天地明察-3

空白の碁所の座を巡る白熱の勝負などは、結果こそ見物だが、その過程たる複雑な応手は理解できない。そのような勝負が許されるのは算知や道悦といった立場の者だけである。その彼らですら滅多なことでは真剣勝負の御城碁など打たない。どれほど腕を磨こうと将軍様が理解できない勝負など家禄《かろく》の足しにならない。寺社などの碁会でも同じである。 だから結局、上覧碁こそ、城における碁打ちの安泰たる勤めであった。 だが、それが五年続いたらどうか。十年続いたら。あるいは一生、続いたら。 道策はあの歳で飢えた。本当の、真剣の勝負を欲してたまらなくなっている。自身の発揮の場、それがいつか与えられると信じることで、やっと己を支えている。 春海はどうか。 安井算哲としての自分は、もちろん〝真剣勝負を思うと胸が高鳴る。 亡父に恥じぬ戦いをまっとうした上で、父を超えて、その名を真に己のものとしたいという、若者であれば自然と抱くであろう感情を、きわめて強くかき立てられる。 では渋川春海としてはどうか。 まだ誰にも告げたことはないが、実は、その名の由来は、とある歌によった。  雁《かり》鳴きて 菊の花咲く 秋はあれど   春の海べに すみよしの浜 という、『伊勢《いせ》物語』の歌から、春海という名が生まれた。他にも、助左衛門などとも称したことがあるが、春海の名は別格だった。真実、己が顕《あらわ》れていた。 雁が鳴き、菊の花が咲き誇る優雅な秋はあれども、自分だけの春の海辺に、〝住み吉たる浜が欲しい。それは単に居場所というだけではない。己にしかなせない行いがあって初めて成り立つ、人生の浜辺である。 父から受け継ぎ、義兄に援《たす》けてもらっている全ては、秋だった。豊穣《ほうじょう》たる秋である。全て生まれる前から決まっていた、安泰と、さらなる地位向上のための居場所であった。 そしてこの場合、〝秋は明らかに、もう一つの意味を示している。「憚《はばか》りながら、退屈な勝負には、いささか飽き申しました」 その本音こそ、〝春海の名の本性だった。 勝負と口にしたが、実のところ、碁を打つ己への飽きだった。 碁をもって出仕となった安井家を継ぐ、己への飽きだった。 自己への幻滅だった。碁以外に発揮を求める、強烈な自己獲得への意志だった。 かろうじて碁そのものを否定しなかったのは、それに人生を賭ける義兄や道策のような者たちがいるからだった。だが上覧碁を否定したことはごまかせない。うっかり本音を喋《しゃべ》ったせいで激しい動揺を覚えた。いや、喋らされた。いつの間にか酒井に誘導されたのだ。それくらいは分かる。こうなると、なぜそんなことを酒井がしたかよりも、どう判断されたかがよっぽど気になった。城にふさわしくない碁打ちと見なされれば、今の生活を失う。空恐ろしい思いに押し潰される前に、心がふわりと逃げた。どう判断されようと構うものか。もしかすると一生、口にすることがなかったかもしれない言葉を、老中様を相手に、こんなにも堂々と発せたことを喜ぶべきではないか。そんな、若者らしい、奇妙に虚脱した満足感があった。 酒井は、感銘を受けた様子も、不埒《ふら》な言葉と受けとった様子も、まったく見せない。「退屈ではない勝負が望みか」 と、最後まで、どうでもいいことのような口調で訊いてきた。「はい」 淀《よど》みなく答えた。毒を食らわば皿までといった心境である。 老中酒井は、今度こそ本当に、なんにも言わなかった。 どこかその辺の宙を見ながら、無言で小さくうなずいた。 その沈黙に、まさしく〝渋川春海の全生涯を賭けた勝負が秘められていたとは、まだ到底このときの春海に、想い及ぶところではなかった。[#改ページ]   第二章 算法勝負       一 七つどきのちょっと前に、春海は、どっと疲れて城を出た。 お勤めののち、碁打ち衆同士で、上覧碁について軽く打合せをしたのだが、その間ずっと、道策に睨《にら》まれ続けた。 それが終わるとまたもや茶坊主に呼ばれ、そして井上正利が待っていた。 恐ろしいことに退出時の出《い》で立ちだった。ということは太刀を身につけている。それだけで頭から真っ二つにされるような精神の衝撃を及ぼした。 老中酒井が何を春海に言ったか、何を考えていそうか、微に入り細を穿《うが》って井上から質問された。酒井から何か命じられるかもしれない、とは口が裂けても言えない。そんなことをすれば酒井の信用を失い、井上から目をつけられ、なんにも良いことはなかった。 というより酒井はそんなことはひと言も口にしていないのである。全て春海の想像に過ぎず、酒井の思惑など答えようがなかった。 だから、算術の話題がひんぱんに出た、ということしか答えられず、「酒井様は、実は、算術にご興味がおありなのではないでしょうか」 などと、井上とその刀への恐怖もだんだん麻痺《まひ》してきて、さらっと告げたりした。「そろばんか」 井上もちょっと納得したようだった。最近は、剣術や馬術といった武士らしい技芸より、算術に長けた武士が、ときおり抜擢《ばってき》されることがあった。水道開発や、門や橋の建設を主導させるためで、中には金山銀山の測量法の開発といった極秘の任務もあるという。「武士がそろばんなど、真面目に習うものではない」 露骨に馬鹿にするような言い方だった。「酒井の小せがれは、そのうちお主に碁石ではなく、そろばん珠《だま》の打ち方を習う気か」 どうやら井上の中では、酒井が春海を何かで抜擢する、というのではなく、酒井自身が算術を学びたがっている、という方向へ解釈されたようだった。それも当然のことで、いったい碁打ちをどんな仕事に抜擢するというのか。春海の方が不思議になる。「算術を学ぶのでしたら、私などより優れた方は大勢いらっしゃいますが……」「おおかた、そろばんを話の種にして、お主の知遇の者を紹介せよと言い出すのであろう。