 もとの四畳半へ戻った。 私は煙草を吸って落ち着こうとした。 およそ八十日間にもおよぶ私の四畳半世界探検は、かくして始まったのである。       ○ これからの冒険は、基本的にほぼ同一の四畳半の中で行われる。したがって、その冒険について語る前に、私の四畳半について読者に明確なイメージをもっていただきたい。 まず北側に赤ちゃん用ウエハースのように薄っぺらなドアがある。ドアには先住民の痕跡《こんせき》たる猥褻なシールなどが貼《は》りつけてあり、きわめて賑やかである。 ドアから入ったわきに汚れ放題の流し台があり、埃をかぶった整髪料の缶や電熱器やあらゆるガラクタが積もっている。料理人のやる気を損なうこと請け合いである。こんな荒涼とした台所で料理の腕を振るうことを私は断固拒否し、「男子|厨房《ちゆうぼう》に入らず」を実践してきた。 北側の壁の大半は押入となっており、華やかさのかけらもない衣類、読まなかった本、捨てるに忍びない書類、冬将軍を追い払うために用いる電気ヒーターなどが無造作に詰めこまれている。猥褻図書館もその中にある。 東側の壁は、大半が本棚である。本棚のわきに掃除機と炊飯器が置いてあるが、どちらも強いて使う必要性を感じない。 南側には窓があって、その手前に小学校時代から愛用している学習机が置いてある。机の引き出しは滅多に開けないから、中がどうなっているのか忘れてしまった。 東側の本棚と学習机の狭間には当四畳半において行き場を失ったあらゆるガラクタが投げこまれる空間が広がっており、そこへ送られることは一般に「シベリア流刑」と言われる。いずれその混沌たる空間の全容を把握しなければならないと考えていたけれども、あまりに恐ろしくて手が出せずにいた。ひとたび迷いこんだが最後、生きて帰る可能性はきわめて低いからである。 西側には壊れたテレビ、小さな冷蔵庫が置かれている。 そして北側に戻る。 一周わずか数秒の空間であるが、今やこの四畳半は私の脳味噌《のうみそ》も同然であった。       ○ そもそもなぜ四畳半であるか。 私は三畳の部屋に住んでいる人間を一人だけ知っていたが、私を上回る孤高の学生であって、大学には行かずに『存在と時間』をひたすら読み耽《ふけ》り、性|狷介《けんかい》にして自ら恃《たの》むところすこぶる厚く、その断固として世に迎合しない性質が嵩《こう》じて、昨年、郷里から親が迎えに来た。 二畳の部屋というのもこの京都には確かに存在するという。いささか信じがたいことだが、浄土寺の近くには、畳を二枚、縦にならべた部屋というものも実在するらしいのである。そんな廊下みたいなところで毎晩寝ていたら、身長が伸びるに違いない。 そして巷間《こうかん》に伝わる恐ろしい噂によれば、北白川バプテスト病院|界隈《かいわい》の○○荘には一畳の部屋というものがあったのを確かに見た学生がおり、その学生は数日後に謎めいた失踪《しつそう》を遂げ、その知人たちも、数々の悲運に見舞われたという。 そこで四畳半だ。 一畳や二畳や三畳に比べて、四畳半というものはじつに綺麗《きれい》にまとまっている。畳を三枚平行にならべ、それに垂直になるようにもう一枚をならべる。残る隙間へ半畳を入れて、すっきりとした正方形が完成する。美しいではないか。二畳でも正方形になるけれども、それでは手狭である。かといって四畳半より広い面積で正方形を作ると、こんどは武田信玄《たけだしんげん》の便所のように広くて、へたをすれば遭難する。 大学入学以来、私は四畳半を断固として支持して来た。 七畳やら八畳やら十畳やらの部屋に住む人間は、本当にそれだけの空間を我が物として支配するに足る人間なのであろうか。部屋の隅々まで、己の掌《てのひら》のごとく把握できているのか。空間を支配することには責任が伴う。我々人類に支配可能なのは、四畳半以下の空間であり、それ以上の広さを貪欲《どんよく》に求める不届き者たちは、いずれ部屋の隅から恐るべき反逆にあうことであろう―そう私は主張してきた。       ○ 四畳半世界探検が始まったが、私は性急に行動に出ることを潔しとしない。私は綿密に物事を分析して分析して分析し尽くした挙げ句、おもむろに万全の対策を取る。むしろ万全の対策が手遅れになるほど分析する人間である。 もとの四畳半に戻った私は、自分が今なすべきことについて思いを巡らせた。 立派な人間というものは、いかなる状況下であっても決して動じることなく、冷静に思考しなければならない。冷静に考えた末、私は二週間前に小津が置いていった麦酒《ビール》の空き瓶を使用することにした。その中へ排尿を済ませると、私は落ち着きを取り戻した。 慌てたところで埒《らち》があかない。名ばかりの三回生になってこの方、私の生活の大半はこの空間で行われていた。これまで熱心に出ようとしなかったものを、今さら慌てて出ようとするのはいかにも人間の底が浅いではないか。今そこに危機が迫っていないかぎり、私のような人間が行動に出る必要はない。腰を据えてドッシリかまえているうちに、事態は自ずから好転するであろう。 私はそう決めた。そうして、悠々とジュールヴェルヌ『海底二万海里』を紐解《ひもと》き、遠い海底世界へと思いを馳《は》せた。やがてそれに飽きたら、猥褻図書館の収蔵品を一瞥《いちべつ》し、適当なものを取り上げて、官能の世界へ思いを馳せた。ひたすら馳せた。馳せているうちに疲労を覚えた。 テレビを点《つ》けることを思い立ったが、実際のところ、テレビは以前から調子が悪かった。画面が台風の中にある風車のように廻《まわ》るので、そうとうの動体視力がなければ何が映っているのか判然としない。しばらく睨《にら》んでいたら酔ってしまった。こんな羽目になることが分かっていればテレビを修理しておくべきであった。 やがて時計の針がひと回りした。魚肉ハンバーグのかけらを焼いて食べてしまうと、あとはカステラが残っているばかりである。大根のかけらも残っていたが、それにはとりあえず手をつけなかった。寝る前にもう一度確認したが、やはり窓の外もドアの外も四畳半であった。明かりを消して布団に横になり、天井を睨んだ。なにゆえこのような世界に迷いこんだのか。 私は一つの仮説を立てた。「木屋町の占い師の呪い」仮説である。       ○ 数日前、気散じに河原町へ出かけた。古書店「峨眉書房」を覗いたりしたあと、私は木屋町をぶらぶら歩いた。そこであの占い師に出会ったのである。 飲み屋や風俗店がならぶ中に、身を細めるようにして暗い民家が建っていた。 その軒下に、白い布をかけた木の台を前にして座る老婆がいた。占い師である。台のへりから吊《つ》り下がっている半紙は、意味不明の漢字の羅列で埋まっている。小さな行燈《あんどん》みたいなものが橙色《だいだいいろ》に輝いて、その明かりに彼女の顔が浮かび上がる。妙な凄《すご》みが漂っていた。道行く人の魂を狙って舌なめずりする妖怪である。ひとたび占いを乞《こ》うたが最後、怪しい老婆の影が常住坐臥《じようじゆうざが》つきまとうようになり、やることなすことすべてがうまくいかず、待ち人は来ず、失《う》せ物は出ず、楽勝科目の単位を落とす、提出直前の卒論が自然発火する、琵琶湖|疏水《そすい》に落ちる、四条通でキャッチセールスに引っかかるなどといった不幸に見舞われる―そんな妄想をたくましくしながら私が凝視しているものだから、やがて相手もこちらに気づいたらしい。夕闇の奥から目を輝かせて私を見た。彼女が発散する妖気に、私はとらえられた。その得体の知れない妖気には説得力があった。私は論理的に考えた。これだけの妖気を無料で垂れ流している人物の占いが当たらないわけがない、と。 