【三】 が。―― 信楽から土岐峠へかけのぼってゆく伊賀五人組は、満身朱にそまっていた。返り血ばかりではない。念鬼の棒は折れ、蝋斎の足にはきれた鎖がからみついていたし、薬師寺天膳の片頬にはふかい刀傷が彫《ほ》られている。 勝ったとはいえない。めざす甲賀方の選手はひとりも斃《たお》せず、あまつさえこちらの敵対行動を完全にさらけ出してしまったのだ。むしろ惨澹《さんたん》たる敗走といっていい。「こうなれば、弦之介めを一刻もはやく討ち果さねば」 と、念鬼はうめいた。 みんな歯をかんでうなずいたが、天膳だけはだまっていた。天膳の沈黙は、いかにそのことが容易でないかをしめすものであった。 ただすさまじい目で峠のうえをあおいだ天膳が、このとき、「お……あれは」 とさけんで、立ちどまり、「ふむ、甲賀のお胡夷と申す娘だな」 そして、すばやく左右を見まわして、「よし、みんなかくれろ。あれをひッとらえて、鍔隠れの谷へさらうのだ」 と命じた。 さっと五匹の猟犬のように灌木のしげみにかくれた影を知らず、上からひとりの娘がおりてきた。 大柄で、肉感的で、すばらしい体だ。目が大きく、燦々《さんさん》とかがやき、遠くからでも花粉のような体臭が匂った。陰暗たる曇り空のせいか、真ッ白に浮かびあがった肢体《したい》のゆたかさに、ごくっと簔念鬼がのどを鳴らしたとき、彼女はふっと足をとどめた。如月左衛門の妹、お胡夷だ。 ふいにぱっと牝豹《めひよう》のごとくとび立とうとするお胡夷のまえに、薬師寺天膳と簔念鬼と蛍火があらわれた。二、三歩もどると、うしろに道をふさいでいる小豆蝋斎と筑摩小四郎。「存じておる。卍谷のお胡夷どの」 と、薬師寺天膳はやさしく笑った。「お察しのごとく伊賀ものだが、おそれることはない。もはや伊賀と甲賀が敵ではないことは知っておろうな。げんに、甲賀弦之介さまも鍔隠れの谷にお泊りなのじゃ」 それは知っているが、それにしてもこの五人の血まみれの姿がいぶかしいと、真ッ黒な目を見張る娘に、「いや、これか。実はその弦之介さまのお申しつけで、いましがた卍谷へ、室賀どの、霞《かすみ》どのらを迎えにいったところが、何をかんちがいしたか、いやさんざんな目におうて、かくのごときていたらくだ」 昂然《こうぜん》とつッ立ったまま、お胡夷はにっと笑った。「しかし、このままむなしくかえっても、弦之介さまや朧さまにあわす顔がない。そなたひとりでもまいってくれぬか」「弦之介さまは御無事か」 やっとお胡夷はいった。「御無事? 無事でなくてなんとしよう。何をばかなことをうたがっておる。よしまたわれらが害意をもったとて、それであの弦之介さまをどうすることもなるものか」 お胡夷は、また笑った。童女のごとくあどけない得意の笑顔だ。「それは、そうじゃ」「万一御無事でないと思うなら、おぬし、いよいよもってようすをみに伊賀へきてもよかろうが」「天膳さま」 と、筑摩小四郎が、足ずりをして呼んだ。背後からの追跡も気が気でないし、また、この小娘ひとりさらうのに、なんの七面倒なかけひきがいろうか、いやいや、このお胡夷もまたあの秘巻に消すべき名のひとつではないか――とうながす目であった。 その危険な目を、お胡夷の注視からからだでへだてて、天膳はにこやかにむきなおり、「ささ、まいろう」「いや、卍谷の衆にきいてくる」 というなり、お胡夷は大地を蹴った。と、その豊艶な肉体が、まるで風鳥みたいに宙をとんだ。まえの三人の頭上をかるがるととびこえたのである。「しゃあっ」 そんなさけびを簔念鬼はあげた。「おれにまかせろ!」 と、吼《ほ》えると、彼は疾駆《しつく》して追った。その長髪が風に巻き立った。 にげながら、お胡夷はふりかえった。どうじに、うしろざまに、流星のごとく数条のひかりがはしった。どこにかくしもっていたか、四、五本の小柄《こづか》をいちどに投げたのだ。「わあっ」 念鬼はさけんだ。それは悲鳴ではなく、お胡夷をもういちどふりむかせるための絶叫であった。 お胡夷は見た。いまなげた四、五本の小柄が、すべて念鬼の髪の毛にまきつけられて受けとめられているのを。――その髪は蔓《つる》のごとく空に立ち、小柄を魔王の冠《かんむり》のようにきらめかしつつ支えていた。 簔念鬼の髪は生きている。髪そのものに自律の神経がかよっているのだ! おそらく彼は、この髪を樹々や柱や棟にまきつかせて敵地へ潜入することも可能であろう。すなわち念鬼は四肢のみならず、数万本の手足をもっているにひとしいといえる。 恐怖のために、お胡夷の足がもつれた。いや、それよりもその足のあいだに、折れたままの棒がとんできた方がはやかった。 白椿《しろつばき》をちらしてどうとつんのめるお胡夷に念鬼がとびかかった。汗にむれる肌をおさえつけた念鬼の笑いには、狂暴な欲情と殺気が波うっていた。「待て、殺すな、念鬼!」 と追ってきた薬師寺天膳がさけんだ。「その娘にききたいことがある」「何を、いまさら――」「待て、それに弦之介を討つための囮《おとり》にもなろう」 地に身もだえして泣きむせんでいるお胡夷の肢体を、天膳は冷やかに見おろしてつぶやいた。「人別帖から、名を消すのはそのあとでよいわ」 雨が、松林を鳴らしつつわたってきた。 【四】 暗澹《あんたん》たる空から、雨はもとよりここにも蕭々《しようしよう》とおちはじめていた。卍谷の地をながれる雨水は赤い。 甲賀一党が、血ぶるいして武装したことはいうまでもなかった。