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森見登美彦 - 四叠半神话大系-5

作者:森見登美彦 字数:21704 更新:2023-10-09 23:39:08

ふいに樋口師匠は土下座した。 何もそうまで必死になって守るような伝統ではあるまいと思ったが、師匠に土下座されては断れない。薔薇色のキャンパスライフがもう二度と手の届かないところへ遠ざかってゆくように思われて私は心の中で泣いた。「分かりました」と私が小さく呟くと、師匠は顔を上げて満足げに頷いた。「明石さん、証人になってくれたまえ。彼らが紳士的にきちんとやり遂げるように見張ってもらいたい。それから、本当のいがみ合いになりそうになったら、そこはかとなく水をさすのだ」「分かりました」 明石さんは丁寧に頭を下げた。 退路はもはや断たれた。 師匠は満足したらしく、ふうと息を吐いて姿勢を崩した。「これで思い残すことはない」と呟いた。葉巻を取りだして、火をつけた。断る「好機」を逸し、なしくずしに謎めいた伝統の継承者とされた私は、その過去数十年にわたって続いた不毛な戦いを引き継ぐという責任のためにすでにげっそりしていたが、明石さんがしきりに私を突っついていることに気づいた。彼女は亀の子束子の入った桐箱を指さしている。「師匠、亀の子束子です。明石さんが手に入れてくれたんです」 私がその幻の亀の子束子をさしだすと、師匠は目を丸くして唸ったが、すぐに申し訳なさそうな顔をした。「すまんな」と師匠は言った。「決闘がすんだら、私は姿を消す」「え」明石さんが驚いた。「本当に世界一周の旅に出るつもりですか? 無謀以外の何ものでもないと思いますが」 私は言ったが、師匠は首を振った。「そのために代理人を決めたんだからな。あの四畳半には当分戻らない。貴君、すまないがあの部屋をこれで掃除しておいてくれないか」「次から次へと勝手なことを仰《おつしや》いますなあ」「そう言うな」 師匠はにこにこした。「おっと、もうそろそろ賀茂大橋へ行かなくては。城ヶ崎と最後の決闘だ」 我々が下鴨幽水荘を出ようとしていたところで、羽貫さんが息を切らせて走ってきた。「よかった間に合った」と彼女は言った。「仕事上がってそのまま来た」「もう見に来ないかと思ったね」「見届けさせていただきますわよ。見る価値もないような決闘だけど」 そうして我々は賀茂大橋を目指した。       ○ 賀茂大橋の東詰。 先輩は浴衣の袖をまくって、古風な腕時計を眺めている。 すでにあたりは藍色《あいいろ》の夕闇に没している。鴨川デルタは大学生たちが占拠して賑やかである。新入生歓迎の宴《うたげ》をやっているのであろう。思えば、そんなものにも無縁の二年間であった。先日までの雨で水嵩が増した鴨川はどうどうと音を立て、ぽつぽつと灯《とも》る街灯の光が照り映えて川面は銀紙を揺らしているように見える。日も暮れた今出川通は賑やかで、車のヘッドライトやテールランプがぎらぎらと賀茂大橋に詰まっている。橋の太い欄干に点々と備えつけられた橙色の明かりがぼんやりと夕闇に輝いているのが神秘的であった。今宵はやけに賀茂大橋が大きく感じられる。「あ、来た」 樋口師匠は嬉しそうに言って、賀茂大橋の中央へ歩みを進めた。 見てみれば、橋の向こうから城ヶ崎氏が歩いてくる。その傍らを歩いているのは、小津だった。 双方睨み合いながら歩み寄り、我々が出会ったのはちょうど賀茂大橋の真ん中、欄干から下を覗けば、激しく水しぶきを上げる鴨川の水面が見えた。南へ目をやると、黒々とした川の流れの果てに、遠く四条界隈の街の灯が宝石のように煌《きら》めいている。「おや、明石さんじゃないか」城ヶ崎氏が怪訝そうに言った。「どうも」と明石さんが頭を下げた。「君、樋口と知り合いだったのかい?」「昨年の秋に弟子入りしました」「彼女はまあ立会人だよ。こちらが先日も紹介した私の代理人だ」そう言って師匠は私の方を指さした。「ところで、そちらの代理人はひょっとして我が弟子の小津ではないかい?」 城ヶ崎氏は頬に笑みを浮かべた。「おまえは自分の弟子だと思っていただろうが、こいつは俺のスパイだったわけさ。騙《だま》されただろ?」「やられたな」 師匠は茄子のような顔をくしゃくしゃにして笑った。「じゃあ」「やるかね」 一堂に会した関係者たちに、そこはかとなく緊張が漲った。 我々の視線を浴びながら、城ヶ崎氏と樋口師匠は睨み合った。城ヶ崎氏の彫りの深い顔は、歩道脇にある古びた街灯の白々とした明かりを受けて、まるで幕末京都の人斬りのような凄みを漂わせている。彼の傍らにひかえている小津の陰気な薄笑いが、城ヶ崎氏の迫力を増しているのは、恰好の組み合わせと言うほかない。それを迎え撃つ樋口師匠も、茄子のような顔をできるだけ引き締めている。紺色の浴衣に身を包んで腕を組み、傲然と仁王立ちする師匠の背中からは、ただならぬ気魄が立ち上る。樋口師匠と城ヶ崎氏、まさに竜虎|相搏《あいう》つの観があった。 いかなる決闘が繰り広げられるというのか。我々は固唾《かたず》を呑んで見守った。 やがて羽貫さんが城ヶ崎氏と樋口師匠の間に入り、彼らの間に張り巡らされた糸を手刀で切るような仕草をした。「さあ。さっさとやって」 五年に及ぶ戦いを締めくくる決闘の始まりを告げるには、あまりにも気の抜けた台詞《せりふ》であった。 城ヶ崎氏が半身になった。小津がつつつと背後へ退く。私と明石さんも退いた。樋口師匠は微動だにせぬ。城ヶ崎氏が左の掌を前に突きだして空へ向け、右の拳《こぶし》を握って腰へ添えた。今にも樋口師匠に飛びかからんという恰好である。対する樋口師匠は組んでいた腕を解き、真言を唱えるように印を結んだ。「いくぜ樋口」と低い声で城ヶ崎氏が言った。「いいとも」と師匠が言った。 息を詰めるような一瞬の後、二人は激突した。「じゃんけん」「ぽん」 城ヶ崎氏が劇的に崩れ落ちた。「はい、おしまいおしまい」羽貫さんが一人で拍手した。明石さんが一息おくれて拍手を始めた。私はといえば、ただ唖然としていた。「私が勝ったから、先に攻撃を仕かけるのは貴君だよ」 師匠は言った。 賀茂大橋の決闘とは、次の代理人たちの先攻後攻を決めるじゃんけんであった。       ○「やれやれ、肩の荷が下りた」 樋口師匠はそう言って、藍色の空を見上げている。再び腕を組んで、悠々たる恰好へ戻っているのはさすがである。何事もなかったかのように城ヶ崎氏が立ち上がり、澄ました顔をした。樋口師匠は葉巻を取りだして、城ヶ崎氏に勧めた。