彼女はパパの妻だが、わたしの母親役をやろうとはしなかった。まるで、自分よりも少しばかり先にこの家へ住み着いていた居候《いそうろう》程度にしかわたしのことを見ないのだ。わたしの方でも、彼女の娘役《むすめやく》などごめんだと思っている。 なぜ、こんなにキョウコと打ち解けあえないのか、よくわからない。ただ、彼女の出現で、ひどく自分が不安定になっていることは感じる。母が死んだ後もかろうじて菅原家とつながっていた脆弱《ぜいじゃく》な糸が、彼女によって断ち切られそうな不安を感じる。 悔《くや》しいのでわたしは、パパの目の前で、本当の母の形見であるボロボロになったハンカチをなでてみせたりする。それはもともと真っ白なシルクのハンカチだったが、今では黄色く変色してしまっている。本当は捨ててしまっても全然かまわないのだが、なにしろ死んだ母の愛用品である。これをなでながらため息なんかついてみせると、パパはキョウコのことなんかすっかり忘れて「ああ、ナオ……そんなにも母親のことを想《おも》い続けているのかい」という反応を見せるのである。そんなときのキョウコの表情はおもしろく、ハンカチは彼女への武器として抜群《ばつぐん》の破壊力《はかいりょく》を持っていた。 考えてみれば菅原家の中で、わたしとキョウコの二人だけ「菅原」という姓《せい》の血が流れていないのだ。これは、どちらがこの家に残ることができるのかという生存競争であるように思えたし、あるいは権力|闘争《とうそう》のようにも感じた。 ずっと胸のうちに隠《かく》れていた、本当はこの家の者ではないのだという血の隔《へだ》たりについて、最近、よく考える。自分は部外者であるという焦燥《しょうそう》にかられる。家を、追い出されたくない。いつのまにか現在の生活に対する執着《しゅうちゃく》が生まれてしまっているのだろうか。いや、そうではない。わたしは、菅原家を追い出され、すがる者のだれもいない世界にただ一人だけ放《ほう》り出されるのが怖《こわ》いのではないだろうか。 だから、キョウコに敵愾心《てきがいしん》を感じる。わたしが家にいない間、部屋《へや》に忍《しの》び込んでいる彼女に怒《いか》りを感じる。しかし、彼女を犯人とする証拠《しょうこ》が何もない。 なんとかして、キョウコがわたしの部屋へ入っていることを証明しなくてはいけないと思った。 わたしが家出をしたのは、十二月二十日のことだった。 原因は、キョウコとの不和にあった。ほんのしがない理由から生じたいがみ合いだったのだろう、どのような筋道をたどって家を飛び出したのか、よく覚えていない。ただ、あまりにもむごたらしい罵倒《ばとう》の数々を交《か》わしたことはおぼえている。「キョウコのバカ! もし今ここに金属バットがあったら、あなたの弁慶《べんけい》の泣き所はただではすんでないからね!」「何よ! もし今、わたしの手に拳銃《けんじゅう》が握《にぎ》られていたら、あなたの胸と背中がトンネル開通していたところよ!」「もし今、ここに、目にしみる消臭《しょうしゅう》スプレーがあったら、キョウコの顔にふりかけてたわ!」「ここにあるコーヒーが冷めてなければ、あなたにかけて熱がらせたところなのに!」「もう! 切れ味の鋭《するど》い爪《つめ》きりで、無理やり、深爪《ふかづめ》させてやりたいわ!」「ビデオテープの角のところで、ぽかすか頭をたたいてやりたい!」 しばらくそんな聞くに堪《た》えない口喧嘩《くちげんか》をしていると、パパが止めに入ったのだ。それから喧嘩の理由を聞き、パパは彼女の肩《かた》を持った。わたしはいたたまれず、家を出てきてしまった。携帯《けいたい》電話も家に置いてきた。帰ってきなさいという電話がひんぱんにかかってくることを予想し、いちいちそれに応《こた》えるのも面倒《めんどう》だったのだ。 友人の家に二|泊《はく》三日ほど、潜《ひそ》んでいた。その間、彼女についてまわり、いろいろな場所へ行った。 家出をして二日後の、十二月二十二日。わたしと友人は、鷹師《たかし》駅で電車を降り、その界隈《かいわい》をぶらついた。駅のまわりはちょっとした繁華街《はんかがい》になっており、休日は人通りが激しかった。駅からしばらく南へ歩くと、大通りに出る。三日後にクリスマスを控《ひか》えたその日、通りには赤鼻のトナカイの歌が流れていた。立ち並ぶ店のガラスには、ソリに乗ったサンタの絵が白いスプレーで描《えが》かれている。歩く人々にはどことなく高揚《こうよう》した気分があった。寒さに肩をすくめ、身を小さくしていても、どこか期待感めいた楽しい雰囲気《ふんいき》があった。 厚く着こんだコートの肩を、行き交《か》う人々とこすらせながら、わたしと友人は通りを歩いた。鷹師駅から十五分ほど大通りを歩いたところで、友人が建物のひとつを指差した。両側には隙間《すきま》のないほど狭《せま》い間隔《かんかく》で建物が並んでいたのだが、ひとつだけ、店舗《てんぽ》の入っていないさびれたビルがあった。まわりはクリスマスの飾《かざ》りつけがされ、華《はな》やいだ雰囲気であるのに対して、そこだけ薄暗《うすぐら》く、寂《さび》しい雰囲気だった。 わたしたちはその建物に侵入《しんにゅう》してみた。彼女はいろいろな場所に忍《しの》び込むことが好きな人だ。彼女といっしょに歩いていると、まったく気まぐれに知らない道へ入っていったり、「あのビルの屋上へ行ってみようか」と突然《とつぜん》言いだしたりする。わたしは彼女の猫的《ねこてき》な気まぐれさに付き合い、無計画にそのビルへ入っていったのだ。 大通りに面した正面入り口には鍵《かぎ》がかかっておらず、すんなりと入ることができた。中は廃墟《はいきょ》のようで、取り壊《こわ》しをするお金がもったいないためにそのままかろうじて残されているといった印象だった。裏口があり、そこの鍵をはずしてビルを突《つ》き抜《ぬ》ける。建物の裏へ出ると、目の前には公園が広がる。公園と、立ち並ぶビルとの間には、大通りに並行して細い道が続いていた。こちらには人気《ひとけ》がなく、静かだった。並んだビルが、壁《かべ》のようにつらなり、人の流れをせき止めている。「知ってる? この辺り、案外、治安が悪いんだってよ」と、友人が言った。「引ったくりが多いんだって」 クリスマスの音楽が遠くから、寂しい裏通りにこだましていた。クリスマスセールのチラシが風に舞《ま》い、商品を入れていた段ボール箱の残骸《ざんがい》が店の裏側に積み上げられていた。 表の雰囲気《ふんいき》に比べて、あまりにも裏側は寂《さび》しい。友人の言葉が、心の中に重く沈《しず》み込む。 わたしは不意に、そろそろ家へもどってみようかという気になった。その場で友人と別れ、菅原家へ戻《もど》ることにする。 いかめしい面構えの正門を潜《くぐ》り抜《ぬ》け、菅原家の敷地内《しきちない》に入る。わたしの背丈《せたけ》の二倍はありそうな高い塀《へい》が家のまわりをぐるりと囲んでいる。中へ入るためには正門か裏門の、どちらかを抜けるしかない。正門は二台の車が並んで通ることができるほど広く、来訪者の顔を中から確認《かくにん》できるようにカメラが設置してある。 門のそばには、数台の車をいれておく車庫がある。その脇《わき》を通りすぎ、両側を植木に挟《はさ》まれた石畳《いしだたみ》の道をしばらく行くと、ようやく母屋《おもや》の玄関《げんかん》へたどりつく。扉《とびら》を開けようとして、錠《じょう》がかかっていることに気がついた。みんな出かけているのだろうかと思いながら、ポケットから鍵を取り出す。 予想通り、家の中は無人だった。わたしはだれにも遭遇《そうぐう》しないまま、自分の部屋《へや》へ向かった。この家にきた当時、広すぎると思った屋敷内《やしきない》も、今ではすっかり地図が頭に入っている。自分の部屋までの最短|距離《きょり》のルートを通り、母屋の中にいくつかある階段のひとつを上がる。並んでいる扉のうち、ほとんどの部屋は空き部屋だった。 わたしは、自分の部屋の扉を開けた。以前、修学旅行や友人の家族との旅行から帰ってきたとき、感じたような違和感《いわかん》はない。どうやらキョウコが部屋へ侵入《しんにゅう》する前だとわかり、ほっとした。部屋に入られるたび、悔《くや》しい思いをする。残念ながらわたしの部屋の扉に、鍵はついていないのだ。 家中を見てまわり、家族を探したが、やはりだれもいない。一旦《いったん》、母屋を出て、離《はな》れへ向かうことにする。 菅原家には、『母屋』と『離れ』、人の居住する建物が二つあった。母屋では、菅原の姓《せい》を持つ者が暮らしている。また、離れでは、住み込みで働く使用人や運転手の家族が生活していた。どちらも外見は日本家屋だが、母屋の方が圧倒的《あっとうてき》に大きく、離れはつけたしのように見えた。二つは並んで建っており、母屋の玄関を出て右手に沿って歩くと、離れの入り口に到着《とうちゃく》する。 それらの建て物の隙間《すきま》は十メートルほどの砂利道《じゃりみち》になっており、案外、人通りが激しい。家の玄関側と裏庭を行き来する際、その道を通るとたいへん都合《つごう》がよいのだ。二つの木造建築にはさまれた砂利道に立つと、軽く両側から圧迫感《あっぱくかん》を受ける。 二つの建物はどちらも二階建てで、お互《たが》いに向き合う面に窓のある部屋は見晴らしが悪い。わたしの部屋は母屋の二階、角に位置している。いくつかある窓のうち、ひとつを離れと向き合う面に持っていた。しかし、風通しをよくするために開けていることはあっても、その窓から景色《けしき》を眺《なが》めることはなかった。 離れの玄関を開け、中へ入る。いつもなら、狭《せま》い土間《どま》に、履《は》きふるした使用人たちの靴《くつ》が並んでいる。しかし、今はほとんどない。みんな、どこかへ行ってしまっているのだろうか。その場に立ったまま、奥《おく》の方を見るが、外の明るさに慣れた目では薄暗《うすぐら》くてよく見えない。下駄箱《げたばこ》の上に花瓶《かびん》が置かれており、枯《か》れた花に小さな蜘蛛《くも》が乗っていた。 離《はな》れでは四人の人間が生活していた。大塚《おおつか》夫妻、栗林《くりばやし》、楠木《くすのき》。いずれも住み込みで働いている使用人や運転手である。