[山田风太郎] 甲贺忍法帖-6

「左衛門が夜叉丸どのの仇とあれば、何者に化けようとわたしは見破らずにはおかぬ……」 ふと、蛍火の念鬼の腕をつかんでいた手がかたくなった。戦慄が、全身をはしった。彼女は、相手の腕にあるべきあの凄じい毛のないことに気がついたのだ。 突如、彼女はうしろへはねとんだ。間髪をいれず、つつと相手は身をよせて、「見破るか、蛍火、如月左衛門を――」 のけぞりつつ、蛍火の両腕があがって、印をむすぼうとした。が、その白い双腕は、びゅっと横になぎはらわれた白刃に切断されて、印をむすんだ松葉型のまま宙にとんだ。「如月左衛門!」 驚愕のさけびが、蛍火の最期の声であった。「人別帖から消されるのは、念鬼とうぬの名だっ」 その声は、蛍火の耳にはもうきこえなかった。横にないだ刃は、反転して彼女の胸をふかぶかと刺していたからである。 闇の底にうす白いしぶきをあげて谷川へおちていった蛍火を如月左衛門は岩に片足をかけて見おろしていたが、やがて惨とした声でひくくつぶやいた。「女を殺しとうはないが……この念鬼の姿で、おれの妹お胡夷《こい》も殺された。……蛍火、忍者の争いは修羅の地獄じゃと思え」 その足に、谷底から舞いあがってきた白い蝶が、二匹、三匹、弱々しく、幽界の花びらのようにまといついて、いつまでもはなれなかった。血に染む霞  【一】 雨ははれたが、桑名《くわな》の海は灰色であった。すこし荒れている。 船ぎらいの人の多かった時代で、船場に待つ客はまばらだったせいか、そこの茶屋の葦簀《よしず》のかげに待っている五人の男女が、人目をひいた。男三人、女二人――その男のうち、ひとりはあたまを白布で覆い、口だけみえるもの恐ろしい姿だし、女のうち、ひとりはそこに灯がともってみえるほど美しいのに、よくみると、盲目なのである。 いうまでもなく、伊賀鍔隠《つばがく》れの面々、薬師寺天膳、雨夜《あまよ》陣五郎、それから面部に重傷を受けた筑摩小四郎と朱絹《あけぎぬ》、そして盲目の朧《おぼろ》だ。みな、顔色が暗かった。「七里も海をわたるのか」 と、雨夜陣五郎が、赤い大鳥居のむこうにみえる海を見て、つぶやいた。 客は少ないが、荷は多い。宮《みや》(いまの熱田《あつた》)まで荷をはこぶのに、船に越すものはないからだ。無数の艀《はしけ》が、大小さまざまの荷や、長持や駕籠《か ご》や馬までのせて、沖に待つ五十三人乗りの大船にはこんでいる。「まだだいぶ波がたかいではないか。佐屋廻《さやまわ》りの方がいいのではないか」 と、また陰気にいった。佐屋廻りは陸路だ。が、これとて木曾川をわたらなければならないうえに、行程が遠まわりになるし、なんといっても陸路だから、七里の海上をいっきに宮へわたる方がはやい。 しかし、雨夜陣五郎は、船よりも海がこわいのであった。彼の体質のせいである。 なめくじはなぜ塩にとけるか。それは塩による浸透作用のために、なめくじの水分が外界へ出るからである。ふつう生物には細胞膜があって、この現象を制限しているが、いかに高等動物でもそれには限度がある。ふつうの人間でも長時間塩漬にされておれば、相当体液は塩に吸収されるだろう。そして体液の浸透圧はやく八気圧だが、海水は二十八気圧で、きわめてたかい。塩によって縮《ちぢ》む雨夜陣五郎は、その体質がすこぶる浸透性にとんでいるということで、あらゆる忍者がそうであるように、彼の独自の武器は、同時に彼の弱点なのであった。「何を他愛もないだだをこねておる。海を泳いでゆくわけではない。船でわたるのじゃ」 と、薬師寺天膳は苦々《にがにが》しげにいった。「甲賀組は陸路をいったらしいが、それを追うていてはまにあわぬ。にわか盲ふたりをかかえておってはな」 そのために、伊賀の加太《かぶと》を越える手前の山中に一夜降りこめられた。朧さまと小四郎がいなければ、忍者にとってあれくらいの風雨の山路はなんでもないことなのである。 甲賀一党はどこまで行ったか。さっきこの船場でききだしたが、たしかに彼らがここから船にのった気配はない。――陸路をまわったとすれば、船で追いつけるとは思うが、それにつけても天膳の心をかきむしるのは、甲賀組と同様に、簔念鬼と蛍火の消息もぷっつりきれたことだ。 ――おそらく、甲賀のためにしてやられた! いまは、そうかんがえるよりほかはない。ただ甲賀一党の居場所をつきとめろといっておいたのに、きゃつらは無謀に襲って返討ちにあったに相違ない。 ――たわけが! 天膳の歯が、怒りにきしりなった。念鬼と蛍火が討たれたとすると、残る味方はわずかに五人、これは敵と同数だが、そのうち二人はにわか盲で、しかも筑摩小四郎はただ復讐欲だけで同行しているような手負いであり、朧さまに甲賀弦之介とたたかう気力があるかどうかは、きわめてうたがわしい。 朧は坐《すわ》って、じっとうなだれていた。その肩に一羽の鷹がとまっている。お幻婆の使者となったあの鷹である。 朧がかんがえているのは、甲賀弦之介のことであった。 弦之介と不倶戴天《ふぐたいてん》の縁《えにし》にかえったのはかなしい。こうして旅をしていて、それがなんのための旅か、わけがわからなくなるほどだ。ただ天膳にひきたてられ、ひきずられ、あやつり人形のようにあるいているだけである。どうしてこんなことになったのか。駿府の大御所さまや服部どのは、なぜいまになって争忍《そうにん》の禁をといたのか? しかし、朧の胸をまっくらにするのは、そんな外部的な運命の嵐より、あの怒りにみちた弦之介の果し状であった。「なんじらいまだ七人の名をのこす。駿府城城門にいたるまで、甲賀の五人、伊賀の七人、忍法死争の旅たるもまた快ならずや」――弦之介さまは、わたしもまたハッキリと敵のうちに指を折っておいでなさるのだ。 また彼が鍔隠れを去るときに、じぶんに一顧《いつこ》をもあたえず、冷然と背をみせたことを思い出す。