「それで樋口、これからどうするんだ? おまえが頼むからシメにしたんだぜ」 城ヶ崎氏が煙を吐きながら訊ねた。「世界に羽ばたく」「おいおい羽貫、樋口がわけのわからないことを言ってるぞ」「たんに阿呆なだけよ」 羽貫さんは言い返した。それから「ねえ、お酒飲みに行こ」と言った。 ふいに師匠がにやにやしながら私に耳打ちした。「さて。私はもうたぶん貴君には会わないだろう」「え?」「だからあの地球儀を貴君にやる」「やるも何も、あれはもともと僕のものです」「そうだったかな?」 師匠は本当に姿を消すつもりなのであろうか。 私が言葉を探していると、橋の北にある鴨川デルタで悲鳴が上がった。浮かれていた大学生たちが何か大騒ぎをして逃げ惑い始めた。 欄干に手をかけて見ると、葵公園の森から鴨川デルタにかけて黒い靄のようなものがぞわぞわぞわと広がり、デルタの土手をすっぽり覆う勢いである。その黒い靄の中で若人たちが右往左往している。手をばたばた振り回したり、髪をかきむしったりして、半狂乱である。その黒い靄はそのまま川面を滑るように流れて、こちらへ向かってくるらしい。我々は釣りこまれるようにして、そちらを見つめていた。 鴨川デルタの喧噪《けんそう》は一層激しくなる。 松林からはどんどん黒い靄が噴きだしてくる。ただ事ではない。ぞわぞわぞわぞわぞわぞわぞわぞわぞわと蠢《うごめ》く黒い靄が絨毯《じゆうたん》のように眼下に広がったと思うと、川面からどんどんせり上がってきて、ぶわっと欄干を乗り越え、賀茂大橋へ流れこんできた。「ぎょええええ」と明石さんがマンガのような悲鳴を上げた。 それは蛾の大群であった。       ○ 翌日の京都新聞にも載ったことであるが、その蛾の異常発生について、詳しいことはよく分からなかった。蛾が飛んだ道筋を逆に辿ると、糺の森すなわち下鴨神社まで到達するらしいが、判然としない。糺の森に棲んでいた蛾が何かの拍子でいっせいに移動を始めたとしたにせよ、納得のいく説明はない。公式の見解とは別に、発生源は下鴨神社ではなく、その隣の下鴨泉川町だという噂もあるが、それだと話はますます不可解になる。その宵、ちょうど私の下宿のあるあたりの一角が蛾の大群でいっぱいになり、一時騒然としたという。 その夜、下宿に戻ったとき、廊下のところどころに蛾の死骸《しがい》が落ちていた。鍵をかけ忘れてドアが半開きになっていた私の部屋の中も同様だったが、私はうやうやしく彼らの死骸を葬った。       ○ 顔にばたばたとぶつかって鱗粉《りんぷん》をはね散らし、時には口の中まで押し入ろうとする蛾の大群を押しのけつつ、私は明石さんのそばに寄り、紳士らしく彼女をかばった。こんな私もかつてはシティボーイであり、昆虫風情と同居することを潔しとしなかったが、二年間あの下宿で種々雑多な節足動物と慣れ親しむ機会を得て、すっかり虫に慣れていた。 そうは言っても、そのときの蛾の大群は常識をはるかに越えていた。羽音が我々を外界から遮断し、まるで蛾ではなく、羽根をもった小妖怪のたぐいが橋の上を通り抜けているように思われた。ほとんど何も見えない。うっすらと眼を開けた私が辛うじて見たものは、賀茂大橋の欄干にある橙色の電燈のまわりを乱舞する蛾の群れであり、明石さんの艶々《つやつや》光る黒髪であった。ほかの人々がどうなっているのか、気を配る余裕もなかった。 大群がようやく行き過ぎても、置いてけぼりをくらった蛾たちがばたばたとあちこちで飛び回っていた。明石さんは顔面|蒼白《そうはく》になって立ち上がり、狂ったように全身をはたいて「くっついてませんかくっついてませんか」と叫んだ。それから、路上でじたばたする蛾から逃れようと恐ろしい速さで賀茂大橋の西詰へ走っていった。夕闇の中へ柔らかな光を放つカフェの前でへたりこんだ。 蛾の大群はまた黒い絨毯となって、鴨川を四条の方へ下っていった。 気づけば、城ヶ崎氏たちがぼんやりと辺りを見回している。私も同じように、橙色の明かりが点々とならぶ賀茂大橋を見回した。 まるで蛾の大群に乗って華麗に飛び去ったかのように、樋口師匠の姿はなかった。じつに我等の師匠の名に恥じぬ、鮮やかな退場であった。しかし謎めいたことに、小津の姿もなかった。どうせこの樋口師匠の謎めいた消失も、小津がひそかに企《たくら》んでいたのだろうと私は見当をつけた。「樋口と小津が消えちまったぜ」 城ヶ崎氏が賀茂大橋を見渡しながら不思議そうに言った。 欄干に腕をのせて夜風に吹かれながら、羽貫さんは「とっとと行っちまえ」と言った。       ○「さて、今夜は私はお酒を飲むわ」 羽貫さんが腰に手を当てて宣言した。「城ヶ崎君、飲みに行こう」「かまわんぜ」城ヶ崎氏はかすかに淋しそうな顔をした。「しかし樋口のやつ、サヨナラの挨拶もなしか。もうちょっと余韻があってもいいのにな」「久しぶりに二人で飲もう」 それから羽貫さんは私のそばへ来て、顔を寄せた。「明石さんをよろしくお願い」 そうして彼らは夜の木屋町へ出ると言い、去っていった。 私は明石さんの方へ歩いていった。カフェの明かりの中で、彼女は座りこんでいた。私は「大丈夫?」と声をかけた。「師匠は消えてしまった」 私が言うと、彼女は蒼い顔を上げた。「お茶でも飲んで落ち着きますか?」 そう私は言ったが、決して、蛾が苦手という彼女の弱点を卑怯《ひきよう》にも利用したわけではない。顔面蒼白になっている彼女のためを思えばこそである。彼女は頷き、我々は目の前の明るいカフェに入った。「樋口師匠、どうしたんだろう? 小津も消えた」 私は珈琲をすすりながら言った。 明石さんは首をかしげている私を見て、急にくつくつと笑った。「仙人みたいな消え方ですね。まるで空を飛んでいったようです」 そう言って彼女は珈琲を飲んだ。「さすがです」「どこに行っちゃったのかねえ」 私は首をかしげた。「どうせ小津が何か企んでいたんだろうが」 珈琲を飲んでいる間に思いだして、私は「コロッセオ」の話をした。明石さんが私の四畳半を訪ねてきて「コロッセオ」と口にだしたときが好機だったのだと私は言った。あそこで逃げだせば、こんな風に自虐的代理代理戦争を引き継がされることもなく、新しい生活へ踏みだせていたのかもしれぬ。失われた薔薇色の未来への哀惜の念に耐えず、私は深く溜息をついた。「好機を掴み損ねた」 私は言った。「これでまた、同じことの繰り返しだ」「いえいえ」 明石さんは首を振った。「きっともう掴んでるんです。それに気づかないだけですよ」 そうやって暢気に珈琲を飲んでいると、だんだん救急車の音が近づいてきた。