「天地明察ですか」 春海は思わずそう繰り返した。北極星によって緯度を測るこの事業にふさわしい言葉だった。いや、地にあって日月星を見上げるしかない人間にとっては、天体観測と地理測量こそが、天と地を結ぶ目に見えぬ道であり、人間が天に触れ得る唯一のすべであるのだ。そう高らかに告げているように聞こえた。 と同時に、先ほどの設問の構想がふいにまたかすかに輪郭を帯びた。星々の列が、まだ試みたことのない算術の術理とともに、ぼんやり頭に浮かんでくる。それを形にするにはかなりの労苦が必要なことは、発想の端緒をつかんだ時点で既にわかっている。だが必ず形にしてみせる。この旅が、今のお役目が終わるまでには必ず。そう思っていると、「私にも、一つね、大願があるんですよ」 伊藤は笑顔のまま、口調だけ内緒話のように真面目になって、そう告げた。「まあ、大願というより、夢想と呼ぶべきかもしれませんがねえ」 建部が〝天を抱くと口にしたときの顔がぱっと脳裏に浮かび、春海は、つい反射的に身を乗り出して訊いた。「いかなる大願でしょう」「分野《ぶんや》、というのがありますよねえ」「はい。占術の……」「そうそう。星の異変すなわち国土の吉凶の徴《しるし》という、あれです」 そういえば伊藤が算術とともに占術も修得していることを春海は思い出した。〝分野というのは星の一々を国土に当てはめる中国の占星思想のことである。 あらゆる星が中国各地の土地と対照されており、天文を司る者は、星々の異変の兆候をいち早く察知し、該当する国々に影響を及ぼす前に、詳細を報じることを責務とする。国家の運命を扱うのであるから、ただの星占いとは根本的に違う。国家経営の学、占星思想、地理地勢の学の集大成たる巨大な思想体系であった。 その分野を修得し、極めたいということだろうか。そう春海は咄嗟に推測した。だが、建部のときと同様、そこで春海の想像を遥かに超える言葉が来た。「私、あの分野をねえ、日本全土に当てはめたら面白いだろうなあ、とねえ……そう思うんですよ」「日本全土……?」 鸚鵡《おうむ》返しに口にしたまま後が継げずに絶句した。聞いた瞬間に衝撃を受けたというのに、後からそれがどういう意味を持つかを悟り、さらなる衝撃に総身が痺《しび》れる思いを味わった。 本来、分野とは中国独自のものだ。日本はせいぜい全国土に対して幾つかの星が配置されているに過ぎない。だが全天の星を、今の江戸幕府の統制下にある全国領地に当てはめて日本独自の分野を創出する。それが伊藤の狙いだった。いわば星界の下克上、天下統一である。そのためには日本全国の大まかな地図製作および精確無比な天文観測が大前提となる。そしてもちろん膨大な占星術の知識の一つ一つを自在に応用し尽くさねばならない。 それはまた、中国の古典を頂点とする多くの学問体系をもひっくり返すことになるだろう。今の世の学問における根本的な姿勢の大転換。それは中国という巨大な歴史と文化の枠組みから飛び出し、日本独自の文化を創出する試みであるとすら言えた。 もしそんなものができあがったら世の全ての宗教家が驚愕するだろう。あるいはそれこそ、神道や陰陽道など日本古来の宗教が、真に〝日本独自の宗教となる瞬間かもしれなかった。「す……凄《すご》い……。それは、凄いことです、伊藤様……」 震える声で称賛した。衝撃にくらくらして熱でも出そうだった。 同時に、それこそ建部が告げた〝渾天儀と対になる発想であることに気づいた。あらゆる星の運行を一つの球体となすような渾天儀がなければ、とても伊藤の言う〝日本の分野作りなどできはしない。また分野という発想がなければ、天文術というものがまだまだ体系化に至っていないこの時代に、全天の星を一つにまとめる渾天儀といった発想は抱けなかったろう。〝渾天儀と分野は、いわば二つで一つの夢なのである。建部と伊藤、二人一組となって初めて抱くことができたであろう大願だった。 いったい二人とも、どうしてこう、途方もない一大構想を自分に見せつけようとするのか。何か自分に含むところでもあるのか。ついつい本気でそう口にしたくなった。「いえいえ、私の齢じゃ、寿命が来るまでにはとても追っつかないでしょうねえ」 と伊藤は言う。だが逆に言えば、それは、実際にやろうと算段を整える努力をしたことがあるということだ。天まで届く巨大な城の設計図を試しに書いてみたと言っているに等しい。 それだけでもどれほどの学問修得と日々の研鑽が必要だったか。想像して春海の背をぶるっと震えが駆け抜けた。「なら、ねえ……若い人に、考えだけでも、伝えておきたいと思いましてねえ……」 伊藤はそう言ったが、春海がそのとき深く感銘を受けたのはまったく逆のことだった。人には持って生まれた寿命がある。だが、だからといって何かを始めるのに遅いということはない。その証拠が、建部であり伊藤だった。体力的にも精神的にも衰えてくる年齢にあって、少年のような好奇心を抱き続け、挑む姿勢を棄てない。伊藤が天測の術理を修得したのは四十を過ぎてからだという。自分はまだ二十三ではないか。何もかもこれからではないか。そんな幸福感を味わう春海に、「どうです。面白いでしょ」 伊藤が、いつもの丁寧で柔和な笑顔を見せて言った。城中でありとあらゆる者の横柄な態度に慣れた春海には、それだけで改めて新鮮さを感じさせられる笑顔である。「はい。とても面白うございます」 元気良く答えたところを、「頼みましたよ」 ぼん、ときわめて自然な所作で肩を叩かれた。なんだか無性に嬉しくなった。「頼まれました」 つい反射的に笑顔で応じていた。やがてそれが本当に、春海にとって空前絶後の事業になるなどという予感は、このときはかけらも抱かなかった。ただ自分はこれからなのだ、という思いを繰り返し味わい、喜びの念に陶然となるばかりであった。 五 翌朝、犬吠埼から北上するため出発したとき、ふと春海の胸中を、えんのことがよぎった。 今のままゆけば、江戸に戻れるのは一年以上先になってしまう。あちこちで天候に恵まれなかったり、藩との調整に時間がかかったりしたため、建部が立てた計画からは数ヶ月ほど遅れていたのである。秋が過ぎ、冬になればさらに遅れが出るだろう。 そのことを手紙に書いて、江戸にいるえんに送るべきだろうかと思った。なんとか公務を終えるまで待っていてもらうよう頼むのである。今いる場所からなら手紙の一つや二つはたやすく送れるし、公務のさなかの私信を咎められることもない。 だが一方で、そんな風にわざわざ念を押して詫《わ》びたり頼んだりするのもためらわれた。だいたいが設問の相手は、えんではなく関孝和なのである。その勝負の証人になってくれなどと、思えばおかしなことを頼んだものだ。しかしそこで春海は唐突に、幸福な気分が湧くのを覚えた。念を押さずとも、えんはきっと待っていてくれるという確信から来る気分だった。えんが自分から、あの誤問を預かると言ってくれたことが、今、無性に嬉しかった。そのときのえんの微笑みが心の支えになってくれている。そんな不思議な心持ちだった。 結局、磯村塾にも荒木邸にも手紙を出すことなく、春海は奥州《おうしゅう》道中を進んでいった。 数日後、逆に手紙が届いた。差出人は、もちろん、えんではない。江戸で療養中の建部からである。それを中間から春海が受け取り、春海が伊藤に手渡し、伊藤が読んだ。「建部様のご容態、いかがでしょうか……」 思わず心配顔になって訊く春海に、伊藤は、なんとも言えない優しい顔で言った。「あの方はねえ……少しでも早く、私たちに追いつくことしか考えていませんよ」 それで春海はすっかり安心してしまった。