この世に生まれて四半世紀になろうとしているが、これまで謙虚に他人の意見に耳を貸したことなど、数えるほどしかない。それゆえに、敢《あ》えて歩かないでもかまわない茨《いばら》の道をことさら選んできた可能性がありはしないか。もっと早くに自分の判断力に見切りをつけていれば、〈福猫飯店〉などという奇怪な組織にからめとられて小突き回された挙げ句四畳半の城へ立て籠もることもなく、性根がラビリンスのように曲がりくねった小津という男と出会うこともなかったろう。良き友や先輩に恵まれ、溢れんばかりの才能を思うさま発揮して文武両道、その当然の帰結として傍らには美しき黒髪の乙女、目前には光り輝く純金製の未来、あわよくば幻の至宝と言われる「薔薇色で有意義なキャンパスライフ」をこの手に握っていたことであろう。私ほどの人間であれば、そういう巡り合わせであったとしても、ちっとも違和感を覚えない。 そうだ。 まだ遅くはない。可及的速やかに客観的な意見を仰ぎ、あり得べき別の人生へと脱出しよう。 私は老婆の妖気に吸い寄せられるように足を踏みだした。「学生さん、何をお聞きになりたいのでしょう」 老婆はもぐもぐと口に綿を含んでいるように喋《しやべ》るので、その口調にはより一層ありがたみが感じられた。「そうですね。なんと言えばいいのでしょうか」 私が言葉に詰まっていると、老婆は微笑んだ。「今のあなたのお顔からいたしますとね、たいへんもどかしいという気持ちが分かりますね。不満というものですね。あなた、自分の才能を生かせていないようにお見受けします。どうも今の環境があなたにはふさわしくないようですね」「ええ、そうなんです。まさにその通りです」「ちょっと見せていただきますよ」 老婆は私の両手を取って、うんうんと頷《うなず》きながら覗きこんでいる。「ふむ。あなたは非常に真面目で才能もおありのようだから」 老婆の慧眼《けいがん》に、私は早くも脱帽した。能ある鷹《たか》は爪を隠すということわざにあるごとく、慎ましく誰にも分からないように隠し通したせいで、ここ数年はもはや自分でも所在が分からなくなっている私の良識と才能を、会って五分もたたないうちに見つけだすとは、やはりただ者ではない。「とにかく好機を逃さないことが肝要でございますね。好機というのは良い機会ということですね、お分かりですか? ただ好機というものはなかなか掴《つか》まえにくいものでしてね、まるで好機のように見えないものが実は好機であることもあれば、まさに好機だと思われたことが後から考えればまったくそうでなかったということもございます。けれどもあなたはその好機を捕らえて、行動に出なくちゃいけません。あなたは長生きはされるようだから、いずれその好機をとらえることができましょう」 その妖気にふさわしい、じつに深遠な言葉である。「そんなにいつまでも待てません。今、その好機をとらえたい。もう少し具体的に教えてもらえませんか」 私が食い下がると、老婆はやや皺《しわ》を歪《ゆが》めた。右頬が痒《かゆ》いのかしらと思ったが、どうやら微笑んだらしい。「具体的には申し上げにくいのですよ。私がここで申し上げましても、それがやがて運命の変転によって好機ではなくなるということもございまして、それではあなたに申し訳ないじゃございませんか。運命は刻々とうつろうものでございますから」「しかし、このままではあまりに漠然としていて困りますよ」 私が首をかしげると、老婆は「ふっふーん」と鼻息を噴きだした。「宜《よろ》しいでしょう。あまり先のことは申さずにおきますが、ごく近々のことでしたら申し上げましょう」 私は耳をダンボのように大きくした。「コロッセオ」 老婆がいきなり囁いた。「コロッセオ? なんですか、そりゃ」「コロッセオが好機の印ということでございますよ。あなたに好機が到来したときには、そこにコロッセオがございます」 老婆は言った。「それは、僕にローマへ行けというわけではないですよね?」 私が訊《たず》ねても、老婆はにやにやするばかりである。「好機がやって来たら逃さないことですよ、あなた。その好機がやって来たときには、漫然と同じことをしていては駄目なのですよ。思い切って、今までとはまったく違うやり方で、それを掴まえてごらんなさい。そうすれば不満はなくなって、あなたは別の道を歩くことができましょう。そこにはまた別の不満があるにしてもね。あなたならよくお分かりでしょうけれども」 まったく分かっていなかったが、私は頷いた。「もしその好機を逃したとしましてもね、心配なさる必要はございませんよ。あなたは立派な方だから、きっといずれは好機をとらえることができましょう。私には分かっておりますよ。焦ることはないのですよ」 そう言って、老婆は占いを締めくくった。「ありがとうございました」 私は頭を下げ、料金を支払った。 そして迷える子羊のように、木屋町の雑踏へと足を踏みだしていた。 この老婆の予言について、よく憶えておいていただきたい。       ○ ひょっとするとこれは彼女の呪いではないか。その恐るべき呪いを解く鍵《かぎ》は、彼女の言った「コロッセオ」という言葉に隠されているかもしれない。その謎を解くまでは決して眠るまいと決意して思案しているうちに私は安らかな眠りについた。 目が覚めると、時計の針は十二時を指していた。 起きあがってカーテンを開いた。 まばゆい白昼の光がさすわけでもなく、深夜の暗闇があるわけでもない。ただ白々とした隣の四畳半の蛍光灯の明かりがある。寝ればなんとかなると思っていたが、目覚めてみても状況は変わらない。ドアを開いてみても、隣の四畳半へ出た。 以下、読者の便宜を図るため、私がもといた四畳半を「四畳半(0)」とする。ドアの向こうにある四畳半を「四畳半(1)」、窓の向こうにある四畳半を「四畳半(-1)」とすることにしよう。 私は四畳半の真ん中に憮然《ぶぜん》とあぐらをかいて、珈琲がごぼごぼ沸く音を聞いた。さすがに腹が減っている。カステラはすでにない。魚肉ハンバーグも食べた。知らぬうちに何か湧いてないかという祈りをこめて冷蔵庫を開いてみても、あるものは大根がひとかけら、醤油《しようゆ》、胡椒《こしよう》、塩、七味唐辛子である。大学生の必需品たるインスタントラーメンすらない。コンビニエンスストアに依存する生活を送っていた報いである。 大根のかけらを茄《ゆ》で、醤油と七味唐辛子で食べた。珈琲をすすって腹を膨らました。 約二日目にして食糧がなくなった。残っているのは珈琲と煙草のみである。これらを優雅に駆使して、いかに飢餓感を遅延させても、いずれはお腹と背中がくっつくであろう。人知れずこの四畳半で餓死し、朽ち果てることになるだろう。 四畳半の隅で頭を抱え、知らぬ存ぜぬの一点張りで押し通そうとしたが、知らぬ存ぜぬでも腹は減る。やむを得ず、私は食糧問題の根本的解決策を練った。       ○ 大学生といえば不潔。不潔といえば茸《きのこ》である。押入の隅に生えてきた茸を食べることはできるだろうかと考えた。しかし、猥褻図書館や段ボールや腐りかけた衣類を引きずりだして押入を漁《あさ》ってみたものの、乾燥していて茸が生えるような環境ではない。汚れた衣類を敷き詰めてその上から水を撒《ま》き、計画的な栽培事業に着手すべきか。しかし、自分の汚い衣類を養分に育った茸を喰ってのうのうと生き延びるぐらいならば、むしろ私は栄光ある空腹を選ぶ。 畳を茄でて喰うということも考えた。男汁がたっぷり染みこんでいるから、栄養はあるかもしれない。しかし、繊維質が多過ぎる。琵琶湖疏水のようにお通じがよくなって死期を早めるのは明らかだ。 