そのまま通り過ぎるかと思いきや、賀茂大橋の西詰で停車した。がやがやと救出活動をやっている。物々しい騒ぎである。「あの亀の子束子、わざわざ見つけてきてくれて、ありがとうございました」 私が頭を下げると、明石さんはまだかすかに蒼ざめている頬に笑みを浮かべた。「師匠は行ってしまいましたが。先輩に喜んでもらえて幸いです」 まことに唐突ながら、私はふいに、明石さんに対して兄弟子にあるまじき感情を抱いた。その感情について、つらつら説明することは私の主義に反するが、ともかくその感情を何らかの行動に結びつけようと四苦八苦して、私は一つの台詞を吐いた。「明石さん、猫ラーメンを食べに行かないか?」       ○ 私と明石さんの関係がその後いかなる展開を見せたか、それはこの稿の主旨から逸脱する。ゆえに、そのうれしはずかしな妙味をここに書くことはさし控えたい。読者もそんな唾棄《だき》すべきものを読んで、貴重な時間を溝《どぶ》に捨てたくはないだろう。 成就した恋ほど語るに値しないものはない。       ○ さて、その後、樋口師匠の行方は杳《よう》として知れぬ。あそこまで鮮やかに、何の挨拶もなく消えてしまうとは思わなかった。はたして本当に世界一周の旅に出ることができたのかどうか分からない。 師匠が消えてから半月ほどして、私は明石さんや羽貫さんと協力して、しぶしぶ210号室の後かたづけをした。あの幻の亀の子束子がたいへん役に立ったが、それが苦難に満ちた戦いであったことを記しておく。羽貫さんは早々と自主的に戦力外通告を出し、明石さんはあまりの不潔さにパニック状態になったふりをして逃亡を図り、松葉|杖《づえ》をついて様子を見に来た小津は流し台にゲロを吐いて我々に課された任務をより一層困難なものとした。 樋口師匠に弟子入りしたことへの後悔の嵐は、師匠が姿を消す直前に最大瞬間風速を記録したわけだが、いざ師匠がいない生活が始まってしまうと物足りなく思うことがある。師匠が四畳半に残していった地球儀に、ノーチラス号の現在位置を示すまち針が刺さっているのを見ると、私ともあろうものが切なさに駆られ、その古びた地球儀を抱きしめて頬ずりしたくなるが、自分でもその行為の気色悪さを自覚して思いとどまる。そうして地球儀のまち針を抜き、樋口師匠は今どこにいるのであろうと夢想する。 ちなみに幻の亀の子束子は明石さんの下宿にある。彼女は縦横無尽に使いこなしている。       ○ 城ヶ崎氏はいずれ研究室を出て、どこかへ就職するつもりらしいと羽貫さんから聞いた。そういえば、小津が盗みだそうと企てた無言の美女「香織さん」はどうしているのだろうか。城ヶ崎氏と幸せな生活を営んでいることを祈ってやまない。 当の羽貫さんは今も窪塚歯科医院で仕事に励んでいる。師匠がいなくなってから二ヶ月ほど経った頃、私は歯を診てもらった。親《おや》不知《しらず》が少し虫食いになっていたらしく、「来てよかったでしょう」と羽貫さんは言った。さらに私は、彼女に歯石を落としてもらう栄誉に浴した。彼女の名誉のために言い添えておかねばならないが、いかに戦国武将のような覇気漲る顔をしていようとも彼女の腕は繊細かつ確かで、正真正銘のプロフェッショナルであった。 師匠がいなくなった後の羽貫さんの心中は、私のような精神的無頼漢には想像すべくもないが、やはり寂しいに決まっている。そういうわけで、羽貫さんに誘われたときには、小津や明石さんを交えて酒を飲むことにしている。 そしてたいてい、ひどい目にあう。       ○ 樋口師匠唯一の気がかりであった「自虐的代理代理戦争」は、小津と私によって引き継がれた。この不愉快な戦いが、代理人を見つけるまで続くとなると、暗澹《あんたん》たる思いにならざるを得ない。 賀茂大橋の決闘によって、「先攻」は私と決まっていた。まずその手始めとして、小津が入院している隙に乗じて、彼が「ダークスコルピオン」と呼んでいる自転車を桃色に塗り替えた。およそ同じ自転車とは思えないほどに破廉恥なできばえであった。 松葉杖をついた小津が髪を逆立て、魚肉ハンバーグのようにぷりぷり怒って下鴨幽水荘へ乗りこんできた。「ひどいですよ。桃色に染めるのはいけません」「おまえだって樋口師匠の浴衣を桃色に染めたではないか」「あれとこれとは違うぞ」「違わないぞ」「明石さんに判定してもらおう。彼女ならきっと分かってくれる」 そういう案配で続いている。       ○ 師匠が失踪《しつそう》して、今や多少の新展開が私の学生生活に見られたからと言って、私が過去を天真爛漫《てんしんらんまん》に肯定していると思われては心外である。私はそう易々と過去のあやまちを肯定するような単純な男ではない。確かに、大いなる愛情をもって自分を抱きしめてやろうと思ったこともあったが、うら若き乙女ならばともかく、二十歳過ぎたむさ苦しい男を誰が抱きしめてやりたいものか。そういったやむにやまれぬ怒りに駆られて、私は過去の自分を救済することを断固拒否している。 あの運命の時計台前で、弟子入りを決めたことへの後悔の念は振り払えない。もしあのとき、ほかの道を選んでいればと考える。映画サークル「みそぎ」に入っていれば、あるいはソフトボールサークル「ほんわか」を選んでいれば、あるいは秘密機関〈福猫飯店〉に入っていれば、私はもっと別の二年間を送っていただろう。少なくとも今ほどねじくれていなかったのは明らかである。幻の至宝と言われる「薔薇色のキャンパスライフ」をこの手に握っていたかもしれない。 いくら目を逸らそうとて、あらゆる間違いを積み重ねて、二年間を棒に振ったという事実を否定することはできまい。なにより、小津と出会ってしまったという汚点は生涯残り続けることであろう。       ○ 樋口師匠失踪事件の直後、小津は大学のそばにある病院へ入院していた。 彼が真っ白なベッドに縛りつけられているのは、なかなか痛快な見物であった。もともと顔色が悪いので、まるで不治の病にかかっているように見えるのだが、その実は単なる骨折である。骨折だけで済んだのが幸いと言うべきだろう。彼が三度の飯よりも好きな悪行に手を染めることもできずにぶうぶう言っている傍らで、私はざまあみろと思ったのであるが、あまりぶうぶううるさいときには見舞いのカステラを口に詰めこんで黙らせた。 なぜ小津は骨折したのか。 あの蛾の大群が、賀茂大橋を通り抜けた宵へ時間は遡る。       ○ 顔にばたばたとぶつかって鱗粉をはね散らし、時には口の中まで押し入ろうとする蛾の大群を押しのけつつ、私は明石さんのそばに寄り、じつに紳士らしく彼女をかばっていた。 