だが闇斎はにこにこ笑っている。闇斎がこういう罪のなさそうな笑顔を見せているときほど、とてつもない難題を誰かにふっかける気でいることを春海だけが知っていた。「あの、先生……というと、どなたのご協力を仰ぐおつもりでしょうか?」 恐る恐る聞くと、闇斎はやっぱり平然とした顔で名を挙げた。「岡野井|玄貞《げんてい》、松田順承。どっちも嫌とは言わん。何しろ学者|冥利《みょうり》に尽きる事業や」 二人とも京で高名な算術家にして暦術家である。特に岡野井は、京の内裏の医師として宮中に出入りし、公家層に広く名を知られている識者だった。 安藤と島田が頼もしげにうなずき合う一方、春海は何と言って良いやら分からず、ひやひやした心持ちでいる。 岡野井と松田は、春海が十代の頃に師事していた相手だ。当時から闇斎には二人とも大いに振り回されていた。朱子学の世界生成の理論を算術的に証明してみせよとか、天照大神がこの世に出現したのは何月何日か算定せよとか、無茶な学術的難題を闇斎にけしかけられては七転八倒させられる二人の姿が如実に思い出された。 とはいえ岡野井も松田も学究篤志の人物である。改暦事業の四文字だけで感動に震え、我から尽力するに違いない。そういう二人の性格を知り抜いた上で、さんざん難題を与えてやろうという闇斎の底意に、春海は舌を巻いた。 大まかに指針が決まったあとは膳《ぜん》を用意させての酒宴となった。さすがに大声で気炎を吐き合うような宴席にはならず、礼儀正しく落ち着きをもって、互いの意気を汲《く》むものだった。下戸の春海にも心地好い限りで、お陰でいたずらに昂《たか》ぶっていた心がほどよく静まった。さもなければ気が張りすぎて一睡も出来なかったに違いない。改暦事業の第一歩となったその晩、春海は真新しい寝具に包まれて心地好い疲労の中で眠った。 翌朝未明、怪鳥《けちょう》の声に叩き起こされた。「きいーぃいいいッええぇーええッ!」 という感じの金切り声が、突如として家の外で湧き起こったのである。 春海は、寝ぼけた頭で、誰かが自分を叩き斬ろうとしているのだと思い込んだ。自分が武家屋敷のある区画にいるのだということが頭の隅にあったせいかもしれない。城中で武士同士の斬り合いなど滅多に起こらぬが、ないことではなかった。蒲団《ふとん》から転がり出て、壁に顔をぶつけ、はたと辺りを見回した。誰もいない。と思うと、どこかで水の音がした。 春海は家を出て裏手の井戸端へ向かった。果たして声の主がいた。 ふんどし一丁の闇斎である。この寒い中、頭から井戸水を浴び、全身から湯気を立ち上らせ、「いーえいっ!」 と激しく〝息吹を吐いていた。神道式の呼吸法である。最近では神道の教義再構築に伴い、様々な身体の修練方法が確立されており、その中核が〝息吹|息吸《いすい》の法だった。 流派によって型が違い、呼び方も異なる。〝鳥船《とりふね》〝永世《ながよ》〝雄健《おけけび》〝雄詰《おころび》など、いずれも古来秘伝を最新の学問のもとで再構成していた。本来の目的は、神憑《かみがか》りであり、呼吸法による長寿健康であり、心の浄化である。汚き、暗き心を御祓し、日本人が古来最良としてきた理想の〝清明心に至り、それを保つ。そうして心身健全となり、日々を神意のもとで送る。 闇斎の息吹は中でも非常に猛々しく、〝天沼矛《あめのぬほこ》という天地創造にかかわる特殊な印を結んだ右手を、裂帛《れっぱく》の気合いとともに振り下ろす。春海の柏手《かしわで》とは比較にならない激しさで、武芸者の鍛錬のようだ。実際、高名な剣術家たちほど、神道の呼吸法とその思想体系を取り入れている。今では神道と武道と学問の体系は、禅がそうであるように、渾然一体となりつつあった。 そう言えば昨日、闇斎も家宅を与えられていると言っていたことを春海は思い出した。 そもそも春海が北極出地に赴く前から、闇斎は侍儒として正之に招かれているのである。 場所は春海が寝起きする家のすぐ裏手であり、その時点で、闇斎の毎朝の習慣のことも思い出すべきだったと、春海はぶつけた顔をさすりながらぼんやり思った。「おお、六蔵。なかなか早起きやな」 闇斎が春海に気づき、にっこり笑った。あなたの絶叫で起こされたのだと春海が言いかけ、「どや、お前もやらんか」 汗を拭いつつ闇斎が遮った。春海がたじろいだところへ、安藤と島田がそろって現れた。他にも何人か藩士たちが集まってきている。みな闇斎の声に起こされたらしく、眠そうな顔に、ほとんど整っていない髷《まげ》が乗っていた。「おはようございます。ほな、みんなでやりまっか?」 闇斎がどこの訛りともつかぬ口調で、からっと呼びかけた。「なかなかに勇壮ですが、見習うにとどめたく存じます」 安藤が苦笑するように言った。 さすがに井戸端という公共の場で朝から半裸になることには誰しも抵抗がある。神事の人間が御祓を行うのならまだしも、武士がやるのは、ちょっとはしたない。肌を見せるのは何も女だけの恥ではないのである。たとえば将軍家光から寵愛を受け、男色関係にあったともっぱらの噂の堀田正盛などは、家光薨去の際、〝主君以外に、肌は見せまじ と着衣のまま追い腹を切って果てたという。むろんこの会津城下で、男色の習慣がそこまで強いわけではないが、それでも衆目を気にせず諸肌《もろはだ》を脱いでいいものでもない。ただし裸体自体が恥なのではなかった。風呂《ふろ》など、湯水の不足から大勢で浴場を使用する男女混浴が一般的である。要は、時と場合によって、恥の感じ方が全然違うのだった。 そんなわけで春海は安藤が辞退してくれて大変ほっとした。ここでもし改暦事業の連帯を強めるために毎朝四人でふんどし一丁になろうなどと合意されようものなら、どんな噂が立つか知れない。そして闇斎はそんな噂など歯牙《しが》にもかけない人物なのである。 闇斎のお陰で、みな早めの朝食を摂《と》り、さっそく春海の家に三人が集まった。 まずは事業の第一指標である授時暦の学習の算段が整えられた。また闇斎はすぐに京の岡野井と松田に手紙を書き送っている。さらには春海の寝起きする家の小さな庭に、天測の道具が運び込まれ、助手たちの手で組み立てられた。指揮は春海が執った。北極出地の経験があるので当然だが、春海にとっては建部や伊藤といった頼れる上司がおらず、これからは自分が事業の計画を司《つかさど》らねばならないのだということを、たっぷり思い知らされるひとときだった。 その日はあいにくの曇天で北極星が確認できず、大がかりな日時計、大象限儀に子午線儀といった器具が正確に設置されたのは翌日の夜のことだ。