先日から天井の隅っこで何が楽しいのか知らぬがじっとしている蛾が一匹いるので、これを動物性タンパク源とすることも考えた。昆虫とは言え、動物である。たとえば山で遭難した際には、毛虫であろうと芋虫であろうとカナブンであろうと、炙《あぶ》って喰う。しかし、あの鱗粉《りんぷん》にまみれてちょっとぶにゅっとした蛾を炙って齧《かじ》るぐらいならば、部屋の隅の埃を舐《な》めていたほうがましである。 自分の身体の余分なところを随時食糧として生き延びるのならば壮絶なサバイバルになるだろうが、私はことごとく無駄を排除した肉体で生きる燃費の良い人間だから、余分なところは耳たぶぐらいだ。雀の丸焼きのように骨ばっかりで、とうてい喰えない男なのである。「あいつは自分の耳たぶを喰って生き延びたんだぜ」と後ろ指をさされるのはごめんである。 テレビと机の間を漁ってみて、私は埃の積もったウヰスキーの瓶を引っ張りだした。今から半年ほど前、小津と一緒に酒盛りをしたときに買ったもので、そのあまりの不味《まず》さに半分残したままずっと飲まずにいたものだ。食糧不足の昨今、いかに安物とはいえ、ウヰスキーも貴重な栄養源である。ほかにも押入の薬箱から、使用期限の切れたビタミン剤を見つけた。 栽培茸、畳、蛾、耳たぶなどを食べることを潔しとしない以上、ウヰスキー、ビタミン剤、珈琲、煙草のみで生き延びるしかない。無人の四畳半に流れ着いたロビンソンクルーソーである。彼の場合は銃もあり、狩りもできたが、私の場合はふらふらと天井をさまよう蛾を掴まえるぐらいが関の山だ。しかしながら、私の場合、水は蛇口から出るし、家具一式も揃っており、猛獣に襲われる心配はない。サバイバルなのかサバイバルでないのか、じつに曖昧《あいまい》だ。 その日はふたたび『海底二万海里』を悠々と読み、どこかで私を見つめている残酷な神に敢《あ》えて挑戦するかのように傲然《ごうぜん》と過ごした。太陽の光が見られないから、今が昼なのか夜なのか分からない。だから一日一日と区切ってはいても、それが正確な区切りである保証もない。 カーテンを閉めてドアを閉じれば普段通りの景色だから、今にも小津がドアを蹴り破って、厄介な揉《も》め事を持ちこんできそうだ。不幸中の幸いと言うべきは、二週間前に歯医者で親不知を抜いておいたことである。さもなくば激痛に耐え得ず、この四畳半を歯医者を求めて駆けずり回り、ついには悶絶死《もんぜつし》していたであろう。 御蔭通の窪塚歯科医院で抜いてもらった親不知は、今も机の上にうやうやしく飾ってある。       ○ 四月の終わり頃から顎《あご》が痛み、夜寝ることもままならなくなってきた。 顎《がく》関節症ではないかと個人的に診断を下した。顎関節症はストレスによって引き起こされるという。私のごとくタンポポの綿毛のように繊細で、かつ叡山の学僧のように身を削って思索に耽っている人間であれば、むしろ今まで顎関節症にならなかった方が妙である。なって然《しか》るべきである。そう分かっただけで私は深い満足感に浸され、これはむしろ選ばれし者が甘受せねばならない試練なのだと、四畳半でのたうちながら恍惚《こうこつ》となった。「あなたがストレスを感じているわけがない。そんなこと僕は信じません」 小津は変態を見るような目つきをした。「組織も辞めてのんべんだらりとしてるくせに」 確かに表面上は何もしていないように見えていても、報われない思索に日々精を出して自分を追いこんでいる私は、日々激烈なストレスに晒《さら》されているといえるのだと私は主張した。この顎関節症は明らかに苦しい思索の証である。「それ、きっとただの虫歯ですよ」小津は索漠としたことを言った。「そんな馬鹿なことがあるか。俺は歯が痛いんじゃない、顎が痛いのだ」 悶《もだ》え苦しむ私を見て、小津は窪塚歯科医院という歯医者を勧めた。羽貫さんという美人の歯科衛生士がいるという。しかし私は嫌だった。波瀾万丈《はらんばんじよう》とは言えないながらも味わい深い歳月を経て、心胆も練りに練ってきた。それでも歯医者は恐ろしい。「歯医者なんて行かないぞ」「若い女性が指を口に突っこんでくれるのですぞ。なんとありがたい。あなた、女性の指を舐める機会なんてないでしょう。たぶんこの先一生ないと僕は思う。虫歯という大義名分を背負って女性の指を舐める千載一遇の好機でっせ」「おまえのような変態と一緒にするな。女性の指を舐めたいなんて俺は思わない」「この大嘘つきのこんちきちんめ」「こんちきちんは祇園|囃子《ばやし》だろうが、阿呆め。こんこんちきと言え」「ともかく行って来なさい」 小津はやけに熱心に勧めるのであった。 ある夜中に、顎から滲《にじ》みだした痛みが上下の歯列を縦横無尽に走り始めて一種の共鳴状態となり、大勢の小太りの妖精《ようせい》が私の歯を会場にしてコサックダンスコンテストを開いているような大騒動が持ち上がった。やむを得ず、小津の説得を受け容れた。 顎の痛みの原因は、私の繊細さのためでもなく厳しい思索のためでもなく、親不知の虫歯であった。不本意ながら、小津の推理は当たっていた。組織を抜けて以来、ほとんど人と会うこともない孤高の生活を続けていたために、つい歯磨きを怠けた報いであったのだろう。 決して指の味に籠絡《ろうらく》されたわけではないが、歯科衛生士の羽貫さんは魅力的であった。年の頃、二十代後半といったところか。髪をひっつめているので、ただでさえ戦国武将の妻のように凜々《りり》しい顔がますます凜々しく見える。その凜《りん》とした濃い眉《まゆ》を寄せながら、彼女はぎゅいんぎゅいんと恐るべき機械を使いこなして、華麗に歯石を落とした。私はその自信に満ちた手際に敬意を表した。 治療が終わった後、小津の紹介で来たと私は言った。羽貫さんは小津のことをよく知っているらしく、「あいつ、面白いでしょう」と言った。そうして羽貫さんは、まるで生まれた赤ちゃんを渡すようにして、脱脂綿にくるんだ親不知を手渡してくれた。 ティッシュを折り畳み、そのメモリアル親不知を下宿の机に安置して、私は毎日眺めた。妙に捨てがたい気がしたからである。       ○ 心のどこかでどうせこんなことは夢なんだと、タカをくくっているところがあった。 しかし約三日が経っても、ドアの向こうも四畳半、窓の外にも四畳半である。さすがに安閑と『海底二万海里』を読み耽っていられなくなった。食糧は底をつき、煙草も残すところ数本となった。できるだけ行動を起こさずに誇りを保つことだけに専念したかったが、なけなしの誇りも生命を失っては何になろう。 私は珈琲を空きっ腹に流しこみ、小皿に入れた醤油をちびちびと舐めて空腹を紛らわした。 尾籠《びろう》な話で恐縮というよりも、今さら些細な尾籠に恐縮する私ではないが、いかに最低限の食事で済ませているとはいえ、便意は催す。液体の方は麦酒瓶に溜《た》め、それが一杯になったら流し台に流すという妙案を得て、事なきを得た。問題は固形物だが、これはどうすべきか。 便意に押されるようにして、私はドアの向こうの四畳半(1)へ侵入した。その四畳半(1)にも窓がついている。祈るようにしてカーテンを開けてみたが、やはりその窓の向こうにも四畳半(2)が続いているらしい。もとの部屋に戻ってきて、今度は窓を乗り越えて隣の四畳半(-1)へ行き、その部屋のドアを開いてみたが、そこもまた四畳半(-2)である。 いったい四畳半はどこまで続いているのか。 しかし、当面の危機をいかに回避するかが優先課題だ。考えたあげく、古新聞を畳に敷き、さりげなく用を足した後、ビニール袋に入れてしっかりと口を縛ることにした。 直面していた危機が去ると、また食糧問題と煙草問題が脳裏をよぎる。