一方で小津は、身体中を満遍《まんべん》なく蛾の大群に撫で回されながらも、あの不気味な笑みを絶やすことなく、事態の沈静化を待っていた。ただヘアスタイルが乱れることを気にしていたのみである。 そのとき、うっすらと眼を開けた彼が見たものは、橋の欄干へよじ登ろうとする樋口師匠の姿であった。乱れ飛ぶ鱗粉の向こう、我等の師匠は蛾の大群に紛れて古都を飛び去ろうとするかのように、欄干に立って両手を広げた。小津は「師匠」と思わず叫んだ。数匹の蛾が口に飛びこんで噎《む》せ返ったが、それでも欄干に取りついて、師匠の浴衣を夢中で掴んだ。ふいに師匠の身体が宙に持ち上がり、自分の身体もふわりと引き上げられるように思われた。師匠が彼を見下ろした。蛾の羽音に包まれていたけれども、自分は師匠がこう言うのを確かに聞いたと小津は主張する。「小津、貴君にはなかなか見所があるよ」 小津本人が語ったことだから信用はおけない。 そう言ってから、樋口師匠は引き留める小津の手から逃れた。 そして小津は欄干の上でバランスを失い、そのまま鴨川へ転落した。骨折し、橋脚へゴミのように貼《は》りついて身動きが取れずにいるところを、鴨川デルタで宴会していた応援団員に発見された。 私と明石さんがカフェで優雅に珈琲をすすっていたとき、賀茂大橋の西詰に停まった救急車は小津のために呼ばれたものだったのである。       ○ これで小津の骨折の説明はついたものの、樋口師匠の消失については説得力があるとは言えない。裏があるのではないかと私は疑った。「師匠が蛾に乗って旅に出たというのか?」「きっとそうです。間違いないぞ」「おまえの言うことは信用ならん」「僕が嘘をついたことがありますか?」「おまえが身体を張って師匠を止めようとしたなんて信じられるか」「しましたとも。師匠は大事な人ですから」 小津は憤然と言い返した。「本当にそこまで師匠を大事に思っていたなら、なぜ城ヶ崎氏との間を蝙蝠《こうもり》みたいにふらふらしていたんだ? あれは一体、どういうつもりだ?」 私は言った。       ○ 小津は例の妖怪めいた笑みを浮かべて、へらへらと笑った。「僕なりの愛ですわい」「そんな汚いもん、いらんわい」 私は答えた。[#改ページ]  第三話 四畳半の甘い生活 大学三回生の春までの二年間、実益のあることなど何一つしていないことを断言しておこう。異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的有為の人材となるための布石の数々をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか。 責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。 私とて誕生以来こんな有様だったわけではない。 生後間もない頃の私は純粋|無垢《むく》の権化であり、光源氏の赤子時代もかくやと思われる愛らしさ、邪念のかけらもないその笑顔は郷里の山野を愛の光で満たしたと言われる。それが今はどうであろう。鏡を眺めるたびに怒りに駆られる。なにゆえおまえはそんなことになってしまったのだ。これが現時点におけるおまえの総決算だというのか。 まだ若いのだからと言う人もあろう。人間はいくらでも変わることができると。 そんな馬鹿なことがあるものか。 三つ子の魂百までと言うのに、当年とって二十と一つ、やがてこの世に生をうけて四半世紀になんなんとする立派な青年が、いまさら己の人格を変貌《へんぼう》させようとむくつけき努力を重ねたところで何となろう。すでにこちこちになって虚空に屹立《きつりつ》している人格を無理にねじ曲げようとすれば、ぽっきり折れるのが関の山だ。 今ここにある己を引きずって、生涯をまっとうせねばならぬ。その事実に目をつぶってはならぬ。 私は断固として目をつぶらぬ所存である。 でも、いささか、見るに堪えない。       ○ かぎりなく実り少なき二年の後、私は三回生になった。 その五月の終わり頃に起こった、私と三人の女性を巡るリア王ばりの劇的事件について、これから書こうとしているのであるが、これは悲劇でもなく喜劇でもない。これを読んで涙を流す人がいるとすれば、それは感受性が不必要なまでに鋭いか、コンタクトレンズにカレー粉が付着していたか、いずれかに違いない。また、これを読んで腹の底から笑う人がいるとすれば、私はその人を腹の底から憎んで地の果てまで追い、親の敵のように熱いお湯を頭からかけて三分待つことであろう。 その意志さえあれば、どんな些細《ささい》なことからも人は何事かを学ぶことができると、おそらくどこかの偉人は言ったに違いないが、その言葉は当然、この一連の出来事についても適用することができる。 私もさまざまなことを学んだ。あまりにも学び過ぎたので、とてもすべて挙げることはできない。敢《あ》えて二つ選ぶとするならば、やすやすとジョニーへ主導権を委譲してはいけないということ、賀茂大橋の欄干には立つな、ということになる。 そのほかについては、本文から適宜読み取っていただきたい。       ○ 五月の終わりの静かな夜、丑《うし》三つ時である。 私が起居しているのは、下鴨泉川町にある下鴨幽水荘という下宿である。聞いたところによると幕末の混乱期に焼失して再建以後そのままであるという。窓から明かりが漏れていなければ、廃墟《はいきよ》と間違えられても仕方がない。入学したばかりの頃、大学生協の紹介でここを訪れたとき、九龍城に迷いこんだのかと思った。今にも倒壊しそうな木造三階建て、見る人をやきもきさせるおんぼろぶりはもはや重要文化財の境地へ到達していると言っても過言でないが、これが焼失しても気にする人は誰もいないであろうことは想像に難くない。東隣に住んでいる大家ですら、いっそせいせいするに違いない。 110号室の四畳半に端座し、私は蛍光灯を睨《にら》み上げた。薄暗く、なんだかちらちらする。早く交換せねばならんと思っているのだけれど、面倒臭くてまだ交換しない。 おもむろに猥褻《わいせつ》文書などを紐《ひも》解こうとしていたところ、唐突に唾棄《だき》すべき親友である小津が訪れてドラムのようにドアを叩《たた》きまくり、私の愛する静謐《せいひつ》な時間をめちゃめちゃにした。私は居留守を使って読書に耽《ふけ》ろうとしたが、小津は虐げられた小動物のような声を上げて、ドアを開けろと迫るのである。