雨よけのための大傘なども配された。 春海は既に見慣れていたが、下手な大道芸よりよほど勇壮なその器具の様子を見るために、垣根の外に藩士たちが群れ集って作業を見守った。 かくして天測の準備が整い、観測と技術修得の日々となった。かの北極出地のように場所は移動しないが、その分、思想学問の面で縦横無尽の検証が行われた。 授時暦の根幹である算術について議論が繰り返され、闇斎も、春海が感心するほど算術の話題についてきた。暦法をいかに他の学問体系と融合させるかについての緒案が出された。闇斎がその妥当性を吟味し、春海、安藤、島田が、それぞれ算術面での術理修得をはかる、ということの繰り返しで、あっという間にひと月余が過ぎた。 その間、春海は京にいる妻ことや安井家の者と、何度か手紙のやり取りをしている。高価な公用便を無料で使わせてもらえるのが役得だった。これほど誇らしい思いで手紙を書くのは生まれて初めてである。ことは、事業を任された春海に、純粋に驚き、また喜んでくれ、逆に春海を勇気づけてくれた。 そしてその手紙を、気づいたら闇斎が読んでいた。「おやめ下さい先生」 さすがに春海が呆れて咎めた。だが闇斎はまったく悪びれない。むしろ恭しく手紙を折り畳んで春海に返し、「嫁御からか」 わかりきったことを訊いた。「そうです。先生が読むものではありません」「いや」 春海が思わず鼻白むほど、威厳に満ちた闇斎の否定であった。「地に人の営みあり、や。さもなくば神事も何も意味なしやでな。もっと返事をぎょうさん書いたらんかい」 そう言って、やたら優しく春海の肩を叩いた。「そういたします。それより勝手に読まないで下さい、先生」「わかっとる、わかっとる」 わかっているなら読むなと言いたかった。闇斎はやけに上機嫌でいる。以後、勝手に手紙を読まれることはなかったが、何かにつけて嫁御に手紙を書いてやれと言われた。一方で闇斎は、相次いで岡野井と松田から快諾の返事が来たのを良いことに、二人を難事業へとけしかける手紙をせっせと書いている。春海たちもその手紙のやり取りによって、大いに議論を進めることができた。授時暦の暦法についての岡野井と松田の指摘はもとより、闇斎の狙いどおり、二人とも数多の文芸書の暦註検討を進んで行ってくれたのである。 闇斎も闇斎で、この暦註検討の作業には凄《すさ》まじい情熱を発揮している。数ある書の中から、特に世相への影響力の高そうなものを選んで作業の対象にするとともに、この国の歴史を新たに授時暦によって統括するような神事の書の構想を、日に日に固めていった。 そんな風に、とにかく多岐にわたる膨大な作業も、ようやく指針通りに事が運ぶようになってきた頃、新たに第四の指標が立てられた。 改暦による世の影響を考察せよ、という、保科正之その人による要請だった。この発想は、春海にもなじみがなければ幕府にもない。保科正之という名宰相だからこその発想だった。 あるものを世に適用するとき、それが学問的技術的にどれほど優れていそうか、どれほど便利そうか、ということが重要だった。良さそうなら、とりあえず用いてみる。それが日本人の基本的な姿勢である。仏教はそのようにして導入された。切支丹も最初は受け入れたが、貿易や植民地思想によって対立が生じ、ついには全面的な拒絶となって禁教令が発布された。 鉄砲や大砲はその最たるものだ。日本人の手で技術的に再現可能か、という点だけが大事で、それがどのような激烈な変化を世に及ぼすか、ろくろく考えずに国産から大量生産へ踏み切った。そして今では〝泰平の世になったのだから鉄砲は作るなという幕府の指導すら、まったく功を奏さない状態になってしまっている。 適用されるものが、その後、世にいかなる影響を与えるかを出来る限り予測した上で、最善の導入の算段を整える。それが保科正之の非凡な智慧であり基本的な政治姿勢だった。 春海は、事業参加者を代表し、その思案を必死にまとめあげた。良い影響も悪い影響も、考えつくものはことごとく列挙せねばならない。事業に邁進《まいしん》する仲間のことを考えれば、悪い影響のことなど念頭に置きたくもなかった春海だが、やがて作業が進むうち、自分たちのしていることが空恐ろしいほどの影響力を発揮する事業であることが判明して呆然となった。 まず思案したのは宗教統制という側面である。幕府、すなわち武家が改暦を断行すれば、天皇から〝観象授時の権限を奪うことになる。天意を読みとくことは、古来、王の職務である。と同時に、宗教的権威そのものだった。これがほぼ幕府のものとなり、天皇が執り行う儀礼の日取りを、一日単位、一刻単位で支配するということになる。 これは全国の神事を、また陰陽師《おんみょうじ》の働きを、完全に統制することを意味した。日を決するということは、陰陽思想においては方角を決するということでもある。方違《かたたが》えの思想はいまだに根強い。ほとんど根源的な禁忌の念として根づいている。それをことごとく塗り替えるだけでなく、幕府のものとして全国に適用することになる。 時節を支配し、空間を支配し、宗教的権威の筆頭として幕府が立つ。朝廷の権威を低め、その分を幕府がことごとく奪い去る。かの織田信長ですら、宗教者たちに帰順を強要しこそすれ、その権威を我がものとして吸収しようとはしていない。 これだけで春海は恐怖を感じた。全国の大名たちが、この挙を見てなんと思うか。天皇と朝廷から〝時と〝方角を定める権限を奪って将軍のものとすること。これが聖域|冒涜《ぼうとく》とみなされたとき、どうなるか。まさかとは思うが、戦にまで発展するのではないか。 たかが暦である。しかし考えるほどに、漠然とした不安を抱いた。 さらに春海の思案は、政治統制に及んだ。というより正之の指示によって、そこまで思案させられた。これは宗教統制と紙一重である。日取りを決定するばかりか、今日が何月何日であるか、ということの決定は、全ての物事の開始と終了を支配することに通じる。公文書における日付の重要性は、文芸書の比ではない。幕府の定めた暦日に倣わぬ公文書を作成したと言うだけで処罰の対象となりうる。そんな、いつなんどきでも、誰にでも、どんな難癖でもつけられるような甚大な支配権を幕府が持つ。そのことに対して諸藩が抱く反感はいかなるものであろうか。全国に熾烈《しれつ》な反幕感情を巻き起こすのではないか。 これは文化統制においても同じである。政務ばかりか文芸をも支配する。公家の反応はどんなものになるだろう。とんでもない反発の嵐になるのではないか。想像するだに怖かった。 