なんたることか、奇襲とはいえ、事前に伊賀者の潜入を知りながら、一瞬の間に十数人を屠《ほふ》られ、しかも敵のことごとくをのがしてしまったのだ! そもそも天正伊賀の乱以来、甲賀伊賀には、血判を印した起請文《きしようもん》が、それぞれ鎮守《ちんじゆ》の守護神におさめてある。その誓いのもっとも重大なものは、「一、他国他郡より乱入の族これあらば、表裏なく一味仕《つかまつ》り妨げ申すべきこと」「一、郡内の者、他国他郡の人数をひきいれ、自他の跡のぞむ輩《やから》これあらば、親子兄弟といえども、総郡同心成敗《せいばい》仕り候《そうろう》べきこと」 などの条々にある。世にこれを「甲賀連判」ないし「伊賀連判」というが、彼らは実に、この忍者の砦《とりで》をまもる聖なる連判状を、傍若無人《ぼうじやくぶじん》にひきさかれたにひとしい辱《はずかし》めをうけたのである。 一大叫喚《きようかん》をあげて、伊賀へ押し出そうとする甲賀者たちを、「待て」 あやうくおさえたのは、室賀豹馬であった。 かみつくような無数の目を盲目の顔でむかえて、豹馬の吐いた言葉は彼らを慄然《りつぜん》とさせてしまった。「はやまるな。鍔隠れの谷には、弦之介さまがおられるのだぞ」 その一語は、彼らを金しばりにするに足りた。―― 急遽《きゆうきよ》、最高幹部の会議がひらかれた。すべては、それを待つことになった。 そもそも、この襲撃はなんのためか。甲賀伊賀のあいだに何が起こったのか? 伊賀にはいった弦之介の運命は? 軒にしぶく雨は、評定の座に蒼白いひかりをそそぎ、さすがものに動ぜぬ甲賀忍法の古強者《ふるつわもの》たちの呼吸も切迫していた。 この場合に、むしろ冷然とおちつきはらって、まず口をきいたのは室賀豹馬である。「さっき一同をおさえたのもそれだが、敵をのがした以上、鍔隠れを逆襲したとて、かえって袋のねずみであろう。少なくとも、わが方のなかばは生きてかえれぬと覚悟せねばならぬ」「それを恐れて、弦之介さまを見殺しにいたすのか!」 と、老人が白いひげをふりたてていった。豹馬はちょっとだまって、それから微笑の顔をむけて、「わしは弦之介さまを信じる、やわか弦之介さまが、やすやすと伊賀者どもに討たれなさるとは思わぬ。……丈助もついておることじゃ」「しかし」「あいや、もとより弦之介さまを捨て殺しにしてなろうか。ゆく。必ず安否をうかがいにはまいるが、そのまえにたしかめねばならぬことがある。それは、和睦の日がせまっておるというに、なにゆえ伊賀者たちがけさここを襲ってきたかということじゃ」「その和睦をきらうものどもの仕事ではないか。それなら、われらの方にも、あの服部家の禁制さえなくば、伊賀を襲いたがっておるものもたんとおるが」「それじゃ。――その服部家の禁制が解けたのではあるまいか」「なにっ」「地虫十兵衛の星占いが気にかかる。駿府の弾正さまが気にかかる。――刑部」「うむ」 と毛なし入道が寒天色の顔をむけた。「先刻、おぬしは壁のなかで、薬師寺天膳の不審な言葉をきいたと申したな」「おお――不意討ちとて、たやすうは思うなよ。風待将監ひとりすらあれほど骨をおらせたではないか――と」「それだ。将監は駿府にいったと申すに、解せぬ! きゃつらは北からきた。東海道からきた。ううむ、おそらく――」「豹馬、なんだ」「将監は、ここに何らかの飛報をたずさえてかえる途中、東海道できゃつらに討たれたのではないか。伊賀者のけさの襲撃の秘密はそこにあるのではないか!」 霞刑部がすっくと立ちあがった。「よし、わしが東海道へまいってみよう」 同時に如月左衛門も忍者刀を腰にさしこんだ。「刑部、おれもゆこう」 【五】 雨の東海道を、伊賀の夜叉丸《やしやまる》がはしってきた。 ちょうど、風待将監に一日おくれた。いちど東海道を途中までかけてきて、お幻から託された秘巻を失っていることに気づき、愕然として駿府までとってかえしたため、また駿府でお幻の行方《ゆくえ》をさがしまわったためだ。それはついにわからず、やむをえずふたたび伊賀へむかってとび出したが、そのあいだの狼狽、苦悩のため、その美しい頬はゲッソリとけずられて、いまや白面の阿修羅《あしゆら》のような形相であった。 いまにして、あの人別帖は、弾正か将監にすり盗《と》られたものと思う、こうしてじぶんが右往左往しているあいだに、将監はおなじものを甲賀へとどけているであろう。それによって卍谷のものどもが、いちはやく行動を開始したならば! あの選手名簿の中に、恋人蛍火の名があったと思うと、総身の血がひくのをおぼえる。朧さまの運命に想到《そうとう》すると、心臓を鷲づかみにされたようだ。 怒りと焦燥の火薬をいだく一個の弾丸と化した夜叉丸が、関宿のはずれをかけぬけようとしたとき――どこかで、「おおおい」と呼んだものがある。 いちど気づかず、なおはしって、「――おおおい、夜叉丸。――」 ふたたび、そう呼ぶ声をきいて、夜叉丸は、はたと立ちどまった。 きのう、薬師寺天膳と地虫十兵衛が怪奇な決闘を展開したのはこのちかくの藪の中だが、夜叉丸はもとよりそんなことを知らぬ。ただ彼は、いまの声にききおぼえがあった。「天膳どのではないか」 と、彼はさけんで、まわりを見まわした。 しかし、あたりにそれらしい影はない。一方は古寺らしい土塀、一方は石垣だ。それにはさまれた往来には、ただ銀いろの雨がななめにしぶいているばかり。――しばらくむこうはだまりこんでいたが、やがて、「――おお、いかにも薬師寺天膳だ」 と、陰々たる返辞があった。たしかに天膳の声にまちがいはない。