――弦之介さまがお怒りなされたのもあたりまえだ。弦之介さまがわたしとあのたのしい語らいをかわしているあいだに、鍔隠れの者どもは、卍谷の人々をあいついで討ち果していたのだ。わたしはそれを知らなかった。けれどどうして、それを信じてもらえよう。弦之介さまは、最初からわたしが罠《わな》にかけたとお思いなされたにちがいない。またそう思うのに、なんのむりがあろう。この鷹があの巻物をくわえて土岐《とき》峠にとんできたとき、わざと弦之介さまからかくして、陣五郎が「伊賀甲賀の和解はまったくなった」といつわった。あのとき、あれ以後――わたしがそれを知らないで弦之介さまを鍔隠れの谷へ案内し、もてなしていたと、だれが信じよう。 恐ろしい女、むごい女、にくむべき女――弦之介さまは、わたしをきっとそう思っておいでなさる。ああ、そうではなかったことだけは、弦之介さまに知ってもらわねば! わたしが旅に出たのは、そのためだけだ。そして―― たとえ、そのことを弦之介さまに知っていただいたとしても、もはや、こうまで血のひびのはいった縁《えにし》は、この世でふたたびつなぐよしもあるまい。けれど、あの世では――そうだ、わたしはあの世で、弦之介さまを待っていよう。わびのしるしに、あの方の刃に斬られて。 朧は、弦之介が彼女の血で消してゆくあの巻物の中のおのれの名を、ウットリと夢みた。蒼《あお》ざめた頬に、はじめて淡い笑いがとおりすぎた。 その笑いを、いぶかしげな横目でにらんだ薬師寺天膳は、「おおおい、船が出るよう。乗る人は、はやく乗って下されよう」 という海からの呼び声に、一同をうながして立ちあがった。  【二】 船にのりこんだとき、何やら思案していた薬師寺天膳が、朱絹に妙なことをささやいた。「朱絹、そなた、雨夜と艫《とも》の間《ま》の方へいってくれ。わしは朧さまと胴の間にゆく。そしてな、筑摩に話して、あれにそのあいだに坐って、ほかの客をこちらに入れぬようにしてくれといってくれい。なに、口はきかいでも、あれが坐っておれば、それだけできみわるがってだれも来まいよ」「それはようございますが、どうしてでございます」「宮につけば、ただちに甲賀組とぶつかるやもしれぬ。それなのに、朧さまの様子、何となく心もとない。――この海をわたるあいだ、朧さまの心をたしかめ、何としてでもその性根《しようね》をすえてもらわねばならぬ」 朱絹はうなずいた。同感である。しかし彼女は、どうして天膳がじぶんたちを遠ざけたのか、まだよく理解できなかった。 まだ波のたかいせいか、乗合客がみな艫《とも》の間に坐れるほどの人数だったのがしあわせであった。二十人ばかりである。そのうち女が五人、子供が三人、老人が二人、あとの連中も町人ばかりだ。そのかわり、積みこまれた荷が多く、ちょっと往来《ゆきき》にも苦労するほどだ。その細い通路に、筑摩小四郎が坐っていた。 だれか、来かかると、「こっちに来てはならぬ」 と、しゃがれた声でいう。――その口がみえるだけで、あとはノッペラボウに頭部をつつんだ白布に、斑々《はんぱん》とどす黒い血痕《けつこん》がしみついて、ひからびているのをみると、天膳がニヤリとしていったように、だれだってぎょっとして、あわててひきかえしてしまう。 帆がまきあげられて、船は出た。 風になる帆のはためき、檣《ほばしら》のおと、潮騒《しおさい》のひびきのほかに、人の気配もないのに気づいて、胴の間にひっそりと坐っていた朧がふしんそうにきいた。「朱絹、陣五郎、小四郎はどこ」 薬師寺天膳はだまって、朧の顔を見ていた。――彼は、これほど真正面から、まじまじと彼女をなめまわすように見たことはない。主筋という遠慮もある。彼女の瞳のまばゆさに対するおそれもある。しかし、いまやお幻婆さまは死に、彼女の破幻の瞳はとじられた。 ふかい影をおとす睫毛《まつげ》、愛くるしい小鼻、やわらかな薔薇色《ばらいろ》の唇の曲線、白くくくれた顎《あご》――むろん、世にもまれな美少女だということは知っていたが、いままで天使か王女でもみるように眺めていたのに、ひとたび男がある思いを抱いて見れば、なんとそのすべてが、食べてやりたいほどふくよかな甘美な魅惑をたたえていることだろう。 ふっと、そのきれいな顔に、不安の影がさした。「天膳」「朱絹たちは、艫の間の方におります」 と、天膳はしわがれた声でこたえた。「なぜ、ここにこないの」「拙者から、あなたにぜひ申しあげたいことがござれば」「何を?」「朧さま、あなたは甲賀弦之介とはたたかえぬと申されたな。いまでも、やはりその心でござるか」「天膳、たたかおうにも、わたしは盲じゃ」「目は、やがてあきます。七夜の盲のうち、すでに、二夜を経た。あと五夜たてば――」 朧はうなだれた。ややあって言った。「――その五日のあいだに、わたしは弦之介さまに斬られよう」 薬師寺天膳は、憎悪《ぞうお》にもえる目で朧を見すえた。斬られようとは不安にみちた予感ではない、あきらかに、みずから欲する意志の告白であった。「案《あん》の定《じよう》、まださようなことを仰せあるか、……やむをえぬ」 その異様な決意のこもった声に朧は盲目の顔をあげて、「天膳、わたしを殺すかえ」「殺さぬ。……生かすのだ。いのちの精《せい》をそそぎこむのです、伊賀の精をな」「え、伊賀の精を――」 天膳は、朧のそばにいざり寄っていた。白い手をつかんで、「朧さま、拙者の女房になりなされ」「たわけ」 朧は手をふりはらったが、天膳の腕が蛇のように胴にからんだ。声まで耳にねばりついて、「それしか、あなたに甲賀弦之介を思いきらせる法はない。きゃつを敵と覚悟させる手段はない。……」「お放し、天膳! お婆さまが見ておられるぞ!」 天膳のからだが、反射的にかたくなった。お幻婆さま、それこそ彼を支配する唯一の人であったのだ。