こうなればもう、私自身が問題の解決に向けて立ち上がるしかない。どのような世界であろうとも、頼れるものは自分だけなのだ。       ○ 煙草問題、食糧問題の根本的解決は次のようにしてなされた。 隣の四畳半(1)へ移ったのである。 ドアの向こうに現れた四畳半は、明らかに私の部屋であった。ならば私がこの部屋を好き勝手に使って悪いはずがない。 ドアを通り抜けて四畳半(1)へ踏みこんだ私は、煙草を一箱見つけた。そして、もう二度と見ることはできないかもしれないと思っていた魚肉ハンバーグとカステラを見つけた。大根のかけらもある。とりあえず魚肉ハンバーグをじうじう焼いてたっぷり胡椒を振り、三日ぶりの動物性タンパクを心ゆくまで味わった。あれほど魚肉ハンバーグが美味《うま》かったことは未《いま》だかつてない。そのあとにデザートとしてカステラを一切れ食べた。まるで生き返ったように力が漲《みなぎ》ってくるのが感じられた。 私はその四畳半の窓から、さらに向こうの四畳半(2)を眺めた。 四畳半(3)、四畳半(4)、四畳半(5)……四畳半(∞)というように、永遠に私の四畳半が続いているのではなかろうか。何というしみったれた無限数列の世界。今や私は、地球の表面積よりも広い下宿に住んでいるのだ。 絶望的ではあったが、考えようによっては幸運と言えた。なぜならば、たとえこの部屋の食糧を食い尽くしたところで、隣の部屋に移ればまたカステラと魚肉ハンバーグが手に入る。栄養に偏りはあるが、すぐに餓死するという可能性はこれで回避されることになろう。 それにしても、小津がくれたカステラによって得られる滋養分は無視できない。一回生の春に不本意な出会いを果たして以来二年間、切るに切れない腐れ縁であったが、彼の存在が初めて役立った。       ○ 大学入学後、一年半は〈図書館警察〉の活動で終わった。 すでに述べたが、〈図書館警察〉なる組織の目的は、図書館から借りた図書を返却しない不届き者を追いつめ、貸出図書を力ずくで回収することであった。必要とあらば非人道的手段に訴えることも辞さない、いや、非人道的手段にしか訴えないといってよかった。なぜ〈図書館警察〉がそんな役割を担うことになったのか、大学当局とはどういう関係にあったのか―それは追及しないことだ。あなたの身に危険の及ぶ可能性がある。〈図書館警察〉の役割は貸出図書の回収の他にもう一つ、これはと目星をつけた人物の個人情報を網羅的に収集し、それをさまざまな用途に活用することであった。もともと個人情報の収集は、図書の強制回収を可能にするための一手段であった。相手の居場所を突き止めるためには行動パターンを把握しなくてはならないし、追いつめられてもシラを切り通そうとする悪質な輩《やから》から図書を回収するためには弱点を知ることも必要だったのだ。しかし蓄積される情報が増えるにつれて、情報の力、情報の魅力が組織を虜《とりこ》にしてゆく。〈図書館警察〉の情報収集が当初の目的を大きく逸脱して肥大し始めたのは、何十年も前からだということだった。大学構内は言うに及ばず、北は大原三千院《おおはらさんぜんいん》から南は宇治《うじ》の平等院鳳凰堂《びようどういんほうおうどう》まで、〈図書館警察〉の情報網は洛中洛外《らくちゆうらくがい》に張り巡らされていた。 図書館警察長官が気まぐれに、目下お付き合い中のA氏(二十一歳男性)とBさん(二十歳女性)の仲を裂こうと考えたとする。彼がパチンと指を鳴らせば、「A氏はBさんと付き合っているが、本当はテニスサークルで一緒だったCさんと関係しており、そのCさんの成績表は以下の通りで単位数が足りずに卒業が危ぶまれている」という情報を、やすやすと手に入れることができた。Cさんを遠隔操作してA氏とBさんの関係に致命的な一撃を与えるために必要な情報もまた、長官は自在に手に入れることができるのだ。 偽造レポートの大量生産によって莫大な収益を上げ続ける〈印刷所〉に対抗できるのは、唯一〈図書館警察〉であった。印刷所長の正体が謎に包まれている以上、図書館警察長官が〈福猫飯店〉の実質的な首領と目されたのも無理はない。 当時の私は図書館警察長官などまったく面識もない下っ端であった。 下っ端の任務は、図書の回収である。とはいえ、私がスマートに任務をこなすわけがない。回収相手に好んで煙《けむ》に巻かれてみたり、意気投合して一緒に酒を飲んだりした。身の入らないことこの上なかった。私がそれでも成果を上げたのは、小津がいたからである。 小津はあらゆる技巧を駆使して、図書を回収した。張りこみ、泣き落とし、卑劣な罠《わな》、恐喝、闇討ち、窃盗なんでもやった。当然、成績は上がる。連鎖反応的に、相棒である私の成績まで上がった。〈図書館警察〉の存在そのものに疑問を抱き始め、適当にやっていた私には迷惑である。 さらに小津は根っからの情報収集好きであったために、その不可思議な人脈を広げ続け、相島先輩の右腕と言うべき存在に成り上がった。 我々が二回生になった春、相島先輩が図書館警察長官に就任した。 相島先輩は小津と私を幹部に引き上げようとした。しかし小津は意外にもその申し出を断って、〈印刷所〉へ移った。やむなく私が幹部になったけれども、見事なまでにやる気はなく、不毛な日々に腐っているばかりであって、あっという間に名目だけの幹部に転落した。 相島先輩は私を軽蔑《けいべつ》し、路傍の石ころも同然に無視し始めた。       ○〈図書館警察〉時代、妙な人物に出くわした。 一回生の冬である。『神無月』という題名の、ある画家の伝記を借りだして半年以上返していない人物がいた。回収を命じられた私はその人物に接触しようとしていた。彼は私の住む下鴨幽水荘の二階に住んでおり、名前を樋口清太郎と言った。謎めいた人物であり、学生らしくない。かといって社会人らしくもない。自室である四畳半にもいるのかいないのか分からない。いたとしてもなかなか姿を見せない。在室と睨《にら》んでドアを開けてみたら、家鴨《あひる》が四畳半をうろうろしているばかりで、本人はどこかへ消えていたりした。紺色の古びた浴衣《ゆかた》を着て、茄子《なす》のような顔に無精|髭《ひげ》を生やしている。異様な風体をしているから外出先で見つけるのは容易だが、接触を図ろうとすると煙のごとく消え失せる。下鴨神社や出町商店街で幾度も見失った。 ある深夜、猫ラーメンの屋台でようやく捕まえた。「前から私の回りをうろついてるねえ」とにこやかに彼は言った。「返そう返そうと思っていたんだよ。でも私は読むのが遅くてね」「期限は大幅に超過してるんですからね」「うん。分かってる。もう諦《あきら》めるよ」 我々は一緒にラーメンをすすった。 その人物の後にぴったりくっついて、下鴨幽水荘へ戻った。「ちょっと便所へ行ってくる」と彼は言い、共用便所へ入った。しばらく待っていたが、なかなか出てこない。しびれを切らして便所に踏みこむと、もぬけの殻である。二階の部屋へ行くと、ドアの上にある小窓から明かりが漏れている。神業である。 私はドアをドラムのように叩《たた》いて、「樋口さん」と呼んだが返事はない。人を馬鹿にしていると思った。そうやって暴れているうちに、当時はまだ相棒であった小津がやって来た。「すんません。この人は僕の師匠なんですわ」 小津は言った。「この人は大目に見てやって下さいな」「そんなわけにいくか」「無理です。この人が借りたものを返すことなんてあり得ない」 小津がそこまで断言するのであれば、私も引かざるを得ない。いったい何の師匠なのか分からなかったが、小津のような男が尊敬しているのだからろくな人間ではあるまい。