[饴村行] 粘膜人间-4

河童も声を潜めて言い、それを右手に持った。 二人は無言のまま木陰から泉を観察し続けた。二十分近くが経過した頃、突然河童が「来た」と囁《ささや》き、泉の向こう側に立つマツの木を指さした。雷太が注意深く見ると確かに三メートルほどの高さの枝に一匹の猫の姿があった。顔しか見えなかったが毛が緑色をしていた。ひくひくと鼻を動かし盛んに小便の臭いを嗅いでいるのが分かった。「おめぇ、毒猫見んの初めてだろ?」 河童が耳元で囁いた。雷太は頷《うなず》いた。「毒猫は妖怪《ようかい》じゃねぇんだが、ここにしか棲んでねぇ珍しい猫でな、森から出ることがねぇ上に死ぬほど用心深いから、絶対人間の前には姿を現さねぇ幻の獣なんだ」「村の猟師でも知らねぇのか?」「知らねぇ。人間で毒猫を知ってんのはおめぇだけだ。だからおめぇは今日すっごく得したんだぞ」 河童は雷太を見てニヤッと笑った。 不意に毒猫が動いた。すっと姿が消えたと思った瞬間、今いる枝から一メートルほど下の枝に素早く飛び移った。そしてまた顔だけ突き出すと、ひくひくと鼻を動かして小便の臭いを嗅ぎだした。「あいつ、俺らがここにいること知らねぇよな?」 雷太が前を見たまま訊いた。「大丈夫だ。今は俺の小便の臭いに夢中で他の臭いは分からねぇようになってる」 河童はそう囁くと足音を殺してそっと木々の隙間に近づいた。そして右腕をゆっくりと振り上げ、手に持ったイシグルを素早い動作で投げつけた。それはぐるぐると横に回転しながら枝の上の毒猫を直撃した。僅か三秒ほどの早技だった。毒猫はマツから転落し泉の畔に落ちた。「行くぞっ」 河童が走り出した。その後を雷太が慌てて追った。イシグルの蔦は毒猫の全身に絡みつき完全に動きを封じていた。毒猫はシャーシャーと荒い息を吐いて河童を威嚇した。普通の猫より一回り体が大きく、全身の毛が毒々しい緑色だった。また左右に三本ずつある前足の爪が黒く、長さが十センチ近くあった。「おい、おめぇ、絶対毒猫には触んなよ。毒猫の毒ぢからはもの凄《すげ》ぇ強力だから、おめぇみてぇなトーシローにはとても扱えるシロモンじゃねえ。そこでじっとしてろ、分かったか?」 河童が強い口調で言った。雷太は頷いた。「まずはぶち殺さねぇとな。こっちの命があぶねぇ」 河童は荒い息で威嚇を続ける毒猫の背中を左手で押さえつけ、右手で首を鷲《わし》掴みにして素早くひねった。同時に割り箸《ばし》が折れるような音が響いた。河童はさらに首を二回ひねり上げると、そのまま一気に引きちぎった。胴体から勢いよく血が噴き出したが、それでも四本の足は蔦から逃れようと激しく暴れ続けていた。「毒猫はしぶてぇ。脳味噌《のうみそ》を潰さねぇかぎり、どんなに切り刻んでもくたばらねぇんだ」 河童《かつぱ》は雷太に引きちぎった毒猫の頭部を見せた。それは鋭い眼光で雷太を睨《にら》みつけながら、シャーシャーと荒い息を吐いて威嚇してきた。河童は頭部を足元に落とし、右足で勢いよく踏みつけた。ぐちゃりという音と共に血や肉片のようなものが辺りに飛び散った。その途端あれだけ暴れていた毒猫の四本の足がぴたりと止まった。「これでもう大丈夫だ、怖いことは何にもねぇ。こいつは雄っ子で爪が長《なげ》ぇから毒ぢからも強力だ」 河童は地面に片膝《ひざ》をつくと右の前足から順に黒爪を引き抜いていった。何か河童ならではの特別なコツがあるらしく、爪は簡単に指の鞘《さや》から外れた。「大漁大漁。こんだけありゃベカやんを百回ぐれぇ殺せる」河童は六本の黒爪を右手で握り締めて立ち上がった。「これであの鉄砲は俺のもんだっ、鉄砲さえありゃもう兵隊なんか怖くねぇっ、堂々と村に行ってガキンチョをさらってこられるっ、ほれ、見てみろ、凄《すげ》ぇだろっ」 河童は右手を広げ、雷太に自慢げに突き出した。その途端弾みでばらばらと黒爪がこぼれ落ち、その中の一本が河童の右足の親指に突き刺さった。河童は悲鳴を上げてしゃがみ込み親指から黒爪を引き抜いた。しかし傷口周囲の皮膚が水色から緑色に変色していた。「やべぇっ! こりゃやべぇっ!」 河童は右手の鉤爪《かぎづめ》で親指の根元を切りつけた。肉が裂けて血が溢《あふ》れ、白い骨が露出した。河童は親指を握ると真下に押し曲げて骨をへし折り、残った皮膚を鉤爪で引き裂いて足から切り離した。「やばかったっ、今のはほんとにやばかったっ」 河童は腰が抜けたようにへなへなとしゃがみ込んだ。雷太は地面に転がった親指を見た。皮膚が緑色に変色したそれは熱した蝋《ろう》のように見る間に溶けていき、十秒もたたぬうちに短い指の骨だけになった。「おめぇ見ただろっ? 今のが毒猫の毒ぢからだっ」河童が雷太を見上げた。「あと少しでも指切るのが遅かったら、俺はお陀仏《だぶつ》になるとこだった。おっかねぇっ、毒猫の毒ぢからはおっかねぇっ、クソ漏れるぐれぇおっかねぇっ!」 河童は顔を強張《こわば》らせて叫んだ。あまりの恐怖のためか黒く大きな目が涙で潤んでいた。「おめぇ、指を切り取っちまって痛くねぇのか?」 雷太が河童の右足を見た。親指の切断面からは折れた骨が飛び出し、黒ずんだ血がどくどくと流れ出ていた。「痛ぇけど、命が助かって嬉《うれ》しいからあんまり気になんねぇ」 河童は涙声でそう呟くと、地面に散らばった黒爪を拾い始めた。* 森の小道がある場所まで戻った時にはすでに日が暮れていた。西の空には青黒い闇が広がり、宵の明星が明るく輝いていた。「おめぇ、自分の家がどこにあんのかも分かんねぇんだろ?」 河童が雷太に訊いた。「分からねぇ」 雷太は低い声で答えた。「だったら半馬鹿が治るまで俺の家で寝泊まりしねぇか? ちゃんと飯も食わせてやるから心配すんな。どうだ、いい考えだろ?」 河童が笑みを浮かべた。腹は減っていなかったが体調が悪かった。脳味噌が半減したのが原因らしく気分が酷《ひど》くだるかった。