お主以外になかろうよ。他の碁打ちに頼めば、古参の老中の面目に障るからな」 井上は、すっかり訳が分かったようにうなずいている。家光の代から仕えている碁打ちは、既に他の三人の老中がその人脈を大いに利用していた。そこに若年の酒井が割って入ることはできないという、酒井の苦労を想像してか、井上は満足げだった。「それにしても刀か。酒井の小せがれめは存外に性格が細やかだ」 帯刀せぬ者に、直接、自分が頼むことを酒井が嫌がっているというのである。だから春海に帯刀させ、体裁を繕ってから、自身の政治人脈に使おうとしている。それはどうやら井上の信念に珍しく合致したらしく、「まあ誉めてやらんでもない。どんな相手を紹介して欲しがっているか知らんがな」 それほど大した人脈を持っているわけではない春海も一緒に馬鹿にする言い方だった。「よもや保科公ではあるまい」 わざわざそんなことまで言う。保科正之に近しい碁打ちなら安井算知であり、算知の人脈は、老中の稲葉正則《いなばまさのり》が活用していた。春海もその人脈に与《あずか》ってはいるが、何かを頼むとしたら算知を通してで、稲葉の体面を考えてのこととなる。酒井が最も入っていけない人脈と言えた。「まさか、そのような……」 井上は上機嫌に笑って手を振った。「もう良い。せいぜい酒井に気に入られるよう勤めておれ」 すっかり春海を酒井の息のかかった者と看倣《みな》した馬鹿の仕方である。そうまで酒井が嫌いなのかと呆気《あっけ》にとられつつも、腹は立たなかった。完全な誤解の中に井上がいるのを察したからである。もしかすると酒井は、そういう計算の上で、自分に刀を与えるなどという目立って井上の勘繰りを促すようなことをしたのかもしれない。 しかし、そこまで入念に井上の目をそらさせるようなことを、なぜ酒井がするのか。それとも井上だけでなく、寺社奉行や奏者番の面々の目もそらすためかもしれない。井上が勘繰ってあちこちで話を出せば、自然と、酒井の本心は、誤解によって覆われ隠される。 だがそんな風に考えれば考えるほど、酒井の本心が分からない。 それより酒井にうっかり自分の本心を告げてしまったことの方を気に病みそうになった。やはり上覧碁を否定するべきではなかった気がする。もし義兄に迷惑をかけるようなことになったらどうしよう、などと不安に思いながら中雀門へ差し掛かったとき、「算哲様ッ」 道策の声が背後から追っかけてきた。「あの碁の続きを、是非ッ。右辺星下の初手を、算哲様ッ」 頭の中では酒井に告げた己の言葉がこだましている。足早に近づいてくる道策の姿に、なんだか申し訳ないような後ろめたいような気持ちになって、「済まないね、道策。大事な用があるのだ。また今度な」 嘘をついて御門を進んだ。道策は、師のもとへ戻らねばならないと見えて追っては来ず、「そろばんなどお捨てになってしまいなさい、あなたは石を持つべき人なのですッ。二代目安井算哲、それがあなたの名なのですよッ」 声だけが、春海を素通りし、安井算哲としての自分に向かって空しく響いた。 下城にしては遅い時刻であるため混雑はない。春海は、内桜田門へ進みながら、ふと立ち止まり、城を振り返った。 己の目が、無意識にあるものを探していることに、遅れて気づいた。 春海が生まれて初めて〝それを見たのは十一歳のときである。 顔を上げれば、真っ白な雪に飾られ、透き通るような青空を背景に、巨山のごとくそびえ立つ天守閣があった。 その神気みなぎる威容に度肝を抜かれ、深く畏敬《いけい》の念に打たれたのを今も覚えている。 そしてそれが十八歳のとき忽然《こつぜん》と消えた。 あれほどの存在感を発していた天守閣が、跡形もなく失われ、それまで天を貫いていたところに、ただ青空だけが広がっていた。 明暦三年の大火、すなわち振り袖《そで》火事による焼亡であった。 その年、天守閣とともに江戸の六割が灰燼《かいじん》に帰した。その災禍から、半年余りしか経っていないそのとき、公務で江戸に来た春海は、また違った念に打たれた。 大名|邸《やしき》も町も寺社も、凄《すさ》まじい火勢がなめつくし、以来、互いに豪勢さを競っていた大名邸のほとんどが、再建に際して、門構えをずいぶん簡略なものに変えていた。 そこかしこに火よけの堤防が造られ、空き地が設けられ、また延焼類焼を防ぐため、親藩大名の邸が移動された。火によって消えた町が、一挙に生まれ変わろうとしていた。 その〝復興の光景が、春海の中で何かを揺るがし、また芽生えさせた。 春海は合戦を知らない。 戦国の世はおろか、未曾有《みぞう》の籠城《ろうじょう》事件たる島原の乱すら、春海が生まれる前年に終結している。戦前も戦中も、さらには泰平の始まりという偉大な試行錯誤の時代も知らなかった。知っているのは完成された幕府であり、その統制である。江戸という日本史上最大の、また既に当時、世界最大となりつつあった城と町も春海が生まれたときからそのようにして在った。 そしてだからこそ、明暦の大火とその後の復興は、衝撃とともに、ある種の感動すら、年若い春海にもたらしたのである。 春海がそのとき打たれたのは、生まれて初めて、大きな〝変化と呼ぶべきものが、明確な形を伴って世に出現したのをはっきり見たことによる昂揚《こうよう》の念であった。 畏怖するような、胸が高鳴るような、なんとも言えない、ただ大声で、その変化に今まさしく自分が立ち会っているのだということを天地に叫びたくなる気分だ。 むろん都市火災は極大の災禍である。無惨に焼かれた人びとの死骸《しがい》を運ぶため、そこら中で長い行列ができたという。あまりの死者の多さに、将軍家綱は今後、火災の際に民衆が正しく退避できるよう、江戸の正確な地図の製作と普及を命じたという。