旅のどこかで、意気盛んに復帰する建部の姿がはっきり思い浮かんだ。そのせいで、まさか建部の病状が日増しに悪化し続けているなどとはまったく考えもしなかった。一行は会津に入った。藩士たちの助けがこれまでで最も充実した天測となり、伊藤は、会津の城代家老である田中〝三郎兵衛正玄《まさはる》に感謝の手紙を送っている。 ちなみに田中正玄は、二代将軍秀忠の老中土井利勝から〝天下の名家老の一人と評されたほどで、領地をほぼ留守にせざるをえなかった保科正之に代わり、会津の屋台骨として尽力した人物である。春海も、この田中正玄と碁のお勤めを通して知己であったが、その思考柔軟かつ無私の人柄には、けっこうな影響を受けている。 支援のほどは藩によってまちまちで、ときに事業に支障をきたすこともあった。 天測を〝隠密行為ととらえ、観測隊に嘘の情報を教えたり、先触れに走る者を拘束してしまったりする藩もあったのである。 特に、加賀藩は強硬だった。はなから観測隊を〝幕府隠密と決めてかかり、城に通じる全道中の観測に反対してきた。そのため当地で伊藤は辛抱強く交渉せねばならなかった。 結果、〝天測不能とならずに済んだのは、ひとえに藩主自身が、「天測というものに興味がある」 と言って家臣を宥め、観測隊を城へ招いたことによった。 春海は、伊藤とともに城中で饗応《きょうおう》され、天測の実態を事細かに説明している。 興味深そうに聞くのは、弱冠十九歳たる加賀藩主前田|綱紀《つなのり》である。その若さで藩の改革に乗り出したばかりだが、既に徹底した新田開発、貧民救済、学問普及によって一定の成果を挙げていた。これがのちには〝加賀に貧者なしと評され、百万石の泰平というとてつもない豊穣《ほうじょう》を実現させる端緒となろうとは、春海に限らず、誰にも思い及ばぬことであったろう。 ただこのとき、春海は綱紀を前にして鮮烈な感動を覚えていた。ちょうど建部や伊藤から受けた感銘とは逆で、あどけなさの残る若者が、敢然と藩の命運を背負おうとしているその姿に、身が熱くなるような勇気をもらう思いがした。 綱紀も、歳の近い春海に親近感を抱いたのか、「肥後守様から、そなたの名を聞いたことがある」 直々にそんなことを言われ、春海はびっくりした。 肥後守様とはむろん、春海ら安井家の碁打ちを厚遇してくれている会津藩主たる保科正之のことだ。綱紀にとっては岳父である相手である。というのも綱紀は近々、将軍家綱の意向もあり、保科正之の娘を娶《めと》っていた。「私の名など……。兄である安井算知のことではございませぬか……?」 恐縮するというより、ほとんど萎縮《いしゅく》しきって聞き返したが、「安井算哲という囲碁の達者がおって、かつ算術にも暦術にも長けているとか」 算術に暦術ときては春海に間違いない。将軍家綱の後見人に等しい保科正之の口から己の名が出るなど、嬉しいというより、ひやりと身が竦む思いがする。「過分のお褒めにございます……碁もいずれの術理も、未熟な身でありますれば」 だが何が綱紀の気に入ったのか、その穏やかな双眸《そうぼう》を、はっきり春海に向けて言った。「これからも公務大任を受ける身であろう。余にできることは支援いたそう」 これによって天測は無事、許しを得た。だがそれ以上に、遥か将来において、このときの綱紀の言葉が、意外なかたちで現実のものとなるとは、果たして綱紀も予見していたのかどうか。 春海はただ伊藤と共に平伏し、感謝の念を繰り返し述べるばかりである。 北端にいた。 奥州津軽の最先端、三廏《みんまや》である。『四十一度十五分四十六秒』 それが旅の終端だった。隊員一同、感無量である。みな、海の向こうの蝦夷地方面に向かって歓声を上げた。蝦夷《えぞ》地は今回の事業にはふくまれていない。後は南下しつつ、東側の沿岸部などで、天測の誤差修正を何ヶ所かで行いながら江戸へ帰還するだけである。 伊藤は手を合わせて天を拝み、海を拝み、地を拝み、事業成就の感謝を献げている。 春海も同じく感謝を込めて、強風によって晴れ渡った夜空を見ていた。響き渡る波の音の一つ一つが今の己を鼓舞するようだった。ついに新たな設問を作り出すことに成功した自分を。 今、その設問を記した紙片が懐中にある。犬吠埼から北上する間に考察を練り、三廏に到った昨日、なんとか作り上げたものだ。 数百日かけて観測してきた星々の並び、〝天を抱くという建部の言葉、日本全土に星を配置するという伊藤の言葉に触発され、春海が初めて試みる最新の術理を駆使しての設問だった。 とはいえ、ただ最新であることを恃《たの》んだだけの設問ではない。星を見続けるこの旅を、一個の設問に表現したくて工夫を重ねるうちに、それしかなくなったのである。 成し遂げた事への誇らしさよりも、まさかまた無術ではないかという不安の方が強く、一日のうちに何度も見直した。そのせいで設問を記した紙はさっそくしわくちゃになっている。ならばすぐそばにいる伊藤にも見せて意見を頂戴すべきなのだが、しばらくそれが出来ずにいた。というのも、建部が復帰することをまだ信じていたからである。三廏での天測を終えたとはいえ、誤差修正という繊細な技術が要求される作業が残っており、建部が合流する意義は十分にあった。そして春海は、この設問を、できれば建部と伊藤の二人に同時に見て欲しかった。それがこの旅に己を同行させてくれた二人への礼儀だと信じた。 だから三廏を発《た》って江戸へ戻り始めたときも、懐中に設問を記した紙を抱いたまま、そのことを伊藤に告げなかった。そしてまた伊藤も、「三廏での天測を終えたと知れば、建部様は、さぞ悔しがるでしょうねえ」 ぽつりと出発間際に口にして以後、建部のことは不自然なくらい話題にしなかった。 そして白河《しらかわ》で宿泊中、手紙が来た。中間からそれを受け取った春海は、差出人の名として建部とだけ書いてあったことから、近々いずこかで合流するむねを記したものだろうと勝手に喜び、いそいそと手紙を伊藤に手渡し、言った。「これで建部様も長の療養を終えられ、再び旅に出られるでしょうか」 伊藤は静かにそれを読み、「確かに、辛《つら》い療養の日々を終えたようです」 と暫時|瞑目《めいもく》した。春海は、ほっと安心した。伊藤も安心したのだろうと信じた。だが伊藤は再び目を開くと、優しい顔で手紙を見つめて言った。「この事業に復帰し、無事、お役目を終えたら、改めて弟子入りしたい人がいると、そう弟君の直恒《なおつね》様に、繰り返しお話ししていたのだそうです」 春海は自分の笑顔が凍りつくのを感じた。遅れて頭がその理由を悟った。なぜ建部がわざわざ弟にそう話したなどと書くのか。これではまるで伝聞の文章ではないか。だがまさしくそうであることを頭はとっくに理解していた。「本人が無理でも、建部家の誰かを弟子入りさせるべきだと……」 その弟子入りしたいという相手は、むろん関孝和のことだろう。そうに違いない。春海の中の冷静な部分がそう考えた。だが残りの部分は衝撃を受けて呆然となって何かを考えるどころではなくなっていた。「最期までね、そう言い続けていたそうですよ、あの人は」「……最期」 咄嗟に受け止められず、その言葉がぽろっと取り落としたようにこぼれた。てんてんとその言葉が転がって沈黙の中に消えるのを感じた。 手紙の差出人は建部直恒、春海が知る建部、つまりこの事業の発起人たる建部昌明の、弟であった。寛文三年の春を迎える前、春海と伊藤が江戸に戻るよりも先に、病んだ肺がついに癒《い》えず、建部は死んだ。 春海はあまりのことに頭が真っ白になりながらも、(見送る人の顔だったんだ) 医師である伊藤が、こんなにも優しい顔をしている理由がやっとわかった。