頭の中にぬるま湯が溜《た》まっているような不快感があり、軽い吐き気がしていた。早く横になって休みたかった雷太は大きく頷いた。「よし、決まりだ。日が暮れて暗ぇから逸《はぐ》れねぇように付いてこい」 河童は森の小道を足早に歩き出した。* 河童の家は森の中央にある沼のほとりにあった。壁は大小様々な板切れでできており、天井は藁《わら》の束で雑に覆われていた。茣蓙《ござ》が敷かれた六畳ほどの室内には中央に小さな囲炉裏があり、左の壁際に古びた茶箪笥《だんす》が置かれていた。 河童は囲炉裏に火を熾《おこ》し、その前に雷太を座らせた。そして茶箪笥から擂鉢《すりばち》を取り出してくると頬に塗布する傷薬を作り始めた。沼の小屋に来る途中、河童は森の中でキチタロウに指示された数種類の薬草を採取していた。辺りは真っ暗で雷太には何も見えなかったが、河童は匂いで植物の種類を識別できるようだった。「キチタロウの言うことに間違いはねぇ。これを塗ればおめぇの怪我は必ず治る」 河童は真剣な顔つきになると、擂鉢に入れた山盛りの葉っぱと赤い木の実を擂粉木《すりこぎ》ですり潰《つぶ》し始めた。河童の手際は良かった。胡坐《あぐら》をかいた両足の中で擂鉢を固定しながら、両手で持った擂粉木を高速で力強く回転させ続けた。 作業は五分ほどで終った。あれだけあった葉っぱと木の実は完全にすり潰され、紫色のどろりとした液汁になっていた。「おい、もうちょっと近くに来い」 河童が手招きした。雷太は四つん這《ば》いになって河童のすぐ側まで移動した。河童は右手で擂鉢内の液汁を掬《すく》うと雷太の左頬に塗りつけた。それは粘りがありひやりと冷たかった。まるで氷で冷やしたとろろのような感触だった。「どうだ、キチタロウの汁を塗ってみてどんな感じだ?」 河童が好奇に満ちた目を雷太に向けた。「汁は冷てぇが痛くはねぇ」 雷太が低く呟《つぶや》いた。「怪我が治りそうな感じはするか?」「よく分からねぇ。治りそうな気もするし、治らねぇような気もする」「おめぇ何言ってんだ、キチタロウが教えてくれた汁だぞ、治るに決まってんじゃねぇか。二、三日もすりゃあつるつるのきれぇな頬っぺたに大変身だ」 河童は再び紫の液汁を手で掬い雷太の左頬に塗りつけた。「そうだ、キチタロウはこの後頬《ほ》っかむりをしておけって言ってたな」 河童は後ろを向くと手を伸ばし、茶箪笥の引き出しから豆絞りの手拭《てぬぐ》いを取り出した。そしてそれを雷太の頭から頬にかけて被《かぶ》せると、両端を顎《あご》の下で結んだ。「よし、これでいい。あとは目ん玉だ」河童は黒く大きな目をぎょろぎょろさせて雷太の顔を覗《のぞ》き込んだ。「おい、おめぇの左の目ん玉、取っちまっていいか?」「もう潰れちまって見えねぇから、おめぇの好きにしてくれ」 雷太が低い声で答えた。河童は眼窩《がんか》からはみ出た眼球を指で摘《つ》まみ、そのまま強引に引きちぎった。ぶちっ、と何かが切れる音がしたが痛みは感じなかった。「おい、おめぇのこの目ん玉、喰《く》っちまっていいか?」 河童が遠慮がちに訊《き》いてきた。もはやただの生ゴミと化した眼球に未練などなかった。雷太は無言で頷《うなず》いた。「そうか、悪《わり》ぃなぁ。じゃあさっそく馳走《ちそう》になるぞ」 河童は眼球を口の中に放り込み、くちゃくちゃと音を立てて何度も咀嚼《そしやく》した後飲み込んだ。「うめぇ。おめぇの目ん玉うめぇなぁ。こりこりしてて銀ブナのはらわたよりうめぇ。もし右の目ん玉も潰れたらまた俺に喰わせてくれよ」河童が冗談とも本気ともつかぬ口調で言い、雷太の胸元を指でつついた。「さて、最後にネコメグルミを目ん玉の穴に入れねぇとな」 河童が左の掌《てのひら》を差し出した。そこには胡桃《くるみ》の実が一つ乗っていた。普通のものより一回りほど小さく、殻の表面が薄《うつす》らと赤味を帯びていた。河童は胡桃を指で摘まむと、慎重に雷太の左の眼窩にはめ込んだ。それは眼球と同じ大きさをしているらしく、ぴたりと中に収まった。異物が入っているという不快さは全く感じなかった。「よし、これでキチタロウに言われたことは全部やった。あとはおめぇの怪我が良くなるのを待つだけだ」 河童《かつぱ》は満足そうな笑みを浮かべた。 眼球の代わりに胡桃を入れるという行為は酷く馬鹿馬鹿しいものだった。しかしキチタロウを崇拝する河童の気を損ねぬよう、雷太は敢えて何も言わなかった。これから暫《しばら》く小屋に泊めてもらう上での配慮だった。 その日の夕食はぶつ切りにした真鯉の身を味噌《みそ》汁で煮たものだった。河童が囲炉裏の自在鉤に掛けた鍋《なべ》で手際良く調理した。雷太がこれは何と言う料理かと尋ねると、河童は当り前のように『コイグツナ』だと答えた。人間の世界では一度も聞いたことのない料理名だった。 雷太は木の椀《わん》に盛られた味噌汁を啜《すす》り、真鯉の身を二口ほど食べた。思っていたよりも美味だったが、先程からの吐き気が続いておりそれ以上は無理だった。雷太は河童に事情を説明し、そこで夕食を終えた。河童は別段嫌な顔をすることもなく椀の残りを鍋に戻し、全て自分で平らげた。 食事の後は何もすることがないため就寝となった。小屋に布団は無く、雷太と河童は茣蓙にくるまって地面に横たわった。囲炉裏の残り火がちらちらと揺れ動き、辺りを仄《ほの》かな朱色に染めていた。藁を被せただけの天井の隙間からは大きな満月が見えた。「明日、ベカやんが来るなぁ」 河童がぽつりと呟いた。「何で分かんだ?」 雷太が薄闇に浮かぶ河童の顔を見た。「ベカやんは満月の夜の次の日になると、必ず獣の肉を持って沼にやって来る。そして俺が獲《と》った銀ブナと交換して、また山に帰ってくんだ」「じゃあ、明日ベカやんを殺すのか?」「そうだ」 河童が平然と答えた。