「師匠、こんばんは。さし入れです」 小津は私を尻目《しりめ》に樋口氏の四畳半へ上がりこんだ。振り返ってドアを閉めながら、「ごめんなさいね」と言い、にやりと笑った。       ○ 二日ほど、私は四畳半(-3)から四畳半(3)の界隈をうろうろして暮らした。 事態は好転しなかった。 とりあえず、やることはあった。運動のために腕立て伏せや似非《えせ》ヒンズースクワットに励む。盥《たらい》一杯分ほどの珈琲を飲み干す。六つ分のカステラをすべて腹中に納め、大根と魚肉ハンバーグを用いて新しい料理を考案する。『海底二万海里』ノーチラス号の絢爛《けんらん》たる食卓に関する記述を、涎《よだれ》が垂れるほど繰り返し読む。 それまでは四畳半に好きで籠もっていたが、いつでも外へ出ることができるという安心感があった。ドアを開ければ汚い廊下があり、汚い廊下を抜けて行けば、汚い便所があって、汚い靴箱があって、この汚い下宿から外へ出ることができる。いつでもその気になれば外へ出ることができるからこそ、私は出なかったのである。 いくら外へ出ても四畳半であるという事実がやがて私の心を圧迫し始め、食糧事情によるカルシウム不足も影響し、苛立《いらだ》ちは募った。いくらおとなしく待っていても、事態は好転しない。かくなる上は、この延々と続く四畳半世界の果てを目指して旅立ち、この世界の謎を解いて、あわよくば脱出するという雄大な冒険を敢行するほかない。 この不毛の地に閉じこめられて一週間ほど経ったある日の六時、相変わらず朝なのか夜なのか分からなかったが、私は出発することにした。 四畳半(0)から見てドアの方向と窓の方向と二方向が選べる。 私はドア側を選んだ。 すなわち、四畳半(1)、四畳半(2)、四畳半(3)……と順々に辿《たど》ってゆくことにしたのである。とにかくこの四畳半の道を行けるところまで行こうと決めた。「世界の果てを目指す」という表現に見合う悲壮な決意を固める必要はなかった。自分の四畳半を横切り続けるだけの旅だったからである。猛獣に出会う心配もなく、吹雪に見舞われる心配もなく、食糧供給についても考える必要がない。準備は不要である。旅の途上、どの地点にあっても、私は自室にいるからだ。疲れたら、いかなる時でも万年床にもぐりこめる。 実際猛獣には出会わなかったが、私はいくつかの恐ろしい邂逅《かいこう》を経験することになる。 初日、私は二十の四畳半を横切った。それでも四畳半は続いていた。さすがに阿呆らしくなって、その日はそこで宿泊することにした。       ○ 三日目、「錬金術」を発見した。 四畳半の中身について詳述した際、机と本棚の間に隙間があると述べた。その日、私は何か役に立つものはないかと、その領域を調査していたのだが、かつて「シベリア流刑」に処せられた貧相な財布を発見した。中をまさぐってみると、千円札が一枚残っていた。私は四畳半の真ん中に座りこんで、しおれた千円札を撫《な》でた。空しく笑った。この状況で千円札があったところで何になる。資本主義社会から完全に隔離されたこの四畳半世界では、千円札は紙切れ同然の値打ちしかない。 ところが、その隣の四畳半へ移動した後、同じように古い財布を発見して千円札を見つけた。私は雷に打たれたような気がした。それぞれの四畳半に千円があるとすると、一部屋動くごとに千円|儲《もう》かることになる。十部屋動けば一万円。百部屋動けば十万円。千部屋動けば……。何という商売。いずれこの四畳半世界から脱出したあかつきには、残りの学費をすべて支払い、生活費をまかなうこともできるかもしれない。祇園で豪遊するのも夢ではあるまい。 それ以後、私はリュックを背負って旅をした。 部屋を移るごとに千円札を投げこむのである。       ○ 最初のうちは少し移動したらウンザリしたので、残りの時間は読書に耽ったり、妄想を膨らましたり凹《へこ》ましたりして気を晴らしていた。ひまにまかせて勉強でもしようと殊勝な考えを起こして机に向かい、シュレディンガー方程式に返り討ちにされたりした。 折りに触れ、脳裏に甦《よみがえ》ってくるのは老婆の言葉であった。「コロッセオ」とは何か。 私は彼女に呪いをかけられたという自分の仮説を信じていた。その呪いを解く鍵が「コロッセオ」なのは明らかである。しかし私の四畳半に「コロッセオ」があるはずがない。膨大な四畳半をくぐり抜けながら、私は「コロッセオ」を連想させるものを探してみたが、一向に見つからなかった。       ○ 殺伐とした旅を続ける途上、一年にわたって心を慰めてくれた「もちぐま」のことを考えた。心の潤いを失いつつある今、もちぐまの柔らかさが懐かしかった。もちぐまとは、スポンジ製の熊のぬいぐるみのことである。 前年の夏、私はもちぐまを下鴨神社の古本市で手に入れた。それ以後、もちぐまは私の大切な心の支えとなった。スポンジ製のふはふはとした灰色の熊で、まるで赤ちゃんのように柔らかい。背丈はジュースの缶ほどである。むにむにと押し潰《つぶ》していると自然と顔がほころんでくる。私はその愛すべきぬいぐるみをつねに傍らに置いていた。組織と縁を切り、四畳半に籠もって厳しい自己鍛錬に励み、訪れる者といえば半妖怪の小津ぐらい、そんな孤高の生活にも伴侶《はんりよ》が必要だ。 しかし、あの愛すべきぬいぐるみは、この旅に出る数日前、コインランドリーで起こった事件によって謎の失踪を遂げたのである。男汁に薄汚れたもちぐまを洗濯して、蓋《ふた》を開けたところ、何者かによってもちぐまは持ち去られ、愛想も糞《くそ》もない男物の下着類が押しこまれていた。調べてみると、その限界まで擦り切れて、落とすに落とせない哀しい汚れが染みついたそれらの下着類は私の愛用品であった。「ひょっとすると、熊のぬいぐるみを洗っていたというのは俺の妄想に過ぎず、俺はただ普通に洗濯に来ただけなのかもしれない。味気ない洗濯を嫌悪するあまり、自分の下着類を洗っているという残酷な現実から目を逸《そ》らし、ありもせぬ熊のぬいぐるみを洗濯しているというファンシーな妄想に耽っていたのではあるまいか」と私は考えた。「病|膏肓《こうこう》の域に達している!」 ところが下宿へ帰ってみると、私の下着類はもとの通りにあった。二倍に増えた下着を前にして私は途方に暮れた。その事件の謎は、今もって解明されていない。以来、もちぐまは失踪したままである。 ああ、もちぐまはどこかで元気にやっているであろうか。 私は四畳半をあてどなくさまよいながら、そんなことを考えていた。       ○ 初めのうちは制覇した四畳半の数を勘定していたが、途中から数えるのを諦めた。 ドアを開け、入り、四畳半《n》を横切り、窓を開け、乗り越え、四畳半(n+1)を横切り、ドアを開け、入り、四畳半(n+2)を横切り、窓を開け……この作業が延々と続く。千円ずつ儲かるけれども、脱出の可能性が見えないため、私の希望と絶望に影響されて、千円札の値打ちは乱高下した。脱出できなければ、わざわざ集めてもただの紙切れに過ぎない。どれだけ千円札の値打ちが暴落してもなお集めることをやめなかったのは、不屈の精神と言うべきか、貧乏根性と言うべきか。 私は山盛りのカステラを食べ、魚肉ハンバーグを焼き、孤独な行軍を続けた。 ひょっとすると私は四畳半地獄というようなものに堕《お》ちて、永遠に続く苦行をそれと知らず強いられているのではないかという妄想が浮かんだ。過去に犯してきた数々の罪の記憶が脳裏に去来し、あまりの恥ずかしさに悶絶したこともある。「地獄に堕ちて当然だッ」と叫んだりもした。 ついに我慢の限界が来ると、私は畳に丸太のように横たわって行軍を拒否した。