[山田风太郎] 甲贺忍法帖-3

光芒が夜空のはてにむなしく流星となってきえたのを、彼の目は見たか、どうか。狙った影は、待ちかまえていたかのごとく身を沈めてそれをかわすと、逆に宙をとんで十兵衛のうしろへ立っていた。地虫十兵衛はすでに屍と化している。影の抜き討った刀身からは、その背を割った血しおが、滴々《てきてき》としたたりおちていた。「天膳さま」 と、かけてきた小四郎がさけんだ。 いかにも、蒼《あお》い月明りにノッペリぬれた顔は、薬師寺天膳。しかし、彼はどうしたのか。彼は先刻、藪《やぶ》の中で十兵衛の吹槍に胸を背までつらぬかれて絶命したはずではなかったか? が、だれも藪の中のことをきくものもなく、天膳も語ろうともせぬ。当然の現象のごとく、地虫十兵衛の死骸《しがい》を見おろして、ただ、「手をかけおった」 と、天膳はつぶやいた。 それからおもむろに地上にかがみこんで、十兵衛のくわえてきた巻物をひろうと、じぶんのふところから出したもう一つの巻物と見くらべ、「果せるかな、おなじだ。……二つは無用」 と、うなずいて、腰の火打石をとると、その一つに火をつけた。「いらざるものをもって、万一甲賀の手にはいったら一大事」 炎はあがった。甲賀弾正、風待将監、地虫十兵衛の三人の忍者があれほどの智慧と秘術と死力をしぼって、甲賀の友へもたらそうとした巻物は、いまむなしくも燃えてゆく。―― 蛍火がかけてきた。「将監は」 天膳がしずかにきく。「討ちました」 答えはひくい。とどめを刺したという意味だ。 薬師寺天膳は、残った一巻をひらいて、足もとの死骸の血をすくいあげた指で、風待将監と地虫十兵衛の名に朱の棒をひいた。 地上になげられた、もうひとつの巻物は、まだうらめしげにメラメラ炎をゆらめかせている。――その炎に下から照らされた五人の伊賀者には、ふしぎに歓喜の表情はみえなかった。「あと、七人。――」 その七人の断じて軽視すべからざることを、いま屠《ほふ》り去った二人の甲賀者の恐ろしさから、彼ら伊賀の忍者はヒシヒシと予感したのである。 炎はきえた。五人の忍者は、闇の山河をふたたび妖風をひいてはせもどる。ゆくさきは、甲賀か、伊賀か。 水遁(すいとん)  【一】「無諦子《むていし》」という藤堂《とうどう》藩の秘書にこうある。「伊賀は秘蔵の国なり。麦米《ばくべい》もでき、兵粮《ひようろう》に事欠くべからず。一国堅固、七口《ななくち》に功者なる鉄砲頭七人に五十挺《ちよう》ずつさし加うれば、何のさしさわりもあるべからず。塩ばかりは事欠《ことか》くゆえ、目に立たぬように買入れ置くべし。……」 まことに伊賀の国は、東は鈴鹿布引《すずかぬのびき》の山脈、西は笠置山塊《かさぎさんかい》、南は室生《むろう》火山群、北は信楽《しがらき》高原によってかこまれ、内部の盆地も地塁地溝《ちるいちこう》がいりくんで、天然の閉鎖社会をなしている。 そのなかでも伊賀の北部。この鍔隠《つばがく》れの谷へは後代《こうだい》はしらず、このころ藤堂藩の武士でも大手をふってはいりこんだものは少ないのではあるまいか。たとえはいりこんだとしても、その谷の中の小天地が、袋小路、七曲りの林、八幡知《やわたし》らずの藪などにくぎられ、さえぎられ、地形も方角も、かいもくわからなかったにちがいない。しかも、どこの小路、あらゆる林、すべての藪のなかから、じっとだれかが見張っている目を、背にも足にも、うすら冷たく感じたであろう。 ――いま、甲賀弦之介《げんのすけ》もそれを感じた。 しかし、それは彼の住む甲賀信楽の卍谷《まんじだに》にしても、他国者にとってはおなじことだ。かつてはじめてここにのりこんだとき、弦之介はまだ無意識的に、その姿なき「忍者の砦《とりで》」の目の銃眼、さりげない樹々、岩、屋敷などが一朝ことあれば忽然《こつぜん》として恐るべき防砦《ぼうさい》と変ずるであろう配置ぶりを、見事だ! と賛嘆した。 しかし、いまはちがう。「山ひとつで、春もこれだけちがうものかの、丈助」 彼は、四辺にひかる目の一つ一つの所在を、ハッキリとたしかめながら、そしらぬ表情で明るく家来の鵜殿丈助《うどのじようすけ》に話しかけた。 丈助は、うしろで、朱絹《あけぎぬ》とならんで、もの一つ言わぬ彼女をとんと意に介せぬふうで、しきりにカンだかい声で何やらしゃべっていたが、「まことに、これは春と申すより、夏でございますな。信楽の方は、夜などまだうすら冷えがいたすというのに。――」「それは、こちらの方が住みようございます」 さきに立ってあるきながら、朧《おぼろ》ははずんだ声でいう。 宿怨の甲賀者のまえで、なんのためらいもなく、「お天気も、山や河も、人間も」 と、いってのけたのはむしろ天真爛漫《てんしんらんまん》として、まったく邪念のない笑顔だ。「なるほど、よほど住みよいとみえて、あんなところに大きな鳥がとまっておる」 と、丈助はふいに顔を路傍の杉にあげてさっと右腕をうごかそうとした。そのとき、朧の肩からぱっと羽ばたきが鳴って、丈助の手から一本の小柄《こづか》がひらめきつつ、地におちた。彼の投げあげようとした小柄を、鷹が羽根の一颯《いつさつ》でうちおとしたのだ。「たわけっ」 弦之介はふりむいて、叱りつけた。「うぬは、まださようないらざる小細工《こざいく》をもてあそぶか。親の心子知らずとは、うぬの愚かさだ」「あっ、恐れ入りました。も、もういたしませぬ」 と、丈助はあわててお辞儀《じぎ》といっしょに小柄をひろいあげて、朧の肩にもどった鷹を上目づかいに見て、「いや、人はともかく、この鷹めはどうしてこうわしを敵視するのかな」「ほんとにどうしたのでしょう。敵ではないと、わたしの言いきかせたことは、人間よりもよくわかってくれる鷹なのに」 と、朧はふしぎそうに、ちょっとベソをかいた顔を鷹の方にねじむける。 これは、お幻婆が、駿府から伊賀へとばせたあの鷹だ。それを土岐峠の山中で、前夜丈助が小柄でおどろかせて巻物を落とさせたのだから、鷹が丈助に敵意をもつのはあたりまえだが、丈助はそらっとぼけている。