「天膳どの、どこにおられる?」「――わけあって、いましばらく姿を見せられぬが、夜叉丸、なんの用があって駿府からもどってきたか」「一大事でござる」 と、息せききっていいかけて、夜叉丸は口ごもった。おのれの失態を、なんと告げてよいやらわからない。「それより、天膳どの、姿を見せられぬとは」 声をひそめて、「もしや、あなたは、殺されたのではありませぬか?」 なんたる奇怪な問いだろう。しかも夜叉丸は、あやしむようすもなく、雨の中にひとり立って、「死人《しびと》」にたずねる。「あなたを殺したのは、あの甲賀の風待将監ではありませぬか?」「――おお」 あいまいなうめき声が、かすかにうなずいて、「――いかにも、わしは、風待将監に殺された。――」「ああ、やっぱり。申しわけござらぬ。おれともあろうものが、弾正めにたばかられ、あの人別帖をうばわれたばかりに――もっとも、殺されたものがあなたでようござったが、ほかの衆にはまだ別状がございませぬか?」 天膳の声に、かすかなおどろきのひびきがあった。「――夜叉丸、人別帖とはなんだ」「天膳どの、このたび駿府の大御所の命により、服部家との約定は解かれました!」「なにっ、さては!」 声が変わった。どうじに夜叉丸は、はじかれたようにとびのいた。「あっ、天膳どのではないな、何やつだっ?」 はじめて彼は、じぶんの対話していた相手が、天膳の声をまねていたことに気がついたのである。 土塀の甍《いらか》の向こう側にへばりついていた影がさっと立つと、瓦《かわら》を鳴らして風のようにむこうへにげた。夜叉丸の腰が、独楽《こ ま》みたいにまわった。黒い閃光のごとくピューッと縄がはしって、すでに十メートルも彼方へにげていた影にからみつき、影は苦鳴をあげて路上におちた。「たばかったなっ?」 夜叉丸は襲いかかって、影をおさえつけた。全身が怒りに痙攣《けいれん》している。あまりにもみごとな声帯模写《もしや》にだまされて、うかと大秘事をうちあけかけたことを思うと、こころから戦慄《せんりつ》せざるを得ない。「甲賀者か?」 相手は胴にまきついた縄のいたみに声も出ないようすであった。「名を申せ、いわぬか!」 夜叉丸は、天膳とちがって卍谷の面々をすべて知っているわけではなかった。顔をぐいとねじまわしたが、はたして見たおぼえもない。縄をギューッとひきしめると、それがどれほどすさまじい苦悶をあたえたか、「き、き、如月、左衛門……」 と、相手はきしられるような声でこたえた。 夜叉丸の美しい形相が、思わず笑みくずれた。如月左衛門、その名はたしかに秘巻のなかにあった! はからずも、この失意の帰途、このうえもない手《て》土産《みやげ》をひろったわけである。これで、おれの顔もすこしは立った! と、スラリと山刀をぬき放った手も歓喜にふるえて、「左衛門、まいちど黒縄《こくじよう》地獄に堕《お》ちよ!」 ふりかぶった刃をつきとおそうとしたこぶしが、このとき宙で何者かにつかまれた。 夜叉丸はもとより伊賀忍法の精鋭だ。縄術だけが能ではない。その目、その耳、その皮膚が、どうして背後にしのびよるものの気配を感づかぬことがあろうか。まさしく彼は、この決闘のあいだ、往還に余人の影をみとめなかったのである。それにもかかわらず、何者かが、すぐうしろから、夜叉丸の腕をぐっととらえた。 ふりかえるいとまはなかった。もう一方の腕が、彼のくびにまきついた。その腕は、土塀とおなじ色をして、にゅっと土塀の壁からつき出していた! 声もあげず、伊賀の夜叉丸は絞め殺されていた。 如月左衛門とおりかさなってくずおれた夜叉丸の背を、銀の雨がたたく。雨以外に物音はない。雨以外にうごく影もない。 いや――そうではなかった。壁から生えた二本の腕を中心に、古い壁になにやらうごめいている。まるで、巨大な、透明な、ひらべったい水母《くらげ》のようなものがのびちぢみしている。――それがしだいに壁面にもりあがってきて、そこにはだかの人間らしいかたちが、朦朧と浮き出してきた。寒天色の皮膚をした、毛の一本もない大入道の姿が。―― 霞刑部はうす笑いして夜叉丸の死骸を見おろして立っていた。すでに彼は完全に壁から分離している。卍谷で、小豆蝋斎の胆《きも》をひしいだ玄妙きわまる隠形《おんぎよう》の術がこれであった。 彼は、如月左衛門のうえから夜叉丸をひきずりおとすと、その手ににぎったままの山刀でとどめを刺した。なまあたたかい血がとんで、気絶していた左衛門は目をあけた。「あぶなかったな」 と苦笑する。「おどろいたあまり、思わず薬師寺の声を忘れた」 ややはなれた塀のかげにぬぎすててあった衣服を刑部がつけるあいだ、如月左衛門は嘆息して、恐るべき夜叉丸の縄をとりあげて見ていた。「殺したくはなかった。窮命《きゆうめい》したかったが、やむをえなんだ」 と、もどってきた霞刑部がいった。風待将監をもとめて東奔《とうほん》する途中、はからずも西走する夜叉丸の姿を見かけていっぱいはめようとしたが、おしいところで失敗したのである。「窮命して白状をする相手でもなかろう」「じゃが容易ならぬことを口走ったぞ。駿府の大御所の命により、服部家との約定が解かれた、と。――」「豹馬の申したとおりだ! それから、人別帖云々とはなんのことだ?」 ふたりはいかにも心残りしたように、じっと夜叉丸の死体を見おろした。 だが、そのことの重大さに、ふたりはこのとき、もうひとつ夜叉丸が口走った奇怪な一句を思いおこすいとまがなかった。また、思い起こしたとて、さすがの彼らもその判断を絶していたであろう。