だが本当に恐ろしいのは最後の経済統制の側面だった。 頒暦というものが幕府主導で全国に販売されたとする。試しに春海は、頒暦を一部四分として計算してみた。米の売買に倣って、差料などの割合を勘案した。そうして単純計算で、全国の日本人が頒暦を幕府から買ったときの利益を算出してみたのである。 もちろん、全国の大名が幕府に報告する〝人口を参考にしての、単純計算しかできない。 どれほど精密に算出しても誤差は出るだろう。それを承知で、色々な計算方法でやってみた。 目を剥いて言葉を失うほどの、莫大な利益となった。 もちろん大権現様こと家康がかき集めた六百万両とまではいかないが、最低でも数十万両にはなる。そしてその利益が、確実に、年の始まりごとに入ってくるのである。 春海はこれを色々な方法で計算し直している。頒暦は複数の段階を経て各地に届けられるため、各地で料率ごとの利益が差し引かれる。全ての利益が幕府のものになるとは限らないのである。だが、計算し直すほどに、とんでもない額が出現した。 授時暦で用いられている算術には、複数の観測値を平均する様々な術理がある。これを、そのまま頒暦による利益算定に応用してみた。 その額、単純な石高に換算して、おおよそ年に七十万石。 もちろん、条件によってこの値は大幅に増減する。だが春海は己が出した値に驚愕した。 果たして今まで、誰も頒暦というものの利益をまともに計算した者はいなかったのだろうか。どの大名も、この金鉱脈のような商品を専売特許とすることを考えなかったのだろうか。いや、全国の神宮などは薄々それが分かっているから独自の頒暦販売に固執するのだ。そしてその利益を幕府が独占する。なんとも恐ろしい思いをさせられる数値だった。 この単純な値を、幕閣に見せたらどうなるか。もし彼らがその利益を強烈に欲したとしたら。改暦に反対する者ことごとくを圧殺してでも成就させたくなるのではないか。 そうなったときの利益の争奪戦を春海は色々に想像させられた。たかが暦だと何度も自分に言い聞かせねばならなかった。そして、されど暦だった。 今日が何月何日であるか。その決定権を持つとは、こういうことだ。 宗教、政治、文化、経済――全てにおいて君臨するということなのである。 七 正之から与えられた第四の指標を、春海は〝天文方の構想としてまとめている。 幕府において新たに天文方という職分を創設し、暦法とその公布の一切を取り仕切る。 大まかな概略を、事業開始から三ヶ月ほどで組み上げ、正之に提出した。 視力衰えた正之は、それを家老に音読させている。そしてその日のうちに春海を呼び寄せ、近習さえ退けての、ほとんど密議に近いかたちでの話し合いを持った。「恐るべしは暦法よな」 正之が言った。春海も真剣な顔で同意し、「門外不出とせよ。今はまだ、な」 そう告げる正之の様子から、ふと悟った。この思案の結果を正之はとっくに承知していたのである。その上であえて春海に思案させ、同じ結論が導き出されるかどうか見計らっていたのだ。老齢に至って身を病にむしばまれ、視力をほとんど失いながらも、このお方は希代の名君なのだ。春海は完全に感じ入り、戦慄するような思いとともに、ただ深々と平伏した。「不倶戴天《ふぐたいてん》」 ぽつりと正之が言った。「そのような状態に、帝《みかど》と将軍家とを追いこんではならぬ。決してならぬ。そのときは国が二つに割れる。割れれば動乱となり、その果てに徳川家は滅ぶ」 はっきり〝徳川と口にした。間違っても天皇家が滅ぶとは思われない。それは歴史が証明している。日本のあらゆる諸勢力が、天皇家を滅ぼさせない。いついかなるときも、滅ぶべきは〝逆賊の方なのである。「方策はあるか?」「は……」 ここが思案の要点である。春海がこの事業に抜擢《ばってき》された何よりの根拠でもあった。安藤も島田も、もっと言えば正之自身も、京の事情には疎《うと》い。朝廷や公家というものを漠然としか理解していない。それに比べ、春海および闇斎は京に精通した人材だった。何しろ春海は碁を通して、闇斎は神道や諸学を通して、朝廷とその周辺の人物と交友関係にある。「帝の勅令にございます」 と春海は告げた。 ときの天皇が〝改暦の勅令を発し、それを幕府が謹んで承る。 基本はこれである。このかたちに持っていくためには、それこそ数限りない工作が必要であろう。だが少なくとも、全国の大名たちに、幕府が〝聖域冒涜を犯したという印象を与えることはない。多くの難題が事前に解消されることになる。「また、暦法にこそ権威ありとせねばなりませぬ」 それが次に肝心な点だった。天の法則がそうなっているのであり、決して幕府が恣意《しい》的に暦日を定めるわけではない、という姿勢をとことん見せねばならない。その危機回避のすべこそ算術だった。なぜなら、天皇がそろばんを弾《はじ》こうが、幕府の誰かが弾こうが、答えはぴたりと一致する。そういうものであれば悪意によって操作する余地などない。後は誰がそれを管理するかであって、勅令さえあれば幕府の管理に何の問題も生じない。 逆に、だからこそ日本全国に、今の暦法が誤謬を犯していることを知らしめる必要があった。そうすることで、帝も改暦を命じないわけにはいかなくなる。 また、それゆえ新たな暦法の中枢となる術理は厳重に秘する必要もあった。術理がいたずらに公開されれば、誰もが好き勝手に暦を作ることが可能となってしまう。幕府による改暦という権威の確立という点で、あらゆる対立を引き起こしかねない。特に、寺社仏閣などは全国各地で独自の権威を主張し出すことは火を見るよりも明らかなのである。 これについても春海は既に結論を出していたが、口にしたのは正之だった。「朱印状だな」 正之の微笑みが、春海と正之の思案がぴたりと合致していることを告げていた。「は……幕府が〝天文方を通していずれかの勢力に宗教統括の朱印状を下すのです。それができれば、多くの諍《いさか》いを未然に防げましょう」 春海が言った。朝廷が勅令を下し、幕府が朱印状を下す。それによって〝日本で最も公明正大な観象授時のための機関が設定される。 かつてない朝廷と幕府による協同文化事業である。これが実現すれば、朝廷と幕府が対立するどころか、互いにその権威を高め合い、盤石の統制、巨額の利益共有となる。「厳密な料率を定めねばなるまい」 正之が最後の難問を口にした。頒暦による巨利を、どの勢力がどのように分配し合うか。幕府が利益を独占すれば必ず烈しい不満の声が上がるし、頒暦の勝手な分配につながる。