「弦之介さま、愚かなのは、けれど、わたしの方の伊賀者たちです。卍谷の人々はもはや敵ではないと、あれほど口を酸《す》ッぱくして言いきかせてあるのに、ほんに鷹よりもまだ愚かなやつたち!」 と、朧はくやしそうに舌打ちして、きっと空をにらんだ。「左金太《さきんた》!」 と、さけぶと、頭上の杉のしげみにとまっていた大きな鳥のかたちをしたものが、みるみる人間の姿に変わって、ドサリと路上にころげおちてきた。 しりもちをついて、一声けたたましい悲鳴をあげたが、たちまちころがるように逃走した影をみると、巨大な瘤《こぶ》を背に盛りあげたせむし男である。「朧どの、捨ておきなさい」 と、弦之介は苦笑していった。 彼らを監視するものはこれがはじめてではないから、こんなことにはおどろかないが、おどろくべきは、朧の体得《たいとく》している破幻《はげん》の術だ。いや、彼女はべつに修業して体得したのではない。術というのもあたらない。彼女が、ただ無心につぶらな目をむけるだけで、あらゆる忍者の渾身《こんしん》の忍法が、紙のように破れ去るのだ。 瞳の幻法を体得しているものは、むしろ甲賀弦之介の方であった。その瞳の幻法を「いちど必死に朧にかけてみて、はたして破られるかどうかを見たい――」という欲望がふっと弦之介の胸奥に小波《さざなみ》をたてたのは忍者の本能だが、そう考えただけで、朧の太陽のような目にあうと、弦之介の心は春の海みたいに凪《な》いでしまった。業を競うどころではない。 けれど。――甲賀弦之介は知らなかった。 この恋する敵の姫君と、やがて死を賭《か》けた瞳の忍法を争わなければならぬ日を迎えようとは! いま彼は、やさしく笑って首をふる。「彼らが、われわれを猜疑《さいぎ》するのもむりからぬこと、なにせ、あれほどにくしみの重なった敵方のわしを、朧どのが、鍔隠《つばがく》れの谷のすみずみまで、こうあけっぴろげに案内してまわってくれるのだから」「これは、弦之介さまのお国です」「さよう、一日もはやく、名実ともにそうなりたい! したが朧どの、それにつけてもいまの男、いまの男のみならず、この谷で、木を切り、野良ではたらいているひとびと――これはわしの卍谷のものどももまたご同様だが――五体満足な人間が少ないとは、実に恐ろしいことだ」 と、彼は暗然として嘆息した。 そうなのだ。まことにさっきから見るとおり、ここはまるで畸型《きけい》の天国ではないかとさえ思われる。侏儒、せむし、兎唇、音声異常、四肢変形、それはまだまだいい方で、大きな舌がよだれかけみたいに胸のへんまでたれた男や、紫藍色《しらんしよく》の血管が蔓草《つるくさ》みたいに顔じゅうにはっている女や、手頸と足頸がチョコナンと直接に胴にくッついている海豹体の少年や、髪も肌も唇も雪のように純白で、目だけ紅玉のようにあかい少女や。―― そのかわり、美しいものは、この世のものならぬほど美しい。ただ変わらぬものは、彼らがことごとく端倪《たんげい》すべからざる不可思議の忍者ばかりだということだ。すべてそれは四百年にわたる深刻濃厚きわまる血族の交わりのなせるわざであった。弦之介にとって戦慄《せんりつ》をおぼえるのは、甲賀伊賀の争いよりも、おたがいが内包するこの血の地獄相《じごくそう》であったのだ。「甲賀は伊賀に勝つために、伊賀は甲賀に勝つために、たがいに内部で血と血をかけあわせ、不可思議の忍者を生み出そうとする。そのための犠牲者があれだ。愚かとも恐ろしいともたとえるに言葉もない!」 思わず弦之介の声は、ふるえをおびてたかくなった。「朧どの、誓ってこれを打破しよう。まず、甲賀と伊賀とだけでも血を混ぜよう、そなたと、わしと!」「はい! 弦之介さま!」「そして、おたがいに卍谷と鍔隠れの谷をしめつける鉄環をとりのぞいて、まッとうなひろい天地と風をかよわせるのだ」 しかし、堅牢、鉄のごとき血の結晶ともいうべき伊賀のお幻一族のまッただなかで、その結晶体をくだくというこの宣言が、いかに破滅的な反抗を呼ぶ冒険であったか。――それは甲賀一族のなかでもおなじことだから、決して知らないわけではなかったが、知ればこそ若い弦之介は、あえていどむがごとく、この谷すべての人びとよ、きけとばかり、こうさけばずにはいられないのであった。「はい、弦之介さま!」 うたうように、朧はこたえる。 このとたん、満身に吹きつけるような無数の呪《のろ》いの目を、いたいばかりに感じた鵜殿丈助は、ぞくっと首を胴にメリこませて、「朱絹どの、土岐峠で逢《あ》ったあの連中が見えぬな」 と、不安げに問いかけた。「ほんにそういえば」 と、朧もふしぎそうにふりむいて、「朱絹、天膳たちはどこへいったえ?」「はい、お客人に鳥か兎《うさぎ》か馳走《ちそう》さしあげようと、けさから山へのぼられましたが」 と、朱絹はこたえたが、朧の目からあわてて顔をそむけて、「あ、陣五郎どの!」 と、呼ぶと、先にバタバタとかけだした。 お幻屋敷の門の下に立っていた雨夜陣五郎が、もどってきた彼らを見ると、黙々と青ぶくれた顔で濠《ほり》の上にはね橋を下ろした。  【二】 美しい鍔隠れの谷に、春の夜がおちた。―― お幻屋敷に朧の命令であつめられた伊賀の人々も、宴果《うたげは》ててすべて去った。むろん、甲賀弦之介を歓迎するための酒宴だが、このなかで本心から弦之介を歓迎する気持を抱いていたものが、はたして幾人あったか。 もっとも、彼らは甲賀伊賀秘争開始のことはまだ知らない。多くのものが知れば、朧さまも知る。そうなっては、ことはめんどうだ。あの選手名簿の甲賀組十人は、じぶんたちだけでじゅうぶん屠《ほふ》りうると絶大な自信をもった薬師寺天膳の独断から、故意《こい》に知らせてはなかったのだ。それにもかかわらず、伊賀の人々の大半が、甲賀と和解する心にはまだほど遠いものがあるのは事実だった。 その敵愾《てきがい》の目をあえて受けて反発《はんぱつ》しない弦之介の笑顔《えがお》を、ただひとり胸いッぱいに吸いこんで、信じきっているのは朧だけであった。 人々が去り、また弦之介の従者鵜殿丈助を朱絹が案内してつれさったあと、春灯のもとに、若いふたりが、どんなにたのしい恋の語らいをしたか。