それぞれに部屋《へや》があてがわれており、ちゃんとした暮らしができるようになっている。 人のいるような気配はなかったが、声を出してみる。「だれか、いませんかー!」 一瞬《いっしゅん》の後、二階の方から、使用人のだれかが返事する声。 入り口で靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ、階段をのぼって二階へ上がる。離れは母屋《おもや》に比べて古く、廊下《ろうか》が狭《せま》い。階段に足をかけ体重をかけるたびに、木がきしむ音をたてる。天井《てんじょう》も低く、蛍光灯《けいこうとう》もどこか薄暗かった。 声の主が、部屋のひとつから顔を覗《のぞ》かせていた。楠木クニコという使用人だった。彼女は離れの中で、一番せまく、みすぼらしい部屋に住まわされていた。わたしはこれまで、ほとんど彼女と話をしたことがなかった。 クニコは一年前から菅原家で住み込みの使用人として働いている。彼女はどうやら、親戚《しんせき》のコネでこの家の仕事にありついたらしい。彼女の親戚が、昔、父の会社で働いていたらしく、そのつてで雇《やと》われたわけだ。使用人としては、もっとも新しく入ってきた人間である。 いつだったか、使用人の中でもっとも古株《ふるかぶ》である大塚の奥《おく》さんが、クニコのことで文句を言っていた。どうやら彼女はあまり気が回る方ではないらしく、いちいち仕事を指示しなくては動かない人間であるらしい。ようするに、あまり仕事ができないのだろう。 扉《とびら》から顔を出し、突然《とつぜん》の来訪者であるわたしの姿を認め、楠木クニコはあっけにとられた顔をした。少し間を置いた後、「あ、どうも」と頭を下げた。彼女は驚《おどろ》くほど背の高い人だった。ときどき、家で見かける彼女の動きは鈍《にぶ》く、まるで、背の高い植物がゆらゆらゆれながら歩いているようだった。 彼女は二十代半ばで、この寒い中、毎日同じ、毛糸で編まれた灰色のセーターと、古いジーンズを着用して仕事していた。セーターはよれよれで袖《そで》が伸《の》び、時間が経過するとずり落ちて、袖が彼女の手を覆《おお》ってしまう。縦に細長い彼女は、腕《うで》もやはり長く、それを覆い尽《つ》くすほど袖が伸びているということは、おそらくダンプカーかインド象に両袖を引っ張らせたにちがいない。とにかく、そのセーターを着こんだクニコは野暮《やぼ》ったく見え、少々知能指数が低く見えた。また、人付き合いもよい方ではなく、だれか他の使用人たちといっしょになって笑って話をしている様《さま》を、わたしは見たことがない。 わたしは彼女の部屋《へや》に入った。狭《せま》い部屋だった。日当たりが悪く、空気がよどんでいるような気がした。何かにおいがあるわけではないのだが、なんとなく体に悪いような気がした。 壁《かべ》にはセンスの悪い花柄《はながら》の壁紙がはってある。しかし彼女がそれを選んだわけではないだろう。もう何十年も前にはられたような古いもので、黄色く変色し、はがれかけてぼろぼろだった。なぜ家にだれもいないのか尋《たず》ねた。彼女はのろくさい、眠気《ねむけ》をさそうような声で答えた。どうやらわたしの家族は、家出した娘《むすめ》のことなど忘れて、楽しくクリスマスのショッピングへ出かけたらしい。しかも、たった数人の人間を移動させるためだけに、シャンデリアつきで、ゆったりワインの飲めるソファーがついたリムジンに乗って行ってしまったらしい。使用人である大塚のおじさんは、菅原家の運転手でもあり、彼がリムジンを運転しているのだろう。その妻である大塚のおばさんと栗林は、荷物運びとしてついていったようだ。楠木クニコだけ、留守番《るすばん》を命じられたようである。 わたしは悔《くや》しかった。家出して音沙汰《おとさた》のない娘を、心配してくれないのかあいつらは。家をあけていれば、部屋にキョウコが侵入《しんにゅう》しているし。みんなわたしのことを気にもかけず、楽しいことをやっているのだ。 クニコの話では、もうあと数時間すればみんな帰ってくるらしい。 わたしはふと、その部屋の窓から、外を見た。そこは離《はな》れの中でも、母屋《おもや》に面した側《がわ》にあった。砂利道《じゃりみち》を挟《はさ》んでちょうどわたしの部屋が正面に見える。クニコの部屋も二階、わたしの部屋も二階、まったく目と鼻の先で窓が向かい合っていることに、今まで気づかなかった。 名案が浮《う》かんだ。「クニコさん、お願いがあるの。しばらく、この部屋にいさせてくれないかしら」 家に戻《もど》ってきたことは、まだクニコしか知らないのだ。 これまで、長い間わたしが家にいないと、必ずといっていいほど、部屋にキョウコの入った形跡《けいせき》があった。しかし、さきほど部屋に行ったときは、まだその気配はなかった。つまり、これから侵入する確率は高い。 わたしの考えたこととは、クニコの部屋で張り込みを行い、犯人を現行犯で捕《つか》まえてやる、というものだった。「はぁ……」クニコはわたしの申し出を聞いて、しばらくぼんやりした後、あらためて驚《おどろ》いた顔をした。「え、この部屋に、ですか?」「もちろん、いさせてくれますよね。まさか、このわたしの頼《たの》みを断ろうなんて、ゾウリムシの繊毛《せんもう》ほども思ってないですよねっ」 強く断定|口調《くちょう》で頼み込んだわたしに、クニコは萎縮《いしゅく》した。「は、はい。その通りです。どうもすみません」 クニコは生真面目《きまじめ》に深く頭をさげた。なぜ彼女があやまるのかは不明だった。 わたしはクニコの部屋に住み着くことになった。彼女に決定権はなかった。わたしがそうしたいと言ったら、彼女にそれを覆《くつがえ》すことはできないのである。[#ここから7字下げ]2[#ここで字下げ終わり] クニコの部屋《へや》に居座《いすわ》ることを決め、すぐにわたしはその準備を行った。母屋《おもや》の自室へ戻《もど》り、自分の生活に最低限必要なものを持ってきた。クニコの部屋は狭《せま》く、かろうじて押《お》し入れがひとつだけあるものの、余計なものを置いておく充分《じゅうぶん》なスペースはない。 三|畳《じょう》の和室である。そのほとんどの面積を、唯一《ゆいいつ》の家具といっていいコタツが占《し》めている。それは小さなサイズのものだったが、クニコはコタツ布団《ぶとん》を寝具《しんぐ》としても利用していた。他《ほか》には何もない。インターネットやケーブルテレビ、DVDプレイヤーもない。窓から見える向かい側の母屋を見ると、わたしの部屋の窓が開いていた。どうやら閉め忘れたまま家出していたらしい。 窓を閉めに自分の部屋へ行き、ついでにいくつかの本を鞄《かばん》に詰《つ》める。一応、母の形見のハンカチももっていこう。クニコの部屋から監視《かんし》がしやすいように、カーテンは開け放しておく。靴《くつ》も、離《はな》れの出入り口に脱《ぬ》ぎ捨てておくわけにはいかないので、クニコの部屋へ運んだ。 いきなり現れて居座りはじめたわたしを、クニコは部屋の隅《すみ》に立ったまま、呆気《あっけ》にとられた顔で見ていた。「布団を敷《し》く場所はないみたいだから、わたしもコタツで眠《ねむ》ることにしますね」 わたしがそう言うと、ワンテンポ遅《おく》れて彼女はすまなそうにうなずいた。何も悪いことをしていないのに、なぜか彼女の動作には、「実に申し訳ない」という印象があった。人に話しかけられた時点ですでに、目や眉毛《まゆげ》、色素の薄《うす》い唇《くちびる》が「ごめんなさい」という形を作るのだ。 わたしが生活に必要なものを狭苦しい住みかに移動し終え、コタツで一息ついても、彼女は隅の方で観葉植物のように立っていた。手招きして座るようにうながすと、緊張《きんちょう》したように正座した。「足を崩《くず》しなさい」と言ってみた。彼女はそのようにした。まるでロボットのようである。「わたしはあなたより偉《えら》い」と、ためしに言ってみた。彼女は何も不思議がる様子を見せないで、こっくりとうなずいた。 クニコの部屋は小さな直方体である。入り口の引き戸は南側にあり、たてつけが悪く、常《つね》に途中《とちゅう》でひっかかる。性格の悪い入り口である。東側には小さな物置があり、西側はただの壁《かべ》だった。入り口と反対の北側に、窓がある。三畳の部屋にぎりぎり入っているコタツの一辺に陣取《じんど》り、西側の壁に背中をくっつけたまま、窓から外を眺《なが》める。窓下の高さは、ちょうどコタツに腰《こし》を下ろしたとき、わたしの首のあたりになる。ちょっと首を左にひねるだけで、足を赤外線で暖めるのと、母屋を観察することを、同時にできるわけである。 窓はすりガラスのため、閉《し》め切っていると外が見えない。そこで窓を少し開けておく。十二月の冷たい風が隙間《すきま》から飛び込んでくる。しかし問題はない。なぜなら、この部屋《へや》の窓はたてつけが悪く、窓を閉め切っていてさえ、なおもどこかに存在する隙間から寒さが忍《しの》び込んでくるのである。窓を開けていようが閉めていようが、同じことなのだ。そう、クニコに説明した。「わたしは母屋《おもや》の観察のために窓を開けているけど、もちろん、迷惑《めいわく》だとは思っていませんよね」 部屋の主人はめっそうもないという感じで、当然のごとく寒さを受け入れていた。なんてやさしい人なのだろう。もしやこの人は馬鹿《ばか》なのではないだろうか。そう思った。 わたしは服を厚く着込み、コタツの縁《ふち》と壁《かべ》の間にピッタリはさまれて、家の者たちが帰ってくるのを待った。 わたしとクニコの間に会話はなく、ただ風で窓枠《まどわく》が鳴り、コタツの温度調節機能が働く。赤外線が強くなるブーンという音だけが狭《せま》い部屋にある。太陽がまともにあたらない方角に窓があるためか、部屋の中は湿《しめ》っぽく、古い蛍光灯《けいこうとう》の明かりは黄色がかって弱々しい。 壁に体重を預けると、「ピシッ」というあやしい音が発生する。おお、と驚《おどろ》いて、あわてて座《すわ》りなおす。壁が抜《ぬ》けるかと、一瞬《いっしゅん》、怖《こわ》かった。コタツで正座したまま微動《びどう》だにしなかったクニコが、かすかに首を縦にふって目配せした。