「キチタロウに言われた通り、毒猫の毒を茶に混ぜて飲ませんのか?」「そうだ」「毒入りの茶に臭いはあんのか?」「河童にとっちゃ少し生臭ぇが、人間の鼻じゃ何も感じねぇ」「毒猫の毒を飲むとベカやんはどうなって死ぬんだ?」「それは言わねぇ。見てのお楽しみだ」 河童が嬉々《きき》とした声で言った。「凄《すげ》ぇのか?」「凄ぇなんてもんじゃねぇ。びっくりして腰抜かすぞ」 河童はケタケタと笑った。「それでベカやんが死んで、おめぇは鉄砲を横取りすんのか?」「横取りじゃねぇ。持ち主のいねぇ鉄砲を貰《もら》うだけだ」「おめぇ、鉄砲の使い方知ってんのか?」「知らねぇ。だから殺す前にベカやんから教えてもらう」「そんな簡単に教えてくれんのか?」「大丈夫だ。ベカやんは俺のことを友達だと思ってるからちゃんと教えてくれる」「……おめぇはベカやんのこと、本当に友達だと思ってんのか?」 雷太は試しに訊いてみた。「あたりめぇだ、ベカやんは友達だ」 河童は真剣な口調で答えた。「おめぇ、よく友達を殺せんな」「キチタロウの言うことに間違いはねぇ。キチタロウの言うことは絶対に正しい。キチタロウの言う通りにすれば全部うまくいく。だから俺はベカやんを殺す。それだけだ」「じゃあキチタロウがおめぇに首吊《つ》って死ねって言ったらどうすんだ?」「首吊って死ぬに決まってんじゃねぇかっ、分かりきったこと聞くんじゃねぇ」 河童はまたケタケタと笑った。 翌朝雷太が目を覚ますと小屋の中に河童はいなかった。傍らの囲炉裏では薪《まき》が焚《た》かれ、自在鉤《かぎ》に吊るされた鍋の蓋《ふた》の隙間から薄らと湯気が立っていた。 雷太はくるまっていた茣蓙《ござ》から這《は》い出し、入り口に垂れ下がった筵《むしろ》をめくり外に出た。空は真っ青に晴れ渡り降り注ぐ日差しが眩《まぶ》しかった。昨夜は暗くて分からなかったが、河童の家は沼のほとりに聳《そび》える巨大なアカマツの根元に建っていた。白日の下で見るその外観はより一層みすぼらしく、まさに掘っ立て小屋と呼ぶに相応しい代物だった。 不意に背後で水の跳ねる音がした。振り向くと沼の水面に河童が顔を出していた。水中に潜り朝食の魚を獲っていたようだった。河童は体をくねらせて岸辺まで泳いでくると水しぶきを上げて立ち上がった。その右手には予想通り、銀色の魚の詰まった網びくが提がっていた。「朝飯か?」 雷太が訊いた。「よく肥えた銀ブナを獲ってきた。朝飯にも喰うが殆《ほとん》どはベカやんの肉と交換する分だ」 河童は網びくを一瞥《いちべつ》した。 朝食は昨夜の夕食とほぼ同じで、ぶつ切りにした銀ブナの身を鍋の味噌汁で煮たものだった。試しにこれは何という料理かと訊くと、河童は当たり前のように『フナグツナ』だと答えた。これも今まで一度も聞いたことのない料理名だった。雷太は依然として続く吐き気のため食事を断ったが、河童は「そうか」と答えただけで何の反応も示さなかった。そして出来上がった料理をまた一人で平らげた。 朝食後、河童は沼で鍋を洗った。手にした藁《わら》の束子《たわし》で隅々まで丹念に汚れを落とし、何度も鍋の中の臭いを嗅《か》ぐと、今度は水をなみなみと汲んで再び囲炉裏に掛けた。「ベカやんが来る前に湯を沸かさねぇとな」 河童が火の中に薪をくべながら独り言のように呟《つぶや》いた。「ベカやんはいつ来んだ?」 雷太が河童の隣に腰を下ろし胡坐《あぐら》をかいた。「昼前には来る。この鍋の水が熱くなった頃だ」 河童は膝《ひざ》をついて屈《かが》みこむと、燃え始めた薪と薪の隙間に強く息を吹きかけた。炎が上がり大量の火の粉が舞い上がった。「ベカやんが来たら俺はどうすりゃいい?」 雷太は頭上に落ちてくる火の粉を手で払いながら訊《き》いた。「何もするこたぁねぇ。ただ黙って座ってりゃいい」「ベカやんには俺のこと何て言うんだ?」「新しい友達だって言えばいいだろ」「でも俺、名前がねぇんだぞ」「そうか、おめぇは名無しだったな。じゃあ今日からおめぇはゴンベエだ」「何でゴンベエなんだ?」「昔から名無しの権兵衛って言うじゃねぇか。だからおめぇはゴンベエだ」 河童はそう言って笑みを浮かべた。雷太はその名前に愛着を感じなかったが、特に嫌悪も感じなかったので反対はしなかった。「俺がゴンベエだとして、おめぇは一体何て言う名前なんだ?」 雷太が河童を見た。「あ、俺の名前をまだ教えてなかったな」河童は急に真顔になった。「俺はモモ太っていうんだ。おめぇ、一度くれぇは俺の名前を聞いたことあんだろ?」「いいや、モモ太なんて名前一度も聞いたことがねぇ」 雷太は首を傾げた。「おかしいなぁ、村の女はみんな俺に惚《ほ》れてて俺とグッチャネしたがってんだぞ」「グッチャネって何だ?」「女の股《また》ぐら泉にマラボウを入れてソクソクすることだ」 モモ太の説明に雷太はまた首を傾げた。マラボウの意味は知っていたので何か卑猥《ひわい》な行為だとは分かったが、それ以上のことは何も思い浮かばなかった。「それに村の男らはみんな、俺と喧嘩《けんか》したら負けるって言ってんだぞ。相撲大会で優勝した貞夫も俺が本当の横綱だって言ってんだぞ。そのモモ太を知らねぇのか?」「知らねぇ。全く知らねぇ」 雷太は首を横に振った。「そうか、おめぇは脳味噌《みそ》が半分ねぇ半馬鹿だったな。それじゃあ仕方がねぇ。脳味噌をホジュウすれば、絶対俺のことを思い出すから楽しみに待ってろ」 モモ太は燃え盛る薪にまた息を吹きかけた。 鍋《なべ》の水は小一時間ほどで沸騰した。 モモ太はそれを確認すると茶箪笥《だんす》の抽斗《ひきだし》から毒猫の爪を二本取り出し、その中の一本を雷太に差し出した。「茶を飲ますだけだからヘマすることはねぇと思うが、念のため持っててくれ。世の中何が起こるか分からねぇからな」 モモ太はなぜか声を潜めた。雷太は爪を受け取ると国民服の胸ポケットに入れた。