相手の都合を考えずに行動するのは彼の十八番であった。 私がドアを開けると、小津は例のぬらりひょんのような笑みを浮かべ、「ちょいと失礼しますよ」と言うと「ささ、香織さん。ムサクルシイところで申し訳ないですが」と廊下の暗がりへ声をかけている。 草木も眠る丑三つ時に下鴨神社|界隈《かいわい》を女性同伴でうろうろして、ふしだらな桃色遊戯に耽るとは言語道断。しかしながら、女性がいるとなれば、猥褻文書を片づけるぐらいのたしなみは私にもある。 慌てて文書類を猥褻図書館に収納する私を尻目《しりめ》に、小津は小柄な女性をおぶって、部屋へ入ってきた。さらさらとなびく髪が美しいが、そんな可憐《かれん》な女性が小津のような妖怪《ようかい》に身を任せているのは、弁護しようもないほどに犯罪めいた光景であった。「なんだ。その人、酔ってるのか?」 私が心配して声をかけると、「なあに。これ人間じゃないんです」 と小津は妙なことを言う。 小津はその女性を本棚に凭《もた》れかかる恰好《かつこう》にして座らせた。重かったらしく、彼は額に汗を浮かべていた。彼が女性の髪を整えると、隠れていた顔が覗《のぞ》いた。 彼女は可愛らしい顔をしていた。肌は人間の肌そっくりの色合いをしているし、ソッと触れてみると弾力がある。髪は丁寧に手入れされ、整えられた衣服には乱れがない。まるで高貴な生まれの女性のようである。しかし、彼女は微動だにしない。どこか遠くに目をやった瞬間に凍らされた人のようであった。「こちら、香織さんです」 小津が紹介した。「これは何だ?」「ラブドールですがね。ちょっと僕の部屋には置いておけないし、ここで預かっておいて欲しいのです」「丑三つ時に押しかけて、よくそんな勝手なことが言えるな」「まあまあ。ほんの一週間ぐらいですよ。悪いようにはしませんって」 小津はぬらりひょんのような笑みを浮かべた。「それにほら、むさくるしい四畳半にぱっと花が咲いたようでしょう。これで部屋が少しは明るくなるんじゃないですかね」       ○ 小津は私と同学年である。工学部で電気電子工学科に所属するにもかかわらず、電気も電子も工学も嫌いである。一回生が終わった時点での取得単位および成績は恐るべき低空飛行であり、果たして大学に在籍している意味があるのかと危ぶまれた。しかし本人はどこ吹く風であった。 野菜嫌いで即席ものばかり食べているから、月の裏側から来た人のような顔色をしていて甚《はなは》だ不気味だ。夜道で出会えば、十人中八人が妖怪と間違う。残りの二人は妖怪である。弱者に鞭《むち》打ち、強者にへつらい、わがままであり、傲慢《ごうまん》であり、怠惰であり、天《あま》の邪鬼《じやく》であり、勉強をせず、誇りのかけらもなく、他人の不幸をおかずにして飯が三杯|喰《く》える。およそ誉《ほ》めるべきところが一つもない。もし彼と出会わなければ、きっと私の魂はもっと清らかであっただろう。 それを思うにつけ、一回生の春、ソフトボールサークル「ほんわか」に誤って足を踏み入れたことがそもそも間違いであったと思わざるを得ない。       ○ 当時、私はぴかぴかの一回生であった。すっかり花の散りきった桜の葉が青々として、すがすがしかったことを思いだす。 新入生が大学構内を歩いていればとかくビラを押しつけられるもので、私は個人の情報処理能力を遥《はる》かに凌駕《りようが》するビラを抱えて途方に暮れていた。その内容は様々であったが、私が興味を惹《ひ》かれたのは次の四つであった。映画サークル「みそぎ」、「弟子求ム」という奇想天外なビラ、ソフトボールサークル「ほんわか」、そして秘密機関〈福猫飯店〉である。おのおの胡散臭《うさんくさ》さには濃淡があるものの、どれもが未知の大学生活への扉であり、私は好奇心でいっぱいになった。どれを選んでも面白い未来が開かれると考えていたのは、手の施しようのない阿呆《あほ》だったからである。 講義が終わってから、私は大学の時計台へ足を向けた。色々なサークルが新歓説明会の待ち合わせ場所にしているからだ。 時計台の周辺は湧き上がる希望に頬を染めた新入生たちと、それを餌食《えじき》にしようと手ぐすねひいているサークルの勧誘員たちで賑《にぎ》わっていた。幻の至宝と言われる「薔薇色《ばらいろ》のキャンパスライフ」への入り口が、今ここに無数に開かれているように思われ、私は半ば朦朧《もうろう》としながら歩いていた。 そこで私が見つけたのが、映画サークル「みそぎ」の手看板を持って待っている学生数人であった。新入生歓迎の上映会が行われるので、そこまで案内するという。しかし何となく声をかける踏ん切りがつかず、私は時計台前を廻《まわ》っていった。ふと、「ほんわか」と書いた手看板を掲げている学生を見つけた。「ほんわか」とは、週末にグラウンドの隅を借りてソフトボールをやっているサークルである。練習は出たい人間だけが出ればよく、ときおり行われる試合に参加するだけであとは自由である。その「ほんわか」という暢気《のんき》な名前と、ゆるゆるの運営方針がいたく私の心を打った。聞けば女性も大勢いるという。 高校時代は運動部に所属していたわけでもないし、また文化系の活動をしていたわけでもない。とにかくできるだけ活動せずに息をひそめて、同じように非活動的な男たちとくすぶっているばかりだった。 私は「運動するのも悪くあるまい」と考えた。本格的な体育会であれば、荷が重過ぎる。しかしこれはただのサークルである。しかもどちらかといえば仲良く交流することに主眼があり、連日連夜白球を追い回して全国大会優勝を目指したりする気づかいはない。鬱々《うつうつ》たる高校時代よサラバ、こういう集いに加わって爽《さわ》やかに汗を流しながら、友だち百人作るのも悪くない。みっちり修行を積んだあかつきには、ソフトボールを投げ合うように、美女たちと難なく言葉のキャッチボールをこなす社交性が身につくに違いない。これは社会に出て生きていくためにも、ぜひとも身につけておかねばならない能力だ。決して美女と交流したいのではない、技術を身につけたいのだ。しかし技術を身につけた結果、美女もついてくるならば、とくにそれを拒むつもりはない。大丈夫さ、安心して僕のところへおいで。 そういう風に私は考え、武者震いさえした。 繰り返すが、手の施しようのない阿呆だったのである。 かくして「ほんわか」に入った私は、にこやかに語らい、爽やかに交流することがどんなに難しいことかということをイヤというほど思い知らされた。