『半七捕物帖《はんしちとりものちよう》』を読み耽る。安いウヰスキーで酔っぱらい、煙草をふかす。「なんで俺がこんな目にあうんだ」と天井に向かって喚《わめ》き続ける。己を押し包む無音の世界が怖くなり、知ってるかぎりの歌を大声で歌った。どうせ誰も文句は言わない。いっそのこと全裸に桃色のボディペインティングをほどこして行軍を続け、今まで口にだしたこともないような卑猥《ひわい》な文句を大声で叫んでも良かったが、いかに一人ぼっちであるとはいえ、まだ理性が働いていた。しかし、いつ理性の手綱が振りほどかれてもおかしくない状況であった。私だからこそ、耐え得たのだ。 ただし何も発見がなかったわけではない。 私は、まったく同じに見える四畳半にも、少しずつ違いがあるらしいと気づいた。旅に出てから十日も経った頃であろう。かすかな変化だが、本棚の品揃えが変わっていたのである。『半七捕物帖』を読もうと思ったら、その四畳半には『半七捕物帖』が存在しなかった。 この事実は何を示すのか。まだ答えは出なかった。       ○ 四畳半世界旅行中の衛生問題について述べる。 洗濯を嫌悪する私にとって、洗濯する必要がないのはありがたかった。服は部屋ごとに用意されているから、汚れれば着替えれば良い。毎日きちんと下着を替えるようになったので、コインランドリーのないこの世界に迷いこんでからの方が、むしろ清潔な下着を身につけているという妙な案配になった。 髭は初めのうちは剃《そ》っていたが、だんだん面倒になってやめてしまった。第一、コンビニエンスストアにすら行けないのだから、髭を剃る必要性はまったくない。髪も伸ばし放題である。絶海の四畳半に流れ着いたロビンソンクルーソーのごとき顔であった。 髭や髪はあまり気にもならないが、身体が汚れてくるのは不快である。下鴨幽水荘には、廊下の奥にコイン式シャワーが設置されているのだが、世界から「廊下」という概念が消失した今、廊下の先にあるシャワーを使うこともまた不可能となった。ポットで湯を沸かして洗面器に入れ、タオルを濡《ぬ》らして身体を擦《こす》るしかなかった。鼻歌を歌いながら、いかにもシャワーを浴びている風を装ってみたが、これはたいへん侘《わ》びしいものであった。       ○ ほかに考えることは何もないので、徒然《つれづれ》なるままに、不毛に過ぎた二年間について考えた。あんな阿呆らしいごっこ遊びにうつつを抜かしていたことが、今さらながら悔やまれた。 二回生になって小津とのタッグを解消した私は、未曾有《みぞう》の役立たず幹部、図書館警察史上空前の怠け者という勇名を馳せた。ぐうたらしていたのに、追いだされることはなかったし、脅されるようなこともなかった。〈図書館警察〉における輝かしい実績をひっさげて〈印刷所〉幹部となった小津がしきりと私を訪ねてくるので、彼との関係を考慮に入れて大目に見られていたのではないか。 私は小津に「辞めようと思う」と相談を持ちかけたが、彼は笑って取り合わなかった。「まあまあ、何となく居座ってたら、それなりに楽しいこともありますって」 いいかげんである。 二回生という宙ぶらりんの時期は、苛立たしいものである。私は我慢するのがイヤになっていた。名目上は幹部であるから、何らかの秘密めかした会議に出たり、形だけの陰謀を巡らしたりもするのだったが、どんなことをしても阿呆らしいという気がする。組織の連中は私を阿呆幹部だと思っているし、図書館警察長官として君臨する相島先輩は私とは口もきかない。相島先輩への反感も増すばかりである。 夜ごと、私は「逃亡」について思いを巡らせるようになった。ただ逃げるだけではつまらない。図書館警察史上に残る派手な反抗を示して逃亡してやろうと思った。 二回生の初秋、小津と酒を飲みながら私がそんなことを漏らすと、彼は「あんまりお勧めできませんねえ」と言った。「いくら大学内のごっこ遊びでも、図書館警察の情報網は本物です。敵に回すとなかなか怖いもんですよ」「怖いもんか」 小津は畳に転がっていたもちぐまを弄《もてあそ》び、「ふぎゅう」と声を出して押し潰した。「こんな風になっちゃいますよ。僕は心が痛むなあ」「屁《へ》とも思わんくせに」「またそんなことを言うんだから。今だって、あなたの評判は悪いけども、僕が天才的な立ち回りを見せて、かばってあげているんですよ。少しは感謝していただきたいものです」「感謝なんか、するものか」「感謝するのはタダでっせ」 秋の淋《さび》しさが身に染みてくる頃で、鍋のぐつぐつと煮える音が温かい。こんな秋の夜をともに過ごしてくれる人が小津だけというのは由々しき問題だと思った。人間として間違っている。妙な組織に紛れこんでふて腐れている場合ではないのだ。組織の外には、まっとうなキャンパスライフが待っているのだ。「もうちょっとましな学生生活を送るべきだったとか思ってるんでしょ」 小津が急に核心をつくようなことを言った。「最近なんだかそわそわしてますよ。恋でもしたんじゃないですか? とかく恋をすると自分のみっともなさを自覚するもんですからね」「そんなことはしない」「下鴨神社の古本市でバイトをしたんでしょう? そこで何か出逢《であ》いがあったと僕は見るな」 その鋭い指摘を私は無視した。「……俺はもっとほかの道を選ぶべきだった」「慰めるわけじゃないけど、あなたはどんな道を選んでも僕に会っていたと思う。直感的に分かります。いずれにしても、僕は全力を尽くしてあなたを駄目にする。運命に抗《あらが》ってもしょうがないですよ」 小津は小指を立てた。「我々は運命の黒い糸で結ばれてるというわけです」 ドス黒い糸でボンレスハムのようにぐるぐる巻きにされて、暗い水底に沈んで行く男二匹の恐るべき幻影が脳裏に浮かび、私は戦慄《せんりつ》した。 小津はそんな私を眺めながら、愉快そうに豚肉を食べている。「相島先輩にも困ったもんですよう」と言った。「僕は〈印刷所〉に移ったというのに、色々と相談を持ちかけられるのです」「おまえのような人間が、なぜ気に入られるんだろうなあ」「非の打ち所のない人柄、たくみな話術、明晰《めいせき》な頭脳、可愛らしい顔、滾々《こんこん》と溢れて尽きることのない隣人への愛。人から愛される秘訣《ひけつ》はこれです。少しは僕に学んだらいかが?」「黙れ」 私が言うと、小津はにやにやした。       ○ そんな過去の想い出を尻目に、四畳半の旅は続く。「地質年代」というものがある。大きく分けて、先カンブリア時代、古生代、中生代、新生代という順序で現代に近づく。古生代の初め「カンブリア紀」は、多様な生物が出現した「カンブリア爆発」が起こったと言われて有名であるし、中生代の「ジュラ紀」「白亜紀」といえば、幼い頃に恐竜たちの絵を眺めて喜んでいたことを思いだす。 古生代の最後に「二畳紀」というものがある。 この字面を思い起こすと、怪しい形をした生物が蠢く地球の表面を、ばたばたと畳が覆ってゆく光景が思い浮かぶ。その時代、世界は無数の二畳敷きの部屋から成っていた。さらに中生代の初めには一畳分部屋が広がって、「三畳紀」が来る。やがて登場する恐竜たちによって綺麗に敷き詰められた畳は踏みしだかれ、「ジュラ紀」へと時代が移るのである。 私には、世界が四畳半になってしまったとしか思えなかった。ついに新生代第四紀現世が終わりを迎えて、四畳半紀がやってきたのだ。地球上の全生物は大規模な絶滅を迎え、どこまでも続く四畳半世界に残されたのは、私と天井の隅にはりついている蛾だけになってしまった。生物的多様性も何もあったものではない。 人類最後の人間として、この四畳半世界を延々とさまよう。