それほどの屍《しかばね》の山だった。そんな事態を、間違っても嬉《うれ》しく思うわけがない。 だがそれでも春海が、ひしひしと〝新しい何かの到来を予感したのも事実である。 その最大の理由が、天守閣消滅だった。 城や町が再建されればされるほど、かえって城の古参の者たちは、江戸のかつての姿が消え去るのを嘆いた。春海は直接耳にしたことはないが、しばしば古参たちの間で、「日本橋に立ったとき、富士と天守閣とを一望する〝光景こそ、人びとが江戸に尊崇の念を抱く核心であり、ゆえに天守閣は何にも先んじて再建されるべきであった」 という、悲嘆めいた意見が持ち上がっては、争論の種となるらしい。 それでも天守閣が再建されることはなかった。というのも幕府の枢要を担う者たちの間で、「時代は変わった。今の御城に、軍事のための天守閣は必要ない。ただ展望の間となるだけである。その分の財力を、江戸再建と、泰平の世づくりのために費やすべきである」 との判断が共有されたからであると、春海は聞いている。つまり大火が焼き去ったのは、江戸の民と家ばかりではない。天守閣とは、徳川家による江戸開府が覇権の証《あか》しであった時代の最後の名残だった。〝戦時の最後の象徴であり、それもそうして、灰となった。 一方で、玉川の開削計画が始められたのは、承応《じょうおう》元年、振り袖火事のほぼ四年前である。 玉川沿いにある羽村《はむら》から四谷まで、起伏の少ない関東平野で水路を開削するという、とてつもない難事業だった。さらには四谷から江戸城内のみならず、山の手や京橋にまでいたる給水網を、縦横に設置するという大工事が行われた。 それが、わずか一年余で通水成功となった。水不足に悩んでいた江戸の者たちは、武士も町人も感極まり、身分を問わず幾日にもわたって盛大な乱痴気騒ぎを繰り広げたという。 そして寛文《かんぶん》元年の今、その水路は赤坂や麻布、さらには三田にまで広がろうとしていた。 春海が城内へ進もうとしている今このときにも、劫火《ごうか》の痕跡《こんせき》と、縦横に巡る水路の狭間《はざま》から、まさに〝江戸八百八町の原形とも言うべきものが現れようとしていたのである。 ちなみにこのときフランスでは〝太陽王ルイ十四世が、ヴェルサイユ宮殿の建設を開始させ、清国では〝史上第一の名君たる康煕《こうき》帝が、紫禁城を豪壮華麗に増改築させている。 それらの王朝の権威が絶頂期を迎えんとしているとき、徳川家開府より四代目に至り、巨大な城砦《じょうさい》都市たる江戸もまた、炎と水とによって精錬され、新たな時代の到来を告げていた。 もはやそこに天守閣があったという記憶すらおぼろになるような、高く澄み渡った冬空のどこからか、〝退屈ではない勝負が望みか 老中酒井の、呟《つぶや》くような問いが聞こえた。 とても、碁打ち衆〝四家の一員たる己に、そんな我が儘《まま》が可能とは思えない。 だが安井家を継いだ己への〝飽きは日増しに強くなり、心は己個人の勝負を欲して焦がれるほどになっている。この新しい時代のどこかにそれがあると信じたかった。だがそれがなんであるかも分からぬまま、切ないような悄然《しょうぜん》としたような、なんだか妙に重い足を引きずりながら、くそ重たい刀を抱えて、春海は帰路を辿《たど》った。 いろんな疲労感に打ちのめされて邸に帰った。こういうとき御門の前に住居があるのは実に贅沢《ぜいたく》なことで、しかも下乗所の一つがある内桜田門の門前なのだから恵まれている。 そしてその分、ますます謹直たるべし、という考え方が徹底しているのが会津藩邸だった。 門兵なども長時間であろうと平気で直立し、怠けることがない。縁側に枯れ葉が落ちていたら、まず端から掃除し、その過程で枯れ葉を取るという、びっくりするような清潔感が漂っている。藩邸というより、どこかの神宮に身を置いた気分にさせられる。と言って窮屈な感じがしないのがこの藩邸の面白いところだった。疲れた気分が、邸内の清浄さの中で洗われる気がした。清浄さが、閉塞《へいそく》ではなく開放に向かっているのである。 いつもの癖で、庭を回った。一隅に、春海が設《しつら》えた日時計があった。 暦術の道具の一つで、影を作り出すための三尺棒を中心に、影の長短を測るための小石が、ぐるりと円陣を描いて並んでいる。見ようによっては奇妙な偶像を奉っているようでもある。 実際、暦術もこの頃では多くの者にとって趣味となる一方で、学問よりも宗教の領域に、より深く入り込む性質があった。日の吉兆がそうだ。太陽の周囲に見える暈《かさ》や白虹《はっこう》などは神意のあらわれであり、地上で起こることがらが、あらかじめ告げられているのだと信じられている。 春海もそうした信心を持つには持っているが、算術趣味の観点から、星の運行を測定する気持ちの方が強い。が、日時計を庭に置くことが許されたのは、ひとえに神意を畏《かしこ》まって伺うため、という目的によった。そのため、たまに算術や暦術などさっぱり分からない下級藩士たちでが、ありがたがって春海の日時計に向かって拍手《かしわで》を打ち、礼拝する場面に出くわしたりした。 明らかに神への礼である。会津藩のもう一つの特色がそれで、藩主たる保科公がもっぱら仏を崇《あが》めず、神道を信仰していることから、藩士たちにも神霊を祀《まつ》る気風があった。 春海が行くと、まさに一人の藩士が日時計の前に立っていた。 ただし手は合わせていない。紙の束を持って、柱ではなく影の方を見ている。つまり信仰ではなく、記録のための道具として日時計を見ていた。「安藤《あんどう》殿」 春海が呼んだ。がっしりとした体躯《たいく》の、年上の藩士である。くるりと振り向き、「これは渋川殿」 安井ではない姓で呼んだ。と同時に、両手を下げ、目礼している。