モモ太は茶箪笥の中からさらに瀬戸物の白い湯《ゆ》飲みと急須、アルミの茶筒、U字形の小さな和鋏《わばさみ》を取り出した。「毒猫の毒ぢからはおっかねぇから慎重にやらねぇとな」 モモ太は自分に言い聞かせるように呟くと爪を湯飲みの上に持っていき、その先端を和鋏でゆっくりと切断した。切り口からは緑茶そっくりの緑色の液体が滴り落ち、湯飲みの底に溜《た》まっていった。毒は全部で茶匙《さじ》三杯分ほどの量があった。モモ太は空になった毒猫の爪を囲炉裏の火に投げ込んだ。「よし、あとはこの上に茶を注げばいいだけだっ。そうすりゃあのでっかい鉄砲が俺のもんになんだっ。くううっ、堪《たま》らねぇっ! 堪らねぇなぁっ!」 モモ太は感極まったのか、両手を握り締めて頭上に高く掲げた。「おいモモ太、いるかっ?」 不意に入り口の外で男の声がした。同時にモモ太の体がびくりと震えた。「ベカやんだっ」モモ太が素早く立ち上がり雷太を見た。「おめぇはその辺に行儀良く座ってろ。いいか、俺がベカやんと話すから余計な口を利くんじゃねぇぞ」 モモ太が早口で言った。雷太は頷《うなず》くと囲炉裏の前に這っていき背筋を伸ばして正座した。「おう、俺はここにいるぞっ」 モモ太が外に向かって叫んだ。入り口の筵がめくられベカやんが小屋に入ってきた。それは人の好さそうな顔立ちをした小太りの中年男だった。十月だというのに白いランニングシャツにカーキ色の半ズボンを穿《は》いており、肩には旧式の自動小銃と雑嚢《ざつのう》を掛けていた。 ベカやんはモモ太に親しげな笑みを浮かべたが、すぐに囲炉裏の前に正座する雷太に気づき目を見開いた。「お前、俺以外にも人間の知り合いがいるのか?」 ベカやんが驚いた顔でモモ太を見た。「この前森の中で友達になったゴンベエって奴だ」「この村の者か?」「いや、流れ者みてぇだ」「流れ者って、こいつ体はでかいけどまだ子供じゃないか」 ベカやんは雷太に近づき顔を覗《のぞ》き込んだ。しかし左の眼窩《がんか》に入っている胡桃《くるみ》を見たらしく眉《まゆ》をひそめて後ずさった。「こいつの左目、一体どうなってんだ?」 ベカやんが低く呻《うめ》くように訊《き》いた。「何か知らねぇけど酷《ひど》い怪我してたから、目ん玉を取って代わりにネコメグルミを入れたんだ」「何で頬《ほ》っかむりして顔を隠してんだ?」「こいつほっぺたにも怪我してたから、薬草を塗って包帯代わりに被《かぶ》せたんだ。別に顔を隠してるわけじゃねぇ」「村の医者には診せたのか?」「いや、診せてねぇ。初めから目ん玉が潰《つぶ》れてたから診せても仕方ねぇだろ」「そりゃそうだが、これは……」 ベカやんはそこまで言うと押し黙り雷太を凝視した。雷太は恥ずかしくなり目を伏せた。「おい、ゴンベエとか言ったな、お前の親は今どこにいるんだ?」 ベカやんが静かな口調で訊いてきた。雷太は突然の質問にどう答えればいいか分からずモモ太を見た。「ゴンベエの親はいねぇ。顔も覚《おぼ》えてねぇ。こいつは物心ついた頃からずっと独りぼっちのミナシゴだ」 モモ太が淀《よど》みなく答えた。雷太は無言で頷いた。「ゴンベエは口が利けないのか?」「いや口は利けるが人間と話すのが嫌なんだ。昔からいろんな奴らにいじめられて人間嫌いになっちまった。俺は河童《かつぱ》だからゴンベエとはよく口を利くけどな」 モモ太が得意気に笑った。雷太はまた無言で頷いた。「俺も流れ者でミナシゴみたいなもんだから、ゴンベエの気持ちは良く分かる。でもいつかはこいつを元の世界に戻さないとな。やっぱり人間は人間同士でしか生きていけないようにできてるんだ」 ベカやんは真顔でモモ太を見た。「それは分かってる、大丈夫だ。俺も一生ゴンベエといるつもりはねぇ。頃合いを見計らっていずれ人間の世界に帰すつもりだ。心配しねぇでくれ」モモ太はベカやんの胸元を指でつついた。「それよりも獣の肉は持ってきたのか?」「ああ、生きのいいのが手に入ったから持ってきた」ベカやんは肩に掛けた雑嚢を下ろし、中から分厚い将棋盤ほどもある大きな肉の塊を取り出した。「昨日仕留めたメスの猪だ。体長が二メートルもある大物だった。牡丹《ぼたん》鍋にして喰《く》えば最高に旨《うま》い」 ベカやんは肉を雑嚢に戻すとモモ太に差し出した。「こりゃ凄《すげ》ぇ、早速今日の晩飯でゴンベエと馳走《ちそう》になるぞ」モモ太は嬉《うれ》しそうに重そうな雑嚢を受け取った。「俺の方も大漁だ。良く肥えた銀ブナが八匹も獲れた。そこにあるから持ってってくれ」 モモ太が入り口の左側に置かれた網びくを顎で指した。「いつも悪いな、遠慮なくいただいていくよ。また来月も新鮮な肉を持ってくるからな」 ベカやんは網びくを取ると、入り口の筵《むしろ》をめくり小屋から出て行こうとした。「ちょっ、ちょっと待ってくれっ」 モモ太が慌てて叫んだ。ベカやんは不思議そうに振り向いた。「何だ?」「実はな、ゴンベエがベカやんの鉄砲を見てぇって言ってんだ。な、そうだろ?」 モモ太は正座する雷太を見た。その目には何かを急《せ》き立てるような光が浮かんでいた。雷太は訳が分からなかったが反射的に無言で頷いた。「俺の五二式をか? どうしてだ?」 ベカやんが怪訝《けげん》な顔をした。「ゴンベエの奴、今まで一度も本物の鉄砲を見たことがねぇんだ。だから俺がベカやんのことを話したら、是非ともそのお宝の鉄砲を拝見してぇって言うんだ。どうだ、悪《わり》ぃがいっぺんだけ拝ましてもらえねぇか?」 モモ太は胸の前で両手を合わせた。「そう言うことか。この旧式のオンボロで良かったら好きなだけ見てくれ。そのかわり銃口を人に向けないでくれよ」 ベカやんは肩から自動小銃を下ろすと雷太に差し出した。雷太は一瞬躊躇《ちゆうちよ》したが断るわけにもいかず、両手で押し頂くようにして受け取った。