まだ主従の道徳を確立していないこのころにあって、命令者と被命令者のあいだに鉄血の規律がうちたてられていたのは、忍者一族の世界だけだったといってよい。――しかし、天膳はすぐにあざ笑った。「惜しや、お婆さまは死なれた! お婆さまが生きておられたら、かならずわしとおなじことを言われたに相違ない! やわか甲賀と祝言《しゆうげん》せよとは申されまい。じゃが、お婆さまの血は残さねばならぬ。お前さまの血は伝えねばならぬ。そのお前さまの夫はどこにおる? お婆さまがえらばれた六人の伊賀の男のほかにだれがおろうか。そのうちもはや三人は死んだ。のこったわし、陣五郎、小四郎のなかで、それではお前さまはだれをえらばれるのか」「だれも、イヤじゃ! 天膳、わたしを斬れ」「斬らぬ、伊賀が勝ったと万人にみとめさせるためには、伊賀忍法の旗たるあなたが生きていて下さらねばならぬのだ。考えてみればそもそもの最初から、甲賀弦之介と祝言あげようなど思い立ったのが狂気の沙汰だ。こんどの卍谷一族との争忍の血風も、これを怒る鍔隠れの父祖の霊のまき起こされたものかもしれぬ。わしとお前さまを結びつけるための――」 天膳の片手は、朧の肩に鎖のごとくまきつき、片手は無遠慮にそのふところにねじこまれていた。かぐわしい珠《たま》のような乳房をつかんでいるその目は、すでに主従をこえた雄獣の目であった。「朱絹、陣五郎!」 朧はさけんだ。彼女の瞳は、まぶたのうらで、怒りと恐怖にくらんでいた。なんたる家来か。人もあろうに、天膳がこのようなふるまいに出ようとは――弦之介さまさえこんな無礼なまねはされなかったものを!「朱絹も、陣五郎も艫の間じゃ。おう、乳房が熱うなってきたではないか。女の心をとらえるには、むかしからいかな忍法も、そのからだを抱くにはおよばぬ――」 天膳は朧を潮くさい羽目板におしつけ、口を朧の唇におしつけようとした。「小四郎!」「だまりなされ、みんなこのことは承知のうえじゃ!」 雨夜陣五郎も朱絹も帆の音と潮のひびきにさまたげられて、このことは知らなかったが、胴の間の入口ちかくに坐っていた筑摩小四郎は、朧の悲叫をきいていた。頭いちめん、厚い布につつまれていても、その叫びは彼の鼓膜《こまく》にやけつくようであった。 ――なんたることをなさるのだ! 彼は驚愕してたとうとしたが、すぐに坐った。天膳の行為は、恐ろしいことだがやむをえないことだと認めざるをえない。それに小四郎は、天膳子飼いの従僕でもあった。ただひとつ無事に残ったこの口が、たとえ裂けようと主にそむくことはできぬ! が、その口が、無意識に布のあいだでねじれて、ぶきみにとがった。 ――けれど、朧さまを! 朧さまも主だ。いや、鍔隠れ一族の主だ。天膳さまが朧さまと夫婦におなりなさることは望むところだが、しかし、あのような無惨《むざん》なふるまいをなされてまで! 小四郎のこぶしがふるえ、唇がなった。シューッとあの裂くような危険な音が空になって、すぐ頭上にふくらんでいる帆のすそにぱっときれめが走った。「小四郎!」 そのかなしげな叫びをきいたとき、彼はついに虫みたいにはねあがった。「天膳さま、なりませぬ!」 彼は死をもってしても朧さまを救わねばならぬという衝動につきあげられたのだ。若い小四郎にとって、朧さまは、たとえ天膳であろうと汚《けが》してはならぬ聖なる姫君であった。「朧さま!」 無我夢中で、彼はよろめきつつ、胴の間《ま》にかけこんでいった。 そのとき、胴の間では、はたと物音がたえた。小四郎は心臓を鷲づかみにされたような思いがして立ちすくんだ。おそかったか。何が起こったのか? 朧をねじふせようとしていた薬師寺天膳は、ふいにうごきを凍結《とうけつ》されていた。その息がとまり、顔面が黒紫色にふくれあがった。――そのくびに、ぎりっとまきついた一本の腕がある。朧の腕ではない。船の羽目板の色そっくりの褐色のふとい腕だ。 天膳の鼻から、血がタラタラとしたたりおち、目が完全に白くなり、頸動脈《けいどうみやく》が脈搏《みやくはく》を停止したのをたしかめてから、その腕は解かれた。そして、小四郎がかけこんでいったのは、ちょうどその奇怪な腕が、音もなく羽目板に消えていったせつなであった。しかもその羽目板には、ほかになんの影も異常もないのだ。ただ腕が水面から沈むように、すうっと吸いこまれていっただけであった。「朧さま!」「小四郎!」 と、ふたりはやっと呼びかわした。一方は盲目、一方は顔を布で覆ったふたりは、いまの魔のような腕を目撃することはできなかった。 はじめて朧は、じぶんのからだの上におもくかさなってきた天膳がうごかなくなり、その肌がみるみる冷えてくるのに気がついて、さけび声をたてて身を起こした。みだれた姿をつくろうのも忘れて、「あっ、天膳が死んだのではないか!」「天膳さまが?」「小四郎……おまえがわたしを助けてくれたのかえ?」「天膳さまが、お死になされた?」 小四郎は愕然とはしり寄って、天膳のからだにつまずいてたおれると、それにしがみついて、「朧さまがおやりなされたのでござりますか!」 とあたまをあげた。 朧はボンヤリと坐っている。その白い肩もむき出しになったほそい首へ、そのときうしろから、またにゅっとあの褐色の腕が浮かび出して、ソロソロと湾曲《わんきよく》してゆくのを、彼女は知らず、筑摩小四郎も見ることは不可能であった。  【三】 伊勢湾には夕霞《ゆうがすみ》がおりて、船のひく水脈《み お》のはてに朱盆《しゆぼん》のように浮かんだ落日の妖異で豪華な美しさは、艫の間に坐った人々の心を恍惚《こうこつ》とさせた。 七里の海をわたっているあいだに、はじめ高かった波も凪《な》ぎ、いやいやながらのりこんだ乗合客たちも、船旅の平安と、このすばらしい光景をながめることができたのを口々に感謝したのである。 ただ一つ、彼らの心をみだすものがあった。一羽の鷹だ。 艫の間に坐ったひとりの妖艶な女のこぶしにとまった鷹なのだ。