武士の三礼の一つ、同輩に対する草の礼である。上司に対しては手を膝《ひざ》につける行の礼、さらに上の相手に対しては、平伏する真の礼となる。さらに主君に対しては、畏怖の礼と言うしかないような、一度や二度、顔を上げろと言われても決して上げず、おいそれと近づかぬような礼となる。 会津藩士は、同朋《どうほう》に対しても、とにかくこうした礼を、しつこいくらいしっかり行う。 春海も目礼し、にっこり笑って、「私の代わりに、影を測っていて下さったのですか?」 近づこうとした春海を、安藤が、いきなり手を上げて制止した。「そのまま」 思わず呪文《じゅもん》でも食らったようにぴたりと動きを止める春海に、安藤の方から歩み寄った。 かと思うと、さっと手をのばし、てきぱきと春海の刀の差し違いを整え、帯を直し、ついでに着物のしわを伸ばしてやった。それからまた元の位置に戻り、春海に向きなおって、「ん」 と、うなずいてみせた。「あ……ありがとうございます、安藤殿」 再び動き始めた春海が、呆気にとられながら頭を下げた。その動作で、刀が軽くなったのが分かった。安藤に整えられ、しっかり固定されたせいである。刀を差すというより締めるという感じで、なるほどと思うような、まさに〝帯刀の感じがした。「これは良いですね。大変参考になりました」 だが安藤の方は、「自分は何の事やら分かりません」 無理に会津弁を江戸弁に直したような口調で、自分はなんにもしていない、という返事をする。これも会津藩士の律儀さだった。刀の差し方が乱れているというのは恥ずかしいことである。だがそれを帯刀の経験がない春海に言うのは可哀想だ。しかし見て見ぬふりはできない。誰かが教えてやらねばならない。だが春海の歳で、わざわざ教えられるのも恥となる。だから手助けしつつも、最初から何も見なかったことにする。 二重三重の律儀さである。見方によっては面倒くさいことこの上ないが、春海は素直に感謝した。相手に合わせて、「日時計の影を測って下さっていたことです」 微笑んで言い換えた。「御登城の日だけ記録に穴が空いては、せっかくの渋川殿の仕事が勿体《もったい》ないですからな」 安藤は真面目くさって、数値を記した紙を春海に渡した。ただの趣味ではなく、仕事と看倣してくれていることが春海には嬉しく、そしてちょっとだけ後ろめたかった。 安藤は春海より十五も年上なのだが、藩邸の客分として、きちんと敬称をつけて呼んでくれる。しかも、春海が頼んでもいないのに〝渋川の姓で呼んでくれるのだ。 というのも、誰からか春海が〝渋川を名乗ることがあると聞いたそうで、ある日突然、「男子が自ら用いるとは、けっこうな事由があっての名に違いない」 とのことで、「これからは〝渋川殿と呼ばせていただきます」 などと真面目に告げられたのだった。 そういう律儀と筋とを、義理で固く締め、謹厳で覆ったような男だが、決して愚鈍ではない。 名を、安藤|有益《ゆうえき》。武芸鍛錬を怠らず、気配りと記憶力に長け、優れた算術の腕を持ち、三十七歳という若さで既に勘定方として経験豊富であった。藩の財政に関わり、江戸詰における出費把握を任されている。のみならず会津藩屈指の算術家として、その〝学習鍛錬のためなら自由に外出が許されるという特権を得ていたほどの士である。 そして春海に、あの、宮益坂の金王八幡の絵馬のことを教えてくれたのも、他ならぬこの安藤有益なのだった。「ときに安藤殿。見ましたよ、絵馬」「やはりそうでしたか」 安藤も、親しく算術について語れることを嬉しく感じているらしく微笑んでいる。「今朝早くに渋川殿が邸を出たと聞き、もしかしてと思いましたが。見ましたか」「はい。江戸はすごいですね」「まったく。江戸もなかなかやりますな」 安藤はちょっと不敵な感じでうなずいている。会津周辺は知る人ぞ知る算術の盛んな地で、江戸に負けず劣らず、算額絵馬が多く奉納されていた。そんな自負を持つ安藤に、「ところで安藤殿。私、それよりもすごいものを見ました」 と、春海は、今朝の驚嘆すべき経験を安藤に話した。 ほんの僅《わず》かな時間で、七つの設問にことごとく答えが書き記されており、しかもおそらく全て正解であろう、ということを、自分が書き写した問題を見せながら説明した。と言っても刀を置き忘れたくだりは、ちゃっかり省略して伝えている。「これら全ての問いを、一瞥《いちべつ》のみで即解した士がいると……?」 さすがの安藤も信じがたい面持ちになり、「この問いと解答、書き写させていただいてよろしいか?」「ええ、どうぞどうぞ」「もし全問正解ならば、まさに達人。私も是非、お目にかかってみたいが……」 いかに学習のための外出が許されていても、勘定方の安藤が勝手に他藩の士と交流すれば上司に咎められる。幕府は、無断での異なる藩同士の情報の交換を原則として禁じていた。藩同士の交際には必ず、お目付役となる旗本が同席する決まりだった。その士がどのような職分の者か分からないまま、会いに行くことなど安藤には出来ない。 安藤の無言の願いを、春海は察して告げた。「私がその士と親しくなり、碁会に招きましょう。私は誰とも交流を禁じられておりません。むろん安藤殿とも」 安藤も微笑んだ。誠実さを絵に描いたような骨のある笑みだった。「かたじけない」 と年下の春海に向かって慇懃《いんぎん》に頭を下げた。そしてその場で問題を書き写しながら、「それにしても、それほどの算術の達者にお目にかかるのであれば、全問に術を立ててから伺うのが筋でしょうな」「教えを請うのではなく、ですか?」「教えを請うためにです。自分なりに術を立てて持参すれば、教える側も、どこが間違っているか指摘しやすくなります。誤りを指摘されることを恐れて、何もかも拝聴するだけという態度は、かえって相手に労をかけます」 実に律儀に言った。 