それは「天膳どの、もしやあなたは殺されたのではありませぬか?」という言葉だ。 ああ、もしもその意味を知ったなら、のちにこの如月左衛門の名に、不吉な赤い血のすじがひかれることはまぬかれたであろうに。―― しかし、このとき刑部と左衛門の目は、きっと西の山脈の彼方へなげられた。「鍔隠れへゆかねばならぬ」 どうじにうめいた。「かくと事が判明したうえは、一刻もはやく弦之介さまの安否をたしかめにまいらねばならぬ!」 如月左衛門はかがみこんだ。そして、雨にぬかるむ地上に手をさしのべて、妙なことをやりはじめた。土をもりあげ、泥をかきよせ、そのうえを注意ぶかく、きれいにならしたのである。それから彼は、夜叉丸のあたまをもちあげて、しずかにその泥に顔をうずめた。 すぐに死体をはねのけると、泥のうえに面型がのこった。その面型は実に小皺《こじわ》まつげまでひとすじずつ印された精妙なものであったが、如月左衛門はそのまえにひざまずいて、おのれの顔を、じっとその泥の死仮面《デスマスク》におしつけたのである。―― 数分すぎた。そのあいだに霞刑部は、夜叉丸の衣服をはぎとり、はだかの死体をかついでどこかへはこび去った。 刑部が手ぶらでもどってきたとき、左衛門はなお泥のなかにひれふしていた。それは印度の苦行僧の神秘な儀式のような姿であった。 さらに数分すぎた。如月左衛門はしずかに顔をあげた。――その顔はまさしく夜叉丸の顔であった!「よかろう」 と、その顔を見まもって、刑部はニタリとした。左衛門のこのおどろくべきメーキャップぶりはすでに知ってはいても、さすがにその目に賛嘆の色がある。「甲賀に告げるいとまもないが」 と、すばやく夜叉丸の衣服をつけながら、如月左衛門は笑った。「しかし、鍔隠れの谷にはいり、弦之介さまを救い出すことのできるものは、甲賀一党、人多しといえども、まずおぬしとおれをおいてはあるまいて」 黒縄を腰につけて、すッくと立ったその若々しい姿、さくらいろの頬、かがやく黒瞳、剽悍《ひようかん》きわまる高笑いは、すべてこれ伊賀の夜叉丸であった。人肌地獄 【一】 ぎぎっ……と、重い土戸《つちど》があいた。 扉のすきまから、ちらとのぞいた外界には、もうひかりがある。夜明け前であったが、ふりしきる雨がひかりをやどしていた。 が、はいってきた人間は、片手に松明《たいまつ》をにぎっていた。うしろ手に土戸をしめると、ふたたび闇と化した土蔵の中に、その人間の白髪をうかびあがらせた。小豆《あずき》蝋斎《ろうさい》である。「娘」 と、しゃがれた声で呼んだ。 床に伏していたお胡夷《こい》は、顔をあげた。きのうの朝、土岐峠から、手どり足どりさらわれてきたときの抵抗の姿そのままに、黒髪はみだれ、大柄なからだは肌もあらわであった。 蝋斎はあるいてきて、土蔵のなかばをしめる俵のあいだに松明をさしこみ、俵のひとつに腰をかけた。俵といっても米ではない。ところどころ藁《わら》がやぶれてこぼれている白いものをみてもわかるように、これは塩蔵なのである。松明をうけて、老人のおちくぼんだ眼窩《がんか》のおくで、目が血いろにひかった。囚人がはたちにみたぬ少女なのも、その肌があらわであることも、まったく念頭にないらしく冷酷で峻厳《しゆんげん》な目であった。「ふびんではあるが、おまえの返答のしようでは、生きてここを出ることはかなわぬぞ。生命がおしくば、素直に申すがよい」 といって、ふところから一巻の巻物をとり出した。「よいか、卍谷に室賀豹馬という盲人がおる。豹馬の忍法は?」「…………」「陽炎と申す女の業は?」 巻物をじっと見てゆきながら、蝋斎はきいた。 まえに薬師寺天膳も、おなじことを地虫十兵衛にきいて、ついにその返答をえなかったことだが、これこそ伊賀組の至大至重《しだいしじゆう》の関心事にはちがいない。いうまでもなく、それを知ることによってのみ彼らを斃《たお》す秘鍵となり、それを知らなければ、逆に、いつ、転瞬《てんしゆん》のまに彼らに討たれる羽目《はめ》におちいるかもしれないのだから。「それから、如月左衛門の顔は? 若いのか、老人か、黒いのか、白いのか? ――」 お胡夷の唇が、にっとかすかに笑った。如月左衛門は彼女の兄だからだ。「言え!」「わたしが、それをいうとお思いか?」 と、お胡夷の笑いはきえなかった。 忍法はすべてフィルムに印せられた陰画のごときものだ。天日のもとにさらせば、その効果をうしなう。だから、これを闇黒の秘密のなかにたもつために、忍者がいかに厳粛な掟《おきて》をまもったか。――余人に他言せぬはもとより、親子兄弟でもみだりにさずけるものではない。服部半蔵あらわすところの「忍秘伝」にも、「これ大秘事にして、骨髄《こつずい》の道理ありて人の腹心に納《い》るるの極秘也《なり》」とあるくらいだ。ましてや、甲賀者が甲賀一党の忍法を伊賀者に白状などすることが、たとえ天地が裂けようともあり得ようか。 が、蝋斎は冷然として、「そして、おまえの術を知りたい」「…………」「娘、言わせずにはおかぬぞ。見ろ」 彼は坐《すわ》ったまま、片腕をうしろに回転させた。――と、何の刃物ももたぬその掌《て》が、それほどの速度でもないのに、そこの俵にふれると同時に、スッと刃物で切ったように切れたのである。どーっとあふれ出した塩をみて、お胡夷は目をいっぱいにみひらいた。刃物で切るのを見たよりは、数倍のものすごさだ。「どうじゃ、まずおまえの耳をそごうか。それから、片腕を、乳房を……」 お胡夷は目をつむって、両腕をついてしまった。