「大丈夫《だいじょうぶ》、よくあることですよ」、彼女の瞳《ひとみ》は確かにそう語っていた。わたしもうなずいて、「そうなのか、よくあることなのか、たいへんだなおまえも」という合図を送ってみたが、彼女に伝わったかどうかは不明だった。 窓の外から、かすかに人の声が聞こえた。わたしはクニコへ、静かにしているよう合図を出し、窓へ慎重《しんちょう》に顔を近付けた。 バッグからコンパクトを取り出し、窓の隙間《すきま》から外に出す。友人のお姉さんがわたしにくれたものだが、やった、今、はじめて有効利用している。コンパクトの鏡部分に、菅原家の門から、屋敷《やしき》へと通じる道が映る。残念ながら母屋の玄関《げんかん》は見えないが、これで充分だった。門のそばにある車庫の電動シャッターがしまりかけている。石畳《いしだたみ》の道を屋敷の方へ、数人の人間が歩いてくる。ひさびさに見るパパたちだった。寒そうに肩《かた》をすくませながら、それでもみんな楽しそうな顔をしていたので、こんちきしょうという気持ちになる。 その後ろから、荷物を持った使用人の栗林が続く。彼は体が大きな中年の男で、以前は電気屋を営んでいたそうだ。菅原家にある電気機器のほとんどは彼がメンテナンスをしてくれる。 キョウコがいた。毛皮のコートに身を包んで歩いている。コンパクトを支えた指が、外気のために冷たくなる。わたしは鏡での観察をやめ、寒さで赤くなった指を唇《くちびる》にあててあっためた。「あのう、わたし、みなさんをお迎《むか》えにあがらないといけないのですが……」 クニコが立ちあがりながら、すまなそうに言った。「うん、わかった。でも、わたしのことは内緒《ないしょ》にね」 うなずいて、彼女は出ていった。コタツの上に置かれたコンパクトを眺《なが》めながら、そういえばこの部屋《へや》には鏡すらないことに気づいた。化粧《けしょう》をした彼女をこれまでに見たことがない。ひどいときには髪《かみ》の毛に寝癖《ねぐせ》のついたまま仕事をしており、その眠《ねむ》そうな表情を見ていると、親戚《しんせき》のコネがなければ使用人としてすら働かせてもらえなかったんじゃないかと思えるのだ。 窓の隙間から、十メートル先にあるわたしの部屋の窓を見つめる。すでにみんな屋敷内《やしきない》に入り、外の寒さから逃《のが》れてほっとしている時間のはずだ。しかしキョウコはなかなか現れない。母屋内部の様子を知りたいが、この部屋にいたのでは、中の様子はほとんどわからない。ときどき、母屋の窓を人が通りすぎる。そのたびにはっとして注視する。見つからないように頭を低くする。不思議な体験だった。こちらは相手のことがわかるのに、相手は、わたしの存在にも気付いてないのだ。覗《のぞ》き見は、楽しい。 不意に、だれかが離《はな》れの階段を上ってくる音。ミシリ、ミシリ、と板を踏《ふ》んで二階に近付いてくる気配が、天井《てんじょう》や壁《かべ》全体を伝わってくる。わたしは窓から顔を離し、息をひそめた。この部屋の扉《とびら》に鍵《かぎ》はない。階段を上ってくる者がクニコなら良いが、もしもそれ以外の人物で、突然《とつぜん》、部屋の扉を開けられたら、わたしのいることがばれてしまう。 コタツの中に隠《かく》れよう。わたしはそう思い、体をよじらせて中に入りこもうとするが、コタツの縁《ふち》と壁の間にはさまり、間抜《まぬ》けな格好《かっこう》のまま身動きできなくなる。コタツの赤いランプの光がわたしの顔を照らす。 階段を上がりきった足音は、クニコの部屋の前を通りすぎる。緊張《きんちょう》で体がこわばった。その姿勢のまま、息するのをやめる。足音は、ひとつ隣《となり》の部屋に入った。それは、わたしの背中の壁を一枚はさんだ部屋だった。「どっこらしょい」という男の声が、壁を通してわずかに聞こえた。使用人の栗林だ。背中の向こうは、彼の部屋だったらしい。 この部屋の扉が開けられなくてほっとするとともに、彼に覚《さと》られないよう音をたててはいけないという気持ちになる。静かにもがいて、コタツと壁にはさまれていた体を自由にした。もちろん、これは厚着をしていたからそうなったわけで、わたしが太っているというわけではない。いや、もう、これは断じてそういうわけではないのである。 結局その日、夜|遅《おそ》くまで待ってもキョウコがわたしの部屋へ入った様子はなかった。 夕食の時間になってもクニコは戻《もど》ってこず、わたしは彼女の三畳間《さんじょうま》から出ることもできないので、何もおなかに入れることができなかった。あんちきしょう、夕食くらい運んでこんかい、と心の中で彼女を呪《のろ》った。 結局、あんちきしょうが部屋に戻ってきたのは深夜一時だった。髪をぼさぼさにさせてすっかりくたびれた表情をしていた。扉《とびら》を開けた彼女は、コタツに座《すわ》っているわたしを見て、一瞬《いっしゅん》、沈黙《ちんもく》した後、「わあ、そうだった」とのんびり驚《おどろ》いた。「毎日、こんな時間まで働いているの?」 そう尋《たず》ねると、クニコはうなずいた。部屋のあかりは当然|点《つ》けられないまま、ずっと外を眺《なが》めていたのでわかったのだが、この時間まで起きているのは、どうやら菅原家の中ではわたしとクニコだけのようだ。「すみません、いますぐ、食事を用意してきます」 クニコはわたしにそう言うと、部屋《へや》を出て行こうとした。わたしはそれを引きとめた。「半日、座り続けていただけのわたしに、カロリーを摂取《せっしゅ》しろって言うの? 本当に気が利《き》かない人ね、わたしはダイエット中なの」 もうお風呂《ふろ》に入ったのかどうか尋ねた。彼女はまだ入浴していなかった。離《はな》れにもお風呂があり、住人が交代で入っている。夜中、みんなが寝静《ねしず》まった時間を見計らい、わたしも入ろうと思っていた。「先に入ってきなさいよ。わたしは、もう少し念のため時間を置いて、完全にみんなが眠《ねむ》っているときに行くよ」 クニコはすまなそうにうなずいて出て行った。 わたしはその後、彼女が部屋へもどってくる前に眠ってしまった。目覚めると、コタツの掛《か》け布団《ぶとん》をヨダレで汚《よご》して、すでにお昼だったのだ。しまった、お風呂に入り損《そこ》ねた、と悔《くや》しい思いをした。 次の日、二十三日も、クニコの部屋に居座《いすわ》り、自分の部屋の窓を見張る。 電気ゴタツの中に、ほとんど一日中、入っていた。当然、部屋にいる理由を、クニコにも話している。おそらくあきれたのだろう、何か言いたそうにした彼女を、わたしは無視した。 クニコの部屋から見ることのできるあらゆる場所を、双眼鏡で観察する。離れにいることを発見されてはいけないため、窓から身を乗り出すことはできなかった。双眼鏡はクニコに買ってくるよう言いつけたものだ。おっかいに行くクニコへ、クレジットカードを手渡《てわた》し、買い物をさせた。彼女はクレジットカードを持っておらず、実際に触《さわ》ったのははじめてだったらしい。「え、テレホンカードで買い物できるんですか?」と、彼女は言ったが、おそらくギャグだったのに違《ちが》いない。 また、わたしたちの好みはまるでちがうらしく、おやつを買ってこさせるときなどは、いちいち商品名を説明しなくてはいけなかった。でなければ、「なんでふ菓子《がし》なんて買ってくるんだよぉ!」と叫《さけ》んで、いかにもちょっとばかり年のいった人の好む、つまり年寄りくさいお菓子の袋《ふくろ》をばしばし投げつけることになるのだった。 クニコに二つの携帯《けいたい》電話を契約させてきた。お金はわたしの口座からの引き落としにしたかったのだが、契約には預金通帳とハンコが必要であるらしい。そこで、彼女の通帳とハンコで契約させ、わたしのクレジットカードで引き落としたお金を彼女の通帳へ振《ふ》り込むという、少々ややこしい形になった。 彼女に電話の一つを持たせ、もう一つをわたしが持つ。その二つを使って、家の中の会話をこっそり盗聴《とうちょう》した。電源を入れっぱなしにして、電話をポケットにいれた彼女が、それとなく会話がおこなわれている人の輪へ近寄る。盗聴器をセットすることも考えたが、大掛《おおが》かりなことをするつもりはなかった。携帯電話で、ある程度会話の端々《はしばし》は聞こえたし、始終つなげっぱなしの電話料金など、たいした額ではなかった。 クニコに持たせた携帯電話からの情報や、彼女自身から聞かされた話によると、家中の人間はまだわたしが家出したままどこかをうろついていると思っているようだった。 わたしは彼女の部屋《へや》で座《すわ》ったままコタツに足をつっこみ、クニコに買ってこさせた液晶《えきしょう》ディスプレイつきの携帯DVDプレイヤーで映画を楽しんだ。電話で連絡《れんらく》して、クニコを手先のように操《あやつ》った。だれだれにそれとなく近づけ、とか、冷蔵庫からデザートを盗《ぬす》んで来い、とか指示を出した。 とろくさい彼女は、「そんなこと、わたしにはムリですよぅ」と弱音をはいた。彼女のすまなさそうな表情が見えるような気がした。「ほほぅ、ムリですか。残念だわ、わたし、クニコさんといっしょにこの家で年を越したかったわ。でもそれはどうやらムリな話みたいね。でもだいじょうぶよ、新しい働き場所はわたしがなんとかしてあげるっ!」「え、そ、それはちょっと……」「この家をクビになったら、どこへ行きたい? ロシアっ? ネパールっ?」 そうやって、彼女は戸惑《とまど》いながら、しぶしぶわたしの言う通りに動いた。 夜、クニコが帰ってくると、二人でせまくるしいコタツに入り、向かい合って座った。 お風呂《ふろ》やトイレへ行くときは、見つからないよう注意する。どちらも離《はな》れの中に設置されている。夜中、人気《ひとけ》がなくなってから、母屋にあるものとは比較《ひかく》にならないほど小さなお風呂に入って汗《あせ》を流す。眠《ねむ》るとき、お互《たが》いの足に注意しながらコタツの中で眠った。 二十四日のお昼、窓の隙間《すきま》から監視《かんし》を続け、同時に、コタツへ突《つ》っ伏《ぷ》してうとうとしていた。風はなく、静かな空気の中、外では羽毛《うもう》のような雪がゆっくりと空から降りていた。監視のため、窓を閉めることはできなかったが、ありったけの服でだるま状態になり、コタツのがんばりで体はあたたかかった。