安藤の言葉で、なんだか疲れた気分だった春海の心に、急に火がついた。酒井と井上のことも忘れた。申し訳ないが道策の碁に対する想いも遠くへ行ってしまった。 その日、自室に戻ると、春海はまず、安藤が締め直してくれた刀と帯の締め方をしっかり練習した。それが何より、親切な安藤に対する暗黙の礼となるからである。 それから後は、金王八幡の境内で書きとめた問題と解答にひたすら没頭した。 食事どきも問題のことばかり考えた。会津藩邸の藩士の部屋には竃《かまど》がなく、藩士たち全員が一緒に食事を摂る。竃が増えればそれだけ火事の危険が増えるからである。春海は邸で食事をするのを遠慮し、よく藩士たちと一緒に食事をした。安藤もそうである。背筋を伸ばして飯を食らう藩士たちの間で、魚の小骨を並べて勾股弦を作ったりした。見ると安藤も箸を三角や円の形に動かしたりしていて、ちょっと嬉しくなった。 風呂《ふろ》は邸のものを使わせてもらう。大名邸の中には、火事の危険と江戸の水不足から、邸内に風呂を置かないところもあった。だが会津藩邸では逆に、身を浄める場として風呂はしっかり造ってあり、藩士たちのものもちゃんとある。春海がそちらを使わなかったのは、藩士たちから一人分の湯を奪ってしまうのを遠慮してのことだ。 そしてその夜、四つの鐘が鳴る頃、春海は解答に至った。神社で地べたに座り、解こうとして解けなかった問題のみならず、残り六つの問題全てに、術を立てることに成功したのである。その春海の算術の腕も相当のものだったし、春海が記した術式の数々を見れば、さすがの安藤も唸ったろう。だが春海の心は有頂天とはほど遠かった。ただ痺《しびれ》れるような賛嘆の念があった。 七問、全問正解。一瞥即解の士が書き記した全ての答えが、そうだった。 春海の想像通り、どれも〝明察だったのである。 会いたい。 心の中で、その士の姿をいろいろと思い描いた。そうすればするほど曖昧《あいまい》にぼやけてゆく。だが存在感だけは、どんどん大きくなっていった。 明日にもまたあの神社に行き、江戸中の算術家を訪ね歩いてでも、この士の名を教えてもらい、何としてでも訪ねに行こう。 だがそう簡単にはいかなかった。       二 四日後。春海はへとへとになって麻布にいた。 せっかく頑張って術を組み立てたは良いが、馬鹿みたいに空振りの連続だった。 自由に時間が使えるのは未明に起きて邸を出てから、四つどき前に登城するまでである。 城を退出してから外出し、門限までに戻れないなどというのは、他藩ではともかく、会津藩邸では絶対に許されない。寒風|凍《い》てつく路地でひと晩放置される。とても怖くて御門を出て遠くまで行くことはできない。 城へ登る必要がないときに限って碁会がある。上覧碁のための他家との打合せもある。安井家の者として大名邸や寺社に赴いて指導碁も打たねばならない。 そんなこんなで、限られた時間の中で、一瞥即解の士を求めて奔走した。 初日はまず金王八幡を再訪したが、あの箒を持った娘はおらず、宮司に聞くと知遇の武家の娘であるとのことであった。夏と秋に行儀見習いで三日に一度ほど神社に通っていたが、冬になって日が短くなったのでしばらくは来ないのだという。神社で行儀見習いというのは何とも珍しい。だが興味は士であって娘ではない。このとき娘のことを尋ねていれば翌日には再会できたのだが、何しろ〝関という士のことばかり頭にあって他のことは考えられなかった。 宮司は何も知らなかった。ただ、千駄《せんだ》ヶ谷《がや》の八幡宮や、目黒不動にも、算術家たちが霊験を求めて祈願したり算額を奉納したりすることを教えてくれた。 翌朝、眠たい頭をふらふらさせて、まずは目黒に行った。とにかく田畑ばかりのど田舎である。こんな所で手掛かりが得られるのかと疑ったが、やはり得られなかった。 ただ、寺で磯村塾の者たちが献《ささ》げた算額を特別に見せてもらえたのが嬉しかった。 三日目、千駄ヶ谷の八幡宮に行った。 富士山に行けない者たちのために造られた、富士塚と呼ばれる小山が綺麗だった。 だが算額絵馬はそれほどなく、何ら手掛かりも得られず、悄然となって戻った。 お陰で駕籠《かご》代はかかり、仕事も立て込んだ。毎夜遅くまで棋譜と格闘し、上覧碁の打合せを何とか間に合わせたは良いが、何度も道策にとっつかまった。山のように言い訳をして対局を逃げ続けたものの、代わりに京での碁会に出席することを約束させられてしまった。 本因坊家の碁会に、安井家の者が顔を出すことになればそれ相応の礼やら土産やらが必要になる。亡父の右辺星下の初手を見せてしまったことに続き、義兄の算知に申し開きをしなければならないことがまた一つ増えてがっくりきた。 四日目は、夕方に碁会に出れば良いだけで久々に間が空いた。この機を逃す手はない。寝不足の体に鞭《むち》打って早朝から邸を出た。 そして駄目もとで麻布に向かった。 磯村が開いた塾の一つが、そこにあると金王八幡の宮司から聞いていたのである。 ただ磯村は江戸にはおらず、正確には、磯村の弟子の一人であり、例の算額の出題者である村瀬|義益《よします》が任されている塾らしい。なんであれ目黒に比べればとにかく近くて助かった。善福《ぜんぷく》寺の辺りで駕籠を降りて、徒歩で塾を探した。だが四年前の大火ののち急激に復興した町並みは、住人ですらちゃんと把握し切れていなかった。あちこちで塾の正確な場所を聞いて回ったのだが、目印として教えてもらった大名邸がごっそり移転していたものだから、たちどころに迷った。 あっちの坂を下り、こっちの川堀を渡りと、刀の重さと寝不足でぐらぐらになりながら探し回った。そしてついに、のち間部橋と呼ばれるようになるがこのときはなんとも名のついていない橋で干魚の籠《かご》を担いだ女たちから、その所在地を教えてもらった。