珍陀酒《チンダざけ》(ワイン)とかいうそれを、得体の知れない乳製品や、様々な獣の肉とともに、招いた者たちに振る舞う。美食家というより織田信長なみの新しもの好きである。乳製品にしろ、豚や羊の肉にしろ、日本人の味覚からすれば、げてものも良いところだった。春海も何度か、かなりの覚悟で口に入れ、無理やり飲み込んでは嘔吐《おうと》に耐えたものだ。そしてそんな様子を面白そうに笑うのが光国の趣味だった。 だが今回の光国はいつもと様子が違った。第一にあの深紅の酒を飲みながら碁を打っていない。出されるのは茶と茶菓子だけである。茶菓子も、麦を練って焼いたとかいう珍しい品ではあったが、口にした途端に悶絶《もんぜつ》しそうになるようなものではなかった。 また光国が振ってくる話は、なぜか数年前の北極出地のことが大半を占めた。 天測の様子や星図の製作法など、春海が驚くほど専門的な知識に裏打ちされた質問を立て続けに放ってくる。そのためいつしか、建部が言い遺《のこ》した、あの渾天儀《こんてんぎ》の話題になっていた。 旅の後、春海は、江戸でも京でも夜ごと天測を行い、渾天儀の設計を試みているが完成にはほど遠かった。だが何としても成し遂げたい。もはや神に祈りながらの試行錯誤になっていた。それほどまでに渾天儀製作に打ちこんだ理由は、一つにむろん建部の思いを受けての奮闘だったが、またもう一つには、あの関孝和の存在があった。 正確には、関孝和が書いた最新の稿本に、徹底的に打ちのめされたのである。 そもそも、二度目に設問してのちは晴れて関孝和に会いに行けるはずだったが、何年も経った今も実現していなかった。次の設問がどうしたことか作ることができなかったのである。思い浮かばないのではなく、思いつきすぎて一つに定めきれない。そんな自分が無性に恥ずかしかった。また、完全な同年齢ということが今も春海の中に引っかかりを作っていた。年上であれば、あるいは年下であれば、素直に親交を持ち、その教えを乞《こ》えたかもしれない。だがそれができなかった。 稿本は、そんな春海に、村瀬が手ずから写し、春海の祝言祝いとして贈ってくれたものだった。春海は一読を終える遥か手前で、ほとほと関孝和の異才ぶりを思い知らされ、(絶異) その二字しか、しばらく何も思い浮かばなかった。それほどまでに優れた閃《ひらめ》きによる稿本だったのである。紙と紙の間に思索の火花が幾重にも走っているような思いがした。(竜だ。このお人は、天から舞い降りた竜だ。天が地上にお与えになった天意の化身だ) そうまで思い込んだ。心酔というより、もはや天の星を眺めているに等しい。 彼我《ひが》の差の絶遠たることを、こうまで思い知らされては、ただ途方に暮れるしかない。 だが、ただそのままでいることを己の何かが許せなかった。関孝和に何としても三度目の勝負を挑みたくなった。今それを行う資格が己にあることをどうにか証明したかった。その思いが渾天儀製作という難事に向けられた。亡き建部を弔う気持ちとともに、ほとんど縋《すがる》るようだった。これだけは必ずやり遂げてみせる。なぜならこの渾天儀製作こそ、関孝和にも思いつかないような事業であるはずなのだから。もはやいじましいとさえ言える思考である。いまだ顔も知らない一人の男と親交を持ちたいがために、己をそこまで追い込んでしまうのが春海だった。 そんな性分が、自然と光国への応答にもにじみ出たのか、「そなた、その渾天儀とやらを、独力にて成し遂げる気か?」 と真顔で訊かれた。珍妙なものでも見るような目だった。「いえ……、まずは古今の諸説、過去の記録に、先達のお力を頼る他にありませぬ」 これはまったく当たり前の話で、一人で全日本の天測を行えるわけがない。過去の膨大な資料を出来るだけ揃え、つぶさに検討し、星の位置と軌道とを計算し直す必要がある。 光国としては、まさしくその作業をたった一人でやるのかと訊きたかったのだろうが、このときの春海は、資料を求めねばならないこと自体が未熟のような気がしていた。これはもう、そう考えること自体が無茶だが、それが無茶だと思えないほど、関孝和の稿本に驚異の念を抱いていた。遥か彼方《かなた》にある関孝和の背に追いつきたい一心だった。 ふーむ、と光国が唸《うな》った。この人が唸ると、虎が低く吠《ほ》えたような迫力がある。 春海は、はたと口をつぐんだ。もしかして光国の不興を買ったのだろうか。一瞬そんなとんでもない恐怖に襲われたが、「そなた、余に似ておるわ」 なんと光国本人からそんなことを言われ、春海は危うく正座したまま跳び上がりかけた。「か……過褒にございます」 驚愕《きょうがく》する思いで頭を下げている。光国が若い頃に荒れていたのは、実の兄を差し置いて水戸徳川を継いだことに対する申し訳なさゆえであったらしい。兄への申し訳ない思いを紛らわすためだけに、道行く無辜《むこ》の民を無差別に――というより噂によれば、わざわざ腕に覚えのある浪人者を狙って――ぶった斬って回ったという逸話の持ち主に、そんなことを言われる方が怖い。「完成の暁には、余もその渾天儀を所望するぞ。良いな」 膝《ひざ》を叩《たた》いて光国が言った。完全に本気の眼差しである。春海は正直、虎の顎《あご》に己の首をくわえられた思いがした。これで渾天儀の製作に、建部の弔い、関孝和との勝負の思いに、光国という恐怖が加わったわけである。春海はこうなるといつもそうなのだが、完全に開き直って受け入れ、覚悟した。毒を食らわば皿までといった心境で、きっぱりと告げた。「は……私のような非才の身がいかに精進しようと、お目汚しにしかなりませぬが、そのお言葉を励みに、必ずや完成させてみせます」 そこで光国は小さくうなずいた。目は春海ではなく、どこか宙を見ていた。 妙に見覚えのある仕草だな、と春海は思った。いったいいつどこで見たのか。 咄嗟に思い出せぬまま、光国の新たな話題に応じていた。星々と神々の話から、神道について色々と訊かれた。光国は会津の保科正之公と同じく、儒学と神道に傾倒している。 このとき春海は、〝風雲児こと京の山崎闇斎から学んだことを、自分なりの解釈を織り交ぜつつ述べるうち、先ほど感じた疑問のことは綺麗《きれい》に忘れ去っていた。 そのため疑問を再び思い出したのは、翌日、城中でのことで、今や大老たる酒井忠清が、碁を所望したのである。光国の翌日に酒井。これは春海ならずとも何かある、と思わされるのに十分である。春海を用いて城中に〝何かあるぞと公言するようなものだ。 そして酒井はいつもそうであるように、ぱちん、と軽くも重くもない淡々とした音を響かせ、定石一辺倒の手を打ちつつ、「ときに会津の星はいかがであった?」 いきなり訊いてきた。数年前の北極出地のことで酒井が何か質問するのはこれが初めてである。このときようやく、春海は、光国の仕草を思い出していた。正確には、それが、〝退屈ではない勝負が望みか と問われ、春海が応じたときの、酒井のうなずき方にそっくりだったということを。 それは、治世を預かる者が、配下の者の吟味を終えたときの仕草なのだ。目の前の人間に、かねて用意されていた事案を申し渡すことを決めたときの無意識の動作。今の春海にはそれがわかった。