唯一《ゆいいつ》、冷たい空気に露出《ろしゅつ》している顔が冷えた。しかしその温度差はまるで、暖房のきいた部屋でアイスクリームを食べるような不思議な快適さでもあった。隣《となり》の部屋に栗林はいなかったので、音を小さめにしてラジオを聴いていた。クリスマスソング特集が静かに部屋《へや》の中に充満《じゅうまん》し、冷気の白い手がわたしの頬《ほお》をそっとさわる。 三畳《さんじょう》部屋の中にはロープがはられ、洗濯《せんたく》された衣類が干されていた。共同で使用する洗濯機が離《はな》れにあり、わたしの分もクニコが洗っていた。洗濯物を干す場所は離れの裏側にあるのだが、家出しているはずのわたしの服が、そこに並んで干されているのは不自然である。そこで、わたしの服だけは部屋にロープをはって乾《かわ》かすことにした。下着類など目立たないものは、クニコの洗濯物に混ぜていっしょに外で乾かすことにする。 キョウコの犯行を記録《きろく》するために、コンパクトカメラを買ってこさせていたが、まだ使う機会はまったくなかった。片方の耳に、携帯《けいたい》電話からのばしたイヤホンを差し込んでいた。これで、わざわざ電話を手で支えなくても、寝転《ねころ》がったまま母屋《おもや》の様子に聞き耳をたてることができるわけだ。 今、クニコとの連絡《れんらく》は途切《とぎ》れ、母屋内の状況《じょうきょう》はわからなかった。ときどき、このように電話は切れてしまうが、しばらく待っていると、「すみません、切れていることに気付きませんでした」というすまなそうなクニコの声とともに復帰する。 十センチほど開けておいた窓から、下へスライドしていく雪の結晶《けっしょう》に混じって、人の会話が聞こえてきた。眠気《ねむけ》が消え、惜《お》しい気持ちでコタツのぬくもりから体をひきはがすと、外から見つからないよう慎重《しんちょう》に窓から下を覗《のぞ》く。雪は積もっておらず、残念に思った。 母屋と離れにはさまれた砂利道《じゃりみち》で、エリおばさんとパパが立ち話をしていた。ちょうど、クニコの部屋の真下で、二人の頭の頂点が見下ろせた。距離《きょり》が近いため、会話の内容がわたしの耳にも入ってくる。「もう四日目だ」 パパがおろおろと直径一メートルの円を描《えが》くように歩き、両の拳《こぶし》を握《にぎ》りしめて言った。部下の前では偉《えら》そうに座《すわ》って、「ふむ……」とか言いながら余裕《よゆう》の態度でひょうきんな口ひげをなでるくせに、家族しかいないと途端《とたん》に威厳《いげん》が消え去るのである。「何が四日目なの?」 エリおばさんが腕組《うでぐ》みしてタバコの煙《けむり》を吐《は》き出した。「ナオが家を出たまま、もう四日も帰ってこないんだ! きっと、何かあったに違《ちが》いない! 事故か……、もしくは、そう、きっと誘拐《ゆうかい》されたんだ!」「誘拐? まっさかあ」「まさかではないよキミ! ああもう、そうなんだやっぱり誘拐なんだ、ボクにはわかっているんだよ、そのうち脅迫状《きょうはくじょう》が届《とど》くんだ、そうに違いないよ」「指を切られたナオの写真とか送られてきたりして?」 エリおばさんが苦笑するように言うと、パパは彼女に詰《つ》め寄った。「なんてことを言うんだねヒドイじゃないかヒドイじゃないか! やっぱり、ナオに内緒《ないしょ》で発信機をつけておくべきだった!」 ギクリとした。かつて、パパからもらったおもちゃのペンダントが、発信機になっていたことを思い出した。もしも、気付かないうちに発信機が取り付けられていたら、クニコの部屋《へや》にいることがすぐにばれていたところだ。しかし、今のパパの口ぶりから察すると、知らない間にあやしげな機械が取り付けられていることはなさそうだ。「兄さん、誘拐《ゆうかい》なんて、考えすぎよ。お友達の家にいるんじゃないかしら?」「あの子の友達の家にはもう電話して、いないことを確認《かくにん》しているのだよ。ナオは、友達の家に二|泊《はく》ほど滞在《たいざい》した後、どこかへ消えてしまったらしいんだ。これまでの家出では、あの子に覚《さと》られないようこっそり電話をかけまくって、無事にいることを確かめていたけど、今回は違《ちが》うんだ。どこに電話しても、さっぱり消息がつかめない」 これまで、行き先を告げずに家を出たとき、わたしの知らない裏側でそのようなことが行われていたことに気付かなかった。家出先の方も、電話があったことなど教えてくれなかったし、つまりパパの共犯だったのだ。それだけじゃない。わたしが行ってない家にも電話をかけて、「ウチのナオ、知りませんか?」などと尋《たず》ねたのだろう。恥《は》ずかしくて身悶《みもだ》えしたくなる。きっと、そんな電話を受けた友人の母親は、「あらあら、またナオちゃんたら家出したのかしら、こまったものだわね、フフ」なんて夕食の笑い話にしていたはずなのだ。 わたしはいずれ、携帯《けいたい》電話で友人と長話しようと思っていた。しかし、パパの話を聞いて、その気持ちが消えてしまった。友人がパパにちくらないという保証はない。 パパがぐるぐると同じ箇所《かしょ》を歩き続けるものだから、砂利道《じゃりみち》に綺麗《きれい》な円形の足跡《あしあと》が出来上がっていた。エリおばさんはタバコの吸殻《すいがら》をピンと指先ではじき飛ばし、だるそうな表情をした。 突然《とつぜん》、パパは立ち止まり、決心したように拳《こぶし》をかためた。「よし、警察に電話しよう」「警察?」エリおばさんが問い返した。「警察は待って。あの子、もうしばらくしたらひょっこり帰ってくるかもしれないじゃない」 わたしは上の方から、心の中でおばさんを応援《おうえん》した。警察まで出動させて、離《はな》れに隠《かく》れていることがばれたら、それはもう大きな人生の汚点《おてん》となるであろう。思い出すたびに、恥ずかしくて奇声《きせい》を発するようになるかもしれない。そうなるとつまり、困るのである。 そのときはエリおばさんの説得により、パパは警察に連絡《れんらく》するのを取りやめた。 次の日、クリスマス、わたしはクニコに便箋《びんせん》と封筒《ふうとう》を買ってこさせ、家族あてに手紙を書いた。『みなさん、お元気ですか? わたしは元気にやっています。家を飛び出して、もう長いこと連絡していませんでしたね。わたしは今、友達の家にいます。最近、町の本屋さんで知り合った女の人なんですが、なかなか気が合って、楽しくくらしています。彼女の部屋は狭《せま》くて、古いのですが、なんだかけっこう落ち着くのです……』 手紙をクニコへ渡《わた》し、その日のうちに近くの郵便ポストへ投函《とうかん》させる。自分が無事だということを説明しておけば、パパも警察に連絡しないだろう。それに、知り合ったばかりの友達という設定にしておけば、パパが電話番号を知らされていないことにも納得《なっとく》するだろう。 家族へのウソ手紙をしたためるクリスマスの過ごし方について、わたしはその夜、味気ない気持ちで考えた。母屋《おもや》の方では、クリスマスケーキなどという贅沢品《ぜいたくひん》をキョウコが作っているらしい。夕方、部屋《へや》に戻《もど》ってきたクニコは、そう報告すると、またどこかへ行ってしまった。その夜も彼女は深夜|遅《おそ》くまで仕事をしてきたらしく、夜中に帰ってきた。半円|状《じょう》のケーキが載った大きな皿を、おみやげに持ちかえってきていた。「あのぅ、これ、みなさんの食べ残しなんですけど、余っていたもので……」「でかした」 余り物といっても、特大のものである。わたしはまるで、高い飛び込み台からジャンプして水面へ飛び込むように、それをすごい早さで消化しはじめた。もしそこに人類学の学者でもいたら、現代の女子中学生が、突然《とつぜん》、類人猿《るいじんえん》のごとき攻撃的《こうげきてき》な食欲を発揮したことに目を丸くしただろう。しかしクニコは、そんなわたしを見て、目を細くし微笑《ほほえ》んでいたのである。 夜が明けて、昼過ぎ。手紙はこの町の消印を押《お》され、早速、配達されてきた。それを受け取ったパパは、ひどく安堵《あんど》していたとクニコから報告があった。 最初のうち、長くクニコの部屋にいすわるつもりはなかった。しかしいつまでたっても、向かいに見えるわたしの部屋へ、キョウコが入ってくる様子はない。コタツの中でぼんやり寝転《ねころ》がる一日が、さらに何回か過ぎ去る。 決定的な犯行の瞬間《しゅんかん》はすぐにおとずれるであろうと楽観視していたわたしは、なかばムキになって、三|畳《じょう》の狭《せま》い部屋で待ちつづけた。もっとも意外だったのは、それが案外、苦ではなかったことである。 毎日、わたしの食事はクニコに用意させていた。夜中のうちに近くのコンビニまで買い出しに行かせて、保存のきく食料を買ってこさせる。もしもそれらを、わたしが消化しつくしてしまっていた場合、携帯《けいたい》電話で彼女に、「腹がすいた」というSOSの信号を送る。クニコは炊事場《すいじば》の仕事をするついでに、他《ほか》の使用人が見ていないのを確認《かくにん》して、食料を調達するのだ。 動作の遅い彼女にそのような仕事をさせることは大いに不安だったのだが、なんとかこれまでは見つからずにやってのけていた。それに、もしも見咎《みとが》められた場合、「わたしの夜食なんです」と答えるよう命令しておいた。それでみんなにおかしな顔をされても、大丈夫《だいじょうぶ》。わたしが恥《はじ》をかくわけではないので、気にしない。 しかし、いつも部屋《へや》の中で座《すわ》りっぱなしというのは太りそうだった。わたしは隣《となり》の部屋に栗林がいないことを確かめ、三畳の部屋で、できるかぎり運動をした。コタツの上でストレッチを行い、固まった筋肉を解きほぐした。音楽をかけてエアロビクスをやったこともあった。「あのう、やめてくださいよぉ、下の階にすんでいる大塚さんに怒《おこ》られたんですよぅ。わたしが上の階で飛び跳《は》ねていると思われているんですからぁ」とクニコがもっさりした口調《くちょう》で抗議《こうぎ》するので、やめることにした。 夜中、人気《ひとけ》がないときに部屋を出て、ジョギングすることにした。