建部が隊から離れて江戸へ戻らざるをえなかったときから伊藤は予期していたに違いなかった。そうと悟ったときには遅かった。何が遅かったのか。思わず胸元に手を当てた。 設問。 馬鹿、と心のどこかで己を詰《なじ》る声が上がった。この馬鹿。なぜ三廏で伊藤にそれを見せなかった。そうすれば伊藤のことだから、それを建部にも見せるべきだと言ってくれたはずではないか。そうすれば江戸にいる建部に手紙を送って、最後に己の成果を見てもらえたはずではないか。この旅に同行させてくれた建部に感謝を告げることが―― 急に込み上げてきた。心の声すら途切れ、危うく嗚咽《おえつ》を漏らしかけて必死に歯を食いしばって耐えた。友たる建部とともに長年この事業実現のため努力し続けてきた伊藤を差し置いて、なぜ己が泣けるか。礼を失するにもほどがある。この馬鹿。そうは思っても目の縁に光るものが溜まって視界がぼやけた。鼻の奥に熱を感じて情けない音を立てて洟《はな》をすすり、それをごまかすため、つい、「よもや、建部様が……」 泣き声そのものの声を発してしまった。けれども伊藤は小さくうなずいてくれた。建部と春海の両方に対しての、優しい仕草だった。「きっとあの人のことですからねえ……悔しい悔しい、と言いながら臨終を……」 と微笑む伊藤の目にも、光るものが浮かんだが、そっとまばたきし、「大往生ですねえ」 穏やかに、どこまでも建部をいたわるように言った。「きっと、夢の中で天を抱いて……星を数えながら、逝ったのでしょうねえ」 春海はみっともなく洟をすすりながら懐中から紙を取り出し、それを畳の上で広げ、「この旅で培った術理による設問です。ご覧の通りいまだ未熟でございます。ですが……ですが、必ず精進してご覧に入れます。精進し、いつか天を……」 また込み上げてくるもので声が途切れた。伊藤は、情けなく歪む春海の顔には目を向けず、ただ、しげしげと、設問だけを見てくれている。「て、天を……我が手で詳らかに、また渾大にし、建部様と伊藤様への感謝の証《あか》しとしたく存じます」 やっと言い切った。伊藤は、そっと愛《いと》おしむように設問を撫で、「これ、よく出来ておりますねえ」 春海が涙をこらえる間を十分に置いてから、おもむろに顔を上げ、にっこり笑って、「頼みましたよ」 ぽんと春海の肩を叩いた。「頼まれました」 反対に顔を伏せた春海の両目から、ついにこらえきれず、涙がこぼれ落ちた。 六 寛文三年、夏。 昨年十二月に二十四歳になり、無事、旅から帰還した春海は、二刀をしっかりと帯び、左へ傾《かし》ぎそうになりながらも踏ん張って会津藩藩邸を出た。 行く先は麻布にある磯村塾である。 北極出地の旅から帰還して、既にひと月余りが経っていた。 寛文元年の十二月朔日に出立してより四百八十七日間、距離にして千二百七十里にも及ぶ旅路だった。その間、百五十二回もの天測を行い、多数の藩と交渉し、総勢で数百人の人間が関わった。まさに一大事業の完遂である。 その旅から戻って六日後には、磯村塾を訪れている。その際、三廏で考案した設問を、村瀬の許可を待て、塾の玄関の壁に貼らせてもらっていた。 江戸に帰還するまでの間、繰り返し誤りがないか、伊藤にも協力してもらいながら確かめた設問だった。術には大いに自信がある、と言いたいところだが、誤問の恥がここに来て急激に春海を責め苛むようになっていた。毎夜のごとく、眠りに落ちると、今度こそ己の設問の横に、『無術也』 と冷罵《れいば》するように記されたさまを夢に見て、はっと目が覚めるという有り様だった。 先の誤問の雪辱となるどころではない。恥の上塗り、度重なる失態に、およそありとあらゆる気概も自負心も打ち砕かれるのではないかという怖れゆえに、そもそも江戸に帰還してのち、設問を出しに行くところで意気が挫《くじ》けそうになっていた。 事業の御報告は伊藤の務めであり、春海は、まず会津藩邸に帰還を告げ、また碁打ち衆の主立った面々に留守を詫び、挨拶に回るだけでよかった。 建部の墓前には、帰還して三日後、伊藤と待ち合わせて参じた。歳の離れた弟の建部直恒に案内され、代々の墓地の一角に埋葬された建部に向かって拝みながら、我が手で渾天儀を作ってみせるという誓いを改めて胸に刻み込んだ。 なお建部に子はなく、断絶であった。兄が二人、弟が一人おり、いずれも子に恵まれているのに、建部昌明の系譜だけぽつんと淋しい。そのせいか、弟の建部直恒は、「兄が師事したいと願っておられた方には、ぜひ我が子らを弟子入りさせたい」 それが一番の供養になると信じているような様子で口にしたものだった。春海はその考えに大いに賛同しつつ、墓地を出て複雑な気持ちに襲われた。自分がこれから挑まねばならない相手も、建部直恒が我が子らを弟子入りさせたいと思っている人物、すなわち関孝和なのである。 そして北極出地の旅を経て勇気百倍と思いきや、我ながらぐったりするほどの怯懦《きょうだ》に支配されていた。この時期、江戸で春海に仕事はなく、さっさと旅支度をして実家のある京に行き、また初秋には江戸に戻るだけという、気楽な身分である。 その気楽さのせいで、かえって意気地が無くなったのか、このまま設問を己の手に握ったままにして京に行ってしまおうか、きっと塾の誰も春海の設問のことなど覚えてもいないに違いない、という都合の良い思いが湧いた。そしてそのつど、えんの怒った顔と微笑んだ顔とが交互に現れ、臆病《おくびょう》な自分を叱ったり励ましたりする。そんな五日間だった。 だが煩悶の日々も、六日目で吹っ切れた。ひとえに安藤のお陰である。 このとき安藤はたまたま会津に戻って不在だったが、春海が帰還したときのため、二冊の書を同僚に預けていた。春海はそれを帰還後すぐに受け取り、驚きとともに読んでいる。一冊は、なんと前年に安藤自身が出していた、『竪亥録仮名抄』 という書だった。安藤は、『竪亥録』を記した今村知商に師事していた時期があり、その師の術理を精しく読み解き、己のものとした上ですっかり説明してみせたわけである。竪亥と言えば〝難解の代名詞であり、この書を出したことで安藤は今や名だたる算術家たちと肩を並べたことになるだろう。まさに鍛錬に怠りない安藤の真髄たる書だった。 またもう一冊は、その年に出された、村松|茂清《しげきよ》という算術家による書、『算俎《さんそ》』 であった。その内容の特筆たる点は、何より円の術理を解明してみせたことにあるだろう。従来この国で用いられてきた円周率〝三一六を改め、〝三一四がより正解に近いことを証明するとともに、きわめて詳細な数値を弾き出しているのである。(自分が進んだ分だけ、世の算術家たちもまた進んでいる。いや、自分が進む以上に進んでいるのだ) どこからか響く時の鐘の音とともに、己の脳天を鐘の代わりに撞《つ》かれたような衝撃を受けた。そのせいでなおさらに怯懦の念を刺激されて尻込《しりごみ》みし、実家のある京へ逃げ去りたい一心になりかけたものだ。だが陽きわまれば陰に転じ、陰きわまればなんとやらで、二冊の書を大まかに読むうち、とうとう完全に開き直った。 行こう。己は試されねばならない。試されてこその研鑽だった。試されぬまま成果を挙げたなどとは断じて口にできなかったし、己を納得させられなかった。何より、旅路において春海が新たに設問を成し遂げたと、安藤は信じてくれている。だからこの二書を同僚に託し、切磋琢磨《せっさたくま》の思いを無言のうちに春海に届けたのである。 そんなわけで帰還ののち六日目の朝、春海はなんとか勇気を振り絞って塾へ向かった。