その代わりに、なんだかあんまり美味《おい》しくなさそうな干魚を八尾も買わされた。女たちは笑ってハゼだのなんだのと主張していたが、はっきり言って何の魚だか分からない。その包みを右手にぶら下げ、左手で腰の刀を支え、ふらつきながら歩くのだから、傍目《はため》には朝から酔っ払っているようにも見えた。 腹が減ったのでよっぽど屋台を探して蕎麦《そば》でも食いたかったが、とにかく時間が勿体ない。真っ直ぐその塾に向かった。そして、やっと辿り着いたそこで、完全に空腹を忘れた。 六本木に近く、門構えからして質素な武家宅だが、どんなに貧乏な武家でもそうであるように敷地はかなり広い。主人は荒木|孫十朗《まごじゅうろう》という者だそうで、どうも女たちから聞いた話では、老齢の小普請だという。つまりは御城の修繕事務という名の閑職である。それが若くしてか老いてのことかは知らない。ただ大の算術好きで、わざわざ自分から磯村に邸の一角を使わせ、私塾の一つとさせたとのことである。 門が開けっ放しなので入ってみた。かねてから、算術にしろ剣術にしろ、塾や道場といったところは自由に出入りでき、しかも断れば寝泊まりもできると聞いていたからだ。 庭に入ると長屋を改築したような道場風の建物があり、その入り口に、磯村門下塾徒以下立入うんぬんと看板がある。思った通り自由に入れるらしく、戸は開きっ放しだが、「ごめんください。あのう、ごめんください」 一応、呼びかけてみた。誰も出てこない。一歩、中に入ってみた。右手の壁にびっしり何かが貼りつけられている。ひと目見て鼓動が高鳴った。 壁一面、難問の応酬だった。 紙に問題を書いて壁に貼り、それをあの算額絵馬の問題と同じく、別の誰かが解答を書きつける。さらに別の誰かが紙切れに答えを記して上から貼りつけたりと、絵馬とは違って行儀は悪かったが、熱気はこちらが上だった。『明察』『誤謬《ごびゅう》』『合間』『惜シクモ誤』などの文字がばんばん書きつけられており、中でも、村瀬義益の名で出された一問に、七つも八つも答えが貼りつけられ、いずれも『誤』の連続というものがあった。 そしてその八つ目だか九つ目だか分からぬ答えに、それを見つけた。『関』 の名と、他の誤答の群れに比して、あまりに軽々と書かれた端的な解答。そして、『明察』 その二文字。 心臓が口から転がり出すかと思うほど動悸《どうき》がした。なんにも考えずに、魚と刀を玄関先に置き、その場に正座して問題と解答を書き写した。それから床に算盤を広げ、関という士がさらりと書きつけた答えが、いかにして導き出されたかを読み解き始めた。 腹がぐうぐう鳴るのも気にならない。目の端を影がよぎったようなのも気にならない。ばたばた足音がした気がしたがそんなに気にならず、「もしもしッ」 いきなり聞きおぼえのある叱り声が降って湧き、これにはさすがにびっくりして顔を上げた。 娘がいた。とても綺麗な娘で、ちょっと見とれた。 見とれながら、なんとあの、金王八幡宮にいた娘であることが分かった。 ご丁寧に、前と同じく箒を持っている。ただし今回は掃いてはおらず、逆さにして両手で握っている。なんだかまるで泥棒でも追い払うような恰好《かっこう》だなと思いながら、「なぜ、ここに? 私を追ってきたのか?」 驚いてそんなことを訊《き》いた。あの神社からわざわざ追って来たと言うのであれば、娘の方も、そう思ったらしい。というかこの場合、娘の方がそう思って然るべきである。 娘が意表を突かれたような顔をし、すぐに警戒と怒りをあらわにして言った。「それは私の言葉ですッ。こんな所で何の真似ですか。ここまで関さんを追って来たんですか」 またもや地べたに座ったまま叱られたが、今度ばかりは咄嗟に片膝を立てた。「関さん?」 娘の口調から、「もしかして、その士を知っているのか?」 ということを、ようやく察した春海である。「存じませんッ」 娘がきっとなって答えるのと、「たまに来るだけだな。門下生じゃない」 新たに男の声が、箒の向こうで起こったのとが同時であった。「村瀬さん!」「まあまあ、えん。良《い》いじゃないか」 娘が振り上げた箒を、ひょいと手でよけ、やたら長身の男が顔を現した。もう一方の手は袖に通さず懐に入れ、だらりと袖が垂れている。城ではまず見ない、というかそんな姿を見つかればその場で処分の対象になる恰好である。髷《まげ》やら帯やら、金をかけているというのではないが、しっかり流行をつかんで工夫しているらしく、だらけた印象はない。むしろ工夫したものをあえていかにも着崩すことになお工夫を傾けるのが洒落《しゃれ》着だった。「村瀬さん……もしや村瀬義益殿ですか?」 もっと学僧然とした風貌《ふうぼう》を想像していた春海は面食らった。「いかにもそうだ。で、あんたが絵馬の前に坐り込んで、えんに叱られたという士かね?」「いや……」 士ではない、と言いたかったのだが、「まさにそうでしょうッ」 娘に遮られた。「私は……」「この通り、行い不審の、怪しい人ですッ」「まあまあ。で、ここでも地べたでお勉強というのは、何かの趣味かね?」「立っていては算盤が広げられませんので」 春海は改めてきちんと正座し直し、畳んだ紙を取り出した。ここ数日、懐に入れっぱなしだったため、だいぶしわくちゃになっていたが、誠心誠意を込めて、相手に差し出した。「なんだいこれは?」 村瀬がしゃがみ込み、目の高さを春海が差し出す紙に合わせて、ひょいと受け取った。「……へえ」 紙を開いて面白そうに笑みを浮かべる村瀬に、春海がしっかり背筋を伸ばして告げた。「術、曰《いわ》く。まず勾股《こうこ》を相乗し、これを二段(二倍)。さらに勾股弦の総和にて除(割る)。これに弦を乗(掛ける)し、また勾股の和にて除なり」「……え?」 