長年、春海が抱かされてきた、〝なぜ酒井が自分などを気にかけるのかという疑問に、ようやく答えが出されるときが訪れたのだと。「夜気が澄み、大変観測し易うございました」 春海は静かに告げ、盤上の布石に合わせて石を置いた。そうしてから相手の言葉を待った。 果たして大老酒井はきっちりと定石を外さぬ一手を返してきた。 それから、今初めて本当の目的を――本当は誰の意図であったのかを明かすように、告げた。「会津肥後守様が、お主と、お主の持つ天地の定石を、ご所望だ」 春海が二十八歳のときのことであった。 四 寛文七年、秋。 春海は、会津へ向かって江戸を発《た》った。道すがら、これがどういうことなのか自分なりに考えてみたが、いくら首をひねってもさっぱりわからなかった。 今や大老たる酒井〝雅楽頭忠清が、七年も前に、一介の碁打ちである自分に刀を帯びさせ、そしてその後、北極出地の事業に参加させたのは、ひとえに会津肥後守こと保科正之の意向を受けてのものだったのである。それはもはや間違いない。が、何のためか、という点は依然として皆目不明だった。保科正之に碁をもってお仕えする義兄の算知も分からないと言う。 そもそも幕府要人の意図をあれこれ考えたところで分かるはずがない。ただ粛々と従うばかりである。だがしかし、今回は相手が相手だった。 保科正之は、二代将軍徳川秀忠の実の子、紛れもない〝御落胤《ごらくいん》である。 実父秀忠との面会はついに叶《かな》わなかったとはいえ、三代将軍家光は、この異母弟に絶大の信頼を寄せて事実上の副将軍として扱った。のみならず今の四代将軍家綱の養育を正之に任せ、その後見人に据えて幕政建議に努めさせている。さらに臨終の際、家光は正之を病床に呼び、〝徳川宗家を頼みおく と言い遣したという。まさに徳川幕府の陰の総裁が保科正之だった。 しかも御落胤の権威を盾に君臨するのではなく、あくまで要請されての幕政参加である。 その証拠が〝輿《こし》による登城だった。四年ほど前、正之は重い病に罹り、高熱で視力が衰弱し、喀血して倒れた。血を吐けば当然、労咳《ろうがい》が疑われる。正之は死病を覚悟し、政務から退いて会津藩を子に継がせ、隠居することを幕府に願い出た。 が、なんと将軍家綱はこれを認めず、逆に特例として〝体調の良い日だけ登城せよ〝登城には輿を用いて歩行を最小限にせよといった措置のもと、あくまで幕政建議に参加し続けるよう命じている。還暦間近の老いて病み衰えた正之を、それでも将軍その人が、幕政に不可欠の存在とみなして手放そうとしなかったのである。 信頼を通り越して守り神のごとき扱いだった。しかも幕府のみならず京の朝廷までもが過去、正之の会津藩藩政、江戸幕政、両方を善政と称《たた》え、〝従三位下中将に叙任しようとしている。 しかしこれが大老を超える高位であることから、正之は〝序列の乱れになるとして丁重に辞退した。ところがこのときも将軍家綱その人が、叙任を受けるよう正之に命じ、そのため正之は〝中将のみ受ける旨を上奏したが、今度は朝廷がそれを拒み、結局、〝正四位下叙任を正之に納得させた、という逸話がある。正之の晴朗謹厳の態度に、ときの大老、老中、みな感銘を受けることしきりであったそうな。 もはや生ける伝説である。それほどの人物に自分が招かれるというのが春海には不可思議でならない。しかも会津への召致である。幕政に関わり続けることを将軍から命じられている正之にとって、江戸こそ本拠地のはずだ。春海を会津に呼ぶということは、正之本人も会津に移動せねばならない。なんとも異常な事態である。 この召致が、何かを春海に命じ、そして万一それが失敗したとき、幕府に傷がつかないようにするためのものであることは容易に想像がつく。 それだけの何かがある。そう思うと昂揚《こうよう》と恐怖の両方に襲われ、変な想像ばかり膨らんだ。 最も怖かったのは、隠密でも頼まれたらどうしよう、という想像である。 だがここまで目立つ隠密など聞いたこともない。北極出地でさえ隠密ではないかと疑われたし、大老から目をかけられている碁打ちというだけで、大名たちが春海を警戒すること甚だしい。そんな人物に、今さら隠密を命じたところで、何の用も為さない。 結局あれこれ考えるうちに会津の鶴ヶ城に到着してしまい、そこで春海は、予想を遥かに超える手厚さで迎えられた。家老たる田中正玄から労《ねぎら》われ、城の一室を与えられ、しかも到着した翌日に、保科正之へのお目通りを約束されたのである。長年、碁をもって仕えてきた安井家ならではの厚遇などというものではない。もう歓待されているに等しい。春海としては有頂天になるよりも、ますます何があるんだろうと怖さで震え上がった。 怖くなればなるほど開き直るのが春海の常だが、このときは容易にそれができずにいた。 翌朝まで怖さを引きずり、昼すぎになってやっと怖さが麻痺《まひ》してきたところへ、お呼びがかかって心臓が破れそうなほどの衝撃を覚えた。 それでも何とか気を取り直し、よろめかぬよう踏ん張って拝謁の場へ赴いている。 予想に反して城主の部屋へは招かれず、中庭に面した大部屋に通された。 驚くほど飾りがない。襖《ふすま》は白一色。衝立《ついたて》にすら模様が一つもない部屋に、その人がいた。 日当たりの良い場所に、ぽつんと坐《すわ》っており、深々と平伏する春海は、「よく来た、安井算哲」 優しい声に顔を上げ、その、ただ坐っている相手の姿を目にしただけで、はっと驚いた。 坐相《ざそう》というのは、武士や僧や公家を問わず、一生の大事であり、日々の修養の賜物《たまもの》である。坐ったときの姿勢作りに、品格や人徳までもがおのずからにじみ出る、というのが一般的な所作挙動における発想だが、春海が見たのは、およそ信じがたい姿だった。 不動でいて重みが見えず、〝地面の上に浮いているとでも言うほかない様相である。 あたかも水面《みなも》に映る月影を見るがごときで、触れれば届くような親密な距離感を醸しながら、それでもなお水面の月を人の手で押し遣《や》ることは叶わないことを思い起こさせる。 そんな神妙深遠の坐相をなすのは、痩顔細身に深く皺《しわ》を刻まれ、病が癒《い》えてのちもさらに視力衰弱し、白濁しかけた両目を優しげに細める、齢五十七の一人の男であった。不思議なことに、そこにいるのは、ただの男だったのである。というのも顔を上げたその瞬間、春海の脳裏から、目の前の人物が将軍家の御落胤であり、幕府要人であり、会津藩藩主である、といったことがらが綺麗に消えていた。正之の坐相によって余計な思いを瞬く間に消された。そして、ただ目の前にいる保科正之という人物に、心服しきっていた。「大きゅうなったの、算哲。我が眼《まなこ》にも、大きゅう、一人前になったのがよう見える」 驚くほど真情のこもったお声がけだった。確かに春海は幼少のとき、父である算哲とともに拝謁しているが、こうまで春海の成長を喜ぶような言葉を受けるとは思わず、「御過褒、恐れ入ります。いまだ万事にわたり未熟な身にございます」 春海は、するすると自然な返答が己の口から出るのを覚えた。声に自分でも意外なほどの嬉《うれ》しさがにじんでいた。 と同時に、〝見えるという正之の言葉から、部屋の無装飾ぶりの理由を悟った。