どんなに熱情的に未来のことを夢みあったか。―― やがて朧は、ウットリとした目で、弦之介のいる座敷から出た。すぐ裏側にあたる山に、三日月がのぼっている。思うにそれは、ほぼおなじ時刻、東海道、庄野から関宿《せきじゆく》にわたる街道で、天膳以下五人の伊賀の忍者が、秘巻をリレーする風待将監と地虫十兵衛を邀撃《ようげき》し、死闘をつづけていたころであったろう。 朧は、それを知らぬ。ただ、山へ兎狩りにいったという五人が、夜の酒宴になっても姿を見せないのをいぶかしみ、もういちど朱絹にたずねたものの、「さあ、どうしたものでございましょう」という返事を受けたばかりだ。もっとも朧の命令にもかかわらず、病気その他にことよせて、酒宴に不参《ふさん》したものはほかにないでもなかったから、天膳たちもおそらく弦之介にいまだ釈然《しやくぜん》たらざるものがあり、それで姿をかくしているのであろうとかんがえて、かなしんだだけだ。 しかし、このとき彼女は、姿を見せぬ伊賀者たちへの怒りや不安もわすれ、ただ弦之介のことのみで胸はいッぱいであった。 なにげなく、縁《えん》のはしまでいって、曲ろうとして、朧はふとその縁にさす月光に、にぶく銀いろにひかるものを見つけた。まるでかわいた粘液のあとのようなものである。それは庭の方からつながっていた。 その方角には塩蔵《しおぐら》がある。「無諦子《むていし》」に、「塩ばかりは事欠《ことか》くゆえ、目に立たぬように買入れ置くべし」とあるように、小なりとはいえここは一城、鍔隠れの谷の頭領の屋敷ほどあって、塩蔵がつくってあったのだ。 幅二十センチほどの粘液の帯のあとは庭から縁へ、縁から柱へはいのぼっていた。 朧は足をかえした。十歩ばかりもどって立ちどまり、暗い縁の天井《てんじよう》をきっと見あげて、「陣五郎」 と、呼んだ。 だれか、そこにいるのか。しかし、返辞はなく、あたりはただ水の音ばかりであった。裏山からおちる滝の水が、屋敷をかこむ深い濠をめぐっているのだ。 数分して、その天井から、たまりかねたようにドサリと何かがおちてきた。それは小児《しように》ほどの大きさの、奇怪きわまる物体であった。 どうみてもそれは人間ではない。手足も判然とせず、表面ヌラヌラとぬれひかって、未熟な胎児《たいじ》か、巨大な一匹のなめくじとでも形容するほかはないかたまりである。だが、そのかたまりが、前部のくびれに、一本の短刀を横ぐわえにしているではないか。――「陣五郎、お前は……」 朧はもえるような怒りの目でにらみすえて、「何をしようとしていたのじゃ?」 美しいその目の恐ろしさは、それに見つめられた忍者のみが知るところだ。なめくじは、苦しそうにブルブルとふるえた。ふるえつつ、そのなめくじが、しだいに朦朧《もうろう》と人間らしいかたちを浮かびあがらせてきた。おう、見よ、まるで小児のように小さい雨夜陣五郎らしい姿が。―― なんたる忍者か! 彼は、塩に溶けるのであった。塩の中に体液が浸透して、塩とともに皮膚も肉もドロドロに溶けて、半流動の物体に変化するのだ。人体を組成《そせい》する物質の六十三%は水であるから、彼が小児大の雨夜陣五郎に縮小するのもうなずけるが、そのかわり肉体はわけのわからない形相《ぎようそう》に変わり、運動はきわめて緩慢《かんまん》となる。しかし、その意志があるいじょう、この音もなく、粘液の帯をひきつつはいまわり、忍びこんでゆく男は、暗殺者としての使命を受けた場合、実に恐るべき忍法の所有者といわなければならぬ。「お前は、弦之介さまをあやめようとしたのか」 朧の目は、殺気をすらおびてかがやいた。あゆみよって、縁側から庭へ陣五郎を蹴おとして、「陣五郎、たとえ可愛《かわい》い伊賀者であっても、弦之介さまに害意をもつならば、このわたしがそのままには捨ておかぬぞ」 りんとしてさけんだ。 が、このとき彼女はふと顔をあげた。遠くで、だれかの叫び声をきいたからである。ちょっと小首をかしげていたが、すぐに朧はその方向へ小走りにかけだした。 あとに雨夜陣五郎がうごめいて残された。おそらく術中は無意識状態になっていたのを、朧の破幻の瞳で破られて、肉体がもとに復元しようとする苦悶からか、「水……水……」 人間とは思われぬ異様なつぶやきが、地べたをはいまわった。  【三】 鵜殿丈助は、ムクリと閨《ねや》から大きなあたまをあげた。 起きあがって、唐紙《からかみ》に手をかけてあけようとしたが、唐紙はビクリともしない。こぶしでたたいてみると、果せるかな、これは厚い板戸に紙をはったもので、それに栓《せん》をおとしてあるのである。両側は、壁であった。他の一面の明り障子《しようじ》の窓をひらくと、そこはふとい鉄格子がはまっていた。「案《あん》の定《じよう》」 と、丈助はうなずいた。彼は一個の牢獄に寝かされたのだ。 案の定、とはつぶやいたが、実のところ、朱絹が単にじぶんを警戒してこういうところにいれたのか、それとも、それ以上のたくらみを抱いているのか、よくわからない。 しかし、丈助は、さっきの酒宴の席では、伊賀者たちの十人前ぐらいゲラゲラと笑ってはいたが、まったく心はゆるしてはいなかった。その席に、小豆《あずき》蝋斎《ろうさい》、簑念鬼《みのねんき》などの姿の見えなかったこともいぶかしい。それにつけても、あの駿府から鷹のもたらした巻物を、みすみす手に入れながら一目のぞいて見なかったのがくちおしい。何となく、気にかかるのだ。「それより、おれともあろう人間を、こういう檻《おり》に閉じこめられると考えられては、甲賀の名おれだ」 丈助は、窓の鉄格子を見て、ニヤリとした。卍谷でいちばんのいたずら者なのである。なんど弦之介に叱られても、生来《せいらい》のこの気性がムクムクとうごきだすのを、じぶんで禁じることができないらしい。これだから、伊賀がたも彼をこんなところにいれたのだろうが。―― やがて、身支度《みじたく》をした丈助は、鉄格子のはまった窓のそばへよった。まんまるい、ダブダブした顔を、ギューッと格子におしつける。