娘は呆気に取られている。村瀬が、にっこり笑って後を続けた。「これにて合問……だな。答え曰く、七分の三十寸。明察ってやつだ」 しわくちゃの紙の束を元通りに畳み、「俺が献じた絵馬だけじゃなく、他にもずいぶん解いたじゃないか。もらっていいか?」「どうぞお受け取り下さい。全問解くのに、一朝夕かかり申しました」「俺はあの一問を作るのに六日かけたよ。で……あんたの名は?」「父から安井算哲の名を継ぎましたが、お勤め以外では、渋川春海と名乗っております」 正直に両方を告げた。すると村瀬は記憶を探るように首を傾げ、「安井……うん。聞いたことがあるな」「碁をもって御城に仕えております」「碁?」 と目を丸くしたのは娘の方で、村瀬はしゃがんだまま、ぽんと膝を叩《たた》き、「それだ。御城の六番勝負」「いえ、それは義兄の算知の方で……」「うん。その安井家だ。あんた若いね。碁打ちってのは算術もやるのかい、安井さん」「いえ、主に私だけですが……。あの、どうぞ渋川とお呼び下さい」「うん。じゃあ、渋川さん、あっちの刀の横にあるのはなんだい?」 と玄関先に春海が置いた、包みを指さす。「あれは……干魚です。ここへ来る途中、買いました。ハゼだとか……」「ふうん、ハゼ」 村瀬が、娘を見上げた。「じゃあ、えん。飯にしよう」       三「自前で術を立てて、土産まで持参するやつは滅多にいないよ。あんた偉いね、渋川さん」 えんにお代わりの飯を盛ってもらいながら村瀬が笑った。気持ちよく笑い、気持ちよく食う男だった。春海が一杯目を食い終わると、「若い男がそれじゃぁ足らんだろう。そら、えん。どっさり盛ってやってくれ」 自分は三杯目に箸をつけながら言った。「お碗《わん》を下さい」 釈然としない様子で、笑顔一つ見せぬままのえんが手を差し出し、「どうも……恐れ入ります」 春海は恐縮しながらも素直に茶碗を渡している。塾の中での食事だった。米の他にも、味噌汁《みそしる》と漬け物を振る舞われた。正直、倒れそうなほど空腹だったので心底ありがたくいただいた。 それに、女性が同席する食事というのは、御城でも藩邸でも、春海の立場では、まずあり得ない。櫃《ひつ》からしゃもじで米をすくう姿にも、馬鹿みたいに見とれた。「はい、どうぞ」「あ……いただきます」 お碗を女性から手渡されるなどというのは実に新鮮で、ちょっと緊張した。 えんは憮然《ぶぜん》としつつ、けっこうしっかり盛ってくれた。それだけで何となく嬉しくなる春海だった。綺麗に研いだ白米である。江戸は〝米ぶくれの都市で、農民と武家が売る米が同時に集積し、町人と武家がそろって白米を食う。しかもこの頃は、日に三食摂る習慣が一般化しつつあった。そんな都市は、他に大坂ぐらいしかない。「これは本当にハゼなのですか?」 えんが、炙《あぶ》った干魚を箸でつつく。 炙ったのは村瀬である。塾の縁側に魚を焼く七輪があって、嬉しそうにうちわで扇ぎながら、扇ぎ方の蘊蓄《うんちく》を傾けたりした。春海は真面目に聞いたが、えんはてんで相手にせず、そんなので魚が美味くなれば世話はないとかいうことを言っていた。「まあ……多分」 自信がなさそうな春海をよそに、「なかなか美味いぞ」 村瀬は、どんな魚だろうと同じように食いそうな様子でいる。「ハゼというのは佃煮《つくだに》にするのではないのですか? なぜ干すのです?」「それは、私も……」「最近では天ぷらにもするらしいからな」 あんまり答えになっていないような結論を村瀬が出した。えんがやっと口に運び、「……ハゼではない気がします」 それでも続けて食べてくれるので、春海は妙にほっとした。「なんにしても日が悪かったな、渋川さん」 村瀬が言った。十は歳が離れているのに敬称付けで呼んでくれた。安藤のように礼節重視というより、本人の気さくさからだった。「いや、俺にとっちゃ魚の分け前が増えて良かったが。今日はみんな手職の日だ。傘貼ったり、庭で畑作ったり、鈴虫飼って売るのまでいる。武家もこの頃は手に職がなきゃぁやってけない。かくいう俺も、これから近所の子に、そろばんを教えに行かなきゃならん」 だから塾には村瀬以外いなかったのだという。門下の者には、町人や農家の者もいたが、みなこの時間は仕事があり、顔を出すのは夕方か授業の日だけである。 荒木家の者はどうしたのかと問うと、主である孫十朗は御城にいるらしい。月に三度、上司に会いに行き仕事があるかどうか訊く。たいてい仕事はない。まさに閑職である。「若い時分は槍《やり》が達者で、御上覧も勤めたそうだ。以前、塾のみんなで御自慢の槍を拝見させてもらったが、いやはや、あんな重くって長いものを、よくまあご老体が振り回せるもんだと、みんなたまげたよ」 だが泰平の世が盤石になればなるほど、そういう者に仕事はなくなる。今ではおよそ千人もの旗本や御家人が、小普請と呼ばれる有名無実の閑職にあった。それでも邸宅はでかい。この荒木邸も三百坪以上はある。維持費もかかるが実入りは少なくなる一方である。 といって幕府から与えられた邸や土地を、勝手に売り買いするのは御法度だった。しかし賃貸しすることはできる。塾として土地建物を貸し、賃料をもらう。そのせいか、それなりに余裕はあるらしい。主が城に登る間、奥方は使用人をつれて息抜きの芝居を見に行く習慣だそうで、これまた不在である。 ただ、荒木の算術道楽はすごいらしく、「術理の稿本《こうほん》一冊で、ひと月分は賃料をまけてくれる」 まったく悪びれずに村瀬は言った。「村瀬さんは、ここにお住まいなのですか?」 相手に合わせた呼び方で春海が訊いた。「転がり込んで二年だ。もとは佐渡《さど》の出さ。百川治兵衛《ももかわじへい》という師に算術を学んだ」「佐渡の百川……?」 呆然《ぼうぜん》となった。佐渡金山の開発のため、幕府がわざわざ呼び出し、派遣したという算術の達人である。