どこにも飾りや絵がないのは、質素を重んじる以上に、その方が、弱った正之の眼にも、人の移動をとらえて判別するのが容易であるからであろう。 さらには、あの水戸光国に自分が招かれた理由が、かちりと音を立てて頭の中ではまった。 あれは、視力衰えた正之が、自分に代わって春海という人間の最終的な吟味を、光国に頼んだのだ。実際に正之に確かめずとも、自然とそれが分かった。「ま、そう硬くならず、まずは楽しもう。これ、誰かある。富貴、富貴」 正之が手を打って呼ぶと、近習たちと一人の女が現れ、「はい、ただいま、大殿様。それでは失礼してご用意をさせていただきます、算哲様」 碁盤と碁石、茶を用意し、火鉢を置くなどして、てきぱきと座を整え、「富貴、算哲に茶を振る舞っておくれ」「ただいま、さあさ、どうぞお召し上がり下さりませ、算哲様」「は……いただきます」「どうぞどうぞ、何なりと御用をお言いつけ下さりませ」 にこにこと愛嬌のある笑顔でそう言うのは、正之の側室〝富貴の方である。視力の衰えた正之の身辺を世話するうちに寵愛を得たという女性で、今年二十三歳。いつもは正之とともに江戸にいるそうだが、今回、何かと助けが必要な正之に付き従って会津に来たらしい。 美しい目鼻立ちをしているが、それだけではなく、快活で温かい雰囲気があり、「さ、碁盤が置かれましてござりますよ、大殿様。隣にある火鉢の炭は多めに焚《た》いておりますので、少し離して置いてありますよ」 と意図して口数を増やし、どこに何があるのか、誰が何をしているのか、目の弱い正之にも分かるよう配慮する。それが押しつけがましくならず、ごく自然な調子に聞こえ、また周囲を明るい気持ちにさせるのが、この女性の魅力であるのだろうと春海は思う。「さ、どうぞお座り下さりませ、算哲様」 富貴の方に促され、春海は碁盤の前に着いた。普通、正之を差し置いて先に座るべきではないのだが、この場合、春海がそこにいる姿がぼんやり見えることが正之の助けになると察せられたので、遠慮せず背筋を伸ばして座っている。 果たして正之は春海を追うようにして碁盤の前に移り、微笑んで言った。「先代算哲とよう似ておるな。振る舞いが敏、坐り姿が柔らかじゃ」「は……父の代より安井家一同、肥後守様にはひとかたならぬ御恩を賜り、心より感謝申し上げます」「口ぶり律儀な点も似ておる。よい、よい、楽しもう」 近習が隣室に下がり、富貴の方は正之のそばに残って碁笥《ごけ》から石を取るのを手伝った。 正之の希望で一子も配せずの対局となった。正之は碁の達者で知られている。春海の父算哲を招いたのも、少年だった正之の碁がべらぼうに上手く、城で勝てる者がいなかったからだという。その評判を知る春海にも異存はない。が、さすがに正之の打った手には驚愕した。 ぴしりと盤上に響いた音は、視力が朧弱《ろうじゃく》となった者とは思えぬ鋭さである。坐り姿と同じく感服すべきものであった。だが、問題は打った位置だ。 碁盤のど真ん中。すなわち〝天元に打ち込んだのである。〝初手天元 春海は思わず一呼吸分じっとそれを見つめてしまった。それからそっと相手の表情を窺った。まさか目が不自由なせいで位置を誤ったのだろうか。そう思ったが、「昨夜は、色々と考えた。二代目算哲を負かす手筋はなかろうか、とな」 正之の微笑みから、意図して打ったことがわかった。 それどころか白濁しかけた正之の双眸《そうぼう》に、恐ろしいまでの〝勝負の光を春海は見た。 このお方は真剣勝負を望んでおられる。それを悟った。とても指導碁の気分ではない。そんな気分はその一瞬に捨てた。さもなくば気持ちで負かされるか、あるいは、「勝負に勝てども、命を奪《と》られる」 という場合があった。今ではあまり聞かない言葉だが、過去の棋譜の中には、そのように負けた方を評価するものがある。実際、春海の父である初代安井算哲など、たとえ負けても対局者にそう言わしめる打ち手であった、と義兄からしばしば聞かされている。 不覚悟の打ち方は安井家の名折れとなる。そんな思いまで湧いた。僅かに思案し、打った。「左上辺、緯《よこ》に四、経《たて》に三、にございます」 自然と、相手を気遣い、打った位置を口にしていた。正之が小さく微笑んでうなずいた。 富貴の方が黒石を差し出し、それを正之が淀《よど》みなく打った。右下辺に布石、六手目から先読みの攻防となり、ぐいぐいと正之が勝負を進めた。暗譜通り打っているのかと思えるほどの異常な手の速さである。春海はひたすら正之の攻めをかわし、天元の意図を探り、果たして中盤に至って中央寄せ合いの形が明白となるや、切りに切って成就を防いだ。 これほどがむしゃらに叩き合ったことはついぞないと言うほどの鬩《せめ》ぎ合いで、いつしか春海が無言で打ち、代わって富貴の方がときおり石の位置を正之に告げるようになっていた。それほど余念許さぬ勝負となったのだが、蓋《ふた》を開けてみれば結果は春海の二十一目勝ち。面目躍如の大勝である。しかし一局終わって、どっと春海の全身に汗が生じて流れた。 それでも気息の乱れを察知されないよう、〝残心の姿勢を保って盤上の石を整理している。一局終えたからといって気が緩むようでは碁打ち衆の一員とはとてもいえない。 呆《あき》れたことに正之も同様に石を整理し、地目を数えつつ残心の姿勢でいる。 正之もとっくに地目の差は把握しているのだろう。すぐに次の勝負を、と言い出さないところに並々ならぬ迫力がある。春海は正直、舌を巻いた。とても自分が大勝した気分になれなかった。ちょっと次の勝負はわからないとさえ思った。 ところが正之の方から、ふっと気息を緩めるように笑い、「勝てぬな。昨夜、さんざん工夫を考えてはみたが、うむ、さすが二代目算哲よ。見事じゃ」 そう言って白髪頭を撫でている。富貴の方もくすくす笑って、「大殿様、残念でござりました。お強うござりますねえ、算哲様」「いえ……我が生命を握られた思いでございました」 つい素直に言った。追従でも何でもない。まるきり本音だった。同時に、碁とは、こんなにも面白いものだったのだと新鮮な歓《よろこ》びを抱かされた。何とも言えぬ充足感とともに、ほとんど生まれて初めて算哲と呼ばれることを誇らしく感じていた。正之もまんざらではなさそうに、「うむ、うむ。富貴、儂《わし》と算哲に、改めて茶湯を振る舞っておくれ」 朗らかに指示し、富貴の方が下がったかと思うと、「そなた、人の生命を奪ったことはあるか」 さらりと訊いてきた。あまりにさり気ない問い方で、うっかり普通に、はい、と返事をしそうになった。遅れて意味が訪れたその分、喩《たと》えようもなく怖いものを秘めた問いに思われた。 春海は慌てて気を引き締め、神妙になって、「いえ……滅相もございませぬ」 答えつつ、いったいどういう話題であるか推し量ろうとした。まさか本気でこの自分が殺人|沙汰《ざた》を犯したことがあるかと訊いているのか。あるいは、よもやそれを自分に命じるための布石だと言うのか。困惑とともに言いしれぬ怖れを感じる春海に、「儂はある。いくたびも、な」 正之は、富貴の方が近習とともに茶道具を用意し茶を淹《い》れるのをよそに、枯淡とした風情で、きわめて殺伐とした話題を口にした。「衰えた眼の裏に、数多《あまた》の屍《しかばね》が見える。