一年と四ヶ月ぶりの、えんに約束した期日を遅れること百日以上の捲土重来《けんどちょうらい》である。 出迎えてくれたのは村瀬で、ちょうど昼どきの食事を用意しているところだった。門人たちはそれぞれの商いのため誰も来ていない。そういう時間をあえて見計らっての参上だった。心のどこかで、えんが同席した食事の光景を思い出し、また期待していたのかもしれない。証拠に、塾に来る途中、思いついて干魚を買っていた。籠を持った女たちから、今度は目刺しだと言われた。確かに干魚の目のところを串で貫き、束ねてはいたが、目刺しのわりには平べったいような気がした。これでは、また、えんに本当に目刺しなのかと問われそうだ。そう思った。だが塾に行ってみると、えんはいなかった。「嫁に行ったんだよ、あいつ」 村瀬は、茶を淹《い》れてくれながら、やけに優しくて、妙に申し訳なさそうに告げた。「え?」「年の暮れ頃、急に縁談が降って湧いて、そいつがどうも上手《うま》くいってね。相手は、まあ、見るからに出来た男で、文句のつけようもない。で、先方が是非にというわけで正月明けの早々に、祝言だ。まあ、荒木さんも俺も、ひと安心てところさ……」 村瀬はしみじみと、そしてやや早口にそう教えてくれた。いつも気分良く話し、気分良く笑う村瀬にしては、どこか気まずそうでもあった。 嫁か。だからいないのか。そう春海は思った。うん、それはめでたい。「どうも、おめでとうございます……」 そう口にした途端、すっと寒々しい思いが胸に入り込んできた。反射的に息を呑んだ。止めようとしても止められない寒々しさだった。なんなのだろう、これは、と呆気にとられるほど喪失感に襲われ、身を支える力が今にも失《う》せ、手にした茶碗《ちゃわん》を落っことした上に、目の前の長机に突っ伏してしまいたくなった。 なんなのだろう。前回、己の誤問を悟ったときとも違う。かつて天守閣が消滅した光景を見たときとも違う。ただ身に力が入らない。一瞬、何のためにこんな場所にいるのか、まったくわからなくなっていた。関孝和に挑むためだ。それ以外にないじゃないか。そう己に胸の内で言い聞かせてみたが駄目だった。「まことに……めでたいことで」 途方に暮れた迷子のように力無く口にする春海に、村瀬がしんみりと言った。「で、あいつ……渋川さんの問題を持っていっちまった。この塾のことを思い出すための品だとか言ってな」「私の……?」 単純に驚いた。あんな誤問にいったい何の用があるのだろう。だがなぜか、良かったと安堵している自分がいた。救われたと言っていい思いすら湧いていた。「すまないね、渋川さん」 村瀬が妙にいたわるように言った。春海はかぶりを振って、「いいんです。約束の一年に、間に合わなかった私が悪いのですから……」 言いつつ茶碗に目を落とし、茶の水面に映る己の顔に出くわした。なんだろうこの沈痛な顔は。驚くと言うより、ますます途方に暮れてしまった。江戸に帰還してみたら、帰る家が消えてなくなっていた、とでも言うような気分だった。「干魚に、出涸《でが》らしの茶っていうのも、な」 急に話題を変えるように村瀬が言って立ち上がり、台所に行ったかと思うと、徳利を持って戻ってきた。「飲もうか」「は……」 こんな真っ昼間から酒を飲む習慣は春海にはない。びっくりしつつも、なぜか一息に茶を飲み干した。村瀬に酒を注いでもらい、村瀬も己の茶碗に注ぐのを待ってから、「いただきます」 半分ほどを一口に呑んだ。そんなことをする自分に呆れる思いだった。そもそも春海は自分をどちらかというと下戸だと信じていたのだが、このときは馬鹿な飲み方を自分にさせてやりたかった。村瀬の優しい笑顔が、そうしろと言ってくれていた。一人の女を想ってついには結ばれるなど滅多に起こることではない、婚姻はあくまで家と家の取り決め、数多《あまた》の家名の連続の中に男も女もいるのだ。さっそく酔いが回る頭のどこかでそんな声がしたが、胃の腑の火照《ほて》りの方に意識を取られて、心はろくろくその声に耳を貸さなかった。 ただ、村瀬がちびちび茶碗に口をつけつつ、「良い問題だなあ」 しみじみと言ってくれたことで、急に涙がにじんだ。顔を伏せてまばたきし、なんだかわからない涙を追い払った。そうして長机に置かれた紙と、それに記された、己の手による新たな設問を見た。『今有如図大小星円十五宿。只云角亢二星周寸相併壱十寸。又云心尾箕星周寸相併廿七寸五分。重云虚危室壁奎五星周相併四十寸。問角星周寸』[#挿絵(img/236.jpg)]『今、図の如く、大小の十五宿の星の名を持つ円が並んでいる。角《す》星と亢《あみ》星の周の長さを足すと十寸である。また心《なかご》星と尾《あしたれ》星と箕《み》星の周の長さを足すと二十七寸五分である。さらに虚《とみて》星、危《うみやめ》星、室《はつい》星、壁《なまめ》星、奎《とかき》星の五つの星の周の長さを足すと四十寸である。角星の周の長さは何寸であるか問う』 二十八宿のうち十五宿の名を用いた問題だった。術理に誤謬がないよう十二宿まで減らすか、あるいは思い切って二十八宿まで増やすか、けっこう悩んだが、あの津軽最北端で計測された北極出地の、分の値が十五であることにちなんで、十五と定めていた。「……招差術か」 にやりと村瀬が笑った。春海は酔いでぼんやりしながら、こくんとうなずいている。 それこそ最新の算術の一つで、この設問の要となっている術理の名だった。多数の要素にわたる共通解をいかにして導くか。天元術とともに様々な天文暦法が日本に伝わる昨今、盛んに研究がなされているが、まだ完全な体系立てに成功した書はなかった。少なくとも春海は知らない。村瀬も知らないのだろう。その目がさっそく、関よりも前に春海の問題を解いてやろうという気概に満ちている。それでいながら村瀬はなんとも優しい調子で、「関さんと、渋川さんの名は、後で俺が記しておこう。あんた下戸かい? そんなに揺れてちゃ、字を書くのは無理だろう」「私、揺れてますか?」「右へ左へぐらぐらだ」 そう言えばそんな気もする。てっきり村瀬の方が右へ左へ傾いでいるのかと思った。「これは良い問題だよ、渋川さん」 心底から惚《ほ》れ惚《ぼ》れしたように村瀬は褒めてくれた。その声音に、春海の酔った胸にも深く沁《し》みるような誠意がこもっている。「は……」「良い問題だ。なあ、渋川さん」「ありがとうございます……」「関さんも、こいつを解くのは楽しみだろう。よく作ったなあ」 頭を下げた途端、今度は前後に揺れた。ほろ苦いような、心地好いような酩酊《めいてい》の中で、全てに感謝していた。北極出地の旅に、建部に、伊藤に、安藤に、村瀬に、関孝和に、えんに。算術というもの、己のふれた算術にかかわる人々全てに感謝した。そして残りの酒を頂戴すると、仰向けにぶっ倒れ、そのまま一刻近くも、夢の中にいた。星の海の中をぷかぷか漂い、ひどく安らかな心持ちだった。 まったくとんでもなかった。 慌てて夢の中から飛び出して正気に返ったときには塾の一隅で布団をかけられ丸くなっていた。村瀬はただ笑ったが、平身低頭、無礼と醜態を詫び、退散した。 その際、玄関の壁に、既にしっかり自分の設問が貼られているのを見ている。しかも、『関孝和殿』という宛名と、『渋川春海』という差出人の名が、『門人総員デ解ク可シ』云々《うんぬん》という煽《あお》り文句とともに、村瀬の手で書き加えられていた。もうこれで逃げられない。昂揚するというより、ぞっとなりながら会津藩藩邸に戻った。 翌朝から、もう恐ろしくて恐ろしくて生きた心地がしなかった。無術なのでは、そもそも最新鋭と信じた術理など存在しないのではないか、十五宿もの星円の周を導き出すなどあり得ないことなのではないか、などと悪夢の種には事欠かなかった。 