それは思っていたよりもずっと重く、火薬と機械油の交じり合った臭いがした。「どうだゴンベエ、本物の鉄砲だぞ。嬉しいか? 楽しいか?」 モモ太がわざとらしく訊いてきた。雷太は大袈裟《おおげさ》に何度も頷いた。「なあベカやん、ゴンベエがこんなにも喜んでんだ。ついでに鉄砲の撃ち方を教えてやってくれねぇか?」 モモ太がさりげない口調で言った。「お安い御用だ。ゴンベエ、ちょっと鉄砲を貸してくれ」 ベカやんが雷太に右手を差し出した。雷太は小さく一礼して銃をベカやんに手渡した。「操作は極めて簡単だからゴンベエでもすぐに覚えられる」 ベカやんはおもむろに両手で自動小銃を構えると、銃の左の横腹に付いた丸螺子《ねじ》のようなものを半回転させた。「それは何だ?」 モモ太が尋ねた。「安全装置を外したんだ、鉄砲を撃つ時の基本だろ? 次にこの装填《そうてん》柄を引っ張って排莢蓋《はいきようぶた》を開けるんだ」 ベカやんは銃の右の横腹に付いた五センチほどの把手《とつて》を握り手前に引いた。把手はその下にある細長い溝の上を十五センチほど後退し、同時にガシャリという音と共に溝の下にある印鑑入れの蓋のようなものが開いた。「これで弾が装填された状態になった。あとは銃口を撃ちたい方向に向けて引き金を引けばいいだけだ。簡単だろ?」 ベカやんは雷太を見て微笑んだ。雷太はまた何度も頷いた。「鉄砲の撃ち方ってほんとに簡単なんだな。俺も一回で覚えちまったぞ」 モモ太が目を丸くした。「まあ、ざっとこんなもんだ。他に何か聞きたいことはあるか?」「いやいやもう大満足だ。こんなに喜んでるゴンベエを見たことがねぇ。ありがとなぁ、世話になったなぁ」モモ太はまた胸の前で両手を合わせた。「これだけ世話になったからにはお礼をしなくちゃならねぇ。なあベカやん、うめぇ茶を淹《い》れるから是非とも飲んでってくれねぇか」「俺達は友達じゃないか、そんなに気を遣わなくていいよ」 ベカやんが照れ臭そうに笑った。「いや、それじゃあ俺の男が廃る。ベカやん、早く囲炉裏の前に座ってくれ」 モモ太はベカやんの手を取って何度も引っ張った。「じゃあ、一杯だけご馳走になるか」 ベカやんは自動小銃を肩に担ぐと、笑みを浮かべながら雷太の向かいに腰を下ろし、胡坐《あぐら》をかいた。「すぐに淹れるから待っててくれ」 モモ太は用意していた急須に茶筒のお茶っ葉を入れ、竹の柄杓《ひしやく》で鍋《なべ》の熱湯を掬《すく》いその上に流し込んだ。そして急須に蓋をすると毒猫の毒が入った湯呑《ゆの》みに緑茶を注ぎ入れた。「できたぞ。凄《すご》くうめぇ茶だから飲んでみてくれ」 モモ太は両手で湯飲みを持つとベカやんの前に差し出した。緊張しているらしくその手は微《かす》かに震えていた。ベカやんはモモ太の顔を一瞥《いちべつ》すると無言で湯飲みを受け取った。しかしなぜか口をつけようとはせず、中に注がれた緑茶をじっと見つめた。「どうしたベカやん、早くしねぇと冷めちまうぞ」 モモ太が急かすように言った。「お前、何で手が震えてるんだ?」 ベカやんが視線を落としたまま呟《つぶや》いた。「ふ、震えてなんかねぇぞ、震えるわけねぇじゃねぇか」 モモ太は笑みを浮かべたがその声は露骨に上擦っていた。「お前、このお茶に何か入れたな?」 ベカやんはゆっくりと顔を上げモモ太を見た。その表情は今までとは全く違う険しいものになっていた。まるで兵士のようだと雷太は思った。「何言ってんだおめぇっ、どうして俺が茶の中に毒を入れなきゃなんねぇんだっ」「俺は一言も毒とは言ってないぞ。そうか、お前はこの中に毒を入れたのか」「俺は毒なんか入れてねぇっ、たまたま毒って言葉が口から出ただけで茶はただの茶でしかねぇっ」「そうか、だったらお前このお茶を飲んでみろ」 ベカやんがモモ太に湯呑みを差し出した。モモ太は目を剥《む》いて絶句した。半開きの嘴《くちばし》からはくぐもった呻《うめ》きが漏れ、引き攣《つ》った顔にはたちまち冷や汗が浮かんだ。「やっぱりそうか」 ベカやんは湯飲みを囲炉裏の中に投げ捨てた。緑茶が燃え盛る薪《まき》に掛かり音を立てて炎が消えた。ベカやんは立ち上がると肩から自動小銃を下ろし、銃口をモモ太に向けた。「俺は今まで何度も死に掛けた。戦場でも、戦場以外の場所でもだ。だけど俺は毎回紙一重のところで命拾いをしてきた。なぜだか分かるか? それは俺が生まれながらに持っている特別な直感のお陰だ。死が目前に迫るとその直感が働いて俺に警告を発してくれる。警告が発せられるとまるで電流が流れるように、背骨の中がびりびりと痺《しび》れるんだ。そしてその痺れは今この瞬間も続いている。つまり俺の生命の危機はまだ去ってはいないということだ」ベカやんは銃の引き金に指を掛けた。「お前は一体何を企《たくら》んでるんだ? 俺を殺してどうするつもりだったのか、その訳を聞かせてもらおう」「俺は何にも企んでねぇ、ほんとだ、信じてくれ、俺が友達のベカやんを殺すわけねぇじゃねぇか」 モモ太が搾り出すような声で叫んだ。見開かれた大きな目は涙で潤んでいた。ベカやんは無言で銃の引き金を引いた。耳をつんざく銃声と共にモモ太がひっくり返った。「痛《いて》ぇっ!」モモ太が叫び右の太腿《ふともも》を両手で押さえた。指の間から見る間に鮮血が流れ出た。「撃ちやがったっ! 撃ちやがったっ! ベカやんが俺を撃ちやがったっ! 見ろっ、血がでてるっ! どんどんどんどん血が出てるっ! おっかねぇっ! 鉄砲はおっかねぇっ! クソ漏れるぐれぇおっかねぇっ!」 モモ太は狂ったように喚《わめ》くと本当に脱糞《だつぷん》した。「おい、もう一度訊《き》くぞ。お前は俺を殺してどうするつもりだったのか、その訳を聞かせてくれ。今度しらを切ったら左足にも弾をぶち込むからな」 ベカやんは再び銃口をモモ太に向けた。