特に、白岩の郷の者たちは何としても消えてはくれぬ。今も三十六人が、磔《はりつけ》にされながら、儂に陳情の眼差しを向けておる」「…三十六人」 その数字に春海はただ戦慄《せんりつ》した。そんな数の死人を見た経験などなかった。明暦の大火のときでさえ惨状を人づてに聞くだけだったのである。「みな儂が命を奪った」 悲嘆を通り越したようなひどく乾いた声音で、正之は静かに語った。それは保科正之という人間の、人生を賭《か》けた大願の吐露であり、それはまた同時に、春海をこの地に招くに至った、隠された真意がついに明かされる瞬間の到来であった。 五 白岩は山形に隣接する天領、すなわち幕府の直轄地である。 かつては酒井家の分家である、酒井〝長門守《ながとのかみ》忠重の所領であったが、圧政によって千余の飢人を出し、領民の困窮が怒涛《どとう》の一揆《いっき》を呼んで家老が殺害される結果となった。 酒井忠重は領地没収。事態は収拾に向かったが、のち再び、代官の圧政が一揆を誘発した。 正之はその頃まだ会津藩主ではなく、山形に封ぜられていた。そして一揆勢に襲われて逃げて来た白岩の代官を保護した時点で、一揆の仕置きに直面したのである。 正之ときに三十歳。かの〝島原の乱が終結して二年と経っていない時分だった。 断固とした仕置きが為された。正之は即座に、一揆主犯格であり直訴に訪れた三十六人の処刑を命じたのである。それも、騒ぎを起こさせぬため数人ずつに分け、いったん城内に秘《ひそか》かに入れた上での一斉捕縛であった。また幕府への相談もなく、正之独断の仕儀であったことが非難された。幕府天領の村民を、いかにも謀殺めいた仕方で、幕府に断りなく勝手に処断した。 そして正之へのその非難は、決して大きなものとならず、逆に、〝肥後守、さすがの英断 と、やがて評価する声の方が高くなった。 というのも島原の乱後、武家諸法度には新たに、〝国家大法に叛《そむ》き、凶逆の輩あるときは、隣国は速やかに馳《は》せ向かいこれを討伐すべし というような改正がなされている。正之はこれに従ったのである。またそれだけでなく、他ならぬ正之こそ、この改正建議を行った当人だった。その背景には、〝なぜ島原の乱は起こった? という正之の疑問があった。そして臣下たちに、島原の一揆が長期間にわたる籠城《ろうじょう》事件と化した原因をつぶさに調べさせ、やがて答えを得た。一揆勃発時、他藩が幕府の意向を待って鎮圧に協力せず、対岸の火事として袖手《しゅうしゅ》傍観の態度を取ったことが、一揆を反乱にまで成長せしめた第一原因だったのである。 正之はそのことを幕閣に進言し、武家諸法度の改正の運びとなったのだという。 だが保科正之の非凡さは、そこで疑問をやめなかったことにある。〝なぜそもそも一揆は起こる? 腹の底には、いったい誰が好き好んで三十六人もの哀れな民を磔にして晒すものか、という行き場のない激情があった。そのような残虐をもってしか治め得ない世とは何なのか。己がなしたこの虐殺の背景には、いったい何があるのか。〝凶作、飢饉《ききん》、饑餓《きが》 調べれば調べるほど、飢苦餓亡が領民を暴発せしめる第一原因なのだと確信された。そしてそこで正之の天性とも言える、〝疑問する才能が大いに発揮されることとなった。〝なぜそもそも凶作になると飢饉となって人は飢える? およそどの大名も疑問にすら思わなかったような、根源的な問いを抱いたのである。それは同時に、戦国から泰平へと世が移り変わる上での思想の変転そのものだった。覇道に奔走する者たちにとって、災害救助や飢饉救済など、ある程度は美談である。しかし結局は、〝贅沢《ぜいたく》 に過ぎない。凶作は天候によってもたらされ、天候は天意であった。その天意の結果、地に飢民が生ずるというのは、人の身でどうこうできるものではなく、〝仕方なく慎む べき事柄であった。いたずらに騒いで神に祈ったり対処したりすれば出費がかさみ、領国を疲弊させる。そのため飢饉の折には、領主は自己の人徳を慎み、領民は彼らの道徳を慎む、良い機会とすべきである。そういう発想こそ常識だったのである。 むしろ民が飢えるときこそ治世に都合が良く、みなに質素倹約の貴さを教える好機である、というその常識を、正之は根こそぎ否定した。そしてただ否定するだけでなく、〝凶作において重税を課し、領民を疲弊させるばかりでなく飢えに陥らせるのは、慎みでも質素倹約でもなく、ただの無為無策である と断定した。さらには、〝凶作において飢饉となるのは蓄えがないからである というきわめて単純な解答を出し、〝なぜそもそも蓄えがない? となおも疑問を続けた。〝民のために蓄える方法を為政者たちが創出してこなかったからである と過去の治世の欠点を喝破し、〝凶作と飢饉は天意に左右されるゆえ、仕方なしとすれども、飢饉によって饑餓を生み、あまつさえ一揆|叛乱《はんらん》を生じさせるのは、君主の名折れである という結論に達したのである。 これこそ正之という個人が到達した戦国の終焉《しゅうえん》、泰平の真の始まりたる発想の転換となった。 正之はまず、将軍とは、武家とは、武士とは何であるか、という問いに、〝民の生活の安定確保をはかる存在 と答えを定めている。戦国の世においては、侵略阻止、領土拡大、領内治安こそ、何よりの安定確保であろう。では、泰平の世におけるそれは如何《いか》に、という問いに、〝民の生活向上 と大目標を定めたのである。これが諸大名のいわゆる善政と画然と違うのは、幕政と藩政の両方において発揮されていったことにある。そしてまたその政策が、ことごとく、戦国の常識を葬っていったことにあった。 たとえば、江戸の生活用水の確保として計画された玉川上水の開削は、正之の強力な建議に、松平〝伊豆守信綱などが賛同して進められたが、これに幕閣の多数が反対した。〝長大な用水路の設置は、敵軍侵入を容易にしてしまう というのが反対の主な理由である。これに正之は、「今いかなる軍勢が江戸に大挙して押し寄せてくるというのか」 と強力に反論し、ついには幕閣の説得に成功して、江戸を縦横に巡る巨大な水道網設置の運びとなったのだという。 また明暦の大火の際も、正之は数々の決断と説得を行っている。 火災に襲われた米蔵を民に委ね、〝米の持ち出し自由として米俵を運び出させて延焼を防ぎ、同時に鎮火後の被災者への食糧支給とした。 火災後の治安悪化の第一原因が、食糧不足による物資高騰によるものと見抜き、参勤していた諸藩を国元に帰らせ、また江戸出府を延期させた。江戸の人口を一時的に減らし、需給の調整をはかることで物資高騰を防いだ。 被災地に治安維持のための軍勢を置くことは、食糧不足を加速させるだけであるとして反対し、あくまで物資確保、家屋提供、被災者救助による情勢安定に努めさせた。 火災後の天守閣の再建を見送るよう主張し、火災時に民衆が退路を確保出来るよう、行き止まりの多い複雑な道路ではなく、通行に便利な道作りを提唱した。その上で、正確な江戸地図を作製し、普及させることを訴えた。 貯蓄を放出し、人口を減らし、治安維持部隊を置かず、天守閣を建てず、通行しやすい道路を作り、都市地図を一般に配布する――戦国の〝防衛の概念からすれば、どれもこれも非常識も良いところで、まさに自殺行為と誹《そし》られるべきことだ。