それでも解答を確かめるため、勇を鼓して塾へ向かう気になれたのも、またもや安藤のお陰だった。しばらくして安藤が公務によって会津から江戸に来て、「設問はいかがですか?」 挨拶が済むと、ただちに訊かれたものである。まずは、安藤の著した書の感想をひとしきり話すなどして心を落ち着けたかったのだが、「さ、さ、お見せ下さい」 大いに楽しみにしていた、とでも言うように急かされ、設問の写しを見せた。安藤はじっと問題を見つめ、やおらうなずくと、物も言わず書き写し、「では私も挑ませていただきます」 当然のように宣言された。このとき、ちらっと春海の胸に安堵の念が湧いた。安藤がたちまちのうちに解いてしまうのではないかと思ったのである。そうなれば今度は安藤と己の彼我の力量の差に悔しい思いをするだろうが、しかし少なくとも設問自体が間違っているという悪夢は消えてくれる。 翌朝、さっそく、「解けましたか……‥?」 と訊いたが、安藤は、やたらに莞爾《かんじ》とした笑顔を見せ、「解けません」 まるで断定するような言い方に、春海は震え上がった。「ま、まさか……またもや……」 だが安藤は笑顔のまま首を傾げ、「さて、どうでしょう。一瞥即解の士ならば、既に解かれているかもしれませんよ」 いつもの会津|訛《なま》りを江戸弁に無理に押し込めたような口調で春海に塾へ行くよう促し、「男子一生の勝負です。勇を奮って参りなさい。さ、さ」 さらに翌朝、玄関まで見送られ、名物の干し柿まで持たされて、春海は邸を出ている。その際に刀を締め直し、安藤の前であえて踏ん張って見せたのは覚えているが、そこから先の記憶がぷっつり消えていた。途中、どこをどう通って来たのか思い出せない。気づけば荒木邸の門前にいた。そんな恐ろしい場所に突っ立っている己をふいに発見し、跳び上がるほど驚いた。しかもちょうど門下生が集まる時間である。みな棒立ちの春海に気さくに挨拶して中へ入ってゆく。なんて馬鹿なことをしたのか。人が集まる前か、それよりも後に来れば良いものを。せめて遠くから眺め、折りの良いところを見計らって、こっそり近づくべきではないか。こんな人目につく状況下で、己の設問の結果を確認するなど…… 思わず尻込みして引き返そうとしたとき、村瀬がひょいと玄関口に姿を現し、しかも完全に目が合ってしまった。村瀬が笑みを浮かべ、おいでおいでと手招きをした。こうなると村瀬に無礼と知りながら、一目散に逃げられる春海ではない。ぎくしゃくとした足取りで前に進んだ。震える手で干し柿の包みを差し出し、「あんた偉いよ、渋川さん。いつも手土産を持ってくるんだから」 村瀬が感心して包みを受け取り、玄関の方へ顎《あご》をしゃくる様子に、戦慄《せんりつ》した。それだけで、そこにある己の設問に変化があったことが察せられたからだ。春海は、咄嗟に顔を背けながらも、見開いた目は正しく玄関の方を向こうとするという奇怪な行為を己の顔がしてのけるのを感じた。気づけば顔の方が目に従っていた。そればかりか足まで追随した。おそるおそる玄関へ歩み入りながら、やっと目が見ているものが意識にのぼった。 玄関の右側の壁。やや右上の中央辺りに己の設問が貼り出されている。 そしてその空白に、ぽつんと、しかし黒々と、何かが記されていた。 春海はそこに『無術』の二文字をはっきりと見た。何度も悪夢で見たとおりの筆蹟だった。だがそれもほんの一瞬のことで、そうに違いないという恐怖とともに、幻影は去った。後にはただ、さらりと書き記された答えだけがあった。 七分の三十寸。 すなわち四寸二分八厘五毛七糸一忽四微……と続き、よって〝有奇と記して割り切れぬことを示さざるを得ない数値。それを、しっかりと割り切れるように工夫した答え。『四寸五分 関』 今度こそ本当に棒立ちとなった。微動だにせず息を詰めてじっとその解答を見つめる春海の肩を、誰かが叩いた。そちらを振り返る間もなく、村瀬が、春海の目の前に何かを差し出した。筆だった。それで何をしろと言うのか。咄嗟に訳がわからなかった。「答えはどうだい、渋川さん」 村瀬に訊かれて、やっと筆を手に取った。背後で門下の者たちが集まって注目しているのが感じられた。それらの視線の中に、春海は、建部や、伊藤や、安藤や、この場にいない者たちの眼差しを感じる気がした。えんが心のどこかで微笑んでくれていた。『明察』 記した途端、どよめきが起こった。さすがと褒める者、してやられたと悔しがり舌打ちする者、ただ感心する者、色々だった。「良かったなあ、渋川さん」 すぐそばで村瀬の優しい声がして、震える春海の手から、そっと筆を取った。 かっと熱いものが込み上げ、春海はほとんど無意識に、その両手を眼前に持ってきた。 ぱーん。拍手《かしわで》を一つ、高らかに打った。門人たちがぴたりと黙った。 何かを越えた。何かが終端に辿り着いた。そして新たに始まった。そんな気がした。「ありがとうございました」 手を合わせたまま瞑目し、設問と答えに向かって深々と頭を下げた。その虚心清々たる春海の礼拝を、村瀬も門人たちも、ただ黙って見守ってくれていた。[#改ページ] 第四章 授時麿 一 幾つか事件が起こった。 全て、寛文五年から六年にかけてのことである。そしていずれもが、春海の心に残り、またその一生に影響を及ぼすものとなった。まず、春海が北極出地から帰還してから二年後の、寛文五年十月。一冊の書が発行され、物議を醸した。『聖教要録』 という書で、著した者の名を、山鹿素行《やまがそこう》といった。会津若松の生まれの、れっきとした武士である。けっこう小柄な体躯《たいく》をしており、容貌《ようぼう》きわめて穏やかな、四十四歳。 幼少のとき父と江戸に来て、朱子学、儒学、神道、兵法を学んで達者となり、また歌学もたしなむ文武両道の人である。名高い兵法家、あるいは儒者として知られ、特に兵法においては〝山鹿流の一派を成すに至っている。そのため赤穂《あこう》藩に千石の石高で召し抱えられ、いっとき先代将軍家光に仕えるという話があったが、家光の薨去《こうきょ》によって実現しなかったのだという。それほどまでに確かな教養見識の持ち主だった。 この人物、本人はいたって穏やかだが、その論説はさながら燧石《ひうちいし》のごときであった。 論説自体は理性的で理路整然、特に過激な思想をばらまくような感じのものではない。 だが、山鹿という人物にふれ、教えを受け、あるいはその思想に共鳴した人々の脳裏や胸中に、なぜか不思議と火を熾《おこ》す。山鹿自身は、再三述べるが、石のごとき不動の落ち着きを持った人である。しかしその目に見えない石のかけらを受け取った人々は、良い意味でも悪い意味でも、石火を浴びせられた油芯《ゆしん》のごとく燃焼する。たとえば、かなりのち、赤穂藩の数十名にのぼる藩士たちが、烈しい騒擾《そうじょう》事件を勃発《ぼっぱつ》させ、〝赤穂浪士として江戸の民衆に知られることになるが、その彼らの思想行動に、特に強い影響を与えた人物を挙げるとしたら、山鹿素行を筆頭から外すことは難しい。本人にその気はなくとも、自然と着火点となり、あるいは導火線のような役割を果たしてしまう。そんな人物である山鹿が、「幕府の怒りを買うのでは」 と親しい者たち、弟子たちが止めようとするのを、あえて静かにかぶりを振って退け、「聖学を私するべからず」 との信念をもって発行したのが、先の『聖教要録』である。 この〝聖学とは、孔子の教えである。中でも特に日常の生活を規定するような教えを指していた。その意図は至極単純と言っていい。