鷹狩というものは知っているが、若い女がそれをつれて旅をしているのは珍しい。――だれか、上方弁で、なれなれしく話しかけたものがあったが、女は返辞もしなかった。そう思ってみれば、肌は蝋のように蒼白く、どことなくうすきみわるい感じがある。それに女よりも、そばについている男の何というぶきみさ――皮膚はジンメリとぬれて、青黴《あおかび》がはえているようで、なんとなく水死人を思わせる。それで、だれもがふたりから目をそらし、置きざりにし、はては海の景観にのみ心を奪われてしまったが、ただその鷹だけがさっきからしきりにバタバタと羽ばたきして、舞いあがったり、あたりを飛びまわったりするのが、人々を不安がらせた。 朱絹と雨夜陣五郎だ。鷹は、船へのりうつるとき、天膳から命じられて、朧から朱絹があずかったままの鷹であった。「陣五郎どの。何やらこれがさわぐが、何ぞあちらに変わったことでも起きたのではあるまいか」 と、朱絹が、胴の間の方をあごでさして言った。ここからは、荷にさえぎられて、胴の間の入口も、筑摩小四郎の姿も見えない。「何が?」 と、うわの空の声でこたえつつ、陣五郎はしきりにくびをふっていた。「陣五郎どの、何をなされておる」「十九人……」 と、陣五郎はつぶやいた。「十九人?」「十九人しかおらぬ……」「えっ?」 雨夜陣五郎は、はじめてわれにかえった。「朱絹どの、客はわれらのほかに、二十人乗っておったな?」「そういえば、あの笠をかぶった男がみえぬではないか」 と、朱絹が見まわしてさけんだ。 最初のりこんだ船客のうちに、垂巾笠《たれぎぬがさ》の男がひとりいた。これはむかしの虫の垂巾に模《も》した笠で、菅笠《すげがさ》のまわりに茜木綿《あかねもめん》をたれまわしたもので、よく物貰《ものもら》いなどがかぶっている。その男は、背に大きな瘤《こぶ》があった。せむしなのだ。だから、それを恥じて顔をかくしているのだろうと思っていたが、いまみると、せむしの姿も垂巾笠の影も、忽然と消滅しているのである。 陣五郎は立ちあがった。そしてあわててそこらの荷のあいだをのぞいてまわったが、突然、「やっ?」 と、大声をあげた。「ここに、笠だけ残っておる!」 荷のかげに残っているのは、笠だけではなかった。あの男の着ていた衣類もぬぎのこされていた。そして大きな鞠《まり》のような襤褸《ぼ ろ》づつみと――しかし、男の姿は見えなかった。彼ははだかになって、どこへいったのか。海へ?「いや!」 と、陣五郎はさけんで、胴の間の方へはしり出した。顔色をかえて、朱絹もそのあとを追った。 雨夜陣五郎と朱絹が胴の間へかけこんだのは、あたかも朧のくびに、あの怪奇な一本の腕がソロソロとまきつこうとしているときであった。突然やや暗いところへはいったので、さすがのふたりが、さっときえた腕を見ることができなかった。「おおっ、天膳どのは!」「天膳さまは、どうなされてじゃ?」 これに対して、朧と小四郎が説明するのにすこしひまがかかった。薬師寺天膳が、突如絶命したことはいま知ったばかりであり、ふたりにもとっさにわけがわからなかったからだ。「きゃつか!」 朱絹が天膳にとりすがっているあいだに、陣五郎が何を思いついたか、ふいに狂気のごとく抜刀して、周囲を見まわした。しかし、どこにも妖しい影は全く見えない。彼は恐怖に緊張しきった表情で、いきなり四面の板壁に刀身で筋をひいて走った。何ごとも起こらなかった。 陣五郎は胴の間から出た。 このとき、彼はそこの舷《ふなばた》のそばに置いてある長持のかげから、何やらかすかな笑い声がきこえたような気がして、ツカツカとよった。その刀身をもった手くびをいきなりグイとつかまれたのである。同時に横から頸《くび》にぎゅっとからみついたもう一本の腕があった。二本のまっ黒な腕は、黒い長持の側面から生《は》え出していた。「あっ、朱絹っ」 それが、雨夜陣五郎ののどから発した最期の叫びであった。走り出してくる足音をきくや否や、腕はいきなり陣五郎を舷へつきとばした。 彼は恐ろしい悲鳴をあげて、海面へおちていった。 かけ出してきた朱絹は、舷のふちから見おろして立ちすくんだ。いまの叫びをきいて、船子たちもかけつけてきた。何もしらず、ひとり海へとびこもうとしたが、舷に手をかけて、「わっ」とさけんだ。「ありゃなんだ?」「あのひとは――」 陣五郎が悲鳴をあげたのは、じぶんをつきとばした腕よりも、落下よりも、海そのものであったろう。蒼《あお》い波のなかで、彼はもがいていた。が、もがくたびに、襟、袖のあたりから何やら粘液のようなものがながれ出し、水にひろがり、みるみる彼のからだが小さくなってゆく。――それはこの世のものならぬ魔液に溶かされる人間のような恐ろしい光景であった。 朱絹はいきなり帯をといた。きものをぬいだ。人目を恥じるいとまもなく、落日に乳房をさらして、海へ裸身をおどらせようとした。 すぐ背後で、名状しがたい驚愕の絶叫がきこえたのはそのときだ。 それは、長持から出た。長持の中からではない。その表面から声が出て、同時にそこに奇妙な皺《しわ》が波うちはじめたのだ。そして、それがひとりのはだかの入道の輪郭《りんかく》を浮かびあがらせたのをみて、船頭たちは目をとび出させた。「霞刑部《かすみぎようぶ》!」 ふりかえって、とびのいて、朱絹はさけんだ。 まさにそれは霞刑部であった。しかし彼は朱絹を見ず、胴の間の入口をかっとにらみつけていた。 そこに立っているのは、薬師寺天膳であった。刑部が滅形の秘術に破綻《はたん》を起こすほど驚愕したのもむりはない。天膳は、さっき彼がまちがいなく絞殺し、その鼻孔から血をたらし、心臓が完全に停止したのをたしかめた人間だから。「刑部、さすがじゃ」 天膳の紫いろの唇が、鎌みたいにニンマリとつりあがって、スラリと刀身をぬきはらうと、風のようにはせつけてきた。 