まっ白な肩の肉が、ふるえている。蝋斎ははじめてかすかに笑って立ちあがり、その肩をつかんだ。 つかんだのではない。叩《たた》こうとしたのである。そして、また何かをいおうとしたのだが、「……!」 ふいにその顔が、驚愕にひきつった。肩にあてた掌がはなれなかったのだ。 さすがの小豆蝋斎が、もう一方の手から巻物をとりおとし、あわててお胡夷のもう一方の肩をつかんだのが不覚であった。つっぱって、ひきはなそうとしたのだが、こんどはその手が娘の肩に膠着《こうちやく》した。「やっ、こやつ!」 さけびつつ、蝋斎の下半身が、うしろざまに弓のように反《そ》った。その両足がはねかえってきたときの打撃こそおそるべきもの――が、同時にお胡夷の下半身がそれを追っていた。両足を、蝋斎の胴にまきつけたのだ。どうとふたりはころがっていた。しかも、蝋斎の両掌《りようて》は、お胡夷の肩からはなれない。―― 下になったお胡夷の息が、火のように蝋斎のあごの下をはった。「のぞみどおり、わたしの術をみせてやろう」 その唇は、ひたと蝋斎ののどに吸いついていた。 蝋斎のあたまがのけぞった。石橋《しやつきよう》の獅子のように、白髪が宙をまわった。しかし、娘の唇はのどぶえからはなれなかった。老人の目が苦悶《くもん》にとび出し、皮膚がかわいた枯葉みたいに変わった。顔いろが紙のように白ちゃけていった。 数分後、お胡夷はあたまをあげた。肩を異様にくねらせると、蝋斎の手がはなれた。彼女はしずかに立ちあがったが、老人は、一個の木乃伊《ミイラ》と化して床にころがったままうごかなかった。 ――きのうの朝、卍谷に甲賀衆の包囲をうけて、あれほど猛威をふるったこの恐ろしい老忍者が、身に寸鉄をおびぬひとりの少女に、これほどあっけなく斃《たお》されようとは、だれが想像したろうか。 お胡夷のむき出しになった両肩には、まっ赤な掌のあとが浮いていた。彼女はうすら笑いして、裂けた袖でそれをぬぐった。なお掌のあとが紫色になってのこった。奇怪なことはそればかりではない。お胡夷が俵のそばに寄って、そのひとつのうえにかがんだとみると、その口から血のふとい糸がバシャバシャとおちはじめたのである。 一俵の塩がまっ赤なぬかるみとなるまでに吐き捨てられた血は、彼女のものではない、小豆蝋斎の血であった。――この野性美にみちた豊麗の娘が吸血鬼とは――さしもの蝋斎が、思いもよらなかったのもむりはない。 彼女は、口で血をすするばかりが能《のう》ではなかった。いま、彼女の肌にふれた蝋斎の掌がそのまま膠着してしまったのをみてもわかるように、一瞬、筋肉の迅速《じんそく》微妙なうごめきによって皮膚のどの部分でもが、なまめかしい吸盤と一変するのであった。 お胡夷は、落ちていた巻物をつかんだ。 が、それを見るよりはやく、何やら外にちかづいてくる気配を感じたらしく、すばやく巻物をまくと俵のすきまにおしこみ、たおれている小豆蝋斎の死体《したい》に塩をかぶせ、バッタリたおれて最初の姿勢になった。 土戸《つちど》がひらいて、ひとりの男がはいってきた。 【二】 雨夜陣五郎である。 はじめちょっとのぞいただけらしいが、ひとりもえている松明と、その下にうつ伏している娘の姿をみると、土戸をしめて妙な顔をしてあるいてきた。「やい」 と、声をかけた。「小豆蝋斎がまいったであろう。……白髪《しらが》あたまの爺《じい》さまがよ」 お胡夷は、肩をふるわせて泣きむせんだ。「松明がもえているところをみると、来たにはちがいないが、それではきくことをきいて、蝋斎はいったのだな、これ」「くやしい。……」 と、お胡夷はうめいた。「はははは、では、白状したか。いかに甲賀者とはいえ、しょせん、女、あの爺さまにかかってはだまりとおせるものではない。だいぶ、いためつけられたか」「殺せ。……卍谷の女が伊賀者に手籠《てごめ》にされて、生きてはいられぬ。……」「なに!」 お胡夷の黒髪に手をかけて、ぐいとひきあげた。のけぞった娘は唇をわななかせ、とじたまつげのあいだから、涙を両頬にあふれさせている。涙は椿の花弁のようにやや厚めの柔らかな唇をぬれひからせていた。 ほとんど抵抗できないもののように、陣五郎はその唇にかぶりついた。娘は必死に顔をそむけたが、その力が弱々しいのをみてとると、陣五郎はニヤリとして、「蝋斎め、ああみえて、たっしゃな爺いだな。……しかし、これ、爺いよりわしの方が、まだましだぞ」 と、炎のような息をはきつつ、衣類をかなぐりすてた。お胡夷はもとより全裸にちかい。犯されたという牝豹《めひよう》の妖しさもさることながら、これが怨敵《おんてき》甲賀の娘、さらにどうせ明日をもまたず殺すにきまった女ということが、陣五郎のすさまじいまでの淫虐心《いんぎやくしん》をそそったのであろう。 青黴《あおかび》の浮いたようなウジャジャけた陣五郎のからだが、お胡夷のうえにのしかかった。 一分――二分――陣五郎の口から名状しがたいうめきがあがり、全身がはねあがった。まるで数千匹の蛭《ひる》に吸いつかれたように激痛をかんじたのだ。のけぞりかえり、のたうちまわる陣五郎に、お胡夷はピッタリと膠着している。その美しい唇は、またも陣五郎ののどぶえに吸いついている。怪奇な姿態でからみあったまま、ふたりはごろごろところがったのである。 おそらく、あと一分で、陣五郎は絶命したであろう。しかし、そのときふたりは、床にこぼれた塩のうえをころがったのである。「あっ」 お胡夷が狼狽のさけびをあげた。