―― 格子の幅は、腕ならともかく、子供でも頭の通らぬ間隔であった。まして常人よりはるかに大きい丈助の顔が、おしつけられて熟柿《じゆくし》みたいにくびれがはいった。――と、見るがいい、はみ出した顔の部分がしだいしだいにふくれあがり、やがて頭全体が格子の外へ、まんまとぬけ出したではないか。次は肩だ。それから、胴だ。…… 白血球が血管から漏出《ろうしゆつ》するさい、その微細なすきまから偽足《ぎそく》を出し、しだいに内容が移動してその偽足の尖端がふくれあがり、ついに完全に血管の外へ出てしまうが、いま格子の外へぬけ出してゆく鵜殿丈助の姿は、その病理学の幻灯《げんとう》のはるかにおよばぬものすごい光景であった。 かくて彼は、夜のお幻屋敷の庭にひとり立った。「――弦之介さまはご無事か?」 ここは一城、といったが、もとよりさすがに城ではない。しかし、のちの江戸期の武家屋敷などとはまったくちがう。ひろさは大身《たいしん》の武家屋敷にもおよぶまいが、それをめぐる濠のふかさ、そのすぐ内側に亭々《ていてい》と空までくらむばかりにそびえて、屋敷をかくし、巨大な緑の円筒と化した杉木立《こだち》。はるかに野性と妖異みなぎる一郭《いつかく》だ。 しかも、その内部の建物、塀《へい》、樹木、道など、その大小、高低、広狭《こうきよう》の点で、譎詐《きつさ》にみちた設計は、人間の遠近感覚を極端にまで昏迷《こんめい》におとしいれる。だから、ある地点では、じぶんのいまいるところが井戸のどん底かとも思われ、そこから十歩もあるくと、ここは伊賀一国よりもまだひろいかとも思われる。 これは、甲賀の方の話だが、甲南町竜法師《こうなんちようりゆうほうし》に、いまに「忍術屋敷」というものがのこっている。ずっと後年のものにはちがいないが、外見ではただの平屋とみえるものが、実は三階になっており、階段は押入の中にあり、さまざまなところに鳴子《なるこ》がしかけられ、三階からいっきに階下まですべりおちる引綱が通され、木格子《きごうし》とみえるものが鉄格子であり、唐紙とみえるものが、刀槍はもとより種子《たねが》島《しま》の銃弾も貫通しない厚さ三センチの板戸であるという。また、土蔵の壁はさらに十センチの土砂をつめこんだ板でつつまれ、天井には鉄の桟《さん》がはめこまれ、窓は網戸、金戸、板戸と三重になり、ふたつの扉は、両方がいちどに開閉されるようになっている。つまり、一方の扉をひらこうとすれば、同時に他方の扉もひらかなければ、侵入も脱出も不可能なのだ。もって、忍者の城のいかに容易ならぬものかを知るにたる。―― ましてや、これは、忍者が集団として、時の覇者ともたたかった伊賀の乱の血風をあびた本拠、精鋭鍔隠《つばがく》れ衆の頭領お幻の屋敷。 甲賀弦之介こそ朧を妻にもらい受けるため、まえに数回ここを訪れたことがあるが、鵜殿丈助は、こんどがはじめてだ。「なるほど、ウム、なるほど。……」 ひとり、おもしろげにうなずきつつ、深夜の忍術屋敷を、まんまるいからだがころがってゆく。―― いちど、彼は弦之介の居所に立ったが、なおそこで朧の明るい笑い声をきくと、狆《ちん》がくしゃみしたような表情をして、ブラブラと遠ざかっていった。「はて、あのぶんでは、弦之介さまの方に別段のこともないようじゃが」 そして、またもとの庭にもどってきて、彼は、さっきじぶんがぬけ出した窓の外にじっと立っている朱絹の姿を見とめたのである。 さすがの朱絹も、うしろからソロソロとちかづいてゆく鵜殿丈助に気がつかなかった。―― なぜなら、彼女は、その密室に閉じこめておいたはずの人間がいるのか、いないのか――という迷いに、まったく狼狽動顛《ろうばいどうてん》していたからだ。 この夜、あるいは弦之介を討つことは不可能かもしれぬ。しかし、少なくとも鵜殿丈助だけは必ず斃《たお》す! 雨夜陣五郎はそう宣言した。むりはするなと薬師寺天膳はいいのこしていったが、そういわれればなおさら挑戦したいのが、忍者の野心というものだ。窓の鉄格子は、この恐るべき人間なめくじののめずりこんでゆく唯一の死の穴のはずであった。で――塩蔵で、塩になかば溶解した陣五郎が、まず弦之介と朧のようすをうかがいにゆくのを見とどけて、もういちどここに監視にもどってきた彼女を、とつじょふっとうすらさむく襲ったのは、鵜殿丈助の消滅というとほうもない疑惑であった。「まさか、そんなことが?」 一個の肉鞠と変化する丈助は知っていたが、さすがの朱絹も、彼がわずか十センチ内外のこの鉄格子の外へぬけ出そうとは、想像もしえなかった。 ふいに彼女の目は、あぶらぎった肉にふさがれた。だれかの手だ。「あっ」 と、思わず朱絹は恐怖の悲鳴をつっ走らせた。――朧が遠くできいたのは、この叫び声だったのである。 あわててふりほどくと、「ばあ!」 鵜殿丈助のひとをくッた、笑みくずれた大きな顔が、三日月の下にあった。「これは、ゆき違うてあいすまなんだな、朱絹どの」 丈助は、あごをなでた。「土岐峠ではひどい目にあわされたが、どうしてもそなたへのみれんが断ちきれんでな、このなやましい春の夜、弦之介さまと朧さまのあの蜜のような語らいが耳について、とてもこの牢みたいな場所にひとり寝はしておられぬわい。そこで、たまりかねて、そなたへ夜ばいと浮かれ出したが、ほう、思いはおなじ、そなたの方《ほう》でも忍んできてくれたか。……」「どうして……どうして、ここをぬけ出された?」 朱絹はあえぎ、丈助は笑う。「そこが、恋の一念」 ぬけぬけとまたさしのばされるまるまっちい手から、朱絹のからだが三メートルもとんだ。ぬきはなされた懐剣が、魚鱗のごとく月光にはねた。「や? また喧嘩か、これは情けなや」 大袈裟に丈助は目をむいたが、さすがに全身が空気をふきこんだ風船のように緊張する。肌から血の霧を吹く朱絹の妖術は思い知らされているからだ。「それでは、やるか、もういちど――」 目がたれさがったまぶたのかげでひかった。「もういちど、はだかになるか、朱絹――フ、フ、帯とくいとまがなければ、わしが剥《む》いてやろうかい」 再度の勝負は、あきらかに朱絹の不利であった。