ただでさえ幕府は徐々に文化統制の態度を強め、不適切な書籍の刊行を罰しているのである。正之が断行させたように山鹿素行の配流のようなことが、頒暦を通して頻発しないとも限らない。 しかも言論弾圧は、禁教令のようにはいかない。外国から来た宗教を追い出すのとは訳が違う。極刑をもって無理に抑圧すれば日本全国あらゆるところから不満が噴出し、その対応だけで頒暦販売による巨利を消費し尽くすだろう。改暦を行うことで、厄介な火種を幕府も諸藩も朝廷も背負うことになる。それでは何のための文化事業か分からない。 そうならないための頒暦料率はいかに。これこそ一朝一夕で定められるものでもなく、むしろ改暦実現の端緒において各種勢力に綿密な根回しを行うべきものだった。 まずはその最初の手はずとして、朝廷工作が実行に移された。 改暦の勅令こそ事業の最初の鍵《かぎ》である。朝廷には常に、幕府に対する反感が内在しているが、それを上手く緩和させながら、上奏に至るまでの道筋が慎重に検討された。 やがて年も暮れる頃、朝廷はこの改暦事業に対し、最初の返答を出した。 武家伝奏を介してもたらされたそれは、「授時暦は不吉」 というものだった。 広間にいた。春海が正之と碁を打った部屋である。 上座の正之の前に、改暦事業に携わる四人がいた。正之に宛てられた朝廷からの返書の写しを、闇斎がみなの前で読み上げたばかりだった。正之がただ静かに瞑目して、あの深遠な坐相をあらわしているのとは対照的に、春海以下、改暦事業の中心たる四人全員、顔色がない。血の気が引くほどの怒りのせいである。「不吉……?」 春海が震えながらその二字を信じがたい思いで繰り返した。 朝廷側の大意は、おおよそ以下の通りである。 授時暦は、元国のものであり、かの国の始元を司る暦である。そして元は日本に攻め入り、恐るべき元寇《げんこう》をもたらした国でもある。よってそのような国の暦を日本に適用させるのは、きわめて不吉なことであるので、帝は改暦の勅を下されない。 なんだそれは。馬鹿にしているのか。それが春海の偽らざる心情だった。安藤も島田も目をみはって宙を睨《にら》み、無言で同じ思いでいることをあらわにしている。 これが昨今の公家の常套《じょうとう》文句であり、旧慣墨守の態度だった。宜明暦というものがもはや誤差だらけの暦法と化していることになど一切言及しない。とにかく吉兆か凶兆か、神秘についての議論に終始し、その実は、変化への絶対的な拒否を表明している。 春海は膝の上で両|拳《こぶし》を振りしめたまま気が遠くなるような思いに襲われた。怒りのあまり涙がにじんだ。よもやこんな返答が来るとは想像もしていなかった。「庇理屈こねおってッ、我らが請願を揉《も》み潰しおったッド阿呆《あほう》どもが! だから八百年も学理衰える一方なのだ、あ奴等ッ!」 怒れば怒るほど江戸風の口調になる闇斎が、まず吠えた。 安藤も島田も言葉にならぬ唸り声で応じている。この数ヶ月の努力の全て、彼らが敬愛する主君の大願を、〝不吉の一言で片づけられたのである。普段は穏和な安藤ですら、怒り壮烈の眼差しであった。師の島田が、どうにか鬱憤を抑え、「……相手が〝元冠を持ち出すならば、〝神風の伝もありましょう」 と反論の糸口を見出《みいだ》そうとするように口にしたが、闇斎はかぶりを振ってそれを止めた。「無用の論争こそ、こ奴等の狙いですわ。吉だ不吉だと、ぐちゃぐちゃした話を延々続けられて、気づけば改暦のことは遠い彼方、でしょうな」 島田が呻《うめ》いた。そのまま沈黙が降りた。四人が四人とも、怒りを抑えるので精一杯だったが、やがて不思議なことが起こった。 起こさせたのは静かに目を閉じ続けている正之である。その存在が、いつしかみなの思念を一点に集中させていた。そしてそのことを沈黙のうちにお互いが察したのである。 春海が、この事業の指揮者としての責任感から、まず口に出した。「機運は必ずや訪れます」 はっきり断言した。と同時に、この事業の発起人たる正之が、今なんの指示も下して来ていない理由を悟った。朝廷の返答に失望したのではない。今後、事業にとっての好機が、必ず訪れることを確信しているのである。 それを安藤も察知したらしい。大きくうなずき、「ものの数年もかかりません」 と同意した。そして島田が、その後を続けて言った。「いずれ宜明暦は蝕の予報を外しましょうな」 闇斎がにやりと笑った。「その日こそ、宣明暦の命日や」 全員が正之を振り返った。いつの間にか正之も目蓋を開いて四人を見ていた。「いかなる蒙昧であれ、日と月を、万人から覆い隠せるものではない」 正之が微笑んで言った。その一瞬で、四人は新たな決意を固めた。 もはや宣明暦という過去の遺物に対して何の敬意も抱かなかった。今後、日蝕か月蝕か、いずれかの誤報を犯すことは確かなのである。そのとき、日本全国の民衆が、宣明暦の無用さと、その無用の法をありがたがる朝廷の無学さを知ることになる。 本当なら春海はそんな風には思いたくなかった。それでは帝の権威低下を喜ぶことになってしまう。だがこれは、真っ先に改暦に賛同せねばならないはずの安倍家や賀茂家と言った、陰陽師や暦博士たちの責任だった。帝をあらゆる局面において守護し奉らねばならないはずの朝廷の者たちが、帝の面目を潰すことになるのである。そのことについても、四人の間で、もはや容赦はなかった。 その好機到来を見据えた上で、全員が改暦事業の継続を正之の前で誓った。 かくして、僅か一年足らずで春海たちは解散となった。だが誰も事業不能になったとは思っていない。以後、おのおの公務の合間を縫って、引き続き改暦に邁進する。四人が四人とも、血判でも押しそうな勢いだった。「必ずや改暦成就すべし」 その合い言葉とともに、春海は会津を去り、大量の文書を抱え、奮然と江戸へ戻った。 八 江戸では、似たような気魄がみなぎっていた。 碁打ち衆の誰もが燃えるような闘志を抱いている様子に、春海はちょっと呆気にとられた。 春海が会津に呼ばれている間に、義兄算知と本因坊道悦による、碁方を巡っての争碁が開始されていたのである。緒戦は引き分けに終わり、いよいよ白熱の勝負の始まりだった。 それと同じく碁打ち衆の心に火をつけたのが〝勝負碁の御上覧である。 なんと春海の不在の間に、義弟知哲と、あの道策とが、勝負碁をもって御城への初出仕を勤めたのだった。結果は、道策の後番五目の勝ち。将軍家綱様もその勝負を大いに楽しみ、興味深く見守られたという。 お陰で御城碁は完全に〝安井家と本因坊家の激突の様相を呈した。