〝復古すなわち古《いにしえ》の儒の教えに復すべし、というのである。この復古には、観念的な世界にとらわれることを捨て、〝日用の学にのみ専心せよ、という意味合いがあった。 そしてこれは必然とも言える思想的展開だった。 江戸幕府という新たな世が生まれたとき、人々は過去から将来にわたり、この世がどうなってゆくのかを、抽象的に、大々的に包括する世界観を欲した。それに適合したのが朱子学である。江戸幕府による泰平の世と朱子学とは、切っても切れない関係にある。 仏教の論理、道教の原理、儒教の世界観という三つの支柱をもって大成された〝新儒教たる朱子学は、中国においてもまず何より〝世界と人間の在り方を解明する哲学思想として大成した。世界とは何か、人とは何か、世界と人はいかなる関係にあるか。 そして社会が安定するとともにそうした原理的な思索から、やがて〝礼学といった具体的な社会構築の思想が求められた。雄大な世界生成の原理から、より卑俗な、政治学というべきものへと変貌してゆくのである。さらにそこから徐々に抽象的な議論が廃されてゆくことで、より個人的で、かつ民衆的な、道徳実践を重んじる思想が芽生えてゆく。 さらにその道徳実践は、土地土地の風土に根ざしたものへと変形される。個人的であると同時に、狭い範囲での共同体意識、民族主義の自覚とでもいうようなものへと傾斜する。 こうした思想の〝動脈循環において、山鹿素行が『聖教要録』で担ったのは、抽象的な理論を廃する、という段落であろう。個人的かつ民衆的な、〝これからの武士はいかにして生きるべきかといった道徳実践の論理を、整然と説いたのである。 朱子学の抽象性を廃すべし。 江戸幕府にとって、その存在理由、誕生の必然性を、思想面で証明しうる世界観。 徳川家による治世の根本原理を支える〝世界と人間の関係―― それらを斬って捨てたのである。 寛文六年三月二十六日。 また一つ事件が起こった。といっても物議を醸すようなものではない。 酒井〝雅楽頭忠清が、老中奉書を免じられるとともに、大老に就任したのである。 いまだ壮健たる四十二歳。きわめて順当な出世であり、かねてから用意されていた席に淡々と着いたという感じである。かつての四老中のうち、松平〝伊豆|守《かみ》信綱は四年前に死去、阿部忠秋はこの年に隠退、松平|乗寿《のりなが》の死去により老中となっていた稲葉〝美濃守《みののかみ》正則は酒井より一つ上の四十三歳だが、家格実績、ともに酒井に及ぶべくもない。 酒井は、いわば松平信綱と阿部忠秋によって鍛えられた、純粋培養の将軍補佐役である。大老になるとともに日に日に裁可が酒井一人の判断に委《ゆだ》ねられるようになったが、それは将軍家綱が暗愚なのでも、酒井が独裁へ傾いたせいでもなく、それまでの優れた合議制が作りだした治世の流れがきわめて明快であったためである。政務難航はいついかなるときも生じうるが、それが紛糾の事態になるような局面となる前に粛々と処理されていった。 酒井らしい、定石に次ぐ定石の手である。周囲も酒井が次に何を考えるかわかっているから徒に混乱するということがない。 春海は、単純に感心した。よくまあ一個の器械のように働くものだ、という感心である。 それが酒井の特質であり、また今の江戸幕府が酒井に要求する在り方だった。自分ではとても我慢できないだろう。きっとすぐ〝飽きに苦しみ悶《もだ》え、頭がおかしくなってしまう。 そう他人事として思った。だがだんだんと他人事ではいられなくなってきた。今や将軍に次ぐ権力の座に、酒井がいる。そしてその酒井に、相変わらず、ちょくちょく碁の御相手として春海が指名された。俄然《がぜん》、碁とは関係ないところで一目置かれることになった。 あるいは酒井と犬猿の仲で知られる、というよりほとんど一方的に酒井を嫌っている、寺社奉行の井上正利などは、面と向かって酒井を批判できなくなったため、「これ、囲碁侍。大老様が御所望じゃ」 わざわざ大声で揶揄《やゆ》したりするようになった。〝囲碁侍とは、むろん碁打ちの身分でありながら二刀を与えられた春海のことである。 春海に二刀を与えた酒井を間接的に皮肉るための、無骨な井上らしい、がっくりくるほど芸のない渾名《あだな》だった。とはいえ人の口にのぼりやすいことは確かなようで、茶坊主衆なども〝そろばんさんの代わりに、〝囲碁侍様などと、褒めているのか貶《けな》しているのかわからぬ様子で呼んでいた。そのことが、以前と違って春海の耳に入るようになった。というより、わざわざ春海に教えたがる者が増えた。それで春海の反応を窺《うかが》うのである。追従のときもあれば、揶揄のときもある。春海としては、どっちにしろ、どう反応すべきか分からず、はあ、そうですか、と返すしかない。その様子が、どうも酒井の、あの淡々として感情の欠落した態度と類似していると思われるらしい。酒井が春海を気に入っているのは、つまり〝類は友を呼ぶからだと噂された。そしてそんな酒井の〝類であり〝友らしい希有《けう》な存在たる春海に、「で……かねての、あの山鹿先生の件、いかがなものでございましょうか」 などと訊《き》いてくる者が、急増した。それこそ答えられるはずがない。まさか酒井がそんなことを春海に漏らすわけもない。「まあ、どうでしょう」 と気が抜けたように返すばかりである。 春海も確かに、寺社の碁会で何度か山鹿と会っている。それどころか考えてみれば数回は指導碁らしき碁を打った記憶もあった。静かな人だな、というのがそのときの感想である。きわめて真面目に打ち筋を学ぼうとしていたが、どこか機械的な態度だったように思う。〝この青年は武士ではない。一介の碁打ちに過ぎない という目で見られていたのだろう。ただしそれが不快だった記憶はない。理想の武士像を唱える山鹿にとって、相手が武家であるか否かが、一種の尺度なのかもしれなかった。 そんなわけで、当然、親しいはずもない。それなのに、酒井に目をかけられているからには、あらゆる人脈に精通しているはずだとでも言いたいのか、「山鹿先生はどうお考えでしょう」 などと春海に訊いてくる者もいた。しかも碁打ち衆からも同様のことを質問される。はっきり言って困惑顔をさらす以外にない。それでも訊いてくる。それほどみなが答えを求めていた。 山鹿素行という人物の影響力は、物議を醸すという以上のものがあった。山鹿は兵学を北条《ほうじょう》〝安房守《あわのかみ》氏長に学んだらしいが、今では北条の方が山鹿の言行に倣っていた。 北条は、大目付である。江戸の秩序を担う者が率先して山鹿を持ち上げるのだから、必然的に、山鹿の言行すなわち善である、ということになる。 その他、山鹿の思想や、新しい世の〝武士像に共鳴する者は多い。ただ、それは正しく山鹿の思想を理解し、吟味してのことではなく、きわめて気分的なものが強かった。泰平の世で、ろくな役職もなければ生き方の方向性すら失った大勢の武士たちが、山鹿ならば自分たちにふさわしい生き方を提示してくれるのではないかという、勝手な期待を込めての共鳴である。 そしてそれは理屈を超えた行動を促すことができるということだ。本人にその気はなくとも、煽動《せんどう》者としての才能が山鹿にはあったのかもしれない。そして内心の鬱屈《うっくつ》の解消を求め、自分たちを煽動してくれることを欲する者たちが多数いたのも事実である。 しかも男だけとは限らず、その言行は〝大奥にすら影響を与えた。 山鹿を先代将軍家光の侍儒に推薦した女性を、祖心尼《そしんに》といった。他でもない、かの春日局の姪《めい》にして、家光の侍妾《じしょう》たるお振《ふり》の方の祖母である。