暗くて恐《こわ》かったから、いやがるクニコを無理やり誘《さそ》った。その際、正門を通って外には出ず、裏門を使用する。正門には、来訪者の顔を確認するカメラがついていたからだ。それはビデオ録画《ろくが》されておらず、夜中にカメラを確認する人間がいるとは思えないのだが、なんとなく気持ち的に避《さ》けたかった。そこで、カメラのない裏側の門を通過する。そちらは裏庭をまっすぐ突《つ》っ切った先にあり、塀《へい》のそばの植え込みへひっそり隠《かく》れるようにあった。一見して、木製の通用口のようである。 彼女と二人、裏門を抜《ぬ》けて屋敷《やしき》を飛び出す。外に出ると、解放感があった。変装のために、野球の帽子《ぼうし》をかぶり、長い髪をその中に入れてかくす。大丈夫だとは思うが、知人に会わないともかぎらない。 帽子は、クニコに買ってこさせたものである。巨人軍《きょじんぐん》の黒いやつで、しかも小学生用である。そんなものをかぶっているときに知人と出会ってしまったら、これはもう、そうとうに恥《は》ずかしいわけである。弁解の余地なく、走って逃《に》げるしかない。その意味でもわたしは、見つからないよう慎重《しんちょう》にジョギングした。 クニコの足は遅《おそ》かった。歩いているのとかわらないスピードだった。 つながったままの携帯電話をクニコに持たせて、一日中、耳を傾《かたむ》けていると、彼女の失敗する様《さま》ばかりが聞こえてくる。彼女は物覚えが悪く、一度聞いただけでは頭に会話の内容を書き込むことができないようだ。そのため、何か仕事を頼《たの》まれても、ぶつぶつと反芻《はんすう》しなくては記憶《きおく》できないらしい。そのつぶやきが電話を通して、わたしの耳にも聞こえてくる。 彼女は不思議な人だった。あまり話をするほうではなく、わたしが声をかけないかぎりほとんどだまっていた。でも、決して気詰《きづ》まりだったというわけではない。最初のうち、わたしは戸惑《とまど》ったが、彼女としばらくいっしょにいると、沈黙《ちんもく》の温かみに気付かされた。彼女にとって静かにしていることは、ごく自然な状態であり、声を発しないでいるときこそ、本当にリラックスした状態なのだ。彼女の静けさは、有名なクラシック音楽よりもはるかに落ち着いた旋律《せんりつ》だった。 夜、三|畳《じょう》の部屋《へや》、彼女と二人コタツで向かい合っていて、たとえそこに音楽も騒々《そうぞう》しい会話もなかったとする。それでもその静かな空間はなぜか親密な空気に包まれていた。 彼女は非常に動作が遅《おそ》く、また体型が縦に細長いので、まるで貧相《ひんそう》な細い木のようだった。のろくさい、というのは、それはそれでよかった。小間使いのような仕事には不適かもしれないし、しばしばあからさまに笑いの対象となっていたが、いつのまにかそのテンポをわたしは愛していた。また、その独特な時間の流れゆえか、彼女は辛抱強《しんぼうづよ》かった。 退屈《たいくつ》でつまらない雑用を仲間の使用人に押《お》し付けられ、夜、わたしの目の前で仕事をしていたことがある。それは手間と時間のかかる仕事だった。「あいかわらずしょうがないんだから」 と、わたしはその仕事を手伝ったが、わずか十分で退屈になり、音《ね》をあげて爆睡《ばくすい》した。朝、目が覚めると、彼女は仕事をすっかり終わらせて、とくに威張《いば》るふうでもなく、まるでそれが当たり前であるかのように平然としていた。思うに、彼女は仕事の困難さから生じるあきらめというものに関して、人一倍、鈍感《どんかん》なのだ。 部屋の物置には、飲み水などを確保しておくポリタンクや、当面の食料などが保存されていた。クニコの持ち物はほとんどなく、地味な衣類が少しあるだけだった。最初にあったいくつかの荷物は、わたしの住むスペースをつくるためどこかへ運び出していた。処分したのだろうかと思ったが、「知り合いの家に移動させただけです」と彼女は言った。 しかし結局、部屋の中はカードで買ってこさせたわたしのものであふれていた。 彼女は、お金や物に対して、執着《しゅうちゃく》がないのだろうかと思い、そう尋《たず》ねてみた。「はぁ……、ええと、お金があると、……人並みにうれしいですねぇ」 と、クニコは答えた。 大晦日《おおみそか》、辺りが暗くなり、もうそろそろ年越《としこ》しそばの時間だね、と胸を躍《おど》らせながら物置をあけて、お湯をいれるだけでできるカップのそばを探していた。この日のため、クニコに買ってこさせていたのだ。そのとき、物置の床板《ゆかいた》が一部分、外れることに気付いた。人工的にそうなるよう仕組んだわけではなく、ただ板の長さが足りないで外れてしまうという印象だった。 床板をずらし、中を見る。クニコのものらしい、安っぽい大学ノートが隠《かく》されていた。いや、隠されていたというより、ただそこを収納場所として利用していただけであるように思えた。縁《ふち》が黄色く、ページがばらけそうになっていたのでガムテープで補強《ほきょう》してある。わたしは彼女よりえらかったので、当然、躊躇《ちゅうちょ》なく中を見た。ボールペンで絵が描《か》かれていた。 スケッチが趣味《しゅみ》なのだろうか。鳥や海、花の絵。風景や建物の絵。最初のページに描かれているものは、はっきりいって下手《へた》くそだった。わたしの方がよっぽどうまいと思った。しかし、ページをめくるうちに、だんだん上達していく。ノートの半分をすぎたあたりでは、まるで白黒の写真を見ているようなレベルになっている。彼女はつかんだのだ。絵のコツを。 ノートの後半に、菅原家や、そこで働く人物などが描かれていた。どこかで拾ったような汚《きたな》い大学ノートと、どこにでもありふれたボールペンのインキで描かれた絵なのに、わたしはたいへん価値のあるものを手にしている気分にさせられた。 人の顔が描かれている。見知った顔もあれば、知らない顔もある。ゴミの回収を行っている車と、その傍《かたわら》で働いている男が描かれている。制服を着用し、彼はにこやかに微笑《ほほえ》んでいる。この家のゴミ捨ては、全部、彼女にまかされていた。ほとんど毎日、たまった生ゴミや雑誌をゴミ捨て場へ運んでいる。その絵は彼女の日常的な光景なのだろう。この地区で定められている透明《とうめい》なゴミ袋《ぶくろ》を抱《かか》え、砂利道《じゃりみち》を歩く彼女を、ときどき窓の隙間《すきま》から目撃《もくげき》した。 最後のページに、わたしの絵があった。 遠くから除夜《じょや》の鐘《かね》が聞こえはじめるころ、クニコが労働から帰ってきた。おせち料理の準備などで、どうやら忙《いそが》しかったようだ。すでに年は明けており、わたしはたった一人、三畳部屋の中で年の変わる瞬間《しゅんかん》を味わったわけである。 大学ノートを勝手に見たと白状した。彼女は怒《おこ》ったりせず、ただ恥《は》ずかしそうにしていた。大学ノートを取り出し、わたしに見せ、いくつか説明してくれた。「これ、わたしの故郷なんです」 彼女は、海の絵を指差して言った。まだ上達する前の、子供の落書きのような絵。特徴的《とくちょうてき》な形の岩と、鳥居《とりい》がある。どこかの観光名所のようだ。いったい、彼女はどんな子供だったのだろうと思った。そして、見渡《みわた》すかぎり果てのない海を前に、一人すわって、大学ノートの上でボールペンを躍《おど》らせている彼女を想像する。 彼女に、家族のことをたずねた。兄弟《きょうだい》が大勢いるらしく、決して裕福《ゆうふく》とはいえないが、かといって貧しいわけでもないらしい。みんなクニコのように動きが遅いのかとたずねると、彼女はしばらく考え込んだ後、首を横にふった。 わたしは、学校での出来事などを話した。キョウコを攻撃《こうげき》するための、血のつながった母が残したハンカチのことも話した。ハンカチは三畳の部屋に持ってきていたから、実物を彼女に見せたりもした。友人のことも彼女に話した。わたしは、ふと、この部屋に住み着く直前まで友人といっしょにいたことを思い出した。「クニコさんの友達は、どんな人なの?」 わたしは尋《たず》ねてみた。 彼女にもそこそこ親しい友達がいるらしく、ときどきその人に呼ばれて家をあけた。そういうとき、さすがに彼女の携帯《けいたい》電話を盗《ぬす》み聞きすることはしなかった。 その友達のことを、彼女はおおまかに説明してくれた。雑用を押《お》し付けられて近所を歩き回っているうちに、自然と顔なじみになった友人らしい。おそらく、近所の主婦なのだろう。三|畳《じょう》の部屋《へや》に帰ってくるとき、彼女はお土産《みやげ》らしい手作りのパイを持っていた。わたしはそのパイがいつも楽しみで、クニコの友達=おいしいパイ、という図式がいつのまにかできていた。おそらく、わたしの住むスペースを作るために運び出したいくつかの荷物は、その人が預かってくれているのだろう。 そういったことを話していると、体重をあずけている壁《かべ》の向こうから、栗林の鼻歌が聞こえてきた。栗林は温和な性格のおじさんだったが、残念ながら音痴《おんち》だった。彼の鼻歌が壁を通り越《こ》して聞こえてくるとき、わたしもそれに調子をあわせていい気分になったりしてみる。しかし、サビの重要な部分でおかしな音程になったりする。もしくは、途中《とちゅう》からまったく別の曲に変化したりする。男はつらいよのテーマ曲が、途中から水戸黄門《みとこうもん》の歌になっているのだ。そのたびに壁をたたいて、いいかげんにせいやおっさん、と声をかけたくなるが、そこはぐっと拳《こぶし》を固めてこらえるのである。 母屋《おもや》の電気は全部消えていた。わたしとクニコはしんとした部屋の中、隣の部屋から聞こえてくる鼻歌に耳を傾《かたむ》ける。その調子がはずれるたび、目をあわせて笑いをこらえる。 遠くから鐘《かね》の音《ね》を聞き、まだ重要なことを言ってないことに気付く。「あけましておめでとう」 今、神社の方は、初詣《はつもうで》にきた人間でにぎわっているのだろうか。着物を着た女の人たちがたくさんいるのだろうか。きっとすごい喧騒《けんそう》にちがいない。 いつのまにか隣の栗林も眠ってしまったようで、わたしたちのいる三畳間には、ただ遠くの鐘だけが聞こえてくる。 