吸いついた相手の皮膚が、ずるっとすべったのだ。陣五郎は塩のなかで、急にうごかなくなった。と、そのからだが、どろどろと泥濘《でいねい》のようにふやけ、溶け、ちぢんでいった。 恐怖の息をひいて、お胡夷ははね起きていた。足もとには、小児大のぬるぬるした一塊がうごめいている。と――それは刻々に、いよいよ人間とも何ともわけのわからないかたちにくずれつつ、塩と粘液の帯をひいて、夢魔のごとく塩俵のすきへにげこんでいった。 お胡夷は呆然と立ちすくんだ。が、すぐにぬぎすてられた陣五郎の衣服のそばの山刀に目をとめると、ひろいあげてスラリとぬきはなち、俵の方へかけ寄ろうとした。 そのとき、三たび、土戸がひらいて、またひとりの男がのぞきこんだ。ふりむいてお胡夷の顔色がかわった。彼女をとらえた簔念鬼である。 ものもいわず、お胡夷の刃がななめにはしっていた。とっさのことで、一歩ひいたが、念鬼のきものは、肩からわき腹へかけて、切り裂かれている。つづく第二撃が、かっと棒とかみ合った。棒の尖端は切りとばしたが、つつと踏みこんだ簔念鬼は、むんずと娘を抱きとめた。「なんじゃ?」 はじめて、大声でわめいた。上半身の衣服が切れて、垂れさがっていた。 ――しかしこうなることは、お胡夷の最初から知っていたことだ。刀をもってたたかって討てる相手でないことはわかっている。といって、雨夜陣五郎に対したときのように、言葉の蠱惑《こわく》でひきずりこめる場合でもなかった。 ただわれと身をなげこみ、肉と肉をすりあわせて、相手を斃《たお》すよりほかはない。 彼女は、処女であった。豊麗だが、精悍《せいかん》な山の処女であった。だが、同時に、甲賀の娘だ。忍法のためなら、死をすらおそれぬ。まして、処女が何であろう。すでに彼女は全力をあげて小豆蝋斎を討った。雨夜陣五郎は、惜しくものがしたが、みごとに追いはらった。何としてでも、あの何やら子細ありげな巻物を読まねばならぬ。あの巻物を奪って、甲賀へかえらねばならぬ。すくなくとも、この鍔隠れの谷にいる弦之介さまの安否をたしかめ、それを手わたさなければならぬ! この至上命令のために、念鬼に抱かれつつ、またもえるような双腕を念鬼にまきつけ、あつい乳房をおしつけたお胡夷の心は壮絶《そうぜつ》ですらあったが、同時に、このせつな、彼女の皮膚に、そそけ立つような戦慄がはしった。 簔念鬼は、片手でお胡夷の髪をつかんで、顔をねじむけた。すぐまえに、娘の口がひらいて、あえいでいる。ふるえる舌や、珠《たま》をつらねたような奥歯や、あかいうすぎぬをはったようなのどまで、彼は舐《な》めるようにのぞきこんだ。「蝋斎、陣五郎はどうした?」 かすれた声できいたが、念鬼はすでに娘の妖美に狂気している。香りたかい山の花のようなお胡夷の息と獣欲にただれた念鬼の息がもつれて、床にたおれた。「念鬼――あぶない――」 俵の奥から、虫のような呼び声がきこえた。 念鬼の耳にはきこえない。まさに、危うし、美しき吸血鬼の官能の罠《わな》におちんとする三人目の男。―― が、――愕然としていたのはお胡夷の方であった。抱きよせられた刹那、彼女がぞっとしたのもむりはない。念鬼の胸、腕から背にかけて、すなわち衣服にかくされている部分は、すべて犬のようにふさふさとした黒毛に覆われていたのだ! 世に稀《まれ》に「毛人《もうじん》」または「犬人《けんじん》」と呼ばれる異常に過毛の人がある。毛の原基《げんき》の畸型《きけい》によるものだが、これが顔面のみにあらわれたものは、頬、あごはもとより、ひたい、鼻から顔じゅう長い毛におおわれて、まったく人間とは思われない。 ――念鬼は、空気にふれる部分の皮膚をのぞいて、それが全身にきた。まさにそれは熊か猿でも抱いたようなもの恐ろしい感覚であった。念鬼におさえつけられたお胡夷の姿は、あたかも獣類に姦《おか》される美女のような凄惨《せいさん》な絵図であった。「……むっ」 と、四枚の唇のあいだからもれたのは、どちらのうめきか。――「あぶない、念鬼。――」 また、ほそぼそとしたきみわるい声が。――雨夜の声だ。 それをきいたか、きかなかったか。――念鬼の顔いろが変わった。と同時に、その髪の毛がぞうっと逆立った。 からだじゅう、のたうたせたのはお胡夷の方であった。密着したふたつのからだのあいだから、そのとき鮮血が泡立ち、ながれおち出した。おお、逆立ったのは念鬼の髪ばかりではない、その全身の毛が豪猪《やまあらし》のごとく立っていた。それは毛ではなかった。針そのものであった! 苦悶の絶叫をあげようとするお胡夷の唇をはなさなかったのは念鬼の方だ。胸から腹へ、腹からうちももへかけて、無数の毛針に刺しつらぬかれ、七転八倒する娘を抱きしめたまま、血いろの念鬼の目が、その痙攣《けいれん》をたのしみぬくようにけぶっている。―― まさに、血の池、針地獄。 断末魔と法悦にそれぞれわななくふたりの男女は、このときそばに立ったふたりの男女の姿に気がつかなかった。 【三】「念鬼どの」 と、女が呼んだ。 顔をあげて、しかし念鬼は男の方をみて、目を大きくひらいた。「おお、夜叉丸!」 立っているのは、伊賀の夜叉丸と蛍火であった。「夜叉丸、いつかえってきたのだ?」「いま」 みじかくこたえて夜叉丸は、念鬼を見ず、じっとどす黒い油煙をあげる松明の炎を見つめていた。「駿府で、お婆さまは、どうなされた?」「お婆さまか。