「待ってくれっ、撃たねぇでくれ、俺はほんとに知らねんだ、ゴンベエに命令されて毒を入れただけなんだ、訳が知りてぇならゴンベエに訊いてくれっ」 モモ太は涙を流しながら叫んだ。ベカやんが囲炉裏の前で正座する雷太を見た。「ゴンベエ、本当かっ? 本当にお前が俺を殺そうとしたのかっ?」 ベカやんはモモ太に銃口を向けたまま強い口調で言った。雷太は突然の責任転嫁に戸惑った。何とかこの場を切り抜ける巧い言い訳を考えたが、脳味噌《みそ》が半分しか無いためか何も浮かんでこなかった。雷太は言い逃れることを諦《あきら》め、全部正直に話そうと思った。「キチタロウに言われたんだ」 雷太が低く呟いた。「キチタロウが?」 ベカやんの表情が一瞬硬くなった。「何と言ったんだ?」「俺の半馬鹿を治すには子供の脳味噌がいる。そのためには子供をさらいに村に行かなきゃなんねんだけど、鉄砲がねぇと兵隊がおっかなくて近づけねぇ。だからベカやんを毒猫の毒で殺して、鉄砲を奪えってキチタロウが言ったんだ」「ハンバカ? 子供の脳味噌? ドクネコ? 一体何の話だ、お前は気がふれてるのか?」「気はふれてねぇ、全部ほんとの話だ」雷太は国民服の胸ポケットから毒猫の黒爪を取り出した。「これが毒猫の爪だ。直接自分の手にとってよく見てくれ」 雷太は黒爪を掲げた。ベカやんは訝《いぶか》しそうに眉《まゆ》をひそめると、近づいてきて正座する雷太に右手を差し出した。 目の前に無防備なごつい掌《てのひら》があった。 雷太はふと、この手を黒爪で刺せば毒を注入できるのではないかと思った。ベカやんは全くこちらを警戒していなかった。雷太は躊躇《ちゆうちよ》しなかった。黒爪を強く握りしめ、掌の真ん中を思い切り突き刺した。ベカやんは短い叫び声を上げ右手を引っ込めた。「何しやがるっ!」 ベカやんは声を荒らげ左手に持った自動小銃を雷太に向けた。同時に右手の皮膚が瞬く間に緑色になった。毒は凄い勢いで右腕を上昇し、十秒も経たぬうちに肩にまで達した。ベカやんはそこで初めて己の肉体の異変に気づいた。「何だこれはっ!」 ベカやんが緑一色になった右腕を見て叫んだ。しかしすでに手遅れだった。毒は右肩から一気に全身に広がり、顔や胴体や左腕が目にも止まらぬ速さで緑色に染まっていった。突然ベカやんが甲高い悲鳴を上げ持っていた自動小銃を落とした。途端に左右の眼球が倍の大きさになって眼窩《がんか》から飛び出した。それはさらに硬球大にまで膨張すると、風船が割れるような音を立てて破裂した。緑の液体が辺りに飛び散り青草のような臭いを放った。 それを合図に肉体の溶解が始まった。緑色になった全身の皮膚や筋肉が一斉にどろどろと流れ落ち、眼窩や歯列、肋骨《ろつこつ》、左右の上腕骨などが次々と露出した。それはモモ太の親指と同様に熱した蝋《ろう》が溶ける様に似ていた。腹部からは緑色の様々な臓器が溢《あふ》れ出し、湿った音を立てて地面に落ちた。カーキ色の半ズボンの裾《すそ》からは緑色の液体が次々と流れ出た。そして背中の脊椎《せきつい》が見え始めた時、ベカやんの体は崩れ落ちるように前に倒れた。溶解は続き、一分も経たぬうちに全身が骨格だけとなった。小屋の中には青草のような臭いが充満した。 雷太は大きく息を吐くと、握っていた黒爪を囲炉裏の中に投げ捨てた。「おめぇ、すげぇなっ」脚を撃たれて倒れていたモモ太が叫んだ。「ベカやんを毒猫の爪で刺しやがったっ、ベカやんをミドリドロドロにして殺しやがったっ、すげぇっ、おめぇはすげぇ奴だっ」 興奮したモモ太は拳《こぶし》で地面を何度も叩《たた》いた。「おめぇ、怪我は大丈夫なのか?」 雷太がモモ太の右腿を見た。「大丈夫だ、弾は脚ん中を突き抜けてどっかにいっちまったから取り出す必要はねぇ。そんなことより鉄砲だっ」モモ太は起き上がるとベカやんの死体の傍らまで這《は》っていき、地面に転がる自動小銃を手に取った。「見ろっ、ついに俺のもんになったぞっ! これでもう兵隊なんか怖くねぇっ! 思う存分大暴れできるっ!」 モモ太は大きな黒い目にぎらついた光を浮かべて叫んだ。「村にはいつ行くんだ?」 雷太が静かに尋ねた。「もちろん今日だ。もう嬉《うれ》しくて楽しくて待ちきれねぇ」 モモ太は自動小銃を抱きしめると愛《いと》おしそうに頬ずりをした。「夜中にこそっと行くのか?」「いや、夕方だ。ガキンチョをかっさらう前に清美の所に行く」「清美って誰だ?」「俺に惚《ほ》れてる村の女だ」「器量はいいのか?」「ぎりぎり及第点だ。丙種合格ってとこだ」「清美と会って何すんだ?」「グッチャネに決まってんだろうがっ。まずは清美とたっぷりグッチャネして、出すもん出してからじゃねぇと俺のマラボウが落ち着かねぇっ!」 モモ太は呻くような声で叫び、垂れ下がった自分の陰茎を握りしめた。雷太は再び「グッチャネって何だ?」と尋ねようとしたが、すんでの所で思いとどまった。モモ太のあの説明では、何回聞いてもそれがどういう行為なのかを理解することは不可能だった。それならばいっその事、モモ太が清美と『グッチャネ』する場面を直接見るのが一番手っ取り早い、と雷太は思った。* 西の空が燃えたぎるような朱色に染まった頃、雷太とモモ太は小屋を出た。 自動小銃を右肩に掛けたモモ太はすこぶる上機嫌だった。清美と会うのが余程嬉しいらしく、卑猥《ひわい》な笑みを浮かべながら笹の葉の草笛をピーピーと吹き鳴らして歩いた。 ベカやんの死体は昼間のうちに処分していた。全身の肉や脂肪が溶けてできた大量の緑色の粘液は、洗い流すのが面倒なため小屋の地面に穴を掘って全部埋めた。肉片一つ付いていない真っ白な全身の骨格は、関節ごとにへし折って沼の中に投げ捨てた。試しに石で頭蓋《ずがい》骨を割ってみると中は空洞になっており、脳までもが溶解して流れ出たことが分かった。* 清美の家は村の西方にある広大な林檎《りんご》畑の中にあった。