まさに、丈助が嘲《あざけ》るとおり、彼が知らぬならともかく、肌をあらわす余裕がない。きっと丈助を見すえた朱絹の白蝋《はくろう》のようなひたいに、やがてポッと黒い点がひとつにじみ出した。とみるまに、こめかみのあたりに数個の斑点が浮かんで、つーッと糸をひいてながれおちる。汗だ。苦悶の汗が、そのまま血なのだ! だが、その血がいつ、幾条かの噴水と変じてこちらの目にとんでくるか。いや、それよりも、その美しいうりざね顔をみるみる彩《いろど》ってゆく黒い網目のものすごさに丈助が気をのまれて、これまた容易にすすみえず、双方、塑像《そぞう》のように立ちすくんだとき――「朱絹」 背後で、はしってきた朧がさけんだ。 弓の弦《つる》がきれたように、朱絹は地上に崩折れた。「何をしていやる?」 弦之介の居所へ潜入しようとしていた雨夜陣五郎を知っている朧は、こちらでもか、と思って、朱絹をとがめたのだが、そこまで知らぬ丈助は、「あいや」 と、声をかけて、ニヤニヤとした。「実は、拙者《せつしや》、土岐峠でも白状したとおり、この朱絹どのにぞッこん惚れましてな、ここでまた袖《そで》をひいて逆鱗《げきりん》にふれ、ごらんのような不本意な場とあいなりましたが、朧さま、これも甲賀伊賀和睦のしるし、拙者の望みがだいそれたものか、それとも朱絹どのが情《つれ》なさすぎるか、いかが思召《おぼしめ》す?」 朧はあきれたように丈助を見た。「さ、それは」 と、まごついて、「それは、お婆さまがおかえりあそばしてから伺っても遅うはありませぬ」 と、そそくさと朱絹を抱きおこし、「朱絹、やすみゃ。いえ、わたしのそばに寝てたもれ」 よろめくように立ちあがる朱絹を、かばうようにして立ち去った。 朧はしかし、朱絹はもとより、雨夜陣五郎が、あわよくば甲賀弦之介主従を葬《ほうむ》り去ろうとかんがえていたとまでは思いおよばなかった。まだ弦之介に心ゆるさぬ陣五郎が、弦之介とじぶんの語らいをさかしらだって監視するために、天井にへばりついていたものと思ったのだ。 それすらも、ゆるせない無礼である。だから彼女は、陣五郎をあのままに放置した。塩にからだを溶いた彼を、その化身を破ったまま水をあたえてやらないときは、それが彼にとって死にまさる罰となることを、彼女は承知していたのである。「水……み……水……」 陣五郎は、庭でなおのたうっていた。冷たい夜の大地が、熱砂のような飢渇《きかつ》の地獄だ。 その奇怪ななめくじに、影がさした。だれか、そばに立って、のぞきこんだのだ。「ふうむ、こりゃ……」 しきりにくびをひねっているのは、鵜殿丈助である。  【四】 さすが伸縮自在の丈助も、この足もとにうごめく怪物の正体が何であるか――しばらく判断に苦しんだ。「雨夜だなあ……」 やっと、うめいた。 そのなめくじ様の生物は、朧に天井からおとされたときは、まだ肉も皮膚も、ふやけ、とろけ、ネバネバした粘液にまみれて、顔はおろか、手足も判然としなかったが、このころ、ようやく雨夜陣五郎の姿をハッキリとさせていた。が、まえに丈助の知っていた水死人みたいにふくれあがった皮膚が皺《しわ》だらけにちぢんで、しかも子供のように小さい。「こ、こりゃ、どうしたのだ?」 と、いいかけて、丈助はふいに凝然《ぎようぜん》と、すぐちかい弦之介の居所の方へ目をすえた。「おい、雨夜……うぬは、もしかしたら、この姿で弦之介さまを――」「み、水をくれ。……」 と、陣五郎はいった。よくききとれない、虫のようなつぶやきだ。「弦之介さまを討とうとしたか、陣五郎」「水……」「その気持は、わかるようでもあり、わからぬようでもある。甲賀伊賀の和睦成らんとして、あえてさような行動に出ようとするのは、なぜだ?」 丈助は、陣五郎をゆさぶった。「解せぬことがある。小豆蝋斎、簑念鬼、蛍火、また当然今宵《こよい》の酒宴に姿をみせるべき薬師寺天膳などは、どこへ何しにいったのだ?」「み……」「返答するなら、水をやる。言え!」「東海道へ……風待将監を討つために……」「なに」 鵜殿丈助は驚倒《きようとう》した。 彼は、将監が東海道をかえりつつあることすら、まだ知らなかった。「何かあったのか。うむ、さてはやはり、あの駿府から鷹のつかんできた巻物に何かあったのだな。あれに、何がかいてあったのだ?」「…………」 陣五郎の二枚の枯葉みたいな唇が、カサカサとそよいだが、声にはならなかった。言う意志はあるのだ。いや、彼は水を欲するために、麻薬のきれた患者の数百倍の悩乱《のうらん》状態におちいっているのであった。 丈助は、陣五郎の空俵みたいなそのからだをこわきにかかえて、立ちあがった。 ふっと、弦之介の居所のほうを見た。雨夜陣五郎の告白を、告げに走ろうとかんがえたのだ。しかし、このとき丈助は、せっかくいちどじぶんが手に入れたあの巻物を、弦之介の命令でみすみす伊賀にかえしたことを思い出した。だから、いわないことじゃない――と、若い主人への不服がちらっと胸をかすめたのにつづいて、報告よりさきに、この容易ならぬ情報をまずみずからの手で究《きわ》めて主人をおどろかせてやろう――という意欲を起こしたのも、むりからぬことではあるが、彼の天命きわまるところ。「水か?」 と、うなずいて、そのまま、水音のたかくきこえる方角へあるきだした。 お幻屋敷は、四面、忍び返しをうちつけた黒塗りの塀にかこまれていたが、裏山とあい対する一個所だけ、岩が土塀の代わりをしていた。しかし、ここから忍びこめるものは、よもあるまい。五メートルばかりへだてて、夜の天空から滔々《とうとう》と滝がなだれおち、その下は岩をえぐって、すさまじい滝壺をつくっていたからだ。「水は、そこにある」 丈助は、雨夜陣五郎を、その岩の上にころがしてわめいた。「あの巻物は?」 水に渇《かわ》ききった男に、すぐ耳もとに水音をきかせつつ責め問うほど効果的な拷問《ごうもん》はあるまい。うごかなかった雨夜の腕が、ねじれながら滝の方へヒラヒラとなびいた。