わたしはいつのまにか、クニコとの生活になれていた。三畳のせまい部屋、部屋の面積に対して大きすぎるコタツ。彼女と向かい合って、静かに送る日々。そのままコタツで丸くなり、熟睡《じゅくすい》してしまう夜。まるで川に流されて丸みをおびた石のように、クニコの部屋での暮らしは安定していた。 クニコの部屋に居座《いすわ》りつづけて、十日以上経過した。中学校はその間、冬休みだった。わたしの部屋に侵入《しんにゅう》するキョウコを捕《つか》まえることは、切実な問題だった。しかし、いつもなら三日間以上わたしが家をあけていると、犯人は必ず部屋へ侵入するはずなのだが、なかなか今回はそうならない。そのため、わたしはそろそろ、キョウコを現行犯で捕まえることをあきらめかけていた。どうでもよくなったわけではないが、いつまでたっても彼女がわたしの部屋《へや》に入ろうとしないので、このまま今回は犯行を犯《おか》さないのではないかという気がした。もしそうなら、離《はな》れを出て、家へもどるべきだと感じる。先日のパパとエリおばさんの会話を思い出す。パパの心配する様《さま》は、わたしにそれなりの勝利感めいたものを与《あた》えてくれていた。 家に帰ろう。クニコの部屋で暮らし始めて十三日目、一月三日の夜八時、わたしは離れを出た。クニコはまだ帰ってきておらず、また、離れの中にも人はいなかったので、だれかに見られることはなかった。 離れと母屋《おもや》にはさまれた砂利道《じゃりみち》を、裏手の方向へ向かう。つまり、母屋の玄関《げんかん》とは反対側である。そこにリビングルームがあり、今の時間帯では、家族のみんなはその部屋に集まっていることが多い。裏庭を一望できるよう、壁《かべ》の一面はガラス窓で構成されており、そこに突然《とつぜん》、わたしが現れたらきっとみんな驚《おどろ》くに違《ちが》いない。 冷え冷えとした夜の空気に、わたしは体を震《ふる》わせた。上を見ると、母屋と離れに挟《はさ》まれた夜空に、星が穴をあけている。遠くのどこかで犬のほえる声を聞きながら、わたしは靴《くつ》の裏に砂利の踏《ふ》みしめる感触《かんしょく》を確かめる。 母屋の裏側は大きな庭になっており、昼間のうちは池と、計算高い配置の緑が見える。しかし夜になると、投げ込んだ小石が音もなく虚空《こくう》へ消え去るような、深い闇《やみ》に満たされる。わたしは母屋の壁にそって静かに歩く。壁の一画から明かりがもれ、地面の暗闇を四角く切り取っている。リビングの明かりだった。 そこへ出て行くことで、パパたちの浮《う》かべる表情を想像し、愉快《ゆかい》な気持ちになる。深呼吸した。吐《は》き出した息が白くなる。体は寒さで限界になり、一刻もはやく家の中へ入りたくなった。しかし、駆《か》け出したくなる気持ちを抑《おさ》え、ぎりぎりまで見つからないよう、壁に背中をくっつけたまま明かりへ忍《しの》び寄る。 家の中から、パパやキョウコ、エリおばさんの談笑する声が聞こえてきた。それはいかにも暖房《だんぼう》のきいた部屋の中、ひとつのテーブルを囲んで発せられるような、暖かい笑い声だった。食事の後なのだろうか。テレビを眺《なが》めているのかもしれない。混じり合うそれぞれ幸福そうな声の中に、結束力のようなものを感じた。 わたしは陰《かげ》に身を潜《ひそ》ませたまま立ちすくんだ。壁を一枚だけはさんだ向こう側で、自分のいないまま何の違和感《いわかん》もなく機能している家族の姿を突《つ》きつけられた。 それまであった「帰ろう」という意志が急速に萎《な》えてしぼんだ。いつのまにか、リビングの明かりから遠ざかるため後ずさりしていることに気付いたが、足を止めることはできなかった。 走って離れへ戻《もど》った。だれにも見つからないことを祈《いの》った。 わたしは忘れかけていた。母屋の陰で聞いた声たちと、わたしの間には、本来、何のつながりもないのである。そのことが残念で打ちひしがれるとともに、怒《いか》りも感じる。先日、クニコの部屋から見下ろした、わたしを心配して円を描《えが》き歩くパパの姿が、今では裏切りのように思えてしかたがないのである。そう考えると腹立たしく、クニコの部屋でコタツに飛び込み暖を取りながら、その平たい上面をバンバン手のひらで叩《たた》きたくなる。赤外線のランプを覆《おお》う、でっぱった網《あみ》を、足でガタガタ言わせたくなる。 目の前に、先日、使ったのとは別の真新しい便箋《びんせん》が置かれているのに気付く。家族への手紙のため、何種類かクニコに買ってこさせていたのだ。 便箋をつかみ、意地悪な気持ちで手紙の下書きをはじめた。脳みそに、先日、パパの吐《は》いていた台詞《せりふ》が思い出されていた。「娘《むすめ》は誘拐《ゆうかい》した、返して欲《ほ》しかったら言う通りにしろ……」 そんな文面の手紙だった。 パパたちを困らせて、さきほどわたしに聞かせた家族の談笑する様《さま》を破壊《はかい》しつくしてやりたいという思いは強かったのだ。 夜中になりクニコが帰ってくるころ、わたしを誘拐した犯人からの手紙は、ほぼ下書きが完成していた。 一日中、菅原家に奉仕《ほうし》してきた三畳部屋《さんじょうべや》の主《あるじ》は、古い引き戸を開けたまま、長い時間動きを止めていた。その後、散乱している雑誌や小説の切りくずを指差して、「いったい、何があったんですか?」といつもの間抜《まぬ》けな声で尋《たず》ねた。「たいへんよ、菅原家のお嬢様《じょうさま》が誘拐されたらしいの」「だれに、ですか?」 にやりと笑って、「わたしに」と答えてみた。 彼女は困った顔をして、真意をはかりかねているようだった。「ナオお嬢様、なぜ手袋《てぶくろ》なんてしてるんですか?」「これはね、手紙に指紋《しもん》をつけないため。作業がやりにくくて、嫌《いや》になるわ」 狭《せま》い、それでいてなかなか居心地《いごこち》のいいわたしたちのねぐらは、切りぬいた紙くずでいっぱいになっていた。筆跡《ひっせき》をわからなくするため、犯人の手紙を活字で清書していたのだ。ワープロ、もしくはパソコンやプリンターを買ってこさせようかとも考えたが、そのような家電製品を置いておく充分《じゅうぶん》なスペースは存在しなかった。「しばらくの間、わたしは誘拐されたことにするから。ちょっと家の中が騒《さわ》がしくなるかもしれないけど」 クニコは呆気《あっけ》にとられたような表情をした。「つまり、狂言《きょうげん》誘拐……というやつなんでしょうか?」「あ、そうそう、それよ。よくそんな気の利《き》いた言葉を知ってますね。クニコのくせに」「でも……、つまりその……」 あう、あう、と彼女は続く言葉を見つけられない。「大丈夫《だいじょうぶ》。しばらくの間、パパたちを心配させることができたら、あれは冗談《じょうだん》だったっていう手紙を出すからさ。何も、本当に身代金《みのしろきん》を要求するわけじゃないの」「そのう……、ただのいたずらなんですね……?」 まあ、そういうことだ。わたしはうなずいた。「でも、クニコさんに仕事を頼《たの》むわ。今、菅原ナオを誘拐《ゆうかい》したっていう犯人の手紙を書いているんだけど、これ、明日の朝、家の郵便受けに入れてきてくれない?」「いやですよ、そんなこと!」 彼女は珍《めずら》しく素早《すばや》い反応を見せた。 以前、家族へ出した手紙は、菅原家から一番近いこの町の郵便ポストへ入れるよう、クニコへ頼んでいた。それには、この町の郵便局の消印がしっかりつけられているはずなのだが、犯罪がらみの手紙ではないということで、あまり気に留めなかった。しかし、これから出そうとする犯人からの連絡《れんらく》は、郵便局を介《かい》すると、消印から居場所を特定されるような気がして嫌《いや》だ。ただのいたずらなので気にする必要はないとも思うが、一応、直接、家に届《とど》けさせたい。「クニコさんが嫌だって言っても、わたしがそうしたいって言ったらそうなるんですっ」「うう、確かにその通りですけど……」 クニコは肩《かた》を落とし、うなだれた。そのまま元気をなくした様子で、彼女は着替《きが》えとタオルをもって離《はな》れの一階にあるお風呂《ふろ》へ向かった。 活字を切りぬく際、カッターナイフでコタツの上面に傷をつけてしまった。そのころにはもう、コタツに愛着がわき、触《さわ》り心地《ごこち》や温度調節機能の作動するタイミングまで、すっかり知りぬいていた。よって、傷跡《きずあと》をつけてしまったときは悲しく、何度も指先でこすったが、それが消えることはなかった。 クニコがふたたび戻《もど》ってくる間に、わたしは活字の切りぬきで文面を埋《う》め尽《つ》くし終えていた。目的の文字を印刷物の中から探すという作業はなかなか根気の必要なことだった。それは大海の中から金魚を探すようなもので、飽《あ》きっぽいわたしは文面を短くしてその労力を最小限にする方法を選んだ。そのおかげか、案外、短時間で手紙を作成し終えることができた。[#ここから3字下げ]おたくの娘 すがわらなお を ゆうかい した金を はらえば すぐに もどすケイサツには しらせるなもしも しらせたら ただでは すまない[#ここで字下げ終わり] 菅原家にはお金がたくさんあったから、営利目的で誘拐《ゆうかい》されるというのは、信憑性《しんぴょうせい》があるかもしれない。 汗《あせ》を流してきたクニコに、手紙の入った封筒《ふうとう》を渡《わた》す。「指紋《しもん》をつけないように注意して」 彼女は長袖《ながそで》をぐっと引き伸《の》ばし、服の布越《ぬのご》しに封筒をつまんだ。心配そうな顔をしていた。「本当にこの手紙を出すんですか?」 わたしはうなずいた。封筒はすでに封がしてある。「あのう、差出人の名前が書いてありませんよぅ」「当たり前だっ」 わたしは手近にあった紙くずを丸めて投げつけた。 夜中の三時、クニコは封筒を郵便受けへいれるために部屋《へや》を出た。朝だと人に見つかるかもしれないので、夜中のうちにそうしたいという彼女の希望だった。数分で戻《もど》ってくるだろうと思っていたが、もちまえの足の遅《おそ》さでずいぶん長くかかり、そのうちわたしは疲《つか》れて眠《ねむ》ってしまった。 低いうなりのような振動音《しんどうおん》で目が覚めた。