……それは朧さまに逢うたのちでないと申せぬ」「や、朧さまにはまだ逢わぬか」「されば、いま、天膳どのと何やら密談中ときいたから、さきにおぬしなどの顔が見とうて」「そうか、そうか。なに、あれは天膳どのが、朧さまをまるめこむのに汗をながしておるのじゃよ。すでに伊賀と甲賀の忍法争いの火ぶたはきられておるのに、まだ天膳どのは朧さまにそれをかくそうと思っておるらしい。なにせ、朧さまは弦之介にのぼせあがっておられるからの」「弦之介はまだ生かしてあるらしいの」「さればよ、天膳どのは弦之介をこわがりすぎる。おれは弦之介の瞳術《どうじゆつ》とやらを、実はうたがっておるが、たとえどれほど怖ろしいものじゃとて、ふふん、すでに人別帖にある十人の甲賀者のうち、風待将監と地虫十兵衛は東海道で斃《たお》し、鵜殿丈助は昨夜この屋敷で殺し、お胡夷はこのとおりわしが始末をつけたというのに、いまさら何を尻ごみするのか――」 簔念鬼はせせら笑った。立ちあがった胸を覆う黒毛のひとつひとつに血玉がひかっていた。 夜叉丸は、はじめて娘の姿に目をおとした。全身朱をあびたようなお胡夷の裸身は、なお痙攣しつつ、しだいに弱まってゆく。 ――あわれ、甲賀の乙女よ、ひとり無惨《むざん》の虜《とりこ》となり、魔人往来の地獄蔵《ぐら》のなかになぶり殺しにあって、魂は永劫《えいごう》のうらみに纏綿《てんめん》するか。それとも、けなげな反撃により、せめて恐るべき敵のひとりを斃したことを微笑《ほほえ》むか。―― ……夜叉丸は、口のなかで何やらつぶやいた。「なに、夜叉丸、何といったか」「いや、何でもない。よくやったと申したのだ」「ばかな、たかが小娘ひとり――実はな、殺すつもりはなかったが、おれに妙な術をかけおったから、やむなく殺《や》ったのだ。もっとも、どうせあの人別帖にある女、しょせんはない命じゃが」「人別帖とは?」「夜叉丸、おぬし人別帖を知らぬのか」 ふしんな目でかえりみる念鬼に、夜叉丸は目をふせて、俵のひとつに腰をおろした。「……つかれた」 と、話をそらにつぶやく。彼は足もとになげ出されたお胡夷の手をもの憂《う》げにとった。まだ息があったのか娘のからだがぴくっとうごいた。「それは、いくら夜叉丸どのとてお疲れであろう、駿府からここまで馳《は》せもどったばかりじゃもの」 と、蛍火は気づかわしげに、夜叉丸を見まもった。 しかし、うっとりとかがやいた恋の目だ。ふたりはいいなずけのあいだであった。彼女は、ぶじかえってきた夜叉丸に狂喜していた。「おお、いまはまず、なによりひとねむりしたいわ」 と、生あくびしつつ夜叉丸は、指でお胡夷の指をもてあそんでいた。「そうじゃ、夜叉丸どの、早う朧さまにおうて、すぐやすまれるがよい」 と、やさしく気をもむ蛍火をじろっとみて、簔念鬼はわざとくしゃみをしてみせ、苦笑いすると、「ところで、ここに、さっき蝋斎老と雨夜がきたはずじゃが、どこへいったか。とくに蝋斎老は人別帖をもってはいったが、気にかかるて」 とまわりを見まわした。 このとき、夜叉丸はしずかにお胡夷の腕をおいた。――が、すでにこときれたお胡夷の片頬に、うすい死微笑が彫《ほ》られていたことをだれが知ろう。 俵のかげにうずたかく盛られた塩のなかに、蝋斎のひからびた死骸が発見され、また俵のなかからほそぼそと呼ぶ雨夜陣五郎の声が耳にはいったのは、すぐそのあとのことである。「まあ! 蝋斎どの!」 蛍火がかけより、念鬼が陣五郎をひきずり出すあいだに、夜叉丸は俵のすきまからうしろ手に、例の巻物をさぐりあてていた。「それ、水を吸え!」 と、念鬼は陣五郎を抱きあげて土戸をあけ、雨の庭にほうり出した。たちまち陣五郎は、雨のなかにふくれあがり、もとの姿にもどってくる。 薬師寺天膳が朧を案内して、この塩蔵にはいってきたのはその直後であった。筑摩小四郎と朱絹もそれにしたがっていた。「なに、卍谷の娘がここにひとりとらえてあると? なんということをするのじゃ」 おろおろと左右を見まわす朧に、蛍火はかけ寄って、「朧さま、夜叉丸どのが駿府よりかえりました」「えっ、夜叉丸が? いつ?」「ほんのいましがたです。朧さまが天膳さまと大事なお話中ゆえ、まだここにおりますが――夜叉丸どの、はやく朧さまにご挨拶を――」 夜叉丸は立ちあがっていた。朧はつぶらな目をおどろきに見はって、じっと夜叉丸を見た。 ――と、ふいに夜叉丸の美しい顔がゆがんだ。ゆがんだというより、崩れたのである。いや、崩れたのは顔ばかりではなかった。そも、これはどうしたことか――そのからだ全体が急速に別人の感じに変化してきたのである。 たまぎるような悲鳴をあげたのは蛍火であった。 そこに立っているのは、見たこともない別の男である。彼はしっかと片手に巻物をつかんでいた。いうまでもなく、朧の無心の破幻の瞳に変形をやぶられた如月左衛門である。「あっ、甲賀者だっ」 愕然として簔念鬼が絶叫したとき、如月左衛門は、あけはなされたままの土戸から外へ、大きく巻物をほうりなげた。 みんな、ふりむいた。いつのまにか、雨のまんなかに、ひとりの男が忽然《こつぜん》と立っていた。 それが、寒天色の皮膚をした裸の入道なのだ。彼は片手をあげて、とんできた巻物をうけとめると、さっと背をかえした。「やるなっ、あれをとられては」 薬師寺天膳のさけびに、どっとみなそのほうへかけ出した。 入道はむこうの建物の下まではしって、ふりむいて、ニヤリと笑った。と、その寒天色のからだが、そこの灰色の壁にはりつくやいなや、まるで水母《くらげ》みたいにひらべったくなり――ひろがり――透明になり――ふっと消えてしまったのである。 