私の想像を越えたぬるま湯状態がちゃんちゃらおかしく、とても馴染《なじ》むことはできない。なんだか恥ずかしくてたまらない。柔軟な社交性を身につけようにも、そもそも会話の輪に入れない。会話に加わるための社交性をどこかよそで身につけてくる必要があったと気づいたときにはすでに手遅れであり、私はサークルで居場所を失っていた。 いとも簡単に夢は破れた。 しかし、途方に暮れた私に人間味を感じさせる男が同じサークルに一人だけいた。 それが小津という男だったのである。       ○ 大変な作業だったのでお腹が空いちゃったと小津が言った。猛烈な猫ラーメンへの誘惑に駆られたので、二人で下鴨幽水荘を出て、夜陰にまぎれて屋台を目指した。猫ラーメンは猫から出汁《だし》を取っているという噂がある屋台ラーメンであるが、その噂の真偽はともかく、味は無類である。 小津は湯気の立つラーメンをすすりながら、あの人形「香織さん」は、師匠の命令にしたがって、ある人物の下宿から盗みだしてきたものだと言った。「おまえ、それ犯罪じゃないか」「そうかしらん?」小津は首をかしげた。「あたりまえだ。俺は共犯はごめんだぜ」「だって、師匠とその人は五年来の友だちですからね。たぶん分かってくれますよ」 小津は「それに」と、弁護の余地のない卑猥《ひわい》な笑みを浮かべた。「あなただって、ちょっとあの子と暮らしてみたいと思ったに決まってるんだ。僕には分かります」「コノヤロウ」「そんな怖い目で見ないで」「おい、くっつくなよ」「だって寂しいんだもの。それに夜風が冷たいの」「この、さびしがりやさん」「きゃ」 暇つぶしに、猫ラーメンの屋台で意味不明の睦言《むつごと》を交わす男女を模倣することにも、やがて虚《むな》しさを感じた。しかも、なんだかそういったことを以前にやっていたような気がするのが腹立たしい。「おい、俺ら、前にもこんなことしてなかったか」「してるわけないでしょう、こんな阿呆なこと。デジャヴですよデジャヴ」 そうやって阿呆なことを言い、猫ラーメンのたぐいまれな味に恍惚《こうこつ》と不安の間を絶え間なく揺れ動いていると、新しい客が来て我々の隣に立った。見ると妙な風体をしていた。 紺色の浴衣《ゆかた》を悠然と着て、天狗《てんぐ》が履くような下駄《げた》を履いている。何となく仙人じみている。私は丼から顔を上げて横目で観察し、その怪人を下鴨幽水荘で幾度か見かけたことを思いだした。みしみし言う階段を上っていく後ろ姿、物干し台で日向《ひなた》ぼっこしながら留学生の女の子に髪を切ってもらっている後ろ姿、共用の流しで謎めいた果物を洗っている後ろ姿。髪は台風八号がいま通り抜けたかのようにもしゃもしゃ、茄子《なす》のようにしゃくれた顔に暢気そうな眼をしている。年齢不詳で、おっさんかと思いきや、大学生のようでもある。「あ、師匠もいらしたんですか?」 小津がラーメンをすすりながら頭を下げた。「うん。いささか小腹が空いた」 その男も腰かけてラーメンを一つ頼んだ。その風変わりな男が小津の師匠らしかった。師匠のラーメンの代金は小津が支払った。吝嗇《りんしよく》な小津にしては珍しいことである。「これで城ヶ崎さんは大打撃を受けること確実ですよ。まさか喫茶店から戻ったら香織さんが家出してるとは、夢にも思ってないでしょう」 小津が勢いこんで言うと、師匠は顔をしかめて葉巻に火を点《つ》けた。「さっき明石さんが来てね、香織さんの誘拐はやり過ぎだと言われた」「なんでまたそんな」「こんな風に他人の愛を踏みにじるのは冗談ではすまないと言い張ってた。たとえ相手が人形だとしてもね。彼女は自主破門する覚悟だそうだ」 師匠は無精|髭《ひげ》の散らばった顎《あご》をごりごり掻《か》いている。「彼女もふだんは硬派なくせに、妙なところで情けをだす人ですねえ。でも師匠、ここは師匠らしくガツンと言ってやらなくちゃ。相手が女性だからって遠慮しちゃいけません」「ガツンと言うのは私の趣味ではないなあ」「だってもう城ヶ崎さんのところから持って来ちゃったんだから。いまさら返しに行くのはお断りですぞ僕は」「それで香織さんはどこに置いてあるのかね?」「彼の部屋です」 小津は私を指さした。私は無言で頭を下げた。浴衣の男は「おや」と言うような顔をして私を見た。「下鴨幽水荘の人じゃなかったかい?」「そうです」「そうかあ。手をかけるね」       ○ そこから下鴨幽水荘まで戻って、小津は人形を運んできた車で帰った。小津の師匠は私に黙礼して、二階へ上った。 自室へ戻れば、大きな人形は相変わらず本棚に凭れて夢見るような目をしている。 帰途、小津と師匠はぶつぶつと話し合って、「持ってきてしまったものはやむを得ないから、しばらく様子を見よう」という結論をだしたらしい。しかし、その話し合いの蚊帳《かや》の外にいた私の四畳半に人形が置かれているのは、理屈に合わないのではないか。小津は師匠を説き伏せて得意満面、師匠は私が預かるのが当然という顔をしていた。タッグを組んだ狸と狐に化かされたようなものだ。 ソフトボールサークル「ほんわか」を一緒に辞めて以来、小津とは付き合いが続いていた。彼はサークルを一つ辞めたとしてもほかに色々とやることがあるらしい。謎の秘密組織に属しているとか、映画サークルで尊敬の的であるとか、日々忙しそうにしている。 中でも下鴨幽水荘の二階に住んでいる人物を訪ねるのは小津の大事な習慣であった。彼はその人物を「師匠」と呼び、一回生の頃からこの幽水荘に出入りしていた。そもそも小津との腐れ縁が断ち切りがたくなったのは、同じサークルから同じように逃げだしたということもさることながら、彼が頻繁にこの下鴨幽水荘を訪ねてくるからでもあった。その師匠は何者かと訊《たず》ねても、小津はにやにやと卑猥な笑みを浮かべるばかりで答えようとしない。おおかた猥談の師匠であろうと私は思っていた。 四畳半に座りこんで、唐突に同居人となった香織さんを眺めた。じつに腹立たしいことだが、なかなか愛嬌《あいきよう》のある人形であることは認めざるを得ない。「香織さん。汚いところですが、まあゆっくりしていきたまえ」 そう言ってみた後、我ながら阿呆らしくなったので布団を敷いて寝た。       ○ その動かぬ美女香織さんが我が四畳半へ闖入《ちんにゆう》したときから、歯車が狂い始めたのだと言える。静謐であった私の生活に、わずか数日の間に怒濤《どとう》のごとく奇想天外な出来事が押し寄せ、私は激流に巻きこまれた笹舟のように揉《も》みくちゃにされたあげく、わけのわからぬまま、別の方角へ放りだされていた。すべては小津の責任である。 