コタツの硬い表面の上で、わたしの携帯《けいたい》電話が震《ふる》えていた。クニコからの電話だった。音が出るとお隣《となり》の栗林に感づかれる心配があるので、いつもバイブレーションモードにしている。窓の外はすでに明るい。腕時計《うでどけい》を見ると、八時だった。 一月四日の朝である。 振動を止め、電話からのびるイヤホンを耳に押《お》し込んだ。クニコの持っている携帯電話のマイクが、屋敷内《やしきない》の音を拾っている。クニコは、電話を持っていることがばれないように、いつも服の中に隠《かく》している。また、音の発信源との距離《きょり》の関係で、人の声などは切れ切れになり、くぐもって聞こえることもあった。それでも不思議と、室内の空気、人々が楽しい雰囲気《ふんいき》なのか、盛り上がっているかどうかなどは感じ取れた。 今、電話の向こうは、ひどく緊張《きんちょう》した雰囲気である。「……の封筒《ふうとう》、……だれが見つけたのかね?」 パパだった。つばのない乾《かわ》いた舌で発したような声である。 数分前にだれかの手によって封筒が発見され、パパにそれが渡《わた》されたのだ。それでたった今、犯人の手紙を読み終えたところなのだろう。わたしの眠っている間に母屋《おもや》へ出勤していたクニコが、状況《じょうきょう》報告のために電話をしてきたらしい。「わた……が、さきほど郵便受けに入れられているのを見つけました」 やや年老いた感じの声。運転手をしている大塚のおじさんだ。彼が封筒を発見した経緯《けいい》について話している。電波の状態が思わしくないようで、ときどき、音が聞こえなくなる。今、パパたちのいる場所は、幅《はば》の広い廊下《ろうか》の、それも玄関《げんかん》に近い場所ではないかと想像した。これまで毎日、電話|越《ご》しに屋敷《やしき》の中を探《さぐ》っていたおかげで、電波の入り具合や音の反射、漠然《ばくぜん》とした空気感でクニコのいる位置がおおまかに推測できた。このまま鍛《きた》えれば、盗聴《とうちょう》のプロになれるかもしれないが、あまり人に自慢《じまん》できない特技だと思う。 電話の向こうにいるのは、パパと大塚さん、そして、動く盗聴マイクになったクニコだけらしい。男二人の緊迫《きんぱく》したやりとりを耳にはめたイヤホンで聞きながら、わたしはコタツの上で右手を握《にぎ》ったり開いたりした。手は汗《あせ》ばんでいた。「ね……、どう……たの?」 不意に、女の声が聞こえてくる。キョウコだ。クニコのマイクが音を拾える範囲《はんい》に、彼女が近付いてきたようだ。となりの建物で発生している音に、注意深く聴覚《ちょうかく》を傾《かたむ》ける。キョウコの足音や、衣擦《きぬず》れする音まで聞こえたような気がした。今しがた起きたばかりの、眠《ねむ》たげな声は、彼女が目をこすりながらネグリジェ姿で歩いてくる場面を想像させた。パパと大塚さんは、近寄ってくる彼女を振《ふ》り返る。「……でもないよ、後で話す」 パパがそう言って、とっさに手紙を隠《かく》したようだ。「…………」 キョウコがいぶかしげに何か言葉を発したが、うまく聞き取れなかった。しかし、彼女が去っていったらしいことはわかった。「ほら、アンタもあっちへ行きなさい。ここで聞いたことは、まだみんなに言うんじゃないよ」 これまでよりクリアに、大塚さんの声が聞こえてきた。クニコに向けられたものだった。彼女は大塚さんに追い払《はら》われようとしている。手紙の効果をわたしに伝えるため、ニュースレポーターのように、会話する男二人へ近寄っていたのだ。彼女にしては積極的で、大健闘《だいけんとう》だ。帰ってきたら褒美《ほうび》をつかわそう、と思った。「……にしても、……の手紙、本当に……で……?」大塚さんの声。「ああ……、……を……」 封筒《ふうとう》をさぐる音と、パパの声。 しかし、不意に電話が途絶《とだ》え、最後まで話を聞くことはできなかった。アンテナの限界か、もしくはクニコの限界だろう。 わたしは肺にたまっていた息を吐《は》き出し、肩《かた》の力を抜《ぬ》いた。電話をコタツの上に置く。それを握《にぎ》っていた左の手のひらに、汗が浮《う》かんでいた。コタツの掛《か》け布団《ぶとん》になすりつける。 三畳部屋の押《お》し入れを開け、中型のポリタンクから洗面器に水を出す。それで顔を洗い、汚《よご》れた水はもうひとつのポリタンクへ入れる。缶《かん》ジュースを開けた。あまり水分をとってはいけない。トイレはクニコの部屋《へや》を出て、五メートル廊下《ろうか》を進んだところにあったが、昼間のうちに行くのはできるだけ避《さ》けていた。もちろん、これまでそういった冒険《ぼうけん》は何度もやった。それは昼間、使用人のほとんどは母屋《おもや》で仕事をしていたからできることだったが、あまり生きた心地《ここち》はしないのだ。 朝食のジュースを飲みながら、この三畳部屋に水道の設備が整っていたら、もっと有効に押し入れを活用できるのだが、と考えていた。小さな押し入れはポリタンクと食料でほぼいっぱいだった。 しばらくして、また電話が振動《しんどう》しはじめた。受信して、イヤホンを耳にはめる。「……れを持っていてくれないか」栗林の声と、何かが、ガチャガチャという物音。「このまえのように、落として壊《こわ》さないように気をつけなさい」「は、はい!」 クニコが緊張《きんちょう》した声でこたえる。どうやら、栗林の作業を手伝《てつだ》っているらしい。 彼女が、何かを手渡《てわた》される気配が、衣擦《きぬず》れの音として聞こえる。わたしはそこでピンときた。栗林は、蛍光灯《けいこうとう》を取り替《か》えているのだ。彼が脚立《きゃたつ》に乗って、天井《てんじょう》の古くなった蛍光灯を取り外し、下にいるクニコへ手渡す。そんな場面に、以前、遭遇《そうぐう》した記憶《きおく》がある。 たしかそのとき、クニコは手をすべらせて、蛍光灯を落として割ってしまったのだ。それも、古くなっていたものと、新しく用意していたもの、両方を。 今回は失敗するなよと、携帯電話越しに念を送る。きっとクニコは、古くなって黄味がかった蛍光灯を、ふらふらとした危なげな手つきで持っているにちがいない。「ところで、楠木さん。しばらく前から、旦那様《だんなさま》の様子がおかしいと思わないかい?」「え……、そうですか?」「そうだよ。大塚の旦那も、いっしょになって青い顔しているし。さっき、オレ、旦那様が電話しているのを、聞いちまったんだ」「電話、ですか?」「どこに電話してたと思う?」 少しの間、沈黙《ちんもく》。「警察に電話してたんだよ」「はぁ……。ええ!?」 蛍光灯を落として、割れる音が聞こえる、と思ったが、何も悪いことは起きなかった。「……今回は、割らなかったね」 栗林がほっとしたように言った。 警察の人間が数名、菅原家の門をくぐったのは午後一時ごろのことだった。「さきほど、五人の方がいらっしゃいました……」 まわりに人気《ひとけ》のないことを確認《かくにん》して、クニコが携帯《けいたい》電話に向けてそう言った。「ナオお嬢様《じょうさま》、聞いてらっしゃいますか?」「聞いてる。気をつけて。絶対に見られないように」 わたしは缶《かん》ジュースで唇《くちびる》を湿《しめ》らせた。炭酸飲料は口の中でジュッと泡《あわ》だった。 手紙の発見から、警察がくるまで、やけに時間がかかったと思う。その間、家族や使用人について、情報を集めていたのだろう。それぞれの背後《はいご》関係を調べ上げ、その中に犯人のいる可能性を検討したのかもしれない。「警察の方は、みんな変装してらっしゃいました。奥様《おくさま》のご家族だと偽《いつわ》った方が三名、使用人の扮装《ふんそう》をした方が二名、時間を少しずらして屋敷《やしき》に入ってきました」「今、その人たちは何をやってるの?」「一人は、お屋敷の電話に何か機械を取り付けています。きっとあれが有名な、逆探知するあれなんですよねぇ。わたし、はじめて見ました」「で、他の人は?」「警察の方が三人、それと旦那様が、一階にある十二|畳《じょう》の和室に入っていきました。お話をしているようです。あ、さっき、その部屋に、キョウコ奥様とエリおばさまも呼ばれました」「じゃあ、きっとキョウコたちは、今ごろ、誘拐《ゆうかい》についての説明を受けているでしょうね。警察たちは、使用人にまだ正体を明かしていないの?」「はい」 一階の十二畳和室に、家族三人と、警察三人か。わたしは中腰《ちゅうごし》になり、窓を少し開けた。冷えた空気が、よどんでいた三畳の部屋にゆっくりにじんでくる。だれかに覚《さと》られないよう、注意して外を眺《なが》める。 その和室の窓は、母屋《おもや》の一階、離《はな》れの側《がわ》にあった。ここから斜《なな》め左下の方向に見える。普段《ふだん》はだれも使っていない部屋だ。離れの建物に邪魔《じゃま》され、窓から見える景色《けしき》はいいものではない。しかし、それゆえに警察がその部屋に集まっているのではないかと推測する。犯人がどこかから屋敷を監視《かんし》しているかもしれないと考慮《こうりょ》したのだろう。警察が動き回っていることを感づかれてはいけないと思い、できるだけまわりから目立たない場所に集まっているのだ。 和室の窓に視線をむけていると、黒い上着を着たごく普通《ふつう》の若い男が窓辺に立った。髪《かみ》の毛が茶色で、知らない顔だ。街中を歩いているときにすれ違《ちが》う、ただの大学生のように見えるが、しかし警察の一人なのだ。彼は窓を開け、息を吐《つ》いた。それが白くなる。空は曇《くも》り空で、二つの建物にはさまれた空間はうすぐらい。彼は注意深く視線をまわりに走らせ始める。まず左右を見まわし、ふと視線を上げる。わたしは急いで身を隠《かく》した。大丈夫《だいじょうぶ》、おそらく見つかっていない。心臓が早くなっている。 一分ほど待って、もう一度、母屋の和室の窓を見る。さきほどの男はもういない。今、あの窓の向こうで六人の人間が顔を突《つ》き合わせ、昨夜わたしの書いた手紙を読んでいるのだろう。パパがわたしの写真を彼らに見せ、年齢《ねんれい》や、家出したときの格好《かっこう》などを説明しているかもしれない。警察は、わたしの性格や、家族と交《か》わしていた会話の内容についても質問をするのだろうか。