きのうからふりつづいている雨のために、庭はほとんどぬかるみであった。 その壁の下の泥土に、どぼっ、どぼっと足跡らしい穴があいていった。何者の姿もみえないのに、点々と泥の上に印されてゆく足跡は、さすが伊賀の怪物たちにも、目をうたがわせるようなものすごさであった。うなされたように立ちすくんでいた彼らは、その足跡が甲賀弦之介の居所のほうへはしるをみて、はっとわれにかえった。 無数の鉄のマキ菱《びし》がとんで、壁につき刺さった。が、そこに悲鳴はあがらず、そのうちその足跡すらも消滅した。 ふりかえると、いつのまにかあの夜叉丸に化けた男も消えている。 しかし、この伊賀屋敷に、だれも知らぬまに、甲賀の忍者すくなくともふたりが、幻のように潜入していたことは、いまやあきらかであった。忍法果し状 【一】 もとより伊賀鍔隠れの谷は武装していた。甲賀卍谷衆の襲来にそなえてである。 お幻屋敷はいわずもがな、山の襞《ひだ》、谷の窪《くぼ》み、樹々、家々、いたるところ伊賀者の殺気にみちた目がひかり、刀槍はむろん、弓、斧《おの》、くさり鎌、縄から網までさまざまの武器が、満をじしてひそんでいた。 しかし、薬師寺天膳がもっとも苦心したのは、その防戦の配置よりも実はそのうごきを味方の朧に感づかせないことであった。朧が感づけば、弦之介につたわる。――この点について天膳が、きわめて心もとない危惧《きぐ》をすてきれなかったのは、あとでかんがえてみると、さすがは天膳、朧の心情を実によく知っていたものといえる。 弦之介が知れば、事態は容易ならぬものとなる。――すでに二日三夜、まんまと弦之介をお幻屋敷にとじこめておきながら、さしもの薬師寺が手を出しかねたのは、大事に大事をとる彼の性《せい》もあるが、彼が弦之介を討つのにこれほど苦慮する理由も、やがてあきらかになるであろう。――もっとも天膳には、甲賀の選手九人を全滅させたのち、最後にそれを見せつけて弦之介を討ちたいという、彼らしい邪悪な望みもたしかにあった。 さいわいに、恋におぼれた朧は、その天真爛漫《らんまん》の性もあって、まだ周囲に起こりつつある変化に気がつかないらしい。その無心の瞳にあざむかれて、弦之介もまだ悠然《ゆうぜん》としている。――いや、ただひとつ、どうしても知らぬ顔でとおせぬことがあった。 それは弦之介の従者鵜殿丈助の消失だ。 きのうの朝、「丈助めはいかがいたしたか」 と、弦之介がきいた。これは当然だ。 これに対して朱絹《あけぎぬ》が頬あからめて、前夜丈助がじぶんをつかまえてけしからぬふるまいに及ぼうとし、手いたくはねつけてやったという話をした。この話を、朧も傍証した。朧はそう信じきっていたのである。信じきった朧の目をうたがうものが、この世にありえようか。「あいつなら、やりかねぬことだ。それで間《ま》が悪うなって、きゃつめ、卍谷へにげかえったものとみえる。めんもくない次第です」 と、弦之介は苦笑した。 彼はついに感づかない。一夜待ったが、甲賀方から反撃の気配もない。やはり弦之介をこちらにとりこんでいるために、敵も身うごきつかぬとみえる。…… ついに天膳は、真相を朧にうちあける決心をした。いつまでも弦之介をほうっておくこともできないし、永遠に朧にかくしとおせることでもない。それに。―― 甲賀弦之介を破りえるものはただ朧あるのみ! そう天膳は判断したのだ。その判断に根拠はあったが、またこの相愛のふたりをあいたたかわせることに、悪意にみちたよろこびもあった。 で、まず朧をつれて、塩蔵にとらえてある甲賀の娘お胡夷を見せようとした。――天膳は、まだお胡夷を殺すつもりではなかった。まんいちの際、弦之介への楯《たて》につかおうと思っていた。が、はからずもお胡夷は念鬼のために殺されていたのである。しかも、たんにむなしく命を失ったのではない、こちらの小豆蝋斎を、地獄の道づれとして死んだのだ。 あまつさえ、兄の如月左衛門に、秘巻の場所を教えて。―― さしも警戒厳重な鍔隠れの谷の物見の連中たちも、如月左衛門と霞刑部の侵入だけはふせげなかった。それもむりはない、左衛門は駿府からかえった味方の夜叉丸に化け、刑部の姿はまったく視覚でとらええなかったのだから。―― 霞刑部、彼は、壁に溶けるばかりではない。彼はじぶんの欲するときに、雷鳥のごとく、木の葉蝶のごとく、土のいろ、草のいろ、葉のいろに自在に体色を変ずる保護色の能力をもつ忍者なのであった。 とはいえ、いかに肉体的機能のみならず、その心力においても常人ならざる忍者とはいえ、お幻屋敷にはいり、そこにとらえられた妹のむざんな断末魔をみて、如月左衛門がどんな感情を抱いたことであろうか。――その魂の声なきすすり泣きはしらず、彼は、生あくびをもらしつつお胡夷の手をとった。 すでになかば死の世界へ去った妹が、兄へおくる指頭《しとう》のことば。押す、はなす、撫でる――その暗中の指問答から、彼は秘巻をさぐりあて、同志霞刑部へ手わたしたのである。 人別帖をうけとって、霞刑部は滅形《めつけい》した。 そして、狼狽して追いかけた伊賀侍たちが、甲賀弦之介の居所にかけつけたとき、そこに巻物をひらいて立っている弦之介の姿をみたのである。縁側にそれとなく見張らせてあったせむしの左金太がたおれ、はやくもその衣服をつけた霞刑部が、片ひざをついて、じっと主人の弦之介を見あげている。―― 雨しぶく庭におしよせた伊賀者たちをチラとみて、弦之介は沈痛にうなずいた。「刑部、卍谷にかえろう」 【二】