翌日、私は布団の中でうっすらと目を開いたが、清楚《せいそ》な女性が本棚に凭れているのを見て仰天した。 我が四畳半に女性とは。古今|未曾有《みぞう》の奇怪事である。 自分がどこかの深窓の御令嬢と不埒《ふらち》な恋の火遊びをしたあげく彼女を部屋に泊め、当の彼女は先に目を覚まして昨夜のあやまちに愕然《がくぜん》とするあまり本棚に凭れたまま身動きも取れなくなっているのではないか。責任、話し合い、結婚、大学中退、貧乏、離婚、大貧乏、孤独死という一連の流れが走馬燈のように脳裏を駆けた。とうてい私には手に負えない状況だと思って、生まれたての子鹿のようにぷるぷると布団の中で震えていたが、やがて前夜の出来事を思いだし、彼女が人形であったことを思いだした。 あんまり驚いたので目も覚めた。 香織さんは昨夜から身動き一つしていない。彼女へ「おはよう」と挨拶《あいさつ》したあと、珈琲《コーヒー》を沸かし、三分の一ほど残っていた魚肉ハンバーグのかたまりをこんがり焼いて朝食とした。食べているあいだ、なんとなく香織さんに話しかけた。「しかしね、香織さん。君も災難ですな。こんな男汁で煮しめたみたいな四畳半にいるのは辛《つら》いでしょう。小津はひどいやつですからね。あいつは昔から思いやりというものがないんだ。他人の不幸で御飯を三杯食べる男だ。子ども時代に親の愛が足りなかったのかもしれん。……それにしても君は無口ですなあ。せっかくこんなにすがすがしい朝なのに、何をそんなにふてくされているのだ。さあ、何か言ってみるがよい」 あたりまえだが、彼女は無言である。 私は魚肉ハンバーグを食べ終わり、珈琲を飲んだ。 さすがに休日の朝からお人形さんに喋《しやべ》りかけて退屈を紛らわしている場合ではない。私にも現実の生活がある。ここ数日ぐずついていた天気も良くなったので、早起きもしたし、近所のコインランドリーへ出かけて洗濯をしようと考えた。 コインランドリーは下鴨幽水荘から歩いて数分の町中にある。 衣類を放りこんで洗濯機を回し、缶珈琲を買いに出た。戻って来ても、コインランドリーには人影はなく、私がいつも使っている左端の洗濯機だけが動いている。うららかな陽射しの中、私は珈琲を飲み、煙草をふかした。 洗濯が終わり、蓋《ふた》を開けたとたん、私は愕然とした。 私の愛用の下着類は見るかげもない。代わりにぽつんと入っていたのは、スポンジでできた小さな熊のぬいぐるみであった。私はしばし、その愛らしい熊のぬいぐるみと睨みあった。 奇怪千万。 コインランドリーから女性の下着が盗まれたというのならば、まだ理解できる。しかし、私のような男と苦節二年をともにしてきた灰色ブリーフを盗んだところで何が面白かろう。むしろ無用の哀しみを背負いこむだけではないか。しかも犯人が下着類を盗んだあとに、愛らしい熊のぬいぐるみを残していったことで、謎はさらに深まる。犯人はこのぬいぐるみにどのような意味をこめたのか。私への愛だろうか。しかし私の下着を好んで持って行くような犯人の愛など私はいらない。もっと何かこう、ふはふはして、繊細微妙で夢のような、美しいものだけで頭がいっぱいな黒髪の乙女の愛が欲しいのである。 ほかの洗濯機の蓋も開けてみて、乾燥機も調べたが、私の下着類の行方は杳《よう》として知れない。私は地団駄を踏んだ。警察に届けるのも馬鹿馬鹿しい。だいたいこんなに謎めいた犯人は明らかにしてほしくない。 私はそのスポンジ熊を抱えて家路を辿《たど》った。手ぶらで帰るのもしゃくだったからである。めらめらと怒りが燃え上がったがどうすることもできない。私はスポンジ熊をむにむにと押し潰《つぶ》して怒りを発散した。       ○ コインランドリーの盗難事件で、すっかり気分を害した私は魚肉ハンバーグのようにぷりぷり怒りながら四畳半へ帰った。 西日が射すと蒸し暑くなる四畳半も、まだ午前中なので涼しい。本棚のわきでは、香織さんが私の帰りを待っていた。さんざんぷりぷり怒っていた私であるが、香織さんの静かな横顔を眺めていると、心が落ち着いてくるようだった。小津はこの香織さんを誰かから盗んできたと言っていたが、今ごろ、その不幸な人は血眼で彼女の行方を追っているであろう。香織さんの清楚な様子から想像するに、蝶《ちよう》よ花よと慈《いつく》しまれていたと思われる。 ただ漫然とそこに座らせておくだけでは、人間味がない。私は彼女の膝《ひざ》に下鴨神社の古本市で購入した『海底二万海里』を広げることにした。そうすると、まるで彼女は私の部屋の一角を借りて、海洋冒険小説に夢を膨らませる知的な黒髪の乙女のようになった。彼女の魅力がうまく引きだされている。 誰もいない、むしろ誰も入りたくもない四畳半。 ここにいるのは私と彼女だけである。多少おいたをしたところで、誰に非難されるいわれもない。だが私は自分で自分を誉めたくなるような自制心を発揮して、きわめて丁重に彼女を扱った。第一、彼女は小津から預かったものである。妙なことをして、小津にいちゃもんをつけられるのは私の誇りが許さない。 それから私は机に向かい、下着を盗まれてささくれだった心を静めるべく、先日届いた手紙を読むことにした。手紙の相手は女性である。 読者諸賢、驚くなかれ、私は文通をしていたのである。 彼女は浄土寺《じようどじ》で一人暮らしをしていて、名を樋口景子《ひぐちけいこ》といった。若い女性で、四条河原町の英会話学校で事務の仕事をしている。趣味は読書と園芸である。ベランダで育てている花について、彼女は楽しそうに書いた。彼女の筆跡は美しかったが、手紙の文章もじつに美しく、非の打ち所がなかった。 しかし、私は彼女に一度も逢《あ》ったことがないのである。       ○ たいへん古典的であるが、私は手紙を書くのが大好きで、文通というものに昔から憧《あこが》れていた。相手が妙齢の女性ならばなおのことだ、というよりも妙齢の女性をのぞいた知的生命体と文通なんぞしてたまるか、という所存のほぞを固めるほど「文通」というものに一途で純粋な思いを抱いていた。 ここで肝要なのは、必ず手書きの「手紙」であるということ、そしてどんなことがあっても、たとえ地獄の釜《かま》が開こうとも世界の終わりが来ようとも、相手に会ってはならないということである。とくに後者は絶対に守らなければならない。相手が妙齢の女性だと分かっている場合、会ってみたいという思いがふつふつと湧き上がるのは男として自然であろう。しかしここが我慢のしどころなのだ。下手をすれば、大切に培ってきた典雅な関係が、一瞬にして水泡に帰すことになる。 