「巻物は……は、服部家の禁制解かれ……お、大御所《おおごしよ》の命により……伊賀甲賀十人ずつの忍者をえらび、いずれが勝つか、に、忍法争い。――」 ぶるぶるっと、鵜殿丈助はふるえた。 ふるえたのは、陣五郎の言葉のゆえのみならず、霧のごとくこの岩上までもふりかかる滝しぶきのせいでもあることを、丈助は意識しなかった。「そ、その十人とは?」「甲賀は、甲賀弾正、甲賀弦之介、地虫十兵衛、風待将監、霞刑部……鵜殿丈助……」「わかった! 甲賀方より、伊賀は?」 丈助の声は殺気に上ずって、「言え、伊賀の十人の名を……」「水、水をくれ。……」 雨夜陣五郎もふるえている。しかし、その戦慄《せんりつ》は、恐怖よりも、雨を受ける枯草の歓喜にも似たおののきであったことを、丈助は知らなかった。ましてや、陣五郎の皮膚が、霧をあびてうっすらと青黴《あおかび》のようなものを浮かびあがらせはじめたのを見なかった。――「伊賀方の名をいえば、たっぷり水はやる。申せ!」「お、お幻さま、朧さま、夜叉丸、小豆蝋斎、薬師寺天膳……」「それから?」「雨夜。――」 みなまできかず、攻撃の跳躍に出ようとした鵜殿丈助の足くびに、蛭《ひる》みたいに陣五郎の腕が吸いついた。 あっと丈助がさけんだのは、顛倒《てんとう》した恐怖よりも、衰弱しきっていた陣五郎に、いつのまにか生気《せいき》がもどっているのを知った驚愕《きようがく》のせいだ。「心得たりっ」 丈助の絶叫は、ふたり、からみついたまま岩をすべって、滝壺におちてゆく虚空できこえた。 渦まきかえる水面をたたいたとき、彼の手にはすでに刃があった。 心得たりとさけんだのは、狼狽《ろうばい》しつつも、水中の格闘に自信があったからだ。丈助はいまだかつて、甲賀の忍者たちにも水中のスポーツでおくれをとったことはない。彼には鞠のような強烈な浮力があったからだ。いわんや、相手の雨夜陣五郎はなお小児《しように》のごとくちぢみ、しかもその手に武器はない。 闇黒の渦を、クルクルと回りつつ、丈助は片手で陣五郎をかかえこみ、片手に刃を振るおうとした。このとき、相手のからだに異様な変化が起こった。 その全身が、ぐうっと大きく膨脹《ぼうちよう》してきたのだ。思わずその腕をはなし、もういちどつかもうとしたが、ぬらっとした感触が掌《て》にすべっただけで、ふたたび丈助は滝のま下にたたきこまれた。水中を回転する彼のもう一方の手には、いつのまにか刃がなかった。 憤怒した河豚《ふ ぐ》みたいにふくれあがって、彼が水面に浮かんだとき、一瞬、恐ろしいものを見た。頭上にかぶさる岩のくぼみに背をはりつけて、爛《らん》と見おろしている男、水死人のように青んぶくれた皮膚はウジャジャけて、妖しい燐光《りんこう》をはなち、ニンマリとつりあげた唇にうばった刀身を横ぐわえにしているその姿は、まさに、もとにもどった雨夜陣五郎! それが、鵜殿丈助のこの世で最後にみた姿であった。三たび水中に吸いこまれ、旋回する水流にあらがって浮きあがったそのまんまるい腹部に、上からまっすぐに刃がつき通されたからである。「鵜殿丈助の敵は、まさに雨夜陣五郎」 丈助の苦鳴《くめい》は滝のとどろきに消え、雨夜の哄笑《こうしよう》は岩壁に反響した。 知らず、春夜、伊賀の屋敷の奥ふかく、甲賀弦之介は何を夢みているのか。すでにこの忍法の大秘争において、甲賀の選手は四人討たれ、あと六人になっているではないか。――泥の死仮面(デスマスク)  【一】 甲賀信楽《しがらき》の空が水底のようにあかるんできたが、卍谷《まんじだに》はまだ深沈とねむっている。 しかし、ここ、甲賀弾正の屋敷の奥には、ひとつ短檠《たんけい》がゆらめき、そのまわりに十人あまりの人影が、じっと腕をくんでいた。 老人もいる。髯《ひげ》だらけの壮年の男もいる。若者もいる。それから、女の姿もみえる。これが駿府へ下った弾正の留守をあずかる甲賀一党の幹部たちであった。「どうも気にかかる」 と、ひとり、ひくい声でつぶやいた。総髪を肩にたれた顔は蒼白《あおじろ》く、学者のような感じの男だが、その両眼はとじられたままであった。盲目なのである。「十兵衛の星占いが」「十兵衛は、もうどこらまでいったであろうか」 と、傍《かたわら》の坊主あたまの男がいった。坊主あたま――というより、毛が一本もないのだ。まだそんな年でもないのに、あたまはまる禿《は》げで、そういえば眉もない。髯《ひげ》のあともない。そして顔色は、寒天のように半透明な感じであった。「地虫《じむし》の蛇腹なら、やがて駿府へつくころであろうが、それも十兵衛が無事ならばだ。あれの星占いが、かつてあやまったことはない」「豹馬《ひようま》、弾正さまの星が凶と出たそうなが、駿府に何が起こったというのか」「それはわからぬが、胸がさわぐ。あまつさえ、弦之介《げんのすけ》さまさえも――」 と、盲目の忍者、室賀豹馬は、にがにがしげにつぶやいた。 それはこの一座のものすべてがおなじ思いであった。いやいや、甲賀卍谷の住人すべてが、伊賀のお幻一族に凍りつくような敵愾《てきがい》のこころをいだいているのだ。それを溶こうとし、お幻の孫娘と恋の火花を咲かせようとする弦之介を、決して笑顔でみることはできなかった。 その弦之介が、鵜殿丈助とともに、きのうの朝からいない。狩にでも出かけたかと思っていると思いがけなく、伊賀の鍔隠《つばがく》れの谷から使いの小童がやってきて、弦之介が朧《おぼろ》をたずねていったことが判明した。そして、ここ数日のあいだお泊りになると思うが、決してご案じなさらぬように、との伊賀からの口上である。なお、それにつけくわえて、駿府のお幻さまから、甲賀伊賀の和解まったく成って、弾正さまとおふたり、江戸見物をしてかえるとの知らせがあったから、その点についてもご安心下さるように、ともその小童はこまっちゃくれた口調でいった。 弦之介の行動には、あきれもし、舌うちもしたいような思いであったが、それならそれで、ことはわかった。――と、心をゆるさぬのが、忍者のならいだ。一応はうなずいたが、やがて黒雲のようなぶきみな予感が、みなの胸にひろがった。