城内でも上々の評判で、粛々と政務が執り行われる江戸城内では珍しいほどの興奮をもたらしたという。 知哲も道策も、もうそんな年齢か。勝負碁の話を聞いたときの春海の最初の感想がそれだった。自分が碁のことをすっかり忘れていた間に、そんな大事な勝負があったなんて。そういえば義兄の手紙の中でそんなことが書かれていたような気もするが、毎日が授時暦との格闘であったため、それこそ遠い彼方だった。 春海のそんな心根をよそに、その年の日吉山王大権現社での碁会は活気に包まれた。多くの碁打ち衆が互いにわざと打ち筋を隠す。特に算知も道悦も、完全に勝負の態勢に入り、互いの手を秘匿した。その緊張感が、職分を問わず人をわくわくさせるらしい。僧たちを相手に碁を打つ算知や道悦の周囲に、それはもう驚くほどの人だかりができていた。 春海はそんな賑《にぎ》わいの片隅で、一人ぼんやり坐って碁盤を眺めている。会津に呼ばれる以前に、義兄に言われて妻帯したのも、一つは正之の改暦事業の意図が働き、それとなく義兄を促したのは確かだが、義兄からすれば、そもそもこの勝負に備えてのお家安泰だった。 なのに、先ほどから、義弟である知哲に家督を譲る、という思案がいやに脳裏をよぎった。 もし改暦が実現し、天文方が創設されれば、自分がその役職に就いて、碁は引退することになる。それをいつ安井家に伝え、また道策に告げるべきか。改暦実現の見通しが立たない今はそれこそ何も話すことができない。けれども自分の心はますます碁から遠ざかってしまっていた。そんな状態なものだから、「算哲様」 と道策がやって来て、当然のように碁盤を挟んで座られると、どうにも腰が引けた。「やあ、道策。お手柄だったね」 わざと知哲との勝負に勝ったことを誉めて、自分自身の話題を避けたのだが、「ありがとうございます。次は、ぜひ算哲様と勝負がしとうございます」 こういうとき道策の真っ直ぐさは実に容赦がない。「ぜひ一手御指南を」 などと言って、さっそく碁笥を手に取っている。しかも白石の方だった。春海を目上の者として立てつつの先番譲渡である。今や御城碁を立派に勤め上げた、次期本因坊家の筆頭たる身で、安井家の一員である自分に対し、こうも謙遜の態度を示せるのも、道策のひたむきさのあらわれだった。そういう態度をされて今さら断れる春海でもなく、どうにも頼りない心持ちのまま石を手に取った。そしてついつい、やってしまった。 ぴしりと天元に打ったのである。 打った直後に、あっ、と頭の中で変な声が湧いた。いつぞやの、亡父の打ち筋である初手右辺星下の再現である。しかも今回は、よりにもよって、あの保科正之が自分に見せてくれた、自分だけの秘蔵の棋譜に等しい、〝初手天元を見せてしまった。 この安井家の宿敵たる本因坊家の跡継ぎに、いったいどこまで塩を送る気か。 春海が自分自身に呆れ返るのをよそに、道策はなんとも形容しかたいきらきら輝く目で、「初手天元……北極星、でございますね」 しっかり春海を見据えて言った。春海はどこかでその目を見た気がした。幼い頃、獲物を見つめて前屈《まえかが》みになる猫が、そういう目をするのを見てどきどきしたのを思い出した。 奪られる。この天才に打ち筋を吸い尽くされる。ほとんど降参する気分でそう思ったが、道策はそれよりもっとすごいことを言った。「いつぞやも申し上げましたが、天の理は天の理。碁の理とは違うことを証明して御覧に入れとうございます。よって算哲様の、星に倣った打ち筋こそ、我が宿敵と存じます」 勝負の熱意に燃え上がるかのような道策の怜悧《れいり》たる相貌に、春海はちょっと見とれつつ、馬鹿みたいにぽかんとして聞き返した。「敵……? どういうことだい?」「ぜひ上覧碁にて、この初手天元を打っていただきたく存じます。そしてわたくしが勝負に勝った暁には、この北極星たる初手を、|葬っていただきたい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」 なんと手筋の抹殺を宣言された。 思わずこの手は、将軍家御落胤たる保科正之によるものだと口にしかけたが、今さらそれを言っては、道策が可哀想だった。 何より、何の説明もせず、考えもなく、初手天元を打った自分が悪い。「ま……待ってくれ通策」「いいえ待ちませぬ。このような憎い星は、我が手で盤上から廃さねば気が済みませぬ。わたくしから師の道悦様にこのむねをお話しし、ぜひにも上覧碁にて決着をつけとうございます」 純情一途としか言いようのない道策の言である。純情すぎてごまかしも逃げも打てない。春海は完全に途方に暮れた。と思ったら、脇からさらに声が飛んだ。「兄上様、私が代わりましょう」 安井家の鶴亀の一方、亀を思わせるふくふくした福貌の知哲である。澄ました面持ちで春海の隣に座り、たちまち道策がきっとなった。「なんだと小三郎。なんと言った」「三次郎様の御相手は私がしますと申したのです」 知哲は道策の一つ上で、互いに昔から幼名で呼び合う間柄である。そのため、それぞれ安井家と本因坊家の〝三の字として、碁打ち衆の間では親しまれている。「兄上様の手の内を今から知ろうという魂胆、安井家としては見過ごせませぬ」 にっこり笑って知哲が言う。感情をあらわにする道策よりも、知哲の方が言葉は立つ。「しかし算哲様はあたくしと……」 道策が抗弁する間もなく、春海をどかすようにして知哲が席を代わった。大いに助けられたと思いながらも、泣きそうな目つきで道策に睨まれひやひやしつつ、春海は二人の碁を見守るかたちとなった。道策が悔し紛れに強い手を連発し、知哲がじっくり陣地を守る様子を見るうち、ふとある考えが湧いた。 改暦についての妙案である。(勝負だ。宣明暦と授時暦を、万人の目前にて勝負させるのだ) 朝廷に働きかけて改暦の勅を出させ、かつ幕府をも天文方創設へと動かすための一手。 宣明暦を葬り、授時暦を世に認めさせるための方策だった。その考えが鮮明となるにつれて鼓動が高まった。全責任は自分が背負わねばならない。とてつもない緊張に襲われながらも、これしかないという確信があった。 そして春海は碁会から帰ると、その確信を文書にしたため、正之に送っている。 ちょうど江戸に戻ってきていた正之は、すぐにその返事を寄越してきた。目の悪い正之に代わり、家老の友松勘十郎という、正之の側近の手による文書であった。 ちなみにこの友松は、正之の君命に従い、正之がなした幕政建議書のことごとくを焼いた人物である。後世、あらゆる幕政のおおもとが正之の建議に依《よ》っていると知られれば、将軍の御政道の権威を低めてしまう、という配慮からきている。