霞刑部の驚愕の顔が、次のせつな、笑顔になった。と、その姿がすうっと寒天《かんてん》みたいに透明になったかと思うと、ふたたび長持の塗《ぬり》へ妖々《ようよう》と沈みかかる。―― そのとき、朱絹がさけんだ。「八幡《はちまん》、のがさぬぞ、刑部っ」 同時に、その乳房から、みぞおちから、腹から、ぱあっとまっ赤な霧が湧き立った。その肌の毛穴から噴出する幾千万かの血の滴《しずく》であった。 一瞬に血の霧は霽《は》れたが、真紅《しんく》にぬれた長持の表面にうごくものはなかった。 が、そこから二、三メートルもはなれた位置の船板の壁に、赤い人のかたちが巨大な紅《べに》蜘蛛《ぐ も》のごとくながれた。天膳が宙をとんで、その胸にあたる部分に刀をつきたてた。 うめきはあがらなかったが、その赤い人型は大きく痙攣《けいれん》し、次第に弱くなり、やがて静止した。刀がひきぬかれ、板にあいた穴から、かぎりもなく細い血の滝がほとばしりおちた。 船子たちは半失神《はんしつしん》の目でこの夢幻《むげん》の地獄図を見ていた。もとより彼らの理解を絶してはいたが、全身にあびせかけられた血潮のために、霞刑部の滅形は不可能となったのである。 薬師寺天膳と朱絹は、ふりむいて、船の遠くひく水脈《み お》をながめていた。水脈のみひかり、海はすでに蒼茫《そうぼう》と暗い。ただ西の果てに残光が赤くのこっているが、もはや雨夜陣五郎の影もなかった。 薬師寺天膳は、ふところからあの忍者の人別帖をとり出した。そして、血をたらす船板のそばへあゆみよって、指で血をぬぐいとり、甲賀の霞刑部の名を抹消《まつしよう》した。 それから――しばらく考えて、陰鬱《いんうつ》な顔で、伊賀の「雨夜陣五郎」「簔念鬼」「蛍火」の名に朱のすじをひいて、ひくくうめいた。「敵味方、手持の駒は四枚と四枚か。――」 ――宮に上陸しても、駿府まで四十四里、指おり数える薬師寺天膳の顔をゆるやかによぎる凄然《せいぜん》たる微笑は、四十四里に四つずつの生命を賭《か》けて、そもだれが生きのこるという勘定か。それも、生きのこった味方のうち、盲目のふたりをひッかかえて、なおこの死闘を忍者将棋《しようぎ》に見たてる彼の自信はただごとでない。魅殺の陽炎(みさつのかげろう)  【一】 宮《みや》から東へ一里半で鳴海《なるみ》、それからまた二里三十町で池鯉鮒《ちりゆう》だが、そのあいだに「さかい橋」という橋がある。この橋を境に、東海道は尾張から三河にはいる。 そのさかい橋のたもとに、妙なものが立てかけてあった。旅人はそのまえに立ちどまり、首をひねり、そして何となくぞっと悪寒《おかん》のようなものをおぼえて、にげるように離れるのであった。 一枚の大きな板なのである。あちこちと虫のくったあとのみえる、古い、しかし頑丈《がんじよう》な板だが、その表面にいちめん赤黒いものがぬたくりつけてある。人々は、「なんだろう?」といぶかしみ、しばらく判断に絶するが、そのうちふっと血の匂いをかぎ、そしてそれが人間のかたちをしていることに気がついて、なんともいえないもの恐ろしさに襲われてにげ出すのであった。 春の日がややかたむきかかったころ、そこを通りかかった四人の旅人が、これを見て釘づけになった。三人の武士と一人の女だが、武士のうち二人は、苧屑《からむし》頭巾《ずきん》をかぶっている。「…………」「…………」 ほかの旅人とちがい、彼らは凝然と、いつまでもそこをはなれなかった。 ややあって、彼らはその板をとりはずし、眉目清秀《びもくせいしゆう》な武士がそれを背に負うと、街道をそれて、川に沿ってしばらくあるいた。そのあいだに、女はときどきかがんで花をつんだ。 板はしずかに水面におろされた。女はそれに花をのせた。板は音もなく流れ去る。 古来この国には、灯籠《とうろう》に精霊《しようりよう》をのせてながす美しい行事があるが、これはあまりにもぶきみな灯籠流し。「刑部、敵は討つぞ。南無《なむ》。――」 苧屑頭巾の中で、沈痛なうめきがきこえた。「けれど、あれが、ここにあったということは」 と、女が板のゆくえを見送りながらつぶやいた。「あれは船板じゃ、刑部は船中で殺されたものとみえる。――敵ながら、あっぱれじゃ」「そして、敵は、あれをわれわれに見せつけて挑戦しておる」 と、苧屑頭巾の中でひとりが歯をかむと、もうひとりの頭巾が、「伊賀者めらが、どこかでわれわれを見張っておるな」 といった。 若い武士が頭をめぐらして、周囲を見まわした。――これは、甲賀弦之介だ。ふしぎなことに、その目は燦《さん》とかがやいている。七夜盲《ななよめくら》の秘薬で目をふさがれて、あの夜をいれて三夜《や》しかへないのに。 甲賀弦之介の草を薙《な》ぐ刃のような目から、あわててぴたと土堤《どて》のかげに身を伏せた二つの影がある。あやうく視線からはのがれたが、一瞬、さっと毛が逆立つような思いだ。 ふたたび、街道へもどってゆく四人を見おくって、「やはり、わしたちの方が先まわりしたようだな」 と、薬師寺天膳はつぶやいた。「それで、天膳どの、これから――?」 と、顔をあげたのは朱絹だ。「敵は四人、こちらは四人とはいえ、ふたりは盲――」「なに、駿府までまだ四十里ある。はやることはない。――朱絹、それより、敵のうちにも盲がひとりいるのじゃ。室賀豹馬という」 彼らは、甲賀弦之介が関で蛍火のために盲目にされたことは知らなかった。いや、げんに目のあいた弦之介を見たのだから、それは問題外である。「では、あの苧屑頭巾の」「うむ。もうひとりは如月左衛門であろう。とにかく、まずその盲の豹馬からしとめよう。今夜きゃつらはどこにとまるか。池鯉鮒《ちりゆう》か、いやこの分では岡崎まで足をのばすかもしれぬ。いずれにせよ、今夜のうちに、豹馬だけは討つ。そこでじゃ、朧さまじゃが」 盲目の朧と筑摩小四郎は、池鯉鮒の旅籠に泊めてあった。