伊賀の使者の伝言はまことか、弦之介さまははたしてご無事か? 四百年来、宿怨《しゆくえん》の仲だから、それもぜひがないが、こうして期せずして弾正屋敷にあつまった面々が、一夜まんじりともせず、不安なひたいを寄せているのであった。「ほんに、弦之介さま、それほど朧とやらのところへゆきたいのか。祝言までお待ちになれぬのか」 と、かなしげな女の吐息がきこえた。大輪の緋牡丹《ひぼたん》のような美女だ。この卍谷で甲賀弾正家につぐ家柄の娘で陽炎《かげろう》という。「おれが、伊賀にようすを見にいってもよいが」 と、陽炎の傍の男がいった。「ひとまず、いましがた妹をやって見たがのう」 みな、一様にそれぞれ形容しがたい妖気をたたえた顔立ちをした一座で、この男だけが、尋常《じんじよう》な雰囲気をもっていた。如月《きさらぎ》左衛門《さえもん》という男だが、丸みをおびた、あまりに平々凡々とした容貌で、二、三度あっても、だれでもが、はてな、いまの男の顔は? と思い出そうとしても、もう記憶から影を消しているのにくびをかしげてしまう。――いや、この卍谷の同志ですら、この顔がはたして如月左衛門の生来の顔であるかどうか断定できないのだが、そのわけはやがてあきらかにされるであろう。「ほ、お胡夷《こい》が伊賀へいったか」「されば、女なら向こうも気をゆるそうし、たとえ弦之介さまに見つかっても叱られはすまい」「それでは、ともかくお胡夷のかえるのを待とう」 一座は、そのまましんとして、ふたたび腕をくんだ。まるで冥府《めいふ》の死神たちの集まりのようなしずけさだ。――ふっと室賀豹馬が顔をあげた。「はて」「なんだ豹馬」「何者かが、この卍谷へはいってくる。――」 みんな耳をすませたが、何もきこえなかった。ひとり、老人が聞金《ききがね》という忍者特有の補聴器をとって耳にあてたが、まだわからぬらしく、「豹馬、いずれの方からだ」「北から。……忍者の足だ」 それは、伊賀とは反対の方角である。忍者の足なら容易に聞こえぬのも道理だが、それすらも一里の彼方から、この盲目の豹馬の耳はききとどけるのであった。「お、それでは、弾正さまのおかえりではないか。それとも、将監が――」「ちがう。あれは甲賀者の足ではない」 じいっと耳をかたむけて、「近づいてくるのは五人。足どりに凶気がある。――」「よし。主水《もんど》、きさま村をまわって、みなにこのことを触れろ。ただし、合図するまでみな道に出るな、ひとりも声をたてるなと。――」 ぬっと立ちあがったのは、毛なしの入道だ。霞刑部というのがその名であった。「まず、おれが物見をしてやろう」 そして、風のように音もなくはしり出ていった。  【二】 夜明けの卍谷に、まさに五つの影が、もやにとけてすべりこんできた。忍者は、ふすまに水をかけ、それを踏みわたっても破れないような鍛錬をするといわれる。足音をたてないのは当然として、周囲に鳴きしきっている春の蛙《かわず》が、一匹として鳴きやまぬのはふしぎであった。 東海道に、風待将監《しようげん》と地虫十兵衛を屠《ほふ》り去った薬師寺天膳、小豆《あずき》蝋斎《ろうさい》、筑摩《ちくま》小四郎、簔念鬼《みのねんき》、蛍火《ほたるび》の五人である。 ここも鍔隠れの谷とひとしく、迷路のような道の配置だ。彼らのうちには、さきごろからの朧と弦之介の縁組の問題で、使者としてこの村へはいってきたものもないではなかったが、その進退はもとより甲賀側のそれとなき監視のもとにあったから、いま自由にここにはいってみれば、はじめてのような気がするのであった。いわんや、ついに争忍《そうにん》の火ぶたがきっておとされ、いまや完全にここが「敵地」であると知れば、さすがの彼らの皮膚もそそけ立たざるを得ない。「まだ、みな眠っておるようだな」 と、簔念鬼がささやいた。「いや――」 小豆蝋斎が不安らしく見まわすのに、「こわがるな、たしかにまだだれも気づいてはいぬ」 と、薬師寺天膳はかぶりをふった。彼のみはこの卍谷が、まるで鍔隠れの谷とおなじように、案内を熟知しきった足どりだ。「気づかれても、こういう手もある。弦之介の命令で、霞刑部《かすみぎようぶ》、如月左衛門、室賀豹馬、陽炎、お胡夷に、そなたらも伊賀へ参れといつわるのじゃ」「おびき出しか」「しかし、よく考えてみれば、この五人がうかとこの言葉につられるものとも思えぬ。おそらく、そうはゆくまい。これは万一の際の遁辞《とんじ》として、それより一人ずつ、疾風《はやて》のごとく斃《たお》してまわろう。まず、室賀豹馬の家へ――」 声ではない。息の音波ともいうべき会話だ。天膳は空を見あげてうす笑いをした。「おお、あの欅《けやき》も大きくなったなあ。おれが子供のころ、おなじ背丈だったことをおぼえておるが――」 それは樹齢たしかに百七、八十年はあろうと思われる大欅であった。曇った夜明けの空にそそりたった枝々は、その樹齢もつきたのか、葉がおちつくして、彼らに敵意をいだいてつかみかかるようにみえる。 天膳はそこに物見の男の影などないことを見てとると、きっとみなをふりかえって、「しかし、不意討ちとて、たやすうは思うなよ。風待将監ひとりすらあれほど骨をおらせたではないか」 と、いったとき、ふいに天膳の足がピタととまった。恐ろしいはやさでまわりを見まわしたが、「はてな」「天膳どの、何か?」「だれか、われわれ以外に、すぐそばに立っておるような気がしたが」 そこは、両側、古い土塀にはさまれた道であった。朝もやがけむりのように地にはっていたが、しかし、たしかにほかに人影はない。 ふいに筑摩小四郎と簔念鬼が、蝙蝠《こうもり》みたいに両側の土塀へ舞いあがった。身を横なりに、フワリと瓦のうえに吸いつくと、それぞれ裏側をのぞきこんで、「だれもおらぬぞ」 天膳はうなずいて、肩をゆすると、「気のまよいだ。ゆけ」 と、さきに立ってあるき出した。すぐあとに、殺気のかたまりとなった四人がつづく。簔念鬼、蛍火、筑摩小四郎、それから小豆蝋斎が。―― その小豆蝋斎の姿が見えないことに気がついたのは十歩いってからだ。「や?」 彼らは、いっせいにはせもどった。