しかし正之は迷いなくその概念を覆した。幕閣の面々を一人一人説き伏せ、焦土化した江戸を、〝民の生活向上 の場として新たに甦《よみがえ》らせようとしたのである。 しかも、この火災において正之の息子である正頼《まさより》が、冷寒の中で消火活動にあたって病となり、急死している。正之の悲痛と憔悴《しょうすい》は甚だしく、将軍家綱も幕閣も、揃って慰労を勧めたが、正之は息子の亡骸《なきがら》を会津に送り、〝忌み御免をもって喪に服すことをせず、焦土と化した江戸の復興において、数多の建議を行い続けていた。 そんな正之の悲願とも言うべき民生政策への転換が大いに実る節目となったのは、それから六年後の寛文三年。 春海が、あの北極出地を終えて江戸に帰還した年、とりわけ二つの重要な政策が成就した。 一つは、武家諸法度のさらなる改定であり、かねて正之が主張してきた、〝殉死追い腹の禁止 が初めて制度として成立したのである。そもそも徳川家は、初代家康が殉死を〝無駄として嫌ったことから、追い腹は決して奨励されていない。また幕府が奨励する朱子学も、〝蛮族の習慣に過ぎないといった感じで殉死を否定している。 にもかかわらず、主君の死に殉じて切腹して果てることには、戦国の世が培った、〝武士とは何か という思想と、その発露の場を求める、武士たちの烈しい潜在的願望があった。 泰平の世になり、主君と命運をともにした経験などないはずの下級武士たちが、むしろその経験の欠落を埋めるようにして、まったく必然性がないまま、〝似合わぬ仕儀 などと貶されるのも構わず、続々と主君の死に殉じて腹を切ることが流行したのである。 武士という概念が生んだ、強烈な自己実現の方法であり、容易に消しうるものではなかった。 だが正之は、その半生を戦国の常識を葬ることに費やした男である。この武士の殉死追い腹は、厳罰をもってでも禁じるべきものとした。そういった彼の改革の成果が武家諸法度であり、それはとりもなおさず、江戸幕府がまた一歩、戦国から遠のいた証《あか》しでもあった。 そして同年。〝天意の前には仕方なく慎む という戦国の常識を、ついに藩政において転覆せしめた。〝社倉 の成功である。これは正之が、侍儒として招いた山崎闇斎などの学僧らとともに実現させた制度で、朱子学の書にある飢饉救済の策をもとにしていた。領内の収穫の一部を貯蔵させ、その中身を領民に貸し与え、利息を得て増やす。そして凶作の年にはことごとく放出し、救済となす。その一方で、父のない家、身よりのない老人、孝行者などを選んで支援した。 まさに現代における年金制度、福祉政策の嚆矢《こうし》とも言うべき制度である。 しかも会津藩はこれを、僅か数千俵の米の貯蔵から開始している。そして五年後のその年、社倉は領内二十三ヶ所の設立となって大いに機能し、果ては五万俵余りの貯蔵量に増大した。 この制度は同時期、幾つかの藩が実施を試みているが、〝冷貧の地などと呼ばれた会津藩が成し遂げた成果に及ぶものはない。正之が抱いた〝饑餓は君主の名折れという思いを反映するようにして、なんと凶作の年にも他藩に米を貸すほどの蓄えとなり、ついには、〝会津に飢人なし と評されるまでに至ったのである。 先ほどのような真剣勝負に比してひどく穏やかな石の音を響かせながら一局が進んだ。 正之の話も、終始勢い込むことがないまま続けられた。 近習たちも富貴の方もいつしか隣室に下がり、春海はこの偉人と二人きりで相対しながら、ただ感嘆の念に満たされている。いったいどれほどの使命感がこの保科正之という人間を動かしてきたのか。幕閣ばかりではなく、武士の伝統に、この新たな時代そのものに影響を及ぼし、侵略と防衛ではない、〝民生による権威の大転換を志したのである。 余人の、春海のような一介の碁打ちの思い及ぶところではない。そう春海自身が驚異の念とともに思った。あの江戸城天守閣の喪失に〝新たな時代を感じた春海にとって、それを建議した人物が目の前にいるというだけで、異常な興奮にめまいがしそうだった。 豊臣家に最後まで仕え続けた石田三成が処刑の前に引いたという『史記』の言葉ではないが、〝燕雀《えんじゃく》いずくんぞ鴻鵠《こうこく》の志を知らんやと言われているような気がして、呆然となるばかりである。 むろん保科正之という個人が事の全てを運んだわけではない。将軍家綱や幕閣の要人を始め、おびただしいほどの人々の呼応と協調がなければ到底不可能なことである。 だがそれでも、正之という賢君の気質を具《そな》えた人がいてこそ幕府は短期間でその大転換を成し得たのではないか。事実、このときの春海には知り得ないことだが、のちに将軍家綱の〝三大美事として称えられることになる、〝殉死追い腹の禁止、大名証人(人質)の廃止、末期養子の禁止の緩和は、いずれも正之の建議がもとになっている。 特に、末期養子は各藩の取り潰《つぶ》しに直結する。その禁止の緩和は、十数万規模と言われる無職浪人の発生と政情不安を、かなりの規模で抑えている。 当然、それら正之の建議は、烈しく守旧の者たちと衝突してきたことだろう。 だが正之の特質は、その衝突すら常に緩和させ、共感へと変えてきたことにある。「善策の数々……まさに孫子《そんし》の〝道と存じます」 思わず春海は言った。為政者と民とが共感し合い、ともに国家繁栄に尽くすことが〝道である、というのは軍事兵法の祖たる孫子の理想である。それを軍事否定の正之が体現しているというのは、皮肉というより、それこそ新たな時代にふさわしい価値変転であるように思われてならなかった。とは言え、春海が学んだ兵法の学は孫子の教えだけなので、他に具体例を連想できなかっただけなのだが、「〝武は放っておけば幾らでも巨大になり得る化け物でな。〝久を貴ばずというのは、つまるところ、武は常に〝久となる機会を狙っておるということだ」 などと、正之も春海に合わせて、孫子の教えを例にしてくれた。〝久とは持久戦のことで、孫子はこれを国家衰亡の原因として、行うべきではないと強調している。だが、正之が口にしたことは、それにまた別の解釈を加えてのことであった。「かの太閤《たいこう》豊臣秀吉も、それに呑まれて滅んだようなものであろう。明国との合戦のため、朝鮮へ規模甚大の兵を赴かせ、南京への天皇遷都を目論《もくろ》むなど……〝武という怪物に抗《あらが》えなんだのがよう分かる。おそらく太閤自身、|合戦を終わらせたくとも終わらせられなんだのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」 朝鮮出兵は、豊臣秀吉が犯した最晩年にして最大の失敗である。十数万規模の恐るべき出兵を断行しながら成果は皆無。日本に有利な貿易体制すら築けなかった。むしろ悪化した対日感情が朝鮮全土に広まり、貿易も文化交流も阻害されて大いに国益を損なうばかりか、日本国内でも出兵で疲弊した武将たちの恨みが、子々孫々、今の世にも尾を引く有り様だった。「終わらせたくとも……でございますか?」 だがその点は春海も初耳だった。豊臣秀吉はあくまで戦いを継続させようとしたのであり、その死によって、ようやくの終戦となったのではなかったか。