「あれは、心身ともに足手まとい、弦之介らを見つけ出したことは、いましばらく黙っていたい。そなた今夜はそしらぬ顔で朧さまといっしょにいてくれ」「あなたは?」「わしは小四郎をつれて、きゃつらを追う。小四郎もだいぶ元気になったようじゃ。ふたりで甲賀組を襲撃する」「大丈夫でございますか」 薬師寺天膳は、じっと朱絹を見つめ、女のように柔らかに笑った。「わしがか?」「いいえ、小四郎どのが」 と、こたえて、朱絹の蒼白《あおじろ》い頬が、かすかにそまった。伊賀を出て、手負いの小四郎をいたわりつつ旅するあいだに、この女の心に小四郎に対して一種の感情がきざしたようだ。「朱絹、道行《みちゆき》の旅ではないぞ。討つか、討たれるか、命をかけた旅だ。たわけめ」「はい!」「とはいえ、鍔隠れを出れば、よう知ったはずの男や女が、特別にみえるな」 と、ニヤリとした。「ふむ、朱絹、首尾よう甲賀方をみな殺しにしたら、二組の祝言をあげようかい」  【二】 はたせるかな、甲賀の一行は、そのまま池鯉鮒を通過した。その足で、岡崎までゆくつもりとみえる。――が、日はすでに沈んだ。 池鯉鮒の東に駒場というところがある。そのむかし、このあたりに蜘蛛《く も》手《で》かがりにながれる川があって、橋が八つあったから八つ橋といい、杜若《かきつばた》の名所で、業平《なりひら》がその杜若の五文字を句のかしらにすえて、「から衣着《ごろもき》つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞおもふ」と詠《よ》んだのはここだと伝えられるが、いまはその川も埋《うず》まり、いちめん、茫々《ぼうぼう》の原野だ。 だから、毎年四月二十五日から五月五日にかけて、ここで有名な馬市がたつ。四、五百頭の馬や伯楽《ばくろう》、馬買い商人が雲集して、いななきとセリ売りのさけびと砂塵《さじん》を天にあげるのだが、ちょうどその馬市も終わったころだろう。街道の左右は、見わたすかぎり草の波ばかりで、その波の果てに、糸みたいな月がのぼってきた。 一本道を風のようにあるいてきた甲賀の四人は、ふいに頭上に、異様な羽ばたきの音をきいて、顔をあげた。「あっ、あれは」 と、思わずさけんだのは、甲賀弦之介だ。 それは一羽の鷹であった。なんで忘れよう、それこそは甲賀伊賀死闘の宣戦の布告状を抱いて、土岐峠に飛来したあの鷹ではなかったか。しかも、見よ、その鷹の足につかんでいるのは、あのときとおなじ、なかばひらかれた巻物ではなかったか!「なんじゃ?」 と、苧屑《からむし》頭巾のなかで、室賀豹馬がきいた。盲目だから、見えなかったのだ。「鷹が、あの秘巻をつかんで――」 と、いうよりはやく、東へとび去るその鳥影を追って、たたと弦之介がかけ出した。陽炎もこれを追う。巻物が、草すれすれにひるがえりつつ遠ざかってゆくのに、思わず誘惑されたのである。「あ、待て――」 と、豹馬が呼んだが、その声は及ばなかった。――と、もうひとりの苧屑頭巾はだまって、そばの石に腰をおろした。室賀豹馬はならんで、寂然《じやくねん》とたたずむ。 草のなかから、靄《もや》みたいに一つの影が浮き出した。音もなくちかづいてきたのは、薬師寺天膳のノッペリした顔だ。それが、ふたりの苧屑頭巾を恐れるもののごとく、あやしむもののごとく目をすえている。 鷹と秘巻の餌《えさ》で、目あきの三人は誘い出せるとみたが、ふたりがのこったので、彼にとって少々手はずが狂った。しかし、恐るべき甲賀弦之介だけはたしかにかけ去った。のこるは室賀豹馬と如月左衛門のみ。――立っているのが豹馬だとは声でわかったが、だまって坐っている左衛門のようすがすこしいぶかしい。 その苧屑頭巾が顔をあげて言った。「薬師寺天膳か」 声をきいて、愕然、とびさすった天膳が、頭巾のなかからうすい月光にさらされた顔をみて、「甲賀弦之介、やはり盲となっていたか!」 と、さけんだ。 一瞬に、天膳は了解した。さっきかけ去った甲賀弦之介は、あれは如月左衛門だったのだ。声はおろか、何人《なんぴと》の顔にも化ける左衛門とは知っていたが、まさか味方の弦之介に変形《へんぎよう》しているとは思わなかった。それも弦之介が盲となったことをあざむくために相違ない。それでは弦之介はどうして盲となったのか。いうまでもなく、蛍火と簑念鬼の襲撃が成功し、七夜盲《ななよめくら》の秘薬のために目をふさがれたのだ。「ふふふふふふ」 思わず笑いがこみあげた。笑ったのは、恐るべき弦之介の目がつぶれたのを知ったからばかりではない。それを知らず、いままで苦心惨澹《さんたん》をしていたじぶんがおかしかったのだ。「なんじゃ、ふたりとも盲か? それではせっかくのさかいの橋の見世物が見えなんだであろう。それは、いらざる手数をかけたものじゃ」「霞刑部のことか、心眼で見えた。よう見せてくれた。礼をいう」「これも心眼でみえるか!」 銀の針のような一閃《いつせん》が、眼前に立つ苧屑頭巾を拝み打ちにした。室賀豹馬は、まるで目がみえるように二、三歩さがったが、頭巾は縦にふたつに切れて、学者のような顔があらわれた。目はとじられたままである。刀に手もかけず、抵抗のようすもないのが、かえって天膳の背に異様な冷気をはしらせた。「甲賀弦之介!」 思わず声がかんばしって、「うぬだけは最後まで生かして、甲賀一党の全滅と、わしと朧さまとの祝言を見せつけてから討ちはたそうと思っていたが、はからずも天運のきわまるときが来た。おのれから、まずさきに死ね」「それは惜しい」 石に腰をかけたまま、にっと盲目の弦之介は笑う。「そなたと朧の祝言を見られぬとは――そなたがさきに死ぬからじゃ」「なんだと!」「それだけはみえる。わしにも、豹馬にも」 弦之介めがけて一刀をふりおろそうとした天膳は、思わずはっとして室賀豹馬をふりかえった。 ふたつに裂けた頭巾のあいだから、室賀豹馬は天膳を見ていた。