友松からしてみれば敬愛する主君の生きた証しを焼くわけで、正之その人を火にくべるような思いだった。それでも悲痛に堪えて君命を実行してのけた。そのような側近中の側近たる友松が、「大殿様はまことに良策と仰せである」 と書いてきた。これで春海の腹は決まった。己の全存在を賭けて、宣明暦を葬り、授時暦を新たな暦法として立てる。これこそ、自分がこれまでの人生を通して望み続けた勝負であったのだ。春海はそう信じ、全力で勝負に勝つための準備を整えた。まさかその勝負が、己の人生ばかりか、事業に関わった全員に、最大の悪夢をもたらすことになるとは思いもよらなかった。 九 寛文九年になり、幾つかの出来事があった。一月、あの富貴の方が正之の子を産んだ。正之にとって六男になる。正之は子に先立たれることが多く、この六男|正容《まさたか》が、のちの三代目会津藩藩主となった。 そして四月、かねて正之が願っていた隠居が、ようやく将軍家綱によって認められた。二代目藩主となったのは四男|正隆《まさたか》で、のちに正容を養子にして家督を継がせている。 これにより、晴れて自由に会津に戻れるようになった正之は、将軍家御落胤たる大名とは思えぬ、きわめて質素な行列を伴い、ひそやかに領地を見て廻った。二十年以上もの間、幕政を優先して藩に戻れなかった正之にとって、ようやくの慰安であった。今や藩主ではないのだから、お忍びに等しい行列であり、出迎える者とてない。ないはずだったが、どこからともなく、〝大殿様が来る という噂が立ち、それが村々へ知れ渡った。そして正之が領内に入るや、街道の両脇が、出迎えの民衆で埋め尽くされていた。行列の先触れも、この有り様に呆然となった。報告を受けた正之は、その場で駕籠《かご》の戸を開かせている。護衛の観点からすれば無防備も良いところだが、それが正之の生涯における民生の在り方だった。領民の方もそれを知っていた。見えぬ目をさまよわせながら正之がその身をさらしていることに気づくなり、街道を埋める民衆が一斉にその場にひれ伏したという。〝会津に飢人なし というかつてない偉業を成し遂げた君主に対し、決して派手派手しい歓呼といった、護衛の必要を生じさせるような騒ぎは起こさず、ただ、「大殿様」「大殿様」 と、ささやくような、むせび泣きの声でもって迎えたのであった。 このとき領内を廻った正之は、ある者の作った草鞋《わらじ》を誉めたらしい。それがまた、あっという間に村々へ伝わった。その日から次々に自作の草鞋を献上する者が現れ、ついには城の一室から溢《あふ》れ出すほどの草鞋の山になったという。正之はそのとてつもない数の草鞋を前に涙し、民生の志を忘れぬための品として、全ての藩士たちに配らせた。 そしてその草鞋を、春海も頂戴した。 江戸で安藤から渡され、〝大殿様お出迎えのくだりを聞かせてもらったのである。 以来、春海も安藤も、その〝大殿様草鞋をお守りのように扱い、もって改暦事業の励みとしつつ、着々と用意を整えていた。同年、その最初の成果が結実した。 春海、三十歳。 京でかねてから改暦に協力してくれていた松田順承と会い、ともに暦註検討の、最初の集大成を発表することとなったのである。『春秋述暦』 という書である。春海と松田の共著で、春海の生涯初の書籍刊行である。 この、中国の春秋時代の暦日を詳細に検討してのけた書こそ、改暦の世論構築の初手だった。続けて春海と松田は、さらに詳細な暦註研究の成果として、『春秋暦考』 を用意し、翌年寛文十年に刊行している。立て続けの最新暦証の発表は、さすがに京の知識層の間で大いに話題となり、また物議を醸した。またこれに並行して、春海はさらに単独で、『天象列次之図』 と題された、北極出地以来の、天測結果の集大成を発表している。これによって暦註研究の裏付けとして、入念な天測があることを知らしめたわけだが、また別の効果もあった。 天測結果の詳細な図案化によって、何年にもわたって春海が挑み続けていたものに、決着をつける意図があった。 かの建部の遺言に等しい大願、渾天儀の完成である。 京の生家で、春海はそれを初めて人に見せた。相手は闇斎でも光国でも伊藤でもない。「まあ」 と、妻|こと《ヽヽ》は、目を輝かせて、春海の手による星々の球儀に見入ってくれた。ちょうど春海が両手で胸に抱えられる大きさで、湿度による歪《ゆが》みを避けることから、ほぼ金属で出来ている。 数百の星の位置を一個の球体において詳《つまび》らかにし、黄道、白道、二十八宿、主な恒星や惑星までも、ことごとくを渾大となした、一世一代の作であった。「どうか、おことの手で、これを抱いてやってくれないか」 と春海は、ことに頼んだ。「私が、ですか?」 ことは目を丸くしている。「うん。お前にそうして欲しいんだ。さ、頼むよ」 春海に促され、ことは、おずおずと手を伸ばし、うっかり壊してしまうのではないかと怖れるような手つきで、そっとその渾天儀を抱き寄せた。そして、ことの胸にそれが抱かれた途端、〝こうして……こう、我が双腕に天を抱きながらな……三途の川を渡りたいのだ あの建部の声が鮮やかによみがえった。たちまち目頭が熱くなり、涙が噴きこぼれ、「旦那《だんな》様?」 びっくりする|こと《ヽヽ》に、春海は泣きながら言った。「ようやく……建部様の供養ができたよ。ありがとうな、おこと。ありがとう」 渾天儀を両手でしっかり抱いたまま、ことは、そっとかぶりを振って、「ことは、幸せ者でございます」 はにかむように微笑んだものだった。 ひと月ほど後、新たに同じものを製作し、人に頼んで金箔《きんぱく》と漆で豪奢《ごうしゃ》に仕立てさせた。 そうして献上された渾天儀を、光国が、ぶっとい双腕で抱きすくめていた。「ぬう」 と、胸元の渾天儀を睨み、ものすごい迫力のこもった唸り声を発する光国に、春海は呆気にとられつつ震え上がった。咄嗟に光国がその渾天儀を気に入らず、ありあまる腕力で砕き散らし、ついでに自分を斬殺《ざんさつ》する光景がまざまざと脳裏に浮かんだ。「あの……」 いったい何が気に入らないのか、勇を鼓して訊きかけたところで、光国の目がじろりと春海を見た。「そなた、この一品をもって、歴史に名を残しおったな。しかもその若さでだ」 なんだか親の敵でも見るような目つきだったが、声には紛れもない称賛の響きがある。「か……過分のお言葉にございます」 春海は慌てて応えつつ、「うぬう」 渾天儀を両手で掲げて眺めながら唸る光国の様子に、(悔しいのか) はたと理解がついた。