「戦国の世が終わり、泰平となって、|何がなくなるか《ヽヽヽヽヽヽヽ》、分かるか、算哲?」 逆に訊かれた。盤上は互いに悠々とした定石の打ち筋である。春海にとっては、ほとんど無思考で返せる手ばかりだが、話題はどれも普段の思考でついていけるものではなく、「……合戦がなくなります」 つい、馬鹿らしいほど当たり前の答えを告げていたのだが、正之は大いにうなずき、「ゆえに主君は家臣に与える褒賞に欠き、民は多くの賄いを欠く。ちょうど今のこの碁盤のように、どんどん地目が定まり、新たな石を置けず、生き場所が消える。それで、新たな土地を求めざるを得なくなり、国の外に兵を放り出した」 春海はぽかんとなった。そんな考えは抱いたことすらなかった。だがそれが真実であることが、すとんと腑《ふ》に落ちた。家臣に与える褒賞とは、新たな領土である。民の賄いとは、武器や荷駄、糧食や木材や衣服やその他、合戦で消費される多数の品の売買である。それらがなくなるとどうなるか。家臣に褒賞を与えられない主君。消費されない商品を抱えた民衆。武士もそれ以外の民も同時に生きるすべを失い、世は脱出不能の大不況となる。「武は、のさばらせれば国を食う。食わせるものがなくなったとき、太閤は滅んだ。武断の世が滅ぼしたのだ。そして大権現様(家康)が江戸に開府されたとき、同じ轍《てつ》を踏まぬ為、何より集めねばならなかったのが、黄金でな。その量、実に六百万両ほどになるか」「六百万両……」 目を剥《む》いた。咄嗟に想像がつかない。それほどの黄金を、たとえば今いる部屋に積んだらどうなるか。おそらくほどんど積めずに黄金の重量で柱が砕けて部屋が倒壊する。そんな量の黄金を国内だけで産出できるわけがない。国外からも大量に買い込んだに違いないことは分かるが、実際に思い描くことすら難しい、空前絶後の貯蔵量である。「その六百万両が、じきに尽きる」 だが淡々と正之が言った。こうもあっさりと徳川家の秘事を口にすることに唖然《あぜん》となった。 が、しかしそれ以上に、単純に言っている意味がわからなかった。六百万両がなくなる? いったい何に費やせばそれほど莫大《ばくだい》な財産が消えるのか。だが春海の一部は、このとき既に答えは語られていることを理解していた。「武の断行せし世を、黄金で変えたのだ。辛くも間に合った、といったところか……」 保科正之の大願たる〝民生への大転換は、正之の個人的な理想という側面ばかりではなかったのである。徳川幕府が自ら握った〝覇権という名の怪物によって滅ばぬためのゆいいつの道が〝泰平だった。江戸はそのために生まれたと言ってよく、さらには日本全国の社会の仕組みそのものを作り替えるため、莫大な財産が消費されたのである。「とてつもない奢侈《しゃし》と冗費をも生んだが……根づかせねばならぬ教えは大いに広まった。〝下克上を消し去ること……それだけは確かに間に合ったと言えるであろうな」 春海も思わずうなずいた。正之の言う〝教えとは朱子学である。そもそも朱子学が奨励された狙いは、〝たとえ君主が人品愚劣であっても、武力でこれを誅《ちゅう》し、自ら君主に成り代わろうとしてはいけない という思想の徹底普及にあると言えた。武断の〝道徳はその逆、下克上である。弱劣な君主を戴《いただ》けば国が滅びる。より優れた者が君主に成り代わるのが当然なのだ。 そうした戦国の常識を葬り去ることこそ、正之のみならず歴代の幕閣総員の大願であり、「そのために幕府は多くのものを奪ってきた。儂もずいぶんとそれに加担した」 そう言って正之は微笑んだ。やけに悲哀の漂う微笑み方だった。「武将の素質ありとみなされた大名たちを、お家取り潰しの憂き目に遭わせてきた」 正之の口調から、その方策が決して褒められたものではなく、奸計《かんけい》と呼ぶべきものが多分にあることを春海は察した。徳川幕府による数々の大名改易、取り潰し、減封は、およそ綺麗事で済ませられるようなものではない。常に悲劇を生み、中でも徳川家の血を引く大名君主たちの処断は、美談で糊塗《こと》される余地すらない、骨肉相|食《は》む逸話ばかりである。「幕府の教えに仇《あだ》なす学問は、ことごとく葬ってきた。いかに聖《きよ》き教えであろうと、生きながら棺《ひつぎ》に入れ、蓋をし、地に埋めた」 その言い方から、春海は卒然と、あの城中に漲《みなぎ》っていた、ぴりぴりとした空気を思い出した。 山鹿素行の『聖教要録』出版の罪を巡る処断。あれも、正之の建議によるものだったのだ。 明言はされずとも今はっきり理解できた。 山鹿素行の思想は、あくまで今の武士がどう生き、どう民の上に君臨するかを説くもので、民生の視点はほとんどない。それは旧来の武士像の理論化であり、ひいては正之が否定した、〝天意の前には仕方なく慎む という考えに戻る。幕府の課題、正之の大願、どれとも相容れない。ゆえに江戸追放だった。 春海には、正之の一言一言がずしりと重かった。内容のせいだけではない。なぜ自分にそれを語って聞かせるのかが問題だった。なんだかまるで自分にも正之と同じように、|何かを殺せ《ヽヽヽヽヽ》と言っているのだとしか思えない。だがいったい、|何を《ヽヽ》か。「武断を排《しりぞ》け、文治を推し及ぼす……それこそ徳川幕府の為すべき〝天下の御政道でなくてはならぬのだ。そして今、そのための、まったく新たな一手が欲しい」 そう言って正之は、ぱちんと石を置いた。重々しい話題とは裏腹に、碁自体は、あくまで純粋に楽しんでいるような打ち筋である。春海もおのずと幾つもの手筋が思い浮かび、いつまででも打っていたくなるような気持ちにさせられていたのだが、「それは、いかなるものでございましょう?」 問いつつ、何気なく打とうと上げた手が、正之の一言で、宙に凍りついた。「その前に、難儀とは思うが、この老人に、宣明暦というものについて教えてくれぬか」 さながら落雷のようにその言葉が春海を直撃した。俄然、脳裏に何かが整った。咄嗟にそれが何であるか分からず狼狽《ろうばい》が顔に出そうになったが、はたと理解した。 欠けた月。 伊勢で、建部と伊藤とともに観測した月蝕《げっしょく》だった。そのときの建部と伊藤とのやり取りが急激に甦るのを覚えながら、春海は震えそうになる手にしいて力を込め、「八百年余の昔……我が国に将来されし暦法にございます」 言いつつ、ぴしりと盤上に石を置いた。正之は小さくうなずいて新たな石を手に取っている。何も言わない。次の一手を考えながら、ただ春海の言葉を待っている。「長き伝統を誇る暦法ですが、今の世に、その術理はもはや通用しておりません」「なにゆえであろうか?」 石を置きつつ惚《とぼ》けたように訊いてくる。春海は、ここに至って不遜《ふそん》を怖れず告げた。「八百年という歳月によって、術理の根本となる数値がずれたからでございます」 それは近頃、算術家や暦術家の間で、半ば公然と議論されることがらであった。春海も、その術理を検証し、かつて建部と伊藤が言ったことが真実であることをようやく理解している。 宣明暦の暦法に従えば、一年の長さは三百六十五二四四六日である。 だが実際の観測に照らし合わせると僅かに一年より長い。その誤差は百年でおよそ〇二四日。八百年では実に二日の誤差となる。