その目は開き、金色の光が放射された。「豹馬、うぬは!」 刃を反転させようとして、天膳の腕が奇怪なかたちにねじれた。ねじれたのは腕ばかりではない、女のような天膳の顔の全筋肉が、驚愕と恐怖にひきつれつつ、しかも刃はおのれの肩へあてられて、いっきに引き切っていたのだ。血しぶきをあげて、彼は横へ五、六歩あるき、草のなかへのめり伏した。 豹馬はふたたび目をとじていた。弦之介は石に座したままである。――と草の波をかきわけて、そのとき陽炎と甲賀弦之介が――いや、弦之介に変形した如月左衛門がかけもどってきた。すこし、あわてている。「あっ、御無事でございましたか!」 と陽炎は大きなためいきをつく。左衛門も肩で息をついて、「いや、鷹のとびよう、あまりに人をくっているゆえ、思わずつられてこの草原を泳ぎまわらせられ、突然気がついてかけもどってきた次第です。しかし何の変事もなかったのは重畳《ちようじよう》――」 といいかけて、路上にあぶらのようにちったものに気がついて、息をのんだ。豹馬が微笑して、「薬師寺天膳めがあらわれた」「まっ、それで?」「わしが殺して、死骸《しがい》はそこらの草むらにたおれこんだはず」 如月左衛門が血を踏んで草むらの中へかけこむのを、陽炎も追おうとしたとき、弦之介がきいた。「陽炎、鷹はとらえたか」「それが、あの鷹は、草にひそむ何ものかにあやつられているとみえ――」「鷹はとらえたかと申すのだ」 陽炎は、むしろふきげんな弦之介の顔をちらっと見た。そして彼の心を領しているのが、朧のことだと直感した。こうなっても、弦之介さまは、朧のことを気づかっていなさるのだ。鷹をつかっていたのが朧ではなかったか、朧をどうしたかと、それが不安なのだと見てとった。「のがしました」 気のせいか、弦之介の眉がかすかにあかるくなったようなのに、唇をゆがめて、「左衛門どのが小柄《こづか》をなげて、鷹が巻物をおとし、それを拾うているあいだに、ゆくえもしれずになりました。けれど、伊賀組の面々は、きっとこの草原のどこかにひそんでいるにちがいありませぬ」 殺気の燐光《りんこう》がその牡丹《ぼたん》のような姿をふちどったのは、弦之介にみえぬ。せきこんで、「なに、人別帖はひろったか。それを見せい」 と、いって、すぐに、「いや、見てくれい」 と、いいなおして、立ちあがった。陽炎は巻物をひらいて、ほそい月に透かした。「刑部どのの名が消されております」「ふむ」「伊賀組は――おお、簑念鬼、蛍火のほかに、雨夜陣五郎の名が――」「なに、雨夜陣五郎が? してみると、刑部めのはたらきじゃな」「のこるは甲賀組四人、伊賀組もまた四人。――」「いや、三人じゃ」 と、如月左衛門が声をかけて、すでに息のない薬師寺天膳の頸に、小柄を横に根もとまで刺しとおした。「弦之介さま、鍔隠れとのたたかいは、どうやら勝ったようでございますな」「まだわからぬわ」 弦之介のひたいを、暗然たるものがかすめる。「いや、この薬師寺天膳と申すやつ、何となし一番うすきみわるい奴でござった。いかなる術者かと、実は恐ろしゅうござったが存外他愛のない奴――ましてや、のこる三人のうち、ふたりは女、さらに筑摩小四郎はたとえ同行しておるとしても、お幻屋敷で弦之介さまに割られた顔は、まだ目もひらくまい。――」 そして、何思ったか、血みどろの天膳のからだを小わきにかかえて、ぬっと立ちあがった。「陽炎、弦之介さまと豹馬といっしょに、さきに岡崎へいってくれい」「左衛門どのは?」「わしは少々この死人に用がある」 ニヤリと笑った。「のこる敵は、いま申した三人じゃ。たとえそれがあらわれようと、何ができよう。朧さまの目はこわいが、こっちにも豹馬の目がある。ところで、豹馬には、朧さまの目は見えぬのだ! こう考えれば、朧さまを相手とするかぎり、豹馬はむしろ弦之介さまよりつよい! ただ、朱絹の血の霧のみは気をつけい。――」 陽炎も、にっとした。憂《うれ》わしげに立つ甲賀弦之介の袖をひいて、「されば、まいりましょう、弦之介さま」 むしろ、いさんでさきに立つ。 東へ去る三人の影が月光にうすれるのに、背をかえして如月左衛門は薬師寺天膳のからだをひッかかえたまま、草の中をあゆみ出した。 むかし八つ橋をかけたなごりの水脈が、なおところどころこの駒場野に隠顕《いんけん》しているのであろうか。さっきからどこかでかすかなせせらぎの音がきこえていた。左衛門はそれをもとめてあるき出したのだ。 その小さな水流を見つけ出すと、彼は死骸をそばに横たえ、ながれのほとりの泥と水をうやうやしくこねあわせ出した。いうまでもなく、如月左衛門変形の神秘な儀式がはじめられたのである。――  【三】「おおおおおい」 月影くらい野末から、遠く呼ぶ声がきこえていた。街道をあるいてきた陽炎と弦之介と豹馬は足をとめた。「男の声でござるな」「左衛門ではない」 声は、草をわたってちかづいた。「おおおい、天膳さま。――」 三人、凝然と立っている路上のむこうに、フラフラとひとつの影があらわれた。 その影は、実に妖異なものであった。第一に、その肩に鳥の影をのせている。第二は、片手に刃わたり一メートルはあろうかと思われる大鎌をさげている。第三に、くびから上は鼻口をのぞき、ぜんぶ白布でグルグル巻きにしているのだ。 筑摩小四郎である。彼は草にひそみ、縦横にうごいて、空の鷹をつかい、甲賀組を翻弄《ほんろう》した。そのあいだに、天膳が室賀豹馬を討つ。――そのことについては、彼は天膳を信じていた。彼は天膳子飼いの忍者である。自分じしんのことについては、もとより死を決している。ただ、その口あるかぎり、すくなくとも敵の一人はたおして死んでみせるという自信があった。 それが、じぶんはついに発見されないですんだ。肩にもどってきた鷹の足に巻物がなかったところをみると、敵はそれを手に入れただけで満足して、ひきかえしたものとみえる。