百川に磯村と二人の高名な師に学べるというのは春海の羨望《せんぼう》をかきたてた。とともに、村瀬自身がどれほど算術の達者であるかが分かるというものだった。「うん。で、百川さんに勧められて、磯村さんに会いに江戸に来たんだが、あの人ときたら塾を俺に任せて、さっさと二本松に行っちまった。年にふた月くらいしか教えてくれん」「それは、村瀬さんが、あんまり上手に塾をまとめてしまうからです。かえって自分がいない方が弟子が増えると、磯村様が仰《おっしゃ》っておりましたもの」 えんがそう言いながら、くすくす笑った。 初めて春海の前で見せた笑顔である。自分に向かってではないが、春海はふいに胸を衝かれるような、奇妙に虚脱したような感じを受け、危うくお碗を落としかけた。「だから父にも、荒木を継いでくれなどと言われるのです」 春海は一瞬、二人が夫婦《めおと》になることを想像したが、「いつか、ぼろが出て言われなくなるさ。お前も、道楽者の兄など嫌だと言い始める」 村瀬は涼しげにかわしている。つまり荒木家の養子になれということである。 えんからすれば既に義兄のような存在らしく、笑い方に屈託がない。春海を振り返り、「この人が嫌がっているのは、自由に女の人たちと遊べなくなることなんですよ、どうせ」「はあ……」 野暮天の見本のような春海の返答である。「そう言うこいつは、縁談を蹴《け》り飛ばしたせいで、神社などに行かせられている。三人の姉はみな良縁に恵まれたというのにな」「村瀬さん!」 たちまちえんが沸騰した。 春海はぽかんとなって、「神社……?」 あの金王八幡宮だと分かったが、行かせられているというのが分からなかった。 気に入らない縁談の相手を、えんが箒で追っ払うさまも想像できた。とはいえ武家の子に、縁談を断ったりできるわけがない。親と親が家格で判断するものであるのだが、「私ではありません。先方の都合が悪く……」「えんは、武家が大嫌いでな。すごいぞ。さんざんに罵《ののし》ったそうだ」「違います!」 春海は意味が分からず、「武家が嫌いなのですか?」「嫌いというのではありません。ただ、多くの武家は、むやみとそろばんを馬鹿にし、不勉強で、だから貧乏で、とても将来がないと思うだけです」 とんでもない大批判である。現実を言い当てている分、容赦がない。これはとても、よそに行儀見習いになど通わせられない。だから神社か。なんだか納得した。しかし神社で学べることなどたかが知れている。親でもないのに、この娘の将来は大丈夫だろうかと思った。「じゃあ……どんな武家なら良いんだい?」 思わず訊いた。えんは淀《よど》みなく答えている。「札差しを見習うべきです」 春海は唖然《あぜん》となった。札差しとは、いわば給与計算の代理人である。旗本や御家人たちは給料として米をもらい、さらに米を換金する。米は隅田川沿いの蔵前という、幕府の米蔵の集積地に赴いて受け取る。その際に支払手形を蔵役所に提出する。札差しは、支払手形を預かり、米の受け取りや売却、換金の雑務を全て引き受けることで手数料をもらう。 と同時に、将来の支払手形を担保に、金を貸す。武士には金勘定が嫌いな者が大勢いた。賤《いや》しい行いだと思っているのである。給与のときも偉そうに札差しに任せっぱなしで、お前たちに仕事をくれてやっているのだという横柄な態度を取る。そしてそういう者ほど、いつしか札差しからの前借りがかさみ、利子を返済するだけで精一杯、とんでもない借金まみれとなって身を持ち崩すのだった。 そのため、ますます札差しを賤しい者と看倣す武士も出てくる。札差しのせいで武家が貶《おとし》められると嘆く者もいる。そんな札差しを評価する武家の娘というのは初めて聞いた。算術の塾が家の庭にあるという、特殊な環境のせいだろうかと思った。「では……えんさんは、札差しに嫁入りしたいのですか?」「いいえ。あの人たちは、逆に、お金の勘定以外に向学心がありませんから」 即座に断定した。けっこう注文が厳しいのだなと春海は変に感心した。「まあ、関さんは札差しには向いてないな。あの人は、ちょっと特別だ」 食い終わった村瀬が、やたらと洒落た動作で楊枝《ようじ》をくわえながら言った。「関さんは関係ありませんッ」 えんが赤くなったのと、いきなりその名が出たことの両方に、春海は驚いた。「関さんが……札差し?」「関係ないと言ってるでしょうッ」「えんの趣味もちょっと変わってる」 村瀬が意味深長な笑みを向けて来る。だが春海はただ、やっと当初の目的に立ち戻れたとしか思わない。慌てて残りの飯をかき込んでから、改めて姿勢正しくお願いした。「その、関殿について、お教えいただけないでしょうか」「塾で学ぶ方ではありません。勝手に教えて、あの人のご迷惑となると困ります」 えんが素っ気なく拒む一方、「もしそれで、関さんが塾に寄りつかなくなると、淋《さび》しいからな」 にやりと村瀬が笑った。「そういうことではありませんッ」 春海はひたすら真面目に頭を下げている。「決して、塾にもその方にもご迷惑はおかけしません。なにとぞ、なにとぞお願いします」「まあ、俺もえんも、知っているというほど知ってはいないよ」 村瀬は出がらしに近い茶を三人のお碗に注ぐと、箸を自分のお碗につけ、筆代わりに、『関|孝和《ただかず》』 と、お膳《ぜん》に名を書いた。「孝行の孝に、和合の和。それが名だ」 目を見開いた。ようやく知ることが出来た名だった。神妙になって頭の中でその名を繰り返した。想像した通りの聡明で誠実そうな名だ、などと本人の顔も知らないまま思った。「ただ、塾じゃ、〝解答さんなんて呼ばれてる」「〝解答さん……?」

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