平屋建ての小さな一軒家で、壁は赤煉瓦《れんが》、屋根は瓦葺《ぶ》きになっており、鉄線を張り巡らせた何本もの木の杭《くい》が周囲を囲んでいた。モモ太と雷太は近くの林檎の木の陰からそっと家の様子を窺《うかが》った。辺りに人影は無く、家の窓にも明かりは灯《とも》っていなかった。「よし、兵隊はどこにもいねぇようだな」 モモ太は小声で呟《つぶや》くと清美の家に向かって歩き出した。雷太は無言でその後に続いた。すぐに林檎畑を抜けて広い砂利道に出た。その道の向こう側にある草生《む》す荒れ野に家は建っていた。モモ太と雷太は玄関の前に立った。樫《かし》の木でできたドアには赤いペンキで『非』と書かれていたが意味は分からなかった。「おい清美っ、俺だっ、モモ太だっ」 モモ太は叫ぶとドアを拳で三回叩いた。しかし家の中はしんと静まり返り物音一つしなかった。「清美っ、どうしたっ? 早く開けてくれっ、河童のモモ太が来たんだぞっ、ベカやんの友達から話は聞いてるだろっ?」 モモ太はまた叫ぶとノブを何度も回したが鍵《かぎ》が掛かっていて開かなかった。「清美はいねぇんじゃねぇのか?」 雷太が呟いた。「いや、絶対にいる。出てこねぇだけだ」「何で分かんだ?」「清美はものすげぇ臆病《おくびよう》な女で、初めて会う奴が来るとなかなか玄関のドアを開けねんだ。ベカやんの友達が言ってたから間違いねぇ」「じゃあ、どうすんだ?」「裏の窓をぶっ壊して中に入る。話はちゃんとついてるから問題はねぇ」 二人は玄関を離れ足早に家の裏側に回った。そこには雑草が生い茂る十坪ほどの庭があった。庭の中央には古びたリヤカーが横倒しになっており、すぐ側の地面には畳半畳ほどの木製の蓋《ふた》があった。赤煉瓦の壁には確かに窓が一つ付いていた。しかし窓枠と窓硝子《ガラス》がめちゃくちゃに破壊され、引き裂かれた芥子《からし》色のカーテンがだらりと垂れ下がっていた。「何で窓がもうぶっ壊れてんだ?」 雷太がモモ太を見た。「訳は知らねぇがそんなことどうでもいい。とにかく清美だっ」モモ太は不意に跳躍して窓の縁に飛び乗ると家の中に飛び降りた。「おいゴンベエ、玄関を開けるからすぐに来いっ」 モモ太が窓から叫んだ。雷太は小走りで家の表に向かった。鍵を開ける金属音が響き玄関のドアが開いた。雷太はズック靴のまま中に入った。そこは八畳ほどの居間だった。床一面に無数の硝子片が散乱した室内には、脚が折れて潰《つぶ》れたテーブルや倒れた椅子、受話器の外れた黒い電話機などが放置されていた。居間の左側には台所と便所があり、右側には家族の私室らしい部屋が二つあった。「匂う、匂うぞ、清美の匂いだっ」 モモ太は肩に掛けた自動小銃を床に投げ捨てると、迷うことなく右の部屋のドアを開けた。四畳半ほどの室内は無人だった。左の壁際にベッド、右の壁際に机、正面の壁際に箪笥《たんす》が置かれているだけだった。しかしモモ太は清美がいないにもかかわらず「匂う、匂うぞ」と呟きながら一直線に箪笥の前までやって来た。そして素早くしゃがみ込むと、五つある引き出しの一番下を開けて中のものを取り出した。それは数枚のショーツだった。「き、清美の股《また》ぐら泉の匂いだ、グッチャネの匂いだ、た、堪《たま》らねぇっ! これは堪らねぇっ!」 モモ太はショーツを鼻に押し当てるとすうはあと深呼吸をした。股間の陰茎が瞬く間に膨張し、ピンと屹立《きつりつ》した。『グッチャネ』とは女の下着の匂いを嗅《か》ぐ事だと雷太は初めて知ったが、なぜこんな他愛無い事にモモ太が夢中になるのか全く理解できなかった。 不意に家の前で車のブレーキ音がした。続いてドアが閉まる音と共に複数の男の声がした。「おいモモ太、誰か来たぞっ」 雷太は不安になって声を掛けた。しかし目をつぶり、恍惚《こうこつ》の表情でショーツの匂いを嗅ぎ続けるモモ太は全く反応しなかった。意識がどこか遠い所に飛んでいるようだった。雷太は清美の部屋から顔を出して玄関を見た。同時にドアが開き二人の憲兵が入ってきた。「モモ太、憲兵だっ、やべぇぞっ」 雷太はモモ太の手からショーツを奪い取り頬を平手で強打した。正気に戻ったモモ太が驚いた表情で雷太を見た。「お前ら何をやっとるかっ! ここは立ち入り禁止だぞっ!」 背後で怒声が響いた。振り向くと二人の憲兵が自動拳銃《けんじゆう》を構えて立っていた。一人は背が高くて痩《や》せている憲兵少尉だった。二十代前半に見えた。もう一人は中肉中背で口髭《ひげ》を生やした憲兵少佐だった。三十代後半に見えた。「おい、そこの図体のでかい小僧、手を挙げて部屋から出て来いっ!」 少尉が拳銃を雷太に向けた。「な、何で兵隊がいんだっ」 訳の分からぬモモ太が怯《おび》えた声を上げた。 雷太は言われた通り両手を高く掲げて部屋から出た。「そこに正座して両手を頭の上で組め」 少佐が落ち着いた口調で言った。雷太は硝子片が散乱する床の上に正座し、頬《ほ》っかむりをした頭頂部の上で両手を組んだ。「少佐殿、もう一人は河童《かつぱ》ですっ」 少尉が驚いたように叫んだ。少佐は清美の部屋を覗《のぞ》き込み「ほう、珍しいな」と呟いた。「自分は本物の河童を見るのが初めてなんですが、思っていた通り醜い姿をしてますね」 少尉が不快そうに眉《まゆ》をひそめた。モモ太は箪笥の前でしゃがみ込んだまま、泣きそうな顔で少尉と少佐を交互に見た。「おい河童、お前も出てこいっ」 少尉が拳銃を構えたまま叫んだ。モモ太はよろよろと立ち上がり、覚束無《おぼつかな》い足取りで部屋から出てきた。「この小僧と同じ恰好《かつこう》をしろ」 少佐が静かな声で命じた。モモ太は怯えた目で雷太の姿を一瞥《いちべつ》すると、その隣に正座をして頭の皿の上で両手を組んだ。少尉が壁の点滅器《スイツチ》を押して居間の電気を点《つ》けた。電球の黄色い光が辺りを照らした。