それでは天膳さまはどうしたか? 不安にたまりかねて、小四郎はついに草むらからさまよい出た。甲賀組がまだこの駒場野にいるかもしれぬというおそれは百も承知だ。天膳が豹馬を討ったにせよ、討たれたにせよ、彼の義務と復讐欲は、ひとりでも多く甲賀組をたおすことのみにある。――その無謀ともいうべき戦意こそおそるべし。 ただ、その声は悲痛であった。「どこにござるか。天膳さま――」 さっと鷹がその肩から舞いあがったとき、待ちかまえる甲賀の三人とは十メートルの間隔があった。陽炎が、いまそこで折りとった葉桜の一枝を捨てようとした。――「甲賀者か!」 小四郎の口がさけんだ。同時にとがった。 ぱっと甲賀弦之介の苧屑頭巾が裂けて、屑が散った。「危い!」絶叫して、とっさにまえをかばった陽炎の葉桜が、ざっと旋風にうたれたように狂い飛ぶ。一瞬に三人は、街道の両側の草のなかへ身を伏せていた。 強烈な吸息《きゆうそく》によって、虚空《こくう》に旋風と真空をつくる。――この筑摩小四郎の秘術は健在であったのだ。それがいかに恐怖すべきものであるかは、伊賀一党の卍谷襲撃の際、甲賀者たちがことごとく顔面を柘榴《ざくろ》のように裂かれたのを目撃したとおりだ。 が、陽炎がつつと身を起こして、草を横にまわった。小四郎は大鎌をふりかぶってかまえている。その姿勢がだれもいない路上にむけられているのと、満面を覆う白布で、彼の目がみえないことを見破ったのである。 懐剣《かいけん》が月光をはねかえしたとたん、鷹が両者のあいだを飛んだ。「こっちか!」 わめくと小四郎の大鎌が、ながれ星のようにのびて薙《な》いできた。とびのいて、あおむけにたおれた陽炎の頭上に覆いかぶさる草の穂が、空中の真空にふれてはじけ散った。 鷹は三人の頭上をめぐって、すさまじい羽根の音をたてた。その音をたよりに、キーンと裂け目がはしったように大気がなる。三人は草の中をころがって避けた。ああ、これはなんたることか、盲目、しかも手負いの一忍者に、これほど窮地に追いつめられようとは!「陽炎――弦之介さまを!」 弦之介を全身で覆っていた陽炎は、室賀豹馬の声を聞いた。顔をあげると、豹馬は路上におどり出て、手をふっている。にげろというのだ。もう一方の手には白刃をひっさげていた。 弦之介をかばいつつ、もと来た道を後退する陽炎を鷹がとびめぐる。その羽ばたきを追おうとする筑摩小四郎のうしろから、「伊賀猿! 待てっ」 と、豹馬は呼んだ。小四郎はふりかえった。「うぬの名は何という?」「室賀豹馬」 こたえたときは、豹馬は身を沈めてはしり寄っている。背後に、いま答えた位置の空気が、キーンとはじけた。 思えば、これは両人とも盲ではなかったか。盲人同士のたたかいも、忍者なればこそだ。しかし、豹馬の盲目は生来《せいらい》のものだけに、その行動ははるかに正確敏捷《びんしよう》であった。拝み打ちになぐりつける一刀を、小四郎はあやうく受けたが、鎌の刃《は》で受けずに、柄《つか》で受けた。 両手のあいだで、柄はふたつに切れた。あと一髪の差で、小四郎は梨《なし》割りになっていたろう、しかし、彼は大きくとびずさった。 追いつめようとして、豹馬は釘づけになった。小四郎の口がとがるのを感じたからだ。それは恐るべき一瞬間であり、豹馬は身をかわす姿勢にはなかった。「見ろ、小四郎!」 つぶれた声でうめき、ひらいた両眼から、金色の矢がほとばしり出た。 しかし、室賀豹馬は、このときすでに次におこる運命を知っていたのではなかろうか。おそらく左衛門と別れた際ゆくてに筑摩小四郎が待っているかもしれぬと考えたにせよ、そのときは想像もしなかったろうが、いまここに遭遇して死闘を開始したときには、ある一事に気がついて、愕然としていたことと思われる。――すなわち、小四郎もまた盲目であるということに。 あるいは、その目で小四郎の姿を見ることができない豹馬であったから、すこし勘ちがいしていたかもしれない。いずれにせよ。――もし相手が朧であるならば、朧の目をみることができないで、しかもおのれの目から死光を発する豹馬の方が、完全に目をふさがれた弦之介よりもつよいはずと左衛門はいった。同様に、顔を白布でまいた筑摩小四郎は、かえってその死光の威力の埒外《らちがい》に置かれたのだ。豹馬が「見よ、小四郎」とはさけんだものの、小四郎には見えないのだ。もし小四郎の目がみえたならば、お幻屋敷で弦之介に敗北したときとおなじ運命が再現したであろうに、いま小四郎は盲目なるがゆえに、豹馬の猫眼《びようがん》を無効とする。――致命の傷が九死に一生をまもる武器となる忍者の決闘の変幻ぶりは、勝つものも敗れるものも、その一せつなにさしかからなければ端倪《たんげい》をゆるさない。 硬直した室賀豹馬の眼前で、ぱっと空気がはためいた。豹馬の顔は一塊《いつかい》の肉《にく》柘榴《ざくろ》となり、よろめいて、一刀を大地につきたて、それにすがったまま彼は絶命した。  【四】 室賀豹馬の行動が、弦之介と陽炎をすくうためであったとするならば、彼は本望だったかもしれないが、しかし彼は甲賀卍谷の重鎮であった。それにくらべて、筑摩小四郎は、伊賀鍔隠れの谷で、薬師寺天膳につかわれる小者にすぎない。いわば足軽だ。将領《しようりよう》が雑兵《ぞうひよう》に討たれるのも、あるいはたたかいの常であろうが、やはり惨ここにきわまる運命というよりほかはない。―― しかし、筑摩小四郎の方は、してやったりという様子もない。いや、顔じゅう布だらけだから、その表情もわからない。ただ、次の獲物を狙って猛鳥のように反転した。 そのとき、遠く女の声がきこえた。「小四郎、小四郎どのう」「や?」 声とどうじに足音がはしってきた。

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