それがただの空論でない証拠に、宣明暦に従う全ての暦が冬至と定める日よりも、二日も前に、最も影が長くなる本当の冬至が過ぎていることは、多くの暦術家がその観測をもって認めるところだったのである。春海はそうした点を告げ、「冬至の他にも、朔《さく》や望、いずれは日月蝕の算出にも支障をきたすこととなりましょう」「いずれ蝕の予報を外すか」「は……」「では、〝授時暦というものについて教えてくれぬか」 それが二度目の落雷となって春海を打った。息苦しいまでの緊迫に襲われた。話がどこに流れていくかが突如として分かってきた。だがなぜ自分にそれを言わせるのかという疑問は拭《ぬぐ》えず、それが異様な緊張を春海の身に及ぼしながらも、精一杯の気魄《きはく》を込めて言った。「かつて発明されたあらゆる暦法の中で、最高峰と称されし暦法でございます」 太閤豊臣秀吉による朝鮮出兵で阻害された文化輸入が再開されてのち、特に求められた学問は、第一に朱子学、次が天元術などの算術、そして授時暦の暦法であった。 かつて、蒙古《もうこ》族が宋《そう》と金《きん》を打倒し、元を樹立したとき、彼らの暦は滅亡した金の〝大明暦を用いていたという。だがこの暦法は誤謬《ごびゅう》が多く、皇帝フビライは改暦を欲した。そのために招聘《しょうへい》されたのが、許衡、王恂、郭守敬《かくしゅけい》の三人の才人たちである。 許衡は、古今の暦学に精通する博覧強記の人。王恂は算術の希代の達人。郭守敬は器械工学の天才。これら三人が、精巧きわまる観測機器を製作し、五年の歳月を費やして天測を行い、持てる才能の限りを尽くして改暦を行ったのである。 その精確さはずば抜けており、特異な算術を開発し、観測結果を照応して、一太陽年の長さを三百六十五二四二五日と定めるに至った。これはのちの世で言う〝グレゴリオ暦の平均暦年と同じ値である。その暦法をなす算術は多くの点で優れた特色を持ち、〝招差術などの術理は全て、この授時暦を通して日本に輸入されていた。 のみならず、授時暦が内包する数多の術理が比較検討されることによって初めて〝算術の体系化という概念が日本に根づいたと言って良かった。 そうしたことを喋るうち、いつしか春海の中で緊張を興奮が上回った。声口調も自然と熱っぽいものになっていった。授時暦こそ中国暦法の最高傑作であり、春海はそれを十代の頃に京で学んでいたが、今の歳になってようやくその素晴らしさに開眼したばかりで、「星はときに人を惑わせるものとされますが、それは、人が天の定石を誤って受け取るからです。正しく天の定石をつかめば、天理暦法いずれも誤謬無く人の手の内となり、ひいては、天地明察となりましょう」 自然と、いつか聞いたその言葉が口をついて出た。あの北極出地の事業で、子供のように星空を見上げる建部と伊藤の背が思い出され、我知らず、目頭が熱くなった。「天地明察か。良い言葉だ」 正之が微笑んだ。先ほどの殺伐とした枯淡さはなく、穏やかで、ひどく嬉しげだった。そしてその微笑みのまま呟《つぶや》くように言った。「人が正しき術理をもって、天を知り、天意を知り、もって天下の御政道となす……武家の手で、それが叶えられぬものか。そんなことを考えておってな」 半ば盲《めし》いた正之の目が、そのとき真っ直ぐに春海を見据え、「どうかな、算哲、そなた、その授時暦を作りし三人の才人に肩を並べ、この国に正しき天理をもたらしてはくれぬか」 それが三度目の、そして正真正銘の落雷となって、春海の心身を痺れる思いで満たした。「改暦の儀……でございますか」 すなわち八百年にわたる伝統に、死罪を申し渡せということだった。 ぱっと江戸城の天守閣と、その喪失後の青空が浮かんだ。あれと同じことをしろと言われた気分だった。守旧の象徴を破壊し、この世に新たな、未知の青空をもたらせと言っていた。 咄嗟にそれがいかなる影響を世に及ぼすのか想像することさえ困難をきわめた。六百万両を想像しろというのと同じだった。とても想像力が及ばない。だがいずれにせよ、幸福感なのか緊迫感なのか、なんとも判別しがたいものが血潮となって烈しく身を巡るようだった。「そうだ。今、その機が熟した。そなたという希有《けう》な人材の吟味も滞りなく済んだ。算哲よ。この国の老いた暦を……衰えし天の理を、天下の御政道の名のもと、|斬ってくれぬか《ヽヽヽヽヽヽヽ》」 そのための二刀、そのための北極出地であったのだ。 なぜ春海が刀を帯びていなければならないか。それが武士像の変革になるからだ。他ならぬ武家に関わる者が、暴力ではなく文化をもって、新たな時代に、新たなときの刻みをもたらす。 それが判明してなお、春海の中ではまだ余裕にも似た気持ちが残っていた。まさか自分のような者にそれほどの事業を率先して行わせるはずがない。精神の逃げ場と言っていいそれを素直に吐露するように尋ねた。「ふ……不肖の身なれど、粉骨砕身の努力をさせて頂きます。それで……どなたのもとで尽力すればよろしゅうございましょうか?」 正之の目が僅かに見開かれた。春海の勘違いでなければ、正之が初めて見せた、きょとんとした顔だった。それからみるみる笑顔になり、ゆっくりとかぶりを振った。「そなたが総大将だ、安井算哲。そなたのもとで人が尽力するのだ」 今度は春海の目がまん丸に見開かれた。精神の逃げ場がその時点で完全に消滅した。 たちまち息が詰まり、先ほど感じた血潮が一瞬で恐怖に凍りついた。「い……い、いかなる思《おぼ》し召しで……、そ、そのような身に余るお役目を……」「みながみな、同じ名を口にした。改暦の儀……推挙するならば、安井算哲を、とな」「み、みな……? と申しますと……」「水戸光国」 正之が言った。ぱっと春海の脳裏にあの剛毅《ごうき》な顔が浮かんだ。「山崎闇斎」 春海の幼いときからの師であり、正之の侍儒だ。これまた春海の脳裏で豪快に笑っていた。「建部昌明、伊藤重孝」 その二人の名が挙げられた途端、ふいにまったく予期せぬものが込み上げてきた。〝精進せよ、精進せよ 建部の楽しげな声がよみがえり、〝頼みましたよ 今まさに伊藤に優しく肩を叩かれた気がした。 おそらく建部は事業から外れてのち、伊藤は事業成就の後、それぞれ春海を推挙していたのだ。そう悟った途端、視界がぼうと霞《かす》み、目に純然たる歓びの涙がにじんだ。「安藤有益。そなたも知る通り、我が藩きっての算術家だ」 春海はうなずいた。声が出なかった。まさか安藤までもが。堪《こら》えきれず肩が震えた。「酒井〝雅楽頭忠清。あの大老殿、そもそも暦術に興味など持ち合わせてはおらぬが、そなたには、いささか感ずるところがあるようでな。星のことはとんと分からぬか、算哲という者の熱心さは、信ずるに値する、と言うておった」「し、しかし、わ……私は……この通り、若輩者でございます……」「若さも条件だ。何年かかるかわからぬ事業であるゆえ、な」 途端に、あの酒井の、〝生涯かかるか という言葉が、何年ぶりかに、胸に心地好く響いた。その瞬間ようやく心が定まった。たとえようもない使命感に身が熱くなった。「まことに……私で、よろしいのですか」 すっと正之の背が伸びた。「安井算哲よ。天を相手に、真剣勝負を見せてもらう」 |からん《ヽヽヽ》、|ころん《ヽヽヽ》。 