新たな時代のアダムとイブになろうとしても、イブがおらんのでは話にならん。 などと憤っていたら、私はとんでもないイブに出くわした。       ○ 旅を始めて約二十日が過ぎた頃のことである。 何番目の四畳半か分からないので、四畳半《k》としよう。半日を行軍に費やして、そろそろ嫌気がさした時刻である。休憩することにして、大嫌いになったカステラを頬張った。 隣の四畳半は蛍光灯が壊れかけているらしく、ややちらちらしている。これまで通り過ぎた四畳半にもいくつか薄暗いところがあって、私はそれを「曇りの世界」と呼び、何となく気味が悪いので早々に通り過ぎてきた。 休憩を終えて窓を開けた私は、隣の四畳半を覗きこんだ。 部屋の隅に誰かが座って、読書に耽っていた。 陳腐な表現を使えば、「心臓が口から飛びだすほど」驚いた。 二十日間以上にわたって、誰と言葉を交わすこともなく、この無人の世界を旅してきて、唐突に人影を見る。喜びよりも恐怖が先に立つ。 本を読んでいるのは女性である。静かに俯《うつむ》いて、膝《ひざ》に載せた『海底二万海里』を読んでいる。美しい黒髪が背中に流れて、艶々《つやつや》と光っている。私が窓を開けたにもかかわらず本から顔も上げないのは剛胆と言うほかなく、この四畳半世界の一角を支配する魔女ではないかと思った。下手なことをすれば、ふかふかの肉まんにされて喰われてしまうであろう。「あの、失礼します」声が掠《かす》れていた。 いくら声をかけても彼女は反応しない。 私はおずおずと四畳半へ足を踏み入れ、彼女に近づいた。 彼女は可愛らしい顔をしていた。肌は人間の肌そっくりの色合いをしているし、ソッと触れてみると弾力がある。髪は丁寧に手入れされ、整えられた衣服には乱れがない。まるで高貴な生まれの女性のようである。しかし、彼女は微動だにしない。どこか遠くに目をやった瞬間に凍らされた人のようであった。「これは香織さんか?」 思わず呟《つぶや》き、私は呆然《ぼうぜん》とした。       ○ 前年の秋の終わりであった。 なにゆえ図書館警察長官ともあろう相島先輩が、あんなことをしたのか、誰もが疑問に思った。相島先輩はつまらない映画サークルのボスを失脚させるためだけに、図書館警察を動かしたのだ。陰謀の餌食となったのは映画サークル「みそぎ」を牛耳っていた城ヶ崎という人物である。 城ヶ崎氏と相島先輩の間に個人的ないざこざがあったともいうし、その映画サークルに在籍している意中の女性に尊敬してもらうためにサークルの実権を握りたかったのだと言う人もある。いずれにしても相島先輩は城ヶ崎氏を破滅へ追いこむことに決めたのだ。 何をおいても、まずは情報収集である。 大学構内に張り巡らされた情報網を伝って、城ヶ崎氏にまつわるあらゆる情報が集められた。その中に彼女の写真があった。城ヶ崎氏を失脚させる策を練るために招集された会議の席上で、彼女の写真が回覧されたとき、感嘆とも何とも表現できぬ声が上がった。「これがターゲットだ。香織さんという」 相島先輩は弁護の余地のない最低の作戦を立てた。 城ヶ崎氏はその香織さんを掌中《しようちゆう》の珠《たま》のように慈《いつく》しんでいる。これを誘拐すれば、城ヶ崎氏はこちらの要求を呑《の》むと踏んだのである。 計画遂行の夜。 学園祭の前夜祭が行われていて、大学は夜更けまでお祭り騒ぎであった。城ヶ崎氏は映画サークルの行事で下宿を空けている。祭の賑わいを横目に見て、「なにゆえ俺がこんなことを」という悲哀を背中に漂わせつつ、〈図書館警察〉の幹部数名が夜陰に紛れて吉田神社に集合した。その中には私も混じっていた。「鍵男《かぎおとこ》」と呼ばれる人物と合流し、我々は城ヶ崎氏の下宿へと向かった。 当初の計画では鍵男が部屋の鍵を開け、幹部たちが侵入、ラブドール香織さんを盗みだすということだったが、計画はまず城ヶ崎氏の下宿の前で頓挫《とんざ》しかけた。犯罪めいた所業に手を染めると分かって腰が砕けた、根性も忠誠心もない男が一人いたからである。つまり私である。 私は「いやだいやだ」と駄々をこね、コンクリート塀にしがみついて抵抗した。ほかの幹部連も、そもそも気がすすまないことだったのだから、実行を躊躇《ちゆうちよ》した。正義を求めようとする私の誇り高い抵抗によって、あと一歩で相島先輩の計画は水泡に帰すところだった。 そこへ、まさかわざわざ来るまいと思っていた相島先輩が現れた。「おまえら何ぐずぐずしてる」 彼が一喝するが早いか、幹部連は二つに分かれた。すぐさま計画の遂行に向かう一派と、やみくもに逃亡を図る一派である。むろん、逃亡を図ったのは私であった。逃亡というよりもむしろ戦略的退却と呼びたい。 夜陰に乗じて逃げだしながら、私は「こんな阿呆なことするもんかッ」と捨て台詞《ぜりふ》を残した。相島先輩の眼が蛇のごとく輝いた。殺されるかと思った。夜の町を駆け、前夜祭の賑わいに身を隠し、あんなことを言うべきではなかったと後悔した。 私の抵抗も虚《むな》しく、香織さんは相島先輩によって連れ去られた。 深夜、大学地下の一角で取引が行われ、城ヶ崎氏は相島先輩の要求に膝を屈した。数日を経ずして、城ヶ崎氏は自分が創設して以来手放そうとしなかった映画サークルの実権を、相島先輩へ譲り渡した。口をきわめて相島先輩を誉《ほ》め讃《たた》え、皆の見ている前で抱擁することさえ厭わなかったという。 あまりの理不尽さに私は憤った。 図書館警察長官、断固許すまじ。 自慢ではないが、私には機敏なところもある。すぐさま行動を起こした。小津の手配してくれた隠れ家へ速やかに逃げこみ、相島長官に見つからないように息をひそめ、生まれたての子鹿のようにぷるぷると怒りに震えていた。       ○ その日、私は四畳半《k》で宿泊した。 翌日になっても、その先へ進む気になれなかった。もみあげと渾然《こんぜん》一体となってしまった髭を掻《か》きむしりながら、私は思案した。珈琲を飲みながらテレビの後ろにある薄汚れた壁を眺めていた。 ここで天啓があった。 この二十日間あまり、単調にドアから入って窓から出るという行為ばかりを繰り返してきた。考えてみればこれはあまりにも頭の固いやり方ではないか。本当に脱出したいのであれば、なぜ壁を破ろうとしなかったのだろう。ひょっとすると、それだけですべてが解決するかもしれないではないか。隣の部屋には留学生が住んでいるはずであるが、もし私が壁の穴から乱入して来ても、大陸出身の懐の深さで笑ってすませてくれることであろう、おそらく。 そう考えると急に元気が湧いてきた。 私は仔細に壁を調べてみた。この四畳半にクーラーもとりつけず、脂汗を流してしのいできたのは、私が忍耐強く高潔であったためばかりではない。下宿の壁は学芸会の舞台セットのごとく貧弱で穴だらけだったからである。隣の留学生がガールフレンドをひっぱりこんで睦言《むつごと》を交わしているのが、傍らにいるように聞こえるほど薄いのだ。私がクーラーをつけたとたん、壁の隙間から滲みでた冷気は隣109号室の住民に快適な生活をもたらすであろう。109号室を冷やした空気はやがて108号室へ浸透する。107号室、106号室、とその快適の連鎖は止まらない。私は一階の全住民の快適な生活のために、莫大《ばくだい》な電気代を背負うことになる。 そんな壁の薄さに堪えてきたことが、今ようやく報われる。 私は腕立て伏せおよび似非ヒンズースクワットをしてから、レンチを握って壁を殴り始めた。容易に壁が凹み始め、亀裂《きれつ》が入った。ヘラクレスになった気分になり、しばらく埃にまみれて嬉々《きき》として殴っていたが、やがてまだるっこしくなった。