――そして土塀を背に、実に思いがけぬ小豆蝋斎の姿を見たのである。 蝋斎の足は大地にくいこみ、上半身を海老《え び》みたいにまえにまげて、その壁からはなれようとしていた。しかも、からだはその位置からうごかないのだ。だが、そのうしろには、彼をとらえる何者の影もない。 突然、蝋斎はつんのめった。つんのめりながら、さすがに小豆蝋斎、その足がうしろざまに鉄の槌《つち》のごとくしなって、ぽかっと土塀に穴があいた。恐るべき脚の打撃力だ。「おおっ」という息のようなうめきがその壁できこえ、もはや壁づたいにムクムクとみだれたようにみえたが、依然、そこに人らしい姿はみえなかった。「壁が、わしの鞘《さや》をつかんだ!」 はねおきた小豆蝋斎の顔が土気色《つちけいろ》になっていたのは、よくよく驚愕したらしい。「壁が、わしの耳もとで、伊賀者、卍谷の壁には耳があるぞとぬかしおった!」 そのせつな、壁に、ややはなれた場所でぶきみなふくみ笑いが起こった。「しまった!」 と、薬師寺天膳がうめいたとき、笑い声は壁の表面をはしりつつ、朝靄《あさもや》の奥へきえて、「出合え! 曲者《くせもの》が卍谷にはいったぞ!」 と、ひッさくような声がひびきわたった。同時に、路地の前後にわあっという喚声《かんせい》がわきあがった。 伊賀の五人の忍者はさすがに愕然として立ちすくんでいる。奇襲は完全に失敗した! まったく無警戒の卍谷へ潜入したと思いきや、かえって罠《わな》におちこんだのだ。のみならず彼らの密語も、奇怪な「壁の耳」にききとられたことはあきらかであった。「ち、ちがうっ」 と狼狽しつつ、薬師寺天膳が手をふった。「曲者ではない! 伊賀の鍔隠れからまいった使者だ! 甲賀弦之介さまのお申しつけにより、われわれ五人、いそぎまかり越したのだ!」「その手にはのらぬ。伊賀の使者が、なぜ北からきたか!」 と、さっきの声が嘲笑した。「なんじらの密語に不審の条《くだり》がある。それ、ひっとらえろ!」 どっと朝靄をみだして殺到してくる足音に、「もはや、これまで」 と、薬師寺天膳は蒼白になりながら、ニヤリとして、「にげるに、少々骨がおれるが、よいか?」「なんの、甲賀者ごとき――」 ツツーと、ひとり、まっさきに腰から大鎌をひきぬいて、筑摩小四郎がとび出した。 白刃をひらめかしつつおしよせてきた甲賀勢は、すぐ前方にぬっと不敵に立ってむかえた筑摩の姿に、はっと気押されて立ちどまる。それもひといき、たちまち猛然とふたたび踏み出そうとしたが、小四郎はその一瞬をつかんだ。 彼は唇をとがらせた。シューッというような音が、虚空に鳴った。 同時に、三メートルばかりはなれた甲賀侍のうち、その先頭に立っていた二、三人が、ふいに顔をおおってのけぞった。その顔は、柘榴《ざくろ》のように裂けていた!「あっ」 何がどうしたのかわからない。わからないままに、なお前へ出た数人が、さらに顔をひき裂かれて崩れ伏し、さすがにみな、どどっとうしろへ雪崩《なだれ》をうった。「ゆけっ」 天膳のさけびとともに、伊賀の五人組は、その混乱の渦《うず》へ割ってはいった。 簔念鬼の棒がうなった。小豆蝋斎の四肢が旋風のごとくあれ狂った。たちまち、そこは血の泥濘《でいねい》と化した。念鬼の棒に頸骨《けいこつ》をへし折られた死体のうえに、蝋斎の足で肋骨《ろつこつ》に穴をあけられた死体がかさなる。しかし、いちばん恐ろしかったのは筑摩小四郎に斃《たお》されたものの形相《ぎようそう》であったろう。その顔は一様にまるで花火でもしかけたように眼球がとび出し、鼻口は内部から肉をはぜ割れさせていた。 反対側からかけつけた一団も、その酸鼻《さんび》な血と骨の堆積のうえに、大鎌をにぎってふりかえった筑摩小四郎が、またも口をとがらせたのをみるとともに、その数人が顔面を破裂させらせて、釘づけにされてしまった。 筑摩小四郎の妖術をふせぐすべが世にあろうか。彼は何物を吹きもせず、飛ばしもしなかった。彼は吐くのではなく、吸うのであった。強烈な吸息《きゆうそく》により、ややはなれた虚空に小旋風をつくる。その旋風の中心に真空が生ずるのだ。この真空にふれたが最後、犠牲者の肉は、鎌《かま》いたちに襲われたように内部からはじけ出すのだ。 彼が風待将監に対してこの術をふるうことができなかったのは、あのとき将監のためにいきなりその鼻口を痰《たん》でふさがれていたからにすぎない。 例の声が叱咤《しつた》した。「何をひるむ、何をおそれる。甲賀の忍者の名にかけて、彼らをのがす法やあるっ」 甲賀侍たちは歯をむき出して突撃した。そうなれば、もとより空中の小さな真空などは敵の奔流《ほんりゆう》を制止しえない。――が、このとき、甲賀勢の前後左右にぱっと雲のようなものがわきあがった。 蝶だ。何千羽、何万羽ともかぞえきれぬ蝶の大群だ。それは甲賀侍たちの目をふさぎ、息もとめんばかりに渦まき、とびまわり、はては路上から塀のうえを巨大な竜巻《たつまき》のごとく移動してゆく。 はっとわれにかえったとき、伊賀の五人組の影は眼前からきえていた。「やあ、あっちだ!」「向こうへにげたぞ!」 蝶の竜巻を追って、甲賀勢がかけ出すのと、まったく反対の方角で、薬師寺天膳の嘲笑がきこえた。「噂ほどにもない甲賀のうろたえ者よ、これで伊賀の手並はわかったであろう」 発狂したようにその方へかけつけると、またちがうところで、さらにずっと遠く、「これが伊賀の使者をむかえる挨拶《あいさつ》か。相わかった! なおこのうえ血迷うて鍔隠れの谷へ推参《すいさん》などするにおいては、よいか、当方にとどめある甲賀の客人にもきっと礼は返すぞ!」 どこからともなくあらわれて、ひとかたまりとなっていた霞刑部、如月左衛門、室賀豹馬、陽炎の四人は、はっとして顔を見あわせた。敵のいう甲賀の客とは、彼らの主人甲賀弦之介のことをさすのはあきらかだったからだ。 はるか彼方で、どっと伊賀の忍者たちの笑う声があがって、消えていった。

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