もしそうなら、ちっ、日ごろから言動に気をつけていればよかったと後悔《こうかい》する。 再び携帯《けいたい》電話の向こうに注意を傾《かたむ》ける。 廊下《ろうか》の床板《ゆかいた》を、だれかが踏《ふ》む音。クニコのものではない。もっと体重のある人間がスリッパを履《は》かずに、足の踵《かかと》で、ドッ、ドッ、と音を出している。「広いお屋敷《やしき》で……歩き回っ……把握《はあく》できま……。地図とかあったらいいのですが……」 聞き覚えのない男の声だった。五人の警察が屋敷に入ったそうだから、そのうちの一人だろう。彼はどうやら、クニコに話しかけているらしい。彼女はやはり、「はぁ……」と間抜《まぬ》けな声で返事する。二人並んで歩いているようだ。やり取りされる会話の端々《はしばし》から、この男が道に迷っていたらしいことがわかる。どうやら、家の間取りを大まかに調査していて、菅原家の屋敷の広さを甘《あま》く見てしまったらしい。各部屋をチェックしているうちに自分がどのあたりにいるのかわからなくなり、みんなが集まっている例の和室までクニコに案内してもらっているのだ。「この廊下は、なんだか見覚えがあります。ええ、ここまでで大丈夫です。どうもありがとう」「……あの、質問してもよろしいでしょうか」クニコは申し訳なさげな声で、おずおずと申し出た。「そのぅ、警察の方、ですよね? お嬢様《じょうさま》が誘拐《ゆうかい》された、というのは本当なのでしょうか?」 男が身構えるのを感じた。「そういったことはまだ伏《ふ》せてあるはずなんですがね。なぜ、そのことをご存知なんです?」「あ、ええと、旦那様と大塚さんがお話しているのを、横で偶然《ぐうぜん》、聞いてしまったんです」「そういえば、手紙を読んでいるときに、女性の使用人がそばで見ていたという報告でした。あなたのことだったのですか」 納得《なっとく》したように、男の声は和《やわ》らいだ。「あのぅ、それで、屋敷《やしき》にいらっしゃった方々、みんな、警察の人なのですよねぇ」「その通りです」「いらっしゃった五人だけで、お嬢様《じょうさま》を探し出すのでしょうか……?」 雑音混じりで、たまに聞き取りにくい部分もあったが、おおまかな部分はわかった。 いいえ。こういった誘拐《ゆうかい》事件の場合、家にくる人数は必要最小限になるのです。あまり多くの人間が出入りをすると、警察に通報していることが犯人に判《わか》ってしまうからね。でも、安心してください。うちの警察署に特別|捜査《そうさ》本部を設置しております。それにね、刑事《けいじ》課だけでなく、各課からも手伝《てつだ》ってもらってますし、近くの署に応援《おうえん》を要請《ようせい》してます。何十人もの人間が、菅原ナオさんを救出するために動くわけです。だからね、絶対に見つけてさしあげますからね。ほら、そんなに心配そうな顔をしないで……。 男が説明し終えたとき、二人は和室の前に到着《とうちゃく》したようだ。 その後しばらくの間、クニコは普通《ふつう》に使用人の仕事をこなしていた。携帯《けいたい》電話を通じて感じ取れるかぎり、他の者もいつもと同じサイクルで動いているようだった。 廊下《ろうか》にモップをかけているクニコが、人目のないすきを狙《ねら》って、ひっそりと携帯電話に耳打ちしてきた。「旦那様《だんなさま》が秘書の方に、会社には当分の間、出ることができないと連絡《れんらく》をしていました。でも、お嬢様《じょうさま》が誘拐されたことは一言もおっしゃられていないようです。新年早々|風邪《かぜ》をひいた、とだけ伝えたようです」 どうやら、菅原家の人間以外には、だれにも事件のことをしゃべらないつもりらしい。 電話の向こうで、クニコがだれかに呼び止められる。どうやら、また警察の者のようだった。 わたしはみかんの皮をむいている最中だったが、その手を止めて警官の言葉に注意を傾《かたむ》ける。彼の声は遠く、聞きづらい。しかし、どうやら警官たちは、使用人を一人ずつ和室に呼び込んで、かんたんに話を聞いているらしい。今度はクニコの番なのだ。 彼女は警官に連れられて和室へ向かった。襖《ふすま》のすべりは極上《ごくじょう》らしく、開いたり閉じたりという音は電話を通じて聞こえなかった。床《ゆか》を踏《ふ》むかすかな音の差が、廊下の板の上から、和室の畳《たたみ》の上へクニコが移動したらしいことを告げた。廊下では物音にわずかな反響音《はんきょうおん》がついてまわる。広い和室の中ではそれがない。 男の高い声が、クニコを座《すわ》らせた。警察の一人だろう。少し地方のなまりがあり、ときどき、シーシーと歯の隙間《すきま》から息を吸うような音を出す。どうやら、彼が質問を担当《たんとう》する人間であるらしい。声にも年輪というものがあるのか、もうじき定年になるくらいの年齢《ねんれい》ではないかと、その声から推測できた。「あなたが楠木クニコさんですね?」「はい、そうです、すみません。ごめんなさい」「あなたは、この家の主人が手紙を読むところに、偶然《ぐうぜん》、居合わせていた。それでは、おおまかなことは知っていますね?」 彼はそう前置きして、わたしが何者かに誘拐《ゆうかい》されたことなどをかんたんに説明した。手紙の内容などには触《ふ》れなかった。おそらくこんな調子で、使用人たちにも説明したのだろう。「生年月日と出身地を、確認《かくにん》のために言っていただけますか?」「はい、ええと……」 クニコはいつものおどおどとした答えを返す。 たあいもないやりとりの後で、質問を担当している警官は歯の隙間から息を吸い、最後の質問をした。「最後にもうひとつだけ」「はい」「あなたから見て、誘拐された菅原ナオさんは、どんな子でしたか?」「ドラえもんのジャイアンみたいな……」ハッ、としてクニコは言葉を止め、あわてて言いなおす。「あのぅ、ええと、……かわいらしくて、なんというか、頭のいい子です」 電話でわたしが盗聴《とうちょう》しているのを忘れていたらしい。あわてて取り繕《つくろ》うような声の調子だった。 他の使用人はすでに和室へ呼ばれた後のようだ。大塚夫妻や栗林は、わたしの印象についてどういった答えを返したのだろう。 クニコは、普段《ふだん》通りに使用人の仕事をするよう言い付けられて、和室から解放された。人目のないところに移動して、わたしにむかって話しかけてくる。「あのぅ……、たった今、和室に呼ばれて質問されました」「うん」「ひょっとして、ずっと聞いていました?」「だれがジャイアンですって?」「……ええと、つまりその、ジャイアンみたいにパワフルだと言いたかったわけで……」 ダメじゃん! わたしはひそかにツッコミを入れた。 窓の隙間から外を見た。向かい側の母屋《おもや》、わたしの部屋に警察の人間が入っている。見られてまずいものは置いてないはずだが、やはり気になる。窓から身を乗り出して双眼鏡でじっくり確認したくなる。しかし、見つかってはいけない。少しむかついたが、まあ、そんなものだろうなと思って納得《なっとく》することにした。それからありがたいことに、警察はいちいち使用人の部屋の中まで調べにこないらしい。ほっとした。クニコの部屋には隠《かく》れるところなんてないのだ。 使用人の格好《かっこう》をして、警察が歩いている。それとなく家のまわりを歩き、辺りを監視《かんし》しているのだろうか。 菅原家の屋敷《やしき》は広い。よって、だれもいない空間も大きく、だれの視線にもさらされていない場所というものができる。クニコはそういった隙《すき》を見つけては、仕入れた情報をことあるごとに伝えてくれた。電話は毎回クリアというわけではなく、完璧《かんぺき》に母屋内《おもやない》の情報をつかむことはできない。実際、警察の人間の顔が、それぞれどんな顔であるのかもはっきりとわかってはいないのだ。わたしは三畳部屋《さんじょうべや》でクニコの話を聞きながら、まるで虫食いの穴を埋《う》めるように、隣《となり》の建物の様子を頭の中で補完《ほかん》していく。 警察が手紙のことについて話しているのを、クニコはちらりと耳にしたらしい。 犯行を知らせる手紙には消印がないため、直接、犯人の手によって家へ運ばれてきたのだろう。つまり、犯人はこの近くに潜《ひそ》んでいる可能性が高く、どこかから屋敷を監視しているかもしれない。警察はそう口にしていたそうだ。「昼食のとき、旦那様《だんなさま》が突然《とつぜん》、立ちあがると、テーブルの上に載《の》っていたお皿を壁《かべ》に投げたんです」 クニコは人目を気にしながらそう報告した。パパがいらだっている。「良かったですね」 彼女が言った。「え、何が?」「だってぇ、こうなることが目的だったのでしょう?」「うん……」「あ、人の足音がします。連絡《れんらく》、終わります」 報告を打ちきり、彼女は使用人としての機能も有する盗聴《とうちょう》マイクになった。近づいてくる人影《ひとかげ》にあせりながら、あわててポケットに電話をしまいこんでいるのだろう。 そのとき、聞き覚えのある女の声がイヤホンから聞こえてくる。「あら、楠木さん……、こんなところにいらしたの?」キョウコの声だった。わたしは軽く驚《おどろ》いた。彼女の声に沈《しず》んだ様子があったからだ。「ちょうどよかった、後で、わたしの部屋にお茶を持ってきて」 クニコはお茶の用意をし、キョウコの部屋へ向かう。お茶というのは紅茶のことだろう。盆《ぼん》に載《の》ったティーポットとカップの触《ふ》れ合う音が、電話を通じて聞こえる。 わたしは三畳部屋のコタツに座《すわ》って目を閉じ、キョウコの部屋の扉《とびら》がノックされる音に耳を傾《かたむ》ける。はい、という力のないキョウコの声。クニコの入室。彼女がテーブルの上に、お茶のセットを置く音。会話はない。 しかし、わたしは電話|越《ご》しに、確かに見たのだ。キョウコは椅子《いす》に座《すわ》っていた。飾《かざ》り気のないシンプルな服装でテーブルにひじをつき、思いきり前傾《ぜんけい》姿勢で力なくうなだれていた。その格好《かっこう》は丸くなりすぎた猫背《ねこぜ》のようでもあり、溶《と》けかけたチーズのようでもあり、とにかく心配になるほど勢いのある脱力《だつりょく》姿勢だった。 キョウコの部屋を出て、クニコはわたしに話しかけた。