亀裂が入った部分を思い切り蹴飛《けと》ばすと、直径十五センチほどの穴が開いた。穴の向こうには蛍光灯の明かりが見えた。「よっしゃー」 私は雄々しく呻《うめ》き、穴を広げてくぐり抜けた。 そうして私が出たところは、やはり同じ四畳半であった。       ○ その後、私は思いつきで壁を壊し続けたり、天井を壊そうとして挫折《ざせつ》したり、膨らんだり凹んだり、ドアを開けたり、醤油を舐めたり、窓を開けたり、丸二日寝て過ごしたり、飲んだくれてゲロを吐いたり、また思いだしたように壁をぶち壊し続けたりした。広大な四畳半世界を放浪し続けた。 以下はその後二十日間ほどの期間に、思いつきで記した日記の抜粋である。ちなみに日付は、四畳半世界で目覚めた日を基準としている。正確に時間を計っているわけではなく、あくまで私の睡眠と覚醒《かくせい》によって日を区切った。 二十四日目 二時起床。朝食は塩いり珈琲とビタミン剤。今日も何枚壁を壊したか分からない。四畳半を隔てる壁は脆《もろ》いが、いくら打ち破っても意味がない。けれども壁を壊すのは気晴らしになる。壁の向こうから希望の光が覗くような気がする。所詮《しよせん》は夢か。しかしこの永遠に続く四畳半世界が夢なのではないか。私は夢を見ているのか? 夢。夢。私の夢。薔薇色に輝く有意義なキャンパスライフ。 そういうことを考えているうちに気が塞《ふさ》いできたので、ウヰスキーを飲んで魚肉ハンバーグを食べて寝た。夢の中でも魚肉ハンバーグを喰っていた。いいかげんにしろ。寝ても覚めても魚肉ハンバーグだ。今や私の肉体は、魚肉とカステラのみから作られている。 二十五日目 四時起床。今日はヤル気が出なかったので、少し移動したのみ。ウヰスキーを飲んだ。不味いけれどもその不味さに慣れてきたのが哀しい。 二十七日目 身体が鍛えられてきたようである。四畳半から一歩も出ていないのに鍛えられているとはこれ如何《いか》に。壁の破壊と、鬱屈《うつくつ》を振り払うための似非ヒンズースクワットのおかげであろう。しかし本当のヒンズースクワットというものはどうやるのであるか。ヒンズースクワットに対する個人的妄想のみででっちあげた似非ヒンズースクワットだが、ひょっとすると本物よりも効果があるのではないか。ここから出た暁には、新ヒンズースクワットとして世に広めよう。 三十日目 今日通りかかった四畳半にて、面白いものを見つけた。桐の小箱だが、開けてみると亀の子|束子《だわし》が入っていた。試しに流し台を擦ってみると、洗剤もつけていないのに、するすると汚れが落ちる。非常に高性能な亀の子束子である。この四畳半において私は過客に過ぎないのだが、つい面白くて流し台をぴかぴかに磨いた。阿呆なことをした。 このように四畳半ごとに違いがあるのはなぜか。この違いは何に起因するのか。以前遭遇した香織さんもそうである。一見すると、すべて同じ私の四畳半のはずなのに、なぜ細々とした違いが生じるのか。私はラブドールを買いこむような趣味も金ないし、妙な高性能亀の子束子なんて存在すら知らなかったのに。 謎である。 三十一日目 三時に起床。 今は昼なのか、夜なのか。誰か教えてくれ。教えてくれたら三千円進呈する。今日はがむしゃらに移動した。しかし方向を定めてないのは良くない。これからは壁破りを止めてドアから窓の方向へ移動することにしようと思う。しかし、どうせしばらくすると壁の向こうが気になって破り始めてしまうのだが。 昼寝をしたときに夢を見た。 四畳半の真ん中を万里の長城が区切っている。案外に楽々と上れたのは夢だからであろう。宇宙からでも見えるという万里の長城を、私がひとまたぎで乗り越えられるわけがない。でも夢なので乗り越えた。壁の向こうには小津がいて、焼き肉を美味そうに喰っていた。もう少しで葱《ねぎ》塩つき牛タンを食べられるところだったのに、小津がいやがらせをして私が食べようとする肉を片っ端から食べる。あいつは生焼けのうちに食べてしまうから、私は食べることができない。そうこうするうちに目が覚めて悔しい思いをした。小津め。夢の中でも嫌なやつ。しかし不覚にもちょっと小津を懐かしく思った。 四畳半の神よ。我に肉を与えたまえ。いや贅沢《ぜいたく》は言わぬ。焼き茄子でも、生焼けの玉葱でも、あるいはもう焼き肉のタレだけでもいい。 三十四日目 今日は早めに移動を切り上げて、料理をした。カステラを砕いて、魚肉ハンバーグと一緒に煮こんでみた。異様な味わいになったが、ともかく目先が変わる。珈琲だけは決して飽きないが、珈琲にはどれぐらい栄養があるのだろうか。たいへん重要な問題だ。そう考えると野菜不足が気になったのでビタミンの錠剤をむさぼり喰う。健康的な食物が喰いたい。ひじきが喰いたい。 流し台で髪を洗って、寝る。冷たい水で髪を洗うと、なぜあんなに切なくなるのか。そのまま崩れ落ちて泣けるぐらい切ない。頭を冷やすとテンションが下がるためかもしれない。 三十八日目 遭難した場合には動かずに助けを待つべきだというけれども、こんな状況でじっと助けを待っていられる人間はどれほどいるだろう。つねに移動しなければ食糧もすぐに底をつく。魚肉ハンバーグとカステラを求めて四畳半世界をさまよう遊牧民。雄大でもなく、自由でもない。 だいたい、このような状況で誰が捜索してくれるのか。そもそも今の私の状況はどう言い表せばよいのか。世界が失踪したのか、それとも私が失踪したのか。 私が失踪したのだとすると、もとの世界では約一ヶ月が過ぎている。六月も終わりだ。四畳半版浦島太郎だ。浦島太郎は竜宮城で楽しく過ごしたのだから、まだいい。 家族は私を捜しているだろう。父や母に申し訳ない。 でも小津に捜す気は全然ないだろう。「どこ行ったんでしょうかねー」などと可愛い後輩といちゃいちゃしているに違いない。そうに違いないぞ。夢で葱塩つき牛タンを食い損ねた恨みがまだ生々しい。 三十九日目 本当にここから出られなければどうしようと考えた。 この四畳半世界の開拓者として一人雄々しく生き延びていかねばならぬ。カステラと魚肉ハンバーグを使ってもっと多様な料理を工夫し、茸の計画的栽培事業にも着手、いずれは壁をすべてぶち抜いてボウリング場や映画館、ゲームセンターなどの各種アミューズメント施設を作り、理想郷を実現しよう。 考えるだけでわくわくする。 わくわくするはずなのに、なぜか涙が出る。       ○ その過酷な冒険旅行の途上、食糧問題にはたいへん悩まされた。 米が喰いたいと切実に思った。コンビニのおにぎりでいい。冷たくてかちんこちんでいい。おにぎりが喰えるならば、魚肉ハンバーグ100個と交換したっていい。もし目の前に炊きたての飯を盛った茶碗が置かれたら、滂沱《ぼうだ》の涙を流すだろうと思った。 生協の薄い味噌汁。温泉卵。卵焼き。ほうれん草のおひたし。鰺《あじ》の塩焼き。キンピラゴボウ。納豆。鰻丼《うなどん》。親子丼。牛丼。他人丼。かやく御飯。ひじき。鰤《ぶり》の照り焼き。鮭の塩焼き。天津飯。焼き豚ラーメン。卵とじうどん。鴨なんばん蕎麦《そば》。餃子《ギヨーザ》に中華スープ。鶏《とり》の唐揚げ。もちろん焼き肉。カレー。赤飯。野菜サラダ。味噌をつけた胡瓜《きゆうり》。冷やしたトマト。メロン。桃。西瓜《すいか》。梨。林檎《りんご》。葡萄《ぶどう》。温州蜜柑《うんしゆうみかん》。 ひょっとするともう二度と口にすることができないのではないか。そう思うと、なおさら食べたくなった。私は連日のように、この四畳半世界に存在しない食べ物の幻影を追って悶絶した。

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