ふいに幻の音が耳の奥で響いた。咄嗟にそれが何であるか分からなかった。分からないまま、強烈な幸福感に満たされていた。いつか見た絵馬の群れの記憶がよぎった。が、そうとはっきり認識する間もなく、春海は、たまらず衝動的に座を一歩下がり、平伏し、「必至!」 叫ぶように応《こた》えた。反射的に口から出たそれが、碁の語彙《ごい》でもあると遅れて気づいた。 正之が愉快そうに笑った。「頼もしい限りだ、安井算哲」 それが父の名であるという意識が、初めて春海の心から綺麗に消えていた。 六 部屋へ通された。部屋と言っても、城の武家屋敷が並ぶ一画にある空き家である。 事業の執務および資料|蒐集《しゅうしゅう》のために割り当てられた家宅で、既に書籍や頒暦が一角に積まれ、筆記具と紙とが贅沢なまでに準備されていた。案内の者が下がり、春海は突っ立ったまま室内を見回した。こぢんまりしているとはいえ武家宅を丸ごと与えられたのである。碁打ちの身分を超えた待遇であり、保科正之の本気さが如実にあらわれていた。 ここで寝起きするのだ。ここを改暦事業の最前線の陣地、最新鋭の研究の場とせねばならないのだ。そう思い、改めて緊張を感じたとき、力強い足音とともに最初の事業参加者が現れた。「六蔵!」 これは春海の幼名だ。十年以上も前の名なのだが、呼んだ方は十年後も引き続き同じ名で呼ぶつもりでいる。久々の再会を喜びつつも、春海は呆れ顔で言った。「山崎先生、いい加減、その名で呼ぶのはおやめ下さい」「いっちょう前に、賢振《かしこぶ》るようになりよって、こいつめ、こいつめ」 だが男は破顔し、さも嬉しそうに、春海の肩を痛いほど叩いてくる。今年四十九歳とは思えぬ頑健な体躯をしており、ほとんど身に脂肪がない。髪型こそ独立|不羈《ふき》の学者らしくあえて剃髪《ていはつ》せず総髪のままでいるが、むしろそのせいで廻国《かいごく》修行中の武芸者にしか見えない。深い智慧《ちえ》をやどし、生半可な知者の群れを踏み潰して歩く岩石。それが、春海に幼時から神道を教え、またその他の技芸の師を紹介してくれた、希代の〝風雲児こと山崎闇斎であった。「改暦の儀、よう拝命したの。どや、怖くて震えとんのじゃぁないかあ?」 京|訛《なま》りだかなんだか分からぬ、なんともでたらめな喋り調子である。仏僧になり儒者になり神道家になり、各地で師を求めた末に、京に腰を落ち着けた所為らしい。言葉の訛り方からして自己流で、しかも本人はそれを誇っているふしがあった。それでも為政者たちの前では立派な学僧として凛然たる説教を行うのだから不思議である。「震えてなどおりません、山崎先生」 きっぱり返した途端、ばしんと背を叩かれて春海はよろめいた。この師匠、喜ぶと言葉より先に手が飛んでくる。「ほんまに立派になりよったのお、六蔵。亡き父君もさぞ喜んどるやろなあ」 しみじみと大きくうなずく闇斎の背後から、さらに二人が現れた。一人は、なんとあの安藤有益で、春海に対するなりきちんと礼をし、「大任おめでとうございます、渋川殿」 と言った。それも同輩に対する礼ではない。上司に対する慇懃《いんぎん》さだった。既に春海のことを事業の中心人物であり、全権を委ねるべき相手と認めているのだ。その安藤らしい実直な態度に、春海は妙にじんときた。これは渋川春海という個人を敬っているのではなく、この事業の大きさと、何より発起人たる保科正之への畏敬《いけい》ゆえの礼だった。途方もなく大きなものへ立ち向かおうとする連帯感を抱きながら、「ありがとうございます、安藤殿。我が気魄の限りを尽くし事業を完《まっと》う致します」 春海も相手に合わせ、しっかりと礼をし、熱っぽく告げた。 そうして最後の一人と相対した。「それがしは島田|貞継《さだつぐ》と申します。安藤とともに事業成就に尽くすよう主君より仰せつけられております」 と安藤にも増して丁寧に礼をするのは、今年五十九歳になろうとする老人であった。「島田様……御高名、かねがねお聞きしております」 春海の声にも、自然と感激の念がこもった。島田は安藤に算術を指導した師の一人であり、まさに会津藩屈指の算術家である。痩顔に亀裂のごとき深い皺を帯び、黒目がちの両眼は、半生をかけて磨き抜いた老境の知性の輝きを発している。 実に、この四人が事業の中核であった。中でも春海は群を抜いて若かった。他にも若く優秀な藩士たちが六名、助手として働く手はずであることが安藤から話された。だがその者たちとてみな三十代である。二十八歳という自分の年齢を思うと、それこそ闇斎の揶揄ではないが、正座をした尻《しり》の下で両足が震え出しそうな緊張を覚えた。 だが四人が十字に向き合い、それぞれ真剣|一途《いちず》な顔つきになって最初の話し合いを始めるや、一同の事業への熱意が部屋に充満し、緊張などあっという間にどこかへ行ってしまった。闇斎の気宇壮大、安藤の堅実、島田の練達、彼ら一人一人の意見が、存在が、心底頼もしかった。春海はむしろ三人それぞれの言葉を拝聴するように話を進め、事業の基本方針を立てた。「授時暦、いまだ究められず」 という島田の言葉が、事業の第一指標となった。中国史上最高峰と誉れ高い授時暦だが、その暦法を完全に修得した日本人はまだいない。まずはその暦法の修得、検討、実証が不可欠だった。「私の知る限り、授時暦の暦法の要は、精妙にして不断の天測にあります」 そう安藤が意見し、第二指標が定められた。授時暦は何より星々の観測結果を重視した暦法である。数多の結果から、特定の法則を導き出すという特異な算術を実地に修得するためにも、春海たち自身が同じように天測を行うべきだった。「腐っても八百年の伝統や。覆すんなら、先に建てとけ、いうんが計略でしょう」 闇斎がそう言って第三指標を定めた。宣明暦という〝由緒正しいものに匹敵するほどの何かを用意せねば、いくら算術において授時暦が正しくとも、この国の知識層も民衆も受け入れてくれない。何しろ多くの算術家たちによって円周率の近似値が三一四と証明された今もなお、巷間《こうかん》の技術職人をふくめ一般民衆は、三一六という旧《ふる》くから伝わる円周率の方をありがたがって使用するのが現実なのだ。「国事文芸の書はもとより、漢書も片っ端からや」 と闇斎は言う。この国の文芸は基本的に公家の様式、つまり日記である。日々の記録、儀式の記述であり、必ず暦註《れきちゅう》というものがつけられた。何月何日にどんな儀式が執り行われ、どんな出来事が起こったか、その日が十干十二支のいずれに該当するかが明らかであってこそ文芸だった。そうした様式に当てはまらない学芸書を取り沙汰しても公家層や宗教勢力には普及せず、また講談のように民衆受けもしない。結局は一部の特殊技術者の問でだけ議論されるものとなってしまう。よって正統な文芸書の暦誌を検証し直すことで、宣明暦よりも授時暦の方が、伝統を受け継いでゆく上でふさわしい暦法であることを示し、世の新しい常識として定着させる。それが闇斎の意図だったが、「ちと膨大に過ぎませぬかな」 島田が思案げに反駁《はんばく》した。授時暦の研究と天測と並行して、それほど大量の書物の暦証を検証するとなると、助手全員を動員してもまず人手が足らない。「物好きはけっこうおるもんでしてな。恰好の人材がおります」