なんとこの暴気に恵まれた学問好きの御屋形様は、自分から渾天儀を所望しておきながら、それを完成させた春海に対し、猛烈に対抗心を燃やしているのだった。 そのくせ完成したばかりの渾天儀を受け取ってからずっと、様々な角度から眺め、なで回し、なかなか手放せず、ついには子供のように小脇に抱えて、「星の次は、日と月ぞ。改暦の儀、なせるか?」 重々しく訊いてきた。正之から春海の人材吟味を頼まれた光国である。今までの経緯も全て知らされているのだ。春海は平伏し、きっぱりと答えている。「必ずや成就いたします」「水戸は、帝《みかど》こそ第一義ぞ」 光国は言った。改暦が朝廷の権威失墜になってはならないという警告だった。 それが水戸藩の特色であり、会津藩と対照をなす思想の相違だった。 会津藩および保科正之にとっては、将軍家こそ〝尽忠の対象である。だが水戸光国にとっては、将軍よりも天皇がその対象だった。そしてその両藩の思想の違いは、春海の生きる今から、数百年にわたり、変わらず受け継がれてゆくことになる。「江戸幕府と朝廷、いずれにとっても慶賀の、また潤利たる事業にございます」 その点に関しては、繰り返し議論を重ねており、自信をもって答えることができた。むしろ将軍家と天皇家の共栄をなすものとして、改暦の事業があると信じていた。 光国は、ついに春海が辞去するときも渾天儀を抱いた姿のまま、「生意気なやつめ。大いに名を残せよ。水戸がそなたを支援しようぞ」 と、なんとも嘘偽りのない言葉をくれた。 渾天儀を献上してのち、春海は、さらに光国から地球儀と天球儀を所望されてこれを製作している。光国の悔し紛れの所望とも言えたが、春海にとっては望むところで、「本当に作りおった。星狂いめ。余から将軍に献上してやる」 と、のちに光国から、称賛と悔しさが一緒になったような言葉を賜っている。 それと並行して三つ目の渾天儀を製作し、北極出地をともにした伊藤に贈った。むろん金箔を貼ったような豪勢な品はさすがに用意できず、ことに抱いてもらったものと同じ造りである。 既に家督を子息に譲って隠居したばかりの伊藤は、その渾天儀を、こととも光国とも違う、優しくいたわるような手つきで抱きしめた。「ありがとう、安井さん。ありがとう」 目の縁に光るものを溜《た》めつつ、繰り返し礼を言った。前年に胃の病を患ったとのことで、ともに五畿《ごき》七道を巡ったときとは別人のように痩せてしまった伊藤の貌《かお》を見つめながら、「伊藤様から御教示いただきました、あの〝分野も、必ずや成就して御覧に入れます」 そう春海は告げた。できれば改暦のことも話したかったが、今はまだ事業が公示されておらず、勝手に明かせる段階にない。だがせめて、伊藤がかつて病に襲われた建部にしたように、励みとなる何かを一つでも多く贈りたかった。 けれども結局は、伊藤の方が、優しく春海を励ますように、「頼みましたよ」 再三にわたり、言ってくれた。 老いと病を背負い、おそらく、もう天測の指揮を執っていた頃の健康を取り戻すことはないであろう伊藤の微笑みに、胸をつかれる思いがした。「頼まれました」 ただ一心にそう誓った。何が何でもその言葉を守りたかった。正之の願いもふくめて叶えたかった。それこそ自分に与えられた勝負なのだと信じていた。 同年、冬。もう一つの勝負を春海は迎え、そして負けた。かねてから道策が公言していた、「勝負碁の御上覧において、安井算哲様の初手天元を葬る」 という勝負である。どうにも逃げられず、いよいよ春海も覚悟を決めた。 寛文十年十月十七日。春海は、かの正之の民生の象徴たる〝大殿様草鞋を、さらしで腹に巻き、着物の内側に抱いて勝負に赴いている。そして道策の望む通り、初手天元を打ち、互いに歯を食いしばっての一局となった。 結果は、道策の白番九目勝ち。この勝負において道策の力量は疑いないものとなり、(竜だ。ここにも竜がいた) さすがの春海も瞠目《どうもく》し、かつて関孝和に抱いたのと同じ思いを味わったものである。 だが勝負が終わった次の瞬間、道策が一挙に緊張を失って深々と息をついた。よほど気を張っていたのか、いつもの凛然たる才気に満ちた姿はなく、前屈みに肩を落としたのである。 それを将軍様が見た。居並ぶ老中も、大老も見た。碁打ち衆も見たし、碁職を管轄する寺社奉行も見ていた。一方、腹に草鞋を抱いた春海は、負けてもなお残心の姿勢を崩さなかった。 これによって、〝安井家に一日の長あり と評された。安井家の碁は、勝負に負けても命を奪りに行く碁だ、というのが、春海と、そして義兄算知への称賛となった。「ですが、約束は約束です。勝ったのはあたくしです」 勝負の後で道策はむきになって言った。今さら初手天元が正之の手筋であると言うこともできず、春海はなんだか道策が可哀想になった。「うん、わかった。初手天元は封じ手にしよう。でも碁会で使うなら良いだろう?」「いけません。天元など碁において邪道です。いけません。許しません。禁じ手です」 顔を真っ赤にして道策が言い張り、結局、春海は初手天元を禁じられてしまい、「じゃあ、来年の勝負碁で勝ったら、禁を解いてもらうというのはどうだろう」 春海の提案に、道策はこれまで以上に屹然《きつぜん》となって、激しくかぶりを振り、「決して負けませぬ」 大いに断定した。 そして翌寛文十一年、春海は、記録にも残らぬ惨敗を喫した。 碁職にあるまじき悪手の連発だったが、それでも春海に同情する声が多かった。記録が残っていないのは、勝者であり棋譜を所有する権利がある道策が、その棋譜を破り捨てたからである。それは怒りからではなく、ひとえに、春海への憐《あわ》れみからだった。 その年、春海には不幸があった。 妻ことが死んだのである。[#改ページ] 第五章 改暦請願 一 もとから蒲柳《ほりゅう》の質であったが、夏までずっと、|こと《ヽヽ》は健康だった。急変したのは盆を過ぎた頃で、にわかに血を吐くようになり、医師からは胃の腑《ふ》の病と宣告された。透けるように白かった肌に、黒々とした腫《は》れ物が出来たというから、癌であったのかもしれない。 医師による治癒が功を奏さないとわかれば、あとは死を待つ時間が残されるばかりである。 春海はなおも懸命になって快癒の法を求めたが、ことは既に死を悟っていた。「ことは嬉《うれ》しゅうございました」 と、これまで春海が、彼女のためにした願掛けや、贈り物や手紙、それ以外の日々の細々としたことに対し、いちいち礼を述べ、喜びを口にした。そして、「ことは、幸せ者でございます」 そう繰り返し、最期のときにも、その言葉と弱々しい微笑みを残して目を閉じた。