言うまでもなく大奥における一大勢力の筆頭たる女性だ。大奥は江戸幕府が抱え続ける〝業病のようなもので、将軍家綱の考え次第では、祖心尼の幕閣への影響力は大老にも比肩しかねない。 そんなわけで、城のあらゆる者が、〝山鹿素行の名に、ぴりぴりと張り詰めた興味を抱かざるを得なかった。具体的に山鹿の何が悪くて、幕府にこのような緊張をもたらしているのか、正確に理解している者は少ない。春海も訳がわからない。だが何となく怖さを感じてはいた。あの北極出地の旅で、伊勢にいたときに抱いたような脈絡のない怖さである。そしてそれこそ、まさにこの状況の正鵠《せいこく》を射ていたことをまだ春海は知らなかった。 ただ、事態は呆気《あっけ》なく収束した。 寛文六年十月三日、『聖教要録』発行の罪が公儀で決定されたことを、大目付たる北条氏長が、出頭した山鹿に告げた。 九日未明、山鹿は江戸を追放され、赤穂に配流の身となった。 誰のどのような意志がそうさせたのか、いったい何がどうなって幕府に緊張が走ったのか。憶測以上のことは春海にも誰にもわからない。全ては幕閣の判断である。だがなんであれ決着がついた。ぴりぴりと張り詰めた雰囲気は消え、城中、誰もが、ほっと胸をなで下ろした。 春海も、ようやくしつこい質問責めから逃れることができて脱力した。 だがそれから間もなく、春海に別の事件が起こった。事件は義兄である安井算知によってもたらされ、春海にとって一生の出来事となった。つまり妻帯したのである。 二「嫁……ですか?」 春海は、ぽかんとなって義兄の算知を見つめた。 知命の歳を目前にして、ますます意気盛んな四十九歳。鶴を連想させる長身|痩躯《そうく》、なで肩で武威とは無縁だが、凛《りん》とした気品を僧形に漂わせている。 傍らに長子の知哲を伴っており、こちらはふくふくとした少年のような二十二歳の若者だった。血色の良い頬に、丸っこい体形で、呑気《のんき》そうな、やけに愛嬌《あいきょう》のある相貌をしており、どこか亀を思わせる。 鶴と亀がこちらを向いて並んで座っている。見ているだけでめでたい気分になるが、今回は春海の方こそ、おめでただった。「うむ」「おめでとうございます」 算知がうなずき、知哲が深々と頭を下げる。久々に、安井一家が揃っての出仕だった。会津藩邸で親族としての挨拶《あいさつ》が済むなり、算知の口から出たのがその一件で、春海はびっくりするというよりもまったく現実感が湧かず、「しかし私は……身なりすら、この通りでありますが……」 まずそのことが口をついて出た。二十七歳となった春海は、前髪があることをつくづく恥ずかしいと思うようになっている。これはもう少年の髪型である。形は違うが、同様に前髪のある知哲を目の前にすると、その思いがさらに刺激された。「酒井様は何とも仰せではなかろう」 算知にそう言われ、春海は複雑な気分になった。 まるで酒井に春海の姿恰好の決定権があるかのようである。だが実際、碁打ちには何の役にも立たぬ二刀を授けたからには、そこには春海を〝幕臣とみなす何らかの意図がある。また二刀は、武家風俗の核心を成すものであり、それを授けられていながら春海の姿恰好に何のお咎《とが》めもないという事実は、逆に〝そのままでいろという命令に等しい拘束力を発揮する。 だが果たして酒井がそこまで考えているか怪しいものだと春海は思う。春海のことを〝こいつはこういう奴だと勝手に判断して、放ったらかしにしている怖れもある。 曖昧《あいまい》で自由な立場に身を置き続けた結果で、誰が悪いと言えば、春海が悪い。いつの間にかそこから出られなくなっていたとしても文句も言えない。「さておき、算哲」 算知が口調を改めた。 春海は、自分の嫁取りの話題を、〝さておきで脇にやられて仰天した。まさか今ので話がついたことになったのか。そう訊こうとしたが遮られた。「わしは碁所に就く」 その算知の一言、また既に聞き及んでいるらしい知哲の真剣な顔つきに、思わず春海も真顔になった。碁所、あるいは碁方とは言うまでもなく碁打ち衆の頂点である。その座を巡り、かって算知が本因坊算悦と行った、鬼気迫る〝六番勝負の争碁のことが思い出された。「では兄上は、再び将軍様御前で勝負を……」 算知が碁方に就けば、本因坊道悦がそれを不服として勝負を申し出ることになる。またそうせざるを得ない。〝六番勝負は引き分けに終わっており、こうしている今も、安井家と本因坊家とは碁方を巡り争う間柄である、と少なくとも碁打ち衆全員が思っている。だが算知が続けて告げたことは春海の予想を遥かに上回るものだった。「道悦殿にはそれとなくお伝えしておる。だがわしだけではないぞ。お主たち全員がだ」「全員……?」 咄嗟《とっさ》についていけない春海に、知哲が言い添えた。「勝負碁の御上覧です、兄上様」 少年の無邪気とも言える気魄《きはく》のこもった声音だった。春海は目をまん丸に見開いた。この義兄は争碁を挺子《てこ》にして、碁打ち衆同士の勝負碁を御城に持ち込むつもりなのだ。過去の棋譜の再現である上覧碁に代わり、真剣勝負をもって出仕する。それがわかった。さすがの春海も緊迫を味わい、首筋のうぶ毛が逆立つのを覚えた。「このままでは碁が死ぬ。碁は公家《くげ》のお家芸とは違う。安穏たる上覧碁ばかりでは、碁の新たな手筋は生まれず、いずれ将軍様にも飽きられ、廃れて衰亡するは我ら囲碁四家ぞ」 というのが算知の主張であり決意だった。己自身を勝負の坩堝《るつぼ》に投げ込むことで、本因坊道悦の主張する〝安泰に鋭く異議を唱える。そのために碁方就任という〝不利を背負う。 なぜなら碁方に就けば、それに挑む者に先番を打つ権利が与えられる〝常先の勝負となる。〝先手必勝は碁の定石の最たるもので、力量互角であればまず後から打つ者が敗北する。 だからこそ今まで誰も碁方に就こうとしなかった。だがそれも算知に言わせれば碁を衰亡させる原因の一つで、誰かが〝勝負の空白を埋めねばならない。「ゆえに算哲、嫁をもらいなさい」 やっとその話題に戻った。算知を筆頭に、安井家は先のわからぬ勝負に躍り出す。その分、二代目安井算哲として安泰に努めよと言う。いちいちもっともで反論の材料は皆無だった。むしろ春海は自分でも意外なほど、勝負碁への興奮が込み上げるのを覚えた。〝飽きに苦しむ身からすれば算知の決意こそ救済なのだから当然であろう。だが、一点、(その女性は、私が算術や星に打ち込むことをどう思うだろうか) 疑問ともつかない疑問が湧いたが、口にはしなかった。 その晩、春海は藩邸の庭で星を見た。 庭には日時計の他に、小型の子午線儀と小象限儀を置かせてもらっている。小象限儀は北極出地で中間たちが誤差修正に用いたものを譲ってもらったもので、何よりの思い出の品だった。一通りの天測を一人で終えてのち、(えんさんは、あの誤問を記した紙をどうしただろうか) 急に切ないような思いに襲われた。北極出地に旅立つ直前、えんの微笑みを見てから、もう五年が経とうとしているのだ。そう思った瞬間やっと〝嫁取りに実感が湧いた。「まだ君は、あの問題を持ってくれているのかい」 星界の天元たる北極星を見上げながら小さく口にした。むろん返事はない。持っていて欲しいのかどうかもわからない。だがそれで良かった。わからないままで良かった。 それから間もなく、祝言はつつがなく行われた。 酒井の大老就任、山鹿素行の配流、そして春海の祝言。それら三つの出来事全てが、その後に到来する最後の事件に通じていたことを、間もなく春海は知ることになる。 三 日課が増えた。白粉《おしろい》に番茶の捧《ささ》げもの。