「お前らこの家で何をしていた?」 少佐が雷太に訊《き》いた。雷太はどう答えていいのか分からず無言で目を伏せた。「かくれんぼをして遊んでいた訳でもなさそうだな」少佐は床に転がる自動小銃を横目で見た。「あの五二式はお前の物か?」 雷太は二呼吸分躊躇《ちゆうちよ》した後、ゆっくりと頷《うなず》いた。モモ太の物だと言えばよけい話がこじれる気がしたからだった。「どこで手に入れた?」 少佐の眼光が急に鋭くなった。「……貰《もら》った」「誰からだ?」「ベカやんからだ」「ベカやん? それはあだ名だろう、正確な氏名で答えろ」「それが……分からねぇ」「なぜ分からんのだ?」「ベカやんはベカやんとしか言いようがねぇんだ」「ではお前の氏名と住所を言え」「……それも分からねぇ」「馬鹿野郎っ!」 隣で見ていた少尉が叫び雷太の顔面を殴った。半馬鹿のため痛みは無かったが鼻に強い衝撃を感じた。すぐに鼻孔からボタボタと鼻血が流れ出した。「憲兵隊を愚弄《ぐろう》するのは許さんぞっ、くだらん戯言《ざれごと》ばかりぬかしやがって、お前は阿片でも吸っとるのかっ?」少尉はまた雷太の顔面を殴った。「少佐殿、この小僧はどうも臭います。何か重大な事に関わっているかもしれません。本部に連行して尋問しましょう」 少尉が雷太の胸倉を掴《つか》んだ。「そうだな、ここでこんな答弁を繰り返していても埒《らち》が明かんな。連行しよう。その河童はどうする?」 少佐は右手で握った拳銃でモモ太を差した。「小僧は一応人間ですからそれなりに手加減せんとなりませんが、河童は獣です。手加減する必要は一切ないので、この場で徹底的に拷問して事の真相を聞きだします」 少尉は自動拳銃を革嚢《かくのう》に戻すと、腰の帯革に付けた革製の丸い容器から銀色の手錠を取り出した。それを見たモモ太の顔から一瞬で血の気が引いた。「し、し、知らねぇ、俺は本当に何にも知らねぇんだ、ゴンベエに無理矢理この家に連れてこられただけで悪《わり》ぃことはしてねぇ、頼むから、頼むから勘弁してくれっ」 目に涙を溜《た》めたモモ太が上擦った声で叫んだ。少尉はその哀願を無視してモモ太の後ろに回りこみ、頭の皿の上で組んでいる右の手首に鉄の腕輪を嵌《は》めた。そして左右の腕を強引にひねって背中に回し、左の手首にも素早く鉄の腕輪を嵌めた。少尉は腕輪を繋《つな》ぐ十五センチほどの鎖を三回強く引き、手錠が完全に掛かったことを確認した。それを見て安心したのか少佐も自動拳銃を革嚢に戻した。『小僧』の雷太は脅威にならないと判断されたようだった。少尉はゆっくりとモモ太の眼前に歩いていき立ち止まった。「おい河童、お前がこの家に来た目的は一体何だ? 正直に答えろ」 少尉は抑揚の無い声で訊いた。「だから、だから、俺はゴンベエに、無理矢理連れてこられただけで、訳は知らねぇんだ、嘘じゃねぇ、信じてくれ」 後ろ手に手錠を掛けられたモモ太が途切れ途切れに答えた。恐怖のためか全身が小刻みに震えていた。「そうか」 少尉は低く呟《つぶや》き、腰の左側に下げていた雑嚢《ざつのう》を帯革から取り外した。「清水の『拷問袋』はこういう時、本当に役に立つな」 少佐が感心するように言った。少尉は「ありがとうございます」と言って少佐に一礼すると、『拷問袋』の中に手を入れて何か小さな物を取り出した。それは直径三センチほどの小さな鉄の輪が横に四つ付いたものだった。「ほう、初めは鉄拳か」 少佐が口元を緩めた。少尉はその四つの鉄の輪に右手の人差し指から小指までを入れ、付け根まで押し込むと拳《こぶし》を握り締めた。そしておもむろに右腕を大きく振り上げ、モモ太の左頬を思い切り殴った。鉄の拳が肉を打つ鈍い音が響き嘴《くちばし》の中から血しぶきが飛んだ。モモ太は顔を歪《ゆが》めて大きく呻《うめ》いた。少尉の殴打は止まらなかった。無言で無表情のまま、まるで拳闘用の砂袋を打つように黙々と拳を振るい続けた。居間には殴打の鈍い音とモモ太の呻き声が何度も何度も響いた。 漸《ようや》く少尉が動きを止めた時、モモ太の顔は血まみれになっていた。至る所の皮膚が裂け、流れ出た幾筋もの血が顔から滴っていた。特に左目の目尻《めじり》が深くえぐれ、牡丹《ぼたん》色の肉が露出していた。「おい河童、お前がこの家に来た目的は一体何だ? 正直に答えろ」 少尉が抑揚の無い声で一度目と全く同じ質問をした。日頃の鍛錬の成果なのか息一つ乱れていなかった。「……痛《いて》ぇ、テッケンはものすごく痛ぇ、ベカやんの鉄砲で撃たれるより痛ぇ……もう嫌だ……家に帰って銀ブナ喰《く》いてぇ」 ぐったりと俯《うつむ》いたモモ太が掠《かす》れた声で呟いた。「こいつ、河童にしてはなかなか根性があるな。第一関門を突破したぞ」 少佐が驚いたように言った。「すぐ第二関門に突入します」 少尉は右手から鉄拳《てつけん》を外して『拷問袋』に戻すと、再び中から何かを取り出した。それは鉄製の錆《さ》びたペンチだった。「ほう、今度は潰《つぶ》し鋏《ばさみ》か。だんだん本気になってきたな」 少佐が楽しそうに笑みを浮かべた。その言葉にモモ太が我に返った。慌てて顔を上げると少尉の持つペンチを見た。「ま、まだやんのかっ? やめてくれっ、もう耐えられねぇ、これ以上痛ぇ目にあったら気が変になっちまうっ、本物のくるくるぱーになっちまうっ、助けてくれっ! 許しててくれっ! 俺は本当に何も知らねんだっ!」 モモ太は黒く大きな目をぎょろぎょろさせながら震える声で叫んだ。「黙れっ!」 少尉はモモ太の腹を右足で蹴《け》り上げた。長靴の爪先《つまさき》がみぞおちに深く喰い込んだ途端モモ太の声が止んだ。衝撃で呼吸が止まったらしく嘴を大きく開けて苦しそうに喘《あえ》いだ。

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