いつの日か、思いもかけぬ好機を得て、典雅な文通がしたいなあと夢見て、私はうずうずしていた。だが、見も知らぬ妙齢の女人と文通を開始するのは、思いのほか難しい。妙齢の女人が住んでいることを祈り、当てずっぽうに適当な住所へ手紙を送りつけるのは、無粋、さもなくば変態である。しかし、文通がしたいからと言って、わざわざ「日本文通愛好会京都支部」のようなものを訪ねるのも、私の美学に反するのである。 この秘めたる思いを小津にもらしたとき、さんざん変態呼ばわりされた。弁護の余地もないほど卑猥な上目遣いをして彼は言った。「それで見知らぬ女性に卑猥な言葉を送りつけて興奮するんでしょう、まったく手のつけられないエロなんだから困ってしまう。この桃色筆まめ野郎!」「そんな不埒なことはせん」「またまた。僕には分かってます。あなたの半分はエロでできている」「うるさい」 それなのに、その小津がきっかけで、「文通」をする絶好の機会が訪れた。 二回生の秋、ふだんは猥褻文書ぐらいしか嗜《たしな》まない小津が、めずらしく普通の小説を読んだらしく、それを私にくれた。今出川通にある古本屋の百円均一箱に放りこんであったのを、何の気なしに買ってみたのだという。読み終わったし汚いからもういらんと勝手なことを言った。 女性に縁のない時代遅れな学生の苦悩を綿々と描いているその小説は典雅とはほど遠く、面白くもなかったが、私の目は最後のページに釘づけになった。そこには美しい筆跡で住所と名前が書いてあった。普通は古本屋へ売る前にこういった名前は消すものであるし、いらぬトラブルが起こらないように古本屋が消すこともあるだろう。しかしつい見落とされたようである。 ふいに「これは絶好の機会だ」と思った。これこそ天の采配《さいはい》ではないのか。見知らぬ女性と文通を開始する千載一遇の好機ではないのか。 冷静に考えれば、その女性が若いと断定するには材料が足りない。ましてや彼女が読書好きで少し内気でしかも自分の美しさになぜかまだ気づいていない妙齢の女性だと断定するに至っては変態と呼ばれても仕方がない。しかし私は、ここぞというときには敢えて変態の汚名を着ることも辞さない男だ。 そそくさと出町商店街へ出かけて、美しく、かつ、この変態的所業を補ってあまりあるほどに誠実さの溢《あふ》れた便箋《びんせん》を購入した。 唐突に手紙を送りつけるのであるから、内容は当たりさわりのないものが良かろうと考えるぐらいの良識はあった。初手から何だかよく分からない汁がいっぱいしたたるような手紙を送っては、それこそ通報されても文句が言えない。唐突に手紙を送りつける非礼をまず丁寧に詫《わ》び、自分が真面目に学業に励む学生であることを嫌みなくサラリと書き添え、昔から文通に憧れていたということを素直に述べ、読み終えた小説について誉めるでもなく貶《けな》すわけでもない感想を書き加え、敢えて返信が欲しいなどとは一言も書かなかった。あまり長々と書くと変態が匂い立つので、推敲《すいこう》に推敲を重ねて便箋一枚半にまとめ上げた。書き終えてから読み返してみても、全編から匂い立つ誠実さには一筋の邪念も見えず、我ながら惚《ほ》れ惚れとするできばえだった。やはり手紙は心で書くものだと思った。 この風紀紊乱《ふうきびんらん》の世で、見ず知らずの他人から送ってよこした手紙に返事をするのは、相当な決意を必要とする。蝶よ花よと育てられた深窓の御令嬢であれば尚のことだ。「もし返事が来なくても傷つかないようにしよう」と私は覚悟していたが、ちゃんと返事が来たので舞い上がった。 こうして、嘘のように簡単なきっかけから、我々の半年にわたる、そしてその五月におよそ考えつくかぎり最悪の結末を迎える文通の火蓋が切られた。       ○ 拝啓 葵祭《あおいまつり》が終わったと思ったら、急に蒸し暑くなってきました。梅雨入りの前に、夏の飛び地へ迷いこんだような気がします。 私は暑さが苦手ですので、早く梅雨になってくれれば良いのになあと思っています。梅雨はじめじめして嫌いだと言う人が多いですけれども、私はしとしと雨が降り続いている日などは落ち着いて過ごすことができます。祖父母の家にはたくさんの紫陽花《あじさい》があって、雨の中にぼんやりと咲いているのを縁側から眺めるのが、子どもの頃から好きでした。 先日薦めていただいたジュールヴェルヌの『海底二万海里』、あれから少しずつ読んで、今は第三部に入りました。これまで子ども向けのものだと思っていたのですが、とても奥の深い小説ですね。ネモ艦長の謎めいた雰囲気も好きですが、私はどちらかといえば銛《もり》打ちのネッドランドが好きです。潜水艦に閉じこめられて、活躍する場所のない彼は可哀想です。同じように閉じこめられても教授とコンセーユは何だか楽しそうなのに、ネッドランド一人が苛々《いらいら》しているので、つい彼に肩入れしたくなってしまうのでしょう。あるいは、私がネッドランドのように食いしん坊だからかも。 私がお薦めするとすれば、スティーヴンソンの『宝島』でしょうか。もうお読みになっているかもしれませんが、子どもの頃に読んだことがあります。 私の仕事の方は相変わらずで、とくに大きな事件もありません。 このあいだ日本に三年いた講師の方が帰国することになって、その送別会が御池通《おいけどおり》のアイリッシュパブで開かれました。私はお酒が飲めないのですけれども、アイルランド料理を楽しんできました。白身魚の揚げ物がとても美味《おい》しゅうございました。 帰国されるのはサンフランシスコ出身の男性で、サンフランシスコに来ることがあれば会おうと言われました。三十歳半ばぐらいの人なのですが、また大学へ行くそうです。私も外国の大学へ留学してみたいと思うのですが、日々のことで精一杯で、なかなか実現しそうもありません。 私が言うのはよけいなことかもしれませんが、大学で自由に勉強できるということは、とても素晴らしいことだと思います。貴方ならきっと、与えられた機会を生かして、存分に自分を高めていかれることでしょう。この春から三回生に進んでお忙しいとは思いますが、自分を信じて頑張って下さい。 ただ、何をするにしても健康が一番大切ですから無理は禁物です。 魚肉ハンバーグが美味しいとお書きになってましたが、あまり魚肉ハンバーグだけに偏らないように、もっと色々なものを食べて、御自愛下さいませ。

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