そのときは寝息を確認したのだが、寛文十一年の十月一日、ついに目覚めぬまま世を去った。 訃報《ふほう》を受けて駆けつけた義兄の算知に、連日の看病で憔悴《しょうすい》しきって幽鬼のように頭を垂れた春海は、ひどく力の抜けた虚ろな声で、「死なせてしまいました」 と告げた。「お前のせいではない、算哲……」 だが春海は、算知が慰めるのも耳に入らない様子で、その場で土下座し、「申し訳もありません。死なせてしまいました」 ただ、そう繰り返した。「よしなさい。お前のせいではない。ことも、お前のような良人を持てて幸福だったろう」 そう算知は言ってくれるのだが、「まことに不甲斐《ふがい》なく……」 春海は心ここにあらずの様相で、譫言《うわごと》のように詫《わ》び続けるばかりである。 そこへ闇斎がすっ飛んできた。なんのためか。ただ一緒に泣くためである。闇斎はそういう人だった。「お前の嫁御おことは、神になったのだ」 かつて父が死んだときと同じ事を言った。「いつでもお前を見守っている。いつでも嫁御に会える。人の霊とはそういうものだ」 闇斎はそう言ってくれたが、春海は涙も出ず、呆然《ぼうぜん》としたままでいる。 それこそ自分の方が亡霊になった気分だった。そんな状態でも、ことの葬儀を済ませるとともに職務のため江戸に出府し、勝負碁を打った。そして本因坊家の俊英たる道策を相手に悪手を連発し、将軍様の御前で見るも無惨な敗北を喫したのである。 だが、もともと妻の健康祈願のために江戸中を巡り、城内で揶揄《やゆ》されるほど愛妻家として知られた春海である。家督を継ぐ者としては天晴《あっぱ》れな姿と言えた。それなのに妻をきわめて若く、また子もなさないうちに亡くしてしまった。春海に落ち度はなく、むしろ〝家の安泰という観点からすれば、必然、大いに同情の余地があった。 碁職にふさわしからぬ惨敗を喫しておきながら、失職することを免れたのもそのためだ。 だが当の春海にとっては、碁打ちの職分を失わずに済んだことへの安堵など、ほとんど感じる間もなかった。そればかりか、さらに死が待っていた。 江戸にその年の初雪が降り積もった日。 北極出地をともにした伊藤重孝が逝去した。 労咳《ろうがい》らしいと噂で聞いたときはもう遅かった。慌てて見舞いに行くと、遺族は葬儀の準備をしていた。呆然としたまま弔いに参加させてもらい、義兄や安藤らの励ましも空しく心に響かず、幽霊のようにその年の暮れを過ごした。 春になって京の生家に戻り、ある晩、妻のいない一室で眠りに就こうとした。そこでふと渾天儀《こんてんぎ》を抱く|こと《ヽヽ》の姿を思い出した。いや、ほとんど手で触れそうなほど、眼前にその姿を見た。 目を見開いてそっと近づき、ゆっくり手を伸ばした途端、ふっとことが消えた。 消え去る間際、確かに、ことは春海に向かって微笑んでいた。その唇が、〝幸せ者でございました そう告げるのを見た。 暗い部屋に一人残されたまま、春海は妻が死んでから初めて泣いた。ことが抱いてくれた渾天儀を、己の腕で力任せに抱きしめながら泣き続けた。 ことに詫び、伊藤に詫びた。妻を救えなかった悲痛に震え、伊藤に約束した、あの〝日本の分野作りという大願成就を間に合わせられなかった情けなさに身を折って泣いた。 春海、三十三歳。度重なる死別の悲痛を抱えての、年の暮れだった。 これ以後、春海は、常に死者を見送る側となった。死者たちとともにあって、遺されたものをただひたすら背負い続けた。それが春海の生涯だったといってもいい。その生涯において、死者の数は増える一方であった。 ひたすら事業に打ち込んだ。天測と授時暦研究を繰り返し、その没頭ぶりは、家人が声をかけるのをためらうほどの、鬼気迫る様子であったという。だが春海本人はそれこそ無我夢中で、周囲の人間が腫れ物に触るような扱いをすることにも、ろくろく気づいていない。一方で春海は、義兄に、粗末な碁を打ったことを詫びる手紙を長々と書いている。算知は逆にそのことには言及せず、養生するようにとの返事をくれた。 寛文十二年の十月。 春海は江戸で御城碁を務めた。相手はやはり道策である。結果は先番十目の負け。勝負において一切の容赦を見せず、全力で攻めてくる道策の存在がありがたかった。というより、やっと死別の衝撃から立ち直る契機を与えてくれた。ふと気づくと、城で碁を打っていた、という感じである。そして碁のお勤めを終え、会津藩藩邸に戻るや、事業の準備がほぼ整っていて、ちょっと呆気《あっけ》にとられた。必死に整えたのは、むろん春海自身なのだが、なんだか今まで夢の中にいたような気分だった。およそ一年かけて、死別の悲痛を乗り越えたのである。 やっと平静を取り戻した翌日、春海は改めて伊藤の墓前に赴いている。そこで伊藤の冥福《めいふく》を祈り、事業成就を繰り返し声に出して誓願した。それから藩邸に戻り、どこへ行くにも携えていた、ことの位牌《いはい》に向かって、「私は、幸せ者だ」 初めて、静かに微笑むことができた。 十一月、春海は、大老たる酒井忠清に指名されて碁を打っている。 春海が、ある書類を、保科正之に宛てて送った数日後のことだ。その書類を、正之が懇意にしている老中稲葉正則を通して、酒井も目にしていた。そのことを、なんと珍しいことに酒井本人が春海に教えてくれた。今や酒井は城内で比べる者とてない権威を誇り、〝下馬将軍 などと、その家宅が下馬所の前にあることから、陰口を言われるほどになっている。 だが酒井本人に、権勢を濫用する様子は見られない。大名たちをはじめとして各界の権力者たちが、こぞって酒井に賄賂《わいろ》を渡したが、酒井はそれすら機械的に受け取っては、幕政安泰に費やしている。むしろこれまで以上に淡々と、己を一個の器械と化しめるようにして将軍家綱の治世を支えていた。それこそが酒井にとっての王道であり、若い頃から周囲によって受けた教育の成果だった。「じきに、|なる《ヽヽ》そうだな」 いつもの通り、訊《き》くともなしに酒井が口にした。春海はうなずき、はっきりと断言した。「は……。宣明暦のずれは著しく、もはや完全に二日の後れとなっております。よって改暦の好機は間もなく到来いたします」「八百年かけて、二日の|ずれ《ヽヽ》か……」 酒井が呟《つぶ》いた。ひどく不思議がっているような声音だった。八百年と二日という単純な比較において、大したずれではないのか、それとも致命的なものなのか、判断がつかないらしい。 それどころか、なぜ春海が自信をもって断言できるのか、理解できずにいるのである。