向島の咳除《せきよ》け爺婆《じじばば》の石像、八丁堀のお化粧地蔵、長延寺の牡丹餅《ぼたもち》地蔵、牛島神社の撫《な》で牛。どれも〝病気平癒、健康祈願の御利益である。他にも、精のつく食べ物や薬湯や丸薬のたぐいがあると聞けば飛んでいって購入した。 全て妻、|こと《ヽヽ》のためである。小柄で色が白く、とにかく蒲柳《ほりゅう》の質で、どうかすると熱を出す。それでいながら健気《けなげ》に自分は元気だと主張する。そんな妻を春海は精一杯に愛した。 こととは婚礼で初めて会った。まがりなりにも幕臣の端くれである安井家の長子が見合いをするわけがない。〝娘の顔かたちの品定めなどもってのほかで、縁談は家格の釣り合い、お家の安泰が何よりである。そんなわけで春海は、京の実家で執り行われた祝宴でようやく、ことを見た。なんだか怯《おび》えたような気が張り詰めたような様子なのが、可哀想でもあり、また可愛らしいとも思った。 春海は二十八歳。ことは十九歳。どちらも遅い結婚である。 特に春海は遅い。それなのにおかしな髪形をしている自分が春海は恥ずかしく、またその髪形が相手を不安にさせているのではないかと真剣に思った。そのため、宴《うたげ》の後、花嫁花婿だけの〝饗の宴も終わり、これからいよいよ床入りというときに、「こんな男で不安でしょうか」 春海は真面目に訊いてしまった。ことは、びっくりしたように、ぱっと顔を上げ、これも真顔でかぶりを振り、それから慌てたように顔を伏せ、「不束《ふつつか》者でございますが、何卒《なにとぞ》よろしくお願い申し上げます」 誰かに、というか母親以外にいないのだが、繰り返し練習させられたような様子で、しっかりお辞儀をした。思わず春海も頭を下げていた。二人同時に顔を上げ、変な姿勢で目が合った。これがこの二人にとって、初めてまともに相手の顔を正面から見た瞬間である。が、すぐにまた二人とも頭を下げた。後で聞いたのだが、このとき、ことは顔を伏せながら、なんだか急に安心して笑いそうになる自分を頑張って抑えていたらしい。 春海としては笑ってくれても良かったのだが、実際に、ことが柔らかに微笑むようになったのは婚礼からひと月ほど過ぎてからだった。それからは頻繁に笑顔を見せるようになり、春海はほっとした。ことはいつも、にこにこと話を聞いてくれた。春海は特に、星について話すことが多かった。毎年、京と江戸を往復し、家を不在にせざるをえないため、たとえ離れていても同じ星を見ているのだという風に淋《さび》しさを紛らわせてやりたかったのである。そして婚礼ののち初めて春海が江戸へ向かう朝、「ことは幸せ者でございます」 見送りながら、そう言ってくれた。言われた方がよほど幸せだった。 そんな次第で、春海が頻繁に妻ことのためにあちこち祈願して廻《まわ》り、また手紙をつけて何やらを贈る一方で、義兄の算知は、着々とその勝負の段取りを整えていた。〝勝負碁については碁打ち衆の間で議論百出となったが、かの〝碁打ちの安泰を何よりとする本因坊道悦さえも、〝公家のお家芸という言葉にはうなずかざるを得なかった。それほど公家の学術衰退は深刻で、それを取り繕うための神秘化や儀礼化は、公家たち自身が嘆くほどだったのである。そうした議論の間、道策はと言うと、黙って目だけをきらきら輝かせていた。ときおり春海と目が合うと、あまりに澄んだ瞳《ひとみ》が怖いほど真っ直ぐ向けられて困った。 今や春海は、〝勝負碁を唱える安井家の一員である。道策は無言で、あの〝六十番碁を切望しており、いよいよ言い訳ができなくなった。 ほどなくして、ついに算知が碁方に就任し、道悦もまた覚悟をもって勝負に名乗り出た。そしてその後の決定は、碁打ち衆総員を騒然とさせた。「二十番碁を命ずる」 という、空前絶後の争碁こそが将軍家綱の決定であった。つまりそれほど将軍家綱が、碁に精《くわ》しくなり、白熱の真剣勝負を観覧したいと望んだということである。 当然、他の碁打ち衆たちの〝勝負碁上覧も現実味を帯びた。算知と道悦が互いに万全を期す一方で、いまだ上覧碁すら打つ立場にないはずの通策までもが、その若き炯眼《けいがん》ますます輝くばかりに燃えて春海に向けるのだから、否《いや》も応もない。いつしか春海も勝負の覚悟を抱くようになった頃、ある噂が城中で流れるようになった。「徳川家のどなたかが、〝囲碁侍を領地に招きたがっているらしい」 というもので、春海はこの噂を一笑に付した。さすがに根も葉もないものと思わざるを得ない。おおかた酒井の寵愛《ちょうあい》を受けているという誤解に尾ひれがついたものであろう。 もし考えられるとすれば、安井家を厚遇する肥後守様こと保科正之だが、わざわざ会津に春海を招く理由がない。この頃には江戸の三田にも会津藩邸があり、保科正之は大抵そちらにいる。何年か前に罹《かか》った病のせいで視力が弱り、そのため滅多に登城せず、将軍家綱や幕閣の面々とは使者を通してやり取りすることが多いという。義兄算知が碁の御相手をするが、春海も、またその義弟の知哲も、まず滅多に会える立場にはない。 それに自分が会津に召致されては、ますます妻に会えなくなる。身体が弱い上に京に残されたままでは、ことが可哀想だ。それがその噂を聞いた春海の最初の感想だった。 だが、寛文七年の九月。 春海は確かに招かれた。ただし意外な相手ではない。過去にも何度か安井家の碁を所望されたことがあったからである。場所も江戸の御屋敷で、たった一日の滞在だった。 御相手は、〝水戸《みと》の御屋形様こと水戸光国公である。常陸《ひたち》国水戸藩の二代目藩主で、のちに水戸光圀と改名し、権中納言、つまり〝黄門様となり、やがて江戸の民衆の間で、漫遊|譚《たん》の主人公として愛されることになる人物である。 非常に大柄で、威にして厳たる相貌、剛健たる三十九歳。 武芸を通して鍛えられた筋骨隆々たる見事な体躯をしており、碁石を握る手など、春海の倍ほども広く分厚い。もし力任せに引っぱたかれたりしたら、やわな自分などその場で即死してしまうに違いない、と春海はこの人を相手に碁を打つときにいつも思わされる。 今でこそ立派な君主として名声を高めつつあったが、若い頃はとんでもない荒くれ者だったらしい。真偽は知らないが、徳川家の一員でありながら暴気の赴くままに闇夜を駆け、陰惨な辻斬《つじぎ》り行為に耽《ふけ》ったという怖い逸話がある。心の慰めが激烈な殺人行為だったという凶人徳川忠長に、けっこう気性が似ているそうな。ただ、忠長はその狂暴がきわまり、ついには謀反を疑われ、先代将軍家光の実弟でありながら切腹を命じられて果てたが、光国は違う。〝学問に対する感動が、その烈しい暴力衝動を解消させ、狂気を正しい好奇心へと昇華させる端緒となり、人生の救済となったのだ――と本人が語っている。 そんなわけで光国の学問への打ち込みよう、年毎に増大する好奇心はとてつもないもので、学術励行に藩の石高の三分の一を注ぎ込むほどだった。また〝食に関してはきわめて情熱的で、饂飩《うどん》の打ち方など、光国自身が独自に創意工夫を凝らし、並大抵の腕前ではない。春海も頂戴《ちょうだい》したことがあるが、もう抜群に美味《うま》かった。 だが問題は強烈な好奇心が常に発揮されることだ。たとえば光国は、朱舜水《しゅしゅんすい》という明《みん》の遺臣たる学者を招いて師としており、この人物から学問だけでなく、それはもう色んな料理を学んでいた。そのため春海も一度ならず〝拉麺なる脂っこい珍妙な麺食品や、〝餃子なる腥《なまぐさ》い腐肉の塊としか思えぬしろものを食わされた。 また光国が愛飲するのは、血のように赤く、茶渋のような味がする、南蛮物の酒である。